第5話 寂寥

 「結糸さん、お酒が足りなくなりそうよっ。追加してもらった方が良いかもしれないわ。・・結糸さん?」

「・・・あ、はいっ。今行きます。」

叔母が亡くなってから、私の世界は何もかも変わってしまった。

私が椿に刺された時とはまるで違い、世界は一変したのだ。

あの夜何が起きていたのか詳細は余り思い出せず、母と名乗る人物が目の前にいて叔母が悲惨な死を遂げた。

思い出せるのはのはそんな事実と手や体に残る傷のみで、叔母の犯した罪も今は責める気持ちにはならない。

母曰く、恐らく悲鳴や大きな物音を聞いた隣人が警察を呼んだのか、あの後警察が訪ねて来ると事件が発覚、辺りは騒然としたそうだ。

私はただ座り込み泣き続け、事情を説明する余裕などない為、母が事情を説明し叔母はその罪を問われた。

叔母は勿論の事、母の状態も非常に悪く体はぼろぼろで、栄養失調にもなっていたとの事。

母は病院に運ばれ検査すると両腕と右手の小指が骨折しており、母の話によると初めは物置に鎖で繋がれていて、自分の手を折りそこから一度抜け出したのだと言う。

しかし叔母に追われ再び捕えられると、次は家の二階に縛られ監禁されていたそうだ。

そうあの日、叔母が犬を探していると言ったあの日母は逃げ出していたのだ。

母は私が幼い頃事故で病院に運ばれたあの時期から約十四年、とてつもなく長い時間監禁されていた。

それは到底理解出来ない苦しみで、叔母は責められても仕方のない罪を犯していたのだ。

頭ではそう理解していても叔母と過ごした時間、叔母の言葉を思い返すと素直に責める事が出来ず、母を心から気遣う事も出来ない私はきっと最低の人間だ。

唐突に現れた彼女を母と認識する事さえ今は難く、私と母の間には少し壁があるようだった。

と言うより、私が壁を作っているのだろう。

今日は叔母の葬式で、母は入院している為私が喪主を務めた。

叔母の知人は今回の事件を知っても尚、この場に集まり叔母の死をいたみ、事件の事を私に尋ねる者やそんな陰口を言う者もこの場に誰一人いやしない。

この場所には悲しみと言う文字しかなかった。

「あ、結糸っ。また来てくれたんだっ、毎日ありがとね。」

「・・うん、お母さん具合はどう?」

「あれから毎日点滴してもらってるから体も元気になってきた気がするし、もう少ししたらご飯も食べれるようになるんだって。ここのご飯美味しいから、楽しみだわっ。」

「・・ここに入院した事あるの?」

「えぇ、随分と前にねっ。」

「へぇ。・・あの、今日のおばあちゃんのお葬式の事だけど・・・・。」

「あの人の話をしないでっ。」

「あっ・・うん、そうだよね。ごめんなさい。」

「結糸、お母さんが退院したらちょっと旅行にでも行かないっ?」

「旅行?・・あー、どうだろう。仕事も押してるし、今はちょっと行く気になれ・・行けないかも。」

「そう?じゃあいつだったら行けるっ?」

「うーん、いつだろう。ははっ・・分からない。」

「失礼するよ、調子はどうですか環さん。」

「先生っ、調子凄くいいです。ありがとうございますっ。」

「それはよかった。あぁ、やっぱり結糸ちゃんは娘さんだったかぁ。」

「はい?」

「ほら、前に君が入院した時にある女性の話をした事を覚えているかな?あの時笑顔がすごく似てるなと思ってたんだよ。」

「えっ、あの話の女の人って・・お母さん何ですかっ?」

「ははっ、私も驚いたよ。また会えるなんてね。今もあの素敵な笑顔は健在のようで、何か安心したよ環さん。」

「そんな先生ったら。」

「いやぁ何か照れるね。それじゃあもう行くよ。元気そうで本当によかった。またね、二人共。」

「・・・前入院してたって、お母さん何かあったの?」

「そうね、結糸が六歳の時だったかしら。貴方と同じ時に私も怪我で入院してたのよ。」

「そうだったんだ。知らなかった。」

「結糸、これから二人で無くした時間を取り戻していきましょう。まだまだ先は長いもの、上手くやっていけるわ。ね?」

「うん、そうだよね。・・それじゃあ私仕事があるし、もう行くね。」

何故こんなにも母の言葉が重荷のように感じるのか、自分でも分からない。

会う事は叶わないと思っていた母に漸く会え嬉しい筈が、今は母と顔を合わせる事さえ何だか辛く、私は逃げるように病室を出て来てしまった。

私の想像していた母との再会は決してこんな苦しいものではなかったはずだ。

そんな行き場のない気持ちを整理したくとも今は心にしまって置く事しか出来ず、私は帰り道途方もなく歩いていた。

歩いて帰るには辛い距離だったが、一人考える時間が欲しかった私には好都合である。

帰ればまたやらなければならない事が山積みで、なるべく時間を掛けて帰ればそれも考えずに済む。

そうしてうつむき歩いていると、いつの間にか何処かも分からない河原に立っており、子供達が楽しげに遊ぶその無邪気な姿が目に入った。

こんなにも子供の明るい声に、心を救われた事は今までに無いだろう。

私は気付けばその場に座り込み子供達を暫く眺めていた。

「子供っていうものは、太陽のようだねぇ。」

「・・・・あっ、私に言ってました?すいません。はい、本当にそうですねっ。」

「お嬢ちゃんも、そんな明るさを求めてここに来たんだろう?わしもよくこいつとここに来ては子供らを眺めて帰るんだよ。」

「可愛いわんちゃんですね、大人しいし。」

「そうだろぉ?わしの子供みたいなもんさ、はははっ。」

「ふふっ、お爺さんも子供達と同じくらい明るくてお話ししてると元気になれます。」

「ほう、そう思うかい?」

「は、はい。違うんですか?」

河原で出会ったお爺さんはそう言うと、私の隣に座り自身の話を始めた。

聞けばお爺さんも一年前に最愛の奥さんを亡くし、叔母のような悲惨な死とは違えど、それは到底他の何かで埋めようも無い辛い苦しみだったそうだ。

「妻はね、酷い認知症だったんだよ。それはもう手に負えないくらいのね。」

「認知症・・ですか?」

「息子と私二人で何とか妻を支えながらやっていたんだが、やはり認知症の年寄りの介護は息子には酷く答えたようでなぁ。」

「迷子になってしまうとか、性格がきつい印象になるとかは聞いた事がありますが・・。」

「よく知っているね。そう、そんな事も多々あったよ。本当に仲が良い家族だったんだがね、そんな生活に疲労も溜まり息子も妻にきつく当たるようになってしまってなぁ。」

「そうですか・・・。」

「ある時息子が夜中に一人泣いていたんだよ。母が大好きなのにこんな状態が続く事が辛く、母を恨んでしまうんだと。」

「・・・。」

「そんなある日妻が病気で倒れ、あっという間に亡くなってしまってね。息子は母を恨んでしまった事を酷く後悔し、自分を責めていたよ。毎日毎日、お母さんごめんって泣いているんだ。」

愛とは極めて不可解なもので、それは一つの感情に思えるが実際には様々な物に形を変え私達の心の中に存在している。

私が思うに憎しみや怒り、哀れみなど多くの負の感情は愛が枝分かれし出来たものではないだろうか。

しかし根元には愛があり、それ故に何故こんな感情を抱いてしまうのかと皆苦しむのだ。

恐らく叔母や母も愛が負の感情となり葛藤していたに違いない。

母が危険だと、私を守りたいと言った叔母は苦しくも愛は恐怖の産物へと変貌を遂げてしまったが、愛は確かにそこにあった。

母も又同じく長きに渡った監禁生活により、親への愛が怒りへと変わってしまったのだ。

実の娘に何故こんなにも残酷な事が出来るのかと、愛がある故怒りを抱いている。

ではどうすれば愛を苦しみに変えずに済むのか、苦しみに変わってしまった愛を如何いかなる方法で取り戻せるのか。

そしてその疑問に果たして答えなどあるのだろうか。

考える程頭は混乱し、愛とは何なのかと哲学的な考えまで持ち出す始末だ。

「どうすれば・・一体どうすれば息子さんはその苦しみから抜け出せるんでしょうか。お爺さんがしてあげられる事って何なんでしょうか。」

「そうだなぁ、わしにしてあげる事はないだろうね。」

「・・・。」 

「時間だよお嬢ちゃん。時間が苦しい過去も幸せな記憶に変えてくれるよぉ、きっと。わしはそっと見守るだけだ。」

「そっと見守る・・か。」

「そう言えば前にもこんな話をここでしたなぁ。お嬢ちゃんと同じような雰囲気の男の子でねぇ。名前はなんだったかな、はははっ。」

「椿・・。」

「さぁ、どうだろう。わしは年寄りだからなぁ。だかしかし、そんな綺麗な花の名前だった気がするよ。」

「彼はおじいさんの話を聞いて何と言っていましたか?」

「そう、それは凄く印象に残って覚えているよ。『僕も同じです』確かそう言っていたはずだ。」

おじいさんの言う人物は椿だと断言出来はしないが、心の何処かで椿であって欲しいと願った。

私の考えが確かだとするならば、椿の私に対する恨みは愛なのだろうか。

愛がその形を変え私に向けられているのなら、私はその苦しみを取り除く事が出来るはずだ。

お爺さんの言う通り私達には時間が必要なのかも知れない。

その後お爺さんは私が何故悩んでいるのか聞く事もせず、その場を立ち去ってしまったのだ。

悩んでいると分かっていながらも直接手助けするのではなく、諭してくれるその優しさに叔母の影を重ね、私の心は少し軽さを取り戻していくようだった。

気付けば随分と長い時間河原にいたせいか、日は暮れ始め子供達の姿もそこには無い。

私もそろそろ帰らねば、何も言わず葬式の場を出てきたのだ。

帰りが遅いほど周囲の怒りが増すような気がし、想像すると震え上がりそうだ。

そうして重い腰を上げると、突如目の前がくらみ酷い頭痛が襲いかかった。

それと同時に少女の悲鳴のような声が頭の中に流れ込み、恐怖と言う感情が全身を支配し体の震えが止まらない。

顔からは血の気が引き息も絶え絶えで、私は砂利道の上で悶え苦しんでいると、揺れる視界に少年が近付いて来るのが見えている。

その瞬間目の前が暗くなり映像は途絶えた。

「お姉ちゃん、大丈夫っ?」

「ごめんね・・・・・冬真。」

「冬真?・・・誰かー、お姉ちゃんが倒れてるっ。」

ふと目を覚ますと私は何故か自宅にいて、何やら室内で物音が響いている。

それは懐かしく、一定のリズムを刻むような心地の良い音である。

暫くし音が止むと、幸せという言葉の相応しい匂いが部屋中に漂った。

「・・・・おばあちゃん?」

「誰がおばあちゃんだ。俺はまだまだ若いし、それに男だぞ。」

「・・・っえ、弁護士さん?」

「騒がしいやつだな。思ったより元気じゃないか。」

「何でここに、と言うか何で料理してるんですか?」

「君が倒れた時、俺も君を探し回って電話していたんだよ。その時君を助けてくれた人達が電話に出てくれて・・それで今だ。どうせろくにご飯も食べてないから倒れたんだろうと思ってな。」

「・・・ありがとうございます。」

「全くそれはそうと、あの葬式後の忙しい時に君は一体何処を彷徨い歩いていたんだ、本当にっ。」

「ふふっ、あはははっ。」

「何笑っている。」

「いや、弁護士さんの雷がこんなに嬉しいと思える日がまさか来るなんて、ふふっ。」

「・・・その、弁護士さんってやめたらどうだ。今日は仕事で来るわけではないからな。」

「じゃあ、お兄ちゃんっ?」

「はぁ?お兄ちゃんねぇ・・まぁいいか。」

お兄ちゃんの作るご飯は温かく優しさで溢れていた。

味噌汁の野菜は形が不揃いで、不器用ながらも一生懸命な思いに涙がにじみ、それを知られぬよう俯き食べた味噌汁は少し塩辛い。

お兄ちゃんは相変わらずの淡々とした喋り方と、時折私を心配してか下手な冗談を含ませ、それが何処か愛らしく張り詰めた心が解けてゆくようだった。

素直に慰めようとしない様が又、彼の優しさであり魅力だと言える。

彼が私を気遣うように、与えられた優しさに甘え無下むげにしてしまっては相手に顔向け出来ない。

私は優しく気遣う彼の為にも、前進しなければならないのだ。

そう思えただけでも、今日は良い日だったと言う事にしよう。

手作りの味噌汁と炊き立ての白米を二人で鱈腹食べると、私はお兄ちゃんと別れ、心配を背に一人叔母の家へと歩いた。

歩き慣れたいつもの道も、もう歩く事は恐らく無いだろう。

幼い頃良く叔母に連れられ遊んだ公園に、どら焼きが美味しく度々立ち寄った和菓子屋。

叔母と知人の長話に退屈していた細い路地。どれも思い返せば幸せな記憶ばかりで、心にしまっておくには余りにも思い出が多過ぎる。

しかしそれも全てここに置いて行こうと決めたのだ。

そして前進し心に余裕が出来たその時にはまた、昔を思い出し懐かしみここにまた戻って来よう。

叔母の家に到着すると、私は心を整理するように荷物を整理した。

この家はかつて安心する居場所だったが、今は何処か辛く殺風景に感じ、思い出す叔母の温かな背中と笑顔には苦悩を思わせ私を苦しめる。

母曰くこの家は取り壊し土地を売りに出すそうで、母にとってもこの場所は苦痛を思わせる場所となっているのだろうと私はその決断を否定する事なく承諾した。

寂しくないと言えば嘘になる。

しかし母にとっても前進する為にはそれが必要なのだろう。

私は日が落ちても尚荷物を整理し続け、その大半を片付け終わる頃には深夜になり、残るは二階にあるかつての私の部屋とその隣の部屋だけとなった。

二階へと登る足は重く、行きたくないと過去の自分が足を引っ張っているようにも感じる。

短い階段をようやく登り終え私の部屋に入ると、目の前に広がるその本の多さに疲れが何倍にも増し、思っていた物とは違う形で二階に登った事を後悔したとは叔母には言えまい。

そんな疲れに打ち勝てる程真面目でも無い私は、持ってきた段ボールを部屋に投げ置くと棚に並ぶ本へ久方ぶりに手を伸ばした。

ここまで休む事なく作業してきたのだ。

少しくらい休憩を取ろうと文句を言うものはこの場にはいない。

そうして下の階など気にする必要が無いのをいい事に、大きな地響きを上げ勢い良く座ると、壁に寄りかかり天井まで届きそうな程大きな本棚を見上げた。

考えればよくもまあこの量の本を飽きる事なく読み続けてきたものだ。

私は気に入った本は一度ならず何度も繰り返し読むので、棚に並ぶのはその栄光を手に入れた者達である。

しかし今となっては書く事に精一杯で読む事は殆ど無くなってしまった。

私はその栄光を持て余す本達に徐々に湧き上がる胸の高鳴りが抑えられず、気付けば足台に乗り上から順に目を通していた。

見ると中には吹き出し笑ってしまうほどおかしな題名の本もあり、題名や内容を知っていても尚それは私を笑顔にさせる。

一つ挙げるとすれば、ジャンルはサスペンスなのだが、題名は驚きの『へそのごま』と言うものだ。

その題名から繰り広げられるサスペンスとは如何なるものかと、思わずツッコミを入れたくもなる。

そうして楽しく本と過ごす時間は驚くほど一瞬で、既に最後の一段となってしまった。

思えば上段から本を手に取っていたのならば、そのまま見た本を段ボールに詰めていれば既に作業は終盤だったのではと、自身の頭の悪さがほとほと嫌になる。

しかしそれも既に遅く諦めた私は最後の棚を見渡すと、私の誇り高き本に紛れ場違いとも言うべきアルバムが本棚の隅で密かに鎮座しているではないか。

高さも奥行きもまるで他とは違うアルバムは、一際目を引き私はそれを思わず真っ先に手に取ってしまった。

この家にアルバムなど違和感があり叔母と写真を撮った記憶も、撮られた記憶もないと思っていたがそれもそのはずだ。

それは私と叔母のアルバムではなく、記憶を無くす以前に撮られた代物だったのだ。

アルバムを開くと、恐らく私であろう赤子が最初の一ページ目を埋め尽くし、それはもう自分で言うのも烏滸おこがましい程愛らしく、二十年後にこんな貧相な顔立ちになっている事を謝罪したい程である。

赤子の私は自分であって自分でない様に感じ、何処か面白く他の写真も気になりページをめくると、私を抱く母や叔母の写真が現れ懐かしいとは少し違う感情だったがむず痒く笑顔が溢れた。

すると右下の角に、女性ばかりが映る写真に一人見た事もない男性が私を抱く姿があった。

見知らぬ顔だが何故か懐かしく思えるその男性を暫く眺めると、ふとある憶測が過ぎり私はそれを確かめたく顔を上げ窓ガラスに映る自分を照らし合わせたのだ。

私はその写真の男性と瓜二つの自分に呆然とし、憶測は確信へと変わっていった。

この人物こそが夢にまで見た父なのだろうかと、気持ちが高揚し落ち着かず鼓動は速さを増すばかりだ。

しかしそんな幸福感を妨害するかのように突如再び激しい頭痛に襲われ、見た事のない映像が止め処なく頭の中に流れ込み、その速さに激しい眩暈を引き起こした。

流れ込む映像はその速さから瞬時に理解する事は困難で、暫くし頭痛が止むとそれは記憶として頭に植え付けられていたのだ。

私は唐突に現れた過去の記憶に戸惑いを隠せず、そしてその記憶に驚愕し言葉を失った。

以前叔母から父は私が記憶を無くす以前に既に死去していると聞いていたが、何処でどのように亡くなったか聞かされてはいなかった。

当時叔母は事実を知っているにも関わらず、

口を閉ざしているようにも思えたが、言及する事は禁じられ歯痒い思いをしていたがそれは無理もない。

蘇った私の過去の記憶にはその光景が鮮明に映し出され、それは目を覆いたくなる程の光景だった。

叔母が口にする事を拒むはずだ。

父は自殺していたのだ。

その上私はその光景を目の前で見ていたようで、記憶の中の父は古びた家の天井から吊るされ全く動こうとせず、小さな私の隣には母が立ち尽くし二人してただその姿を呆然と眺めていた。

そんな父の記憶に先程写真に映る父を見て心弾ませた瞬間とは一変し、肩を落とし涙が止まらず、その涙を流していたのは過去の私であり、父が自殺したのだと知り悲しみに暮れる現在の私でもあった。

一体何故私に関わる者は皆苦しんでしまうのだろうか。

私はやはり、椿に襲われたあの夜死ぬべきだったのだろうか。

そうすれば椿の私を恨む気持ちは解消され、

叔母は母を解放し叔母も死ぬ事は無かったはずだ。

皆に苦しみを与えてまで私の生きる意味とは一体何なのか分からなくなり、自暴自棄となった私はアルバムを閉じるとそれを壁に投げつけていた。

恐らく自分自身を傷付ける事が出来ない私をアルバムを通し痛めつけたかったのだろう。

しかしこのアルバムは叔母が大事にしまう程の物である。

投げたもの状態が気になりアルバムに目を向けると、側に二枚の封筒が落ちている事に気付き手元に引き寄せた。

表には叔母の筆跡であろう宛名が書かれており、それは私と母に向けた物であったのだ。

何故この手紙を持つ手が震え開く事を拒んでいるのかは言わずもがな、私の知らない受け入れ難い真実が書かれているのでは無いかと怖いのである。

しかしそれが本当に恐怖や苦しみだとするならば私は逃げる事など許されないのだ。

周囲が苦しむ中、私一人逃げ仰るなど姑息こそくであり、向き合わなければならない。

そう自分に言い聞かせる以外、この手紙を開く手立てなどなかった。

『等々お母さんの事、見つかってしまったのかしら。この手紙を読んでいるのが結糸ちゃんである事を願います。私は結糸ちゃんのお母さんの親。例え自分の行動が過ちだとしても、子が間違いを犯そうとしていればそれを正すのが親よ。そして孫には目一杯の愛情を。私の行為は間違い無く犯罪行為で、それは自覚があるの。それでも娘が罪を犯す前に、どんな手を使ってもそれを止めなければならなかった。結糸ちゃんにはその理由を知る権利があるのは分かってる。でも貴方には幸せに生きて欲しいの。もう辛い思いをさせたくないのよ。だから私はあなたの過去を、母の罪をお墓まで持っていくわ。そして今すぐ母から離れなさい。何処か見つからない所へ行くの。この手紙を読んでるのなら、まだ間に合うわ。これが最後のおばあちゃんの願いかな。おばあちゃんにまた母として子供と生きる幸せをくれて、本当にありがとう。幸せになってね、大好きよ結糸ちゃん。』

母の愛とは空のように果てしなく広がり、その終わりなど決して見る事は出来ない。

叔母の想像を絶する愛は二人の娘へ与えられ、母と言う呼び名はそんな壮大な愛を向けられる者に与えられるものなのだと知った。

では子は何処までその愛を返す事が出来るのか、私はまだ何も返せていないのではないだろうか。

そう思うと愛は胸をきつく締め付け、私にはそれを涙にする事しか出来なかった。

同時に愛はその真の姿によって相手に向ければ、それは相手の存在価値となり、何にも変え難い救いとなるのだと分かった私は、飛び出すように叔母の家を後にし自宅へと戻ったのだ。

涙でボロボロの顔で走る私は、暗闇で動けずにいる誰かを救う方法を既に知っている。

そうして自宅に到着するとおもむろに紙とペンを取り出し、ある人物へと手紙を書き記した。

私が一点の曇りもない愛を与えたい人物は誰なのか分かると、その手を止める事など不可能だった。

『椿様へ、これが私の書く最後の手紙となるでしょう。きっと予測していた事でしょうが、母が見つかりました。確かに椿さんの言う通り苦しい思いをしましたが、そこに恨みなどありません。勿論、椿さんにも恨みなど決してありません。しかし貴方には計り知れない程の辛い思いがあるのでしょう。私は今も変わらず、それを救いたいのです。ですがそれは私がどれ程椿さんと繋がりたいと願っていようとも、私が側にいては叶わない。なので今後一切椿さんと関わらず生きていく事を心に決めました。愛がある故に離れるのです。

私が何故見ず知らずの椿さんをこんなにも大事にしたいと思うのか、正直に言えば私にも分かりません。分からないのに、大事だと心が訴え掛けるのです。いつだって貴方の幸せを心より願っています。愛を込めて、環結糸より。』

今日はどれほど涙を流せばいいのだろうか。

もう一生分の涙を流しているのではないかと思うほど泣いてばかりのはずが、何故か今も止め処なく涙は溢れ続ける。

そして泣き疲れた私は手紙を書き終えると、そのまま机の上にもたれ掛かり深い眠りへと落ちて行った。

翌朝の私の顔は最悪の常態。

目は蜂に刺されたように腫れ顔は浮腫み、頬には腕や紙の跡が鮮明に形取られ、今外を出歩けば間違いなく周囲は私の顔に釘付けだろう。

いつかは作家として一目置かれ脚光を浴びる事が夢であったが、こんな方法でも注目を集める事が出来たとは新しい発見である。

寝起きの顔は悲惨だったが、こんな冗談を考える事が出来るほど心は思いの外すっきりし、私は前進する準備が整ったようにも感じていた。

残るは別れの挨拶のみで、私は出来るだけ人から気付かれぬよう迷彩柄の服を着ると、マスクや帽子で顔を覆い手紙を二通鞄に入れ外へと出た。

私は駅にあるポストに椿宛の手紙を投函すると続いて母の病院へと急いだが、はやる気持ちを抑えられず気付けば足は駆けていた。

「お母さんっ、おはようっ。」

「お、おはよう。今日は随分と元気ね・・って、結糸その顔どうしたのっ。」

「へっ?あぁー、ちょっと小説の評判が悪くて編集の人にボコボコに・・・ってのは嘘。実は昨日凄く泣いてしまって、それでこんな顔に。ははっ、凄いよねこの顔。」

「何、どうしたの?そんなになるまで泣くなんて。」

「それは・・おばあちゃん。」

「何?」

「それから、お父さん。そして椿。」

「お父さん・・・?結糸まさか記憶が・・。」

「うん、ちょっとだけね。おばあちゃんの家でお父さんの写真を見つけて思い出したみたい。それでね・・あのー、あのね・・・。」

「何なのよ。はっきり言いなさいよ、どうしたの?」

「おばあちゃんからの手紙を見つけた。お母さん宛の手紙。」

「いらない。」

「待って、違うのっ。お願いだから、読んでっ。きっとお母さんも少しは楽にっ・・。」

私はきっと勘違いをしていたのだろう。

母は必ずや叔母への愛を持っているのだと信じたかったのだ。

しかし実際には目を背け真実を見ようとしていなかったのかもしれない。

母は私から叔母の手紙を奪い取ると、何度も何度もそれを手で引き裂き、塵となった手紙は天から降る涙のように空を舞った。

そう、全て私の勘違いだ。

母の抱くその怒りは、どう間違えようとも決して愛などではなかったのだ。

「お母さん、あのね・・・。」

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