第9話 絶念

 「あら、いらっしゃい。ここは辺鄙へんぴな場所ですから、さぞかしお疲れでしょう?さっどうぞ、夕食はもう準備出来てますから。」

「あっ、ありがとうございます。」

「ここが今夜泊まって頂く私達の家ですよ。余り綺麗とは言えませんが、どうぞご自分の家と思っておくつろぎになって。」

「はい・・・うわぁ、あったかぁい。」

「ふふっ。荷物を部屋に置いて頂いたら、またこちらへいらっしゃって下さいね。ここで採れた野菜を使ったお鍋がありますから。」

「へへっ、ありがとうございます。お腹ぺこぺこです。・・部屋はどちらに?」

「廊下を出て突き当たり、左側のお部屋ですよ。」

「分かりました、直ぐに戻ります。ねっ、行こうお母さん。」

「えぇ。」

悪夢の入口とは何とやら、ここは天国である。

石碑のあった位置から五分ほど歩いた場所にひっそりと佇む小さな集落は、一見人の気配は感じられず音がすると言えば体に突き刺さる冷たい風の音と、その風により揺れる木々の音だけであった。

そんな雰囲気に無駄足と言う絶望が頭をよぎった思った矢先、何処から出て来たのか突如目の前に、四十代程の夫婦が現れ私達へ声を掛けてきたのだ。

気配も足音も立てる事なく現れた二人に、冬の寒さとは違う寒気が体中を走ったが、それも二人の柔らかい雰囲気と優しい笑顔の前では無力である。

考えれば通常宿泊施設には事前に連絡を済ませておくものであり、いくら母が少々おかしいからと言って一か八かでこんな遠方に足を運ぶなど流石にあなどっていたようだ。

そうと分かれば見える景色は一変し澄んだ空気と綺麗な星空、暖かい部屋に美味しそうな料理と申し分ない程の満足感で不満など毛頭無いのだが、どうしても胸に引っかかる思いが払拭出来ないなど実に無念である。

夫婦と外で話をしている最中、背後から『助けて』などと小さな子供のかすれる声さけ聞こえ無ければ、今の私は只々幸福感に満ち溢れているのであろう。

しかし私も鬼では無い。

その声に驚きと懸念を抱き咄嗟に振り返り周囲を見渡したが子供の姿など無く、むしろまだ誰かいてくれた方が良かったと思うばかりだ。

あの声は子供の霊なのか、将又はたまた聞き違いなのだろうか。

真実を追求しようにも、他の誰も声に反応している様子などない為、私に残された選択肢など言うまでもなく忘れる事以外には無い。

「ふぅ、荷解きはご飯の後でもいいよね。」

「そうね、せっかく準備してもらってる事だし先に行こうか。」

「うんっ。ここ、いい所だね。静かで空気も良くて人もあったかいし、良い息抜きになりそうだよ。ここに来たらすっかり気分も良くなっちゃった。」

「明日は野菜とかも収穫出来たりするみたいだからもっと楽しくなるわよ。ここの村は年齢層が高いから、結糸はばりばり働かされるかもね。あははっ。」

「・・へ、へぇ。やっぱりここは田舎体験が出来る場所だったんだ。いいね、私一度やってみたかったんだよ。・・・行こっか。」

小さな集落の高齢化など良く聞く話であり、何ら疑問など抱く事では無いが、母の一言により小さな気掛かりは何倍もの大きさまで膨れ上がり私の不安を掻き立てた。

しかし人間とは利己主義な生き物で、母が現在は子供が住んでいる事を知らないだけであろうと胸騒ぎを強引に鎮めるなど容易く、自身の安らぎを優先する私も又それそのものである。

心身共に疲労困憊で安らぎに執着する私は足早に夫婦の元へ舞い戻ると、そこには煮えたぎる鍋が囲炉裏の中央に鎮座し、側では夫婦が炊き立ての白米を準備していた。

努力は報われると言う何とも能天気な後付け理論が嫌いな私でさえ、この幸福と言う名の相応しい空間に旅行へ来た後悔と苦労の意味を取ってつけ、遂に安らぎを手に入れたのである。

そう、間抜けな私はあたかも幸福であると錯覚し、口一杯にご飯を頬張っていた。

無論不幸を求め突き進む人間などいはせず、誰しも幸福を求め人生に奮闘するのである。

例えそれが紛い物だとしても、当の本人が幸せとするならば誰が何を言おうとそうなのだ。

勿論この瞬間は私にとって紛れもなく幸せであり、この先どんな苦難が待っていようとも、振り返ればまたこの時を幸せだったと思い出すのであろう。

例えば、ふと目を覚まし隣で寝ていた筈の母の姿が無いと言う、何処か不穏な出来事の前兆にも思えるこの瞬間でさえ、あの幸せを忘れたくないと願っていた。

「お母さん?・・・またいない。トイレかなぁ・・私も行こうかなぁ。」

特段尿意をもよおしている訳ではなかったが、不吉な予感から体を動かさずにはいられず、私は部屋の扉へと手を掛けた。

そしてそれは手を掛けたと同時であった。

背後にある窓を激しく叩く音がし、その余りに大きな音に愕然といていたのも束の間、窓の外で酷く怯え涙し、必死にこちらへ助けを求める少女の姿が目に飛び込んで来たのだ。

「助けてぇっ、早く、早く助けてっ。中に入れてぇえっ。」

「・・・な、に。何なのどうゆう事・・待って今開けるからっ。」

「早くぅっ、来ちゃう、もう来ちゃうよ。早く助け・・ぎゃあっ・・・・。」

言葉も出なかった。

とにかく助けなくてはと窓へ向かい歩き出した時、少女は悲痛の叫びを上げ一瞬にして姿を消したのだ。

私は恐怖と混乱の中呆然と立ち尽くし、何かから足を引っ張られるように消えた少女を助けなければと分かっていても、体は動く事を拒み、そこには状況を把握する余地など有りはしなかった。

そんな私を突き動かしたのは勇気でも正義感でもなく、窓の外から姿の見えない足音がゆっくりこちらへ近付いてくるその恐怖こそが、哀れにも原動力となっていたのだ。

私は恐怖から逃げるように部屋の扉を開き、暗い廊下を駆け抜けて行った。

人間とはつくづく弱い生き物で、広間で談笑する夫婦と母を見つけると途端に大船に乗ったような感覚におちいり、更には強さまでも手に入れてしまう。

漫画や映画で見るヒーローのような人間など、現実にはいやしないのだ。

「お母さんっ。」

「あら、結糸起きたの?今三人で明日の計画を・・。」

「外にっ、外に子供がいたのっ。それで、それでね、助けてって。・・・助けに行かなくちゃ。ちょっと外を見てくるっ。」

「え、何?ちょっと結糸っ、結糸ったら。」

偽作の強さを身につけた私は、一目散に先程の窓の辺りまで走っていた。

しかし当然子供を襲った何かが、いつまでも同じ場所で油を打っている訳もなく、無論誰の姿もそこには無い。

その後の捜索範囲などせいぜい灯りの届く辺りまでで、はたから見ても懸命に少女を探している様には到底見えないだろう。

一方私は至って必死で、自分の身を守ろうとしていた訳では決して無い。

第三者からそう見えたのならば、恐らく罪を被るのは潜在意識である。

無意識の内に我が身を守ろうとするそれは私の意思とは反するもので、本人に罪の意識のなど断じて無いのだ。

そんな私を心配し追いかけて来た母と夫婦も又、それが本心かどうかなど知る由もない。

「結糸っ、ちょっと本当に・・・はぁ、どうしたの?」

「結糸さん、ここは夜に時々猪もでますから、本当に危ないですよ。中で話を聞きますから、ひとまず戻りましょう?」

「・・・・・でも。・・・わかりました。」

そうして諭されるように家へと戻った私は中に入るや否やゆっくりと少女の話を始めたが、夫婦は愚か母までも私の言葉を一向に信じようとせず、子供などいないと一点張りで、これではまるで構って欲しさに嘘をつく子供のようである。

多少なり疑問を抱いてくれても良いものをそんな素振りも一切見せない事に、疑念と不服の思いをふつふつと募らせていた。

翌朝部屋の外から聞こえる大きな音により目を覚ました私は、隠れる様に窓の外を覗くと、昨夜は気付く事のなかった窓の下辺りにある花壇の花はへし折れている。

そして一見花に水を上げている様に見える家主が向ける水の方向は、明らかに花ではなく壁へと向けられていたのだ。

そして顔から感情が抜き取られたような不気味な雰囲気を放つ家主はいつぞやの母を思わせると、近頃頻繁に感じていた違和感と同様の感情を抱いていた。

「結糸。何かあった?」

「うわぁっ。・・・・お、おはよう。別に何も。」

「そう?今日は最後の日だから、うんと楽しもうね。」

「そだね・・。あっ、朝ごはんの準備手伝いに行こうかっ。」

広間へ行くと昨日と変わらぬ明るい空気が漂っており、朝食の最中母と夫婦は昨日の出来事など一切気にしていないと言わんばかりの笑顔を浮かべ、今日の予定を楽しげに話し合っている。

一方私は生まれてしまった疑惑の念を拭い去る事は容易にはいかず、少女の事が頭の中を埋め尽くし、自分でも分かるほど表情は曇っていた。

それにも関わらず三人は私に声を掛けることもなく、不思議と私の存在が見えていないのではと感じる瞬間も時折あり、言うなれば随分と離れた暗い場所で一人寂しくご飯を食べているよう感覚である。

聞く話によると何やら今日は野菜を収穫し、それを使って皆で料理をするのだとか。

昼食を終えひと段落すれば私と母はこの場を去らねばならない為、食べ終えると直ぐに作業に取り掛かるそうだが、先に述べた通り何故だかその会話の中に私の存在を感じなかったのは果たして勘違いだろうか。

あるいは少女が消えた直後私も何かに襲われており、実際には死んでこの場には存在しておらず、魂としてこの光景を見ているのだろうか。

いっそそうである方がよっぽどこの状況を理解出来ていただろうが、斯くして透明人間となった私は夫婦の視線に入る事も畑へ呼び出される事も無く一人部屋の中で過ごしていた。

窓の外を見ると、夫婦と母は時折笑い声を上げながら白菜を収穫している。

泥塗どろまみれになりながら野菜を収穫し何が楽しいと言うのか。

手や服は汚れ翌日には全身の筋肉痛に苦しむだけで、私とて取り分け野菜の収穫など楽しみにしていた訳ではない。

ただ理解出来ないのは何故こうなったのかという事であって、決して悲しい訳では無い。

正直言えばこう言った状況には慣れたものだ。

しかしそうは言っても不服な事に変わりなく、恐らく誰しも心に隠し持っている邪悪な部分を意図せず呼び覚ましてしまった私は、ここに来た日の夜の記憶を辿っていた。

夫婦が言い放った『この家を自分の家と思って過ごして良い』と言う言葉を忘れてはいるまい。

それすなわち、この家では何をしても構わないとそう言う事であろう。

そう自己解釈した私は、手始めに台所にあるこの集落には似つかわしくない売り物の様なお饅頭を手に取り頬張った。

こんな辺鄙な場所に住んでいるとなっては、さぞかし買い物には苦労しているのだろう、いい気味である。

こうなってしまっては拍車の掛かる暴走を自身では止める事は出来ず、糖分で更なる活力を付けた私が次に向かった先は、私の寝ていた部屋の向かいにある一室だった。

その部屋は実に不可解な事に鍵が掛かっており、中を確認すると言う行為は夫婦に対し最大の抵抗となるだろうと、何とも大人らしからぬ考えを生み出すとは、思えば随分と幼稚である。

しかし表向きには幼稚な考えも深層心理は単純とはいかず、欠けた何かを執拗に追い求め欲求を満たしたいと自己制御を不能にまで陥らせ善悪の判断も危うまれるのだ。

一言に幼稚と言っても、当人の中では様々な感情や考えが入り混ざっている。

では私は何を失い何を追い求めていたのだろうかと考えはしたが、当てはまる言葉は見当たらなかった。

唯一確かな事は、普段感情ばかりに流されず皮肉を言えた筈の私が、自分を制御出来ない程心の欠損は大きな物だったと言う事だけだ。

そんな複雑な感情とは裏腹に頭は冴え渡り、難なく戸棚の中からそれらしき鍵を見つけ出すと、脇目も振らず部屋の前まで走っていた。

何故鍵が掛かっているのか。

鍵を掛けるほどの部屋とは何なのか。

そんな事を考えもせず、自分の悪事に事を急がせていたのだ。

冷静であれば何かを隠したいが為に鍵を掛けていると容易に想像出来たものを、金銀財宝などがあるとでも思ったのか、この突発的な考えは実に軽率だったと扉を開いた直後に気付くのであった。

目の前には大量の古い書物が乱雑に置かれ、写真や子供のおもちゃらしき物が散乱している。

そして部屋の隅には仏壇がひっそりと佇み、小さな男の子の写真が飾られていたのだ。

想像もしない代物が現れた衝撃で乱れていた感情が正気を取り戻すと、私は自分の置かれている状況をようやくく悟ったのである。

背後から聞こえる足音が、私の真後ろで止まったのだと。

「・・・・あらあら、まぁまぁ。」

「ちがっ、ごめんなさっ・・・・。」

頭はゆらゆらボートに乗っているような感覚で、視界は薄暗いが真っ暗とは少々違うようだ。

後頭部が多少疼うずくのが気掛かりだが、心地の良い揺れはそう悪くはない。

何故か目の前に星空が広がっていると思えば、私はどうやらボートの上で横になっていたようだ。

起き上がるとボートは湖のほとりからそう遠くない場所に位置し、内部にはオールは愚か何も無い上に靴も履いていないとはいささか不思議である。

加えて風もなく水面は静寂そのもので、ボートが一人でに動くなどあり得ない事なのだが、ゆっくりと中心部へと流されて行くとは不自然極まり無い。

そうしている間もボートは着々と流されていき、特段畔へ戻る理由も見つから無い私は、ぼんやりとボートの行く先を眺めていた。

すると何処からか私の名を呼ぶ声がし、ボートは声を気にしているかのようにその動きを停止させたのだ。

同じく私もその声が気になり、唯一の自慢である衰えを知らない視力を凝らすと、驚く事に刑務所にいるはずの椿が畔に立っていたのである。

椿はひたすらに私の名を呼び続け、その声に応えるべく私も手でおもむろに水を掻きボートを動かしていた。

その甲斐あってか、ボートは畔まであと一歩の所へ辿り着き椿もこちらへ手を差し伸べている。

しかしその時であった、湖の中心部から突然景色がブロックのように崩れ始め、こちらへ今か今かと迫ってくるでは無いか。

私は訳も分からず慌てふためき、椿へ手を伸ばしては引き戻るボートに抵抗し水を掻いた。

三度繰り返した所で漸く椿の手を掴むと、彼は勢い良く私の手を手繰り寄せこう言い放ったのだ。

『こっちだよ。』

「・・・・・いたっ。」

目覚めと共に襲う眩暈と激しい後頭部の鈍痛は思考力を低下させ、両手両足を縄で縛られ横たわっているにも関わらず、驚きなどまるで感じなかった。

振り返れば確か、夢を見る直前背後から女性の声がし、恐らくその際にこの床に転がるスコップで後頭部を殴られ気絶してしまったのであろう。

薄暗く明確とは言えないが、スコップに血液の様な物が付着している事がその確たる証拠である。

この様な展開では通常口をガムテープで留められているものだと思いきや、不思議と私はそうでは無いらしい。

とは言え大声を出し意識を取り戻したと悟られては、誰もいない部屋と言う絶好のチャンスをドブに捨てるようなもので、ガムテープなど何の意味も成さないと言うわけだ。

寧ろ口を封じられている方が気が動転し声を上げてしまうのかもしれないと、中々面白い体験にこんな状況下でも執筆への意欲が駆り立てられた。

そんな興味深い時間は一瞬で、ドアの向こう側から時折言い争っている様にも聞こえる夫婦と母の話し声が、朦朧もうろうとした意識を現実へと引き戻して行く。

「私の聞き違いかしら、誰があの子に怪我を負わせろと言ったでしょうか。」

「すいません、暴れ逃げられては折角の準備が無駄になってしまうと思いましたので・・。」

「ふふっ、あっははっ・・嘘がお上手なようで。」

「・・・・・何を仰いますか、私達は断じて何も・・何も環さんが想像されるような事実はございません。」

「私はあの子を監禁する様にと伝えただけですが、何か見られてはならない物でもあるのかしら?そう例えば、亡き息子の・・・。」

「っ違います、本当に逃すまいと思っただけで。」

「そうですか・・では肝に命じる事ですね。何か良からぬ物をあの方に見られては勘違いされるやもしれませんよ。あなた方もそうではないのかと・・ふふっ。」

「もうっ・・もう危害は加えません。申し訳ありませんでした。」

「ではお忘れなきように。あの子は私の手によって召される事に意味があるのですよ?」

「・・・・はい。」

「それでは私はあの方と準備を進めますので、あなた方はこちらでお待ち下さい。」

意味不明な会話の中から理解出来た事と言えば、私は母によって殺されようとしている事だけであったが、それは同時に理解出来ない事でもあった。

理由はさて置き、母が私の殺害を目論んでいたとするならば、わざわざこんな集落に来ずともそのチャンスはいくらでもあったはずである。

それにも関わらず、この場所で殺害する理由とは一体何なのだろうか。

隠蔽いんぺいしたいのであれば、ここの住人との接触など無いに越した事が無いはずである。

そればかりか住人まで殺害に手を貸しているとあらば、私の理解の範疇はんちゅうを等に超えた話と言えよう。

母の企みが何であれこのまま黙ってその時を待っている訳にはいかず、この場から脱出する以外に選択肢など無い。

私は響く音を押し殺しもがいていると、硬く縛られ解けそうも無いと思っていた縄は、思いの外緩く結ばれ、多少手足を動かすだけで容易に解く事が出来たのだ。

これは罠か誰ぞやの手助けなのか思考を凝らすには時間が足りず、兎にも角にも逃げ出す事が先行であると忍足で窓へと歩みを進めた。

窓を見ても何の細工も施されておらず余りに手ぬるい監禁方法に殺害など不本意なのではと錯覚してしまうほどだ。

難なく外へ飛び出すと既に辺りは暗く、何処へ行けば良いかも分からず無我夢中で駆けて行った。

すると後方から母が私の名を大きく叫ぶ声が聞こえ、途端に明かりの消えていた家に次々と光が灯り始め、まるで恐怖が迫り追いかけてくるようだった。

その瞬間激しい恐怖が芽生え始め、それは私の足を必死に動かすももつれさせると、同時に思考を乱し判断を狂わせた。

その結果何をもたらすかなど明らかで、行く先が斜面である事に気付きもしなかったのだ。

足を滑らせ更なる闇へ落ちて行く様は如何いかにも現在の境遇を思わせ、運良く斜面の石に手をかけ落下を免れた所も又、諦めの悪い自分を象徴しているようである。

そんは執念深い姿は酷く滑稽に見え、必死な足掻きも無意味であると告げる様に足音がこちらへ差し迫っていた。

私は性懲りも無く天にも縋る思いで何事も無く過ぎ去る事を願ったが、その甲斐虚しく足音は目前で停止すると、絶望の淵へと私を追いやったのだ。

「・・・・。」

「・・・あっ、あの時の女の子。何だ・・良かった。」

「・・・・。」

「・・ぶ、無事だったんだね。悪いんだけどお姉ちゃんを引き上げてくれる?貴方も逃げてるんだよね。お姉ちゃんを引き上げてくれたら一緒に逃げようっ、ね?」

「・・・何であの時私を助けてくれなかったの?」

「えっ?・・・・それは。」

「自分の方が大事だったんだ。」

「ちがっ・・うよ。」

「ふふっ。だからあたし、お姉ちゃんを殺す手助けをするって話したの。そしたら助けて貰えたんだ。」

「・・何、それ。ちょっと待ってよ。」

「待つ?あはっはっ、私思ったの・・・そっかぁ、初めからお姉ちゃんと同じ様にしたらよかったんだって。」

「待ってよ、だから違うのっ。とにかく話そう?ねっ、だからおねが・・・・」

あの時泣き叫んでいた少女は己の無力さを理解し、こんな集落に訪れた私を希望の光だとすがる思いで逃げて来たに違いない。

そんな少女を蹴落とし自分の身を案じた結果が今の彼女の姿であるならば、憎まれるのは当然の結果である。

ではもしも私が少女を助け逃す事が出来ていたならば、間違い無く襲われていたのは自分自身であり、その時まるで善人の如く、少女が助かったのならば本望だと感じる事は果たして出来たのであろうか。

将又はたまた少女さえ私の元を訪ねて来なければと、今の彼女と同じく相手を恨むのだろうか。

私達は当初から互いを憎み合う運命から逃れる事など出来ず、少女を襲った何かは所詮引き立て役に過ぎなかったのだろう。

例え少女が生き延びる事は叶わず、こうして目の前に現れなかったとしても、魂は嘆き私を恨み続け、悲しみを消し去る事は決して出来まい。

ならば悪の定義とは一体、何だと言うのか。

少なくとも憎しみの元、私の手に包丁を突き立てる少女を悪人と呼ぶにはあまりに悲劇であった。

私は小さくなって行く少女の顔を目に焼き付けながら、奈落へと堕ちて行く。

全身に激痛が走り気が飛びそうになるも、この悲劇から目を逸らしてはならないと私は少女から目を離さなかった。

それは途方も無く長い時間に感じ、奈落の底へと体を横たわらせた時には何時間も経過したように思え、体は元より動かす気力すらありはしない。

所詮このままこの場所で誰にも気付かれず朽ちて行く事が私に相応しい死に様であり、例え生き延びようともいずれ悔いた死を遂げる運命なのだ。

その証拠に母や少女、そして椿のように私の死を望む者は山程存在している。

ならばあと数時間、数日迫る死から逃げようとそれは苦痛に過ぎず、何の意味も無いのである。

そうと分かっている筈が何故であろうか。

私の心情とは裏腹に瞳から溢れる涙を止める事が出来ない。

「死んだ方がいい。」

『もっと生きたい。』

「苦しむだけだ。」

『ただ笑っていたい。』

「どう足掻いても何も変わらない。」

『まだ間に合うのなら罪を償いたい。』

どれだけ否定しようとも心の奥底から湧き上がる訴えが、私を肯定し続けて止まない。

そしてそんな私を映す鏡の如く、星の垣間見える寒空も又、涙を流したのであった。

「・・・ぅうっ・・・ぅううっ・・っぅう゛わ゛ぁあ゛っあ・・あ゛ぁっ・・・・やだぁあ・・こんな・・こんなのい゛やだぁあ・・あぁあ゛っ・・・ぅう・・・・どうしたらいいのぉ。」

生きたいと切望する思いの行く末は断じて明るい未来では無く、どれだけ進もうと苦痛と絶望の続く暗い道だけだと知りながら、それでも私の心は有りもしない微かな希望を求め、茨の道へ歩みを進めたいとこいねがっている。

草木はそんな死人の如く転がる私を嘲笑うかの様に揺れ、時折吹く突風が頭を動かし弄《もてあそ》んでは視界が揺らめく。

しかし運命とは不思議な物で、こんな状況にまで至りようやく気が付くのだ。

絶望の先にこそ確たる希望があるのであり、絶望を見ずして真の希望など手に入れる事は出来ないのだと。

大きく響く耳鳴りにより、風や草木のすすり笑う声は最早耳に届く事はない。

私はただ風により向きを変えた視線の先に広がる、以前夢に見た景色が心を掴んで離さず、引き寄せられる意識に身を委ねて行く。

それは空想の産物だと思われたあの椿の咲く洞窟で、私は椿の言葉の意味を遂に目の当たりにするのであった。

「・・・・本当だ。・・・ふふっ、あはははっ、椿じゃ無い・・・山茶花だ。・・・・うぅ、う゛ぅわぁっ頭が、頭が割れる・・。」

想像とは何処までも想像でしか無く、この瞬間がこれ程までに激痛を伴うなどとは思いもしなかった。

その痛みはまるで、蘇る過去の記憶がどれ程の苦しみであるか物語っているようだった。

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