第五十一筆:10145-18

「それで、あなたは自分の試験場の羊を何匹犠牲にしているのかな?」


 電話の向こうで恐らく銃撃戦を繰り広げながら大声で報告しているであろうソフィーを尻目に、スピーカーにした携帯電話を机の上に置いた央聖はラクランに問う。この段階で生きている人間として登録されていた住民が、実際には容姿の似たラクランズに置換されていることが、ほとんど確定したからこその質問である。しかもそれは応対から察するに置換された家族側に認知されないように仕組まれた出来事であると推察もできた。

 つまり、秘密裏に同意を要せず行われていた可能性のある人体実験、そして、央聖の睨んだ金のニオイである。


「羊ではありません。人間を」


 ラクランが央聖の羊という言い回しが人間を実験動物の様に扱っているのだろうという皮肉であることをわかっているはずなのに強い言葉で否定する。


「人間を七百八十二万五千二百八十一人、だ」


 そして、人間の部分をもう一度強調してから央聖の質問にハッキリとその人数を答えた。その金のニオイは確かに央聖が嗅ぎ取った匂いであった。しかし、それは密閉したにも関わらずわずかに漏れ出していた、いや漏れ出してしまう臭いであり、直接嗅ぐには央聖にとってはあまりに刺激の強すぎる臭いだったのである。そんな危険極まりない案件を躊躇いなく事実であるとして伝えたラクランはすでに央聖を見てはいなかった。取り敢えず、明るみになってしまった事実から何か別のことを思案しているような表情であり、まさに秘密を暴いた央聖を眼中に据えていない。

 一方で、オーストラリア人口の約三分の一をラクランズに置き換えているという事実をあっさりと白状された央聖は金のニオイに当てられすぎて困惑していた。央聖にとってはここから取引が進み央聖主導の元、ゆすっていく算段だった。弱みを握り、自身の市場を潤すためのパイプを円滑に敷くというのはよくある話である。しかし、ラクランの態度から脅すという行為が意味を成さないことを理解するのはとても容易いことだった。央聖の想定する数百の人数を容易く上回り、それを何の躊躇いなく堂々と宣告したからだ。何よりもラクランの所業と言動の食い違いが央聖の心を、人間としての感情の起伏を荒立てていた。マッドサイエンティストなどと呼ばれる良識、常識の箍が外れてしまっている人間は央聖も知っている。自身の部下にもその手の人種はいるし、何より金銭という分野において自身もはたから見れば外道と呼ばれるかもしれない人種だという自覚はあったからだ。しかし、今回の件は自身の悪と捉えられる許容を軽く凌駕していた。

 故に自分以上の、否自分の常識内に存在しない人間を前に危機感が働き、央聖を人として逃げる選択肢を思い出したのである。


「撤退準備だ」


 央聖は机に置いた電話を手に取りながらソフィーに指示を出す。人間の皮を被った正義を知る人間は新たに人間の皮を被った何かと出会う。その何かが何なのかはわからないが間違いなく人間の皮を被った正義と同様に狂気に満ち満ちていることだけはわかる。そして、悟ったのだ。これ以上は関わるなと。そこで央聖の意識は途切れるのだった。


◇◆◇◆


「社長、撤退って? 社長?」


 撤退する。確実に相手を揺さぶるには大きな弱みを見つけたにも関わらず、らしくない敵前逃亡を宣言した央聖に疑問を覚え、伝えられた言葉を確認するソフィー。

 しかし、電話の向こうから返事はない。


「どうした、何かあったのか?」


 近くにあった車を盾に銃撃戦を繰り広げていた茅影はソフィーの様子がおかしいことに気づき、声をかけた。


「社長が撤退命令を指示してから、何かおかしいと思って聞き返しても返事がないの。通話中のままだし」

「それって」


 茅影が想像する最悪の事態が、銃声鳴り響く戦場にも関わらず、はっきりとソフィーが手に持つ電話の向こうからから伝えられる。


「取り敢えず、外部の人間も欲しいと思ってた頃だから……その、君たち全員、社長を取り返すためにこっちに来てもらっていいかな?」


 ラクランがそれだけ言って一方的に通話を切った。先程得た情報と紐付け二人は、これがパーチャサブルピースの社員を何かしらの人体実験に用いるために央聖を使って集めようとしている罠だということに気がつく。同時に、ここで二人には助けに行く選択肢と同様に助けに行かないという選択肢が発生していた。それは社長がいなくなっても社を回すことができれば多くの人材を損失するよりも有益であると判断できるからである。

 それは損得で物事を捉えるようにしてきたパーチャサブルピースの、央聖の理念にのっとるところが大きい。


「取り敢えず、連絡の取れる者には撤退命令を出します」


 ソフィーの冷静な判断から下された各自の判断、という対処を茅影は理解する。


「早く伝えてくださいよ。さっき言った通り、私は戦闘能力にあまり自信がありませんので」


 茅影は自身の持ちうる膨大な経験値を元に車の陰から飛び出してそのまま前に出た。身体は経験に任せて戦闘させ、頭ではパーチャサブルピース社員の動向を予想して。そして、カレブというキーパソンの存在を探すために。


◇◆◇◆


 外との連絡手段がラクランズと限定されている地下行きのメンバーが、急変する地上の動きを把握することはほぼ不可能に等しかった。逆を言えばラクランズを解することができればそれも出来るだろうか、ラクランズに対する絶対的な主導権を持っているとされるラクランが現状の央聖を人質とし、パーチャサブルピースを脅迫していることを伝えるメリットは、陸を追い出す作戦を中断させてまで行うメリットになりえない。

 つまり、この連絡はラクランを介していないことになる。


「救いたければ、九十九を捕らえてください。それがコチラができうる善処です」


 六時間の睡眠を挟む休憩後にマーキスがリディアからの報告にすぐに返答することはできなかった。リーダーである自分の耳にまず入れておきたい話があるという前置きで始まった報告の内容はラクランが央聖を人質にとってパーチャサブルピースを脅迫しているという内容である。六時間という空白の時間で事態が急変しているという内容であった。そして、マーキスは社長が人質に取られたというアクシデントに驚き、言葉をつまらせたわけではない。その内容を告げてきたのがラクランの娘、つまりリディアによるものだったということでもない。

 今のリディアに、説明された現状を止めるだけの権限、もしくは力があるということに驚いたのである。


「報酬金はどうなる?」


 故にマーキスから出てくる言葉は社長を救うことでもリディアの実情を問いただすことでもなく、これだけだった。そして、この言葉で次に驚かされるのはリディアとなる。社長の命と報酬金を天秤にかけて報奨金に天秤が傾いた、とは違い天秤にかけるまでもなく最優先として報酬金を取ることが出来る人種がいるという現実を目の当たりにして驚いたのだ。リディアというラクランの娘が情報を伝達し、更には行く末を握っている状況を疑っているならば、そもそも報酬金の心配をするようなことはないだろう。つまり、マーキスはリディアの言葉を信じた上でこの質問を返しているのである。裏返せば、確約すればリディアの目的は当初の依頼として達成されるということである。

 恐らく央聖が死んでもマーキスには報酬金が手に入れば問題はないのだろうと判断できる。


「もちろんです」


 二人がかわした言葉は少ない。

 それでも一般の人が聞いていれば耳を疑うような状況がそこには存在していた。


「では、この連絡はこれで終了していただいて構わない。後は俺の方から伝える」


 そして、非常な条件を突きつけられたはずのマーキスの方から一方的に通話が切られるのだった。


◇◆◇◆


「……俺は金さえ貰えれば問題ありませんよ。つまり、旦那の全員でこのまま九十九を追い詰めるって案で問題ないと思いますよ。薄情な話にも聞こえるけど、要するに社長が殺されちゃう前に九十九をここから追い出せれば問題ないわけですからね」


 原則としてケイデンの考えは、社にいて間違った判断ではない。


「間に合わないという最悪のケースを考えるのも、間違ってはいないと思うわ」


 ミルドレッドはイギリスの革命時に央聖の采配でマーキスが駆けつけて救われているというケースを考え若干、天秤が央聖に傾いた発言を進言する。通信越しで顔色はわからないが声色からはケイデンもマーキスも発言がドライだった。

 だから、この言い分は通ると考えていない。


「僕はどちらかと言えば助けに行きたい。まだ、この場所をなくしたくない。央聖さんの元でお金を稼ぎたい」


 ミルドレッドの考えにユーインが乗っかる。


「これは、隊長命令だ。別にお前たちには事実を伝えただけで意見を求めたわけではない。そこの所を勘違いするなよ。それに先も言った通り依頼を達成すれば報酬金は手に入る」


 それをピシャリとマーキスが否定する。もちろん、これを真っ向から否定する者はいない。

 利益を優先するならば、社長すら切らざるをえない以上に、これが現場の隊長命であることを誰もが理解しているからである。


「では、さっさと終わらせるぞ」


 マーキスの通信終了間際のこの言葉は部隊の指揮を上げるには十分だった。さっさと終わらせる、それにより間接的に央聖を救う手段となるという含みを感じることが出来たからだ。例えそれがマーキスの本心ではないのだとしても、だ。そもそも報酬金は約束されているが人質に取られた央聖の安否が保証されていないことをマーキスは敢えて伏せていたのだから。


◇◆◇◆


 リディアはマーキスとの連絡を終えて、室内にある時計を眺める。ラクランが央聖を人質にしたのはついさっきのことではない。加えて、チャールズの監査の時間までそろそろ半日に差し掛かろうともしている。リディアにとって状況は完全に味方をしていない状況だった。このままでは陸を撤退させることに成功させたとしても、秘密を守ることが困難になる可能性があるからだ。リディアは考える。最善を尽くすためにはどうすればいいか、と。どうやれば最下層の、自身の隠し事を守ることが出来るのかを。そんな中、一本の電話がリディアの元にかかってきたのだった。


◇◆◇◆


「オールクリア」


 ラクランズの襲撃もないまま各部隊は最下層で同じ言葉を口にしてエレベーターを降りてしばらく歩いた先にある大扉の前に集合していた。

 固く閉ざされた扉は防音としても最適なのか内側から何も聴覚情報を伝えてこない。


「ここが最深部で間違いないんだな?」


 マーキスの問にラクランズが首を縦に振る。


「それじゃぁ、どうする? この先に恐らく標的がいる。そちらの約束をどう守るかで突入の順番が変わるが……」


 マーキスはそう言いながら友香の方を見つめる。姿がまだ視認できることから力を使っていないことを確認する。

 同時に、扉の向こうを一点に見つめる視線から気迫を感じ取る。


「安全を確保するために、戦場に慣れた我々が先導するか、確実に初動を取れるように君たちが突入するか……選んでくれ」

「私が行く」


 その言葉と同時に友香は周囲の同意も、周囲との協調性も欠いて一歩前に進む。その行く手を阻もうとするものはもちろんいない。パーチャサブルピース側からしても、タチアナたちからしても友香を目視できなくなってしまうことが最悪のケースだとわかっているからである。つまり、友香の行動を第一に優先しなければならないのだ。

 だが、ここから先の優先順位は両陣営異なる。それは友香の生死を重要視しているかの差だった。当たり前だが、タチアナたちは友香を失うわけにはいかない。そのような指示は出ていないが、仲間意識というもの、何より純が友香のためにこれまでしてきたであろうことの積み重ねでここにいるという事実がそうさせるのだ。一方で、パーチャサブルピース、否、現在のマーキスたちにとっては央聖の神格呪者を利用したいという目論見は人質に取られている、死んでしまうかもしれないという可能性がある以上保留に出来る事案である。つまり、友香の裏切りに合わない限り、陸と相打ち以上の結果を残せば問題がないのである。

 それぞれの思惑が蠢く中、友香の後ろをタチアナの部隊が、その後をカバーするようにマーキスたちの部隊が追従する形を取る。


「開けて」


 その一言にポーラが反応し、扉横にある制御端末を操作する。一分もかからないうちに扉が大きな音を立てて開く。そして、開ききるのを待たずに身体が通れるだけの隙間を確保した後、即座に友香が中へ入り込む。しかし、誰も取り乱すことなく、友香の気迫からわかっていたようにその後に続きなだれ込む。先陣を切り込んだ人間がいなくなったことを意識外において。


◇◆◇◆


 背後の扉が開き、多くの足音が聞こえてくる中、陸は国会議事堂の深部で友香を待っていた時の状況を思い出す。

 あの時よりも外野は多いが、それはこちらの手持ちも同じである。


「ふぅ」


 シチュエーションは違うが、幾度と繰り返してきたことであるにも関わらず慣れることはない。故に緊張を少しでも和らげるためにゆっくりと細く息を吐く。そして、目的を果たすべく落ち着かせた気持ちをそのままに陸は後ろに振り返った。そして、視界に一瞬友香を捉えたような気がした。故に気を引き締める。すでに戦いは始まっているのだと落ち着かせた気持ちを再び張り詰めさせる。もちろん、悪役特有の前口上を述べる余裕を、スキを与えるつもりもない。切り替えを済ませた陸は迷うことなくラクランズ数十体と共に前進した。

 戦いが始まる。


◇◆◇◆


 始まった戦いはすでに混乱が生じていた。声にその緊急事態を出すものはいないが、友香の姿が消えたのである。敵となりうる可能性もある存在が目視できないことにマーキスたちは陣営を守りに寄せる。一方でタチアナたちはカバーに入れなくなるこの状況に注意力が散漫となる。だから接近する敵勢力に気づくのがワンテンポ遅れる。タチアナが痛いと感じるよりも前に熱いと感じた攻撃から沸騰したお湯を含むやかんを手で触った時に耳たぶを触るように反射的に回避する。その攻撃が来た先にいたのは見知らぬラクランズだった。タチアナは右肘から流血しているのを感じ、軽く目視する。浅いが切り傷ではなく薄くスライスされたような形跡がそこにはあった。

 一方で、流血は想像以上に抑えられており、熱いと感じたのは痛みによる錯覚ではなく実際に熱かったからであるとわかるような若干の焦げた痕が存在した。


「ポーラさん、あれはなんですか? あなた方と同じただのラクランズには見えないのですが」

「少しお待ちを」


 ポーラはタチアナの質問にすぐさま答えをもたらさなかった。

 しかし、答えを持ち合わせている素振りはあったため、何か特別な機体であることは容易に想像、否、タチアナの言葉が、推測が間違いでないことの裏付けになった。


「先程の質問に対する解答は、バーストシリーズ、です。言ってしまえば他の量産型のラクランズと異なり固有の力を実装しているラクランズのことを指します。あれはすでにこちらの制御下を一時的に離れているみたいですが」


 そして、ポーラはタチアナを覗き込むようにして付け加える。


「実は、私もバーストシリーズです」


 タチアナは一瞬、間の抜けた顔をする。恐らく、先程、タチアナが量産型のラクランズとポーラを同じ性能として扱ったことに、若干憤慨していたのだろう。

 その表れが先の補足であり、少しふてくされたように、まるで自然な人間の対抗心のような動作として頬を膨らませ、両手を後ろで組みもじもじとしているのであった。


「それは……失礼しました」


 あまりにも人間らしい、最適とは程遠い所作にタチアナは思わず謝罪する。

 そして、タチアナの言葉に満足したのか、ポーラは言葉を続ける。


「敵対するバーストシリーズは四人。タチアナさんを攻撃してきたのは、あちらの大男の様なビリーの増幅による攻撃の一つです。恐らく……」


 ポーラの解説を待つ前に轟音が周囲の音をかき消す。戦闘中の最中に相手側がこちらの戦闘準備を待ってはくれないということである。鼓膜はやられていないようだが、間違いなくビリーの攻撃であるということはわかった。恐らく、敵に搭載している能力の詳細な情報が行く前に分断してしまおうという判断だったのであろう。一方でビリーの攻撃を皮切りにその場の全勢力が、止めていた足を動かし始めた。


◇◆◇◆


「やぁ、久しぶり」


 友香は陸に目視されていると理解する。

 視線が合うこと以上に様々な雑音が響く中で、二人の向き合う空間だけが特別な様に感じるほど、陸の言葉が友香の耳に届いたからだ。


「ここで終わりにしてあげる」


 陸のために、自分のために、そして優紀のために。推察で上がった可能性、世界に反旗を翻させる行為を止める意思を示す友香。もう迷う時間は終わった。殺さなければ止まらない。

 自身が生かされている存在だとしても、これ以上周囲を巻き込むのは本意ではないのだ。


「残念だけど、それは叶わない。俺はまだここで終わるわけにはいかない。それに、ここでやるべきことはもう済んだ。だから、もう撤退するだけなんだ。悪いけど決着をつけてあげるとしてもここじゃないってことだ」


 そう言いながらダラリと下がった陸の右手にはいつの間にか拳銃が握られていた。引き金部分を人差し指にかけてクルリと回転させながら腕を肩の高さまで上げる。

 そして銃口の先を友香へと合わせる。


「あまり変な期待はしないでくれ。これがその証拠だ」


 何が言いたいのか友香には理解できた。【想造の観測】が何の異変もなく機能し続けているという事実である。それは、今まで感じていた優紀という存在を感じる瞬間が何処にもなかったことを意味していた。だが、今までの経験から殺されることもないのだろうと友香は確信していた。何度もあった殺せる機会は優紀の存在だけで片付けられるほど、簡単なものではないと直感的にわかっていたからだ。そして、銃声は響き渡った。


◇◆◇◆


「いた」


 タチアナは分断され、体勢を大きく崩される中で友香が見えていることに気づくと同時に陸と接触しているのを目の端に捉えていた。しかし、先程とは別の機体、別のバーストシリーズが二人、友香までの道のりを阻むように立ち塞いでいる。

 アリスとポーラも目視は出来ているようで、どうやって近づくか考えているようだった。


「ねぇ、アリス。もし、何かこの状況を打開できるDNAを持っているなら、今それを使って桜峰さんの所へ向かってくれませんか? こちらの戦力は気にしないで構いませんので」


 もちろん、戦力が足りているから問題がないという意味ではない。ここで最もやってはいけないことは友香が手元から離れてしまうこと、という優先順位あっての提案だった。

 それは死ぬにしても、陸側に寝返るとしても、である。


「……わかりました」


 一瞬、使うか悩んだように見えたアリスだったが、スッと手元に出した赤黒い小粒を口の中に放り込んだ。パキッという乾いた音と共にアリスの身体が即座に姿を反映させる。そしてタチアナはそこに現れた姿を見て、なぜアリスがこの力を行使するのを躊躇ったように見えたか理解する。しかし、この状況下、神格呪者と対峙するならば、最も実力に関係なく適した姿であるのも事実だった。アリスだからこそ所持していたのか、それともこの状況を予期した純が渡していた物なのかはわからない。

 ドンッという音と共にヘンリーの姿となったアリスは容易くラクランズを抜いていく。イギリスの希望。あらゆる可能性を希望という可能性で底上げできる力が、バーストシリーズの包囲網突破を可能とする。

 後は不可能な局面さえ迎えなければと祈るだけだった。


「それで、まだ目の前の性能を聞いてないんだけど、教えてくれる、ポーラ。できればあなたの力もね」


 少し柔らかくなった、本来のタチアナの言葉遣いともとれる言動にポーラは、意気投合は言い過ぎたとしても共闘する上で少なからず、自身のモチベーションが上がった感触を得た。


「残念ですが、私の力に関しては戦闘向きじゃありません。私の力は解析、それも感情に重点を置いたもののため、多くの情報を集積、処理、施行するだけなのです」


 そう言ったポーラの目に映ったタチアナの顔は、ポカーンという擬音が似合おうほどに呆けた顔だった。


◇◆◇◆


 マーキスたちは一体が増幅という能力を持つバーストシリーズであるビリーのことをしっかりとポーラの説明を聞き逃すことなく捉えていた。とはいえ、先程の轟音から恐らく何らかの手段で自身が発した音を増幅して攻撃したのだと推測できるだけでそれ以上のことはもちろんわからずにいた。恐らく、バーストシリーズのラクランズ側はこちらの戦力を見て有利が出るように自陣の戦力を分散させたのだろうと推測できる。それはタチアナたちと距離的に対面していたビリーがわざわざマーキスたちと対峙しているから推察できることだった。故に、もう片方の情報がわからないというのが脅威だった。対策手段を講じるまもなく相手の有利な状況にもちこまれているからである。だからといって様子を見ているだけでは後手になるだけで、何かしらの情報を得るためにも行動する必要がある状況だった。タイムリミットと呼べる時間は存在しない。それでも体力という点で長期戦が望まれる相手でないことは明白である。ラクランズを扱っているからこそ知っていることだが、それはあらゆる手段を用いてエネルギーを自身に蓄積し、電池切れといった機械的な弱点をつくことが困難な設計を施されているからである。

 だが、どう立ち回るか考えるよりも先に動く者がいた。


「ぶっ壊す」


 ドロリと形態を流動的にしたユーインが言葉と同時にラクランズに掴みかかろうとしたのだ。無論止める者はいない。相手の動向を伺うための火中の栗を拾いに行く役目が自分でなくなっただけの話だからだ。加えて、ユーインは誰もがその異能という側面で、パーチャサブルピースの中で実力を認めている存在でもある。だが、ユーインの手は届くことはない。突然のまばゆい光源に視覚情報を奪われ、身体が反射的に動けなくなったからである。そしてそのまま銃撃の音が響き渡った。


◇◆◇◆


 アリスの蹴り上げた右脚がきれいに陸の持つ銃の銃口を真上にかちあげる。タチアナたちのいる戦場を離脱できるタイミング、背後の突然の閃光、それに少し気が取られた陸。全てが噛み合いここまで来た。これが運も実力の内、イギリスの希望のなせる業である。イギリスの希望がなくてもできたかもしれないが、今のアリスにはそう考えることができないほどの都合の良さが、蹴り上げた脚の余韻にあった。

 虚空に放たれた銃声を皮切りに光源付近でたくさんの銃声が鳴り始める。


「桜峰さん」


 一瞬の更に出来上がった虚を突いたようなスキに追撃を促すアリス。しかし、そんな必要はなく、友香の手はすでに陸の腹部、左脇腹へと到達し、到達部を中心にじわりと赤黒い染みが広がりつつあった。カップ容器に入れたカスタードクリームがゆっくりと広がるように、それでいて実際はカップ容器に入っていないそれは止まる勢いを当然知らなかった。


◇◆◇◆


 いっそ傾いてしまえばいい、とロシアで純が友香に言った。それが今まであった陸を止めることに対する友香のストッパーを外していたのは間違いなかった。純という人間から正論を煽るように言われて意固地になっていたというのも少なくともあるだろう。しかし、人を刺すことを経験し、優紀を救うためには陸を止めなければならない、止まらない陸を止めるためにはいささか強引な手段を取らなければならないという思考で頭が一杯になっていた友香は、直前の出来ていた選択肢を取ってしまう。まだ寄り添ってくれた人を傷つけるということを知らなかったにも関わらず、ましてやあの時は勢い任せであったが、今回は自分の明確な意志で判断した後に、である。故にこのナイフによる刺突は、実体験として、一瞬にして友香の根底に訴えかけてきたのだ。


 不死の力を持つとはいえ、力をどこまで分配できているかわからない陸を、そこにいる優紀を、最愛の人を諸共殺してしまう、と。


 止めるために陸を殺すつもりで来た。それが刺した感触、血の匂いで急激に後悔へと反転しドロリと塗りつぶされる。刺したという結果が、ただ重く、重くのしかかる。それまでの意気込みや達成したことに対する充足は一切なく、手を、歯を、血の気がなくなっていく陸よりも早く震わせながら絶望の顔で友香は陸に刺さったナイフを抜くこともましてや緊張で固まった手で放すことも出来ずにギュッと握りしめたまま見つめていた。いや、目が離せないでいた。そして、震える手はまるで返り血がノリなのかと錯覚してしまう様に時間が経てば経つほど、血が垂れてくれば垂れてくるほどナイフから離せずくっついていくようだった。呼吸を荒げていることがわかる。何か吐き出してしまうかもしれない、胸を締め付けるような不快感はあっても言葉は出てこない。やってしまったという事実とそれに対する後悔と恐怖だけが延々と自身を責め続け頭の中を真っ白に染め上げていく。

 友香には愛は過剰にあれど、覚悟は過不足だったのである。それがこのパニックという停止状態を生んでいる。だが、この状況を誰もが想定していたわけでもない。だからこそ、事が好転することはなかった。


◇◆◇◆


「っ」


 瀕死の重傷というわけではない。経験したことのない痛さというわけでもない。それでも知った顔に、殺されそうになる、殺意を持って刺されるということは中々経験できるものではないだろう。まず、そういった点で心の動揺が普段と違う激痛を与える。そして、小刻みに震えつつ、離すことのない手がじんわりと痛みを継続、拡散させ続けているのである。

こうしたのは間違いなく、友香であり、そうしようと決めたのも友香なのだろう。それでも想定外なのには、こうするように誰かに誘導されたのではないかという疑念が残るからだ。ここまで殺意を実行に持ってこさせる人間がいるとすれば、最も近くにいた存在ということになる。陸が友香を殺さないとわかった上で、友香も陸を殺すことを最終的に躊躇することを想定してまでの結果がここにあるかはわからない。後者に関しては、大怪我であることは違いなくても致命傷にはいたらない箇所にナイフの軌道がズレたように見えたからだ。これは【想造の観測】でそう見えたようにしたわけではない。想定外だったため迅速に対応できなかったから言えることである。

 純。真っ先に思い浮かんだ首謀者の顔は目の届く範囲には確認できない。だから、陸は自分の置かれた状況を、刺したまま動かなくなってしまった友香へ視線を戻す。ツラい目に合わせて申し訳ないという気持ちが、陸自身に関係なく、否応なく溢れ出す。

 もし、この場に純がいれば主導権に変化が起きている可能性もあっただろう。


「っと」


 陸はゆっくりと友香の手を握り返しながらナイフを引き抜く。その瞬間、陸はようやく先程までの考えが当たらずも遠からずであり、この状況が作られた意味を理解する。そんな心配は必要ないだろうと思いつつ、しかし、だからこそ、言わねばならない言葉がある。

 ナイフの抜けた箇所から身体を修復していきながら陸は蔑んだ声を選んだ。


「やっぱり、最愛ではないんだね。止められないなんて、覚悟が足りないよ」


 愛に対して敏感な友香に向けた最上級の皮肉。その言葉を聞いて、ピクリと僅かに友香の肩が反応したようにも見えた。しかし、陸と友香の間にすかさずアリスの身体が割って入り、陸はその攻撃を回避するべく距離を取らされた。【想造の観測】との相性が決していいわけではないイギリスの希望というチョイスが徹底的なものを感じさせた。アリスも恐らく、そのことには気づいているのだろうと陸は感じる。自身に絶対的なビジョンを見せない限り、イギリスの希望は抗い続けられてしまうということに。


◇◆◇◆


 アリスは一瞬、止まってしまった空間を静観してしまっていた。あれだけ息巻いていた友香が、結局陸を殺せなかったこと、否、直前で躊躇したこと。そして、刺されたことに驚きの色を顕にし、しばし修復すら忘れた友香を見続け、何も危害を加えなかった陸に、どう対処していいかわからなかったのだ。陸を倒すという大役は恐らくアリスがこなしていいものではない、という自覚はある。これは、純や紘和、そして友香がやらねば、決着をつけなければならないと。その配慮が攻撃を続けるという思考を止めさせてしまったのだ。だからこそ、動きを見て、どう友香をフォローするか、それだけを考えることとなり静止してしまったのだ。そう、彼らの血を、DNAを奪い取るという最大の好機であったにも関わらず、そんなことを考える余裕すらないほどに、友香をどうするかを考えたのである。

 そして、永く感じる一瞬は、陸がナイフを抜くところで動き始める。だからアリスは護らねばと、この可能性があれば抗えるヘンリーの持つ力で友香を死守するべく陸との間に割って入ったのだ。そして、最大のチャンスタイムが終わりを迎える直前で、怒涛のラッシュが駆け込み乗車するのだった。

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