第3話 懸隔

 生きていれば自ずと避ける事の出来ない苛立ちと言う感情の一種は、大抵思い返せば取るに足らない事の方が多い。

ならば今私に押し寄せる苛立ちは、馬鹿馬鹿しさの上位であろう。

皿の裏に貼られているバーコードのシールに何故こんなにも粘着性の高い物を使用するのか理解し難い。

剥がさなくとも使用出来る事には違いないが、大抵の人間が剥がすと分かっているはずだ。

それともこのシールには剥がしてはいけないような重要な記載があるとでも言うのか。

そうでなければこれは客が困惑する事を想定し、楽しんでいるとしか思えない。

何と趣味の悪い奴らだ。

「何してるの?」

「うわぁっ。何、びっくりしたぁ。」

「開いてたから勝手に入っちゃったわよ。きちんと戸締まりしないと。」

「インターホンくらい鳴らしてよぉ。・・どうかしたの?」

「・・・特には無いんだけど、ちょっと様子を見にね。それ、お酢に漬けたら取れるわよ。」

「料理しない一人暮らしの家にお酢なんてある訳無いでしょ。」

「おばあちゃんに貸してみなさい、取ってあげるから。今はシールが剥がしやすいようになってるかと思ったけど・・お皿ならおばあちゃんがあげた物が沢山あったでしょう?」

「ありがとう。いや、ちょっと昨日割っちゃって。・・・・・あのぉ、所で最近何か困ったりしてない?」

「何も無いけど?何で?」

「いや、私が出て行って色々困る事あったりするかなぁって。ほら、電球とか屋根裏の掃除とか水漏れしてるとか。」

「何なのそれ・・ほら、取れたよ。」

「おぉ、流石。」

「じゃあもう行くね。」

「え、もう?」

「結糸ちゃんの元気そうな顔が見れたらもう用は無いから。」

「そう、分かった。でも後で水やりに行くから・・またね。」

一晩考えたが、私には間違いだとしか思えなかった。

一瞬頭をぎる、おばあちゃんが何か悪い事をしているのかも知れないと言う推測は考えれば考える程掻き消され、あの優しく周囲の人間を大事にするおばあちゃんが、悪事など働く姿などまるで想像など出来ない。

少々気難しい所を差し引いてもそんな事はあり得ないのだ。

しかしあのおかしな雰囲気と袖のシミをどう理由付ければ良いのか未だ検討も付かない。

あれを血痕だと想像する私は、きっと想像力を鍛えようとするばかりかそんな発想をしてしまうのだろう。

今日突然ここに来たのは、昨日私が挙動不審だったからで、決してやましい事があるのでは無い。

勿論何がこの乱れる感情をなだめてくれるかは分かっているが、真実を知るかもしれないと思うと踏み出せずにいた。

私には親しい友人などどれ程見栄を張っても一人もいない為、いざと言う時相談する相手がいないのは悔やまれる。

その上こんな相談、いくら友人がいたとしても話せる訳が無いだろう。

こんな事ならば、もう少し掻い摘んで椿への手紙に書いておけば良かったかも知れない。

今から刑務所の前で待ち伏せし、郵便配達員から手紙を奪って逃走するなんて事は不可能で、既に刑務所内にあるとすれば無意味だ。

かと言って二通続けて出すのは流石に気味が悪く、そんな勇気は残念ながら持ち合わせてはいない。

だがしかし、いつ来るか分からない返事を永遠待っていては、最早相談する意味さえ無いと言うものだ。

となると解決する方法は意図も簡単で、考え無いようにしようと投げ出せば、一瞬にして気持ちが楽になる事を私は知っている。

諦めずに頑張った事で得られる物は、投げ出し簡単に得られる物とは比べものにならないくらいに価値があるのだと分かっていても、この方法はどうしてもやめられ無い。

人間とは弱い生き物で、いつだって愚かにも楽な道を選んでしまうのだ。

無論私も見事にその仲間入りである。

ならば逃げる道を選んだ私にはもうこの件について考える事は無い。

そう都合良く叔母の事も心の奥底に仕舞い込むと、次第に頭と心は余裕を取り戻し、今日も又椿の事を考えていた。

椿の働いていた職場、椿を知る人間、今日はどんな椿を知ることが出来るのかその事で頭が一杯だ。

椿の闇の部分を知りたいと思う反面、椿を信頼し好きだと思う者がいて欲しいと心の何処かで思っている。

そんな事を考えながら身支度を進めていると、ふと我に帰り自分の行動に驚愕してしまった。

何故だか不思議な事に私は熱心に化粧をし、家に一着しか無いスカートを履いているではないか。

こんなにも気合いを入れ、どんな立場で椿の職場へ出向こうとしていたのかと思うと末恐ろしい。

『どうも椿の嫁の結糸です。』と言葉が出てしまうのではと言わんばかりの私の雰囲気に、即座にいつものジーンズへ履き替える様は何とも間抜けである。

色褪せたジーンズと襟のよれたTシャツにスニーカー、これがいつもの私だ。

家を出て考えるは、中に入れ貰う為の言い訳である。

もしや先程の装いで嫁と名乗った方が難なく中を見学出来るのではないだろうかと後悔しても時既に遅し、私はもう椿の働いた職場の前にいるのだ。

嫁だと言う言い訳は使えそうも無い。

そうしてかれこれ入口の前を徘徊する事三十分、私は未だ中に入る為の言い訳を模索中である。

「初めまして、椿の知り合いですがロッカーの荷物を取ってくるように頼まれまして・・。」

これでは椿がとんでもなく酷い奴に聞こえてしまう、他を探そう。

「初めまして、椿さんは今いらっしゃいますか?急いで伝えたい事があって・・あ、じゃあ控え室にメモを残してもいいですか?」

これは受け取りようによってはかなり怖い上に、メモだけ受け取られる可能性がある。

「初めまして、椿さんの双子の妹でお兄ちゃん居ますか?」

少々理由作りに楽しくなっている自分がいるが、これだと職場に刑務所にいる事を把握されているとしたら妹と言う立場は怪しすぎる。

「初めまして、椿さん居ますかぁ?最近私の所に顔を出さなくてぇ、他の女の所かしらぁ。」

「あ、どうも初めまして。・・・椿ならいませんけど。」

拝啓椿様、たった今より貴方は何股も掛ける最低な男へと成り下がりました。

次の手紙の書き出しはこれで決まりである。

元はと言えばこの男のタイミングが悪さが事の発端で、所詮当初から私の独り言を聞いていて、ここぞと言う時に出て来たに違いない。

世の中悪趣味な人間ばかりが蔓延はびこっている様だ。

「二階にいたら急に外から椿の知り合いでロッカーの荷物がって聞こえたから降りて来たんです。」

「・・え、あぁそうなんですよ。ははっ、良かったです、貴方のような優しい人がいて。」

前言撤回だ、この人は気遣いの出来る善人である。

その後控え室まで案内してくれたが、その間も居心地が悪くならぬ様に話し続けてくれ、更には椿の事を褒めてくれる正に好青年だ。

聞くと椿は真面目で仕事を丁寧にこなし、上司からの信頼も厚かったと聞き、それがまるで自分の事を褒められたように嬉しく、手紙の書き出しはどう考えてもこちらの方が良い。

好青年の彼に連れられやって来た少々むさ苦しい控え室には誰もおらず、名前の貼られているロッカーを見ると確かにそこには椿の名があった。

椿はここにいて、この扉を日々開いたていたのだと考えるだけで、心が弾んだ事は手紙には書くまい。

「ここが椿のロッカーです。でも実は・・ここは開けられないんです。」

「え、いや私決して怪しい者では・・。」

「違うんです。鍵が掛かっていて開けられないんです。本人が鍵を持っているようで、うちの者も皆んな困ってまして。鍵を預かったりしていますか?」

「鍵?いやそんな物は・・・。待って下さい、鍵ってこんな形ですか?」

「これですっ、うわぁ助かるなぁ。預かっていたんですね。」

得体の知れない鍵が何故私の自宅に届き、何故この鍵が椿の職場にあるロッカーの鍵なのか、今はそんな事を考えないようにした。

ただ目の前のロッカーが開くかも知れないと、私は半信半疑ながらも鍵を鍵穴へと差したのだ。

すると中にはハンガーに綺麗に掛けられた制服と雑に潰された煙草の空箱が数個、そして私物であろう帽子があり、数ヶ月の間閉ざされたロッカーの扉がその内をあらわにした。

そして特に違和感もないロッカーの中に、一際違和感を放つ物が扉内側に磁石で貼られているのを目にした私と彼は、恐らく同じ事を考えていただろう。

それは二枚の写真で、一枚は何処かの景色の様だが暗い為よく見えず、目立った物と言えば字は読み取れないが恐らく名号石みょうごいしのような物だ。

もう一枚は余りにも被写体との距離が近く、何なのか全く不明で、気味が悪いの一言である。

唯一左寄りに縦一本の太く黒い線が入っている事だけは分かるが、これだけでは何なのか検討も付かず、異様な雰囲気が流れる控え室内では、頭を整理出来そうも無い。

「あのぉ、じゃあこれ持ち帰っても大丈夫ですか?」

「勿論だよ、よろしく言っといてね。」

「はい、あの・・・。」

「あっれー?先輩その女の人誰ですかぁ?まさか彼女とか?」

「あ、おつかれ。違うよ、椿の知人でロッカーの荷物を取りに来てくれたんだ。」

「・・あぁ、椿ね。そぉいやそんな奴いたっけ?お姉さん最近あいつどうしてんの?まさか死んだとか?ははっ。」

「椿さんは別に・・死んでいません。」

「そうだよ、お前ら失礼だぞ。こいつらちょっと時々言い方がキツい所があって、ごめんね。ちょっと外にでも行こうか。」

「じゃあねぇ、もう二度と来るんじゃねえぞっ。」

「・・・。」

大抵あの手の人間は相手に引け目や劣等感を感じているのだと決まっている。

つまり彼らは私に害を加えたつもりで、実際に害を負っているのは自分自身だと言う事だ。

大方帰宅し一人になった際、あんな奴大した人間じゃ無いと劣等感の塊を放出させているに違いない。

私には寧ろ椿がより誇らしく思えた程だ。

「こっちに来てごらん。ここは喫煙所なんだけど、椿はよくここで一人座り込んで煙草を吸っていたよ。」

「そうなんですね。」

「いつも帽子を深く被っていたから表情とかはあんまり分からない事が多かったんだけど、一度だけ業務連絡以外で椿が声を発するのを聞いた事があるんだ。それが確かここだよ。」

「たった一度だけですか?」

「あぁ、半年もいたのにおかしな話だよね。彼は人を周りに近付けなかったから、さっきの様な連中に目の敵にされてね。」

「それで何と言ってました?」

「えっと・・確か、元気にしてるかなぁって言ってた気がするけど。」

「元気にしてるかなぁ・・・。」

「うん、間違いなくそうだよ。その時も、しゃがみ込んで帽子を被ってたから、俺に話しかけてたのかも分からなかったけど。」

隣に立つこの優しい彼からもきっと私がおかしく見えただろう。

それでも彼がどんな景色を見て日々ここで息抜きをしていたのか、私はどうしても知りたくなったのだ。

私は唐突に椿のいつもいた場所にしゃがみ彼の帽子を深く被ると、そのまま空を見上げた。

帽子のつばが邪魔をし殆ど空など見えはしなかったが、そこから見える景色は何故か胸を締め付け、何を思ってこの空を見たいなのか考えずにはいられない。

悲しみに打ちひしがれ誰にも知られまいと帽子を深く被り必死に隠れ涙する、そんな情景が私の頭には浮かんでくるのだ。

初めて会ったあの夜、椿の両親について尋ねた時見せた表情に、無事を案じているのは両親だろうと容易に想像出来る。

私は身勝手にも彼を傷付けていたのだと、無性に溢れ出る涙を止める事が出来なかった。

運良く帽子を被っている為、恐らく横に立つ優しい彼には涙する私は見えていないだろう。

見えていないはずだったが、彼は私が立ち上がるまで一言も声を掛ける事はなかった。

「すいません、ちょっと考え事をしていて・・。お仕事の邪魔でしょうし、そろそろ帰ります。」

「分かった、歩いて帰るの?気を付けてね。」

「はい、本当に色々ありがとうございました。お邪魔しました。」

「うん・・・また聞きたい事があったらいつでも来ていいからねっ。」

「はい、さようならっ。」

「・・・・・・。」

「お、先輩。あの女帰ったんですか?」

「あぁ、もう行った。・・・本当あの不細工な女、椿とお似合いだよ。厚化粧で挙動不審だし気味が悪い。」

「あははっ、さすが先輩俳優志望だけあって善人に見えましたよ。」

「あいつ初め入口の前でぶつぶつ言ってて、最後には椿が自分の所に顔出さないとか他の女の所に行ってるとか言っててよぉ。意味不明で本当気持ち悪いし、あの椿の事気にする奴がいるとか虫唾が走るわ。」

「本当、先輩が一番怖いっすね。」

「鍵を持っている事に気付いた途端に目を輝かせてさ。喜んじゃって馬鹿らしい。」

「中の物持ち帰るなんてまぢでストーカーかもしれないですね。そう言えばあの後喫煙所で何してたんですか?」

「んぁ?泣きじゃくる阿呆な女を高みの見物してたって所かな。」

帰り道、私はこの二枚の写真を調べれば彼をまた知る事が出来るだろうと、頭が一杯だった。

ただ気掛かりなのは、彼がそれを望んでいるかどうかである。

助けや理解を必要としていないにも関わらず、踏み込まれ調べられる事は不快極まりない筈だ。

一体どこまで彼に近付いていいのだろうと迷いが生じ、私は立ち止まっていた。

「・・あ、おばあちゃんごめんね。今ちょっと話せるかな。」

「どうかしたの?」

「自分の行動とか選択が正しいのか迷った事とかある?」

「そうねぇ、ないわね。」

「えっ、無いの?」

「勿論よ。結果も後悔も行動の後についてくる物なんだから今は迷わず思うように行動する、っておばあちゃんは思うけど。」

「成程ねぇ。・・・分かった、ありがとっ。」

「頑張りなさい。結糸ちゃんは間違ってないから。」

叔母はいつだって叔母だった。

親の様に叱る事も甘やかす事もなく、ただ後ろから支えてくれる存在だ。

ほんの少し会話をしただけで、私は又もや迷いを捨てる事が出来ているとは、末恐ろしい力である。

それからと言うもの、来る日も来る日も図書館で本を読み漁り、インターネットでいくつもある石碑を虱潰しらみつぶしに調べては見たが、これと言って成果は得られなかった。

そもそも発端は、椿のロッカーの鍵が何故自宅に届いたのかと言う事だ。

確かに鍵の入っていた包みには宛名や差出人の名前や住所の記載は無かった。

だとすれば私の自宅を知る者が意図的に直接包み届けたとしか考えられない。

運んで来たのは確か無愛想な若い男だった。

その瞬間、言わずもがな私は己の鈍感さにようやく気付いたのである。

考えれば誰もが気付く事を何故私は見落としていたのだろうか。

配達人の男は深く帽子を被っていた。

記憶を辿ると、この椿の帽子こそ配達人が被っていた帽子のように思える。

身勝手にそう記憶を塗り替えようとしているだけなのか、それとも記憶が正しいのか。

どちらにせよ、そうだとすれば椿のロッカーの鍵が届いた事も辻褄が合う。

では、何故見ず知らずの私なのか。

無差別殺人だと思っていたものは空想の産物で、元より私を標的にしていた可能性が高いのではないだろうか。

一つ問題が解決するとまた直ぐに問題が浮かび上がり、一向に解決の糸口が見つけ出せず思考はパンク寸前だった。

そんな状態で日々原稿を書きながら空き時間に図書館へ通う生活を続け、気付けば二週間もの時間が経過したが、私は完全に行き詰まったままである。

誰かへ相談したくとも、叔母に言えば激怒される事は目に見えており、成す術の無い私の足は自ずと椿の職場へ向かっていた。

私の知る限り、彼を知る人物に心当たりがある言えばここしか無い。

勿論前回の様な失敗はもう沢山だと真っ直ぐ喫煙所へ向かうと、そこには一人の従業員が立っていた。

「またあんたかよ。先輩はいないぜ。今度は先輩のストーカーかぁ?」

「椿の事を聞きたいんです。正直に申し上げます、私は椿に殺されかけた被害者です。」

「・・・は?まじかよ。あんただったのか。それで、復讐する為に調べ回ってるって?」

「いいえ、彼を助けたいんです。ニュースご覧になったんですよね。私はこの付近に住んでいます。当時彼はこの辺りに配達していたんですか?」

「んー・・いや、この辺りは俺だよ。あいつは仕事が出来たからもっと繁華街を担当していたはずだけど。」

「そうですか・・。」

「それより先輩から聞いて実は気になってたんだけど、この間の写真見せて。」

「え?は、はい。どうぞ。」

「へー、これか。この縦線のある写真気味悪いな。」

「どこですか?」

「この太い縦線の所、ただの黒い線に見えるけどよく見たら目が見えねぇか?ここ、ほら。」

見ると確かにそこには小さく片目の様な物があり、不気味さのあまりに全身の毛が逆立った。

恐怖とは人を狂わせ現実から目を逸らさんと操作し、息を潜める。

そして目を背けた後も、またいつぞや人を恐怖におとしいれようと、その時をずっと待っているのだ。

それは写真から漂う恐怖もまた然り。

しかし私はそうとも知らず、これは何かの間違いで正気を取り戻そうと目の前の恐怖を否定するのである。

「でも何かそれに似た物が写ってて、そう見えるだけかも知れないし・・・。」

「ま、まぁそうだと決まったわけじゃないしな。決めつけると他の視点で見れなくなるから。」

「そうですよ。ほら、こっちの写真も見て下さい。何か知ってる事はないですか?・・・あっ。」

「なんか落ちたけど・・へぇ、図書館なんて行くんだ。」

「はい、ずっとこの写真の石について調べてまして。でも、何も分からないままなんです。もうどうしたらいいか・・。」

「それなら隣町に大きな図書館があるからそこに行ってみなよ。珍しい本も色々あるらしいぞ。」

「えっ、本当ですかっ、行ってみます。今日はありがとうございました。お仕事頑張って下さい、それじゃあっ。」

「おう、気をつけな。・・おいっ。」

「はい?」

「人なんて側から見た部分と中身なんて皆んな違うもんだ。あんまり人を一面だけで見るんじゃねぇぞっ。後悔するからなっ。」

「確かにっ、今分かりました。ありがとうっ。」

「・・今?」

不安を抱え再びここへと足を運んだが、得られた物は遥かに多く驚きの連続だった。

写真は驚きとは違うが、意地悪だと思っていた人が案外いい人間だった事や彼から図書館の情報が出てきた事は予想外の出来事である。

その日から暫くは編集者からの叱咤激励の元原稿の執筆に追われ、行きたくとも図書館には行けず終いで、気付けば梅雨も明け暑い夏が訪れた。

思えば未だ椿からの手紙は届く事は無く、ポストを確認する回数も徐々に減り半ば諦め始めている。

もう来ないのではないかと思う毎日の中、やっとの思いで原稿を完成させると、私はその日のうちに隣町の図書館へと大急ぎだ。

そしてバスを乗り継ぎ漸く到着した私は、想像を遥かに超える大きさの図書館に言葉を失い立ち尽くしているなど、こんな自分も想像などしていなかった。

こんなにも迫力があり威厳を放つ図書館には、入る事さえ躊躇してしまう。

周囲を見渡すと立ち止まっているのは私だけで、まるで私など見えていないかの様に人々は足速に横を通り過ぎて行く。

私も負けじと意を決し、周囲に紛れるように足並みを合わせ歩き出したが、入り口まで来るとそんな負けん気も無力である。

一層迫力を増す図書館に萎縮してしまい、帰ろうかとも思っていた所、優しい人間とは本当に存在するもので、一人の女性が私に声を掛けたのだ。

「分かります、この図書館凄い迫力ですよね。良かったら一緒に入りますか?」

見た目は私と同じ位の年代で眼鏡を掛け、如何にも生真面目そうな女の子である。

そして雰囲気はもの凄く穏やかで、隣にいると何処か心地良かった。

「ここにはどうしていらっしゃったんですか?」

「えーと、ちょっと調べ物を・・。」

「そうなんですか、ここは良いですよ。慣れると迫力も気にならなくなりますし、何より本の数が凄いですから。」 

「そうなんですね。貴方は何を?」

「私、小説が好きなんです。そんな見た目してるでしょ?ふふっ、ここに来れば飽きる程本が読めるので。」

「本当ですかっ。そっか、小説好きなんですね、私も大好きですっ。」

「同じだっ。良かったら一緒の席に座りませんか?本を読み出すと集中して、いないも同然くらいに喋らないですけど。どうかな?」

「もちろんっ。その前に色々教えてくれます?」

「はい、それじゃあ行きましょうっ。」

彼女は双葉ふたばようと言う名で、親切にも利用者カード作りや館内の配置など様々な事を教えてくれる優しい人だ。

そして何よりも可愛い。

同性の私が照れてしまうほど言葉や仕草が愛らしく、男女問わず恐らく彼女に落ちない者はいないだろう。

私は図々しくも彼女を陽ちゃんと呼び、陽ちゃんは私を結糸ちゃんと呼ぶのだ。

これが鼻の下を伸ばさない訳もなく、調子に乗った私は携帯の番号まで聞き出し、これではまるでナンパである。

「え、作家さんなんですか?凄いっ、もっと早く言ってくださいよっ。」

「いやぁ、そんな言うほど名が知れている訳でもありませんので、ちょっと恥ずかしくて・・つい。」

「何言ってるんですか、十分凄いですよっ。何か今は執筆されてるんですか?」 

「あ、はい。文芸誌に連載を少々。」

「この図書館には文芸誌もいくつかあって、最新の物も多いです。・・・ちょっと待ってて下さい。」

「・・・え?」

「はいっ、どれですか?」

「えーっと、この雑誌の・・あ、これです。」

「え、読みました。凄い面白かったですっ、大好きですっ。嬉しい、何てご縁なんでしょうか。」

「本当ですか?いやぁ恥ずかしいな、ありがとうございます。」

「すいません。結糸ちゃん、いや、結糸先生は調べ物に来たんでしたよね。これ以上邪魔しませんので、良かったら帰りにサイン下さいねっ。」

「いやそんな、結糸ちゃんでいいですからっ。サインなんて、フルネーム書くくらいしか出来ませんけど。まぁ・・。」

「やったっ。じゃあ終わりそうな時声掛けて下さい。」

そんな和やかな会話をしていたはずだった。

私がこの写真を出した事が原因で何故こうなってしまったのか未だ分からない。

二人会話から切り替え、私は前もって席まで持って来ていた本を開き、陽ちゃんは何冊か持って来た小説をどれから読もうかと悩んでいた。

それから私は本の絵と写真を照らし合わそうと、鞄から石碑の写真を取り出し机に置いたのだ。

「ぎゃあぁっ。」

「え?」

「何でそれを・・それが何か知ってるんですか?ま、まさか結糸ちゃんは・・あの村の・・。」

「村?え、待ってどうゆう事?」

「近寄らないでっ、やめて・・怖い、何で・・折角忘れ初めていたのに・・何で・・・・。」

陽ちゃんはそう言うと、その場に気絶し倒れ込んでしまったのである。

周囲からは悲鳴や、小声で心配する者がいたが、私はそれすらも出来なかった。

視界が真っ暗になり、理解も出来ず目の前に陽ちゃんが倒れていると言うのに指一本動かせない。

そうして館内のスタッフが私に声を掛けた時、漸く目の前の事態を把握し今起きた経緯を説明する事となったのだ。

説明している最中も口は動いていても頭では何も理解出来ておらず、視線は床にばかり向いていた。

後に救急車が到着し、私を一人残し陽ちゃんは去って行ったのだ。

残された私には周囲の冷たい視線が突き刺さり、皆んなが私の事を話しているように感じ息が詰まる思いで図書館を後にした。

こんな事になってしまっては、調べ物どころではない。

陽ちゃんの様子が心配だが、病院も分からない上に訪ねても不快な思いをさせるだけだと、私は頭を整理する為長い帰り道を歩いて帰る事にした。

石碑に村、そしてそれは怖いもの。

それと繋がる椿冬真。

当然分かる言葉を並べても理解する事は到底出来ず、私は途方もなく歩いた末に導いた答えは、椿に聞く事だった。

理由も無くあんな石を記念撮影する人間がいるとするならば、ただの阿呆である。

この意図的とも思える椿の行動の数々に怒りを募らせ、陰湿で回りくどいやり方は酷く気分が悪い。

何か私に言いたい事があるのならば直接言えば良いものを、これは何かの嫌がらせだろうか。

だとすれば私も一言物申すつもりだ。

怒りで頭の中が一杯で気付けば自宅前まで辿り着いており、私は何気なくポストを確認した。

すると中には一通の手紙が入っているではないか。

まさかとは思ったが、椿が手紙の返事をくれたかもしれないと、私は焦る気持ちを抑え家の中に入ったのだ。

先程まで怒っていた事が嘘のように椿からの手紙が嬉しく、つくづく人間の感情とは不可思議なものである。

『環結糸様。貴方は何か勘違いをしている様だから、先に話しておこうと思います。気付いてるとは思いますが、俺は計画して貴方を殺しに行った。それは紛れも無い事実です。環さんの手紙を読んでいると自惚れかも知れませんが、随分と好意的だと感じました。それは何故なんでしょうか。何故俺が貴方を殺しに行ったのか気になら無いですか?それが分からないのであれば、俺の気持ちや抱える闇など、幾ら調べようと理解する事など到底不可能です。そしてそれは夢の話がそれを物語っています。何故周囲が暗いのにそれが椿だと分かったのでしょう。環さんは山茶花って知っていますか?椿とよく似た花で、間違われやすい花だ。しかし貴方は迷いなくそれを椿だと断言した。それが全ての答えだ。最後に一つ、叔母さんの隠し事を知っていますか?俺は貴方の事を随分と調べて来たから答えは知っています。しかしそれを俺から伝える事は無い。何故なら貴方が苦しむ事を望んでいるからだ。俺がこう綴れば貴方は自ずと叔母さんの事を調べ疑い苦しむだろうね。分かりますか?俺は決して良い人間などでは無いと言う事です。返事は必要ありません。どうぞお元気で。椿冬真。』

「おばあちゃんの・・・隠し事?」

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