桃賀 香(ももが かおり)の怪談

「これは、アタシが前の事務所でアイドルグループやってた頃に、同じ事務所の女優さん志望の女のコから聞いた話です。カノジョはもう芸能界やめちゃってるので、……仮に、"C子"ちゃんとしておきますね。


C子ちゃんは、小さいころから蝶が大好きでした。というのも、まだ幼稚園に通ってた頃に、大好きなお父さんと庭で遊んでいて、蝶のサナギをつかまえたことがあって。

お父さんが、サナギをくっつけたまま木の枝を折って、虫カゴに入れてくれたのね。

それからは、C子ちゃん、お父さんと一緒に毎日毎日サナギの成長を見守ったんですって。


ある朝、「C子、C子、早く起きてごらん」ってお父さんに揺り起こされて、眠い目をこすりながら虫かごをのぞいたら、ちょうどサナギが割れて。

真っ青な大きな羽根の、アゲハ蝶が出てきたそうです。

最初はクシャッとしぼんでた羽根が大きく立派に広がってパタパタ動き出すと、C子ちゃんとお父さんは、すぐに蝶を庭に放って逃がしてあげたそうです。

蝶は、お別れのアイサツでもするみたいに2人の頭の上を何回も旋回せんかいしたあとに、晴れた青空を気持ちよさそうに上へ上へと飛んでいって、そのうち見えなくなりました。


それが、こども心にもすごく神秘的だったから、C子ちゃん、すっかり感動して。それ以来、蝶に夢中になったのね。

ハンカチやお洋服も、幼稚園のお弁当箱も靴下も、みーんな蝶のデザインのでそろえてたんですって。

とにかく蝶が大好きで。そんなC子ちゃんをいつもニコニコ見守ってくれて、お仕事帰りにいろんなお店をまわっては、蝶がモチーフになってる小物とかアクセサリーなんかを見つけて買ってきてくれるお父さんのことも、もちろん、すっごく大好きでした。


お父さんは、大きな会社の社長さんだったんだけど、やがて、C子ちゃんが高校生のときに、悪い取り引き相手にダマされて、倒産してしまったんです。

お父さんは、大切な家族に迷惑がおよばないようにと考えてお母さんと離婚すると、1人で家を出て行ってしまいました。

それっきり、スマホも全然つながらなくなって、音信不通になってしまったんです。


今まで家族3人で仲良く暮らしてた立派な家も売り払ってしまうと、C子ちゃんはお母さんと2DKのアパートに引っ越して、2人暮らしをはじめたそうです。

ちょうどその少し前に芸能事務所にスカウトをされていたので、自分の高校の学費も、タレントのお仕事でまかなってたんですって。


お母さんは、アパートに引っ越して以来、近所のスーパーでパートをしてたんですが、それから半年もたたないうちに恋人ができて、その人のススメで、市内の繁華街の飲食店でお仕事を……いわゆる水商売を、はじめました。

C子ちゃんは、別に、飲食店のお仕事に偏見とかはなかったけど。お嬢様育ちですごく上品だったお母さんが毎日お酒の匂いをプンプンさせながら、だらしなく酔っぱらって朝帰りするようになったのが、イヤでイヤでたまりませんでした。


C子ちゃんはガマンできずにアパートを出て、タレント事務所が用意していた女子寮に移り住んだの。

そうしたら、お母さんの彼氏は、C子ちゃんのいなくなったアパートに図々しく乗り込んできて、お母さんと一緒に同棲どうせいをはじめちゃったそうです。


C子ちゃんは、お母さんの彼氏だというその男の人が大嫌いでした。

だって、お母さんを自分の知り合いのお店で働かせながら、自分はぜんぜん仕事をしないで遊んでばかり。

こういうの、なんていうんでしたっけ……ヒモ、っていうの? まさしく、そんな感じなんですもん。

こんな男が自分の新しい父親になるかもしれないと思ったら、ゾッと寒気がして。イヤでイヤで、たまらなかったのね。


それで、大好きだったお父さんのことを思い出すと恋しくて恋しくて。

どんなに借金があったってかまわないから、帰ってきてほしいって。また家族3人で暮らしたいって。そればっかり祈ってたんですって。


それから、高校を卒業してから、C子ちゃん、本格的に芸能活動をやっていくことにしました。

どんな小さな端役はやくでも、話がくればすぐにオーディションを受けて。業界の人に積極的に顔を売っていくうちに、舞台やテレビドラマの単発のお仕事なんかをわりとコンスタントにもらえるようになったんですって。


そんなある日。夜遅くにお仕事が終わったあと、いつもどおり寮に帰って自分の部屋のベッドでグッスリ眠って……。

すると、まだカーテンの外が少し薄暗い明け方の時間に、枕もとのスマホが鳴りだしたので、目を覚まして見ると、お仕事用のアカウントにダイレクトメールが届いてたそうです。

いかにも捨てアカっぽいアカウントからだったんですけど。C子ちゃん、お仕事先で他のタレントさんたちに連絡先を聞かれることって日常茶飯事にじちょうさはんじだったし、自分の顔を売るために積極的に教えてもいたので。気軽にメールを開いたのよね。


メールには、メッセージはヒトコトも書かれてませんでした。ただ、画像がひとつだけ貼付してあって。

その画像っていうのが、C子ちゃんの大好きだった青い蝶の羽根の一部を画角がかくいっぱいに撮影した感じの写真だったらしいんですけど。

羽根のところどころが、赤く汚れてたんですって。まるで、点々と血が飛び散ったみたいに。


その画像を見た瞬間、C子ちゃん、ハッと直感がひらめいたそうです。

"このメールを送ってきたのは、お父さんに間違いない"って。

お父さんは、C子ちゃんが蝶が大好きなことを誰より一番知ってたから。

だから、C子ちゃんが子供の頃に一緒に見たのと同じ種類の青い蝶の写真を送ってきたんだって、そう思ったのね。


けど、その蝶の羽根に血がついているのは、なぜだろう?

すごく、不吉な感じがしますよね?


お父さんの身に何か悪いことが起こったんじゃないかって、心配で心配で。

C子ちゃん、すぐに返信を送ってみようとしたんですけど、そのときにはもう相手のアカウントが消えてしまってたんだそうです。


それから、しばらくたった日。今度は、お母さんから電話がきて、「もしもし、C子? お母さんね、アパートの階段で足を踏みはずして、骨折をしちゃって。入院が長引きそうなの。だから、着替えとかの荷物を持ってきてほしいんだけど」って。


C子ちゃん、急いで病院にけつけました。


そうしたらね、病室にお母さんの恋人の男が来ていて、「入院なんか必要ないだろ? ちょっと押したくらいで、オオゲサに転びやがって! 帰るぞ、ほら、来い!」って怒鳴りながら、ベッドで横になっているお母さんの包帯だらけの手をムリヤリ引っ張ってたのね。

お母さん「痛い、痛い! お願い、離して!」って泣き叫んでて。


C子ちゃん、あわてて、廊下にいたお医者さんや看護師さんたちに助けを求めました。

お医者さんが毅然きぜんとして「ただちにお引き取りいただかないと、警察を呼びますよ!」って言ってくれたから、男は、しぶしぶ帰って行ったけど。


でも、C子ちゃん、それで分かったんです。お母さんは、あの男に暴力をふるわれてるって。

骨折も、きっと、それが原因でしょう。


お医者さんも察したみたいで、「あの男は今後この病院に出入り禁止だ」って言ってくれたんだけど。

当のお母さんは、男と別れる気はないみたいで。退院したら、また一緒に暮らすつもりなんです。


C子ちゃん、暗い気持ちを抱え込みながら、病室を後にしました。

帰りの電車のシートに座って揺られながら、タレント事務所の寮まで帰る途中、膝の上にスマホを、こうやって置いてね。

例の青い蝶の羽根の画像をディスプレイに表示して、ジーッと見つめながら、「お父さん帰ってきて。お願い、すぐに帰ってきて。お母さんを助けてよ。お父さん、お父さん、お父さんっ!」って。心の中で必死に祈ったの。


すると、うつむいてた視界のスミに、青い粉末のようなものがパラパラッと舞い散るのが映ったそうなのね。

C子ちゃんがハッとなって顔を上げると、目の前をふわふわふわーって。青い蝶が。

キラキラ光る鱗粉リンプンを振りまきながら飛んでたんですって。


"ガタンゴトン"と、単調なリズムに従って行き過ぎる窓の外は、夕暮れ時で。

柔らかいオレンジ色のが差し込む中に、オトナの手よりも大きな羽根を広げた蝶が、綺麗な青いドレスを見せびらかす小さな女の子みたいに、C子ちゃんの顔のまわりを行ったり来たり。飛びまわっていたの。なんだか夢を見ているような、幻想的な光景だったそうです。


車両はそれほど混んでなかったけど、でも、それにしても、シートがほとんど埋まっている程度には乗客がいたのに。誰もその蝶には気付かないみたいで。

それがまた、すごく不思議だったそうです。


その蝶は、C子ちゃんの瞳にしか映らないものだったんでしょうね、きっと。

やがて、電車が次の停車駅につくと、蝶は、開いたドアの外へひらりひらりと飛んでいって、C子ちゃんの視界から自然に遠ざかっていったそうです。


次の日、病院にいるお母さんから電話がきて。お母さんの恋人が急死したって、言ったそうです。

酔っぱらって駅のホームから転落して、急行電車にはねられた、って。


その駅っていうのが、C子ちゃんが電車で見かけたあの青い蝶が降りていったのと、同じ駅だったの。


後になって、C子ちゃん、目撃した人の話を小耳にはさんだらしいんだけど。

それがね。電車にはねられた男は、どこからともなく飛んできた大きな青い蝶を何かにとりつかれたみたいに夢中になって追いかけまわして、そのままフラフラとホームをさまよっているうちに足を踏み外して線路に落っこちたんだって。


青い蝶は、線路の上を旋回せんかいしながら、高く高く飛んでいって。闇に溶けて見えなくなったそうです。


「あの青い蝶は、きっとお父さんだったんだ」ってC子ちゃんは思ったそうです。

お父さんの魂が、青い蝶の姿を借りて現れてきたんだ、って。


それと同時に確信したの、「お父さんはもう、この世にはいないんだ。蝶の羽根の画像がスマホに届いたときには、もう、お父さんは亡くなってたんだ」って。

C子ちゃん、ちょっと寂しそうに微笑んで、そう言ったんです」


自然とこみあげてきた切なさを逃がすように、桃賀ももがかおりは、ふっくらとツヤめくサーモンピンクのクチビルを可憐にすぼめながら、深い吐息でロウソクの火を吹き消した。

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