第五十五筆:11374-9

 紘和には今まで培ってきたという自負があった。それは蝋翼物の特性である所有者以外に使わせないために所有者以外が触れると力が正しく働かないという点をついて、純に何もすることができなくなり敗北したあの頃とは変わったという自信となっている。だが、紘和のなそうとすることを阻もうとする純は、まだ紘和の望みを叶えるつもりはないという。それはつまり、今の純は紘和を止めることができると宣言しているのである。ならば、それが本当か純を試してやろうと、何より自分の力の現到達点を試すために紘和は全力で立ち向かおうと決める。

 気合を入れるために何か言うわけでもなく、身体が動こうとするままに紘和は攻撃の動作を取る。しかし、当たり前のように斬撃の間合いの内側、紘和の懐にはすでに純の姿があった。あれだけ人を煽っていながら、紘和の初動よりも早く動き出し、先手を取りに来ていたということである。そして、紘和はこうなることを予見していた。自負はあれど、この戦いで、純との戦いで優位が続くという慢心を持ってはいない自分に成長を感じる。だから冷静に紘和が劣勢になる可能性を考慮した上で次の手を用意していたのだ。故に、紘和はためらいなく蝋翼物による攻撃動作をなめらかに開始し、純の攻撃を受け止める態勢に入る。動きを確実に止めた上で、リディアを狙うのだ。間違っても今回の紘和にとっての勝利条件は純の撃破ではなく、あうまでリディアへの制裁なのだから。

 だが、紘和は床に叩きつけられていた。何が起きたのかはわかっている。純が右足で柔道の要領で紘和の右足を狩り取って生まれた一瞬の態勢の崩れを見逃さず、そのまま前に倒れながら遠心力をのせた左脚の踵落としで紘和の脳天を直撃したのだ。意識は失わなかったが、痛みはかなりのものでその結果、両膝を床につけたのだ。その不意で今度は純の右手が紘和の顔面を捉え、床に叩きつけたのだ。そのまま紘和が下を突き破ってきたために亀裂が走り脆くなっていた床が抜けて純共々階下に落ちたのだった。この時、紘和は初めて知ることになる。技を持っていままで強敵をいなし、倒してきたような男が、力をぶつけてきたということに。少なくとも、紘和からすれば自身がこうも容易くねじ伏せられるほどの純粋な力の差はないと思っていた。

 いや、これも力の伝え方次第なのだろうか。


「どうした、お前の作戦が招いた結果だろ? まぁ、お前が一人分でも俺はお前をぶっ飛ばせるぞ」


 全てを見透かすように立っている純は床に転がる紘和ではなく、目の前に立っている方の紘和に語りかける。

 そう、紘和はここに姿を現す直前にグンフィズエルとマカブインを使って自身を二人に分裂させた後、無剣二刀流でスキを伺っていたのである。


「お前の判断は正しかった。ただ、俺を倒すならお前の全力じゃないと無理に決まってるだろ?」


 立ち上がろうとしている紘和を再度蹴り、否容易く蹴り上げることで立っている紘和と純の間に遮蔽物を作り上げる。そう、紘和は遮蔽物、つまり視界を遮るための行動だと思ったのだ。

 だが、目の前で宙に浮いた紘和が、ものすごい速さで立っていた紘和に突っ込んできて、行動する間を与えずに激突し、二人仲良く壁まで吹き飛ばされる。


「俺が、他のことを考えながら倒せるだなんて思うなよ。全力で集中して来い、紘和。お前の勝利条件は俺を何とか出来なきゃスタートラインにすら立てないんだからさぁ」


 爛々と輝く子供のような純の瞳は、紘和が挑戦者だということを否応なく理解させる。


「じゃぁ、お前をねじ伏せて、リディアにケツを拭かせる」


 むくりと起きあがった紘和は一人になっていた。


「さぁ、第二ラウンドだ」


 紘和の拳が、純の頬をかすめた。


◇◆◇◆


「後一分」


 地上から約五十キロメートルの成層圏ギリギリのところを浮遊するチャールズは今いる位置めがけて必ずクラークが照射されるという自信を持ってそこにいた。現在、チャールズにはクラークを止める手段は二つ用意されている。一つはそもそも発射させないためにクラークそのものを破壊すること。そして、もう一つはクラークから放たれる攻撃を受け止める霧散させることである。ただ、カレブを支配下に置いた上でここに来た今、チャールズの中ではいかにクラークからの攻撃を身を挺して阻止したかを誰かの目に留まる形で残すことが、最善となっている。

 それにクラークという兵器はまだまだ使い道があるだろうという考えもあるため安易に壊してしまうのはもったいないとまるで貧乏性のような考えも併せ持っていたため実質取るべき行動は最初から決まっていた。


「ふぅ」


 故にここに来るまでに飛行能力をもったラクランズないし、特化したバーストシリーズとかち合うことも想定していたが、何事もなくすんなりと来られてしまったため若干手持ちぶさたになっていた。


「これも、今までの積み重ね……なのだろうか」


 自身の日頃の行いの賜物に称賛を送っているようにも聞こえるが、爪を立てて握りしめる拳や、忌々しそうに空を見上げるシワの寄った顔が、チャールズがそうは思っていないことを想起させた。では、どうしてそんな言葉を漏らしたのか。残念なことに今その疑問を尋ねられる者は周囲に誰一人いなかった。


◇◆◇◆


【最果ての無剣】を展開するという行為に弱点をついてこられる純にはワンテンポ遅れる要因につながると判断した紘和は、切り札として使用する方向に切り替え、生身での戦闘を中心に純を攻略しようと考えを改め、己の拳を純めがけて振り抜いていた。右拳の親指がわずかに純の頬をかすったと感じた時には自分の視界が落とされた床の、天井の穴を見ていると気づいた。否、カウンターを取られるまで、つまり、穴を確認したと意識するより前に、純が紘和の突きで前に出る勢いに合わせて顎の位置に左手を合わせる所まで予期していたので自身の左手に何かを掴んだという確証を、天井を見上げているという認識から得ていた。そこから意識を復帰させ、強く握りしめ直したのだ。純の腕がスルリと抜け出そうとするのが紘和の手の内側に擦れるという感覚と共にハッキリと伝わる。わずかに途切れた意識の針の穴を通すつもりでいたのかはわからない。それでも、紘和は細い勝ち筋を拾うためにやらねばならなかった。この密着できたというチャンスを逃してはいけないと。

 ブチャッ。ちぎれたと言うよりも、まるでトカゲの尻尾を押しつぶして切ってしまった様な感触。しかし、それは逃がすまいと入れた指先の力で純の手の部位に損傷を与えたことに間違いないと判断できた。痛みに対する声は聞こえない。だが、純が捕まっていない、抜け出しているということは、その先で負傷により隙が生まれ純が体勢を整えていると推察することも出来た。だから、紘和は切り札として使うと決めた【最果ての無剣】をここで即座に使う判断を下す。異能は発動させず刃物であるという特性のみを活かした、上空から無数に自由落下させるという範囲攻撃で追撃を行ったのだ。その攻撃に対する行動を取るであろう時間を利用して紘和は純よりも体勢を整える時間を長く確保しつつ、先手を取る布石にしようとしたのだ。そして、状況の確認のため顔を正面に戻そうとする。脛が置かれていた。

 これは、純が痛みに怯むことがなかった以上に、紘和が容易く指を潰せるという普通ではありえない規格外の力を有しているということにも臆することなく、この場合は知った仲というのもあるが、距離を取るわけではなく、むしろ紘和の顔面をぶちぬくために勢いをつけるための後退だったと気がつけなかったことがマイナスとなった。一方で、このまま蹴られた勢いである程度の距離が取れる。それはつまり、紘和が【最果ての無剣】の異能を発動させる機会が訪れることを意味する。もちろん、純の追撃が想定されるが、脚での一撃であるという事実が、純が距離を詰めるまでの初速に僅かながら影響を及ぼす、つまり、【最果ての無剣】を発動させようと思って攻撃を受けきれば、好機に繋がると判断できた。

 だが、紘和は敢えて微動だにしなかった。純の一撃を顔面で受け止めたのだ。のけぞりもしなかったということは逆に芯まで攻撃を受けたということである。先程のカウンターとダメージが異なる理由は、唯一違った点として純が利用できる力に紘和の突進がなかったという点である。故に紘和にはその場に留まる選択肢を自分にとっての攻撃を使える時間を最大限増やすために出来たのだ。だから、【最果ての無剣】の異能を使えるチャンスを捨てて、右腕を大きく前方へ振った。純同様、紘和も痛みという生命の危機に対する避けなければという反射を理性で抑えられる、化け物のような人間なのだ。そして、紘和は前腕に確かな手応えを感じた。


◇◆◇◆


 以前の紘和ならば、先のカウンターで自ら勝敗を結論付けていただろう。勝とうとする意識が、勝てると判断できる天秤が敗北に傾かなくなった今までの経験が確実に糧となり純に牙を向けている。勝ちを諦めなかったのだ。そして、あの速度の中で、あの僅かな指の接地面だけで紘和は純の小指を第二関節から根こそぎ奪ったのだ。スリルと共に訪れる圧倒的なまでの天賦の才に、純は思わず痛みよりも口角が上ずってしまうほどの興奮に満たされていた。アリスを介して戦った自分とは違った別次元の強さ。技術や業が追いついた判断から繰り出される純粋な力の強さ。痛みを感じている余裕がないほどに、純は自身が生き残るための次の攻撃を即座に行う。引いてはいけない。攻めて、攻めて、攻めて攻めて攻撃の手を緩めないことが、紘和に攻撃させないことが一つの勝ち筋だとわかっているからだ。だから体勢を立て直そうとする紘和の顔面が来る位置に腕よりも威力を出せる脚を振り抜き、速度の最高到達点、つまり、最高火力を置いたのだ。そして、確かな手応えをその脚に感じた。故に純は紘和が攻撃に転じてくると理解する。地に足がついているどころか、植物の根のように地に張り巡らせているかと勘違いするほどに微動だにしないその対応は攻撃を交わすのではなく、純同様に紘和も攻撃を続けることで勝機を掴もうとしていることに他ならなかった。

 だから、体勢を崩してでも軸にしている脚を地面から離し、紘和の腹部を蹴る反動で真横に瞬時に逃げるクイックターンのような選択をする純は取る。しかし、想像よりも早く、純が脚を地面から離すよりも前に、紘和が無造作に放った薙ぎ払いの前腕が純の脇腹を直撃する。純は目視よりも早く肌に何かを感じたという感触を得た段階でその薙ぎ払いを押し込められる前にいなそうと体勢を紘和が前腕を振り抜く方向に合わせて動かし衝撃を軽減しようとしていた。にも関わらずミシッという明らかに骨にヒビが入る音が純の身体を駆け巡る。それは純の反射に合わせた行動よりも紘和の攻撃が素早いことを意味する。最悪はこのまま内部で骨が折れてその破片が臓器を傷つけることにある。幸いにもまだ地面に脚がついていること、紘和の顔面を捉えた脚は宙にあることを利用し、脚を振り下ろす勢いを合わせて純は横暴な腕を背中で受け流すように下をくぐりながら回避することを選択した。しかし、そんな逃げすらも予想していたかのように、否、前腕が触れたと判断した瞬間から紘和の選択肢にはあったのだろう。指が押し引きちぎられた様に、避ける純に確実なダメージを与えるように、服ごと脇腹の肉を親指サイズ分削ぎ落としたのだった。

 何とか致命傷は回避できた純は負傷箇所に確かな熱を感じながらも即座に紘和の体勢を崩すために、再び死と隣り合わせのインファイトを挑みに向かう。払いから掴もうと、横から前方に傾いた腕の力の方向を利用し、軽く純側にその腕を引き寄せながら紘和の膝裏を振り抜いた脚の勢いを殺さぬまま刈り取ったのだ。柔道の大外刈りに近い形だが、明らかに不安定である。

 しかし、そんな状況でも技を決めるのが純であり、その決まった技を最小限の被害で耐えきったのが紘和だった。


「っらぁあああああああ」


 戦場で不意打ちの要素を含め、声を出す行為は戦略性という側面から見れば当然無駄である。一方で、声を出すことによる気持ちの高ぶり、感情のコントロールによる指揮の向上、加えてハンマー投げの選手が投擲と同時に大声を上げるのに理由があるように声を出すとそれに釣られて力が入るのである。故に確かに後ろに倒れかけて浮いた身体を再度地に足を踏み抜けて着いた。そして右腕をそのまま降ろす紘和にとってはそれが踏み抜く勢いそのままに最大火力で叩きつけるという行為でもあったのだ。だが、先も述べたとおり、これは戦略としては若干劣るのである。故に、純は即座にギリギリの攻撃範囲外に最小限に撤退出来ていた。

 だが、振り下ろされた一撃が床に衝突することはなかった。ピタッと止まったのだ。最大火力、渾身の一撃と思える、少なくとも純が感じた紘和から発せられる殺意は、その拳に明確に現れていた。つまり、ここまでなぜ紘和が右腕のみで純に追撃をしていたかを見定める必要が出てくる。紘和の左拳がゼロ距離で純の腹部を捉えたのだ。


◇◆◇◆


 イコーウォマニミコニェで空間を断ち切る。その空間をしようとする力によって生まれる歪を中心とした吸引力に紘和の放った左拳は加速し、純はその威力をいなす隙すら与えない勢いで紘和の攻撃に引き寄せられる。自身が放つことのできる単発最高火力を囮にしようと思ったのは声を荒げた直後、まさに直感的にだった。純にダメージを与えるだけならば必ずしも利き手である右手である必要はないと思ったのだ。今の紘和が放つ一撃を的確に直撃させられるならそもそも左手で事足りるだろうとも。

 さらに言えば、【最果ての無剣】が、無色透明の何かが降り注ぐ音が純の背後でしていた直後である。【最果ての無剣】を知っていればそれが降り注いでいることは何も見えないことから明白であり、その音が複数ともなればどういった異能を行使しようとしているか、純から見た時の選択肢は無数に存在するだろう。そして何より【最果ての無剣】がそこに集中的に集められていると注目を集めれば、紘和の手元にイコーヲマニミコニェが握られていると決めつけることは不可能に等しく、それは純の意識外に僅かでも持っていける可能性があるということだった。つまり、異能を最小限に、自身の攻撃を最大限に通す好機であった。

 そして、確かな手応え、紘和の左手が生暖かいものに包まれていく感触があった。粘性を持ったものがまとわりつき、硬いものが砕ける感触。貫通はしていない。そこは純という人間の底力を知ることになる一旦でもある。それでも、瀕死に近いダメージを確実与えられたのは事実だった。バンッという衝突音に壁が崩壊し、土煙が舞う。吹き飛ばした先は無色透明の剣の雨でもある。確実に死が見えていてもおかしくない。自身の技術が最大限に詰まった今までで最もキレのある寸勁。それでも、紘和は攻撃を続けるべく純をふっとばした方向へ走り出す。千載一遇のチャンスだと。そのチャンスを不意にしてはならないと。純を使った自身の目的達成の計画を忘れ、ただ武人として戦いに勝利することをだけを望んで紘和は走り出したのだ。しかし、紘和の視界は突然真っ暗になったのだ。意識を失ったのだ。


◇◆◇◆


 滴る血、冴える思考、何より成長する自身。その全てを実感しながら立ち上がった純は、なぜこんなにもボロボロな身体で動けるのかという疑問すら置き去りに最初の一撃よりも速く、鋭く、そして重い先の先の拳が紘和の顎を真下から捉え、そこから一秒にも満たない間に追撃の踵落としが浮き上がりきらない紘和の後頭部を捉え床に叩き落したのである。自身の滴る血が摩擦係数を緩和し初動の動きに速さを加えていたとしてもそれはもはや人の領域で語る速度にしては恐れ多い神業だった。

 そして崩れ落ちる紘和を見下ろしながら純は大きく息を吸い、そして血を吐いた。


「っへぇぁ。ったく強くなってるじゃねぇか。諦めの良さが地力の底上げでなくなってる証拠だわ。それにしっかりと勝つための最良を、っぐ、探して選んでるみたいじゃない」


 紘和が気絶しているのをいいことに日頃では出なさそうな褒め言葉を伝えると、純はゆっくりとその場に腰を降ろす。


「ふぅう」


 再び大きく深い息を吐く。ものの数分の出来事ではあったが、人類最高峰の戦いの一つがここで一度幕を下ろしたのだ。


◇◆◇◆


 リディアを護るように、というよりは自然と強者の戦いの巻き添えを食わないようにと距離を取ってその決着を待っていたアリスたち。しかし、何かを話し始めるには気まずく、そして、始めようとする時間を与えぬ勢いで決着が付いたのではないかと彷彿とさせる爆音が響き渡る。

 実際は純がぶっ飛ばされて壁に激突した音だったが、直後決着は付いているのであながち間違いではない。


「ちょっと様子を見てくるわね」


 そう言い残すと、タチアナはアリスと友香、リディアを置いて純と紘和が戦っている方へと走り出していった。最も戦力であるアリスを友香とリディアの身辺警護として残したと言ったところだ。

 アリスは未だに生気の戻らない友香を見た後、紘和を見てからブツブツと独り言を言いながら怯えているリディアに視線を向ける。


「大丈夫……ですか?」


 大丈夫でないことはわかっていても切り出す言葉としては間違っていない、何よりそれ以外の言葉を思い浮かべることがアリスの中にはできなかった。しかし、心配の言葉を投げかけたにも関わらず、リディアは怯えた目をアリスに向けていた。

 もちろん、それがリディアを殺しに来た人間の仲間であるという点で全く問題のない表情ではあるのだが。


「私には、こうするしかなかったの。なかったのよ。ごめんなさい。本当にごめんなさい」


 弁明ないし謝罪の言葉をしたかと思うと、再びぶつぶつと同じ単語を連呼するようになった。恐らく、紘和の仲間であってもアリスがここで殺すような真似はしないと思う所があるが故の逃避なのだろう。それとも紘和に対面するまでに情状酌量の余地があることをアリスたちに植え付けたいのか。いや、これだけ怯えた少女にそんなコスい考えを今実行出来るだけの胆力があるようには見えなかった。そう、純粋に怖いのだ。あの殺意を間近で浴びせられたら大半の人間が大人子ども関係なく縮こまってしまうだろう。だからこそ安心させるために、何か言うべきだということはわかるが、アリスにはその何かも当然わからず、言葉をつまらせてしまった。三人は戦火の中心にいるはずなのに、これだけ疎外感を感じるという不思議な時間を過ごすしかなかった。


◇◆◇◆


 タチアナは眼下に広がる光景に驚きながらも、フクロウに姿を変えて純たちの元へ降り立つ。


「天堂さん、生きてるんですよね?」


 意識を失いピクリとも動かない紘和が、血まみれでしかも血の水たまりの上に倒れていれば疑ってしまうのも無理はない。

 それでも生きているとタチアナが思えるのは、紘和の強さを知っている人間だからか、それとも純がまだここで紘和を殺すはずがないという利己的な、純という人柄からから来るのかは定かではない。


「気を失ってるだけだ。はぁああ。というか、どう見ても、っつぅ……俺の方が外傷酷いのにその心配は、ないの?」


 強がりではなく、実際、見た目通りの重症であることはタチアナでなくても見ればわかる。


「お疲れ様」


 だから、例え目の前の人間が人類最強であったとしても、何の疑いもなく、心配もしていないとしても、人としてかけるべき賛辞を送ることにしたタチアナ。純がつけあがることを見越してはぐらかすことも出来ただろう。それでも、今は普通に接することを選んだ。だからお疲れ様、と労いの言葉と共に手持ちにあった包帯を取り出し、応急手当を施そうとしたのだ。純はそれを素直に受け入れる。

 タチアナからすれば反応がないのが若干気になる所だが、素直に言葉を伝えたという意識がある故に純の顔を直視できない気恥ずかしさがあった。


「助かる」


 少し間があってから届いた純の言葉には素直に対して素直になれない、ありがとうという言葉を避けたような、覇気のない声でサラリと感謝の意を告げられた。少なくとも顔を見ないようにしていたタチアナにはそう聞こえて正解だと思いたいという気持ちがあった。


◇◆◇◆


 少し虚をつかれた。労いの言葉ではなく、人類最強なんだから大丈夫でしょ、ぐらいの軽口を想定していただけに、用意していた言葉が通用しないとわかり、純は返す言葉を口から出すのが遅れてしまったのだ。ただ、次に選んだ言葉は実に打算的なものであった。タチアナを迎え入れようという考えに至った当初から、何かしらの好意を向けられているという認識があった。故に、素直に感謝の言葉を伝えずに、若干の遠回しな選択をすることで距離感を一定にすることを選んだのだ。この恋に意味はなくとも、好意を持たれ続けることで純にとって優位に働く場面が多いのは間違いないと判断したからだ。故にその恋慕をくすぐる言葉を奏でてあげようと思ったのだ。同時に、どこまでも誰かと密な関係を築くということに、どこか俯瞰している自分に、酔うのだ。

 それの度が過ぎているかによって悪影響を及ぼすことを理解した上でなお、興味深いと自己分析をする。


「さて、それじゃぁ、こいつが気を失ってる間に、ここでの最後の用事を済ませますか」


 純は手当が軽く済んだことを確認し、自分の中の脱線した好奇心の矛先を変えるべく、少し大きな声で次の目的を口にする。


「最後のって、この状況でまだ何があるっていうの?」


 純がゆっくりと立ち上がるのに合わせてタチアナも立ち上がる。


「一部例外を除いて、この状況を……シナリオを作った人間に会いに行く」


 クルリと一回転してからタチアナの方に向き、これみよがしに手を広げてアピールをする。

 だが、目があったタチアナの顔は明らかに、自画自賛という疑問符を浮かべた、純を疑うような冷ややかな視線を向けていた。


「やれやれ、さっきとは打って変わって不親切というか、不誠実というか……。ひとまず降りるぞ」


 純はそう言うと、紘和が開けた地下まで続く穴を親指でクイクイと指し示す。


「まぁ、信じられなら付いて来なければいい」


 フッと身を投げ出す純。次の瞬間、タチアナの返事を待たずして純の姿は穴の奥へ消えていった。


「……はぁ」


 タチアナはため息と共に姿をフクロウに変えて純を追いかけるのだった。


◇◆◇◆


「っと」


 要所要所で穴の縁を掴み、落下速度を軽減させながら最深部まで降りた純。着地と同時に風を感じるのは隣にタチアナが着陸したからである。

 そして、純は紘和によって荒らされたであろう凄惨な光景に目を奪われることなく、スタスタと目的を果たすべく何かを探し始める。


「おっ、あったあった」


 探し始めてものの数分で目的のものを見つけた純。それは、誰かの、ラクランズの破損した頭部の中身だった。とはいえ、最深部にいたラクランズは上から残骸として落ちてこない限り二つしかない。そして、不気味だったのが触れてもいないのに時折カタカタと動いているように見えることだ。しかし、タチアナは何も言わずに、純の行動を見守っていた。純もそれに対して何か手伝いを要求するわけでもなく、着々と何かを進めていた。破損した頭部を叩いたり、部品を引き剥がしたりとどうやら中から何かを取り出そうとしていることだけはわかった。

 そして、小さなチップを取り出すと、純はタチアナの方に振り返る。


「スマホ、貸してくれない? どうせいくつも持ってるんでしょ、諜報員として」


 そう言って手首をクイクイと曲げ、催促する純。


「別に、掃いて捨てるほど持ってるわけではないですから」


 タチアナはそう文句を言いつつも素直に一つスマホを純に投げ渡した。


「ど~も」


 純はそのまま渡されたスマホに先程のチップを器用に差し込む。差し込めるところがあるのか、という無粋なツッコミはしない。そして、目線と同じぐらいの高さの瓦礫の上にスマホを立たせる。ここまでくれば何が始まるかは容易に想像できる。

 問題は誰なのか、どちらなのかがタチアナにとってわからない部分である。


「もしも~し」


 純の挨拶に、スマホを介して返事が来た。


「……これは、あまりいい状況とは思えないな」


 声色からラクランのものであるということがわかる。

 つまり、電脳の核であるラクランのメモリーに純は用があるということだった。


「あの紘和の一撃でほとんどが塵になったにも関わらず、あんたは生き残った。その状況をあまり良いものとは言えないとは、随分と贅沢じゃないかい?」

「ネットワークを遮断し、私をこんな狭いところに拘束している。生かされて利用されるよりも死んでその叡智を悪用されないように悪者から守った方が良い、とは考えられないかね?」

「……彼女は、薄々あなたが彼女が生み出したものではなく、あなた自身がすでに生み出したものだと気づいていたのではありませんか。だからある程度の頃合いを見てあなたは破壊される必要があった。違いますか?」


 探り合いと呼ぶにはあまりに稚拙な雑談を一方的に始め、一方的に終える純。

 少し落ちた声色が、事実を話せ、自分の知っている何か真相めいたものを先に公開することで強要しているように見えた。


「なぜ、そうしなければならなかったのだろうか」


 ラクランが純の喋った内容に対して真相やどうやって知り得たのかの確認ではなく、そこをすっ飛ばして自身の動機を問うた時点で、タチアナはこの会話が異質なものに変化したことを理解した。


「当たったらさ、俺のために働いてくれる?」

「ならば答えなくて構わない。これから死のうとする僕にはもうはやどうでも良くなる話だ」

「チャールズはまだこの国を救えてない。そして、紘和は今もリディアの直ぐ側にいる。あんたの計算だとすでにリディアがチャールズの庇護下にあると思ってるんだろうけど……まだ、あの化け物を止められる人間はそばにはいないよ。大丈夫かな~最高傑作。感性を目前に死んじゃうかもよ? 紘和の形相はまだ覚えてるでしょ?」


 沈黙。


「自殺プログラムを持っているかもしれないあなたを敵前逃亡させる様な手段を残して話し合いの場を設けるわけ無いだろう? それにまさか、俺を出し抜けるだなんて思ってないよな?」


 相手に不快感を与えるには十分な笑顔がそこにはあった。


「僕は君という人間をラクランズなどを通して見続けてきた。それだけですべてを分かった風に言うことはできない。ただ、君ならばわかってくれるだろう。僕は、死ぬことでやっとリディアを更に進化させることが出来る存在なんだ。万が一にも生きている可能性が露見してはならない。だから、前々から最高傑作である彼女を生かすためにアメリカと手を組んでここまで来たのだ。お願いだ、リディアなら必ず僕の届かなかった死者の、マデリーンの蘇生を叶えてくれるはずなんだ」


 タチアナは断片的な情報からラクランという男の狂気を理解する。マデリーンの話に保管する形で今の話を断片から組み立てるならば、ラクランはマデリーンを蘇生させることに行き詰まり、その解決をリディアに託したということである。猟奇的な蘇生に取り憑かれているように見せかけて、ラクランが死ぬことに正当性を持たせた上で、実の娘に罪悪感という楔を打ち込んだのだ。ラクランは確信していたのだ。リディアは自身よりも賢く、研究を飛躍的に向上させるものだと。そして、この楔がリデイアを蘇生の実験の沼へ沈めていくことを。

 だからその後も成長していくさまを自身の記憶をラクランにコピーさせておいた上で、実が熟すのを見守っていたのだ。リディアが完成させたと思っていたラクランズのラクランはすでにラクランだったということである。そして、ラクランという人格がリディア自身の手によるものではなくラクラン自身によって作られたものと感づかれたやいなや、チャールズに娘を売ったのだ。研究を完成させる、ただそれだけのために。そして、そのことを理性を持って、淡々と自身のためだけに計画的にラクランは実行していたのである。マデリーンの言う悲劇は、ラクランにとってまさに悲しみを演出した劇であったということである。

 そして、その発想を出来る男が純でもあったのだ。


「じゃぁ、俺の質問に答えてくれ」


 純の切り出した言葉にその場にいた二人は息を呑む。

 純も一呼吸置いてから質問を投げかけた。


「お前はマデリーンを生き返らせたいのか? それとも、死者を生き返らせたいのか?」

「僕は……」

「頼むから、嘘だけはつかないでくれ」


 ラクランの答えを敢えて一度遮ってまでを釘を刺す純。その真意を悟ったのか、ラクランはしばらくの間無言を貫いた。時間にして四分経った頃だろうか。地下室でもあるに関わらず、その空間が激しく揺れた。崩落した天井の脆い部分から瓦礫がいくつか降り注ぐぐらいにだ。

 そのタイミングでラクランは喋り出した。


「これは、最愛の人を生き返らせたいが故に引き起こった、愛が歪んだ悲劇なんかじゃない。結果的にそう見えた方が、心象が良いだけの……僕の人体実験の過程だよ。マデリーンを愛していなかった訳じゃない。それでも、機械と人間というテーマに切り込むには充分すぎる機会だった。このチャンスを逃すわけにはいかなかったのさ」


 徐々に大きくなる揺れに落ちてくる瓦礫の大きさも大きくなりドンッドンッと鈍い音を周囲に響かせるようになり、ここももう危険だと警鐘を鳴らす。


「どうして、それをリディアが助かるとわかったタイミングで話す気になった?」

「嘘だと疑わないんだな。……そうだなぁ、感情があるはずなのに、切り離せてしまう欠陥者同士だからかな。こんなこと、どうして言いたくなったのか、自分でも不思議だ。ただ何かに抗えたような気もするんだ。僕はマデリーンじゃなくて人間を蘇生させたいんだと思うことで穴が空くほど読んでる誰かに一泡吹かせられたような、人間としてスカッとした平凡な優越感に浸れる気がするんだ。本当は、穴でありたかったのに。だって、このせ……」


 バンッとラクランは最後まで言葉を続けることなく瓦礫の下敷きになった。救うこともできたであろう目の前の男が何もせず、その最後を見届けたことにタチアナは違和感を覚える。一体ラクランが最後に何を伝えようとしたのか、タチアナには皆目見当もつかない。気が触れた男、それ以上の感想は出てこないでいた。

 しかし、どこか寂しそうな顔をしてタチアナの元に来た純には何かわかっているのかもしれないと思えた。


「すまん、スマホ壊して」


 そう言って上層へ帰還するために瓦礫を足場に駆け上がり始める純に、タチアナは声をかけることができなかった。


「違和感程度なら、俺みたいなやつもいなくはないのか」


 そんな純の言葉を最後に二人は黙々と上を目指し、脱出するのだった。

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