湯浮(ゆうき) タモツの回想

17才だった、あの頃。オヤジに朝から晩まで怒鳴られながら旅館の雑用にコキ使われる日々に、オレはウンザリしてた。

なんでもいいから、とにかく実家を飛び出て一人暮らしをしたいと。四六時中おもってた。

そのために、どうしても、ある程度まとまった金が欲しかったんだ。


客室の清掃せいそうのついでに、備え付けの金庫の中をコッソリのぞくのは、もはやルーティーンの一部と化してた。


当時の客室の金庫は、利用者が任意の4ケタの数字をパスワードとして設定する、いわゆるダイヤルロック式の手提げ金庫で。

実はこのテの金庫って、とある同じ数字を4ケタ入力すると、設定したパスワードに関係なく必ず開けることができた。

もともとの仕様だったのか、メーカーも把握してなかったバグだったのか、分からないが。

ネットに転がってたライフハックのまとめブログで、たまたまオレはそのネタを見かけて知っていた。


あの朝も、ちょうど部屋を出て行こうとするオッサンと宿泊棟の廊下でバッタリ出くわし、直に客室の清掃せいそうを頼まれたから、ついでに金庫の中をのぞいたんだ。

飾りけのない二つ折りの黒財布がひとつに、青い蝶の標本がひとつと、いかにも高そうな化粧箱入りの腕時計がひとつ。

それと、輪ゴムで無造作にくくられた、ムキダシの万札まんさつたばが5つ置いてあった。

あとで数えたら、一束ひとたばあたり、ちょうど100万円づつあった。


どれも、使い古されたシワだらけの紙幣しへいばかりだった。

1枚1枚ちょっとづつ、長い時間をかけて貯め込んできたんだろうなと。パッと見ただけで想像がついた。


連泊している間、オッサンは毎朝、早朝に散歩に出ていた。

露天風呂の裏手の林に、冬越ふゆごしの珍しいアゲハ蝶のサナギが見つかるんだそうで。


オッサンは、若い頃に会社経営に失敗して借金まみれになり、奥サンと小さい娘とを残して家を出たんだそうだ。

それから、医療廃棄物いりょうはいきぶつだとかのヤバめの産廃さんぱいを処理したり、危険で過酷かこくな非正規のブラック労働で必死に汗水をたらした。

苦節くせつ20年、ようやく新しい事業をやり直すだけのメドがついたから、長年のあかと疲労を温泉でキレイに落としてから、小ザッパリした姿で奥サンと娘の元に帰るんだ、と。

ある晩、夕飯ゆうはんを給仕しにいったオレに、少し酒くさい息を吐きかけながら、しみじみと笑って言っていた。


娘は、蝶が大好きなんだそうだ。


オッサンがまだ家族と一緒に暮らしてた当時、大きな青いアゲハ蝶がサナギから羽化するところを、小さかった娘と観察した思い出があった。

だから、オッサンは、露天風呂にめったに客のいない早朝を狙って、より大きくて元気そうなアゲハ蝶のサナギを探し回ってたんだ。

それを娘へのミヤゲにするんだって。サナギが美しい蝶に羽化する瞬間を一緒に観察するんだって。昔みたいに。

そう言ってたっけ。


オレは、壁の時計をサッと横目で見上げた。オッサンが散歩に出かけてから、まだそれほど時間は経ってない。

つぎの瞬間オレは、金庫の中の札束さつたばと腕時計の箱を、自分が着てた半纏はんてんのポケットに押し込んでいた。


このまま旅館を飛び出して、なるべく遠くへ家出しよう。これだけの金があれば、手ブラでも、どうとでもなる。

ジャージの上に旅館の従業員用の半纏はんてんを羽織った格好だが。着替えなんかでグズグズしてるヒマはない。


オッサンやウチのオヤジに見つかる前に。

今すぐ逃げなきゃ……。


ヘタクソなドラムみたいにブッ壊れた心臓のリズムが、高速でバクバク耳に届いた。

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