第四十三筆:シドウ

 その場にいた誰もが彼女に残虐な行動をするだけの胆力があることに驚かされた。殴る蹴るなどの生身だけの暴力とはわけが違う。人を刺すという行為はそれだけ、外傷を与える行為の中でも一線を引くべき所業なのである。しかし、そんな驚きと並列する、最悪飛び越してしまいそうな相反する感情もその場にいた誰もが抱いていた。ざまぁ見ろ、である。

 それほどまでに敵味方関係なく、純がやられたという事態は至極当然の報いであるという共通認識があり、どこか胸がすく光景だったのだ。


「やりすぎ……た……かなぁ」


 肘を使って上半身を無理やり起こそうと息を荒くしながら顔を上げる純。その姿を見て動いたのは三人。当然のように好機と見てとどめを刺そうとするアンナ。それを阻止するべく動く紘和。そして、その三人の間に割って入る様に友香が動いていた。結果、アンナは殺しておくべき対象を、紘和は守るべき対象を見失う。

 そして、友香に【雨喜びの幻覚】の対象にされながら引きずられたであろう純とその純の右足首を掴みながら二人と少し距離を取った場所まで移動し終えていた、純をこんな状況に追い込んだ張本人である友香が死んだ蛙の様に伸びた純をあくまで見下ろしながら口を開く。


「こいつは殺すべき存在だけど、今じゃない」

「いや……割と本気で……し、しんど……いけど?」

「えぇ、実際には死んで欲しいもの。そのぐらい苦しんで欲しいの。だから、ひとまず心臓目掛けめで刺したの。でも、目掛けめなのは実際に死んでもらったら困るからそうしたし、さっきもアンナさんから助けた。だってお前がいないときっと九十九は追えないから」


 そして、お前と純を呼び捨て、憎悪を隠さず軽蔑する姿勢を崩さない人間から出たとは思えない言葉が続く。


「それに私は信じてるのよ。この程度でお前は死なないって」


 狂気が咲う。


「はぁ……はぁ……そんなに……邪魔……されたこと……根に……も、持たな……で……よ」


 純は精一杯の強がりの様に狂気の愛にニヤリと微笑み返す。


「それもあるけど、最初に言った通り、恋をしたこともないお前が他人の恋路をバカにするのも許せなかったの。もし、私が知らないだけでいるのなら……少しは本気になってみたらどうなの?」


 純はたっぷりと間を使ってから中指を立てる勢いで言葉を捻り出す。


「それは……おもしろくない」

「そう」


 友香はそれだけ言うと思いっきり純の背中に刺さったナイフを抜き取った。グチョッと中身を更に傷つけたような嫌な音を立てながらナイフが抜かれた場所からはピュと少量の血しぶきを一度あげると、その勢いのままトクトクと血が流れ出していく様になった。純はここで初めて自分が本当に死ぬのかもしれない可能性を考え初めていた。それほどまでに手の打ち様のない状況だったし、体温が下がり、意識が朦朧とし、死ぬってこういう感じかぁと冷静に俯瞰していたからだ。友香の殺すつもりはないという言葉が嘘のような時間がナイフを抜き取られてから経過する。何とか打破する手立てを己で持ち合わせていないかと考えさせられる時間。痛く熱い傷口があるにも関わらず、寒気と意識が霞んでいくのを体験させられる時間。実際は一分もなかったのかもしれない長い長い絶望の時間が純には続いていた。それを友香はわかっている。なぜならそれが友香の与えたい罰だからだ。

 だから、純が目を閉じて喋らなくなったのを確認してから、友香は【雨喜びの幻覚】を解いて紘和に話しかけた。


「天堂さん。死なない程度に、全快にさせないことを条件に【最果ての無剣】で一命をとりとめさせてあげます。そうでないと判断した瞬間、こいつは私の力の対象下に再び入ります。少なくとも天堂さんもまだこいつを失うわけにはいかないのでしょう? だからこちらの指示には従ってもらいます。そのぐらいの罰をこいつは受けるべきなのですから受けるべきです。だから、条件を飲んで下さい。そうじゃないと……私も困ります」


 実際、友香は本当に困っていた。目覚めた先には純がいて、とっさに痛い目に遭わせなければならないと身体が反射的に動いたのだ。ただひたすらに気持ちは良かった。スカッとした。同時に、失うわけにもいかないと思ったのだ。特別な力を持っていたとしても決して成しえないと本能が訴えかけてくるような感覚が、純を殺してはいけないと判断させたのだ。

 だから、本当に困った顔が出来たのだ。


「それで構わない。そいつが後で万全の状態を整えられるのだとしたら、今、一命を取り留める状況を作れるだけでこちらも構わない」


 紘和の言葉に友香は頭を縦に振り、引きずっていた足をおもむろに床に放り投げた。


「アンナさんたちには逆に今はこれで一時休戦を納得して欲しいの。ライザさんも天堂さんに治させるわ。もちろん、お互い手打ちにするには明らかに損害が出ているから納得するのは難しいかもしれない。でもそれは身から出た錆でもあるから。だから……私の気が変わらないうちにこれで納得して欲しいの。それに、ライザさんを治してこの状況で再開されるようなことがあれば私たちを倒せればそちらもこいつの首を落としやすいでしょ」


 友香は自分の口から出た言葉に、これが愛する人を求める故の交渉なのか、それとも純たちと行動する上で毒されてしまったのかわからないでいた。ただ、心の何処かではアンナたちの思いを尊重したいと思っていたからこそ譲歩してもらうための説得の言葉が出せたのだと思うことにした。さもなければ、今すぐにでも問答無用で陸の居場所を吐かせた上で、協力していたことに罪を背負わせたいと思っているのだから傷の手当を、一時休戦を申し込めるのは、友香にとっては配慮だったのだろう。

 しかし、その配慮は気が変わらないうちという友香から漏れていた言葉からアンナたちには重々優しさや配慮ではなく脅しと捉えられていたことは言うまでもないだろう。


「それじゃぁ、ライザさんを治してから始めましょ」


◇◆◇◆


 アンナは友香を目の前に背筋を震わせる。友香が恋人をめぐって陸の行方を追っているのはタチアナやリュドミーナの報告から知っていた。だからこそアンナは自分たちが繰り広げた歪な恋物語よりも純粋な恐怖を感じ取った。それは恋にならば、愛している人がいる者には忖度しない、それでいて優劣的には友香自身の優紀という存在が絶対であるという点に関してだ。つまり、恋そのものを否定すれば例え仲間であっても容赦なく罰した結果が先程の純への仕打ちであり、優紀のためならば躊躇なく置かれている境遇に関係なく戦うことができるというのが先程の私たちを倒せばと言う言葉の意味でもあるのだ。

 狂気以上に盲目と感じさせてしまうほどに友香の態度はアンナに納得を強いらせるのだ。


「わかった、わ」

「よかった。これで心置きなく決着の憂さ晴らしが出来る」


 アンナは心底安心したことがわかる友香の笑顔を見た。そして、これから自分が殺される覚悟を決めねばならないと悟る。純とは違い、これから襲いかかる人間は殺意を持った上で、常人とは違う力を携えた人間だからである。それでも、今はなぜこうなったかを思い出したが故に死ぬわけにはいかなかった。

 エカチェリーナという傷によってかろうじて繋がっている糸を、確実にモノにしなければという使命感とライザの身の安全を確保するために。


「私も全力でいくわ」


 しかし、ここで戦いの火蓋はまだ切って落とされない。

 一度変わった流れがその勢いを飲み込むように現場は刻々と変化を遂げるのだ。


「こんなところに……いたんですね」


 アンナの背後には血だらけになり瀕死の重体にも見える者を始め、各配置に散らばっていたはずの多くの部下がこの場に集まっていたのだ。


「あなたたち、どうして」


 そこから先の言葉は出てこなかった。単純にどうしてもなかったからである。そもそもアンナとライザ、エカチェリーナで行われた本来の計画はたった今暴露された。一方で、本来の計画とは少し異なる経緯も、ライザが非人道的に科学者をやっていたこと、ライザが仲間を食らうことはほんの一部しか知らず、情報が拡散するにはあまりにも早すぎる。つまり、普通に考えれば、そもそも人望があったかどうかは別として、部下として上官の元へ安否を確認ないし加勢に来るのは至極当然のこととも思える。

 もちろん、アンナは一瞬ふと考えたこの生ぬるい選択肢をすぐに排除する。こんな所にいる、ということはアンナを探していたことは事実だろう。しかし、この人数が、数百という人間が同時に来たということが、誰かに言われてこの場所まで案内されたことを意味していると気づくのは容易なことだった。つまり、ここに来る時間をこの様な伝達能力に長けた人間が純サイドにいることを鑑みれば、答えは最悪なものへとなった。

 リュドミーナがアンナたちの偽りの思いで進めざるを得なかった真実をそのまま合成人たちに伝え、反逆させるよう仕向けたのだ。そこまで考えて、アンナは思い直す。仮に、そうであったとしても結局アンナのライザを救いたいというただのわがままに巻き込んだことに変わりはなく、受ける報いとしては納得の行くものだと思えたのだ。眼の前の恋の化物に恐れるより前に喉元にはすでに牙が突きつけられていたのだ。

 アンナは虫の息で横たわる純を見つめる。ここまでが純のシナリオで保険だったとするならば、自分が認められなかった強さを表現するために用いた新手の神格呪者という言い方もあらかた間違いではなかったと思えたのだ。だったら、ここでアンナの大将首を取ると宣言していた純の言葉は実現するのだろう、と思ってしまう。状況が相まって、世界中がアンナの行動が浅はかだったと否定するように感じた。

 それならせめてと、アンナは【漆黒極彩の感錠】の喜びを周囲のかつての仲間に使う。皮肉なことにこれだけの力の行使をしようと思ったのも純からその力の、心の使いみちを教わったからである。どこまでも手のひらの上で転がされるような感覚に陥る。

 それでも、決着をつけなければならないとアンナは口を開く。


「さぁ、後は好きにしろ。私も……好きにする」


 ライザを守り抜いてみせると改めて決意し、アンナは【漆黒極彩の感錠】を握りしめた。


◇◆◇◆


 紘和はあっという間に回復するロシアの軍勢を目の前に、笑った。対象兵器の名に違わない圧倒的な力。任意とはいえ、誰にという指定が出来るということは、アンナはこれだけ全ての部下たちのことを把握していることになる。自分はこれまでにどれだけの人間のことを気にかけていただろうかと。親族、目的を達成するために必要な人員、恋人、仕事仲間、同じ学校で同学年で生活してきた知人。仕事仲間の辺りから、世間的に知名度のある、日本の剣の面々の顔と名前が思い浮かぶぐらいで、ほとんどの人間の顔か名前が出てこない。つまり、紘和は目の前の部下の名前を全て覚えることは不可能だと理解していた。それだけに、アンナという女性が本来どれだけ仲間思いなのかということを理解する。そして、部下もきっとそんなアンナを知っていたのだろうなと。だからこそ、紘和は油断しない。この軍勢がどちらに牙をむくことになっても必ずアンナを仕留めてみせると。


◇◆◇◆


「担がれてきたかいがありました。これ、病気も治せるならすごいですね」


 そう言って合成人の群れの中をかき分けて一人の男が先頭に顔を出す。

 それに続くように数人が後ろから姿を出す。


「こんなにすごいなら最初から前線に顔を出してもらいたかったぐらいです。さすがは、俺たちを救ってくれたアンナ様だ」


 ラーヴァルは肩を回しながらそういった。

 そして、ニーナにオーシプとロシアの右手が待ってましたと言わんばかりの笑顔でアンナに協力的な顔を見せる。


「まったく、大変でしたよ。アンナ様の愛を伝えてここまで全員を連れてくるのは……。それにみな被検体だったとしても負傷兵だった我々に第二の人生を送らせてくれたのは他ならぬあなたの研究なんですよ、アンナ様」


 この声はアンナが視線を向ける部下たちとは逆の方向から聞こえる。リュドミーナの声だった。つまり、アンナの考えは全て裏目に出ていたのだった。なぜ、リュドミーナがこちら側についたのかはわからない。言い方を変えれば形勢が有利な方についたとんだ現金なやつにも見える。それでも、今この瞬間だけは感謝した。自分たちの愛が、お涙頂戴のように、合成人とする被検体を選んだことによって機能した、この人情に訴えかける予防線に。

 意識はしていた。最悪の状況でも最低限の体裁を整えるための準備。非情にも思えるかもしれない。それでも、救ってあげたというのは紛れもない事実なのである。故にどの場面でこの効力が出るかは、もちろん任意ではなく、特定の条件で極めて受動的な側面をもつ不確定なものである。

 ただ発動したのならば乗る価値はあった。


「みな……ありがとう」


 心の底から合成人となっても人の心を持っていたことに感謝する。利用するようで申し訳ないと思いつつもその温かさに逆転の芽を掴むことができ、嬉しかったのは事実だった。

 そして、アンナの感謝の声に合成人の代表としてロシアの右手ナンバーワンが応える。


「ここで、やつらを倒し、ロシアを世界最強にするぞ」


 ライザの鼓舞に呼応する声が鳴り響く。空気を震わせ、床を、空間を振動させる。しかし、乾いた一回だけの拍手がその勢いに水を刺した。そう、別にアンナたちはまだ士気を高めただけで、勝利を掴んだわけではないのだ。

 戦線離脱を余儀なくされているであろう純、アリスを除いてもなお、アンナたちに楯突く気満々の紘和を倒さなければならないのだ。


「決着をつけよう」


 紘和が三人、構えているのだった。


◇◆◇◆


「へぇ、君が事情聴取を……。名前、聞いてもいい?」


 ロシアとの合成人の騒ぎから五日後、純は紘和に警護された状態で、以前、千絵も入院していた病院のベッドの上にいた。


「古賀リリー、です」


 イギリスで梓と泰平の足止めを行った幻覚の新人類がそこにはいた。


「へぇ、古賀さんとこの養子になったのか? 労働基準法的にどうなの、古賀さん?」

「いや、私の娘として君のお見舞いに同伴させただけに過ぎない」

「泰平は、いいヤツ。お前は……嫌い」


 リリーは随分と懐いているようで泰平の上着の端をつまみ純からちょっとだけ隠れるように立っていた。


「その割には日本の剣の中之郷さんやあなたの部下の今野さんも部屋の外で待機しているようですが……事情聴取ではないと?」


 リリーの評価を鼻で笑いながら、純は指で廊下を指す。その先、廊下では部屋の中まで聞こえる音量で梓が紘和と智が一食即発しそうな場面を抑えているのがわかる。

 少し前に世界から敵と判断され、ロシアで襲い襲われた仲であれば当然文句が出る話である。


「一時期とはいえ、君たちは八角柱から標的にされたんだ。何故か総理は手厚く迎えろというがこっちもイギリスでのやりとりをみている。それ相当の準備はしてくるのが当然だろう。まったく、あの人は何も聞かずに迎えてしまうものだから、正直こちらとしても対応に困らざるを得ない」

「俺と天堂のクソジジイはマブダチだからノープロブレムなんだよ」


 泰平は純の言葉に頭を抱えてため息をつく。


「それで、別にこれはさっきも言った通りただのお見舞いだから私の質問に君が応える必要はない。ただ、答えてくれるだけでこちらも手厚く迎える手段をより強固なものにできる」

「アンナを殺したのか? っていう質問以外なら答えてあげるよ。だって、この答えはすでに知っているだろう? ニュース観てないの?」

「あぁ、見たよ。純くんが大怪我をしてロシアから帰国して数日も立たない内にロシアの愛、アンナ・フェイギンが自殺したと報じられた。表向きは汚職、この場合は故意に合成人を私物化していたこと、そして政治的な、ここでは敢えて裏事情というが、実はこの合成人が倫理的に許されない人体実験を経て完成したもので、そのことに対する贖罪として自殺したのではないかということになっている」

「残念なニュースだ。まさか、俺たちがロシアから帰ってくるのとほぼ同時に自殺してしまうなんて……とは問屋がおろさないんでしょ? そもそもこの世界で人間兵器に倫理的なんて言葉を使う時点で違和感でしかない、と」

「その通りだ。私たちは君たちが彼女を殺し、自殺で済ませるだけのメリットをロシア側に提供したと睨んでいる」


 泰平の推察に、純は答えなかった。

 代わりに一分ほどの間を開けて拍手した。


「紘和、出かけるぞ」


 純の一声で緊張が走る。そして、泰平とリリーの視界を真っ白いシーツが覆う。泰平は状況を即座に理解し、払い退けるよりも先に純がいたベッドへシーツにかまうことなく飛び乗った。もちろん、そこで純を踏んだ感触はない。

 窓の開く音がその証拠であった。


「待て」


 シーツを振り払った先にはすでに窓から飛び出す純がいた。普通なら五階の窓から飛び降りることを想定する人間はいないだろ。しかし、泰平は純という男を知っていた。だから、飛び降りる瞬間を目撃することができた。

 そして、純のヒントを目撃することに成功する。


「どこまでも人を馬鹿にしやがって」


 窓の下にはいつの間にか待機していた紘和に受け止められていた純が手を振っていた。


「またね、新米剣鬼さん」


 純の大声の別れの挨拶に対して、日本の剣、剣鬼にして憤怒の席についた泰平はどうしたものかと考えつつ、机の上に投げられた一枚の紙を手にとるのだった。


◇◆◇◆


「私は別に暇ではないのだが……。まぁ、借りがあるからこのぐらいは許してやろう」

「借りって、何? 随分懐かれてることと関係あるの?」


 つい数時間前に顔を合わせていた二人は、ヒマツブシの店内で今度は二人きりで顔を合わせていた。

 純の茶化すような言葉にため息で返事をする泰平にこれ以上の反応はないと判断したのか、純は話を戻す。


「いやさ、一度やってみたかったんだよね、あんな感じの逃亡劇。それより、約束通り一人で来てくれて感謝するよ。この話はごく一部しか知らない話ってことになってるからさ。言っちゃえば、八角柱と彼らが話しても問題ないと判断した部下たちのみ、だ。俺たちは渦中にいるから例外だけどね。古賀さんには教えてあげるよ」

「そうかい。それはありがとう」


 泰平はそっけなく応えると出されていたコーヒーをすする。


「全てを話して欲しいとは思わない。簡潔に要点を抑えた上で結果を教えてくれないか」

「……まぁ、病院では手を煩わせたからね。その御礼も兼ねて端的にロシアで起こったことを話そう。ちなみに俺たちが八角柱とかを相手にしたのは?」

「知っている」

「俺がその後、紘和たちとは別行動をしていたことは?」

「初耳だ」

「それじゃぁ、そこから話すとしましょうか。俺たちは八角柱が引いた後、ロシアの右手のラーヴァルから……」


 物分りよく、淡々と話し始める純に若干驚かされながらも泰平は一語一句忘れないように集中して聞く。それほど、若者が起こした大騒動は情報統制され、外部には知られていなかったのだ。


◇◆◇◆


 紘和とアンナ率いる合成人の攻防は決着をつけられずにいた。紘和が合成人を殺せないこと、アンナが対象兵器としての本来の扱いに慣れていないことは別段関係ない。拮抗する原因は二つ。一つは、純粋に蝋翼物が神格呪者の様な優劣を付けられるものではないこと。そしてもう一つは【雨喜びの幻覚】が勝敗をつけさせる気がないからである。

 どちらの味方になるわけでもなく、ただひたすらにどちらも負けないように友香が力を行使する最悪の状況がそこにはあったのだ。


「現状……維持……。ゆーちゃんは、相変わらず危ういなぁ」


 傷口が塞がり数分で意識を覚醒させた純が正面にいる友香に話しかける。


「いっそ傾いてしまえばいいのに、そうなれない自分がいる。さっきまで彼らに罰を与えようって気満々だったくせに……でも、それじゃぁ、届かないよ。優しいだけじゃダメだ……わかっているだろう?」


 純の問いかけに友香は答えない。誰もが感じる友香の恋に対する異常なまでの執着。それが優紀に関係なく、恋というものの味方をする。その一方で、その外れた箍をそのまま押し付けるようなことができていないと純はわかっていた。周りが反面教師になっているからとも考えられるがその一歩を踏みとどまれるのは、純にとっては実に尊敬する一面だった。ただ、友香がこの世界で優紀を求めるということは、どうしてもその一面を否定しなければならない。人として踏みとどまろうとしているだけではダメだと純は思っていた。神格呪者同士が闘うということはそういうことであり、友香が陸から優紀を取り戻すということは人智を超えた行為のはずだからだ。その手がかりになりそうなものをいくつか一緒に見てきたつもりだが、やはり、その中に解決策はなかった。その点に関しては友香が留まらず、純に付いてきていることからも友香が理解しているのは明白である。

 つまり、黒い粉も新人類もそして合成人も友香が必要としているものではない。


「とはいえ、まだ時間はある。次は……いよいよ南半球。オーストラリアへ向かう予定だ。……そこで陸に……追いついてまた考えればいい」

「私に、何をさせたいの?」

「残念なことに、その質問をする相手は俺じゃない。そして、誰に聞けばいいかと聞かれても……俺も……よくわからない」


 よろけながらも純は立ち上がる。


「代わりにその気色の悪い現状維持っていう、普遍であろうとする最低の行為を、白黒つけて平和に解決してやろう」


 友香の耳元で純はそう告げると、よろけたまま前に出る。


「ここに一枚の紙がある」


 ピタリと戦場の騒音が消えるほどに純の大声は響いた。


「内容は、アメリカに亡命した新人類の生みの親でもあるジェフ・オルフスの研究成果を共有できる権利書だ」


◇◆◇◆


「……どうした、寂しくなったのか?」


 ラーヴァルに車で運んでもらい、紘和と合流する前まで時間は遡る。


「大方、リュドミーナあたりの嫌がらせ……いや、俺を喜ばせようとした結果だろう。安心してくれ、俺はこの通り無事だよ」


 純は遠くで隠れながらこちらを見つめる影に返事を期待するわけでもなく話しかけ続ける。


「むしろ、こうしてお前がこの地を踏んでしまったことのほうが大問題なんだけど……。まぁ、そろそろバレてるだろうから言うほど問題はないのかもしれないな。それでも体裁ってものがある。だから、紘和たちを待つ暇つぶしの相手になってくれよ」


 純はそう言って影との距離を一気に詰める。

 しかし、そこには誰もおらず、一枚の紙切れだけが落ちていた。


「はぁ、これで貸し借りなしってか……まったく、世界のためにどこまでも貪欲だねぇ」


 先程までそこにいたであろう人間の顔を思い浮かべながら、純は受け取る予定だった切り札を予定とは違う形で受け取っていたのだった。


◇◆◇◆


「これがあればライザはしっかりと完成するかもしれない。その異様な飢餓とも自我の保持とも、燃費の悪さからも解放されるかもしれない。少なくとも、今手を結んでいる機械オタクよりはよっぽど有意義なものになると思うよ」


 純は脂汗を垂らしながらなるべく流暢に話すことを意識する。


「まぁ、もしそっちのことが心配ならそれも安心してくれ。俺たちが次に行くのはオーストラリアだ。要望があれば、叶えられるかもしれない」


 瀕死であろうと、そうすることで純は自身の優位性を示す。


「その代わりに私に死ねというのね」

「……飲み込みが早くて助かるよ、アンナさん」


 合成人側の敵意が純に一瞬にして集まるのがわかった。

 しかし、その前のめりな闘争心をアリスが右手を横に伸ばして制する。


「でも、それだと誰が研究をするの?」

「そもそも八角柱の一人が他国とつるんでいろいろ出来ると思うの?」


 次の瞬間、アリスは全てを理解する。


「最初から……そのつもりだった。もしかして、イギリスに行ったのも」

「深くは考えないほうがいい。このチャンスは俺の気分次第でどうにでもなるんだから。ただ、断る理由も特にないよね?」


 ここまで話せば周囲の半数が会話の着地点を想像でき始めていた。


「つまり、私が死んだことになる手はずは整っていて、万が一生きていたとしても問題にならない方法が用意できているってこと?」

「そうじゃなきゃ、交渉にならない」

「なら、一つ答えてほしいのだけど」


 アリスの疑問は恐らくこの場の誰もが抱くものだった。

 それは敵はおろか味方ですら抱くもの。


「どうして一度血を流す必要があったの?」


 そう、この戦いに意味がなかった可能性があるのだ。

 殺したことにするのならば、殺す必要がないということになる。


「おかしなことを聞く。ライザを救う可能性がなければ、ライザを救うことが目的でなければ、あなたはこの交渉を受け入れただろうか? だから、血を流す必要は大いにあった。この戦いがなければ間違いなくこの交渉は意味がなかった。ただ、もう少しスマートにいく予定だったのだけど、仲間が暴走しちゃってね、余計な時間は取らせてしまったと思っている」


 沈黙。


「わかった。謝る。単純に好奇心だ。俺が戦いたかった、俺が戦わせたかった。それだけだよ。おかげさまでこっちは紘和が成長したし、そっちも止まってた時間が動き出しただろう? ウィンウィンとまでは言わないけど、表向きは誰も死なない。平和的解決だと思うよ。それに、俺は仲間に罰せられたわけだしね。落とし所としては及第点だろ?」

「その手紙を見せて頂戴」


 純は紘和を手招きで呼ぶ。


「と言うわけで紘和に残念なお知らせです。これを届けたら俺と一旦日本に帰ってもらうぜ。痛くてしょうがない」

「次からはこういうのはなしにしてもらいたいな、奇人」


 紘和は純から手紙を乱暴に奪い取る。

 純はやれやれといった顔でその場にしゃがみ込むと紘和を手で追い払う。


「いつもどおりだろうが、かまってちゃんが」


◇◆◇◆


「アンナは生きています。今はどこかでジェフと一緒に合成人と新人類の次のステージの可能性を研究しているんじゃないでしょうかね? 都合のいいことにライザという最高のサンプルは手に入ったわけですし」


 純は泰平への報告を終える。

 ただ、アンナが【漆黒極彩の感錠】の効果を過剰にして今まで世界を欺いていたこととリュドミーナが各地に散らばっているという事実だけは伏せた上で事の顛末を報告していた。


「そうか……つまり、第四次世界大戦が起こるような、日本が弱みを握られるようなことだけはないんだな」

「そうですね……。日本が弱みを握られるようなことはありませんよ。むしろ、こっちが握っていると言っても過言ではありません」

「わかった」


 泰平は喉まで出かかった質問を無理やりしまうと納得の意を示した。


「それはよかった」


 本当によかったのか聞かれているような気分にさせられる中、泰平はコーヒーを飲み干す。


「それで、これからオーストラリアに行ってまたひと騒動起こしてくるわけか」

「人聞きが悪いですね。こっちは野呂と九十九を追ってたら自然と他国の諸事情に首を突っ込む羽目になっているだけです。自分たちで蒔いた種でしょ? って古賀さんに言うのは酷ですかね」

「君はそうやってでしか人とコミュニケーションが取れないのかい? いちいち突っかかるのも疲れるだろうに」


 純は泰平への言葉に少し困ったような顔をする。


「もう呼吸をするのと大差ないんですよ。だから、俺はこれからもちょっかい出して止まった世界を動かすつもりですよ。そうしないと、この世界はいつまでたってもつまらない」

「世界を?」

「それに宣戦布告は済ませてしまいましたから、今後は俺も新刊を購読するような気持ちになれると思いますよ。ハハッ」

「……」

「古賀さんは随分と賢い様ですね」

「だから、私とふたりきりで話したかったということなのだろうか」

「人間、ひとりで秘密を抱え込むのは結構しんどいんですよね。だから無関係で知ったところで対して関係のない人に話したくなってしまう。今日は俺の溜め込んだものを少しでも吐き出すためにあなたを呼んだというわけです。聞いていただきありがとうございました」


 その丁寧な言葉からは、明確な殺気が感じ取れた。


「いえ、報告して欲しいと先に申し出たのはこちらです。ありがとうございました」


 だからこそ泰平は丁寧に返事をすることで口外しないことをアピールした。

 それに満足したのか純は泰平の分の代金も机に置くと即座に席を立ち出口へ向かう。


「あっ。最後に一つ、いいですか?」


 純は出口への足を止めて、どうぞといった顔で受け答える。


「花牟礼彩音って何かあるのでしょうか」

 

 泰平からすれば、気になることの一つでどこまで重要なことにしていいかはわからなかった名前。

 しかし、妙に引っかかるため、純に聞いてみたのだ。


「誰、その人?」


 泰平は彩音という人物が何か重大な存在であることを理解した。しかし、先ほどとは比べ物にならない、今自分が生きていられるのが不思議なくらいの殺気が泰平を包み込んでいた。なぜ知っているのか聞かないのは、その質問自体が何かあることを指し示してしまうから。だから、答えのある嘘をついたのだ。言葉なら証拠になるが、殺気では泰平も何の根拠にはならないからだ。ただ、関わってはいけない。

 故に、ここに至るまでの出来事に意味をより強く感じさせられていた。


「いえ、ご存じないのでしたら、それで問題ありません」


 精一杯、恐怖を隠しながら、泰平は何もなかったことを努めるように答えた。純はそれに満足したのか押しつぶされるようなプレッシャーを放つのをやめ再び出口へと背を向けた。

 そして、扉を開けてから何かを思い出したように泰平の方へ振り向きながら伝えた。


「あぁ、最後にこっちからも一つ。俺たちのメンバーに新しく、合成人のタチアナさんが加わったから、アリスちゃん同様よろしく」


 カランカランとベルの音がなりながら閉まるドアに泰平は大きく息を吐き出すことしか出来なかった。


◇◆◇◆


「さてっと、俺は医学の力でこの怪我を治さないとなので早く帰りたいんだけど、何か暴動以外でやりたいことのある人、います?」


 純の言葉にアリスを担いで帰り支度をする紘和が質問をする。


「そういえば、こいつは大丈夫なのか?」


 紘和が指さした先にはリュドミーナがいた。純には紘和の言いたいことはわかっているつもりだった。本来ならばロシア側の裏切り者として純たち側に付くはずだった合成人が最終的には自分の巣に帰ったのである。

 もちろん、これも純を楽しませるためという理由になるかもしれないが、その腹づもりを真に知るのは難しいところであった。


「まぁ、いろいろ不都合はあるだろうけど、今までどおり体のいい情報屋程度の付き合いで問題ないだろう。抱き込むつもり、がなかったといえば嘘になるけど、抱き込めなかったところで困ることはないからな。むしろ、そちらはこいつの処遇はどうするんですか?」


 恐らくリュドミーナからしてもどちらに転んでも困らないのだろう。すでに多くの個体で作り上げた太いパイプがある。パーチャサブルピースを始め、潜入捜査員として各所に潜んでいるのだ。その証拠にリュドミーナには純の一言があっても同様の色は見れなかった。

 それでも今の立場の方が動きやすいのは事実だからこそ、最後に良心が傾いたのか、それとも前述の保身のために動いたのかはわからないが純たちを裏切ったのだ。


「今までどおりのつもりだ。こちらとしても私たちのために動いてくれるのならば願ったり叶ったりだからな」


 そして、保身のための行動はそれなりの評価となって返ってきた。もちろん、アンナからしてみれば私たち、つまるところロシアのため、ひいては合成人のために動くならそもそも諜報員として価値があるというそのままの意味もあったろう。

 それでも、恩は、しっかりと機能したと見えた。


「だとさ。気にするな、紘和」

「釈然としないな」


 微妙な険悪な空気は残ったがこれでお互い手出し無用の一時休戦が、交渉が成立したように思われた。


「待って……ください」


 そんな互いがこの一件を終わりにしようとした時、ひとりの声が響き渡る。

 タチアナだ。


「俺たちに」

「えぇ」

「何?」

「その……」

「終わりよければすべてよし、立つ鳥跡を濁さず、水を刺してまで何なの?」


 お前が言うなというセリフを誰もが突っ込まずにタチアナの言いよどむ姿に注目が集まる。


「私を」

「いいよ。アンナさんがよければだけど」

「一緒に連れて行って下さ……え?」

「え?」


 一部の、純がアンナに対して可愛かったと言っていることを知っている人間からしてみれば告白でも始まってしまいそうなタチアナの立ち振舞に、ありえない、落ち着けといった感情がこみ上げていたが、それを知らない人間からしても上ずり照れたタチアナの声からは何か想像を越えた言葉が出てくるかと思ったが、そのとおりに感じたもの、拍子抜けに感じたものと三者三様の反応が見て取れた。

 告白じゃないのかよ、どうして純たちについていくんだよ、そしてやっぱりと。


「こちらとの窓口として、よね?」


 純たちについていくという不信感を払拭するせめてもの助け舟を出すアンナ。


「は、はい」

「なら、お願いするわ」


 それが恐らく恋に近い感情故に突発的に出た発言だとわかっていても、だ。本人はまだ自覚はしていないだろう。正確には好きだという意識はない。ただ気になる、それだけの理由が、タチアナを駆り立てたのだろう。仮に違ったとすればそれまでだが、今までも何だかんだで純たちとともに行動し、その報告はとても楽しそうなものだったとリュドミーナから聞いていた。

 少なくとも、ここにいるよりも彼らとの旅は居心地がいいのは間違いないのだろう。


「うぇるかむ、タチアナさん」

「よ、よろしく」


◇◆◇◆


「それじゃぁ、ゆーちゃんとアリスちゃん、タチアナさんは姦しく先にオーストラリアに向かっていて下さい。俺たちは多分、一週間後ぐらいに合流するだろうけど、まぁ、陸の情報収集だったりなんだったり始めてていいから。むしろ決着付けててもいいから、楽しんでてよ」


 蓋の開いたパンドラのヘリポートに到着してすぐ純が無計画な提案を押し付けた。


「姦しいって言いたかっただけだろ」


 紘和のぼやきを無視して純は続ける。


「これからはまぁ、短い間だけど別行動だ。大丈夫、目的の人はオーストラリアで先に待ってる。だから、俺がこうなったのはゆーちゃんのせいだとはいえ、待たせるのは悪いからという提案だよ。逃げられたら困るだろ?」


 提案としては最もだが、どう考えても拒否権のない陰謀に巻き込まれる予感しかしないのはタチアナも友香もそして、さきほど紘和に回復してもらったアリスでもわかっていた。


「わかりました。私たちでも、その、天堂家のいろいろは機能するのかしら」

「あぁ、その点は問題ない、と思う。向こうでなんとかしてくれてるはずだから」

「わかった」


 紘和の曖昧な返事に、それでも陸を追いたいという気持ちが先走る友香が強く返事をした。

 他の二人に関しては、逆に特に言うこともないだけに無言が了承となった。


「それじゃぁ、何かあったら電話でも何でもしてくれ。緊急事態のときは意地でもすぐにかけつけるから」


 そういって純と紘和、友香とアリスとタチアナは別々のヘリに乗り込む。しかし、飛び立つ少し前に友香が何かを思い出したかのように、ヘリを少し止めて純のいるヘリのほうへ向かった。

 そして純を呼び出す。


「幾瀧さんも正直になってください。もし、こうするためにタチアナさんにわざと言った、みたいなことにしたら許しませんから。せめて何か答えを用意してあげておいてくださいね」

「生意気言わないでくれよ、この恋愛狂が」


 こうして、純たちはしばし別れて行動することになる。もちろん、それも結局純の驚異的な回復力によって一週間と間は空かないのだが……。


◇◆◇◆


 あれだけ求めていた崩壊。その瞬間に立ち会っていたもののあまりにもその実情を把握しておらず蚊帳の外に居続けさせられ、一観客に成り果てていたリュドミーナに最後に出来たことは結局、主としていたアンナたちに対する支援だけであり、こちらも相も変わらず純への嫌がらせに近い何かだった。そんな中で手に入れた今も結局、関係を断ち切ることは出来ずロシアの事件の秘匿と後始末、事後処理の支援などに手を貸していた。あれほどまでに強く望んだ柵の解放は遠く、何より全能感を得るには程遠い自身のスペック、情報量に打ちのめされる結果となったのだった。だからこそ、変わりたいと強く思う。だからこそ変われないのではと疑念が過る。過ぎってしまった。相反する思いを抱えてしまったリュドミューナはそれでも夢を見るのだった。持ってしまった圧倒的な力の可能性に縋っていたいから。

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