たとえば、あなたは宇宙飛行士である。


 あなたは新入りであり、研修のために月へ向かう。月面基地への道中で、あなたは追加の誓約書にサインを求められる。あなたがそれに記入すると、これからあなたの上官となる人物があなたのミッションと、万が一ミッションから外されることになった場合の記憶処理について説明する。単なる新入りに課すには不釣り合いに厳重な措置と聞き慣れないワードにあなたは内心動揺するが、それを悟られまいと平静を装う。


 あなたが基地に着き細かなセキュリティチェックを受け巨大なアクリル水槽の前に立つと、上官は眉一つ動かさずその中身についての概要資料を読み上げる。あなたは時代錯誤とも思われるその紙の束を受け取る。ぶ厚いアクリルの向こうで微笑んでいる少女と、あなたの目が合う。


 そうしてあなたは彼女に出会う。


 あなたのミッションは主に彼女とのコミュニケーションとその記録である。月で見つかったというその少女はあなたと同じアジア系の容貌をしており、同じ極東の島国の言葉を話す。彼女はよく知られた御伽草子の姫君の名を名乗り、「わたしもあなたに蓬莱の山へ行くよう頼むべきかしら」といたずらっぽく笑う。彼女は眠らない。他愛のないお喋りを重ね、あなたがアクリル板の前でマイクに向かう時間は日ごとに長くなっていく。


 そんな日がしばらく続く。


 ある日あなたは彼女の住む水槽の前に備え付けたソファの上で目を覚ます。彼女と話しているうちに寝てしまっていたことを思い出したあなたは声をかけようとマイクに手を伸ばし、息をのむ。彼女がいるはずの透明の壁の向こうには無人の空間が広がっている。


 あなたは言葉を失う。


 しかしすぐにあなたはあることに気がつく。手元の資料を構成している文章が解けていき、別の言葉を編み上げていく様子に。文字は語る、「ここをでましょう」「つきをみたいの!」 あなたははやる鼓動を抑え、ソファの上の書類をかき集めて走り出す。基地はとうに消灯時間を過ぎている。


 セキュリティを突破し宇宙服に袖を通しあなたはエアロックの外に出る。文字になった彼女は踊るように言葉を綴る。


   Votre âme est un paysage choisi

   Que vont charmant masques et bergamasques…


 あなたはもはや資料としては役立たずとなった紙の束に話しかける。どうやってきみに月を見せよう? ぼくらはそこに立っているのに!


 彼女は紙面を跳ね回る。あなたには彼女の笑顔が見える。とびきりの笑顔。「わたし どこまでもとんでゆける」


 あなたは震える手で紙束を宙へと放り投げる。落ち葉を舞い上げて遊ぶ子供のように。少し違うのはその落ち葉が二度と足元へ帰ってこないこと。それからあなたが、泣いていること。


 あなたは彼女を見送る。文字になった彼女を載せたひどく薄っぺらい宇宙船が遠ざかっていくのを、いつまでも眺めている。

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月と彼女に関する掌編 小出真利 @CrazyTikuwaGame

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