第2話 想念
「実刑、被告人を懲役二年六ヶ月に処する。」
私は自分の選択で彼を救えると思い上がっていたのだろう。
けれども実際には驚く程無力で、到底彼を救う事など出来やしなかったのだ。
私は平凡な一人の女に過ぎず、目の前の現実に対し悔しさを募らせる以外に、この感情の行き場など無かった。
犯罪者としての肩書を与えられた彼は、
「結糸ちゃん、また勝手に出歩いてる。先生から最後にお話があるからちゃんと部屋に居なさいって言ったでしょう。」
「・・・うん、そうなんだけど。ちょっと外の風に当たりたくて。」
「まだ落ち込んでるの?」
「そうだね、少し。」
「おばあちゃんは反対だったから、犯人が刑務所に入ってくれて安心してるわ。」
「・・・。」
「とにかく、戻りましょう。家に帰ったら結糸ちゃんの快気祝いに何かご馳走でも食べましょうよ。」
「いいよ、そんなの。あんまり食欲無いし。」
「もう。じゃあ帰って出来なかった誕生日のお祝いでもしましょうよ。ほら、お母さんから手紙でも来たんじゃ・・・。」
「そうか・・手紙。えっ?」
「・・え?な、何。さぁ早くっ、行きましょうよっ。」
「・・・私、彼と話したい。彼に手紙を書くよっ。」
「結糸ちゃん。あなたいい加減に忘れなさい。」
「いや、駄目なの。彼の弁護士に電話してみる。ほらっ、おばあちゃん早く部屋に戻るよ。」
彼の弁護士に会ったのは、入院中にも関わらず私の
感情などまるで存在しないかの様な
弁護士とは名ばかりで、殆ど勝ち目の無い弁護だと諦め、言わばやっつけ仕事の様にも見えたその態度は余りにも酷いものであった。
そしてそれは示談を持ち掛けた時も同様で、拒否する彼を執拗に説得し続けたのだとか。
勿論私にとっては好都合であったが、断固として拒否する彼に根負けし、以来こんな犯罪者の人生など、どうでも良いと言わずも物語っている様子だったそうだ。
私の弁護士もそんな彼の態度に苛立ちを覚えた人物の一人で、彼と会った後はいつも機嫌が悪かった。
そんな中迎えた裁判など皆には分からぬだろうが、実際には無力な女と無心な弁護士の戦いである。
開廷した当初から終始弁護士の圧倒的な無心さに押され、成す術無しで絶望の一途。
しかしながら、無力とは極限まで追いやられると、とんでも無い力を発揮するのだとは誰も知るまい。
決して目立つ事を好む訳でも無い私が、張り詰めた空気の漂う中で、救急車を呼んだの恐らく彼であり本当に殺してしまおうだなんて思っていないと、気が付けば口から溢れ出していたのである。
所が結果が物語る通り私の惨敗で、無力な女の底力も虚しく、弁護士は顔色一つ変える事など無かった。
私を刺した彼と言えば一貫して罪を認め、弁護士と同様にどうなってもいいの一点張りである。
他でも無くそんな彼の無関心な表情が、私に負けを宣告したのだろう。
いつしか声を上げる事もやめ、ただ呆然と座る事しか出来なくなっていた。
そんな彼との面会や手紙のやり取りで少しでも心を軽くしてあげたいなどと言う考えは、恐らく私の自己満足でしか無い。
決して彼がそれを望んでいないと分かっていても、電話を掛けるこの手を止められなかったのだ。
「お忙しい所恐れ入ります。私、環結糸と申します。」
「あぁ、環さんですか。どうされましたか?用があればご自身の弁護士から私に伝えて頂ければ良いんですが。」
「そんなの時間が掛かります。彼に会わせて欲しいんです。せめて手紙でも。お願いします。」
「はぁ、しかし・・・。」
「お願いします。どうしても彼と話がしたいんです。お願いします。」
「まぁ、その・・本人に聞いてはみますが、あまり期待しないで下さいね。」
「本当ですか?ありがとうございます。よろしくお願いします。」
「いいえ。ではまたご連絡致しますので。」
弁護士の希望ある言葉に目を輝かせた私は何処か落ち着かず浮き足立ち、心がむず痒くそれが少し心地よかった。
「失礼するよ。環さん、いよいよ退院だね。調子はどうかな?」
「先生、ありがとうございました。すっごく調子良いです。」
「ははっ、そうか良かった。何か不安な事があればいつでもここへ来るといいよ・・良い笑顔だ。」
「へへ、ちょっと良い事があって。」
「・・・僕の若い頃、君の様に明るく笑う患者さんがいたのを思い出すなぁ。」
「へぇ・・先生その顔、まさか恋でもしてましたぁ?」
「あははっ、ここだけの秘密だよ?・・確かにあれは恋だったのかもしれないな。その人はこの病院に怪我で入院していてね、彼女のその笑顔ときたらキラキラと輝いていて目を奪われたよ。」
「素敵ですねっ。その人とは何も無かったんですか?」
「勿論さ。残念な事に彼女は既婚者で娘もいたしね。退院する時もやっと娘に会えるんだと喜んでいたのを覚えているよ。」
「なんだ、つまんないのっ。」
「はははっ。君の笑顔は本当に彼女に良く似ている。辛い事があったのは知っているけど、その笑顔を忘れなでくれよ。僕みたいに癒される人間もいるんだからね。」
「はい。先生の為にもずっと笑ってなくちゃっ。ふふっ。」
「良い心がけだっ。それじゃあもう行くよ。昔話を聞いてくれてありがとう。元気でね。」
笑顔が素敵だと言う言葉に何処か違和感を感じたのは、恐らく過去の自分が原因だろう。
暗く内気だった私には縁の無い言葉で、先生が想い焦がれたその女性も又、笑顔の裏に暗闇があるのではと想像するなど失礼も良い所である。
斯くして叔母と帰宅した私は、夜眠りに着くと久しぶりに幼い自分の夢を見ていた。
だがやはり、笑顔は似合いそうも無い。
そんな中弁護士から連絡が来る事なく数日が経ち、私は興奮の最中。
二ヶ月もの入院生活でより一層確信を得た事実に気持ちの高ぶりを抑えられずにいた。
それは紛う事なく、インスタントラーメンとコンビニ食品の偉大さである。
病院でのご飯が美味しく無かった訳では無いが、これは病院のそれとは訳が違う。
栄養や健康とは程遠い位置に存在するこれは正に別格の領域あり、比べる方が間違っているのであろう。
そして更には商品開発への意欲だ。
たった二ヶ月それらと離れ過ごしただけの筈が、目に映る商品は見た事の無い物ばかりで、胃と財布はある意味で悲鳴を上げている。
しかしながらこれは女の
「結糸ちゃん。独り言。」
「わぁっ、おばあちゃんいたの?」
「さっきから声掛けてるじゃない。返事がないから勝手に上がったのよ。・・しかしまぁ退院三日目でこうも散らかるのね。この山積みになってる食べ物は何なのよ。あらっ、これ新商品のポテトチップス?」
「そうなのっ、一緒に食べる?」
「結糸ちゃんは駄目。ご飯作ってきたからこれ冷蔵庫に入れたら行くわね。」
「何でっ。ご飯もありがたいけど、私にはコンビニと言う偉大な物があるから良いのに。」
「何言ってるの。そんなものばっかり食べてたら今に早死にするからね。」
「またまたぁ。」
「痛っ、何この段ボール。ちょっとは片付けなさい。」
「あ、それお母さんからの誕生日プレゼントだよ。そう言えば言ってなかったね。手紙も来てたけど大丈夫、返事は書いてないから。」
「・・・あ、これは何?開いてないじゃない。」
「あっ、そうだった。何だろう?誰からなのか書いてなくてさぁ。」
「開けたら?それで段ボールを早く畳んで片付けましょうよ。」
「分かったってば。えーと、ん?鍵?何の鍵だろう。」
私は阿呆だが、頭が悪い訳ではない。
入院中余りにも退屈だった為、私は良く散歩をした。
お決まりのコースは私の病室の階にあるナースステーションの前を通り、看護師さんと少しお喋りをする。
そしてエレベーターで、一階に降りると病院の周りの敷地を一周歩くのだ。
足りなければ二周、三周する時だってあり、その後またナースステーションを通り病室へと戻る。
そんな毎日でふと面会名簿に署名してある叔母の名を見つけ、母からの手紙の字と瓜二つだと気付いたのだった。
今まで叔母の字など気にした事も無かった為、こんな事になり気付くとは複雑である。
性格の曲がった私は疑念を更に確信へとする
勿論この確信を前に悲しくないと言えば嘘になるが、これは叔母の優しさが滲み出た行動なのだと思うと次第に悲しさは嬉しさへと変貌して行ったのである。
そして私も喜んで優しい嘘を返そうと思った。
とは言えこの鍵は一体どうしたのだろうか。
見る限り家の鍵では無さそうで、こんな鍵一つでは叔母の意図を汲み取れそうも無い。
そもそも鍵を見た瞬間の叔母の様子を見ると、どうやら叔母が関与している可能性も低いようだ。
故に叔母と私が暫くの間、沈黙していた。
「何の鍵かしらね、誰からなのかも書かれてないし何だか不気味。」
「・・本当だね。でもとりあえず持っておこうかな。」
「それより編集者の人から聞いたわよ。今書いてる小説、中々評判がいいんだってね。」
「そうなんだよね。まぁ、実体験に勝るものはないから。」
「でも大丈夫なの?思い出して辛くなったりとか。」
「全然平気、寧ろありがたいくらいだよ。あ、弁護士さんから電話っ。来たっ、良かった。」
「もしもし、受刑者側の弁護士からの伝言ですが今よろしいでしょうか。」
「はい、もちろん。それで、どうなりましたか?」
「残念ながら、面会の件は椿が拒否しているようで難しいでしょう。」
「あっ・・そう、ですよね。じゃあ手紙は?」
「はい、手紙は本人から承諾を得ています。それから、彼の情報の一部の開示も許可しているとの事です。・・全く一人で突っ走るのはやめて下さいよね、必ず私を通して下さい。」
「はい、すいません。あの・・で、情報ってゆうのは。」
「それで、早く情報が知りたいだろうと思いましたので今ご自宅前まで参りました。」
「えっ、本当ですか?開けます、今すぐ開けます。」
一見無愛想だが愛情深さを持ち合わせている、この人物こそが私の弁護士である。
叔母の知人の息子で、有り難い事に忙しい中私の弁護を担当してくれた実に良い人だ。
しかし限りなく良い人ではあるが、限りなく怖い人間でもあり、何度怒られたか数え切れない。
先程のそれも一回にカウントされたばかりのはずが、玄関をくぐるや否や、早々に雷のような
しかし本来私から出向く所わざわざ気を遣いここまで来てくれたのだ、憎めない人間である。
彼からの情報とは氏名、年齢、住所、バイト先の名前とその住所だった。
彼の名前は
自宅住所は私の自宅からは少し離れた所だったが、バイト先は近辺にある事が判明した。
自身で椿の調査など行う事のないようにと釘を打たれたが、それは到底無理な相談である。
こんなにも椿を知りたいと願っているのにも関わらず、目の前にある情報に手をつけないなど言語両断。
恐らく椿も私に知って欲しく情報を与えたに違いないのだ。
彼は雷を落とすだけ落とすと直ぐに家を出て行ってしまった。
弁護士は最後に『今更椿冬真の事を調べても何も変わらない』と言葉を残したが、椿はいずれ出所するのだ。
その時彼が一人寂しく佇む姿が目に浮かび、何故だか悲しみと苦しさが込み上がり仕方が無い。
だからこそ、彼には救いと理解者が必要なのだ。
周囲には理解し難いだろうが、そこには私が被害者であるなど関係の無い事だった。
そして何より、私自身も何故椿にそこまで執着してしまうのか知りたいのだ。
では私と言う人間について、一つ皆に語ろう。
大方同じ性質の人間も多く、共感する者も多い筈だ。
思い立ったら即行動。
これだけの情報を与えられ、家で大人しくしている方がどうかしている。
私は弁護士が訪ねて来たその日、叔母が帰ると直ぐに準備し椿の自宅へと足を運んだ。
日が落ち辺りは暗くなり始めた頃、漸く椿の自宅に到着したが、私はその光景に目を疑った。
私の自宅以上に朽ち果てたアパートを見るのは恐らくこれが初めてではないだろうか。
彼は貧困生活を余儀なくされ、借金を積み重ね借金取りに日々追われた。
そしてそんな人生に嫌気がさし、犯行へと及び刑務所に入る事を望んだとも考えられる。
しかし断定するにはまだ早く私は彼の部屋の前まで足を進めたが、部屋には鍵が掛かっており中に入る事は出来なかった。
するとその時あの包みに入っていた鍵の事を思い出しのだ。
家の鍵では無いだろうと思っていたが、こんなアパートならばあの倉庫の鍵のような物が設置してある可能性は十分にある。
そう思ったもの、この憶測は早々に不発へ終わってしまった。
「あれ、君は誰?」
「あ、いえ決して怪しいものでは・・その、ここに住んでいた人物の知人で。」
「あぁ、知らない?そこの人警察に捕まったみたいだよ。暫く警察が出入りしてたみたいだけど、最近は見かけないなぁ。」
「へ、へぇ・・そうなんですね。全然知らなかったです。彼とは仲が良かったんですか?」
「はははっ、まさか。あんな暗くて無口な奴に近寄る人なんていないよ。このアパートは壁も薄くて隣人の音がとにかく響くんだけど、その点俺は何の不満もなかったなぁ。俺、隣の部屋なんだ。」
「何も物音がしなかったと?」
「あぁ、そうだよ。でも確か一度だけ叫び声が聞こえた事はあるかなぁ。あの時はびびったよ。」
「叫び声・・・。じゃあ、借金取りとかは?そんな人間が訪ねてくる所を見た事はありますか?」
「いやぁ俺が知る限りはないかな。何、あの人借金してたの?」
「いや、そうではなくて・・あくまで憶測で。」
「まあとにかく奴に会う事は諦めた方がいいよ。暗いけど帰りは大丈夫?この辺物騒だから気を付けなよ。」
「大丈夫です。貴重なお話ありがとうございました。失礼します。」
暗い夜道、空に光り輝く星を見ていると、気が付けば私は椿の事を思い出していた。
私も含め周囲の人間は皆、彼を暗く闇のある人間だと思っているが、椿は笑う事などあるのだろうか。
そんな事を考えてはみたもの、私自身も腹の底から笑った事など無いように思う。
子供の頃は容易く出来た事が、不思議と大人になると出来なくなるなど良くある話で、悲しくても泣けず、涙を流す程笑うなどとんでもない。
私など更に酷く、そんな変化は周囲と違い随分と早く訪れたのだ。
記憶中では既に小学生の頃には感情の薄い人間へと成り果て、理解などまるで出来ない周囲の子供らは皆私をロボットだと称して痛みを与え続けた。
当然ながら無感情であったが故に、辛かった訳では無いが、ただ何故人と同じ痛みや幸福を感じる事が出来ないのか不思議だったのだ。
とは言えそんな私も周囲の助けを借り時間を経て少しづつ感情を取り戻し、今こうして人の感情を分かりたいと思える程になれたが、過去を捨てられる訳ではない。
時折無感情な自分が現れ、私を過去へと引き戻してしまう。
しかし今はどうだろうか。
椿の笑顔を想像するだけで何故だか心の底が温かく懐かしい気持ちになり、次第にその笑顔は私へと伝染して行くのである。
ならば実際に笑顔を見ると、どれ程気持ちは高ぶるのだろう。
時に私の妄想は度が過ぎるが、帰り道に思い浮かべるこれは、どれ程過度でもそう悪くは無い。
そうして自宅に着く頃にはすっかりと夜が更け、私はそのまま体を布団へと沈めた。
明日は原稿の締め切り日だと分かっていても、落ちる瞼を止める事は至難の業である。
当然未熟な私は、少しだけと目を閉じた。
暗闇の中聞こえてくるは草木が風に
まさか一瞬にして朝になったのではと、私は静かに目を開けた。
すると不思議な事に目の前には一面、森林が広がっていたのだ。
辺りを月の光が照らし、見渡しても立ってるのは私一人である。
しかしながら恐怖心は微塵も感じず、私は途方もなく歩き始めていた。
そうして歩いていると、突如目の前に異様な雰囲気を放っているにも関わらず何処か美しい洞窟が現れ視線が離せず、私は吸い込まれるように入り口まで足を進めるのだ。
洞窟の前まで辿り着くと、月明かりが何かを見つけ出してほしいと手助けする様に内部を照らし始め、中には沢山の椿の花が咲き乱れているではないか。
その
何故涙が溢れ落ち止まらないのかは分からない。
だがこの感覚は、椿の笑顔を思い浮かべた際の感覚に何処か似ており、嬉しく心弾み、そして少し悲しい。
恐らくこれは夢である。
私はこの場所も、涙の理由さえも知り得ない。
故に夢でなければおかしいのである。
月明かりが映し出す私の影が、小さな子供の姿をしているのだから。
「うわぁっ、誰っ。・・・やっぱり夢か。誰か後ろにいたかと思ったけど・・ってやば。今何時よ。」
見ると時刻は深夜一時で不覚にも二時間ほど睡眠を取ってしまったようだ。
不幸中の幸いとはこの事で、夢の中の誰かが私を驚かしてくれたお陰で、編集者からの雷には打たれずに済むかもしれない。
もし朝まで寝ていたらと思うと背筋が凍る思いだ。
流石に毎度編集者を激怒させてしまい、それが故に病気にでもなってしまおう物なら慰謝料を請求され兼ねない。
従ってこの後死に物狂いで、原稿を書いていた事は言うまでも無い。
漸く書き終え力尽きた時刻は午後二時。
未だ編集者からの電話は来ていないという事は、電話が来る前に編集者の巣窟の門を叩けるという訳だ。
私はそんな初めての快感を味わいたく、慌ただしく準備を済ませると足早に玄関を飛び出した。
普段ならば乗らない自転車に
あまりのスピードで周囲を歩く人々の表情は見えないが、何処となく笑われている様に感じるのは気のせいだろうか。
それとも自分の姿が面白いのでは無いかと、又もや妄想し自分自身が笑っているのか定かではないが、やはり何処か滑稽である。
兎にも角にも、編集者のこんな表情をお目にかかれるとなれば、仕事をきちんとこなす事は案外悪くない。
「・・どうしたんですか。あ・・そうだ、何かトラブルが起きて書けなくなったとか、締め切りに間に合わないとか、そんな話でしょ?それなら電話で良いのに。」
「じゃーん、仕上がりましたので大急ぎで馳せ参じました。」
「ぎゃぁああぁっ。」
「・・・へ?」
「皆んな、今日の天気は?皆んなちゃんと来てる?誰か事故にあった人は・・いや、私だ。いつも使うマグカップの持ち手が割れたと思っていたら、浅はかだったわ。不吉な事が起きる前兆よ。」
「失礼ですね。まぁどうぞ勝手にパニックになってて下さい。原稿ここに置いていきますからねぇ・・変なの。」
予想以上の反応に上機嫌の帰り道は、行きとは打って変わりゆっくり自転車を押して帰っていた。
心の余裕とは、普段ならば気にも留めない事に不思議と気付けるものだが、私の場合はこの花屋に寂しげに佇む椿がそれと言えよう。
頻繁に通るこの商店街にある一軒の花屋に、随分と以前より椿の苗が並んでいたなど、気付きもしなかったのだ。
更には良い例が、今朝自転車を猛烈に漕ぎ花屋の前を通り過ぎた時で、そこには既に椿があったと言う事である。
つまり余裕の無い人間には世界などほんの僅かしか見えていないのだ。
テレビなどで見る偉大な人物が皆、寛大なのも納得である。
しかしながら心の余裕が財布まで緩めてしまうとあっては、幾ら寛大でも飯など食えまい。
無論私も、寛大さにより財布を緩め椿を購入してしまったので、今夜は空き地の雑草でも頂こう。
そうと決まれば体力の温存は必須事項で、自転車の籠に乗せた椿の苗によってハンドルをふらつかせている場合では無い。
そして周囲から浴びせられる不安気な視線もそろそろ限界である。
私は逃げる様に、人生で初めて体幹に全神経を集中させ颯爽と歩き出したが、目的地へ近付くにつれ再びふらつき始める理由は、私がこそこそしているからだ。
私の住む劣化したアパートに椿を植える場所がない事など想定内で、無断で叔母の自宅にある広い庭に植える事も又、想定内。
だが部屋から漏れ聞こえるテレビの音は非常に想定外で、木曜日の午前中と言えば叔母は生花のレッスンである筈なのだ。
これでは密かに植えて帰り、聞かれても何食わぬ顔をすると言う計画が台無しである。
そうなれば私に残る選択肢は、植える事を頼み怒られるか、とりあえず植えてみるが見つかり怒られるかの二択で、どちらもやはり気は進まないものだ。
とは言えどちらも怒られる運命であるならば、少なくとも植える事を拒否されるよりは幾分ましだと苗を抱えた矢先、突如開く玄関の扉に驚き物陰に身を隠す私は、どうやら第三の選択肢を見つけたらしい。
このまま静かに身を隠し、叔母が外出する間植えれば何の問題もないのだ。
しかしあくまでもそれは、叔母が外出するならばの話である。
外出をしたのだと確証を得なければ、気を落ち着かせ植える事など出来ない為、建物の角に身を隠しながら大胆にも玄関の辺りを覗き見ると、私は叔母の姿に背筋を凍らせた。
叔母は玄関を出た位置から一歩も動かず、真っ直ぐただ前を見ているのだ。
その表情さえ見えないもの、物々しい雰囲気は不気味とも言え、体は固まり額からは汗が流れ落ちた。
それから暫く固まる二人の間には、異常な程ゆっくりとした時間が流れ、体感ではそろそろ夜でもおかしくは無い。
そして叔母が突然動き出したのは、恐らく三日半程経過した時であろう。
家の裏辺りにある物置へとゆっくりと歩いて行った様で、私の隠れる位置とは逆側から物置へ向かってくれた事は幸運である。
私は余りの恐怖心からこのまま苗を取り一旦この場から去ろうかと考えたが、叔母は家族だ。
笑いながら肩を叩き、どうしたのかと尋ねるのがいつもの私である。
しかしそう接するのが普通だと分かっていても、何かが私を引き止める。
どうするのが正しいのか、悩む程答えは遠のいていった。
「・・あれ?結糸ちゃん、そんな所で何してるの?」
「ぎゃあ゛っ。・・・あ、いやぁ何も。おばあちゃんこそ、こっちから来るなんてどうしたの?あっ、じゃなくて・・・見てこれ、椿の花の苗なんだ。おばあちゃんの庭に植えても、いい?ははっ。」
「ははって、そんなの駄目に決まってるじゃ無い。どうせおばあちゃんが世話する事になるんだからぁ。」
「やっぱり駄目かぁ。じゃ、じゃあもう帰ろうかなっ。」
「何よ、おばあちゃんが悪者みたいじゃないの。・・・いつからそこにいたの。」
「い゛ぃつから?いつからって、今だよ?たった今来たの。」
「なら買ったばかりでしょ?大人しく返して来なさい。」
「いや、買ったのはもう結構前なんだ。たぶん。・・可哀想だよ、泣いちゃうよ?」
「返されたってお店の人は泣いたりなんかしないわよっ。馬鹿ね。」
「いや、私が。私と椿が泣いちゃうじゃん。」
「・・結糸ちゃんと椿?ぷっ、あははっ。本当おかしな子。ちゃんと自分で毎日水やりに来るわね?」
「絶対来るよっ。約束する、ありがとう。」
この事を知っているのは私だけだ。
いつもと変わらぬ叔母との会話中、視界に入る叔母の上着の袖に、赤黒い染みと泥が付いていた事。
私へいつからいたのかと問うその目が恐ろしく殺気立っていた事。
そして推測出来るのも私だけだ。
あの物置には何かあるのではないのかと。
帰宅し私は気を紛らわす様にペンを走らせた。
やはり私の心を落ち着かせるのは、彼の笑顔なのかも知れない。
『拝啓 外は毎日暑く嫌になりますが、いかがお過ごしでしょうか。私は少し気が滅入っています。そう言えば椿さん、昨日あなたの自宅に伺いました。だけど鍵が開いていなくて中には入れなかったです。考えれば不法侵入になる所ですよね。でも家の住所を教えてもらえた事が嬉しかったです。私に自分を少しでも知って貰おうと思ったって捉えて良いんでしょうか。自惚れかも知れませんが、そう思うと本当に嬉しいです。それにその日の夜珍しく夢を見た話を聞いて下さい。普通夢って起きたら覚えていないものですが、何故か忘れられなくて。夢の中で私は森の中にいて、そこに椿が咲く洞窟があったんです。異様な光景だけど、何だか神秘的ですよね。夢の中の私は泣いちゃってました。椿さんは夢を見たりしますか?夢は心の中を移す鏡です。是非椿さんの夢の話をお聞かせ下さい。そして出来れば、椿さんが今までで一番笑った話も聞きたいです。時間も場所も違いますが、同じ話を頭に思い浮かべ同じ話で笑うなんてとっても素敵ですよね。実は私、昔からあまり笑えないんです。感情が乏しかったんですが、周囲の方々のお陰で少しずつ感情を取り戻せたって言う過去があって、今でもまだ少しそんな自分はいるんです。でも椿さんの事を考えると不思議と笑顔が溢れます。何故でしょうね。今や椿さんは私を殺そうとした人間なんかじゃなく、私を笑顔にしてくれる存在です。だからどうか、私に心を開いて下さい。思っている事何でも話して下さい。余計なお世話かも知れませんが私が貴方を必ず助けます。そしてもし良ければ私の友人になって下さい。近々椿さんの職場を訪ねます。体を大事に、お元気で。お返事待っています。』
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