第4話 瓦解

 「結糸ちゃんっ、開けてっ、結糸ちゃんおばあちゃんよっ。」

手紙を読み終えた時だった。

激しいチャイムとドアを叩く音、そして叫ぶ叔母の声が部屋中に響いた。

いつも冷静沈着な叔母がこれ程までに気が動転している所は見たことが無く、私も大慌てで扉を開けると、走ってきたのか息を切らし今にも倒れそうになっているではないか。

この様子では余程の事があったに違いない。

そうして叔母の隠し事など後で考えれば良いと、不安はあったが差し当たって頭の隅に追いやってしまった。

「何っ、どうしたの?何かあったのっ?」

「結糸ちゃん、今一人?誰もここを訪ねて来て無いかしら?」

「いや誰も来てないけど・・誰か探してるの?一緒に探そうか?」

「大丈夫よ。結糸ちゃんは、家に居て。しっかり戸締まりするのよ、分かったね?」

「えっ?う、うん。」

「絶対よ。おばあちゃんもう行くからっ。」

叔母はそう言うと一目散に暗い夜道を駆け抜けて行き、残された私は呆気に取られ放心状態である。

七十代の叔母がその老体を一心不乱に動かさんとするとは、余程な事があったのだろう。

そう分かっていたもの、叔母の勢いに圧倒されたせいか私は言われた通り戸締まりをし、間抜けにも事態の収束を待っていたのだ。

しかしやはりどれ程待てど叔母からの連絡は無く、気付けば一時間が経過していた。

そして漸く己の不甲斐無さに気付いた私は家を出ようと決意したが、そんな矢先再び室内にインターホンが鳴り響いたのである。

恐らく探していた人が見つかり、叔母が知らせに来たのだろうと安堵し玄関へ向かったが、まさかそこに恐怖が待ち受けていると誰が想像出来ただろうか。

静かに何度も動くドアノブが、こんなにも怖いと思った事は無い。

所がそれだけで十分怖いドアノブは更に私を恐怖へおとしいれようと次第に激しさを増していき、鍵の閉まる扉を壊れそうな勢いで揺れ動かし続けたのだ。

当然私と言えば声も出せず立ち尽くし、そんな光景をただ見ているだけだった。

こんな状況で、扉の向こうの人物に平然と声を掛ける事の出来る女性がいるのならば、お目に掛かりたいものである。

そんな馬鹿げた事を考えているのも束の間、

突如ドアノブの動きが止まったかと思えば、扉の向こうでは複数の足音が響いていた。

それは何処か争っている様にも感じ、足音と共に漏れる息遣いは恐怖では無く不気味さに近い感情であった様に思う。

すると不思議な事に恐怖から解き放たれた私の思考は働き始め、気付けば携帯を手に取り叔母へ助けを求めていたのだ。

「おばあちゃん、お願い電話に出て。・・・・・もう、何で出てくれないの。助けてよ。」

電話を切ると、知らぬ間に辺りは静まり返っていた。

皆はホラー映画などで、その先に恐怖が待っていると知りながら確かめに行く様子に、苛立ちを覚えた事があるだろうか。

私はその一人で、行かなければ良いのにと何度思ったか分からないが、実際には恐怖よりも好奇心が勝るのだろう。

そうでなければ、この私が例の如く扉の向こうを知りたいと動き出す筈が無い。

とは言えこれは現実である。

そう簡単にホラー映画のシナリオ通りに事は進まないようで、開けた先には誰もおらず、見渡しても人の気配すら無かった。

すると訪れるは妙な自信と行動力で、突然襲う叔母への心配は私を外へ突き動かし、駆け出していたのだ。

叔母は自分は頑丈だと過信し滅多に健康診断にも行かない為、気付かぬ内に体内は蝕まれ、この全力疾走が原因となって発病するなど無きにしも非ず。

更に先程の不気味な人物がこの辺りを徘徊しているのだとすれば、危険だ。

しかし一体叔母は今何処にいるのか検討もつかず、電話しようにも携帯電話を忘れる始末。

考えなしに飛び出した結果がこれである。

見す見す帰る訳にもいかず、私は叔母の家を目指す事にした。

叔母の家へ向かう途中に通る住宅街では、笑い声やテレビの音が暗い夜道を明るく照らし、外では恐怖が蔓延っていると言うのに呑気なものである。

そうしていくつもの家を通り過ぎ叔母の自宅近くまでやって来ると、窓から光が漏れていた為自宅に戻っているようだと安堵していた。

叔母の家を囲うブロック塀のその先に、密かに恐怖が潜んでいるなど考えもせずに。

「あっ、おばあちゃんいたいた・・・・。どうしたの?」

「あっ、結糸ちゃんこんな所で何してるの。家にいなさいって言ったじゃない。もう解決したから大丈夫。ほら、もう遅いんだから早く帰りなさい。」 

そこには服の所々が泥に塗れ、右手に細く長いロープを持った叔母が半開きの玄関の前に笑みを浮かべ立っていたのだ。

光に照らされた室内の階段には綺麗好きな叔母からは考えられない量の砂が落ちており、それは玄関まで来ると姿を消していた。

その代わりに何かを引きずったであろう地面に残る痕跡は物置まで続くと消え、探偵や警察でも無い私でさえ感じ取れる不穏な空気は、自ずと顔を引き攣らせたのだ。

「・・ならよかった。ははっ、何かと思ったよ。おばあちゃんは大丈夫?誰か探してたみたいだけど見つかったの?」

「えぇ、大丈夫よ。だから早く帰りなさい。夜に彷徨い歩いたりしてまた誰かに襲われでもしたらどうするの。」

「そう・・だよね。ごめん、考え無しだった。・・あの、おばあちゃん。」

「何?」

「あんまり無理しないでね。」

「はいはい、ありがとう。じゃあね、気を付けてよ。」

そう言葉を交わすと私は逃げるようにその場を後にしたが、背後から静かに扉を閉める音がし私は何を思ったのかその場で立ち止まってしまった。

そのまま立ち去ればいいものを私は先の事など考えもしない愚かな子供で、足は再び叔母の家へと向かい始めたのだ。

ブロック塀の影から覗くと確かに玄関に叔母の姿は無く、扉も閉まっている。

そうして私が足音を忍ばせ向かった先は勿論物置だった。

思えば十年以上叔母の家で暮らして来たが、この物置の中に入った事は一度もなく、叔母が出入りしている所も見た事が無い。

その上扉には南京錠で鍵が掛けられており無闇に開ける事など出来ず、無論今も鍵はそのままで密かに戻って来たものの中に入る事は不可能である。

この物置は古く扉の建て付けが悪い為隙間から中を覗く事は出来たが、今は夜で明かりを照らさなければ中など到底見る事など出来ない。

私は半ば諦めその場をただ去ろうとしたその時、頭の中で何かが過った。

この光景に見覚えがあると過去の記憶が訴え掛けるのだ。

「写真。・・・写真で見た。」

「何してるの?」

突如耳に飛び込んだその声は背後から聞こえ、それは紛れもなく叔母の声だ。

声は私の鼓動を早め体を固く縛り付けると、何故なのだと頭の中で何度も繰り返し呟いた。

何故外にいるのか、何故戻った事に気付いたのか。

そして何故椿がこの物置の写真を持っていて、それを私に見せたのか。

これが椿の言う叔母の隠し事で私の苦しみだとすれば、私は目の前に広がる何本もの分かれ道をどう見分けどう選択すれば良いのか。

ただ思う事は、叔母は恐らく何か良からぬ事をしでかしている。

私は自分が苦しまぬ為、叔母に手を差し伸べる事もせず見て見ぬふりをしようと言うのか。

万が一勘違いであったならば、笑い話にでもすれば良いのだ。

しかし仮に隠し事が叔母の悪事であるならば、私が解き明かせば叔母は警察に捕まる可能性が高い。

ならば私は喜んで叔母と共に苦しむ道を選ぶ、そこに後悔など微塵もな無い。

「おばあちゃん・・何か隠してるの?」

「えっ?」

「だって、おかしいよさっきから。それに椿の手紙にも書いてあったの。別に鵜呑みにする訳じゃなかったんだけど、余りにもおばあちゃんの様子が変で・・つい。」

「何て書いてあったの?」

「それはその・・おばあちゃんが隠し事をしていて、何を隠しているのか知ると私は苦しむって。」

「・・・っまたぁ、あなたそんな犯罪者の言葉を信じてるの?」

「でも・・じゃあ、この物置を開けて。違うって言うんなら開けて欲しい。そしたら私も安心だから。」

「物置?何でまた。・・まぁ良いわよ、鍵を持って来るか待ってなさい。」 

叔母が予想以上にあっさりと承諾するので、私は驚き動揺してしまった。

先程とは打って変わり叔母の様子は淡々とし焦る様子は一つもなく、その後実際に鍵を開け中を確認したが、そこはただの物置で特段変わった事は何もなかったのだ。

「結糸ちゃんが物置を見て安心するならいいけど、何で物置なの?」

「いや、分からないけど何となく・・ちょっと。でも安心したっ。やっぱり椿がいい加減な事言ってただけなのかも。」

「そうよ、もう手紙のやり取りなんてやめたら?またこんな事に振り回されてたら、身がもたないわよ。」

「うん、そうだね。椿からの手紙にも、もう返事するなって書いてあったし。所でついでだけど誰を探してたの?」

「あぁ、違うのよ。知り合いの犬が逃げたみたいで、見かけてないか尋ねて回ってたみたいだから。」

「ははっ、なんだぁ。それでおばあちゃんの家の中が砂だらけだったんだ。家で保護してたんだねっ。」

「・・・えぇそうよ、そうなの。ほらっ、もう遅いから帰った帰った。」

「うん、おばあちゃんも大変だったのに遅くまでごめんね。じゃあまたねっ。」

騒がしい夜の嵐が過ぎ去り、ひと段落して思うのは椿の事だった。

叔母の疑いが晴れ、考えれば確かに椿の言葉に惑わされ悩み、そして苦しんだ事には違いなく一層椿の考える事が分からなくなった。

当初からただ椿は私の心を乱し、それを想像し楽しんでいただけなのだろう。

そしてまんまと掌で踊らされ、期待を裏切らない自身の行動に苛立ちすら覚える。

手紙には椿と私は面識があると綴ってあったが、果たしてそれも真実か疑わしいものだ。

しかし確かに椿は手紙に私に対し恨みのような感情を露わにしていたが、こんな事になった今もどこか椿の事を信じ続けている自分がいるも事もまた事実。

そうでなければ恨んでいる相手に対し『どうぞお元気で』などと書くものか。

私は読めば傷つくと分かっていながらも、疲れた体を布団に沈めると椿の真意を知りたく再び手紙に目を通した。

すると思いがけずある事に気付いたのだ。

それは手紙の内容とは違い、まるでこの手紙の上で何か書いていた様な筆圧の跡だった。

目を凝らしてはみたもの、実際に手紙に書かれている文字と重なり全ては読み取れなかったが、唯一確認出来た三つの言葉は私に衝撃を与える事となった。

その言葉とは『母』『見つけた』『病院では』だ。

母とは一体誰の母なのか。

まず第一に浮かんだのは私の母だった。

何故ならば私の母は病院に入院しており、三つの言葉がどう避けようとも当てはまってしまう。

先程までは椿の手紙に対し疑心暗鬼だったはずが、この密かに訴え掛ける見えない文字は妙に信憑性を感じさせ不安が湧き上がってくるようだ。

そして不安は加速し私は突拍子も無い仮説を立てると強引にもそれを事実かのように盲信し始めたのだ。

椿は叔母だけでなく母さえも巻き込み私の心を乱し狂わせようとしているのでは無いかと。

椿がどんな手を使い母の事を調べ出したのかなど私には毛頭無意味な詮索であり、母を調べどうしようと言うのかとそればかりだ。

しかし私には盲点があった。

それは母と手紙でしか連絡が取れない事。

そして接触仕様にも叔母に禁じられており、何より私には母の顔すら思い出せない事だ。

あれは六歳の時だった。

目覚めるとそこは病室で、見知らぬ女性が私の横に座り涙を流していたのである。

彼女は私の叔母だと名乗ったが、身に覚えも無く半ば半信半疑で受け入れるしか無かった。

聞くと私は事故に遭いこの病院に運ばれたそうで、更にその事故によって事故以前の記憶の殆どを無くしてしまっていると叔母は言うのだ。

確かに私は記憶を思い起こそうとするも、霧がかかったように何も思い出せず、分かる事と言えば自分の名前だけだった。

叔母は熱心に毎日見舞いに来るや否やアルバムや思い出の品を持参しては過去の話を私に聞かせ、私はそれを他人事のように聞く毎日。

そうして私は当初から過去の記憶を取り戻したいなどとは考えもせず、時間を掛けて人から得る情報により自分という人間を作り上げてきたのだ。

高々六年程度の記憶など、私には捨てても構わない代物だった。

そんな感情の乏しい私を周囲は毛嫌いしたが、とんだ物好きもいたようで私はそんな人々に助けられここまでの人間になる事が出来たのだ。

当時は厄介だと思ってはいたもの、今思えば感謝すべき事だろう。

なので私は事故以降の人間しか知らず母の存在を知ってはいたが顔などもっての外で、叔母も何故か両親の話は避けて通り写真を見せてきた事すらなく、当時私も疑問はあれど無理に話を聞く事も特段無かった。

そんな経緯があるが故に、今になり叔母に母の事を尋ねれば間違いなく不審に思うだろう。

今日の事もあるので尚更である。

となると残る手段は自分自身のみで、椿に調べる事が出来たのならば私にも出来るはずだと鼓舞し、手始めに携帯を手に取り付近の病院を調べる事にした。

私の知る唯一の情報は母が精神科病院に入院しているという事のみで、重くのしかかる瞼を擦りながら随分と長い時間調べていたが、疲れはピークを迎え気付くと眠ってしまい朝になっていた。

昨晩は特別疲れていたのだろう。

体は重く起き上がる気力もないが今日は調べた病院を巡らなければならない。

何とか手だけは動かせ携帯を取ると時刻は午前十時で、調べた六件の病院を自分の足で回るとすればそろそろ準備しなければ。

そう自分を奮い立たせ体を起こすと、視界の端に黒い小さな物体が映り込んだ気がし、私は霞む目を凝らした。

するとそれは不快感と言う名が相応しい生き物で、寝起きには最も見たく無い生き物と言うランキングがあるとすれば恐らく堂々の第一位だろう。

「何してるの。ここに来ても食べ物は無いからね。」

声を掛けても微動だにしないとは奴も中々肝が据わっているようだ。

こんなのろまで間抜けな女が自分に手出しなど出来るはずもないと有頂天にも見えるその姿に私は苛立ちを覚え、疲れている事など忘れ静かに立ち上がった。

こんな小さな生き物に私の力量を測られてたまるものかと、自身の文芸誌を固く握りしめゆっくり奴との距離を縮め、これ見よがしな表情を向けてやったが又しても微動だにしない。

どうやら奴は私の力を見誤ったらしい。

私は雑誌を大きく振りかぶり自分の持つ最大の力で奴にそれを振りかざしたのだ。

するとどういう事かそこにいたはずの奴はいつの間にか別の場所に移動しており、物の見事にすり抜けられてしまった。

しかし私は悔しくなど無い。

元よりこんな事をしている場合ではないのだから。

逃げたくば逃げればいいのだ。

帰り道に薬局に立ち寄り文明の力を見せてやるさ。

そうして私は我に返り奴の気配を感じながらも身支度を済ませ、急ぎ家を後にすると外は何故だかいつもより人の姿が多く思え、皆同じ同じような怯えた顔を浮かべていたのだ。

周囲の話し声に耳を傾けると、どうやら今朝この近辺で数匹の動物の死骸が見つかり、どれも皆心臓が抉り取られていたと言う。

動物を痛ぶった上に心臓を抉るなど、小さなゴキブリとの戦さに比べると随分たちの悪い話だ。

思えば昨晩も叔母が知人の犬を探していたようだが、一体誰がどんな目的でこんな残酷な事をしでかすと言うのか。

近頃感じるこの近辺の不穏な空気は、犯罪行為を呼び寄せ促しているようにも感じ、私は密かに不吉な流れを感じ取っていた。

そもそも街灯が少な過ぎるのだ。

街灯が少なく、暗い場所では犯罪件数が極めて多いと聞いた事がある。

私はこれ以上の悪行が起きない事を願い、足を止める事なく歩き続けた。

病院に到着し先程の件は一旦忘れ、調査に本腰を据え一軒目の病院の中へと入って行った。

しかし私の熱意とは裏腹に調査は難航不落である。

私は母の娘で聞けば教えて貰えるとあなどっていたが、今は個人情報に対し厳しい世の中で、そう容易くは教えてもらう事も出来ず、それとなくついた嘘も余計に怪しさを増し気付けば訪ねた五軒の病院では何も情報を得る事は出来なかった。

そして次が私の調べた最後の病院だ。

しかし結果は歴然、前の五軒同様に情報など全く得ることが出来ず、私は渋々病院を出ようと出入り口へと向かっていた。

「・・・陽ちゃん?」

「結糸ちゃん・・何でこんな所に・・。」

「あっ、待って。逃げないで陽ちゃんっ。」

「やめて下さいっ。やめて、もう私と関わらないで下さい。」

「ごめんね、そうだよね。でも分からないの。何でこんな事になっちゃったのか・・。もう友達には戻れないの?」

「・・・。」

「勿論陽ちゃんを傷付けたくなんてないよ。でも私、こんなに居心地がいいって思える友達初めてだったから・・とゆうか、友達になりたいって思える人も初めてで。またあの時みたいに、何でもない会話をして笑い合いたいなって。」

「・・私あれからまたここに通院してるんです。前も通ってたんだけど、良くなったから暫く来ていなかったんです。でもまた・・思い出して、それが消えなくて。」

「そんなに辛い事、忘れたいよね。」

「えぇ、勿論です。でも・・でも私も本当は、結糸ちゃんとまた会って話したかったです。会って小説の話をして笑って・・。」

「・・・でも、出来ない?」

「・・・・はい。小説、楽しみに見てますから。さようならっ。」

何も出来ないもどかしさと苦しみは涙となって溢れ、頬をつたい地面に叩きつけられた。

私が必死にそれを望めば、何か変えられると思い違いしていたのだろうが、人間関係とは儚い物だ。

自己の欲だけでは築き上げる事など出来ず、時間を掛けて築き上げた物でさえ小さな傷が入ろうものならいとも容易く崩れ落ちる。

では崩れる前に傷を治す為にはどうすれば良いのか、互いに何が出来ると言うのか。

考えては見たもの、結論はここにしか辿りつかない。

傷を治す事など決して出来やしない。

陽ちゃんも、そして椿もきっとそうだ。

過去の傷が心の奥で痛み続け、治し方も分からず一人苦しんでいる。

私は彼らを助けたいと踏み込んではみたもの、実際には治し方や救い方など知りもせず、ただ辛い過去を甦らせていただけなのだ。

そうして彼らは家にいる黒い奴のように自身が傷付けられまいと、逃げてゆく。

私がしている事は今朝のそれと同じように思えてしまった。

病院の外のベンチに座り暫く考えを巡らせていた為、帰る頃には日はとうに暮れ落胆する私を包む暗闇は私の心そのもの。

こんな時は決まっていつも叔母と話をした。

気持ちが落ち込む時叔母と話をすると不思議と力が湧き、気にするような事ではなかったと前向きになれるのだ。

叔母のその楽観的な性格は愛すべき所である。

そして今日も又、足は意図せず叔母の元へと向かい、光の灯る家は早々に私に安心を与えた。

玄関の扉に手をやると鍵は開いていて、念の為インターホンを鳴らすか否か迷ったが、元は私の家だったと言っても過言ではない。

叔母が私の一人暮らしをしている家に訪ねてくるのとは訳が違い、私にとっては実家であり、いつだって自由に入れる家なのだ。

そう半ば強引に家の中に入ると大抵いつもリビングにいるはずが姿はなく、時間も時間なのでお風呂かもしれないと、叔母が出で来るまで待つ事にした。

しかし待てど叔母は出て来ず、時間を潰す為かつて私の部屋だったニ階の一室を覗いてみる事にしたのだ。

思えば叔母の家を出て以来ニ階に行くのは初めてかもしれない。

小学生の頃はよく足音がうるさいと怒られたものだ。

中学生に上がると音楽がうるさいと言われ、高校生になると音がしないから寝てると思ったと言われた事を思い出し思わず笑みが溢れた。

私は高校から帰ると必ず自分の部屋に行き数時間小説を読み腹を空かせると、一階に降りご飯を食べる事が習慣だった。

高校は中学と違い知らない人間が多く集まる為、皆冷淡な私など好き好むはずもなく、初めは周囲の明るさに合わせる努力をしていた。

しかしそれも限界を迎えると一人誰にも取り繕う必要の無い時間が欲しく図書室へとよく逃げ込んだものだ。

そこで時間を持て余していた私は目の前に並ぶ小説に手を伸ばした。

それが今や職業にまでなってしまうとはあの頃の自分は想像もしていなかっただろう。

ニ階の部屋に入るとかつて寝る時間も惜しまず読み続けた小説が当時と変わらぬ状態のままそこに並んでいて、叔母の愛情が十分過ぎるほど詰まっていた。

今叔母に勝手に入った所を見つかればこの潤んだ目をどう説明したものか。 

するとそんな思い出と愛情に浸っていると魔を刺すように隣の部屋から物音がし、私の意識は一挙に物音へと移った。

それもその筈で、私は今朝のゴキブリをまだ野放しにしているのだ。

私の家はゴキブリで済んだが叔母の家は古い為、この音は鼠が潜んでいるに違いない。

しかしやはり今朝の事件の事もあり、無闇矢鱈に葬ろうとする事は非道かもしれない。

そう思い悩んでた時ふと帰りに薬局へ立ち寄る事を忘れていたと思い出したが、いずれにせよまずは事実確認が先で、殺さずとも捕えて逃せば良いのだと、私は恐る恐る隣の部屋の扉の前まで移動すると、静かにその扉を開いた。

「うぅっ。・・・うぅうっ、うぅ。」

「・・・・えっ?」

理解出来ない事が目の前で起きた時、人はどんな行動に出るのだろうか。

私の場合は、叫ぶ事もその場を飛び出す事もなく、ただ硬直した。

何故叔母の家の一室に両手両足を縄で縛られ、口に布を詰められた人間が横たわっているのか。

咄嗟に理解出来る者などいないだろう。

驚きのあまり停止した思考は時間と共に驚きから焦りに変わり恐怖となる。

「・・・な、にこれ。何なのどうなってるのっ。待って、今縄を・・。」

「結糸ちゃん・・・・何でここに。」

「おばあちゃんっ、これは何?どういう事なの。この人誰、何でこんな事してるの、答えてよっ。」

「違うのよ結糸ちゃんっ、お母さんは危険なの、だから私が・・。」

「お母さん・・?お母さんなの?何でおかしいよ、訳がわからない。おばあちゃん・・何、して・・。早く・・・早く助けてあげなくちゃ、お母さん、お母さんっ。」

「やめなさいっ、やめて結糸ちゃんっ。」

「何で止めるのっ。」

訳も分からずわめき涙が溢れ、母の余りにも痛々しい姿と叔母の言葉は斧で心臓を両断されたように酷い苦しみを私に与えた。

叔母が何故こんな事をしたのか、何故母が危険なのか、そんな事はどうでも良い。

今はただ、目の前の母を助けたかった。

しかし縄を解こうとしても硬く縛られ、周囲に縄を切れるような物は何も無い。

私は必死だった。

窓ガラスに部屋にあった椅子を叩きつけると落ちた破片で縄を切った。

手や床は血塗れで、私はそれでも切る事をやめず、叔母は以降止める事もなく背後で泣き崩れていたように思う。

漸く手足の縄を切り終わると、母は唸りながら突然私に必死でしがみ付いたのだ。

「大丈夫、大丈夫だからっ。もう、大丈夫。」

「ゔぅ・・・ゔぅうう、はぁ・・はぁっ。」

「待って、口の布をとるからっ。」

「・・・・・やぁっと見つけたぁあ。」

「へっ?」

「ちょっと、結糸ちゃんから離れなさいっ。この・・ケダモノっ。」

人生に後悔など無い人間はいない。

皆沢山の後悔を抱え、それを背負い生きて行かねばならないのだ。

私にも後悔は幾つもあるが、これが今までで最大の後悔。

最後におばあちゃんに、ありがとうと大好きをを伝えたかった。

そして抱きしめ、抱きしめ返して欲しかった。

間に合わないと分かっていても手を伸ばせば良かったのだ。

しかしもうそれは叶う事は無く、私はただ動かぬ叔母の足元にすがり付く事しか出来無い。

何て儚い、叔母と私の共に生きた人生の結末だろうか。

「やぁめてぇ、この悪魔ぁっ。」

「何するのっ、ちょっ、ぎゃあぁっ・・。」

「おばあちゃん危ないっ、後ろっ。」

私から母を引き離そうとした叔母は、暴れる母の勢いに負け態勢を崩した。

それはほんの一瞬の事だった。

私が手を伸ばす時間もなど無いほどに。

叔母はそのまま背後から窓に倒れ掛かると、鋭いガラスの残骸は叔母の胴体を何ヶ所も貫き、その姿は目を背けたくなる程無惨で、母はそれを目にし後退りした。

私は血の滴る叔母の足元まで擦り寄るとただひたすらに泣いた。

泣き叫び、泣き叫び、どれだけ泣き叫んでも涙が枯れる事は無く、叔母の死はガラスで傷付いた手や体よりも遥かに深い傷を私の心に残す事となった。

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