第四十八筆:9486-8

 目的の階数、一階降りた所でエレベーターが止まり、ゆっくりと扉が開く。エレベーターという閉鎖的な空間は、待ち伏せされていたとしても目視で来るはずもなく心構えでしか対応できない。故に圧倒的に後手に回る上、退路もなく、明らかに貧乏くじを引かされたような突入経路というわけである。もちろん、そんな不利な環境を進んで選ぶ部隊はいなかった。

 そう、これは友香が進んで選んだ選択肢であった。


「もし、エレベーターが可動を始めたら最下層まで直行できるここを選ぶ可能性が高いと思うの。つまり、一番接触する可能性が高い、はず」


 実に合理的で危険を顧みないハイリスクハイリターンな理由だった。そして、先の理由からこの友香の主張を、選択を止める他の部隊はいなかった。自ら最大のリスクを背負ってくれるのだからこれに越したことはない。なにせ、ラクランと央聖にとって現状、陸と直接対決をする必要はなく、結果的に誰かがオーストラリアから何かが起こる前に陸を追い出せればそれで問題がないのだから。一方の友香は、邂逅を望んでいる。

 一方タチアナとアリスは仲間だとは言えそれを危険だからといって忠告し制止すれば自らの首を締めかねないと理解しているため意義を唱えることは当然できなかった。


「ふぅ」


 そんなこんなで現在すでに戦闘態勢を整えていたタチアナはフクロウの姿を少しだけ体現させていたが、扉の向こうに敵が誰もいなかったことに安堵していた。アリスも戦闘態勢はとっていたが新人類の力は使っていなかった。現在、タチアナが把握している限りアンナと蟻の合成人の血だけを確保している状況だった。しかし、把握している限りと曖昧な表現を用いなければならない理由は、純たちと分かれる時に再びアリスが何か赤い液体の入った小瓶をいくつか受け取っていたように見えたからだ。それが想像通り誰かの血液であれば、成りすましが自身の身体にストックしておける血液が三つである以上、すでに先の把握している人物には成りすませない可能性があるのだ。同時に、アリスが未だに使用していない、ひいては誰にもそのことを伝えていないことから、純から何かしらの指示を受けている可能性もあるため、積極的に聞くこともできないでいた。

 諜報部に所属していたこともあり、情報がいかに秘匿性の元で光るものかを理解しているが故の判断だった。


「それでは予定通り私とアリスさんがエレベーターで待機、友香さんとタチアナさんが担当される周囲を引き続き探索でよろしいでしょうか」


 ポーラの言葉にみなが頭を縦に振る。友香だけ少し納得がいかないような顔をしていたが、この配置を決めたのはタチアナである。まず、エレベーターを守らせる人間に友香を配置する案はなかった。これは恐らく声に出さずとも満場一致であり、友香が勝手に全てを無視して無理矢理にでも階下へ行こうとしてしまうことを未然に防ぐためである。友香が本気で逃走を図ろうとすれば認識されない内に行動できるのである。誰もが信じていないわけではないにしろ、最悪の事態を想定した時の保険を考えてしまうのはチームメイトを信用していなさを強調するようであるが致し方のないことである。まぁ、利害の一致の寄せ集めと言われればそれまでなのでそこはあまり関係ない話でもあるのだが。

 では、次に誰を残していくべきかと考えると、移動手段を守るという都合上、どちらか、タチアナ側の誰かとポーラが裏切る可能性を極力避ける必要がある。そのため、両陣営から代表を集うと考えると、必然的にポーラは確定する。こちらの信用を勝ち取る点でも必至だが何よりこちらが常に目をやれる場に置いておくというのが重要な状況だった。他の部隊が人間とラクランズを同じ数だけ連れているのに対して、タチアナたちはポーラ一人だけをつけている。理由としては、ラクランズに好印象をもっていない点、そしてポーラというラクランズが同じラクランズの中でも少し性能がいいという点が合意の理由だった。ここで残ったアリスとタチアナをどう配置するかと考えた時、タチアナは責任感から友香を見られるのは自分だと思い、率先して友香と友に探索することを選んだ。ポーラの力が未知という点では索敵に秀でたタチアナが友香に同行したほうが良いのは道理でもあった。アリスからしてみても特に依存はなかったためこの布陣が決定するのだった。逆に言えば、ポーラが目の届かない範囲に行こうとするタチアナたちに一切の異を唱えなかったのは意外な所ではあった。

 友香の逃走を阻止する目的とは言え友香を先頭に四人で行動するという選択肢もあったはずなのだから。


「それでは行ってきます」


 タチアナは先を急ぐ友香を追うようにそう言葉だけを残してエレベーターから離れていった。タチアナは小走りで友香に追いつくと同時にポーラがどれだけ優れているかの片鱗に気づくことになる。隠すつもりはないといった挙動で一定の距離をとって小型の飛行物体が追尾しているのである。間違いなくポーラの用意していた小型の監視機器である。それはすんなりとエレベーターの守備に回ったことにも合点がいくものだった。何かを仕掛けるならば本体がエレベーターについていたほうが都合はよく、ただ動向を探るだけならばこの追尾式の機械の監視でこと足りるということである。とはいえ、現状タチアナは何かをするつもりはないので特に監視下に置かれていたとしても問題はない。むしろ友香を見逃した時にいち早く検知できる補強ともなる心強いものという印象だった。そう後はタチアナがどれだけ友香の手綱を握り続けられるかである。


◇◆◇◆


 アリスは友香とタチアナが廊下の角を曲がっていく背中を見送る。ポーラがそれに合わせて右手から何か放ったのを見ていたが、恐らく監視カメラの付いたラジコンだろうと予想し、特に問題はないと判断したため何か言うわけでもなく見逃した。

 そして、そのままエレベーターの前で緊張の糸が切れたように座り込んだ。


「いいのですか? 何か仲間に伝えなくても」


 ポーラは取り決めの時に言わなかったことに後ろめたい気持ちがあったから聞いたのではなく、純粋に仲間ならばこのしてやられているような状況に警告を促すべきではないのかと疑問に思ったからアリスに質問していた。


「別に、そのぐらいどっちも気づいているでしょうし、タチアナさんにいたってはあなたがこちらの警備に素直についた段階で予想していたことだと思います。もし、私たちの中で今後緊急を要するようなことがあるとすれば……どうしてわかっていることを互いに話しているんですかね。意外と沈黙に耐えられなかったりするの? それとも人間に近づいているか、やっぱり気になりますか?」


 アリスはこの暇になるであろう時間を潰すために意地の悪い質問をポーラにする。

 もちろん、つい先程、央聖と結託してはめられたことに対する意趣返しの意味もあったが、それ以上に、友香という人として大切な何かが欠落し始めたような、化物になろうとしている人間を見て、先刻のダッシュ社への移動中の車内でした問答をどう捉えているか単純に気にしていたのだ。


「なんでも勘ぐるのはよろしくないかと。ただの事実確認です。こちらとしてもあなた方がどういった意識の元に行動しているか少しでも把握しておくことは今後の対応に大きく作用すると思いますから」


 アリスははぐらかされたと感じつつも、仮にそうだったとすればやはり人間に近付こうと無意識の内に思っているのだと判断することにした。そして、この想像がタチアナの言う嫌な予感に繋がるのではないだろうかとアリスは考え始めてもいた。何せ、いつだって渦中にいるのは人間であるからだ。

 そんな胸騒ぎが広がる中、アリスは内側にある胸ポケットにしまった小瓶へと無意識に視線を送ってしまう。癪に触るが、純はこの先の、先程タチアナが疑問にしたどうなるかを知っている気がするからである。だから用意周到にこんな心強いものを隠し持っておけと寄こしたのではないかと。だからといってこの状況が純の企て、つまり自作自演でないというのも感じているからこそアリスはまたモヤモヤっとした霧の中でわからないものを探させられているような気分にさせられていた。一体、自分たちは誰の何に巻き込まれているのか。ジェフのために動き続けていた彼女にとってはあまりにも大きな世界にポツンと立たされている状況なのだった。

 そんな世界はアリスのことは考えずに先へ走り続ける。微かであるが、遠方から爆音とその振動が研究室内を駆け抜けたのだ。どこかで戦闘が始まった、つまり何かと接敵したということである。


◇◆◇◆


 接敵していたのは、ユーインが率いる部隊だった。逃走経路の確保のためラクランズ一体と部下を二人残して、索敵を開始していた。避難経路の確保に部下を二人残しているのはタチアナたち同様いざという時にラクランズを確実に破壊するのに必要な人数が二人だと判断しているからでもあるが、それ以上にもし陸によって寝返る形となったラクランズが現れた時に対処することを前提に、破壊するという目的は同じで置いてきたというのが正確な判断であった。そして、ユーインを中心にラクランズの二体を左右に、そして後衛を二人、前衛を一人で固めて行動していた。ラクランズを目の届く所に配置した上で、後ろの守りを厚く、ユーインが前を意識して全カバーするフォーメーションである。そして、辺りに細心の注意を払う中、初撃が壁を貫通してラクランズを襲ったのだった。

 明らかに正確な不意打ち。こちらの位置をどうやって把握していたのか。足音の可能性を真っ先に考えるが、そんな目視をしていないと推察した環境で部隊の頭を狙うように的確な不意打ちが、偶然で頭を狙えたと判断する方が足元を救われる可能性があると考え直す。つまり、この襲撃はこちらの動きを理解した上で行われたと判断して行動したほうが良いということである。そして、ここで重要なことはどうやってこちらに気づかれず位置情報を取得していたかということである。

 一つは単純にラクランの裏切り。しかし、それはラクランズがユーインを守るような動きをしている点から自作自演にしてもお粗末なため排除する。そのため、ラクランズにはまだユーインたちが把握していない機能、もしくはその様な機能を新しく付与された可能性があるということである。

 そう、ユーインたちは想定通りラクランズに襲撃されたのだ。


「こちら、ユーインから全部隊、及び司令室へ。先行したラクランズと思わしきものの一体から襲撃を受けました。これより迎撃します。どうぞ」


 ユーインは形式だけの連絡を済ませると、即座に新人類の怪力の力を発動させる。右手の皮膚が、肉体がドロリと崩れ落ち赤い血管と骨が沼から浮上するかのように露出する。そして、崩れ落ちたものが黒くなり浮き出た血管を軽くコーティングすると骨の関節部に集まる。

 残った黒い部分が触手のようにうねり、同行していたラクランズに抑えられているラクランズの身体を絡め取る。


「どけ、ラクランズ」


 味方ラクランズにそれだけ言うと身動きできない、ラクランの制御下を離れたラクランズを真っ白い骨が、指先から肘まで人間の心臓に当たる部位を貫通する。何かがショートするような音と共にラクランズが一瞬痙攣するようにビクンと軽く撥ねるが、すぐさま密着したことを好機と判断したのか両手でユーインの腕をホールドする。一方でユーインはそのまま関節の可動域を自在に広げられることをいいことに、触手をホールドしてきた腕を自身の骨に固定すると、そのまま貫通した部位から真下に引き裂いた。

 裂いたと表現したが、それはあまりにも乱暴で叩き潰した、引きちぎったと形容したほうが正しいぐらいに無残にラクランズを機能停止に追い込んだ。


「まったく、弱者がつけあがるなよ。もっと戦略的に外壁から攻略しろよ。お前ごときが単体で僕を傷つけられるわけないだろ」


 先ほどとは別人の様に悪態をつき、これ見よがしに身動きの取れないラクランズを執拗に踏み潰し続けるユーイン。ユーインが新人類で能力発動中はトラウマによる力の具象のせいで口が悪くなることはすでに知っているため、その凄惨な光景を割り切らなければならないと思う部下でさえも、同情の目を向けてしまうほどの残虐な行動である。もしも、ラクランズにそういったものがあれば、例え仲たがいをすることになった同胞を殺すことになり、今のような状況を見て冷静でいられるのだろうかと思うのだった。そして、この光景に行動を起こさないラクランズを見て機械で良かったと心から思うのだ。


◇◆◇◆


「へぇ、そんな副作用みたいなのがあるのか。そもそも能力の開発が心的外傷に依存してるっていうのが……ん~」


 昼下がり。家族サービスをした方が良いと梓に言われて、泰平はリリーと一緒に温泉街へ都内から移動する途中の人気の少ない、それでいて少しオシャレなお店で昼食をとっていた。独身であったが、突然子持ちになる。生活は一変するかに思えたが、感覚としては幼い家政婦が来たという感じで、殺伐とした部屋にリリー用の小物や服が増えただけで、料理や洗濯は確かに物理的に増えたが、全てリリーがやってくれている。最初は泰平がやっていたが、気を使われている感じが嫌だったのか、それとも恩を感じているのか、泰平の袖を引っ張って手伝いたいと言ってきたのを機に一緒にやるようになった。そして、いつの間にか泰平がいる方が効率が悪いようになり、先程全てといったが、正確には泰平が手伝う側になってしまっていたというのが事の顛末である。そして、察しの通りリリーは決して口数が多い方ではない。泰平も最低限の会話はするが、どこまで聞いていいのかと探るような部分が大きかった。孤児であり、先の革命で利用されたとされる子供に、深く事情を聞くことは良心的にためらわれる。それに伴って本人が楽しめそうな話題を振ることが、ホームシックを誘発してしまうのではないだろうかと、つまり子を持ったことのない独身男性らしい気遣いに悩まされていたのである。

 そのことで最近、そのことを梓に相談したわけである。


「リリーちゃん、先輩の家族になること受け入れたんっすよ? 実際どう思ってるかは知りませんけど、あれでも子供です。もっとこっちから素直に遊んであげればいいじゃないっすか? 憎いだけなら今頃先輩は料理に毒でも盛られて死んでますよ。もっと自信を持ってください。というか、せっかくだから有給とって遊んできてください。家族サービスですよ、家族サービス」


 という流れで今ここにいるというわけである。それから遊びに行かないかと口に出すだけでも泰平は数日を要したが、その後漸く夕飯を囲んだ時に、泰平は意を決して温泉に行きたくはないかとリリーを誘ってみたのだ。すると嬉しそうにする顔と困惑する顔がそこにはあった。泰平はこの時、言葉の選択を間違えたと理解する。

 行きたくはないかという質問自体が、相手に洗濯を委ねて試すような質問であるということに、だ。


「あぁ、こういうのには慣れてなくてな。言い方が悪かった。明後日、羽を伸ばしに温泉に行くぞ。だから……しっかり荷造りしておくんだぞ」


 するとリリーは食事中であるにも関わらず席を立つとそのまま泰平の元へ近づいていき抱きついてきたのだ。その瞬間に泰平は梓の言う通り、もっと素直で自然でいいのだと思ったのだった。そして旅行当日、家を出て、車での移動中もなんとなくの会話を弾ませていた。

 しかし、そんな中で発覚した苦虫を潰すような内容もあった。


「その、俺ってこんななりだし、よく一緒に住んでもいいって思ったよね。こっちとしては可愛い娘ができて万々歳だったけど、最初から割と受け入れてもらえてたみたいだし、その……」

「幾瀧ってやつが、泰平はいいやつだって教えてくれた。能力を使わないで居続ければわかるって。嘘だったら眼の前で死んでやるって。あいつが死ぬなら、構わないと思った」


 言いづらいことを察してか、それとも今のリリーの気持ちを伝えることで順調に歩み始めた日常を、より円滑に前に進めようとした結果なのか、普段よりも口を動かし、必死に誤解されぬように言葉を続ける。


「でも、今は違う。泰平は本当にいいやつだった。私のことを新人類じゃなくてリリーとして扱ってくれる。こんな力を持ってるから疑心暗鬼にさせてもおかしくないのに。それに優しいし……優しい。私、泰平のこと、好きだよ」

「……まいったなぁ」


 純の顔がちらつき一瞬、素直に喜べない感じがあったが、助手席に座るリリーの訴えかけてくる瞳を見てそんな考えは吹き飛んでいった。

 親バカなのかなと思ってしまうぐらいに泰平はその曇りない瞳に微塵の疑いを抱くこと無く惹かれたのだ。


「俺の方が、多分……もっと好きだぞ」


 最後の方は普段口にしない言葉故、気恥ずかしでほとんど聞き取れないぐらいゴニョゴニョと言ってしまう泰平。だからアハハとごまかすように笑い声を続ける。それでもリリーには伝わっているようで、満面の笑みを向けてくれていた。

 そして、時間は巻き戻り、昼食まで遡る。ある程度の胸の内を互いに話せた故に、話してもいいと互いが判断するラインが、踏み込んでもいいと思える境界線が狭まっていた。特にリリーがその辺をなくそうと積極的になっており、泰平に新人類について自分から話し始めたのだ。もちろん、こんな会話、誰が聞き耳を立てているかわからない機密性のない喫茶店で行われていることは不適切だが、この時の泰平は頼られている、信頼されているという充足感と、実際に客足の少ない店内ということで気にしていなかった。もちろん、リリーの口から出る情報を一切知らないわけではない。イギリスでの功績、主にリリーを保護したことに対してと、上の推薦を経て手に入れることになった日本の剣の剣鬼にして憤怒の席に座ったことを存分に活用して新人類に関する情報は集めていた。ただ、黒い粉によって六種類の異能が生まれたこととその性能、その中には力をさらに顕著に伸ばした能力者がいるということだけで、確かに重要な情報であるが、現地で仕入れた情報以上のことは知れずにいた。故に、トラウマを再現していることによる副作用があるということは知らなかったのだ。

 多くの場合は気が強くなり、排他的な性格になるらしかった。


「辛く……いや、辛かったからこそ手に入れた力なんだよな。でも……俺には辛かったろ、としか言えないな」


 リリーは泰平の反応に困っていた。恐らく、ジェフという人間を未だに信頼しているからこそ力を獲得したことが重みであるということを否定はできないと言った感じだと理解はしていた。

 反逆者として世間には知れ渡っているが、真実は泰平の知るところにはなかった。


「ジェフさんや仲間にはまた会いたい?」


 心配する言葉を投げかけてしまったと口に出してから気づく。そもそもあの戦いで多くの新人類は殺されている。実際、泰平はアリス以外、誰が生き残っているか把握できていない状況だった。故に、今の質問が軽率だったと感じた訳である。

 しかし、リリーの反応は意外なものだった。


「ジェフ様には会いたい。みんなもそうしてると思うし」

「みんな?」


 先程まで生存が二人しかいないと思っていたばっかりに、泰平は思わず聞き返してしまう。


「特異体のみんなはもちろんだけど、多分、あの戦いで生き残ってる新人類はそれなりにいるはずだよ。ただ、イギリスにどれだけ残っているかはわからないけど」


 泰平は内心驚いていた。最も驚くべきことは外部に逃げ延びているかも知れない特異体がい

て、それはニュースとして事件を起こして日の目を浴びることなく、隠密に活動している可能性があるということに対してだ。

 イギリスである程度回収されている可能性は考えていたが、そもそも特異体と呼ばれる種がそんなに数多くいるものなのかと疑問に思うところもあった。


「そっか……」


 泰平はそれ以上言葉を続けられずにいた。先程まで確かにあった充足感が、まるで砂の城のように崩れてしまうのを恐れるように。今はこんな話をするために休暇を過ごしているのではなく、親睦を深めるために来ているのだと強く自分に言い聞かす。一緒に過ごした時間は短いのに、どうしてここまで心が揺れ動くのかと聞かれれば、単純に泰平がリリーに対して親であろうと、泰平自身が思っていた以上に意識していたからに他ならない。

 だからこそ本来ならば探すことを、ジェフの元に返すことを表明するべきなのだろうが、それが口からは出せていなかったのである。


「そして、ジェフ様とみんなに、私も幸せに生活できてるよって報告したい」


 泰平が思っていたことがわかれば、このリリーの言葉をどの様に受け取るかは誰でも容易に想像できることだった。


「どうしたの、泰平」


 泰平は喜びが溢れんばかりの幸せに声をつまらせ、リリーの問に答えることは出来なかった。


◇◆◇◆


 昼食を終えて泰平とリリーは手を繋いで店を出た。新人類についてもっと聞きたいことがあったが、今はそれよりも目の前の休日を楽しむために、と先ほど決めた心の誓いに沿って、何よりリリーの言う幸せな生活により応えるために、さっき食べたオムライスやこれからいく温泉街の見どころなどを話すことを優先した。そして、駐車場に止めてある車に乗り込み、発進しようとした所に、バックミラー越しに一人の女性が手を振って走ってくるのを捉えた。止めてある車の数も少ないため、何らかの理由で泰平たちに接触しようとしていることは明らかだった。

 だから、泰平は車の窓を開けるとそこから顔を出した。


「よかった、間に合って」


 そう言って女性は一枚のハンカチを泰平に差し出す。

 どうやら、リリーがお手洗いに立った際に洗面所に置き忘れたのか、それとも席を離れる際にポケットから落としていたようだった。


「わざわざありがとうございます」

「いえいえ、せっかくの楽しいご旅行、大切にしてくださいね。近くの席だったのでちょっと聞こえたんですけど……頑張ってください」


 後半は助手席のリリーには聞こえないぐらいの小声で言った。恐らく、泰平が感極まっている所も見ていたのだと思われ、それを踏まえて新しい家族として頑張って欲しいと気を聞かせての声援なのだろうと理解した。泰平は女性に笑みを返すと窓を閉めてパーキングを解除する。

 そして、駐車場を出てからのリリーの第一声に泰平は、すぐに嫌な予感がして車を止めて店にリリーを残して戻る。


「あの人、この辺に住んでるのかな?」


 ただの偶然と考えるには出来すぎたように感じる。その人物がただの一般人ならば、他人の空似ならば問題はないだろう。しかし、純や紘和、友香と関わりのあるらしい人間と全く違う地ですれ違ったという事実が、強烈に偶然では片付けられない作為的な悪寒を感じさせるのだった。もちろん、顔が似た人間はいる。他人の空似かも知れない。それでもイギリスの帰りの飛行機で出版社に務める瑛から見せてもらった写真に映っていた、純が何やらホテルの前で気配を変えていた、友香が住むアパートの大家、彩音の姿だったからだ。リリーが言わなければ忘れていた。なぜか、瑛の説明から印象に残る女性で、思い出した瞬間に何かを確認しなければという衝動に駆られたのである。しかし、先程ハンカチを届けてくれた女性は泰平をあざ笑うように姿をくらましていた。その事実がさらに泰平の胸をざわつかせるのだった。


◇◆◇◆


 リディアの元に続々と確認が終わったことを告げる連絡が入ってくる。どうやらラクランズと戦闘になったのはユーインの部隊だけだったようだ。ただ、あの一回目の襲撃だけではなくその後も何度か接敵はしていた。しかし、ユーインの力の前では既存のラクランズの性能は刃が立たなかったのである。

 ちなみにあまり研究室を壊して欲しくないと告げてはいたが、第一階層は特に部屋を壊されても問題はなかった。技術を秘匿する関係で見せられない部屋がいくつかあるがそれは最下層に近づかなければ存在しない。さらにいえば、絶対に漏れてはいけない情報は恐らく兄であるカレブがすでに対応に回っていることだろう。そう信じてリディアは確実に自身の役割を果たしているのだった。

 出来るだけ早く、隔離している階層を正常にしていきながら、最悪の事態を避けるために、陸を倒すために、部隊を誘導することを。


「みなさま、お疲れ様でした。三分後には次の階層へのアクセスを可能にします」


 陸の狙いはラクランが予想する通り、ラクランが生み出したとされる技術の獲得、特にラクランズの製造に関するノウハウの全てだろう。しかし、陸の今までの行動と友香という女性の渡来条件が揃っている今、リディアには別の可能性も浮上していた。それは今まで必ず何かが暴露され続けているということである。陸が行く所を友香が追いかける。それはまるで導かれているように。もちろん、ここで純という人間がキーマンとであると考える人もいるだろう。しかし、この構図は仮に純が関わっっていようがいまいが成立する構図であることが重要なのである。あくまで純たちは付属品であって、本質はこの二人の邂逅が意味をなしている。

 少なくともリディアはそう考えている。


「第一階層で襲撃してきたラクランズを考えるとこの先、まだ多くのラクランズが敵として襲ってくることが予想されます」


 だから、カレブが対応しなければならない状況が来る前に、陸を止めるため全力でリディアはサポートする。


「お気をつけてください」


 その行為自体が陸と友香を近づける毒となる可能性を知りながらも、食らわねば進展せず、結果は最悪を招きかねないからやらなければならない。


「大丈夫かい、リディア。そんなに思いつめた顔をして」


 そんな焦りがリディアの顔に出ていたのか、ラクランが後ろから大型モニターとにらめっこしている娘を心配しての声をかけてき。

 落ち着いている父の顔を見てリディアは複雑な気持ちになる。


「大丈夫。なんとかするから」


 ラクランはその気負いに対して心配の声をかけたはずなのだが、そう捉えることが出来ないほどにリディアは必死だったのだ。今を守るため、家族を守るため、自分がなんとかしなければと必死なのだ。

 それは彼女を取り巻く環境がそうし続けたわけであって、俯瞰的に見る余裕は一切なかったことを意味する。


「無理せず、休んだ方が」

「大丈夫だから、少し集中させて」


 ラクランをまるで突き放すように、リディアの気持ちも知らないでという言葉が聞こえてきそうな言い方に、周囲で待機するパーチャサブルサービスも少しどよめく。年頃の女の子の反抗期みたいなものだろうかと、先程、溺愛を示唆したラクランとそれに丁寧に答えたリディアを知っているだけに驚いたのだ。

 その反応に気づいたのかリディアがモニターから顔を離す。


「お、お騒がせして申し訳ありません」


 父親を邪険にした切羽詰まった感を一切出さずに、電話口の相手にするように、前後での出来事を感じさせない丁寧な外向けの声を出したのだった。


◇◆◇◆


「彼女……リディア・ロビンソンは恐らく何かを隠していますね」


 ダッシュ社の応接室へ戻っていた央聖に付いてきていた茅影が開口一番に言ったことだった。


「敵陣ど真ん中で言うことではないと思うけど」

「この部屋だけはチェックしましたから大丈夫です」


 央聖こそ敵陣というだけあって、この部屋は監視の対象外となるようにすでに組み直していると部下を信用した上での発言であったことがわかる。


「その隠していることが、まぁ、先の依頼で話題になった八角柱の連中にバレることを恐れた内容である……と思うか?」

「恐らく、監視が私たちに割かれることは少なくなるでしょう。さらに言えば、リュドミーナの力を注視するのは極めて困難かと」


 茅影の言葉に満足したのか、央聖は満面の笑みを浮かべる。


「お前が言うなら、そうなんだろう。これで俺の首をラクランに貸したかいがあるってもんだ」


 そう言いながら央聖は茅影に一枚の写真を渡す。


「カレブ・ロビンソン。お前は情報屋として知っているのかも知れないが、他の部下に見せるようだ。探せ、草の根分けてこいつと、このオーストラリアっつう実験所から黒いものを見つけてこい。ソフィーを始め現在待機させてる部下を総動員しても構わない。後から合流するのがいるからな。そして、ラクランは俺たちが止める。さぁ、ハイリターンの時間だ」

「仰せのままに」


 パタンと静かに茅影は扉の向こうに姿を消す。この事件はまだ始まったばかりなのである。

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