犯人を綴る
藤田 匡
第1話 際会
『何、何する気。・・・ぎゃあぁっ、だっ誰か・・助け、て・・・。』
『貴方なんかいない方が良いのよ。今更になってあの子に何の用なの。娘を捨てた母親だって言って何になるって言うのよ。』
『そんなの分かってる。でも私は・・・。』
『あなたの存在なんてあの子を苦しめるだけよ。私が母親、それであの子は幸せなの。・・・あの子を苦しめないで。それでも会いたいって言うなら、死んで。』
『い゛やぁあ゛ぁっ・・・。』
「成程、愛の為に殺人かぁ。・・・うーん、そっか。愛ねぇ。」
本日の天気もまた晴天。
春の清々しい風と暖かい日差しが照りつける室内で、私は今日も映画三昧で散漫な一日を過ごそうとしている。
従ってそんな時間を邪魔するかの如く携帯から伝わる振動は、気分を害するものでしか無い。
「・・・あー、はい。もしもし。えっと、何か。」
「何か、じゃないです。今何してるんですか?昨日お伝えした件忘れた訳ではないでしょ?」
「うーん、何でしたっけ?」
「冗談やめて下さい。明日まで待ちます。それでは。」
人を殺した事がありますか。
きっと、この質問には大半がノーと答えるだろう。
では人から殺されそうになった経験はあるだろうか。
答えがイエスだと言う人間が過半数であるならば、私は随分とついていないと言えるだろう。
想像力は無限では無い。
当然限界があり、人を殺した事も人から殺されそうになった事もない私が、それらを体験した人物の感情を理解出来る筈が無いのである。
そんな言い訳を頭の中でぼやきながら、私は今日もまた胡座をかき呆然と空を見上げていた。
「・・・ペンが進まない。」
幸運な事に作家の端くれとして拾われた私は、そんな環境に感謝するどころか酷く怠慢で、締め切りは明日だと言うのにこのざまである。
書きたいと
抵抗する気力すら失う始末だ。
そして又もや一文字も書けぬまま日が暮れる様子に、ただ息を漏らすだけだった。
すると結果何を引き起こすかなど明白であり、突然鳴り響いたチャイムも恐らく良からぬ事態の合図である。
玄関の扉の向こうに、見えない筈の編集者の鬼の形相が目に浮かび、自ずと体は床と張り付き離れようとはしない。
しかしながら私も馬鹿ではない。
このまま居留守などしようものなら、更に怒りを増幅させてしまう事など、容易に想像が付くと言うものだ。
それに私は真面目で嘘など滅多につかない人間である。
勿論否応でも玄関に行くさ。
そうして無理矢理床から引き剥がした尻は服が破け丸出しな気分で、そのせいか体も冷ややかなのは恐らく先程の恐ろしい妄想のせいであろう。
そんな私の仕事への意欲を垣間見た誰もがお分かりの通り、このアパートに高性能なインターホンなど無い事は言うまでも無い。
となると扉の向こうに立つ人物が誰なのか確認する事は叶わないと言うわけである。
そして開ける以外に選択肢なのど残されていないと悟った私は、渋々扉を開いた。
するとそこに立っていたのはただの宅急便の配達員だったのだ。
散々緊張感に襲われた挙げ句ただの思い違いであったと安堵していたからか、不覚にも自身が人見知りである事を忘れ、目の前の若い男の人に話し掛けていた。
「・・・あ。・・え、宅配ですかっ。何だ何だそうかそうかっ、ありがとうございます。いやぁてっきり鬼が来たかと思いました、ははっ。鬼と言っても本物じゃ無いですよ?鬼みたいな人って事で・・・あっ、荷物ですね。すいません。」
「ここにサインを下さい。」
「はいっ。ありがとうございます。感謝してます、色んな意味でっ。お仕事お疲れ様ですっ。」
「・・・。」
「えーと・・・すいません、鬱陶しくて。本当、ありがとうございましたぁ。」
無愛想は決して責められるべきでは無い。
寧ろ仕事中にも関わらず、執拗に声を掛ける私の方が余程罪深いと言えるだろう。
届いた荷物は小さめの箱が二つ、一方には差し出し人の名前があり、驚く事に母から届いた物だった。
もう一方には何も記載は無く、察するにこれも母から届いた物だろう。
無意識の内に手を伸ばすは母の名前が書いてある箱の方で、開けると中には手紙と白いビニール袋が一つ入っていた。
母から手紙を貰うのは初めてで、袋の中身よりも先に手紙に手を伸ばした事に正直自分でも驚いている。
私は字を読む事があまり好きではない。
長い文章など以ての外、読む気など失せ放置した後、行方不明になるのが落ちだ。
そんな性格にも関わらず手紙を開く私は、少女興奮気味なのだろう。
例え長い文章が書かれていたとしても、待ちに待った手紙であれば、取るに足らない事なのである。
「えっと・・『二十歳の誕生日おめでとう。お母さんは元気にしてるから、心配しないで。』・・・。えっ?それだけっ?」
手紙の内容は動揺してしまう程に短く、呆気に取られたと言う表現が恐らく正しい。
振り返れば一人暮らしを始めて二年、母と離れてからは十四年が過ぎてしまった。
この長い年月により心の中で消えかけた母の存在は、残念な事に母も同様な思いなのかも知れない。
しかしながら落胆しようと最早無意味であり、気に掛けまいと言い聞かせる以外、心の中で降り出した小雨を止める方法など無いのだ。
誕生日など所詮プレゼントが最大のイベントである。
その過程にある祝福の言葉も、更には美味しい料理でさえも、プレゼントの前では些細な出来事へとなり下がるのだ。
案の定袋を開けると心は雨が止むどころか雲は消え快晴の一途で、笑顔を溢す私も又、その強大なプレゼントの力にひれ伏したと言えよう。
それもその筈、袋の中身は今となっては顔も思い出せぬ母と、幼い自身の写った写真であったのだ。
写真と言えば顔が酷い状態で写っているなど、誰もが一度や二度は経験した事があるであろう。
この写真は正にそれで、何処か厳格そうな母の横に立つ私の目は半開きの状態で、誕生日の相手に渡すプレゼントとは到底思えぬ代物である。
もっと他にあったであろうと言わんばかりのこの写真から溢れる母の途轍もない笑いのセンスに、不思議と愛情を感じ取ってる私は、どうやら間違い無く母の子である様だ。
兎にも角にも、写真から伝わる幸福感は懐かしいとは少し違ったが、心を温かくした事に変わりは無い。
果たして母は本当に元気にしているだろうか。
何処の病院に入院しているかも分からない上に、面会を禁じられている為、顔を見る事も声を聞く事さえ出来ないとなれば、そんな考えは嫌でも浮かんで来るものである。
母と離れてから私を育ててくれた叔母も又然り、その口から母の話が出る事は殆ど無く、聞く事を禁じている様な雰囲気から私も母の話を口にする事は滅多になかった様に思う。
母の話をしたのはたった一度、叔母の家を出て一人暮らしをする為、引越しのトラックに荷物を乗せ終わった時だった。
「忘れ物は無いね、何か困った事があったら連絡しなさいよ。」
「忘れ物があったらそんなに遠く無いんだし取りに来るよ。」
「そうね。・・ちゃんとご飯食べるんだよ。ゴミも溜め込まないでちゃんと捨てて、それから・・・。」
「心配しなくても大丈夫だよ。その・・今までお世話になりました。本当に、ありがとう。それから・・・。」
「どうしたの?」
「その、これなんだけど。お母さんに私の新しい住所を渡して欲しいの。」
「やめた方がいいわ。」
「何で、どうして駄目なの?」
「いいわ、もう
「そんな・・・。」
「でも唯一手紙だけは許可が出てる。」
「それなら、尚更っ。」
「駄目よ。これはお母さん自身を守る事でもあるのよ。」
「何でよ。何でなのかわからない。私はただ、お母さんにここにいるよって知ってて欲しいの。いつでも帰る場所があるんだよって安心して欲しい。」
「はぁ、分かった。そこまで言うなら・・伝えておきます。」
「本当っ、ありがとうっ。」
「仕方ないわよ、今までずっとわがままも泣き言も言わずに頑張って来た結糸ちゃんを見て来たんだもの。初めてのわがままを聞いてあげない訳にはいかないじゃない。」
勿論叔母が母に私の住所を教えたかどうかなど確証は無かったが、私は信じる他無かったのだ。
それ故に、今日と言う日はこれまでの人生で一番幸せな日である。
愛など鬱陶しいだけで、これと言って与えられる事など望んでいなかった私でさえ、案外悪く無いなどと思っているのだ。
高揚した気持ちは生きる意欲さえ与え、今日までやる気の無かった執筆活動にも唐突なやる気を与え始めている。
本当に、愛とは悪くは無い様だ。
「もしもし。」
「明日の約束は大丈夫そうですか?」
「あっ・・はい。少々手間取ってますが、でも頑張れそうです。」
「頑張れそう?」
「はい、今凄くいい事があって。」
「・・・じゃあ、明日提出可能と上に伝えておきます。よろしくお願いします。」
「はい。」
気付けば時刻は二十一時を回り、幾ら仕事への意欲を取り戻したといえ、どうやら徹夜での作業になりそうだ。
私は電話を切ると、悲しくも軽い財布を手に取り外へ駆け出した。
今夜のお供は勿論ブラックの缶コーヒーで、
夜の気持ちの良い空気も相まって、街灯もあまり無い静まり返った不気味な雰囲気でさえ心地が良い。
するとそんな雰囲気に魔を刺す様に背後から足音が響いた。
先程と打って変わり一挙に冷たく張り詰める空気は、自ずと私の足を急かし息を切らす。
今日は最高に良い日だった。
例え素っ気ない手紙や写りの悪い写真がプレゼントの誕生日でさえも、私は幸せを感じていたのだ。
物事は一見何でもない事や最悪の出来事でもでも、考え次第で特別となる。
では果たして今起きようとしている出来事の是非を何と解く。
私はこう思った。
『なんて運が良いのだ』と。
「う゛ぁっ。ちょっ・・・ま、待って。ふぁっ血が・・・。」
「命乞い?良くもまぁ。・・・次は心臓を刺す。」
「まさかっ。いや、どうだろう・・。ただちょっと話を聞かせて欲しいの・・・っつ、痛っ。」
「は?」
「あなたが誰か知らないけど、人を殺そうだなんて何かあったんでしょ?はぁっ・・はぁ、辛い過去や人生への反発、それとも殺人への好奇心とかっ?」
「何言ってんだ・・・。」
「私・・私作家なんです。こんな経験滅多に出来ないですから、殺人犯の心情なんてとても興味深いわっ。」
「・・・。」
「何ならその悲痛な思いや、あなたの考えを皆んなに知ってもらうチャンスですよ。そして私も良い情報を貰えるし、お互いにとって好都合だと思いませんか?・・・・どう?」
「イカれてる。・・・勝手にしろ。」
「本当にっ、ありがとう。それじゃあ・・ふぅ。あなたのお陰で怪我してるから手短にっ。今回無差別殺人って事で良いですか?」
「・・・さぁ。」
「さぁ?まぁいいわ、とりあえず何故人を殺そうと思ったのか聞かせて。」
「・・・知らない。」
「知らない?もぉ、さっきから何なんですから。そんな答えじゃ困ります。まずいっ・・血が止まらないっ。」
「知らないもんは知らない。自分でも分かって無いんだよ。ただ・・胸がモヤモヤする感じで、怒りに似てる・・気がする。」
「怒りね、分かった。それは何に対して?」
「そんなもの・・全てさ。」
「全て、か。それじゃあ実際に人を殺そうと決意しここまで来て、ナイフを私に向けた時どう思った?興奮?それとも怖くなった?」
「少し、怖かった・・かな。」
「そうか、やっぱり怖いのね。それはそうよ、人を殺す何て常人なら出来ないものね。あ・・失礼。」
「そうだよ、俺はもう普通の人間なんかじゃ無い。そうじゃ無くなったんだ。」
「ふーん。それは家庭?それとも仕事や友人が原因?」
「・・・。」
「返答無しか。くっ・・ではご両親は殺人を犯そうとしている事実を知った時、どう考えると思いますかっ。やっぱり悲しむかしら?」
「そうだな・・・・・・ぶさ。」
その寂しげな表情に目を奪われた私は、小さく呟いた彼の言葉などまるで耳には入らない。
聞こえてくるのは私達の間に吹き抜ける風の音のみで、風に乗り何処か懐かしい花の匂いがしたのを覚えている。
そして瞬く間に体から力が抜け、目の前に暗い夜空が広がってゆくと、遠のく意識の中漸く聞こえてきた言葉は、私の名だった。
「結糸ちゃん?・・・結糸ちゃんっ、誰か、誰か来てっ。結糸ちゃん大丈夫よ、助かったから。よかった・・本当によかった。」
「おばあちゃん?」
「大丈夫よ、ここにいるから。ほらここよ、手を握ってるから。」
「私どうしたの?」
「男に刺されて意識を失ってたのよ。でも大丈夫、犯人は捕まったって。だから安心して大丈夫だからね。」
自分を刺した男が捕まったと聞かされ寂しく思うのは恐らく、彼が最後に見せた表情のせいだろう。
あんな表情をさせる理由ばかりが気に掛かり、刺された恐怖や痛みなど取るに足らない感覚である。
叔母はそんな落胆する私を見て、酷く傷付いているのだろうと誤解していたが、決してそうでは無いのだ。
彼にもう一度会いたい。
そう思う私は、どう考えても頭がおかしいのだろう。
必死で励まし続ける叔母を前に、窓の外に昨夜の場所を探す私は、やはりどうかしている。
「目が覚めてよかった。」
「先生っ、この度は本当にありがとうございました。お陰で結糸ちゃんは助かりました。」
「いえ、でも本当に無事で何よりです。背中の刺し傷は浅かったので命に関わるものではありませんでした。しかし腹部の傷が少し内臓を傷つけていて、搬送があと少し遅ければ本当に危なかったかもしれません。」
「・・・え?」
「大丈夫だよ、少し入院は必要だけど直ぐに良くなるさ。」
「私、二回も刺されたんですか?」
「ん?あぁそうだよ。」
「そっか、私よく生きてたなぁ。・・・ん?おばあちゃん、今何日?何時?」
「え、えっと刺された次の日でまだ朝の7時よ。どうしたの?」
「やっばい。おばあちゃん電話貸してっ。」
私にとって誰かに殺されそうになる事よりも怖いものがあるとすれば、それは締め切りである。
そして何処か優しい雰囲気を纏う殺人鬼よりも怖い編集者に、待ったは聞き入れて貰えないのは
散々下手に出ては昨夜の事情を説明し、あわよくば期日を伸ばして貰おうと策を巡らせたのも虚しく、やはり鬼は鬼である。
傷を負っているにも関わらず、締め切りは変わらず今日までで、夕方に原稿を取りに来るのだとか。
やはり締め切りよりも怖いものは無い。
「おばあちゃんごめん。今日原稿の提出期限なんだ。・・・悪いんだけど家に書き掛けの原稿があるから取りに行ってもらえない?」
「えぇっ?結糸ちゃん、相変わらずね。はぁ、分かった。行ってきますから。」
「ごめん。」
叔母が戻ると私は直ぐにペンを走らせた。
残された時間は少ないもの、殺そうとする者の感情、殺されそうになる者の感情を手に入れたのだ。
それ故に、書き進める速度は昨日までの比では無い。
しかしながら書きながらも浮かぶ彼の姿は時折私の手を止め、悲しみを伝染させ続けた。
もしも私が尋ねれば、その悲しみの理由を話をしてくれるだろうか。
悲しみから救いたいと言えば、馬鹿にするなと突き放されるだろうか。
そんな事ばかり考えては胸を熱くし、何故か頭に浮かぶ彼の姿に霧が掛かってゆく事に疑問を募らせていた。
そうして外がオレンジ色に染まり始めた頃、私は漸く手を止め息を漏らす。
時刻は午後六時五分。
どうやら雷を落とされずに済んだようだ。
辺りを見渡すと叔母は椅子に座ったまま
それもその筈で、孫が殺されかけ何とか命を取り留めたと思えば、突然何か書き始め口も聞かないのだ。
私は叔母を横目にベッドへと倒れ込み静かに携帯を手に取ると、この頑張りを褒めてくれと言わんばかりに早速編集者へ電話を掛けていた。
「もしもし・・・。」
「今病院の近くです。体は大丈夫ですか?」
「あっご心配ありがとうございます。」
「それで?」
「出来てますよっ。体が痛かったんですけど、頑張りましたっ。」
「全く。もっと早くから取り掛かっていれば、こんな時にまで仕事せずに済んだでしょう。」
「はい。で、すよね。」
「そんなへこまないで下さいよっ。私が悪者みたいじゃないですか。・・はいはい、お疲れ様。頑張りましたっ。お見舞いにお菓子持ってきてますから、待ってて下さい。」
「本当ですかっ?いやぁ、頑張った甲斐がありますねぇ。ありがとうございますっ。」
「調子良い。また病院に到着したら連絡します。」
仕事もひと段落し肩の力が抜けたのも束の間、昨夜彼と出会ったその時から、私に気の休まる瞬間など無い事を思い知るだろう。
これは序章である。
それを物語る如く、携帯に表示される衝撃に固まる私はまだ知る由も無い。
「・・・っおばあちゃん、見てこれ。」
「・・んー?ふぁあっ、寝ちゃってたわ。何、どうしたの?」
「私の携帯の発信履歴。昨日の夜救急車が呼んである。・・・何で、どうゆう事。」
「え?確かに結糸ちゃんはここまで救急車で運ばれたのよ。てっきり通り掛かった人が呼んでくれたんだと思ってたけど・・。」
「私呼んで無いよ、絶対呼んでない。・・・まさか犯人が?」
「何言ってるの。犯人が呼ぶ訳無いでしょ?」
「だってそれしか・・・。」
「失礼します。私警視庁特別捜査官の斎藤と申します。あなたが
「えっ、はい。」
「まだ体がきつい時だと思いますが、昨夜の話を良ければ聞かせてもらえませんか?」
私はどうやら重要な事を忘れていた様だ。
昨日の彼は加害者であり、私は被害者。
そして彼は既に捕まっているのだと言う事を。
私に迫るは彼を助けたいと言う思いと、ここに来てもまだ情報収集に対する欲を捨て去れない腹黒い自分である。
それに加えて元来出会う事の出来ない本物の捜査官の出現は、どう足掻いても欲に勝てそうも無い。
それを証明する様に、体の痛みは消え心を躍らせていた。
捜査官だと名乗る斎藤さんの纏う雰囲気は穏やかで柔らかく、とても第一線で犯人の操作を行っている人には見えない。
こんな人間が苛立ちや怒りに震える姿はどんな光景だろうか。
捜査官という仕事に熱意を持ち正義の為に奮闘するそれもいい。
しかしこんな正体はどうだろう。
纏っている雰囲気は作り物で、邪悪でへどろに塗れたような人間だ。
犯人をごみのように扱い被害者を哀れだと高笑いし、自身の損得にのみに判断を委ねその結果悲惨な結末を迎えるのだ。
何処か緊張で張り詰める空気の中、こんな事を考える私は事情聴取など受けている場合では無い。
直ぐにでも紙とペンを取り出し、メモを取りたい気分である。
「昨夜コーヒーを買いに自動販売機まで歩いてました。その帰りに彼に背中を刺され・・・その後突然空が見えて、気付けばここにいた。そんな感じです。所で斎藤さんは温厚な性格ですか?それとも神経質だったりします?」
「ん?あー・・仕事になると鬼だとよく言われるよ。それで、当時彼は何か話していたかな?」
「はい。刺そうとした時、少し怖いと感じたと話していました。斎藤さん、彼が私を刺した事は事実ですが強い殺意があったようには感じませんでした。・・・それに、もしかしたら救急車を呼んでくれたのは彼じゃ無いかと思うんです。あっあと、斎藤さん。刑事一筋ですか?前職は何かされてました?」
「まぁまぁ僕の事は今はいいですよ。彼がどうなるかはまだ決まっていません。彼も今は事情聴取の最中ですから。」
「そうですか。」
「犯人との面識はありましたか?現場を確認しましたが、あの通りは街灯が少なく顔もあまり見えなかったと思うけど、どうかな?」
「いえ、面識は無いと思います。少なくとも会った記憶はありません。」
「分かりました。では体も辛いだろうから今日はこの辺りで失礼します。」
「え、もう行くんですか?」
「何か話したい事でも?」
「いいえ、話したい事と言うより・・聞きたいと言うか、何と言うか。」
「ははっ。これから君も大変になるだろうから、ゆっくり休んで下さい。無理せず体を大事にね。・・・そうだ、私は刑事一筋だよ。それじゃあ。」
斎藤さんは考えるに前者であるようだ。
刑事という仕事に誇りを持ち、信念の元正しく答えを導く。
では私はどうだろうか。
己の欲求の為、彼が善人であると知りながら監獄へと放り込もうとしている。
悪人の定義をなんと解くか。
何事もなく歩んで来た人生であったが、今目の前には分かれ道が存在して、私はどちらかを選択しなければならない。
一方は明るく光輝いており、一方は暗く足を踏み出すには勇気が必要だ。
例え刑務所入った彼に、中の様子や体験談を聞きたいと言う欲があれど、私はどちらを選ぶべきか既に知っていた。
彼を善人であると感じ、更に助けられるのは私だけなのである。
「・・おばあちゃん。私、この事件示談にするよ。」
「え?何で、何言ってるの。犯人は結糸ちゃんを殺そうとナイフで刺したのよ?悪人を野放しにしようって言うの?」
「悪人なんかじゃ無いよ、きっと。」
「そんなの駄目に決まってる。そんな事到底許せないわ。」
「でも・・もう決めたから。」
「じゃ・・じゃあその人がまた殺人を犯すような真似をしたらどうするの?そんな男を釈放させてしまったって、自分を責める事になるわ。絶対に。」
「・・・。」
「とにかく、今決める事ないから考え直しなさい。おばあちゃんに弁護士の知り合いがいるから連絡しておきます。」
「分かった。・・でもきっと考えは変わらないよ。」
叔母が怒るのも当然である。
逆の立場であるならば、恐らく私も同じ事を言うだろう。
しかし私の心は清々しかった。
一歩踏み出した暗い一本道は次第に光に包まれ、その光は果てしなく続く行先を明るく照らしていた。
誰かを想う事は一方で誰かを傷付け、何かを選択するには何かを捨てなければならない。
選択に伴う代償を支払うのは自分だけでは無いと、悲しげな顔を浮かべる叔母が、強く私に訴え掛けている。
考えれば何故見ず知らずの犯人をそこま気に掛けるのか、自分でも不思議であった。
自分と重なる何かがあり、彼を助ける事により自分も救われたいだなんて物語りは定番だか、そんな事も特に無い。
ならば彼を助けたいと言う思いは、同情や正義感、将又恋だろうか。
そんな馬鹿げた考えばかりが浮かび、どれも私の不可解な感情には当てはまらず心が晴れない。
いずれその感情を知り得る事が果たして出来るのだろうか。
編集者からの電話を受け病室を後にする叔母を背に、私はそんな事を考えていた。
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