生贄のお話


 

 

 その国の神様は、天候を司る神様です。

 晴れも雨も曇りも雪も、神様の思い通り。 それほどに強い力を持っています。


 だけど、この神様は恐れられてはいません。  

 国民全てを愛し、恵みの太陽と雨をもたらし、時折嵐と雷を招く、慈悲深き神様なのです。


 神様の御力により、今日の天気は何なのか、七日先まで予め宣言されています。

 だから本当なら今日の天気は、一日中心地よく晴れでいるはずです。 国民はそれに合わせて行動しています。


 神様の言葉に間違いはありません。

 なのに、その日、その時、予言が外れました。 

 綺麗に晴れていたはずの空が突然真っ黒な雲に覆われ、激しい雨と風が吹き荒れ、近くに雷がいくつも落ちました。


 それまで有り得ないことに誰もが驚きましたが、それ以上に驚いたのは、もっと黒い影が空を遮ったことです。

 

 

 国民の誰もが驚いて空を見上げました。

 その影は、大きな獣の姿をしていました。

 真っ黒な毛並みに紫色に輝く縞模様をした虎に似た姿に、長い蛇の尾を持った、小さな家なら平気で踏みつぶせるほどに大きな獣です。


 

 国民は最初、それはこの国の神様に何かがあって、とてもお怒りなのだと思いました。

 でもすぐに違うのだと気付きました。


 この国の北には、別の神様が居ます。

 優しい神様と違って、こちらの神様は国民も平気で殺す恐ろしい神様です。

 黒と紫の、力の強い、とても恐ろしい神様です。


 誰もが『いつか向こうの神が現れるかもしれない』と怯えていました。

 そんな嫌な予感が、現実のものとなってしまったのです。



 黒い神様は雷雨と共に空を駆け、鉱山を飛び越えていきます。

 神様が通れば、その下の森や町には雷が落ちて、焼かれていってしまいます。

 

 向かっている先は鉱山ではなく、国の中心です。



 慌てたこの国の兵士達が、黒い神様を止めようと立ち上がります。

 でもどんなに立派な矢や槍を放っても、宙を駆ける黒い神様には届きません。

 ならばと魔法使い達が空を飛んで様々な魔法を放ちますが、神様の体に触れても一瞬で消えてしまいます。


 元々、神様というのは、どんなに弱い神様だとしても人間が簡単に勝てる相手ではありません。

 殺すどころか、傷つけることも難しいのです。


 国民達は悲しみました。

 北隣の国はとても恐ろしい国です。

 今まであった他の国は、この神様によって壊され、あの国の権力者たちによって支配されていくのです。


 だけど、国民達は希望を失っていません。

 だってまだ、この国には優しくて美しい神様が居るからです。




 黒い神様は突然止まりました。

 その地に四肢を下して、自分よりも高い、暗雲に覆われた空を見上げます。


「手間が省ける」


 そこには、青い神様が浮いていました。

 人間と同じ大きさと手足を持ち、青い髪に青い瞳、白の衣をまとい、頭からは真珠の大きな角を生やし、美しい女の顔を持つ、この国の神様です。

 青い神様は細い手を、天高く掲げました。


 青い神様を中心に、穏やかで力強い風が吹き抜けます。

 その風は、上空を覆っていた暗雲を吹き消してしまいました。 

 青い神様の真上から徐々に、透き通るような青空が広がっていき、光が青い神様へと降り注ぎました。


 足元に居る人間達が、正義の神様が現れたことに歓声を挙げます。


 

「隣の国に住まう同胞よ、ようこそ私の国へ。 随分と乱暴な来訪ですが、それがそちらの礼儀ならば一つの芸と受け入れましょう。 それで――我が国に如何なる用事ですか?」


 青い神様の声は柔らかいものですが、その目は怒りに満ちていました。

 これに対して、黒い神様は嘲笑います。



「愚かな、説明されないと分からないのか?」

「狼藉者の常識など分かりたくもありません」

「好き好んでそんな弱い形になる奴は、やはり頭の出来まで悪くなるようだ」

「……これは人を愛し、人と親しく在ろうと思うが故に選んだ形です。 そのように醜悪で悍ましい形で在ろうとする者には、到底理解出来ないでしょう」


 青い神様は微笑みを浮かべ、目には怒りを滾らせて、黒い神様を睨みました。


「再度尋ねましょう。 貴方の目的は友好ですか? それとも侵略ですか?」

「どれでもない。 俺はお前を殺し、そしてこの国を壊すだけだ」

「ならば死になさい」


 青い神様の手には渦巻く風の槍が宿りました。

 神様の周りには激しい風が吹いて、同じような槍がいくつも宙に浮かびます。

 青い神様はこれを、黒い神様に向かって遠慮なく放ちました。

 

 でも黒い神様には効きません。

 風の槍が黒い神様に近づいた途端、もっと強い風が神様の周りに吹いて、全て消してしまったのです。


 青い神様は黒い神様を激しく睨み、もっと沢山の、もっと大きな風の槍を作り上げます。

 それら全てを、黒い神様に投げつけました。

 でもやっぱり風が吹いて、黒い神様には届きません。



「なんだ今のは。 やはり人間の形なんぞ選ぶ小さい者は弱いな」

「下郎!!」


 青い神様は、辺り全ての雨や雲を集めました。

 強い風と水と雲、そして白い雷が、山ほどの巨大な剣の形となって渦巻き、その手の中に握られます。

 青い神様は空を勢いよく駆け下りました。



 剣は、青い神様が愛していた国土の森を、遠くまで切り裂きます。

 ただ軽く掠めただけで木々や土を巻き込んで吹き飛ばし、燃やし、破壊してしまいます。

 きっと多くの生き物も巻き込んでいるでしょう。

 

 そんな事をしてでも、この黒い神様をどうにかしようと思いました。

 

 

 嵐を剣の形にすれば、こうなる。

 そんな、神の御業としか思えない神秘の剣を手にした青い神様は、黒い神様の体に切りかかります。

 周囲では強い風が青い神様を吹き飛ばそうとしますが、関係ありません。

 

 剣は確かに、黒い神様に触れました。

 毛に覆われた体を切り裂こうとしました。

 

 でも剣は、その硬すぎる体にちっとも食い込んでいきません。


「な――――」 



 驚いている青い神様に向かって、黒い神様の大きく鋭い鱗に覆われた尾が鋭く伸びていきました。

 触れれば山をも切り裂くはずの剣の刃を、尾は何の意味も無いと嘲笑うように平気で掠めて、青い神様の腹部を打ち抜いてしまいます。


 青い神様の手から剣は消えて、青い神様の体は遠くに弾き飛ばされていきます。

 沢山の木々をなぎ倒し、森を破壊し、岩をも砕いてもなおその体は転がっていきます。


「の、なんということを……!」


 転がり終わった青い神様は血を吹きながらも、生きていました。

 なんとか傷の無い腹部を押さえてなんとか立ち上がり、黒い神様を睨みました。

 

「俺は此処に居るだけだ。 何を一人で盛り上がっている」


 黒い神様は、バカにしきった顔で笑います。

 鋭く硬い、蛇に似た鱗に覆われた尾が揺れています。



「この……!」


 青い神様は、口の端の血を拭います。

 その瞳孔は縦に割れて、全身が膨れあがります。

 両の足で地から激しく飛び上がり、自分が破壊してしまった自然を超えていきます。


 そして青い神様の足が宙を掴んだその時、そこに居たのは別の形をした神様でした。

 大きな翼を羽ばたかせて、真珠の角を持った真っ青な龍の体で飛び上がります。

 黒い神様よりも大きな形で接近してから更に口を大きく開き、喉奥から極大の光が吐き出されました。


 通った真下にある木々や建物を巻き込み破壊する光の帯は、黒い神様に届き、直撃します。

 激しい光は直撃した付近から激しい爆発を起こし、天にも届くほどの雷と黒煙を発していきます。


 こんなの、普通なら生きるどころか跡形も残りません。

 せっかくの森は無くなってしまいましたが、悪さえ滅びれば、後は取り戻せばいいだけです。 



「おお、やったぞ!」

「流石は我らが青神! あのような怪物など相手にもなりません!」

「ざまあみろ!」


 足元に居る矮小な人間達が、勝利を確信して勝鬨の声をあげました。

 だけど青い神様だけは全身の鱗を逆立たせ、苛立ちと焦りで声をあげました。


「皆は逃げなさい、今すぐに!」


 青い神様の声はよく通り、辺りの人間達へと届きます。

 勝ったのは青い、清く正しい神様なのだから、何を慌てているのか人間達にはさっぱり分かりません。



 突然、暴風が吹き荒れて、炎は消え黒煙が晴れました。

 せっかく青い神様が晴らした空はまた重く暗い雲に覆われて、風と雨、雷が轟きます。

 

 黒煙が晴れた向こうに、黒い神様は居ました。

 でもさっきと少しだけ様子が違います。


 

 黒い神様を覆うかのように、とても大きな、紫の模様が光る黒い翼が二対ありました。

 それは黒い神様の大きな背から伸びていて、その表面の羽が軽く焦げた程度でした。

 そして肝心の黒い神様は、無傷で、平気そうにしていました。



「……強い力を持っているとは思っていましたが、まさか。 複数の同胞を殺しただけはあるということですか」


 青い神様は唸ります。

 いくらなんでも、怪我をさせるぐらいは出来ていると思っていたからです。


「今ので、俺を殺せるとでも思ったのか」


 黒い神様は、青い神様をバカにしました。

 無傷で、それどころか今のに何の価値も無かったとばかりにしていました。 



「お前は、今まで食った神の中で一番弱いな」

「食――」


 青い神様の真上に、紫の雷が落ちました。

 その全身を焼き、焼いてもなお雷は落ち続け、周囲の人間を巻き込んで激しい炎を上げます。

 

 青い神様の体が地面に落ちました。

 大きな音を立てて、大きな体が転がりました。

 それでもまだ生きているのは、これが神様だからです。 神様は、首を折られようと簡単には死にません。



 黒い神様の二対の黒い翼が、大きく広がります。

 紫雷に照らされながら、翼は異様な音を立てて幾つにも割れ、形を変えます。

 翼の代わりに黒い神様の背から何本も伸びていたのは、鋭利な爪を持った大きく真っ黒で紫の光る縞模様を持つ、人間のものに似た腕でした。



 青い神様は焦げた体を起こします。

 でも逃げる力はありません。 迫ってくる黒い手から、飛んで逃げることも出来ません。


 黒い手が次々と神様の体を強く掴み、黒い神様の方へと引きずります。

 抵抗しようと青い神様は動きますが、黒い手は鱗を砕いて肉に突き刺すほどの力をしていて、外れそうにもありません。

 それでも青い神様は雷や風を操りますが、黒い神様に届く前に消えてしまいます。



 青い神様の体は木々を倒して岩を砕いてでも引きずられて、持ち上げられます。

 黒い神様の頭を超えてその大きな背中、何本も腕の生えた根本にまで運ばれていきます。



「おやめなさい! 同胞を食べるなど、有り得ません!」

「お前の仲間扱いするな」


 青い神様は大声をあげます。

 でも黒い神様は聞いていません。

 更に大きな腕が背中から次々と伸びてきて、青い神様の長い体を、黒い神様の背に強く強く押し付けます。

 


「離し、なさ――」


 青い神様の体の上を、黒い神様と同じ光る紫の縞模様が川のように伸びて、覆っていきます。

 するとなんと、縞模様に覆われた部分が、毛に覆われた黒い神様の背中に沈みはじめていくではありませんか。

 


 まるで底の無い砂か沼にでも落ちていくように、体はゆっくりと沈んでいきます。

 青い神様は抵抗して体を引き抜こうとしますが、沈んだ部分は全く動きません。

 まるで、沈んだ部分は最初から無いかのようです。



「やめなさい、お離し、離しなさいっ!」


 青い神様は、その鋭利な爪のついた前足を背中に突き立てました。


 でも怪我をさせるどころか、その突き立てた場所から紫色に光る縞模様に覆われ、同じように背に飲み込まれていきます。

 すると前足の感覚は消えて、とても抜けそうにありません。


 暴れても暴れても、沈んだ場所から先は、黒い神様と一つになっています。

 青い神様を掴んで押し込む黒い腕は、掴んだ部分と一緒に背に沈むと腕だけが背の中から戻ってきて、次の部分を引っ張ったり押し込んでいきます。



 そしてやがて紫の縞模様は青い神様の全身を覆い尽くしてしまいました。

 その間にも青い神様は抵抗を続けますが、それを感じながら黒い神様は声に出して愉快そうに笑います。



「どうした、出来ることはそれだけか? 少しは、出てみたらどうだ?」

「この、この、同胞食いの同胞殺しが!」


 嘲笑いながらも、青い神様の体を呑み込むことはやめません。


 神というのは人間よりずっと硬く頑丈な体と意識、そして力を持つので、そんなものを呑み込むのは時間がかかります。

 それでも、本当ならもっと早く、簡単にこの青い神様を丸呑みに出来ます。


 だというのに、呑み込む速度はやたらとゆっくりで、青い神様を焦らすかのようです。

  


「それにしても、ふん、やはりお前は弱い。 散々偉そうに言っておきながら、出来るのは天候を操ることだけか」

「まさか……!」

「くだらん、わざわざ来たのにお前というエサから得られるのは血肉だけか」


 青い神様の体が、更に沈んでいきます。

 背に押し付け中へと引きずり込む腕の力はとても強く、離れようにも沈んだ場所は既に動きません。

 もう、青い神様は逃げられそうにもありません。



「同胞の力を奪い! その肉を食らって! 何をしようというのですか!? それではただの怪物と何も変わらない――!!」

「黙れ」


 腕が、青い神様の頭を掴み、背に押し付けました。




 そこからまたゆっくりと、焦らすような時間をかけて背に沈んでいきます。


「強欲で、醜悪な神よ! お前も、お前の国も全て滅んでしまえ! 全て、何もかも! 呪いの中で死に絶え――」


 首が呑まれ、頭が消えていき、青い神様は言葉を話すことが出来なくなってしまいました。

 

「偉そうにほざいておいて、結局その姿になる。 やはり人間の姿なんぞ選ぶ奴は弱い」


 それでも青い神様は、意識がありました。

 なんとかしてこれを滅ぼそうと、残った力を振り絞ります。 もはや何の意味もありませんが。


 青い神様の意識は、黒い神様に呑まれていきます。

 どっちがどっちか分からないぐらいに、感情も思考も同化していきます。

 まだ外に出ている青い神様の体は半分以上ありますが、もう既にぐったりとして、腕に持ち上げられて背へと引き込まれるのを待つだけです。


「俺が恐ろしいか? 俺に食われて死ぬのが、恐ろしいか? 恐ろしいだろうなァ」


 青い神様は返事が出来ません。 ただ、激怒と恐怖と発狂の反応があるだけです。 

 神というのは、頭が無くなっても生きています。

 心を読んだように伝わってくる感情に、黒い神様は楽しそうにニヤリと笑っていました。



「お前達など食ってもつまらん、俺に触れるな」

 

 足元でまだ生きていた人間達が何事か叫んで攻撃を放ちますが、何の効果もありません。

 黒い神様は彼らを見下ろして、炎の渦を噴き上がらせて燃やしてしまいます。


 それら全てが、黒い神様にとっては何の造作もない、意識しただけで出来る簡単なことでした。

 それぐらい圧倒的な力をもって、その巨体で全てを恐れさせます。


 悲鳴をあげて散っていく彼らを見て黒い神様はとても楽しそうです。


 武器を捨てて逃げていく人間には、地を這い執拗に追いかける炎で追い詰めて徐々に焼き、それでも立ち向かう人間には雷で叩き落としてしまいます。

 小賢しくも青い神様を助けようと近付く人間が居れば、不愉快そうに顔をしかめて、風で追い払います。



 黒い神様はそれらを見て、楽しそうにしています。

 誰かが怖がっている顔を見ることこそが、神様にとってはごく普通のことで、今までで一番楽しいことだからです。

 こんなものを見て、恐れない人間など居るわけもありません。



「――――ん。 ああ、そうか。 これがあるか」


 ふと、黒い神様は何かを思い出しました。

 青い神様を呑みこむ力が全て止まり、ただ黒い神様の背の上に、黒い腕に掴まれた青い龍の体が中途半端にぐったりと残っています。

 青い龍は身動きしますが、それでも到底抜けそうにありません。


「お前の使い道を一つだけ思いついてやったぞ」

 

 そして、黒い神様は裂けた笑みを浮かべて踵を返し、暗雲と豪雨と暴風と雷と共に、元居たところに戻っていきます。

 ずるずると、青い神様の体が力なく一緒に引きずられていきました。

 その後に残された者達の絶望や呪詛など一切気にせず、慈悲の無い残虐な神様は、戻ってしまいます。

 




 ~・~・~・~・~・~





 

 真っ赤な髪をした女の子は、遠くから聞こえた音に目を覚まし、身を起こしました。


 大きな四肢による足音は、きっとここの主が帰ってきた音です。

 一緒に何か重いものを引きずる音が聞こえることを不思議に感じましたが、とにかく嬉しそうな顔で慌ててそこから離れて、元居た場所に座りました。


 

 暗がりの大きな門にうっすらと紫の縞模様が光って浮かび、続いて真っ黒な神様が現れます。

 女の子は嬉しそうに笑って両腕を広げました。


「神様! 来てくれて嬉し…………い?」


 女の子は首をかしげます。


 神様はそこに居てこちらに向かって歩いていますが、その背中には何かが乗っています。

 太い帯のような、女の子よりもずっと大きく長い真っ青な何かが、ずるずると引きずられています。


「……神様、どうなっちゃったの? それ、どうしたの?」


 女の子は不思議そうに、その青いものを見ます。

 真っ青な鱗に覆われた何かは、表面は神様と同じ紫色の縞模様で輝いていて、真っ黒な腕に掴まれて、神様の背中から変な形で生えていました。


 神様は予想通り驚いた顔をしている女の子を見下ろして、少しだけ気分が良いように笑います。



「これは神だ」

「神?」

「そうだ。 そして俺が今、食っている」


 ずっと止まっていた黒い腕が、ようやく動きだしました。

 青いものを、ゆっくりと神様の中に押し込んでいきます。


 腕は青いものを握りつぶし、その体を骨まで砕きます。

 握りつぶされた青いものは反応し、痛がるように分かりやすく揺れて、神様から離れようとしています。

 でも、何をしようと関係なく、ずるずると神様の中に呑み込まれていきます。


「……痛くないの?」

「痛いだろうな」


 黒い腕は青いものを掴んで引っ張り、女の子によく見えるように爪を食い込ませて、音を立てて握りつぶします。

 ここまでやってもまだ死ぬことのない青いものは、震えて暴れます。


「意識と痛みだけは、俺の慈悲でずっと残してやっている。 だから最後の鱗が俺に食われるまで、恐怖と苦痛を味わい続けている」


 そんな心地よい、気分が良くなるような音と感情と振動を感じながら、神様は女の子を見下ろして笑います。



「お前も、こいつと同じようにしてやろう」


 青いものを押さえつけ、握りつぶしていた腕が一本そこから離れて、女の子にゆっくりと向かいます。


 黒い腕は、女の子を覆えるほど大きく、爪は鋭く、神の頑丈な体だって平気で壊してしまえるほど強いものです。

 だからこんな小さくて細い人間なんて、爪先でかすめた程度でも殺してしまえます。



「人間なんぞ小さすぎて腹の足しにならんが、お前もこいつと同じように食ってやる」


 神様は女の子を見下ろして、ニヤリと笑います。


 爪先で軽く小突けば、小さな女の子は簡単に後ろに倒れます。

 そしてその足を摘まみ、まだ壊さないように持ち上げます。


「この足先から呑んでやる。 それから時間をかけて、俺の中に引きずりこんでやる」


 女の子の驚いた顔は、とても心地よいものです。


「楽に死ねると思うなよ? 少しでも食ってしまえば、お前の痛みも命も意識も全て俺のものだ。 お前がどれほど貧弱な人間だろうと、俺が許すまで、永遠に死ぬことのできない苦痛を味わう」


 女の子の体を、ゆっくりと焦らすように引きずります。

 女の子は抵抗しません。 仮に抵抗したところで、折れるのは女の子の指や爪だけです。



「そうだな、まず骨を折り臓腑を抉り、それで一年ぐらいお前の悲鳴を聞いてやろうか。 お前の恐怖や痛覚でも、少しは俺の退屈を和らげるだろうよ。 そうしたらお前の贄としての役割も果たせるじゃないか」


 神様は笑います。

 ずっと背中から聞こえてくる悲鳴、それはきっと、神様にとっては久しぶりに苛々と退屈を抑える薬になるでしょう。


「どうだ、恐ろしいだろう? まだ痛みの無いうちに、言いたいことがあれば言ってみるがいい。 今の俺は機嫌がいい、どんな恨み言も聞いてやろう」


 ただし何を言おうと、離すつもりはもうありません。

 後はこの神様に喰われて、好きなだけ苦痛を与えられて、飽きるのを待つしかもう無いのです。



 今も意識ごと喰われている青い神と、今にも喰われそうな目の前の小さな女の子。

 エサとしての価値は神の方がずっと上で、こんな小さくて骨と皮ばかりの生き物など、何の意味もありません。


 なのにこの恐ろしく凶悪な神様は、小さな女の子が怖がる姿の方を心待ちにしています。

 今何が起きようと、こんな小さな女の子が悲鳴をあげて怯え、命乞いをする姿を見られることを期待しています。


 だから、女の子は言いました。




「……怖がってほしいの?」

「なに?」


 神様は何を言われたのかと、全ての動きを止めます。

 青いものを握って引きずり込んでいた腕も、女の子を引きずっていた腕も、神様自身も停止します。

 足を掴まれ引きずられていた女の子は、そのままゆっくりと起き上がりました。



「神様はニエに、怖がってほしいの? ニエが怖い怖いって言ったら、神様は喜んでくれる?」


 今にも殺されそうなはずの女の子は、なのに恐怖を微塵もその顔に浮かばせません。

 それどころか心底からの疑問という風に困ってすらいました。


「でも、じゃあ、ごめんなさい。 私、それは出来ない。 神様のこと、少しも怖くないんだもの」

「嘘を言うな」


 神様の、とても不機嫌な声がします。


 青いものを掴んでいた腕がまた一本離れて女の子へと向かい、近付くほどに小さくなり、今度は女の子の首を掴みました。

 何の力も入れていませんが、力の差がありすぎて、腕はただそこに置いているだけで女の子の首を締めるかのようです。



「恐ろしくないわけがない。 神などと言われようと、俺がどれほど恐ろしく嫌悪するべき悪性の怪物なのか、あの人間どもから聞いただろう。 それは正しい。 見ろよこれ、お優しい神様がこんなことするかよ」

「でも、本当なんだよ」


 女の子は、自分の首を押さえている腕に触ります。

 でも、自分を解放させるために引き剥がそうとは一切しません。

 ただただ紫の縞模様が走る黒い腕に触れて、その模様をなぞるように、優しく撫でるだけです。



「……何をしている。 俺に触れて、そんなにも死にたいのか」


 小さな女の子が、自分を殺そうとしている神様の腕に平気で触れています。

 神様はこの腕で触れただけでも食うことは出来るので、女の子がしていることが自殺行為にしか見えません。

 自分のやっていることの意味を知らないから、出来るに違いありません。



「あのね、神様。 ニエは、神様のことを怖いって思わないよ。 だってニエにとって、神様と一緒に居られるのは、とっても嬉しいことなの」


 助命の懇願、にしては手の動きも、女の子が神様を見ている目も、何もかもが優しいのです。


 こんなもの、神様は今まで向けられたこともないし、されたこともありません。

 こんな悪いことしかしない恐ろしい化物に殺されそうになっているのに、命乞い以外の何があるのでしょうか。


「だって、皆が言ってたのよ。 ニエは、神様が居るから、ニエが生きてても許してもらえるんだって」


 ニコニコと女の子は、神様に向かって笑いました。



「ニエはずっとずっと神様に会いたかったの。 ニエが触っていいのも、ニエが近寄っていいのも、全部神様だけ。 神様だけが、ニエを好きにしてもいいの」


 それは、今にも殺されそうになっている人が浮かべる笑顔ではありません。

 だけど本心から相手の存在を歓迎している、純粋で、何処までも無垢な笑顔でした。

 


「だからね、ニエは神様に会えてすっごく嬉しい。 ねえ神様、此処に居て、ニエを生かしてくれて、ありがとう!」

「………………………は?」


 神様は、咄嗟にそんなことしか言えません。


 

 最初から頭のおかしい変な人間だとは思っていましたが、どうしようもなく狂った人間です。

 よりにもよって、この神様に向かって『ありがとう』などと言うのです。

 食われるために育てられた家畜の豚が、自分をただの区別もつかない肉として処理しようとしている人間に向かって感謝なんかするでしょうか。


『気に入らない人間を殺してくれてありがとう』と言われたことはあっても、そのような事を言われたのは初めてです。

 神様の半分の半分の半分も生きてない、何も知らないただの人間のくせに、神様の思考を完全に停止させてしまいました。


「…………お前」 


 そんなくだらない事に虚を突かれて、神様は自分が今何をしていたのか、何を食っているところだったのか、忘れてしまいました。



 そのせいで、背に居る青いものは、その一瞬だけは死に向かう支配と圧力から解放されました。

 残った部分だけが大きく跳ね上がり、最期のあがきとして力を振り絞り、その時に出来る最大の雷を辺り一帯に降らしてしまいました。


 といっても、こんなもの今更大したことではありません。

 直撃したところで傷を負う程度にはなりません。



「え?」


 でもそれは神様にとってであって、この場に居る女の子にとっては大怪我などでは済まないものです。 

 


 

 激しい音と光と熱と振動が、一瞬で部屋中に溢れます。

 どんな生き物を巻き込んでも構わないという自爆によって、青い神様は完全に死んでしまいました。


 そしてその後に残ったのは、石が白煙を上げ熱を放ち変形した室内と、無傷の神様です。

 


「死んでも神か」


 背に残った青いものは邪魔だとばかりに完全に呑みこまれ、そんなことはどうでもいいと神様は無言で見下ろします。

 半分苛立ち、残る半分が困惑。 そんな風に、神様は女の子の居たところを見つめます。



「………………」


 強風が巻き起こり、白煙は大きな門の方に流れて消えていきました。

 でも神様の視線は一か所に向けられています。



「……………………」


 苛々と困惑で、神様は自分の腕を見つめます。

 その大きな二本の黒い腕は、紫の光を放ちながら手のひらを合わせるように閉じていました。


 ゆっくりその手を開いてみれば、真っ赤な髪の女の子が中で倒れています。

 勢いのあまりに死んだり潰れたりはしていません。

 ただとても驚いたのか、気絶しているようでした。



「……………………俺はいったい、何をしているんだ……」


 神様は自問自答します。


 

 神様は、別に生き物をなんとも思っていません。

 人間だろうと、同じ神だろうと、一々優しくしようなどと思ったことはありません。

 手を差し伸べてやろうとか、守ってやろうとか、考えたこともありません。


 好きなのは殺すこと、傷つけること。 自分を強いと思った神を食って力を奪い、それらで矮小な人間に恐怖を味わせること。

 これらだって、退屈しのぎと日頃からある苛々を晴らすための、暇つぶしのようなものです。

 

 他の生き物に何をしたって、心は痛みません。

 残酷だ怪物だ化け物だと陰で言われようと、なんとも思いません。

 今までたくさんの生き物に残酷な振る舞いをしましたが、悪いのは弱い方なので、悪いとも思っていません。

 


 だっていうのに今、ついうっかり、とても弱い生き物を助けてしまったのです。

 放置しても良かったのに、ついつい命を助けてしまった。 自分でも、どうしてそんな事をしたのか分かりません。



 ただ分かるのは、今この状況で激しい熱を放つ床に戻したら女の子の形をした焼肉が出来るだけなので、このまま手を離すことが出来ないということです。



 別にこの女の子を放り出して見殺しにしたところで痛む心など持ち合わせていません。

 熱い石に焼かれる女の子が、悲鳴をあげて転がるように暴れる様子を見たって構いません。


 が、何故かそういう事をしようという気は起こりません。


『ありがとう』などと気持ち悪いことを言う女の子が、期待を裏切られて絶望する様を眺めるのはきっと楽しいはずです。


 なのに神様は、そういう事をしようと思いません。

 見たいのは、そういう姿ではないのです。

 具体的なことは思い浮かびませんが、とにかく今放り出すのは、何故かそっちの方が腹が立つような気がしました。


「…………………愚かな」


 だから、仕方なく、その状態のまま神様は女の子が起きるのを待つことにしました。





 ~・~・~・~・~・~





 

「…………あれ?」


 目を覚ました女の子は、すぐに自分が石の上に寝ていないことに気付きました。


 別に柔らかくもないけど、石みたいに冷たく硬くもありません。

 更には、辺りの空気は妙に湿っぽく、熱も感じます。

 

 自分が寝ている場所を見下ろすと、それは大きく黒く、紫の縞模様は光を放っています。

 なんだか見覚えがあったので、辿っていくと神様が居ました。

 見慣れた様子で目を閉じているけど、その背から伸びたとても大きな手のひらの上で、女の子は寝ていたのでした。


 

「わっ」


 女の子は自分の状況を確かめると驚いた顔をし、すぐに嬉しそうに神様の手のひらを触ります。


 少し暖かいけど特に柔らかくはないし、別に寝心地が良いわけでもありません。

 だけど神様の手のひらに、ちゃんと触れたのは初めてです。

 なんといっても、今までは近寄ることすら許してくれませんでした。


 どうしてだか分からないけど、とにかく嬉しいので、女の子はニコニコとしながら神様の手のひらを撫でたり、指先でなぞったりします。



「おい」


 神様の半ば苛々している、低く唸るような声がします。

 さっきからずっと起きていた神様は女の子を睨み付けました。


「何をしている」

「神様の手に触ってるの」

「…………」


 女の子はニコニコと笑っています。

 さっきまでのことを、まるで忘れたかのように気にしていません。

 神様は呆れて女の子を床に落としてしまいました。


「神様って、黒くて大きくて硬いのね。 初めて触っちゃった」


 落とされても女の子は無邪気に、敵意も怯えも見せず笑っています。

 神様に触った感触を、手を握ったり開いたりして面白そうに確かめています。



「…………お前は、何をすれば俺に恐怖するようになるんだ」

「キョウフ? 怖いってこと?」


 女の子は何も理解していません。 怖がる素振りも見せません。

 そんな様子すらやはりおかしくて、腕を消しながら神様は顔を顰めます。


「お前は同じ人間から俺がどれほど恐ろしく残酷なのか聞いているはずだ、それらに嘘や誇張はない。 そして俺は、お前への同情も慈悲も共感もない」

「……うーん、でも、ニエは神様のこと怖いって思ったことないから……」


 女の子は困った風に首を傾げます。

 その表情や言ってることに、冗談も嘘もありません。



「死ぬことを恐れない人間など居ない。 お前は死を何だと思っているんだ」

「あのね、死んだら、すごい場所に行けるんだよ。 空があってね、雲があってね、木がいっぱいあってね、他にもニエが知らないものいっぱいあって、食べ物もいっぱいくれるんだって」

「それは人間の妄想だ」


 実際は、神様だって死んだらどうなるのかなんて知りません。

 幸せな世界があるのかもしれないし、もっと酷い世界が待っているのかもしれません。

 神は、決して全知全能ではないのです。


 それでも神様は吐き捨てるように言いました。

 無知な女の子は『神様が言うのなら、そうなのかなぁ』と半ば納得して言いました。




「ねえねえ、神様。 あと一回だけ神様に触ってもいい?」

「触るな」

「あと一回でいいの、あと一回触ったらニエはもうワガママなんて言わないから。 何も、言わないから」


 女の子は懇願するように神様を見上げます。


 今までニコニコと笑ってばかりの女の子が縋りつくような顔をするのは神様にとっては少しは気分がいいものでしたが、そこに生存への媚びや恐怖が無いのがとても気に入りません。


 だいたい、今まで命と引き換えてでもそのようなバカバカしい事を言う人間は、今まで居なかったのです。


 

「………………………………」


 神様は少し考えました。

 そんなにもやりたい事なら、だったら此処で断固として拒否をしてやれば、この前みたいに物凄くガッカリした顔が見られると思ったからです。

 殺そうとしても怖がったりしないので、そっちの方がきっと楽しいのです。



「………………………一瞬だけだ」

「やったぁ!」


 女の子は今にも飛び上がりそうなぐらいに喜びました。

 何をやっても怖がらないのなら、徹底的に希望を奪って絶望させてやった方が面白いと思うのに、神様は一瞬だけ気の迷いを見せてしまいました。

 

 どうせ、いつでも殺せる生き物です。

 今此処で殺したところで、どうせ次に新しく不愉快な別の人間が放り込まれるだけなので、一瞬だけ血迷ったことをしてやろうかと神様は思いました。



 女の子はとても喜んで神様に近寄ります。

 見上げるぐらいに大きな神様は、すぐ近くに行けばもっと大きくて、女の子は興奮と喜びでいっぱいでした。



「……ほ、本当に、いいの? ニエが触ったら、嫌じゃない?」


 そして自分から言って近付いておいて、今更心配そうな顔をして神様を見上げます。

 

「それ以上つまらんことを言ったら、俺の気まぐれは終わりだ」


 さっさと終わらせろと思いながら、神様は言います。

 女の子は慌てた顔になって、それから、指先で神様の前脚にゆっくりと触りました。



 全身がほぼ黒い毛で覆われていて、暖かくて、女の子がそれまで見たことも触ったこともない感触です。

 さっきの腕とはまた違う感覚で、女の子の顔は好奇心でいっぱいです。

 指先だけで壊れ物を扱うように触れていたのを、少しずつ手のひらで撫でていきました。



「おい」


 一瞬にしては長い時間が過ぎて、神様はそろそろ離れるように声をかけました。

 言いかけましたが、それは途中で止まってしまいました。


 女の子が、手を離したかと思えば、抱き着いてきたからです。 

 全身で感じるように、思い切り乗って抱き着いているのです。



「えへへ、神様にさわっちゃった……」


 女の子は幸せそうに抱き着いています。

 一度しか触らせないと言われたからか、一瞬と言ったのに、女の子はとても大胆でした。

 いいえそもそも、女の子には一瞬の意味が分かっていないようでした。



「おい」


 約束を無視されて、神様は怒って女の子に声をかけます。

 でも女の子はとても嬉しそうな、幸せでいっぱいの顔をしています。

 これを邪魔するのは野暮だと普通なら思うぐらいに、とっても幸せそうです。


 女の子はしっかりと抱き着いています。

 幸せそうに目を閉じて、動きません。

 

「おい、お前」


 神様が更に声をかけますが、女の子はそのままです。

 それどころか幸せそうな顔をして、寝息すら立てて始めてしまいました。


「寝るな」


 だけど、女の子は動きません。 完全に寝ています。

 神様は非常に煩わしげに女の子を睨みますが、意味はありません。


「おい、寝るな。 唾液をつけるな」


 神様も動けません。

 気まぐれで触らせてやったのに、此処まで強欲なことをされるとは思っていなかったからです。 


「……………………」


 神様は低い唸りをあげて黙ります。

 でも女の子は起きません。

 とっても幸せそうな顔をして抱き着いて、ぐっすりと眠っています。


 神様は牙を見せるほどとても嫌そうな顔をして、でも動きません。

 前脚を大きく動かせば、女の子を起こせるどころか壁まで吹き飛ばせますが、そういう事も出来ません。



「……お前、本当に愚かだな……」


 それから神様は本当に呆れて、寝てしまいました。

 ついでに、神様の黒い前脚から黒い翼が伸びて、女の子が落ちないように大きく抱き込んでしまいました。



 全部気まぐれです。

 だって殺すのは明日でもいいのですから。

 それに、寝ている人間を怖がらせることは出来ません。




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