神様と女の子のお話
そして、また時間が過ぎました。
女の子は、ずっと神様に話しかけていました。
元気に明るく、同じ言葉を繰り返しても気にしないぐらい、たくさん話しかけていました。
「あのね神様、あのね――――」
起きて、話して、眠りました。
それが女の子の一日です。 外が見えないから朝も夜もありませんが、これが最近の女の子の『いつも』です。
神様はたくさん無視して気まぐれに口を開いてくれるだけですが、女の子には関係ありません。
そうやって聞いてくれる誰かが居るだけで、それが神様なら、女の子にとっては十分に幸せなことでした。
変化といえば、いつもなら立派な格好の人間達が神様に挨拶に来ていたのに、最近は全く見なくなったことです。
最近は神様と女の子だけでずっと過ごしています。
そして女の子は少しだけ咳をして、お腹に手を当てました。
ここ最近ずっと、何も食べていないのです。
いつもなら人間用の扉につけられた、女の子でも通れないぐらいもっと小さな扉がこんこんと小さく叩かれて、何かが置かれます。
そこにはお盆があって、その上にお皿が二つあって、水と乾燥した肉一つと葉が二枚置いてあります。
せいぜい女の子が、傷だらけの手で食べていた程度です。
でも最近ずっと、それが全くないのです。
扉を叩く音も、食べ物も、何もありません。
女の子は水も、何も、食べていません。
女の子は不思議そうに扉を見ますが、何も起きません。
だって、もうここには、誰も居ないのです。
神様よりも病を怖がった人間達は、何もしてくれない神様のことが嫌いになって、全員離れてしまいました。
贄とかいうどうでもいい生き物のために食事を用意するわけがありません。
誰も居ないから、誰か来るわけがありません。
「ねえ神様、神様はずっと大きいの? 小さい時は、もっと小さかったの?」
「…………」
神様は女の子を無視します。
何も言いません。
自分の状況を分かっていながら、神様は何もしません。
ただ、ただ、苛々していました。
ちゃんとした理由はなく、ただ不機嫌で、ただ苛々していました。
神様はふと起き上がります。
何も言わずに、女の子を見下ろします。
「神様?」
久しぶりに神様の反応があったことに、嬉しそうに女の子は笑います。
無視されているのには慣れているけど、反応があるとやっぱりとても嬉しいのです。
痩せた女の子は神様が自分を見つめてくるので、自分もニコニコと笑って見つめ返しました。
「お前」
「なーに神様?」
神様は静かに女の子を見ます。
少し見つめあったあと、神様が口を開きます。
「空を見たいと、言っていただろう」
「えっ?」
それは、女の子が言うのも考えるのもやめていた事でした。
ずっと暗いところに閉じ込められて、たまに来る人間が見せてくれる絵本で知った『外』は、女の子にとって未知なものでした。
だけど神様がダメだと言ったから、もう忘れるようにしていたことでした。
「えっと、でも、あの」
「出ていけ」
女の子は驚いて、口を大きく開きました。
何を言われたのか、分からなかったのです。
「此処から消え失せろ」
「…………え?」
女の子がその言葉の意味を分かるようになるまで、そんなに時間はかかりません。
だから困ったように口をパクパクとさせて、神様に言います。
「で、でも、ニエは神様に殺されないと、いけないから……」
「何故俺が、つまらないお前を殺してやらなければならない?」
神様の視線は、人間用の扉に向けられます。
固く鍵をかけて閉じられていたはずの、頑丈な人間用の扉が、突然壊されました。
大きな音を立てて壊れて、扉は二度と閉まらなくなってしまいました。
「そこから出ていけ」
突然扉が壊れても驚かず、当たり前みたいに神様は言います。
大きな音に女の子は驚きましたが、すぐに心配そうに神様を見上げて尋ねました。
「出るって……神様も、いっしょに?」
「何故俺が、お前と一緒に出てやらなければならない?」
ふん、と鼻で笑い飛ばします。
「俺は此処でいい」
神様にとって、もうこの女の子は要らないものでした。
誰もこの女の子を必要だと思っていないように、神様にとって、居なくてもいいものでした。
どうせ、この国はもう終わりです。
この女の子を閉じ込める人間も、理由も、何処にも居ないのです。
だったら最初のように、神様は此処に一人で居るべきでした。
神様は一人が好きです。 ずっとずっとそうだったから、最期まで一人で良いのです。
静かでつまらない日々を、神様は取り戻そうとしていました。
「じゃあ、ニエも此処に居る。 神様といっしょがいい」
「お前が居ると、喧しくて苛々する。 俺を恐れないお前なんか要らん」
「ニエなんかいらないのに、なのにニエのこと、殺してくれないの?」
「俺を恐れないお前など、殺す価値もない」
神様は冷たく言います。
そして、酷い言い方で続けます。
「消えろ、二度と戻るな」
それは間違いなく本気でした。
それが分かったから、女の子は慌てて首を横に振ります。
「やだよ、神様、ニエは神様のこと、こ、怖いよ? 神様、ニエは神様のことが怖いよ。 すごく怖い、ニエは怖いと思ってるから、殺しても大丈夫なんだよ?」
「俺は嘘が嫌いだ、今すぐ俺の傍から消えろ」
「や、やだ……」
女の子は首を横に振ります。
女の子にとって、空は憧れの場所ですが、それ以上に、神様のことを必要としていました。
家族も友達も持ってないから、女の子は神様のことが好きでした。
どんなに恐ろしいことを言って、酷いことをされても、それでも女の子にとって神様のことは大切でした。
「ニエも神様といっしょが――――」
「出ていけ!!」
神様が初めて、大きな声を出しました。
雷のように大きくて全身が痺れる声で、女の子は初めて、怯えたように体が竦みました。
「神様」
怖がった顔と震えた声で、すがり付くように神様を見上げます。
「ど、どうして? ニエは、悪いことした? だから神様は、ニエのこと、いらないって言うの? じゃあ、ニエのこと、殺してよ……ニエも、ニエなんかいらないよ」
「お前など殺す価値も無い」
「…………で、でも……」
そんな怯えた顔を見て、神様は初めて満足しました。
恐れ知らずの人間にも、そんな感情は存在していたのです。
こんなにも簡単に出来るのなら、最初からこうしていればよかったと思ったぐらいです。
その理由が『自分と離れたくないから』なのはとても不愉快でしたが、最後の最後に少しだけ満足して、神様は言いました。
「お前が居ると、俺は不愉快で仕方ない。 出ていけ」
神様は本気で、女の子をそこから追い出そうとしていました。
本当に、女の子を要らないと思ったからです。
殺しても楽しくないのだから、もう顔も見たくないと思っていたのです。
それでも女の子は嫌そうに首を横に振って、むしろ神様に近寄ろうとしました。
「かみさ、」
大きく耐えられないぐらいの強い風が吹いて、女の子を人間のためにある扉の方まで追いやります。
女の子はとても簡単に転がって、あっさりと扉の外にまで追い出されてしまいます。
せっかく部屋の外に出られたのに、女の子は神様に向かって叫びました。
「やだ、嫌だよ神様、ニエは神様に殺されるんだよ。 神様の居るところがいい。 ニエは神様といっしょがいいよ!」
女の子が扉をくぐって部屋に戻ろうとすると、また強い風が吹きます。
軽くて小さな女の子には、とても耐えられません。
あっさりと吹き飛ばされて、転がります。
「やだ、神様、やだ、やだよ。 ニエのこと、捨てないで……」
それでも部屋に戻ろうとしますが、神様の拒否は強い風となって、女の子を追い出そうとするのです。
「二度と戻るな」
神様は冷たく吐き捨てます。
本当に、戻してくれません。
「…………神様」
女の子はとても嫌そうにしていましたが、でも神様は頑なでした。
じっと女の子を睨んで、絶対に中には入れてくれません。
もう二度と、入れてくれません。
女の子が、檻以外で一つだけの居ても良かった場所は、女の子を要らないと言っていました。
「……や、やだよぉ……」
「黙れ」
覆せない拒否を感じ、女の子は暗い顔をして、神様に背を向けました。
壁に手を突いて、たったの一人、とぼとぼと部屋を去りました。
そして女の子の姿が見えなくなるのを見て、ようやく神様は、邪魔者が消えたとばかりに溜息を吐いて、また目を閉じてしまいました。
女の子は壁に手を突きながら、一人で廊下をゆっくりと歩きます。
元々、神様をそこに居させるために作った場所です。
道は複雑ではありませんがとても深く、他にも部屋があるせいで、簡単に外に出られそうにもありません。
それに女の子は、今まで一度もたくさん歩いたことがありません。
すぐに疲れて、足が痛くなってしまいました。
他には誰も居ないから、窓も明かりも無い廊下はとても真っ暗です。
冷たい風が吹いて、他には何の音もしません。
女の子に分かるのは何処に壁があるかどうかだけです。
女の子はずっと此処で育ってきたから、今がどれくらいの深さで、何処に向かえば外なのかなんて、知りません。
ただ壁を手で触れて確認し、ゆっくりと惜しむように、どんなに身体が疲れていても、歩き続けます。
「神様」
神様の言う通りに、女の子はとにかく部屋から離れていきます。
ゆっくりと、使えない足を引きずりながら、女の子は一人ぼっちで外に向かいます。
向かっているのは、生まれて初めての外です。
そこには限りない空があって、太陽があって、雲も鳥もあります。
女の子が憧れた、青い空が外で待っているのです。
「神様ぁ……」
だけど女の子は嬉しくありません。
本当はずっと青い空を見てみたかったけど、空を見てもいいと神様に言われたけど、ちっとも嬉しくありません。
「あっ」
小さな石に躓いて、女の子は大きく倒れます。
床が硬くて咳をして、足を擦りむいて怪我をして、立ち上がる力も出てきません。
なんとか這ってみたけれど、すぐに力尽きてしまいます。
「ひどいよぉ、神様、いやだよぉ……行きたくないよぉ…………」
女の子の両目から、涙がぼろぼろと流れて落ちます。
今まで片手で数えられるぐらいにしか泣いたことのない女の子は、初めて、泣いていました。
「なんでニエを、捨てるの」
座ってたって神様も誰も来てくれないけど、どうしても悲しくて寂しくて、胸が痛くて、動けなくて。
女の子はそこで、声を出して泣いていました。
女の子は、人間に何を言われても、笑われても、我慢出来ました。
ずっと一人でも、誰かと話せなくても、優しくされなくても、頭を撫でてもらったことがなくても、我慢していました。
神様がどんなに恐ろしくて、話しかけても答えてくれなくて、何回自分を殺そうとしてきても、関係ありません。
女の子にとっては誰かがずっと近くに居ることも、誰かとたくさんお話が出来ることも、誰かに触られたことも、初めてだからです。
神様に殺されることよりも、神様に捨てられる方が、女の子にとっては嫌なことでした。
大粒の涙がぼろぼろと流れて、それを拭う手が涙で濡れていきます。
今まであげたこともないような声で、悲しさを吐き出します。
「神様」
ぼろぼろと透明な涙がこぼれて、泣き声が響いて。
泣いて、泣いて。 泣いて、咳が出て。
女の子はその場で、激しく咳き込んでしまいました。
~・~・~・~・~・~
数日ぶりにようやく一人になれた神様は、静かになった場所でくつろいでいました。
もう五月蠅い人間は居ません。
いちいち話しかけてくる人間も、媚びるような目で都合のいいことを言う人間も、自分を恐れる人間も居ません。
そこには神様しか居ません。
国から人間が居なくなって、もう神様には行く場所もありません。
神は人間と同じように他の場所で生きることが出来ますが、この神様は、何処かに行こうという気を無くしていました。
どうせ何処に行っても同じことしか起こらないのです。
だったら、誰からも怖がられない神様に残されているのは、跡形もなく死ぬことだけでした。
何百年も怖がられて無意味に生きてきた神様は、生きていることにも飽きていました。
媚びるような目も、内心では嘲っている目も嫌いです。
どうせ不愉快で苛立つようなことしかないのだから、死んだって同じです。
神様は、病の理由を知りません。 興味もありません。
散々に恨みを買って来たのだから、何処かの神が呪いをばらまいたとしてもおかしくはありません。
ただ、神様は強い神様だから、弱い神の呪いで死ぬことはないだけでした。
「…………」
やっと、精々しました。
神様はようやく一人になれて、面倒なことから解放されました。
馴れ馴れしい人間も、自分を恐れない人間も、それどころか触ってくる人間も、もう此処には居ません。
神様はずっとずっと、一人で寂しいから生きていられるのです。
皆に怖がられるからこそ、長く生きているのです。
だから一人ぼっちの神様には、最初からそんなものは要らなかったのです。
「………………」
でも何百年も生きてきた神様なのに、たったの数日、五月蠅いのが居ただけで、妙に物足りない気がしました。
五月蠅くないことの方に、違和感を覚えるようになっていました。
苛々して尾が大きく揺れます。
そろそろあの女の子は、外に出られたでしょうか。
神様は人間用の扉の向こうがどうなっているのか知りません。
ただ此処に人間が居なくても、国のどこかにはまだ人間が居るはずだから、その人間に拾われて、何処かに消えるはずです。
女の子はきっと外のことを知って、もっと賢くなるでしょう。
そうしたら神様がどれだけ恐ろしく酷い怪物なのか、自分がどれほど恐れ知らずの幸運な人間なのか、思い知るはずです。
神様は、それでいいと思っていました。
怪物だとか言われて嫌われるのには、どうでもいいぐらいに慣れていました。
いやその前に、きっと好きなだけ空を見て、大喜びしているはずです。
見たことのない空を見て、ニコニコと笑って、飛んで跳ねて、とても嬉しくなっているはずです。
「…………」
ふと神様は、外で雨が降っていることに気付きました。
晴れていないのなら、出してやった意味がありません。
それに、嗅いだことのある血の匂いが微かに向こうからしました。
歩くと転ぶような人間だから、どうせ何処かで転んだに違いありません。
「………………」
それはくだらない考えです。
ただ少しだけ、バカみたいにはしゃいでる姿でも遠くから見て、嘲笑ってやろうかと思いました。
それはきっと、とても愉快な光景でしょう。
でも人間用の扉は神様にはとても小さくて、今のままでは通れそうにありません。
あれは人間が通るための扉だから、当たり前です。
「……………………」
なので仕方なく、嫌々で、渋々、神様はなりたくない姿になりました。
くだらなくてつまらない、しかしその扉に合わせたような見た目になりました。
この姿は、歩幅がさっきまでの姿よりも短いから嫌いです。
足は遅くて、小さくて、弱くて、細くて、鎧や服なんか着ないといけなくて、これだからこの姿なんて嫌いなのです。
真っ暗で今まで一度も通ったことがない道で、血の臭いを辿ります。
くだらない形になっていても、神様の力が変わったわけではありません。
たとえ真っ暗でも、外が何処にあって、どう歩けばいいのかぐらい、はっきり分かっています。
神様はその途中に、ゴミがうつぶせで転がっていることに気付きました。
白かった服はすっかりと汚れています。
真っ赤な髪が、血のように広がっています。
その今の神様よりもずっと小さくて細い体の下には、髪と同じぐらい真っ赤な血の泡が、その体に収まっていたと思えないぐらい大量にまき散らされていました。
「……何をしている」
神様はゴミに声をかけました。
それは、人間と同じ形をしていました。
でもゴミのように転がっています。
力を失って、うつ伏せになっています。
女の子の細い手足は、床に投げ出されています。
「まだ外ではないが」
女の子は答えません。
ぐったりとして、動きません。
仕方ないから、神様は手を伸ばして女の子を起こしてやりました。
真っ赤な血を口どころか目や鼻から吐き出していますが、女の子はまだ生きていました。
女の子は大きく咳払いして血を吐き、目を開けます。
ぼうっとしながら、自分の状況を確かめます。
「……え? あ、あれ? ……神、様?」
病に全身を侵された女の子は血を吐きながら、かすれた声で言います。
目の前に居るのが誰なのか、声でようやく判断出来ました。
「か、かみ、様だぁ。 でも、あれ、なん、で?」
そして女の子は嬉しそうに笑いましたが、血は止まりません。
傷なんて無いのに、体は勝手に血を吐いていきます。
女の子の小さな体から、必要な血が消えていき、熱も力も無くなっていきます。
「……消えろと言ったのに、さっさと消えないのが悪い」
神様は適当なことを言って、女の子を持ち上げました。
神様はとても力持ちですが、そうでなくても簡単に抱えられるぐらいに、女の子は軽く、冷たくなっていました。
「か、みさま、ニエにさわって、いいの? ニエ、すっごく汚いよ」
「黙れ」
神様には、病を治すことは出来ません。
女の子の病を治してもやれません。
だからせめて、空ぐらい見せてから死なせてやろうと思いました。
きっとその程度で大喜びで空を見ながら、そのまま死ぬに違いありません。
別に、今だって神様は優しいわけではありません。
この女の子が期待外れなものを見て死ぬ様子を、一番近くで見物してやろうと思っただけです。
そんな意地悪と冷酷さから来た行動でした。
神様は外に向かいます。
いつもの神様にとっては煩わしいぐらいの時間をかけて、その形としては早く、外を目指します。
女の子はずっとぐったりとして、ぼんやりと目を開けています。
「…………あのね、神様」
抱き上げられて運ばれながら、女の子は笑顔で小さく呟きます。
「ほんとはね、ニエ、かみさ、神様のこと、ほんとに、怖かったの」
「今更か」
何か言っていますが、何を言おうと構わずに神様は女の子を運びます。
「か、み様が、ニエのこと嫌いだったら、どうしようって……会うとき、すっごく怖かった。 ニエには、神様しか居ないから、神様に嫌いって言われたら、わたし、ほんとに……」
これを聞いて神様は、はっきりと言い返します。
「俺は、お前が嫌いだった」
「……うん」
女の子は笑顔でした。
少しも、怖がっていません。
「でも、神様、優しかったから、よかった」
「お前の目玉は何処に付いている?」
神様は、一度も女の子に優しかったことはありません。
無駄な行動の一つ一つを許してやったのは、ただの気まぐれです。
だけど女の子は、ニコニコと笑っていました。
「だって、ニエに空を見せて、殺してくれるんだよ? 神様ら、やっぱり優しいよ。 ニエのワガママで、空をみせてくれて、ありが――」
血の泡を吐き出し、女の子は激しく咳き込みます。
今にも折れそうなぐらいに身体を曲げて、たくさんの血が女の子の身体から消えていきます。
神様も血の泡で汚れますが、構わずに歩き続けます。
「空はもうすぐだ」
外の明かりが見えました。
まだ空は見えませんが、出てしまえば、雲に覆われて雨を落とす空があります。
外まで、あと少しです。
神様はずっと女の子を運んでいました。
肌も服も全部血で濡れていましたが、それでも神様は女の子を運んでいました。
全部、気まぐれです。
どうせもうすぐ、死ぬのですから。
「かみさま」
外の明るさに触れながら、ふと、女の子が言います。
ぼんやりと天井を見上げて、ニコニコと笑顔で言いました。
「空って……きれい、だね」
「……何?」
まだ、廊下を歩いているところです。
空なんて、ちゃんと見えていません。
二人の頭の上にあるのは、つまらない天井だけです。
これが、空なわけがありません。
冗談にしてひどく退屈なものです。
でも女の子は笑顔でした。
とても幸せそうに笑って、ぶらりと腕を下げて、目を開けていました。
「おい」
神様は歩きながら声をかけます。
天井を見て空だと言うだなんて、普通なら、絶対に有り得ません。
「……天井と空を、間違えたりしないんじゃなかったのか」
女の子が自分で言ったことです。
神様は、それをちゃんと覚えていました。
だから聞いたのに、でも女の子は何も答えません。
ぼうっとした目で、ぐったりとした身体で、天井を見ています。
女の子は、今までずっと暗くて狭い場所に閉じ込められていました。
外なんて一度も見たことがありません。 灯だって、遠ざけられていました。
食事は、冷たくて硬くて少ないものばかりでした。
女の子さえ生きていたら、あとは女の子に構うものはありません。
そして女の子は、たくさん、酷いことをされました。
火傷をして、危ない雷を近くてたくさん感じて、何度も首を絞められて、叩かれて。
そんなことをされて、体がダメにならないわけがありません。
さっきだって、女の子は声を聞いて、そこに居るのが神様だと分かっただけです。
神様の今の形がどんなものなのか、女の子は気付いていません。
たとえ廊下が明るくても、女の子の見えるものは一緒でした。
ただぼんやりと感じた外の明るさを、空だと間違えただけで。
もうとっくに、空だって見えない目だったのです。
「おい」
外に出て、神様は曇り空から落ちる雨を浴びました。
女の子の血だらけの体も雨を受けて、濡れていきます。
でも女の子は動きません。
もう動きません。
元々弱い体だった女の子は、この恐ろしい病にかかってしまえば、死まであっという間でした。
空が、神様の真上だけ雲が動き、晴れていきます。
周りでは雨が降っているのに、神様の真上だけ、青空になっていました。
「これが空だ」
女の子を抱えたまま下ろして、神様はまた声をかけます。
体を揺さぶって、声をかけて、だけど女の子は動きません。
「お前が見ながら死にたいと言っていた、くだらない――――」
ずっと何も見えなかった目は開いたまま、血を吐いたまま、体にはもう何の力もありません。
手も足もぐったりとして、動かすことは二度とありません。
心臓は動かないし、その目は一度も空を見ていないままです。
「……俺をただの嘘つきにするつもりか」
神様は女の子に声をかけました。
女の子は動きません。
二度と動きません。
もう笑ったり、喜んだり、動いたり、声を発したりしません。
「おい」
さっきの神様が望んだ通り、本当に静かな時間が訪れました。
五月蝿くて邪魔な人間は、頼まれてももう喋りません。
「まだ、見ていないだろうが」
なのに神様は女の子に声をかけます。
そんなことをしたって無駄だと分かっているのに、無様に声をかけます。
神様は今までたくさん殺してきたので、形が変わっていようと死体とそうでないものの区別ぐらいつきます。
女の子は死んでいました。
間違いなく、死んでいました。
動くはずの無い、ただの死体となっていました。
「おい」
それでも、分かっていても、神様は声をかけます。
神様は死体なんて見慣れているのに。
誰が死のうと何とも思わないのに。
優しさなんて無いから、たくさんの人を、平気で見殺しにしてきたのに、今は一つの死体を前にして、意味の分からないことををしています。
「……お前は愚かだ、天井と空の区別もつかんとは」
真上の空は円の形をしてバカバカしいぐらいによく晴れて、そこから太陽の光が見えていました。
女の子の真っ青な肌は、明るく照らされます。
だけど、動きません。
「愚かだ」
神様は無表情で呟きます。
女の子を抱えたまま、空を見上げました。
「愚かだ」
バカみたいによく晴れた空は、とても綺麗な青色をしています。
女の子が憧れた、神様にとってはくだらない空が、そこに確かにあります。
少し濡れている神様は空を見上げて、そして最後に小さく呟きました。
「……一番愚かなのは、俺か」
~・~・~・~・~・~
「――――というところで、この話は終わり!」
椅子に腰かけていた詩人の青年は明るく笑って、物語を終えた。
物語を断ち切るように竪琴を大きく鳴らす。
「えぇー!?」
するとそんな詩人の言葉に、周りで聞いて居た子供達は批難の声を向ける。
「女の子死んじゃったのー!? 可哀想!」
「神様ってずっと酷い奴じゃん!」
「こんな中途半端なところで終わりとかオッサン何考えてるんだよ」
子供達は腕を振り上げて、詩人の中途半端さを詰った。
散々に言われた詩人は苦笑いをしながら頭を掻く。
「おいおい君たち、僕は君たちより年上なだけでまだまだ若いんだから、オッサン扱いはやめてくれないか、お兄さん傷ついちゃうなー」
詩人は大げさに泣いた真似をする。
しかし子供達はそんな大げさな素振りに一切流されることなく、詩人に向かってあれこれと不満を投げつけた。
そこはとある小さな町の集会所の中。
ふらりと立ち寄った詩人が町中の子供達と何人かの大人に、長い物語を聞かせた終わったところだった。
内容はかつて本当にあった国の、そこに居た神様と生贄の女の子の話。
といってもずっと昔のことだから、そんな女の子が本当に居たのかは分からない。
しかしまるで見てきたかのように言う詩人の物語に、どういう結末になるのかと子供達はそれなりに真面目に聞いていたのだが、その結末は随分と拍子抜けするものだった。
「それで、神様はどうなったの?」
子供達のうち一人が自然な疑問を投げかける。
「どうなったもこうなったも、そんな奇妙な病が流行って、国は当たり前のように滅びたよ。 そこに居た神様も、そのあと現れることは無かった。 だから神様はこの後、死んだのだろうね?」
「強いのに死ぬの?」
「国に人間は居らず、誰もあの神様を恐れなくなってしまったからね」
詩人は何処か歌うように、竪琴を軽く鳴らした。
いったいどこの文化で作られたのか分からないほど見た目は古臭い竪琴だが、まるで作り立てのように美しい音を響かせる。
「神ってやつは、人間みたいに心臓と脳で生きてない。 風を捕まえられないのと同じように、頭を潰されたところで生きている。 見た目は変幻自在、よって人間のように脳で思考する生き物ではないんだ」
椅子に腰かけた詩人は軽く足を組み替える。
砂埃を被ったあまり綺麗な格好ではないが意外にも若く見えて、顔だけ見て騙された若い女性陣も集会所に来ていた。
「神は人間よりずっと強くて長生きだけど、殺す方法は簡単。 皆が神様のことを忘れてしまうことだ」
詩人が片目だけ閉じて軽く笑ってみせれば、若い未婚の女性も少し顔を赤らめる。
「神様は、人間から向けられる感情を食って生きている。 それは喜びだったり怒りだったり色々だけど、残念なことに必要なのは一つだけだ」
「一つ?」
「そ、一つ。 親も無く一人で生まれてきた神様が、人間によって最初に与えられた感情だけが栄養源となる」
「……どういうこと?」
子供は首を傾げて、何も知らない人々も意味が分からないと不思議そうにする。
今の時代にも神は居るが、それでも神はただの人間の前に姿を現したりはしない。
大抵、国の一番重要なところに居るか神殿に居るか、あるいは山奥の誰も来ないところでじっとしているかだ。
彼らは別に神殿で働いているわけでもないし、神の生態について語られたところで、今一つピンとくるものではなかった。
「たとえば君たちの前に、とても大きく凶暴そうな熊が現れたとする。 周りには飼い主なんて居そうにない。 さて、どう思う?」
「えー……怖い?」
「お腹減ってるのかな」
「大人を呼んで、追い払ってもらう!」
子供達はそれぞれに思ったことを言う。
この決して大きくない町で、野生の大きな熊というのは分かりやすい恐怖だった。
「そうそう、その通り。 そんなのが来たら、とりあえず驚くし怖いよね。 君たちは逃げて大人を呼ぶか、石や枝でも投げつけるだろう」
それが良くないんだ、と詩人は竪琴を手すさびに鳴らす。
「もしそれが生まれてきたばかりの神様だったら、どうなるだろう?」
「どうって……どう?」
「生まれてきたばかりの神様には良いことも悪いことも分からない、ただ迷子で、興味と好奇心でふらりと人間に近づいただけだ。 でも何も悪いことをしていないのに石を投げられたら、どう思う?」
「そりゃあ、痛いのは嫌だよね?」
「なんで投げるのーって怒る!」
「痛くて泣いちゃうかも……」
「そう、それだよそれ。 そういうことなんだよ」
詩人は語る。
「人間は恐怖で石を投げ、農具で獣を叩くだろう。 でもそれが神であった場合、人間から最初に与えられた感情は『恐怖』だ。 その神はその後永遠に、恐怖を与え、人間から恐れられない限り、長生きすることは出来ない。 神っていうのはそういうものだ」
もっとも、と詩人はまた竪琴を一つだけ鳴らした。
「恐ろしい形の獣なんかが現れた場合、それが神かもと思って優しくするぐらいなら、石でもなんでも投げて追い払った方がずっと正しいんだけどね。 神なんてそんな沢山は居ないんだから」
「……じゃあ、さっきの話の神様も、そうなの?」
詩人の語った話から推測されることから、子供たちはごく自然な結論を呟いた。
「さっきの話の神様も、人間に酷いことをされたから、人間に酷いことする神様になっちゃったの?」
「たぶんねぇ。 いや僕、その神様と仲良しじゃないし、実際何があってどんな感情食ってたのかなんて知ってるわけがないんだけどね? 僕だって、人から聞いた話だからさ」
「……神様、可哀想……」
それでも子供達にとっては、何かを推測するには十分だった。
酷いことしかしていない神様に、好き勝手な過去を想像して、勝手に同情を始める。
だが実際どうだったのかは当人しか知らないことだ。
「同情するのは良いけど、食う感情と性格はまた別だよ。 優しい人々に愛された神が、その後人間に捨てられて酷い目に合わされて憎んで狂って、でも愛されないと生きられなくて、ずっと苦しんだってこともあるからさ。 あの神様が性悪なのは、そいつ自身のせいだよ」
どんなに可哀想な事情があったところで、それが他人に何かをすることを正当化する理由にはならない。
それは当たり前のことで、詩人は『あの神に同情する必要はない』と淡々とその場の人々に向けて言った。
「だから、何もしてくれない役立たずの神様なんかよりも病の方が怖くて、皆は他の国に逃げてしまって、それからあの神様は何処にも現れていない。 誰もあの神様のことを怖がらなくなって、忘れてしまったからね」
「でも可哀想だよ」
しかし子供たちの中ではすっかりと例の神様に対する印象に変化が出てしまったようで、同情することを止められないようだった。
「それじゃあ次は、別の神様の話をしよう。 とっても格好良い神様の話だ」
「格好良いってどれくらい?」
「それはもちろん、僕と同じぐらいにさ!」
詩人は明るく笑みを浮かべて、自信満々に自分を指さした。
あまりにも明るい顔で言うものだから子供達も大人も呆気にとられた顔をして、すぐに『何を言っているんだ』とため息を吐いた。
「まあまあ聞いていってよ、これはとても短い話、まるで蛇に足をつけるように、さっきのに比べたらどうでもいい話だ。 そう、その話の最初の舞台はとある森」
周囲のことに構わず、明るい顔をした詩人は竪琴を鳴らす。
「とある深い森の中で、一人の神様が生まれました――」
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