第6話 復古

 かつての私の朝は倦怠感から始まり、数時間の妄想行為を経てようやく体を起こし不味いコーヒーで目を覚ます、いわゆる最悪の朝だ。

そんな朝が当たり前に訪れていた毎日が今は少し違い、朝は鶏の激しくも長い鳴き声により目を覚まし、庭に出て花の咲かぬ椿に水をやりながら呆然と妄想行為をすると部屋に戻り準備を済ます。

そして上手いコーヒーを求め隣人の古民家カフェに立ち寄り執筆活動に専念するのだ。

以前とは違い最高の朝から始まる一日は、最高のものとなるはずだったが、実際はどこか想像とは違い気は滅入るばかりで考えれば相変わらず最悪の朝かもしれない。

それに加え最近今一つ書く物語に面白味が無く、この地へ逃れ私が得たものとは何なのだろうか。

「今日もまた随分険しい顔をしているね。」

「マスター、ははっ中々行き詰まってます。すいません、コーヒーおかわり貰えますか?」

「あぁ、そうそうこれ。」

「ん?これは?」

「サービスだよっ。今日、誕生日だろ?21歳だっけ?」

「そうか・・今日は誕生日かぁ。」

あれから八ヶ月もの時が経とうとし、あの時あの場所に何もかもを残しここにやってきた。

最後に立ち寄ったのは確か母の病院だっただろうか。

叔母の手紙を引き裂いた母に何かを失った私は、暫く執筆活動に専念する為家を空けると嘘を付きそのまま私は荷物をまとめて頭なくこの村へとやって来たのだ。

退院後は私の家で過ごしてもらおうと鍵を渡しておいた。

母も大人なのだ、きっと上手くやっているだろう。

お兄ちゃんには電話で経緯を説明し、少し驚いてはいたがその後深く追及する事もなく『こっちは心配するな』とそう一言残すと、以降何も連絡は無く私から連絡する事も無かった。

勿論お兄ちゃんに迷惑をかけ続ける訳にもいかない為、気持ちが落ち着けば帰るつもりではいたが、私は未だここから動けずにいる。

私は叔母との約束を守る為やって来たのだ。

それ以上もそれ以下も私が考える事などなく、考える必要もないのだ。

「・・い、おーい、聞いてる?ちょっと、大丈夫?」

「ん?あ、すいません何か言いました?」

「それ、どうなの?美味しい?ぼろぼろ落としてるけど。」

「んぁあっ、美味しいです。こんな豪華なサンドイッチ食べた事ありませんっ。ありがとうございますっ。」

「はははっ、それは良かった。・・それはそうとどうしてそんな行き詰まってるの?今日はお客さんもいないし、俺で良ければ話を聞こうか?」

「んー、そうですねぇ。・・実は今書いてる小説はある人を題材にしてるんですが、ちょっと色々あってもう会わないことにしてるんです。だから・・上手く書けないのかも、しれない。」

「へー、何で会わないの?って聞いていいのかな?」

「それは・・・・会えば彼が苦しむから。」

「ほほぉ、男かっ。さては告白でもされて盛大に振ってやって気まずいとか?ははっ。」

「そ、そんなまさかっ。・・恋をしていると言うなら私の方かも知れません。」

「ふぅーん。」

「見ず知らずの彼に、彼のその優しくも闇のように暗い瞳にきっと恋焦がれてしまったんだと思います。」

「それで、君の好意に迷惑していると。」

「まぁ・・そんな所ですかね。」

「よしっ、今晩俺の秘密の場所に連れて行ってやるよ。」

「秘密の場所?」

「そうそう、夜が特に良いんだ。今夜九時に家に迎えに行くよ。楽しみにしてなっ。」

「はい・・・よろしく、お願いします。」

カフェの帰り道、頭の中である疑問が浮かびその考えが頭に張り付き離そうとしない為、私は酷く困惑していた。

先程のマスターの言葉はもしやナンパではないだろうかと、非現実的な妄想が猛威を振るっているのだ。

加えて私の誕生日を覚えており、誕生日プレゼントまで用意しているとは、これは間違いなくマスターは私が好きである。

そうでなければ何だと言うのだ。

しかし八ヶ月間ここに通っていると言うのにこんな誘いは今回が初めてで、マスターは恐らく奥手なのだろう。

或いは、内気な雰囲気を放つ私に最初から積極的なアプローチは逆効果だと判断し、ここまで我慢していた可能性もある。

とすれば私に対するマスターの好意はかなりのものだ。

私にその気はないとはっきり言うべきなのか、恋愛とは無縁だった私には某エリート大学の入試試験と同等の難問である。

悩みは時間の流れを早めると言うが、こんな自然しか無い土地で私がする事と言えば食べるか寝るか書く事くらいで、毎日早めるにも限界というものだ。

暇を持て余した私は気付けば携帯を手に取り電話帳を開き眺め、また閉じては手に取る。

皆はどうしているだろうか、元気にしているだろうかと頭に浮かんでは戻ればまた辛い思いをすると理解し、時折戻りたくなる気持ちを叔母の言葉を故意に自ら足へ繋ぎ、あたかも叔母によって動けなくなっていると誤認させている。

しかし実際には私が弱く、問題を解決する事も受け入れる事も拒否し逃げているだけなのだ。

私はいつになれば強さを手に入れる事が出来ようか。

そうしてまた性懲りもなく携帯を手に取ると、変転を告げるかのように暫くの間鳴る事の無かった電話が鳴り響いた。

「もしもし、私です。少しお話ししたい事があって・・今良いですか?」

「どうしたんですか?」

「環さんのご家庭の事情は十分承知してますが、その・・近頃環さんの連載中の小説の評判が悪くて、上からこのまま不評が続けば連載を打ち切りにする、と言われました。」

「・・・そう、ですか。」

「今はどこに?少し話をしませんか?電話やメールのやり取りだけでは限界があります、私も何か力に・・。」

「すいません。今は少し離れた場所にいて、なるべくなら人に居場所を話したく無いんです。小説ならもっと頑張りますから。」

「・・・分かりました。環さん、私はあなたの小説が大好きなんです。このまま打ち切りになるのは私も不本意で・・・環さんにならまだまだやれます、期待してますから。」

「はい、ありがとうございます。その、迷惑掛けて本当すいません。」

「そんな真面目に謝るなんて、らしくですよっ。次回の原稿楽しみにしてますから。それでは、失礼します。」

勿論自分でも自覚していた事ではあったが、彼女からの指摘は想像以上の打撃を与え、私は静かに肩を落とした。

そして彼女も又、長い間こんな私に愛想も尽かさず共に歩んで来たのだ、声色から落胆の思いが感じ取れた。

当初の内容は彼の闇を世に知らしめ、苦悩と葛藤を乗り越え幸せを掴んでゆくはずだったが、現在小説の中を生きる彼は私と同じく空っぽで、苦しみもせずそれを乗り越える事も諦めている。

そんな小説を世の人々が求める訳もなく、打ち切りも当然の決定である。

周囲の人間を切り捨て、その上好きな仕事まで無くしてしまえば果たして私には何が残るのか。

何も出来なかったと後悔が残るだけではないだろうか。

しかし八ヶ月もの間答えの出なかった問題に、わずか数時間で光を見出せるはずも無く、いわゆるデートの時間が迫り始めた為意気消沈のまま慌しく準備を始めた。

幾ら気を落としていると言えど、私にとっては最初で最後のデートかもしれないのだ。

何せ今は落ち込んでいる場合では無い。

気合いを全面に出した服装にするべきか、あえて気取らない服にするべきか考えねばならないのだ。

そもそも私は彼に気が無いのだから、気のある雰囲気を出す物は極力身につけぬ方が良いだろう。

考えた末にマスターに披露した装いは、パジャマとしても登場頻度の高い上下灰色のスウェットである。

貴方には何も興味が無いですと全身に書かれているようなこの服装は、言わずとも気持ちを伝える事の出来る良い方法かも知れない。

時刻は丁度午後九時を迎え、時計の針がその時を刻んだ瞬間にマスターは姿を現した。

その表情は私の予測通り戸惑いの笑みを浮かべ、全ては思惑通りだ。

当然私も二十代の女で、密かに眠る微量のプライドが騒ぎ立ててはいたが、それは取るに足らないものであり気にした所で何の価値も無いだろう。

そして又彼から容姿を賞賛されたい訳でもなかったが、彼は何故か前を一人歩き続け一度も振り向く事なく草木を掻き分け林の中を進んで行ったのだ。

そんな様子にいつもならば多少傷付いていただろうが今日の私は自身に満ち溢れているのか、何故そう頑なに顔を背けるのかと、又もや良からぬ妄想をしでかすのだった。

こんな服装でも尚、ときめき恥ずかしくてこちらを見れないのだろうと、自惚れもここまで来ると罪である。

そんな愉快な時間は一瞬で、長く続いた草木の茂る道のりは終わりを告げると、目の前には壮大な湖が広がり圧巻の姿を露わにしたのだ。

空に浮かぶ大きな満月は湖へと映し出され、その光景は息を呑む美しさであった。

「すごいだろぉ。これを見せたかったんだよ。」

「本当に、あんまり綺麗で言葉が出て来ないです。」

「それから、あれ見てご覧。ほらあれ、椿だよ。好きなんだろ?」

「本当だ・・・綺麗。」

「俺思うんだけどさぁ、その彼の事忘れる必要ないんじゃないの?」

「え?」

「そもそも、自分が幸せでいないと相手なんて幸せに出来るはずないんだからさぁ。多少自分勝手でも、まずは自分の幸せに全力を尽くしてみたら?」

「自分の幸せ、ですか?」

「そうそうっ。今何がしたいんだ?ここでなら俺意外聞いてないんだから言ってごらんっ。」

「私は・・・おばあちゃんの墓参りに行きたい。お母さんの手料理が食べたいっ、お兄ちゃんに叱られたいっ。それから・・・・椿にもう一度会ってみたいんです。」

「そうか、彼の名前は椿って言うんだね。・・叶えて仕舞えばいいさっ。その夢を叶えるのも捨てるのも自分次第だよ。ね?」

「そうですよね。・・マスター、ここに来れてよかったです。本当にありがとうございました。私、元気出ちゃいましたっ。」

「そうだろ?俺も奥さんと喧嘩した時はよくここに来てたんだけど、今里帰り出産中でね。僕も向こうへ行きたいけど、産まれてくる子供の為にも仕事してお金稼がないとね、ははっ。」

「・・奥さん?・・・・出産?はは、あははは。」

顔から火が出そうとはこの事である。

しかし途轍もない恥を代償に問題の答えを手に入れた私は、ほんの小さな一歩であったが前よりも少し踏み出せた気がした。

私は私のしたいように生きて良いのかもしれない。

それは待ち受ける苦しみよりも更に遠く、容易に届く場所ではないが、そんな場所があるのだと知ったのだ。

そんな場所を夢見、暫く景色を眺めていると、先程までの綺麗な夜空が嘘のように瞬く間に雲が空を覆い尽くし静かに雨が降り始めた。

それもまた幻想的ではあったが、こんな寒空の中雨に降られては風邪を引きかねないと、惜しくもこの場を去る事となった。

しかし帰り道は行きとは違い地面はぬかるみ思うように足は進まず、前を走るマスターとはぐれぬようついて行くのに必死で、足元にある深い水溜りに気付かず私はその場で足滑らせてしまったのだ。

そして悲劇は更に続き、滑らせた瞬間足を捻ったのか右足がうずき身動きが取れず、激しさを増す雨音が助けを呼ぶ声を掻き消された。

不幸中の幸いと言えば、汚れた服が近いうち捨てようと思っていたお粗末なスウェットであったという事だ。

気を紛らわそうとそんな事を考えてみたが効果は直ぐに薄れ、一人暗闇に取り残された恐怖は増し、次第に恐怖は激しい動悸を引き起こし胸を締め付けた。

私は助けを呼ばなければと、その一心だったのだろう。

「待って・・待ってよ。誰、か。誰か助けて・・・・・冬真っ。・・・えっ?」

私は今誰の名前を呼んだのだろうか。

理解出来たのはマスターでは無いと言う事だけで、頭は真っ白だった。

するとその瞬間前方から足音が近付く気配がし、咄嗟に目をやるとそこにはマスターの姿と重なる少年の姿があった。

そしてその少年は紛れもなく、心配そうな表情を浮かべる幼い椿冬真だったのだ。

私は何か大事な事を忘れているかもしれないと、目の前に突如現れた幻影が物語っていた。

「私は、椿を知っている・・の?」

「おーい環さんっ、大丈夫?ごめん気付かなくて・・立てるかい?行こうっ。」

「私、足を捻って倒れてしまって。それで今、男の子が・・・。」

「男の子?とにかくこんな真冬にずぶ濡れじゃ風邪を引くよ。俺の肩に腕を・・環さん?」

「私、帰らなくちゃ。椿、に・・会わないと。」

「・・・うん、大丈夫だよ。彼もきっと環さんを待っているさ。ほら、帰ろう。」

椿を知っているかもしれない。

そんな確信は心をこんなにも高揚させ、震わす。

私は近頃、椿へ向けた愛情はただの紛い物で、彼への憧れなどがそう誤認させるのだと思っていたが、彼を知っているからこそ芽生えた感情なのだと気付いた心は、この澄んだ湖のように穏やかさを取り戻して行くようだった。

そうしてマスターの助けを借りようやく帰路に着くと、兎にも角にも汚れた服を脱ぎ風呂に入らねばと洗面所へと急いだ。

あれ程雨に打たれ、泥水に体を浸けていたので、鏡に映る私は服が泥塗れなのは勿論の事、頬や額には泥水が跳ねたような斑点が幾つもあり、前髪は雨で額に不自然に張り付いていた。

言うなればそれは正にバーコードのような複数の横線で、マスターは何故こんな姿を見ても笑わずにいられたのか、おかしいと分かっていたのなら指摘すればいいのではと、笑わずにはいられない。

こんなにも腹を抱え笑ったのは久しぶりである。

そして風呂に入る事が今日程気持ちいいと思った事は無く、まるで汚れと共に負の感情を全て洗い流すようだった。

風呂場から出ると心も体も晴れ晴れし、部屋から鳴り響く着信音に、今日は何かの転機かもしれないと思わずにいられない。

そうでなければ、何度も鳴る電話に高鳴る気持ちを、何と説明付けようか。

「もしもしっ?陽ちゃん、どうしたの急にっ。」

「突然すいません、今大丈夫ですか?」

「うん、全然大丈夫っ。今お風呂上がった所なんだ。」

「明日あの大きな図書館で会いませんか?その、話したい事があって。」

「本当?私も丁度明日帰ろうと思ってたの。今遠い場所にいてね、それで・・・。」

「とにかくっ。・・明日十時に待ってます。それじゃあ。」

「えっ、ちょっと・・・。」

突然の陽ちゃんからの電話は何処か挙動不審にも思え少し気掛かりではあったが、二度と会って話など出来無いと思っていた為嬉しく、差し当たって気にしない事にしたのだ。

彼女の話とはどう言うわけか言い辛く、不安があるのだろうとその違和感を私は軽視していた。

しかし今思うと、私がもう少しこの異変を気に掛けていれば、彼女には違った未来があったのでは無いかと考えてしまう。

そんな雨の降る夜だった。

「えっと、マスターお世話になりました。短い間でしたが、ここでの生活は私を前向きにさせてくれました。本当にありがとうございます。」

「うん、確かに顔が前と全然違うね。気をつけて。それから・・頑張れっ。」

「はいっ。」

時刻は朝の七時、私は無人の駅から電車へと飛び乗った。

目的地は自宅では無くあの大きな図書館で、私は今日久しぶりに陽ちゃんと会う。

その後はお兄ちゃんの弁護士事務所へ出向きこれまでの迷惑を謝罪と、今日は大忙しだ。

母の待つ自宅へと帰るのはその後で、決して逃げている訳ではない。

先に図書館に行かなければ待ち合わせの時間に間に合わない可能性がある上、お兄ちゃんには早く謝らなければ雷が怖いのだ。

現に図書館へ到着したのは待ち合わせ十分前で、やはり時間はギリギリである。

図書館へ向かうにつれ思いの外緊張は高まり、そのまま入り口を抜け以前座っていた席に視線を向けると、見覚えのある後ろ姿が目に入った。

緊張は興奮へと変わり気付けばその席まで足は駆けていた。

「陽ちゃんっ。」

「結糸ちゃん・・何で、何で来たの。」

「何でって、ここで会おうって陽ちゃんが・・。え、まさかあの電話違う人だった?いや、でも・・・。」

「来るはずが無いって思ってた。あんな別れ方して、来るはずがないって思ってたから私・・・。結糸ちゃん、早くここから出てっ。」

「えっ、でもまだ陽ちゃんの話を聞いてないし・・。」

「あんなの嘘だよ。嘘に決まってるじゃない。・・・私、お母さんを助けたくて。でも結糸ちゃんを見たら・・こんなの違う。」

「あれ?結糸じゃない?なんだ、戻ってきてるなら連絡くらいくれたらいいのに。」

「お、お母さん。どうしたのこんな所で。」

「偶然よぉ。あら、お友達?」

「うん、陽ちゃんって言うんだ。」

「わ・・わた、私っもう行きます。」

「え、ちょっと陽ちゃんっ?」

「あらそう?さようならぁ。また、何処かでね?」

「どう言う事、訳がわからない。・・・お母さん、まさかとは思うけど陽ちゃんの事知ってる?」

「何故?お母さん、彼女と初めて会ったけど。」

「だっておかしいよ。陽ちゃん、お母さんが現れた途端に様子がおかしくなったように思えたんだけど。」

「何かの思い違いよぉ。ね?信じて?」

「・・・・分かった。とりあえず私はこのままお兄ちゃ・・弁護士さんの所に行くから。陽ちゃんには落ち着いた頃にまた電話するよ。」

「お母さんも一緒に弁護士さんの所、行っちゃ駄目かな?ずっと会えてなかったんだもの、もっと結糸と一緒にいたいわ。」

悲劇とは突然起きるのだと誰もが思っている。

しかし実際には前兆と言われる物があり、その大きさは大小様々で、それが余りに小さければ前兆の有無にさえ気付きもしない為、突然引き起こったのだと誤認してしまう。

ではこの一連の出来事の中には、幾つの前兆が潜んでいたのだろうか。

それは幾つも数え切れない程存在していたが、気付いても尚見て見ぬふりをしたのは紛れもなくこの私であった。

ほんの些細な出来事で、然程気にする事でもないと軽んじていたのだ。

けれどもそれは陽ちゃんからすると、人生を左右する程の大きな異変であり、私は彼女を見殺しにしたと言っても過言ではない。

悲劇は常に日常に紛れその瞬間を今かと待ち望んでいるのである。

この時私と母は、陽ちゃんが立ち去ると直ぐに図書館を後にした。

外は騒がしく、遠くから微かに救急車のサイレンが鳴り響き、人々は叫び声を上げている。

そして私は様子が気になり人混みを掻き分け進むと、目の前に右腕は通常あり得ない方向に曲がり頭部からは大量の血が流れる人物が倒れており、地面には大きな血溜まりで出来ていた。

どれ程信じたくは無いと目を背けようとも、その女性とは他でも無い陽ちゃんであったのだ。

「・・・・・陽、ちゃん。陽ちゃん、陽ちゃんっ。誰かっ友達がっ。陽ちゃんっ、陽ちゃ・・・。」

「何してるの結糸、そんなに揺らしちゃって。見て、もう彼女・・・死んでるかもしれないじゃない?」

「は?今、何て?」

私は母の理解出来ない発言に言葉を失った。

心配も動揺すらもしない母を見て、こんなにも人に狂気を感じたのはこの時が初めてだろう。

母はその後も救急隊が到着したするまで、私に死は苦しみだけではないと語り続けたのである。

死は苦しみであり救いだと話し、目の前に娘の友人が血を流し倒れていると言うのに、冷静そのものでだった。

その淡々とした姿は周囲の人々をも圧倒し黙らせ、驚く事に母の言葉を聞き納得すると何も無かったかのように立ち去る者さえいたのだ。

怒りとも憎しみとも解釈出来ない感情に私は今にも発狂しそうで、母に殴り掛から無かった自分が不思議である。

しかしそんな私を救ったのは、この場に駆けつけた救急隊員の一言だった。

まだ息があると、そのたった一言が母に襲い掛かろうとする私を引き留めたのだ。

そして更に知ってか知らずか、私の気を逸らさんとするお兄ちゃんからの電話は、壊れそうな心を大きく包み込んだ。

「急にすまない。その・・・椿の事なんだが。」

「・・・・うん。どうしたの。」

「・・・お前こそどうした?」

「別に何も無いよ。」

「嘘つけ。そうやっていつも自分を抑え込んでるだろ。・・・今にも泣きそうな声をしてるじゃないか。」

「・・・・うぅ、だって。・・だって。」

「悲しい時は泣けば良いんだよ。腹が立つなら怒って、笑いたい時に笑ったら良い。自分を抑える必要なんて無いんだ。なっ?」

「・・・うん、うん。」

「遠方なのは知ってるが、少し話をしないか?椿の弁護士から連絡があって・・今日突然君と面会したいと言い出したそうだ。」

「面会?」

「あぁ。こっちへ来れそうか?何なら俺がそこまで迎えに行ってもいいぞ。」

「いいえ、大丈夫です。今朝こちらへ戻って来たの。今から伺います。」

「・・・わかった。気を付けてな。」

「はい。それと母もそちらへ連れて行ってもいいでしょうか?」

「母親?それは君が良ければ構わないが・・。いいのか?」

「・・・うん。それじゃあ今から行きます。」

私は電話を切ると、出発しようとしていた救急隊員に被害者の友人だと話し搬送先を聞き、無礼を承知で陽ちゃんの命を必ずや助けて欲しいと頭を下げたのだ。

勿論その為に彼らがいるのだと分かってはいたが、恐らくこの行為は神頼みのような物だったのだろう。

当然厳しい言葉が返ってくるだろうと息を飲んだが、救急隊員は全力を尽くすと私に誓うと急ぎその場を走り去って行った。

私が泣いていいはずなどないのだ。

泣くべきは陽ちゃんであって決して私では無い。

そう理解していても、目から溢れる涙を止める事は出来ず、こぼれ落ちぬよう空を見上げ堪える事で精一杯だった。

斯くして私と母はお兄ちゃんの事務所まで歩き始めたが、母への不信感は一向に拭えず叔母の言葉が再び蘇り頭の中でこだましている。

母は危険だと長きに渡り監禁し続けた叔母の真意とは何で、その理由と私の持つ不信感は同じ場所へと繋がっているのか確かめたい。

監禁により心が捻じ曲がり今の母を創り上げているのか、真相はもっと深く私の届かない所にある物なのか私は知る必要があるのだ。

そうでなければこのまま唯一の家族を忌み嫌い続けなければならないかもしれず、それはお互いにとって不幸でしかない。

何故監禁されていたのか。

そう聞けば母は答えてくれるだろうかと考えもしたが、口達者な母は舞い散る桜の花びらのように掴む手をすり抜けて行くような気がしてならない。

依然厳しい寒さが猛威を振るう今はまだその時ではないのだろう。

花びらが散りその身を地に落とすその時まで、私はその姿を見失わぬよう目を凝らし続ける他ないのだ。

一方で事務所へ向かう道中母は、どこへいたのか、何をしていたのか、小説は順調かと質問を続けたが、会話は何処か空虚で私に興味を向けているようでそうではなく、心は別の場所へあるようだった。

私は母を知りたく知る必要があるが、どうやら母は私の事を知りたい訳では無いらしい。

「それが悲しいの?」

「・・・うん。ん?え、何が。ごめん何の話だっけ。」

「だからお仕事の話よ。上手くいってないんでしょ?」

「あぁ、仕事ね。・・・まぁ、そうだねそれもある、かも。」

「それはそうと・・ご近所さんに聞いたんだけど、結糸は殺人未遂事件に巻き込まれたそうね。今向かってるのって、その弁護士さんなんでしょ?傷は大丈夫なの?まだ痛む?」

「えっ、あぁ。大丈夫だよ、ありがとう。・・・着いた。ここだよ。」

考えれば母に事件の事など話もしていなかったと思い出し、突然の配慮に驚きを隠さずにいた。

時折顔を見せる母としての姿は戸惑いを与えたが、嬉しさを覚えた事もまた事実である。

迷いを捨てなければ真実になど辿り着けないと分かっているもの、未だ疑いを向ける事に迷っているのだろうか。

これでは先が思いやられると息を漏らし、事務所の扉に手を掛けた。

「早かったなぁ。その・・元気にしていたか?」

「元気でしたよ。本当に色々とご迷惑をお掛けしました。」

「・・おかしい。そんなかしこまって謝るなんて。さては、田舎で修行でも?」

「おっかしいなぁ。私が謝ったら皆んならしくないって言うんだもん。ふふっ、あはははっ。」

「ようやく笑えるようになったか、良い時間を過ごせたみたいだな。さて時間も無いし本題に戻るが、椿の面会の件だ。先程何故だか連絡が・・・。」

「ちょっといいかしら、弁護士さん。その椿って苗字の受刑者さん、彼の下のお名前は何かしら?ふふっ、突然ごめんなさいね。」

「あ、失礼しました。環さんのお母様ですよね。ご無沙汰しております。えっと・・。」

「言って構わないですよ、と言うより私が言います。冬真だよ、お母さん。それがどうかしたの?」

「椿冬真・・・へぇ、良い名前ね。私も会ってみたいわ。私の娘を傷つけた人だもの、挨拶くらいしないとね。」

「えっ、お母さんも面会するの?」

「勿論ですとも。弁護士さん、掛け合ってくれるかしら?ね?」

「・・あぁ、はい。確認してみますが、期待はしない方が良いでしょうね。」

「ありがとうっ。・・楽しみだわ。」

面会が楽しみだと言い放った母が浮かべる不気味な笑みは周囲の人間を凍りつかせ、暖房が効き暖かいはずの室内で私の体の毛は逆立っていた。

椿との面会の話が出た事すら気持ちの整理が及んでいないにも関わらず、母の身も凍る発言は私に大きな胸騒ぎしている。

そして又陽ちゃんの安否も懸念が残る中、この場所へ戻り一日目、事態は早々に動き始めたのであった。

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