第四十二筆:シッパイ
誰かに呼ばれているような気がした。友香は今、間違いなく目が覚めていない状況であることはわかっていた。純の不意打ちをもらって意識を失ったことまでは状況から理解できていたからだ。つまり、意識がぼんやりとし真っ暗闇の中で妙に聞き覚えのある声が素性を明かさないまま、いわゆる脳に直接話しかけて来ている、そんな状態だった。しかし、何を伝えようとしているのかは全くわからなかった。大切なことを伝えようと必死なのはその声が途切れないことからもわかる。
それでも、わからない。
「あ……っえ」
友香はもっとしっかり聞きたいと思い、待ってとその声を呼び止めるようとする。しかし、声は声にならず、友香の思いとは裏腹に脳に直接響く声はそれに合わせてどんどん遠くに行ってしまうように聞こえにくくなっていく。聞かなければならないという使命感にも似た思いが、焦りが雑念となる。声もそれを理解しているように焦燥感を煽るがごとく遠のいていく。そして、今までの経緯からふと、こうも思うのだ。
どうしてこの声を聞かなければならないと使命感があるのだろうか、と。
「ま……って」
恐らく、それを聞かなければ覚醒できないと本能的にわかっているからだろうと友香は考える。そう、今すぐにでも、何としてでも目覚めなければならない。手がかりを目の前に意識を失っているから。陸が逃げてしまうから。
優紀を愛しているから。
「そう、愛しなさい。あなたの愛は誰かを救えるのだから」
覚醒への願望が最高潮へ達した時、今度はこれに応えるようにか細くなっていた声はどこか聞き覚えのある女性の声となり友香の鼓膜を、脳を震わせた。自分の声に似ている。しかし、明らかに他の誰かの声だということもわかった。一方で、そんなことよりもと友香は急ぐ。声を聞いたことで、ふわっと身体が、意識が浮上しようと昇っていくのがわかる。進行方向には明らかに一点の光が灯り、その光が徐々に大きくなる光景からより確信していた。その先に広がるのは現実世界で、今までの遅れを取り戻すチャンスである。
邪魔者であった純を早急に排除し、陸と向き合う時間をできるだけ多く作らなければという思いで急いで光を目指したのだった。
「ゆーくん」
腹から出した求める者への声を耳でハッキリと受け止める。鼻孔をくすぐる血の匂いと、眼前に広がる見知らぬ戦場が友香に意識が覚醒したことを伝えていた。そして、友香は視界に純の姿を捉えたのと同時に、まだ取り戻した意識についていかない身体を、足をふらつかせながらも時間が惜しいと走り出したのだった。
◇◆◇◆
事実により真実があぶり出されかけ、盛り上がりを見せていた純とアンナ、タチアナの三つ巴の戦場の空気を一人の凱旋が無理やり断ち切った。純はやれやれといった顔で肩を落とす。
そして、ロシア勢は紘和の担いでいるものに目を見開き、驚き背筋をこわばらせていた。
「手伝いに来たぞ、奇人」
演出過多ともとれる、着地による床の粉砕。生まれ持った身体的特徴のこともあるが、着地に対する衝撃の吸収といった技術は持ち合わせている。つまり、この場に紘和が来たということを誰よりも本人が知らしめたかったのである。
つまり、演出過多なのである。
「何? 子供の頃からの夢だったの? 叶わぬ夢だと思ってたの? そしてその夢が……俺に手を貸そうかって言えるのが嬉しいのか? それではもう一度言っていただきましょう。天堂紘和で、手伝いに来たぞ、奇人、キリッ!」
純が最高潮の空気を壊されたことに不服であることを露骨にしながら、棘のある言葉で紘和を迎える。
「……土産だ」
気持ちよくなれなかったことに若干の不満の声色を示しながら、紘和は担いでいた両手足を失ったライザを床にゆっくりと置いた。四肢を切られただけでなく、右肩から丁寧に下腹部まで切り込まれた切り傷も否応に目立つ。それでも驚かされたことは、ライザが息をしていたことだ。それは、ライザの生命力に対することでもあるのだが、アンナ以外は紘和がライザを生かして連れてきたことに驚かされていたのだ。この状況下なら生かすよりも殺すことが簡単なのは誰でも理解している。つまり、紘和はしっかりと純の期待に応え続けていることを意味する。
しかし、それ以上に何より、ライザが紘和に敗北した現実がアンナを襲っていた。
「ライザ……エカチェリーナ」
誰しもがボソリとだが、確かに聞こえたアンナが漏らしたエカチェリーナという単語に違和感を持つ。ライザが負けたという結果に自分の築いてきた功績が崩れ、現実を否定したい気持ちから声が震えているならまだわかる。しかし、そこにエカチェリーナという犠牲者の名前が加わるだけで、背水の陣で望んだ結果が報われなかった、悲劇を急速に醸し出していく。より厳密に言うのならば、アンナがライザの負傷だけでなくエカチェリーナの犠牲すら悔やんでいるように聞こえてくるのだ。
まるでこれが大切な者の犠牲の上に成り立っていたかのように。
「許さない」
何かが吹っ切れたようなアンナは、純粋な怒りだけを敵に向けていた。
「別に許して貰う必要はない。ただ、紘和の持ってきた一つの結果は……どうやらあんたのためになったみたい……だよな?」
純は自分のターンを継続したいとでも言わんばかりに饒舌になる。
「俺は紘和に敵将、つまりアンナ・フェイギン以外の人間を殺すなと言ってあった。ただ、さっき紘和がライザと戦う前に俺はそっと殺してしまっても構わないというニュアンスを含んだことを言ったんだ。つまるところ、俺はここにライザの死体があっても今回は仕方がないと考えていた。正確に言えば、ここで殺してしまうことで紘和がより強くなる段階を早めることが出来るかもしれないと思っていた。でも結果はどうだ。瀕死の状態で連れ帰ってきた。もっとも難しい状態で連れてきた。おかげで、あんたらにもチャンスが残った」
「何、バカにされてる?」
「いや、褒めてるつもり」
純の言い方に何か納得がいかない顔を紘和はした。
「それで、残ったチャンスの話だけど。まさに、あなたが愛したライザが瀕死の状態とはいえ、生きているこの状況のことだ。そう、縛りから解放されて歩幅を合わせられるかもしれない今をチャンスと言わずして何と言おう」
そう言いながら純はライザに近づき、横たわる彼女の頭付近でしゃがむ。
ライザを上から覗き込むように顔を近づけて満足したのかそのままの姿勢で顔を上げる。
「だからさ、俺たちを許さない前に言うべきことがあるだろ?」
◇◆◇◆
余談だが、この瞬間、世界が慌ただしく歪に動こうとし始めていた。知っている人間からすれば当然のことではあるのだが、前振った通り、余談、つまり今は関係のない話である。
◇◆◇◆
ライザは如何にして負けたのか。
話は少し前、ライザが紘和から逃げようとした所まで遡る。
「なるほど、さっきの力は新人類によるところ、だったようですね」
逃げて生き延びるため幻覚の力をありとあらゆる遅延行為に用いたにも関わらず、紘和はすでにライザの背後にいた。そもそも、目視できた上で、幻覚にとらわれなければ紘和とライザの距離は互いに容易に詰められる間合いだった。だから当てずっぽうで突っ込んでくればこうなることもあり得る。それでも自身の姿を見えなくした上で真っ暗にした幻視、紘和が出すであろう音が全て無音となり、全方位に聞こえるライザの逃走の足音に加えて攻撃が迫っていると錯覚させる幻聴、その幻聴に合わせて自身の体臭然り血の幻嗅、口の中を充満させる鉄の味の幻味、極めつけは紘和の負う傷にさらなる負荷を体感させる幻肢を味あわせていた。しかし、その全てをかいくぐった上で、背後を取りライザの肩に手をのせて悠長に自己分析を語るのは、さすがに幻覚が通用していない、もしくは解除されたと思わざるを得ず、当てずっぽうの選択肢はないと考えるのが妥当だった。だからといって声には出さない。仮にそうだと言われない限り、今の状況ですら幻覚で全て成立させることも出来るからだ。現実があっての虚構。
なればその逆も手段と成り得る。
「なっ」
確かに背後に掴む手がある。にも関わらず紘和の掌打がライザの顎めがけて正面から飛んでくる。原理はわからないが、知らない情報ではなかった。故に紘和が二人に身体を分裂させたことだけはわかった。ただ、なぜわざわざ回避がしやすいように正面から、しかも物理攻撃が飛んできたのかはわからなかった。意図を考えながらもギリギリ両手で受け止めたライザ。しかし、その瞬間受け止められた紘和の右腕が霧散する。一瞬、紘和も幻覚の類が【最果ての無剣】を用いて使えるのか、などと過ぎったが、少し軽い掌打という一般的な一撃だと思える重量感は確かに感じていた。だから、最悪を考えるよりも先に、最善を尽くすことにする。それは、紘和がライザの様に幻肢を応用した触感の再現度を同じ様に出来る可能性を排除し、霧散した箇所から何かが飛んでくると判断しての横回避だった。
分身を作る原理が自身の身体をマカブインにより分解、そしてグンフィズエルの奇跡による再構成。質量の原則に縛られた有限の分身。だからこそ、再分解すれば身体の一部分を霧散させることも、そこに何かを仕込んでおくことも可能だと判断したのだ。それならば紘和にしては一撃が軽いと感じた違和感の解決にもなる。さらに正面からの意表があったからこそ、逆に納得のいく攻撃。加えて、正面というのが近距離射出系統の攻撃だと考えさせたのだ。結果、その判断は正しく、ライザがそのまま棒立ちしていれば明らかに心臓を貫かれていただろう氷の軌跡が右肘から伸びていた。しかし、紘和がそこを見逃すわけもないので紘和の視線をなぞるように氷の軌跡の一部が枝分かれし、即座にライザを追尾する。多少の切り傷を覚悟して、任意の場所に突如出現する【最果ての無剣】の雨をかいくぐり、背を向けつつも視線は常に後ろに集中した姿勢で再度逃走を図る。
そこでライザは気づく。自分はなぜ、背後から肩を掴まれていた紘和を振り切って正面からの紘和の攻撃を回避できたのか。その答えは紘和を凝視したことで解決した。両手を後ろに伸ばし前傾姿勢で全力で駆け抜けているが、その目的は再生させている両腕を少しでも見えづらくするためだった。便宜上は再生であるが、実際は切り離し自由ということを意味していた。加えて新しく生やすわけでなく、分解したものが再び本来の形に戻るだけなため、復元スピードが距離に依存するものだということもわかった。だからこそ、右腕よりも左腕の方が若干戻りが遅いということである。おかげで左手の復元をライザは目視できたのである。同時に今までにない戦術を垣間見ることとなった。だからといってこちらは逃げの一手をゆるめるつもりはなかった。チャンスは必ずある。もちろん、ライザにもエネルギーをしなければ急激な活動限界の縮小を余儀なくされる。それだけ生命維持に使うエネルギーが常にフルスロットだからだ。それを惜しまず動いているからこそ紘和と対峙できていることを重々承知している。故に全力を緩めず、拾い食いをしなければならない。
ライザ自身、人間離れしていることは百も承知だが、そんなライザを追い詰める紘和もまた蝋翼物を手にしたことで人間離れしているのである。しかし、戦いは突然終わりを告げる。より人間離れした方が、決着をつけたのだ。
◇◆◇◆
「いつから、気がついていたの?」
先程紘和に敬意を払われてから、今、左腕を切り捨てられたことで両腕を失ったライザは仰向けになりながらも、眼前に仁王立つ化物に歯ぎしりしながら、視線だけはそらさず質問した。
「最初から……あなたが逃げることに全力であると思った時からです」
粛々と己の思ったことを口にする紘和。
「では、その全力が私の想像を越えていなければ、私が勝つのは道理というものです。だから、あなたの二重にかけた幻覚の罠に引っかかっている必要があった。もし、三重にかけられていて、今目の前にいるあなたもまた幻覚だとすれば、恐らくあなたはすでに補給を済ませ、右腕を取り付け万全の体制で私から逃げ切っていたでしょう。なので、ここから先はあくまで私が勝ったということを前提で話します」
前提といいつつも証明の終わった仮説を解説するような自信が、紘和の穏やかな雰囲気からライザに伝わる。
「そもそもあなたの合成人としての力は、取り込んだものを瞬時に己の一部とし再現させるものであって、エネルギーとして一定の貯蓄は人としてできても、再生の貯蓄として残しておくことはできない。つまり、取り込んだ時点で任意に発現させるかを選ばなければその特出すべき力は効果がないということです。それは、あなたの右腕から生えてきた腕が切り落としたものと同じだったという違和感から来たものです。ただ、これはイコーウォマニミコニェという霊剣があるからこそ言えたこと」
ライザには【最果ての無剣】の数あるうちの一つだと言うことはわかってもそれがどういった伝記から持ち出され、どういった異能を持っているかまでは知らないし分からなかった。同時に、こんな状況にも関わらず先程の結論から一つの疑問が浮上した。
所有者はどこまで遺物を把握しているのだろうか、と。
「いったい、どんな力があればこの幻覚の中を進めるというの?」
「これは物理的に斬れないモノを斬る。例えば、空間を切り裂き、歪みを生むこともできれば空間を切り取り距離を縮めることも出来る。そして、今回の肝としては異能と呼べる代物の発動を供給元から断ち切ることも出来る。もちろん、それが本来物理的に切ることのできないものに限るわけだし、元来の生物としての力ならば恐らく無理だろう。加えて有利不利もあるだろうが、少なくとも新人類の幻覚に対しては有効だった。そして、何らかの手段であなたも私が幻覚を突破する可能性を考慮していた。そうでしょう?」
紘和の言う通り、ここまでは当初理屈を抜きにして、幻覚を突破してくると紘和の力量を認めた上で考慮していた。しかし、まさか異能を斬る力があるとは知りもしなかった。この事実が本当で、仮に不利を取る相手がいないと仮定した場合、世界の勢力図は大きく塗り替わる危険性もあった。
少なくとも蝋翼物の異能は外部から付与された異能であるからだ。
「だから突破された時にもう一度重ねがけをするように幻覚を仕込んでいた。私はそれに引っかかる素振りを見せて本体に油断を誘う必要があった。だから、あそこの幻覚の中で戦っている私は、本気です。新しい可能性の試験的な練習もしていますが……いい感じで機能しそうです」
「随分とおしゃべりなのね」
ライザは本心を喋った。まさか、ライザが両腕を失った程度で戦意を失ったとは紘和も考えてはいないだろう。それでも、だ。ライザのいつ気がづいていたのかという質問に最初からと答えた段階ですでに次の戦闘、もしくは駆け引きが発生していてもおかしくはない。そんな中、紘和は悠長に手の内を晒しながら、ライザに逃げる算段を生む機会を与えているのだ。ここまで思考が回れば馬鹿にされていると感じないこともないだろう。
敬意とはよくいったものだと、足元を掬われればいいと思いながらライザは脚に力を込め何度目かになる逃亡を図ろうとする。
「強くなれた礼をしたかったからだ」
しかし、そんな力は一切入らなかった。確かに両脚はライザの脚についているはずなのに。そう思い込めるほどに鮮やかな切断だったのだ。そう、紘和はライザの強さに敬意を払い完膚無きまでに勝ちを押し付けていた。莞爾で切られていたライザの両脚は当然機能するはずはない。ましてや礼としてライザに全てを話す上で、紘和からしてみれば逃げられては困るのである。紘和に悪意はない。
ただ純粋にこれが紘和なりの敬意を払おうと思った結果であり、ライザにとっての悪夢だったのである。
「さて、最後に言い残すことはありますか?」
勝ったという前提の話とは思えないほど、最後という言葉には重みがあった。紘和の背後には先程まで幻覚と戦っていた分身が戻ってきており、一つになろうとしていた。どうすれば、助かるだろうか。何と言えば見逃してもらえるだろうか。はっきりと周囲の認識を理解すべく頭が働いている一方、生き延びる算段を必死に考えていた。そこでふと思うのだった。どうしてここまで生き残ろうとするのか。目覚めた時から、生命を維持するためにためらいなく食べた。人を合成人を、仲間を躊躇なく、罪悪感に蝕まられることなく、食べた。
なぜだろう、と。
「どうして、私は……」
生き抜くことを最優先に考えているのだろうか。その疑問は突然頭の中に降り注いだ記憶によって解決する。正確には疑問に思うことが何か蓋をしていたものを取り払った様でもあった。そして、降り注いだ記憶とは、ライザが死にたくないと思い、その場に命をつなぎとめる手段とライザを生かしたいと思う人間がいたということだった。それは同時に、先程の無機質な感情を劇的に動かすこととなる。言葉に詰まったのは思い出したからだ。そして、言葉を続けられなかったのは強烈な罪悪感と脳裏をフラッシュバックする食事の光景がたゆたいながら喉を駆け上がる……吐き気があったからだった。
◇◆◇◆
紘和はライザの最後の言葉を聞いてから楽にしてやろうと思っていた。しかし、目の前の覚悟を決めていた化物は、あっけなくただの人間に戻っていた。ライザがどういった人生を歩んできたか知らないので何がどう戻ったのかはもちろん、紘和の知るところではない。ただ、生きるために他者を厭わないといった生への執着という人が当然持つべきものである行動がある種曲解したかのような人間が、吐いていたのだ。もちろん、痛みからくるものの可能性もあるわけだが、目を見ればわかるというものだった。
戸惑いと恐怖、そこにはすでに化物だと思っていた人間はいなかった。
「さて、どうしたものか」
だからといって紘和は手を抜かない。そして、心臓をギリギリ避けて肩から腹部まで斬ったのは情けではない。本人は未だにどうしてこうしたのか理屈で納得したわけではない。ただ、これは純が望んだ成長の一つであった。強者としての傲慢や自惚れではなく、強者だからできる哀れみと余裕。【最果ての無剣】を手にした状態で改めて獲得したこの感情は上に立つものには必要だからだ。
そして、紘和は純の元にその成長した姿を虫の息のライザを担いで、届けるのだった。
「手伝いに来たぞ、奇人」
◇◆◇◆
「言えるわけ、ないだろ」
「それはプライドか? 立場か? まぁ、どちらも大差はないけど」
純はアンナから言葉を引き出すために煽る。しかし、次の言葉がすぐに出ない会場に冷めてしまったのか、純は割れた床の破片を手に取り、やつあたりにしては横暴に紘和に投げつけた。
紘和はそれを【最果ての無剣】で砂に変えてみせる。
「まぁ、大体の見当は付くけど、俺の口からその予想を垂れ流すぐらいなら自分の口から真実を言ったほうがそれこそ見栄えがいいぞ」
この場にいるほとんどが、純の言う真実を、真相まで辿り着いていない。
逆を言えば、誰もがアンナは不老不死の探求のために兵士を合成人へと変えていたと疑っていなかった。
「そして、一つ約束して欲しい。俺は、俺たちは今回、アンナ、あなたの首を貰いに来た。だから、本来言うべき事を、形で示して欲しい。それなら、あんたにも守れるものが多いだろ?」
話が見えてこないギャラリーをおいて純は話を続けた。
「まぁ、そうしなければ紘和が当初の予定通り、あんたを殺るだけなんだけどね」
しかし、アンナも純がハッタリや何かでこちらをおちょくっているわけではないと理解しているのだろう。目を伏せ、唇を強くかみ続けた。アンナの無言は誰から見ても真実があるということを否応なく理解させる。何より固く強張り上がりきった肩が震えているのが証拠のようにも見える。そんな葛藤と怯えを覗かせる光景が無音で展開する。だが、この時、アンナが何か覚悟を決める時ばかりは純ですら何も言わず、誰もが同調するように静かな時間を生んでいた。
そして、アンナが大きく息を吐きながらライザに近寄り、そこであぐらをかいたことで終わりを迎えた。
「こちらからも一つ約束をして欲しい」
「内容による。なにせ、主導権はこっちにある。わかるよね」
容赦のない純の返答。
「私一人の命とこの【漆黒極彩の感錠】の譲渡で、この場にいる私の部下の今後の生活を保証して下さい」
ライザの条件に驚きは二種類。
合成人サイドの部下への思いやりに対する驚き、そして、紘和サイドの【漆黒極彩の感錠】の譲渡という戦力図激変を個人の考えで決定しようとすることに対する驚きだった。
「釣り合わない。却下だ」
しかし、そんな驚きを飛び越えるほど純の否定は即座だった。
どう考えても破格の条件であるには違いないのに、初めから用意していた言葉を口にしたような即答だった。
「そう……。なら、どんなに惨めと言われようともやることは変わらなそうね」
そう言ってライザは純の後ろにいる紘和を睨む。
当の紘和も首を斜めに構えながらその意図を汲み取っているようだった。
「まぁ、この話、そっちの条件を詰めるのは後回しでもいいだろう。早く、語りなよ。みなお待ちかねだよ」
純に促されて、ライザは語りだす。どうしてこうなったのかを。
◇◆◇◆
アンナが不老不死を目指して研究していたのは事実である。そして、ライザを実験で失いかけたことも事実である。つまり、先程までの結果に嘘偽りはない。しかし、決定的に足りない気持ちの側面……恋の物語がそこにはあったのだ。そう、死んだ祖母に涙を流すような少女がこんなにも冷徹に育つ事自体、そもそも違和感なのである。
アンナはどうやって生命を苦なく生き続けさせるかという研究の過程で二人の友人と出会っていた。それがライザとエカチェリーナである。アンナが主席ならばライザとエカチェリーナが次席というポジションだった。互いに違う専門機関から引き抜かれてきた初対面同士であったにも関わらず、研究者としてすぐに意気投合した。そして、アンナはライザに恋をした。何かをされたからというものではない。一目惚れと言って差し支えがない、そんな感じだった。ただ、初めて会った時に自覚があったかと聞かれれば、そんなことはなかった。きれいで男前な女性、アンナがライザに抱いた第一印象だった。ただ、心の何処かで女性同士という、同性愛に対する偏見が、認識の低さがアンナの一目惚れだったという感覚を自覚させる妨げになっていた。しかし、それがいかに陳腐なものだったかと思うキッカケは確かにあった。
その最初はある月の晩だった。
「アンナちゃんってカワイイけど、彼氏とかいないの?」
「……いませんよ。あえて言うなら勉学、でしょうかね」
恋をしている余裕がなかったと言うとまるで勉強に追われている様な感じだが、自分の夢のために勉学に励んでいたら、何よりその勉学が本当に好きでやっていたこともあり、遊びを始め、恋愛などしようとすら思わなかったのである。無関心だったかといえば極力少なかったというのが正解である。遊びに誘われれば、もちろん不慣れながら楽しく遊ぶことはあったからだ。しかし、遊びに誘われる方かといえば、これはアンナの勉学への姿勢とそれに伴う周囲の期待、何より結果として残してきた実績が大きすぎて、誘いにくくしていたのも事実だった。そのため知人は多く、友だちは少なく、親友と呼べる存在は恐らくいなかった。友だちも知人と言うにはという程度で、恐らくアンナがそう思っている人間の半数がその人間にとってアンナというすごい存在と接点があるというステータスを大切にしたいと思っている人たちだということも半分理解していた。それが人脈となり自分に還元されればよし、ぐらいの気持ちであったし、自慢される存在というのはそもそも悪い気のしないものだった。それはいわゆる悪い虫が、環境というフィルターのよって除外されてきた故の考え方だと、振り返る時にアンナは思っていた。例えば、アンナのもつ功績から生まれるお金にたかる人間、アンナの持つ知識を悪用しようと試みる人間はいなかったのだ。仮にいたとしても恐らくアンナが気づかないぐらいの些細で、そして周りが勝手に排除してしまうぐらいの小物だったのだろう。
つまるところライザのアンナに対する言葉は皮肉でも謙遜でもなく、ありのままの事実を口にしただけだったということである。
「そっか……。私はね、いたよ、彼氏。ただ、私のせいで随分と窮屈な思いをさせてたみたいで……フラレちゃった」
学者としてアンナの境遇がわかるという同意でもなく、一度は恋をした方がいいと言った恋愛観などの教鞭でもなく、ただ単純に身の上話でライザが切り返してきたことにアンナは驚いた。
だからこそ、あれやこれやと用意していた言葉が全て無に返ってしまい、アンナは押し黙ってしまったのだった。
「まぁ、ちょっと前の話なんだけどね。失恋話、いや失敗談っていった方がいいかな。覚えといて」
相手が何に窮屈な思いをさせられていたかについて言及するべきなのだろうか、それとも言葉からお互いの時間が取れないことによるすれ違いや欲求不満というありきたりなことを想像しながら教訓として覚えたと相槌を打つべきなのかアンナは考えた。
それと別に普段は凛々しいライザが見せた涙にアンナは見惚れていた。
「……しなら、そんなこと」
「ごめんね、突然こんな話。それと、今何か言おうとした? 被せちゃったみたい」
思っていたことが口に出ていたことに顔を赤らめるアンナ。様々な社交辞令を考えていたはずなのに、ライザの寂しそうにした顔を見て、その全てがどうでもよくなったのだ。
そしてこれがアンナの本心なのだと自覚する。
「ライザさんは優しいですね。私は好きですよ」
ありふれた切り返しにアンナは本心を乗せる。
相手に負担をかけない様に、自分が傷つかないように配慮しながら、好きを乗せたのだ。
「ありがとう」
同じ能力のレベルで話ができ、共感できるというのも要素としてあっただろうが、きっとそれ以上に一目惚れだったのだろうと後に思うのであった。そして、二人はそこまで時間を掛けることなくアンナが気持ちを告げたことでライザと友だち以上の関係となる。もしも、恋物語がこれだけだったならば今のような悲惨な状況は起きなかっただろう。しかし、愛と可能性は人の心を歪めてしまう。それが偶然であろうと作為的であろうと、必然だったとしても舞台に立つ人間にとっては眼の前で起こったことが全てなのだから。
◇◆◇◆
「ついに、ここまで来ましたね」
エカチェリーナがそう言った。アンナとライザが付き合い始めてから数年、ラクランとも出会い、陸との会合も果たし、第三次世界大戦を間近に控えた時の出来事だった。そう、理論上の不老不死に近い再現が可能な段階まで来た上でアンナとライザの愛も深まった段階でその時は訪れたのだ。
そう、残すは臨床実験を、人体実験をするだけだった。
「そう……ね」
別に才ある研究者がみな狂っているわけではないのは当然のことだろう。それと同時に自分が築き上げてきた功績を形として残したいと思うのは性であると言っても過言ではない。後者の箍が外れている者が注目を浴びてマッドサイエンティストなどと呼ばれるわけだが、彼女たちはむしろ恐れていた。
成功する自信がないわけではない。それでも誰かに試さなければ当たり前だが結果として残せない。そして合成に仮に成功したとしても、後遺症がいつどこで発現するのかもわからない。どんなに正確にシミュレートした所で実際にどうなるかは試してみないとわからないからだ。その限りなく低い失敗というリスクと、そもそも前例がないというデータ不足に彼女たちは躊躇したのだ。犠牲という言葉に萎縮し、結果に責任を負う覚悟ができていた、故の戸惑い。だからこそ、この状況は必然であり、その後の展開も予想ができた。それはとても人間らしい、愚かな美学。
やめるという選択肢があっても、可能性に手を伸ばそうとする知恵を持った人間の業であった。
「私にやって」
被検体一号として志願したのはライザだった。この場の誰かが名乗りを上げるとは恐らく誰もが考えていただろう。いや、誰かが上げようとしていたはずだった。ただ、ライザがアンナと出会ったことで笑顔でいられる時間が増えたこと、思いを告げてくれたこと、そのことへの感謝を何か形で示そうとしたからこそ、二人よりも早く決断し、志願してしまった、出来てしまったのだ。
当然だがその後、誰もが一度以上、その覚悟を制止した。自分が志願しなくてホッとした者などいなかった。特にアンナからすれば愛しい人にもしものことがあればと考えてしまうため、泣きながら考え直すように説得するのは当然のことだった。それでも現場の空気が誰かがやらねばならないという後ろに川を背負わせる状況を作り出していた。誰かがやらねばならない状況で、部外者という選択肢がなく、ライザはアンナのためにと思い、アンナはそもそもこの研究の発端が愛しい人の死を回避するためにと始めているだけに落ち着くところに落ち着いたのである。
だが、研究は知っての通り失敗した。しかし、ここで終わっていればこの先の悲劇は生まれなかっただろう。もちろん、第三次世界大戦で結果を残せたことは国にとっての悲劇ではない。
ただ、この先間違いなく訪れるであろう残酷な真実の蓋を、結果を残した上で開けなければならないのは当人たちからしてみれば不幸以外の何ものでもないだろう。
「ライザ、ライザ!」
体中のいたるところから血を流し、かろうじて胸元だけを脈動させ、呼吸がライザがまだ生きていることを証明する。そんなライザを見てアンナは泣きながら必死にライザの名前を叫ぶ。意識をこの世に繋ぎ止めるために叫び続けたのだ。このままではライザを、また好きな人を苦しめたまま逝かせてしまう。後悔と眼の前の現実にパニックとなり、冷静さを失ったアンナはどうしようで思考が停止し、どうすればという可能性を模索できずにいた。しかし、そんな中でも一人冷静にアンナに解決策を提示する人間がいた。必要以上に冷静さを欠いた人間を横目に見ると逆に落ち着いていられる、そんな状況にある人間が一人いたのだ。
エカチェリーナである。
「まずは落ち着いて下さい」
「落ち着くって、目の前で死にそうな人がいるのに、落ち着いてなんか」
「助けられるかもしれない方法があります」
「……え?」
アンナは気の抜けた返事だけを残してほうけた顔でエカチェリーナを見つめた。
そして次の瞬間、スッと泣きじゃくった顔を険しくしてアンナはエカチェリーナに尋ねた。
「あなたの考えを教えて」
エカチェリーナが提示したものは助ける、というよりかは助ける方法を見つけるための時間を設ける方法で、【環状の手負蛇】の血液と同化したライザならばその培養液に入れることだった。その中でだけならば生命活動を維持できるのではないかという推察の話だった。だが、一刻の猶予がないこともあり、アンナは迷うことなくその可能性にかけて即座にライザを陸の血液で満たされた培養基に入れた。すると意識は戻らなかったが、呼吸を、生命活動が維持されていることをアンナたちは確認できた。取り敢えず、時間は確保できたのである。
さらにアンナは余裕を得たのか、それとも愛しい人を救うための爆発的な集中力からだったのか、ここから先の救う方法を思いつく。何の因果か、ラクランに出会っていたことで記憶という情報による個の存在の強化を行うことで不老不死で失敗した二種のDNAの取り込みを可能にしようと思い至ったのだ。そして奇しくも、それが出来る力を、アンナは【漆黒極彩の感錠】を所持していた。しかし、それでもアンナはまだ人として踏みとどまっていた。記憶を育成するということは人一人の人生を確実に奪うことになる。加えて、合成人そのものが果たして本当に人一人に対して一種類のDNAで維持し続けることが出来るかも結論からしてみればわからずじまいの内に失敗してしまったのである。そのため多くの個体から臨床実験結果を得なければいくら手段を講じようともライザを生き返らすことはできないのである。
そんなことをして生かしてしまってライザは嬉しいのだろうか。数多くの罪を生き返らせてあげたという鎖で締めつけ、アンナが自己満足に浸るだけではないのか。そもそもこんな非人道的な私欲に付き合ってくれる人間が居るのだろうか。
アンナの葛藤する気持ちを知らず、それでいてライザを生き返らせる手段を聞いたエカチェリーナは、場が落ち着いたのを機に口を開く。
「私が、ライザさんになりましょう」
「どうし……」
今の話を聞いて、アンナにはエカチェリーナが名乗りを上げられる理由がわからなかった。苦楽を共にしてきた友人とはいえ、そこまで身を挺してライザの復活を望む理由がどこにあるのかと。
しかし、全てはまるでアンナの悲願を叶えるために存在しているかのように動いていた。
「気付きませんでした? 私、アンナさんのことが好きなんですよ。そんなあなたが苦しんでいる所は、いくら恋敵を助けることになったとしても見過ごせすことはできません」
好き。これは恋愛感情であり、アンナがライザに向け、ライザがアンナに向けていてくれたものだった。だから、先程の言葉の重みに納得ができた。
だからと言って、はいそうですか、と実行できるほどアンナも人ができていなかった。
「恐らく私は二人の間にどれだけ時間がかかろうとも割り込めません。それでも正直、片思いのままでも、憧れのアンナさんのそばにいれるだけで満足出来ると思ってました。でも、私、アンナさんと一緒にいれば居るほど、同じ条件だと思っていたライザさんが愛されていく姿を見て、モヤモヤするものがあったんです。だから、実験が失敗した時はちょっとホッとしてしまいました。ライザさんに死んで欲しかったわけではないです。ただ、これでこのモヤモヤした気持ちから解放されると思ったらつい……。酷い女ですよね。結局の所は、満足できていなかっただけの話ですから」
モヤモヤと抽象的な表現が本当はどれだけのものをはらんでいたのかはもちろんアンナにはわからない。それでも、こんな切羽詰まった状況だからか、恋敵だろうとアンナが苦しむ姿は見たくないと、以前のアンナが口にした思いと近かったからかは結局のところわからない。それでも、エカチェリーナはアンナを愛している。
それだけはどれだけ歪でいようと理解できた。
「でもそんな気持ちの悪い自分でもあなたのために、そう、あなたのために全てを捧げることが出来る、そんなチャンスが逆に訪れたんです。だから私を、あなたの、アンナさんのために使って下さい。そうしてあなたという存在に私を刻んで下さい。重たくて酷い話だと思うんですけど、私、酷い女なので、何かがないと安心できないんです。それがあなたの心の傷になろうとも」
背筋が凍る様な愛をアンナは受け止める。
「だから、失敗して欲しくないんです。私が確実にあなたの傷となるためには確実にライザさんを不老不死の被験体として成功させなければなりません。そうするためには恐らく、私達は優しすぎます」
だから。
「驚嘆で記憶を作るだけではきっと届きません。服従でいらない感情を剥奪し、憧れで必要な感情を創り上げる。三つも力を過剰に発動させられるかは私にもわかりませんが、できなければ成功はせず、挫折し、後悔だけが残ります。だったら後悔してでも成功させましょう。私はそのためにあなたに人生を捧げます。文字通り、私の分まで幸せに生きて下さい」
まるで悪魔と契約しているような気分だった。
しかし、今はエカチェリーナなの気持ちに答えなければならないという思いとライザを生き返らせたいという思いが結びついていた。
「わかった」
アンナはそう答えるとエカチェリーナに微笑む。
「そして、安心しろ。誰もお前が酷い女だなんて覚えてない。お前自身でさえもだ。これが私から出来るあなたへの最大限の配慮だよ。ありがとう、エカチェリーナ。愛してあげられないけど、大好きよ」
「ズルいです、アンナさん」
血の契約ではなく、互いの唇を重ねることで固い約束とした。そして、合成人は作られ、ライザの復活に不必要な罪悪感といった計画の妨げになる感情は排除された結果、合理的な今の強大な武力を持ったロシアが生まれた。
◇◆◇◆
「まぁ、それも、あんたのせいで記憶に違和感が生じて解除されてしまったわけだけどね」
これが全てだとアンナは説明を終える。
全てを語った後の彼女の顔は少しだけ肩の荷が下りたように安らかだった。
「反吐が出る」
しかし、記憶を取り戻したアンナの全ての告発を受けて、誰もがその愛という名前を冠した知らない世界に何と言っていいかわからない状況の中、純だけが即座にそう発した。
「そんなことのために、これだけ大掛かりなことをしたっていうのかよ。この世界の、俺の知る恋愛はどれもこれも歪で気持ち悪い。愛があればどんなことでも美学として昇華できるとでも言いたいのかよ。実に、実に……不愉か……」
しかし、純の言葉は途中で途切れる。否定、罵倒、拒絶。
純にとっても、理解できないおもしろくなかったものを全否定する口上に酔ったこの時ばかりは、周囲の、特に【雨喜びの幻想】に対処できなかったのだ。
「恋も知らないお前にそれを言う資格はないわ」
友香が手にし、ふらつく足で振りかぶった手に持たれたナイフが純の心臓付近を背後から刺したのだ。
「マジ……かよ」
純が前のめりに顔面から倒れ、その場に血溜まりが広がるのだった。恋の番人がここで狂気を爆発させるのだった。
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