第四十一筆:ジジツ
「さてと、ちょっと電話してもいい?」
純は携帯電話を取り出すと発信先がアンナにも見えるように持ちながら、生死を分かつかも知れない戦場で先程の提案をした。
「別に咎めはしないわ。でもそんな最大のチャンスを逃すはずもないでしょ」
「それじゃぁ電話するよって言った意味ないじゃん。頼むよ。単刀直入に言うと、俺は宗教上の理由で人殺しができない。だから、紘和がどこにいるか知りたいんだよね」
「お前がそんな信仰心に満ちた慈悲深いやつには思えないけどね」
「ハハッ、信仰心がないことは確かだね。でも人殺しをしないだけで慈悲深いなら世界から簡単に悪意の概念は消えるだろうね。っと話が逸れた。殺しはやらないっていうのは本当なんだ。信じてくれ」
あっさりと自らの嘘を認めつつも、殺しの部分は強調してみせる純。アンナからしてみれば、殺せない、殺さないという点を信じ込ませるためだけの悠長な駆け引きにも思えた。一方で、以前タチアナを紘和から救ってみせたり、日本へ赴いた合成人のうち半数、純と戦ったとされる陣営のみが生きて帰ってきた実績もあった。
この行為がアンナに今の言葉を信じ込ませるためだけにしてきたことならば大したもだが、そこまでする理由は見当もつかない。
「殺さないと言うなら私はこの矛を収めるつもりはない。だからお前が私に勝つ機会をくれてた方が結果として天堂の到着が早まるんじゃないか? 何せ私がライザを援軍へ行くわけだからな」
「なんだ、まだどうにかできると思ってるの?」
正面にいたはずの人間の声がアンナの耳元で告げられる。そして、アンナが意識する余裕もないまま積極により純がやったであろう背中に対する打撃にアンナの右手が半自動的に反応し迎撃する。
それと重なるように別の角度からアンナの身体に強い衝撃が走る。
「え?」
アンナの知らない未来が顔を覗かせていた。もちろんダメージはない。
純の攻撃を受け止めるだけに留めていたからこそ絶対防御の体勢は崩していなかったからだ。
「仮にこれが全力だとしよう。同時に能力の力を過剰にさせるには特別な条件が必要だともする。これが前提で今の結果を見て、本当に逆転の芽がどこかで生まれると思ってるのか? 逆転でないにしろ拮抗が崩れると思ってるのか?」
まるでそれが叶わないとでも、最低でも現状維持しか出来ないとでも言いたげに純は言葉を続ける。
「例えば、あんたのカウンターを、攻撃を確実に差し込ませる力。これは差し込める手段があることを前提に実行する自動標的迎撃機能。つまり、ある特定の範囲で割り込める手足を固定した上でほとんど同時に二つの攻撃を放つことで対応ができなくなる。後は……未来予知ってやつの話もサービスでしてやろう。まず、未来から来た人間でもない限り、先の未来が見えるっていうのは完成度の高い予測でしかない。それは新人類の未来視がわかりやすい。彼女たちのトラウマとなった経験の積み重ねが最悪に対する鋭敏な感覚となってそれを迅速に収束させ脳に反映してるんだ。その万能版があんたの警戒にあたる。だからその予測内にない出来事はそもそも警戒、予測いや、予知できない。同様に喜びと警戒の基本感情からなる応用感情の楽観が対応できないのもそれが原因だ。まぁ、俺がその力の欠点を説明した今となっては、あんたも知ってる知識と成り下がってあんたにもそれを行使された上での未来が見えるようになるだろうがな」
「どうして……」
「ちなみに……そもそも本物の未来予知ってあると思うか?」
アンナの知らない【漆黒極彩の感錠】の対処法を知る純に対するアンナの疑問の声に耳を貸すことなく問いかける純。その問いかけは同時に解答にも聞こえる。当然である。圧倒的な強さを持った人間が、未知に満たされ追い詰めた状況でアンナの知らない情報を知っている人間が、本物の未来予知の有無を聞いてくるのだ。
それは純が未来から来た人間、さらに時間遡行を行える人間、またはそれを使える人間を従事している可能性まで示しているように聞こえてしまったとしても仕方のないことだった。
「あれば……まぁ、あるんだけど。俺も一回戦ってるけど、さすが最凶って感じだったよ」
「そう、か」
あっさりとアンナの考えは否定されてしまい、深読みの恐怖から解放されたためかそっけない言葉が漏れた。
「それで、どうする?」
「紘和を呼べばこちらに分のある勝負をさせてくれるってことよね?」
アンナは勝負をつけるならば、つかない純よりも紘和と戦った方が勝敗を決することができると判断したのだろう。恐らく、純はこのまま何食わぬ顔でアンナと善戦を続けるのである。もちろん、こちらが負けを認めることも出来る。しかし、純はその負けを認めることなくちょっかいを出してくるのだろう。アンナに対してその時間はなんの価値もない。
そして純にとっては嫌がらせでも何でもなく、自身がこの場に紘和を呼びたいから電話をかけるというただ一つの要求を通すための交渉の一環でしかないため、前に進めるためにアンナが折れるしか選択肢がないという話なのだ。
「いや、殺してもらうためにだけど? さっき言ったじゃん」
「……はぁ……だったら、どのみち電話させる意味、ないじゃない」
へにゃりという効果音が似合いそうなほど力が抜け、今にもその場でアヒル座りをしてしまいそうなアンナの正論が地下空間に響き渡るのだった。
◇◆◇◆
紘和はイコーウォマニミコニェを鞘に収める。歪みは収束し、空間に置かれた修正の引力はなくなる。もちろん、そのスキを逃すわけもなくライザは即座に逃亡を図ろうとする。しかし、その行動は即座に空間の歪みによって再びその場での踏ん張りを余儀なくされた。
紘和が解除したのは引力の発生場所を自身よりもライザに近くするためだった。
「逃がすわけないだろ」
好機だから、自分の力を試したいからそんな理由は今の紘和にはなかった。あるのは単純にここで逃してしまった時の脅威であった。そしてこの脅威は無限の可能性を持ったまま進化し続けるのである。未知。合成人や新人類、蝋翼物、神格呪者とは違う脅威。そしてその未知の脅威は人類の死を糧として進化を続ける。これが制御されない状態で野放しにされておくことがいかに危険であるかは誰にでも理解できることであった。もちろん、この力を誰かの支配下に置くことも考えとしてはある。だが、食欲という問題が解決されない限り、ライザという抑止力すら機能することはないと判断できるほど目の前の化物は餌を求めていた。
だからこそ、この場で仕留める必要があった。
「さようなら」
◇◆◇◆
ライザは紘和の前から逃亡し、二人目を食べた段階で己の身体に起こる進化の可能性の一つを理解していた。それは身体が様々なDNAを取り込み、即座に自身にフィードバックさせること以上に異質な力であった。それは見聞きした情報という名の記憶とそれを経て培ってきた個の価値観をも自身のモノにできる力だった。それは、すでに二つ、正確には三つの人格を許容できているライザだからこそ確信できた力だった。
故に複数の新人類としての異能の獲得、アンナによって与えられた黒い粉が人格の保持とは別の形で真価を発揮したのだ。明らかに違う個体が混じり合う身体に押し止められるように自我がそこに芽生え、統率を持って牙をむく。
もちろん、そんな急速な進化、異例の事態に紘和が初見で対処できるかと聞かれれば、不可能だった。
「さようなら」
この時点で幻視、幻聴、幻嗅、幻味、幻肢に至る全ての幻覚を幻覚というカテゴリーとして無意識に全て行使していたライザは、紘和がイコーウォマニミコニェで空間の歪みを一度解除した際に自身の幻覚をすでに作り上げていた。つまり、ライザは歪みの引力の影響が少ないだけの距離を位置取った上で、逃亡ではなく紘和を殺す選択、否、取り込む選択をすでに取っていたのだ。大きく口を開いたライザは紘和の肩を捉え、横に吹き飛んだ。
◇◆◇◆
「調子にのるなよ。だから失敗するんだ」
紘和は直前に放たれた別れの言葉から即座にライザの位置を補足、そのまま右腕だけを背後に回し思いっきり殴り飛ばしたのだ。左肩を少し引きちぎられた感触はあったものの致命傷には至らず、なんとか窮地を凌いだことになった。しかし、この時点で紘和の警戒レベルが急上昇したのは言うまでもない。この状況ができた原因は二つあると紘和は考える。どちらも考えうる最悪のケースであると同時に、そのどちらも達成していれば、脅威はもはや全世界に及ぶ。一方でどちらの予想も外れていれば、それはそれで同様の危機感を紘和に未知として与えることになるだろう。
一つは黒い粉を服用したことによる新人類への進化である。残像を見せるほどのスピードで移動した怪力もしくは転移、しかしその全てを否定してでも最優先で警戒したい幻覚。後者を習得しているとすれば、この肩に感じる痛みすら、ましてや先程忠告をした不意打ちにおける声すらも幻の可能性を考慮し直さなければならない。
そしてもう一つはリュドミーナがすでに取り込まれていた可能性だ。もちろん、紘和はリュドミーナが何の合成人かは正確に把握していない。正確に、というのは少なくともリュドミーナが分裂できることだけは陸と友香の戦いを目撃した時にリュドミーナ本人の口から聞いたからだ。つまり、リュドミーナの分裂体を食べたことにより、自身を分裂させ、不意打ちを仕掛けた可能性もあると予想したわけだ。
だからこそ、事態は紘和が考えている以上に深刻である。なぜなら、本当にリュドミーナを取り込んでしまえば分裂体という永続的な自己供給によるフル稼働を常に維持した化物が、止まらなくなるから。さらに紘和が知らない点言うと情報というネットワークを拡大させることで消息をつかめなくなる可能性もある。なにせ、奇襲を察知できる上に、分裂すれば姿かたちをある程度まで変化させることができてしまうのだから。それが新人類の幻覚を駆使すればより困難を極め、世界を牛耳るのは時間の問題と言えるだろう。
紘和は躊躇わず、電話をかける。
「おせーよ、クソが」
◇◆◇◆
「それじゃぁ、もう一つ。お前が俺に押されている理由を教えてやろう」
相も変わらずアンナを圧倒せずとも、生身の人間として異常な対応力で拮抗状態を維持する純が世間話のように話題を提供する。
「この世に存在する三つの蝋翼物。それがなんて呼ばれてるか知ってる?」
純は答えずとも眉間にシワを寄せ、馬鹿にするなと言わんばかりの形相を向けるアンナの反応に満足する。
「知ってれば、あんたはもっと本来の使い方ができた。もちろん、能力を過剰に使ってみせるという点に於いては本来の使い方はできたとも言える」
返事をしなかったことへの叱責のように鋭い連撃が幾度とアンナを襲い、態勢を無理やり崩されそうになる。
「お前のそれは対象兵器って言うんだよ。三つの蝋翼物が使用者にしか使えない、その判断の一つが、使用者が蝋翼物に触れている状況下で能力が発動されるというところにある。だから、紘和だったら触れていないところに設置した伝説の武器が突然能力を発動することもなければ、他の人間が使用するために触れていることを認識させればその力を制限させることも出来る。使用するためにっていうのがミソで、そういう仕様にしなければ他者を切れなくなるっていうカラクリがあるわけ。だから紘和は特に武器を使う蝋翼物である特性上、実は肉弾戦に弱い」
紘和を見て肉弾戦が弱いと判断できる人間がどれだけいるか疑問ではあるものの、知っているようで知らなかった一つの可能性がアンナの中で芽生え始める。
「ただ、統率と対象は違う。統率が支配という言葉に置き換えられるとしたら、対象は付与だ。そして、その対象に制限がない。そう制限がないんだ。絶対的な力に限度があると思ってしまうのは人間の悪い癖だ。そう、その武器の真骨頂は利己的に使うのではなく、誰がたちために、自分の味方だと思っている自分の片割れのように認識した存在に無制限に使うことにあるわけだ。まぁ、もちろん、そんな事はわかっていたから少しはやっていただろうな。ただ本当に本気でやっていれば第三次世界大戦も、圧倒的な【漆黒極彩の感錠】によって仕上げられた合成人の兵力で圧勝だっただろうけどな」
しかし、それが今改めてわかったところで対象とできそうな人間がその場にはいなかった。これは支配する力ではない。アンナに付き従うものに同等の力を付与した上で、信頼関係がなければ真価を発揮できない武器だということがわかった。つまり、アンナの目に届く範囲で味方はいないに等しかった。実験動物として扱ってきた本性がバレた今となっては。だから純は伝えたのだ。後悔させるために、最大限の精神的負荷を抱えさせるために。そういった意味ではどうにか打開できる策が思いついたと思った瞬間に瓦解したのだ。そんなアンナの表情に満足したように純はニヤける。
その後、携帯のバイブ音に気づいてそのまま電話を取ると発信者をアンナに見せつつ電話に出る。
「呼ばれて飛び出て……。うるっさいなぁ。最後まで言わせてよ。何? 俺も今、アンナと戦ってて余裕ないから番号入力する手間が省けたわ」
息を吸う様にどうでもいい嘘を吐きながら純は紘和の電話に出ているのだった。
◇◆◇◆
「単刀直入に言う。俺がライザを止めることは多分できない。少なくとも現状の俺の持ちうる知識と技量をあわせた手段じゃ、勝ち目がない。頼む、俺に何かを貸してくれ」
紘和の大声が電話越しからもアンナを始め、タチアナ、リュドミーナにも伝わる。それはライザという合成人が蝋翼物を上回る化物であることを周知させることを意味した。その脅威は間近で見ていたリュドミーナにもわかっていたことだが、対峙する紘和の口からその事実を認める言質が取れたという事実がより鳥肌を立たせた。わかっていたというのは複数配置した同一体の目を通して紘和と対決するところはもちろん、ライザが仲間を食べ、肉体を継ぎ接ぎし、さらに能力を引き継いでいくところ、あまつさえ、新人類としての力を行使している素振りをだ。だからこそ、リュドミーナは自身の力は取り込まれてはならないと適切な距離を保ちながら最新の注意を払いながら監視していたのだ。
もし、取り込まれでもすれば分裂する力はもちろん、これまでリュドミーナが築き上げたネットワークに介入してしまうことを意味するからだ。
「えっと? もう一回だけ言っていいよ。もう一回だけ。ただし、チャンスはこの一回だけだ。わかるよな、紘和。俺の日本語が」
努めて明るいハキハキとした声。内容とトーンの歪みが誰にでもわかりやすい純の怒りと脅迫の意を悟らせる。それは先程のライザという化物の浮上が霞んでしまうほどの脅威をリュドミーナに植え付けてしまうほどのもので、アンナの研究成果を全て真っ向から否定しかねない勢いのものだった。
だから誰もの注目は紘和の次の言葉に集まる。それは紘和の電話に逃げるチャンスを感じ、行動に移そうとしたライザも該当していた。
◇◆◇◆
何が純を起こらせる原因になったのか紘和はわかっていた。それは紘和が指示に従わなかったからだ。それはアンナという大将首を取ること以外に、ライザをやってくることも含まれている。何をもって純があの時、紘和の言う通りライザをやっておけばよかった存在だったと懺悔したのかはわからない。しかし、結果として当初の予定とズレて純はアンナと紘和はライザと対面し、戦っている。もちろん、最終的にアンナを殺すのは紘和の役目になるだろうが、少なくとも今は紘和がライザを倒すのが純の中でのシナリオなのだ。
そう、純はいかなる時でも紘和を救ったことはない。仮に紘和のピンチが純によって救われたように見えることがあるとすれば、そのタイミングが、純がその紘和の相手と対峙するタイミングだったからに過ぎず結果的にそう見えうシチュエーションが生まれただけにすぎないのだ。悪く言えば噛ませ犬、よく言ったとしても空いた時間を埋めるために紘和を戦わせて鍛えていただけのことである。
日頃から聞き分けがいい所が好きだと、己を自覚しているような所が好きだと純は紘和に皮肉のように言い聞かせてきたが、それはシナリオ通りに動く紘和が好きなだけであって、利害が一致しなければ純は紘和の夢の片棒を担ぐ気がなくなるということでもあった。だから、紘和が弱音を吐いたことに、シナリオ通りに動けないことに怒ったのだ。つまり、これは純にとっては紘和がどうにか出来る案件であることと断定していることの裏返しでもあった。
それを強く印象づけるために選ばれたのが怒りという感情を向けることだったのだ。
「奇人、お前からの用っていうのは何だったんだ?」
「早く戻ってこい。俺が人を殺さない主義なのは知ってるだろ? 紘和」
紘和はそれだけ聞くと最後にグシャッという破損音と共に通話が切れるのを確認した。
◇◆◇◆
携帯を思い切り床に叩きつけ壊してみせた純はとても満足した顔で、それをさらに踏み抜く。すでに機能を失っているにも関わらず、踏みつける度に鳴る破砕音を楽しんでいるかの様に一定のリズムで踏み続ける。アンナからすれば望んだ最大の攻撃チャンスであるにも関わらず、その狂気に満ちた行動に圧倒され手を出せずにいた。一方、直前の場違いなスゴみが否応なく脳裏にこびりついている者ならば、そもそも手出しができないのは当然ともいえる。
そして、小刻みな音が響くだけの時間が数分続き、突然ピタリと止んだ。
「いやぁ、よかった。いい選択だった。ありがとう、アンナ・フェイギン。おかげで傑作に近づくのは間違いなさそうだ」
「それは私のセリフですよ。脅したところで、最強が怖気づいた事実は、自身より格上と判断した事実は変わらない。そう、私のは近づいてないの。すでに傑作そのもの。完成されている。だから、この結果は当然のものだった」
「突然、我に返ったように威勢がよくなって、どうしたよ? この場で事態を正しく把握できてないのはあんただけだぞ? 見てみろよ、あのリュドミーナの恐怖しつつも、口の端からこぼれてしまう笑みを……」
リュドミーナが身体を小刻みに震わせながら笑っているのがわかる。目は見開かれまるで注目の一戦を特等席で見ているかのような表情。もちろん、この場の様子を見ての表情ではないだろう。
どこかでリュドミーナが見ている情報を共有してリアルタイムで何かを見ているのである。
「ただね、紘和は間違いなく一つの結果を得るわけだけど。俺はその一つがアンナ。あんたのためになることであることも願ってるわけだよ」
アンナにとって純が何を言いたいのかはこの際問題ではない。まるで情緒不安定のように片っ端から人の心を弄ぶように煽る言葉の数々を真に受けて対応することに意味を感じないからだ。それでもアンナは心のどこかで純の真意を考える。皮肉にも理性的に切り捨てようともそれだけの畏怖は確実にあるからだ。
◇◆◇◆
「まずは、こちらの連絡が終わるまで何もせず待っていてくれたこと、感謝しよう」
ライザは紘和の纏う空気が変わったことを理解した。それは互いの実力を把握できるほどに、ライザが一回り強くなった、成長したことで感じることができた壁である。つまり、狩る者と狩られる者の立場を理解したことになる。だからこそ驚きが隠せないでいた。
先程までなんとか出来ると、被食者だと思っていた相手にこれ以上ない警戒を払うことになるのだから。
「だからこそ、敬意を払い、義理を通そう」
スッと前に出る足はあまりにも滑らかでライザも見惚れてしまうほどだった。故に何かをしようという意識ではなく、危ないという生存本能がライザの首の皮一枚をつなぎとめる。
それは切られていたという事実が認識の外側から追いつくという圧倒的実力差から生じる結果である。左腕が切り落とされたのだ。
初動で大敗したのである。
「さて、敬意を払った」
先ほどと明確に違うことがあるとすれば、紘和は落ち着いているという一点に尽きる。硬度の高い外皮を始めとした人間としての違いに、未知の生命体への驚きは消えていた。空気が変わった、立場が変わったというのはこの落ち着きの振れ幅の違いにある。まるで何かの暗示にかかったように、全ての実力で紘和はライザに勝っていると信じて疑わないような佇まいがそこにはある。事実、それは今まで紘和に対する攻防を制していたライザが何もできず外傷を負うことで証明している。
ライザは即座に切り落とされた部位に力を入れて筋肉の盛り上がりだけで止血する。
「何をしたの?」
「【最果ての無剣】の本来の使い方をしたまでだ」
ライザは紘和がおしゃべりに応じたことを確認し、準備を始める。
「それじゃぁ、今までできていなかったとでも言うの」
「今まで、というのは正しくない。正確にはアンナと対峙してから……恐らく【漆黒極彩の感錠】の影響で思考が焦らされていたか苛立たされていたか、つまりかき乱されていたのだろう。今は、その辺がふっきれた気分だ」
軽蔑と嫌悪、失望による意図的な攻撃の制限を思考が鈍らされている程度の認識だったことにも驚かされるが、そうでもなければアンナと接戦を繰り広げることができなかったと思うことで納得ができる。
それはつまり、今までライザが対峙していた紘和は本来の力を十分に発揮していなかったことを意味する。
「それではまるで今までが、本気じゃなかったように聞こえるわね」
少しでも時間が稼げる下準備のためにわかっていることを口に出し、紘和の反応を伺う。この会話が終わり、戦闘に移行したら、次に口を開くのは勝者だと悟っていたからだ。少なくとも、ライザがこの下準備にそれだけの決定打を仕込んでいるのは間違いなかった。
なぜなら、ライザはアンナのためにも証明しなければならないからだ。
「そもそもこれの何処が敬意だというの?」
「敬意を払うだ。仮にこの実力を見せないであなたと対峙したら、それは不意打ちに等しい。だから敬意を示すべき相手に払ったのです。貴方を認めた、と。そして今、通話中の待ち時間の義理を通させてもらっている」
これからどんな戦闘が行われるかはわからない。しかし、虚勢ではない上からの物言いは、的を得ているだけに確実にライザに恐怖を植え付けていた。硬質な外皮に覆われているのにも関わらず、じっとりとした嫌な汗を全身で感じていた。不快感が不安を助長させる。負けるつもりは微塵もないのに敗北の二文字が過ぎってしまうのだ。そんな考えを少しでも振り払おうと必死でありとあらゆる幻覚を仕掛ける。今度は自身の優位を決して無為にしないように、幻聴と無音を意識して。粛々と相手の義理を利用して。
靄がかかり全く先の見えない結末を少しでも自身の好成績に近づけるように、変えるように。
「さて、時間だ」
紘和の言葉と同時に、ライザは生き残ることで勝利を掴もうと脱兎のごとく逃げ出した。
◇◆◇◆
「プラナリアには……まぁ、自由にしてもらって、タチアナさん。暇つぶしに、戦いの輪に入らない? さっきみたいに主を護ってみせてよ」
純がフクロウの姿のまま純とアンナの戦いを見つめ続けていたタチアナに声を掛ける。とはいえ、つい先程までの忠誠心が、アンナという人間の行動理念を前に瓦解しかけているのは間違いなかった。純からすれば紘和が戻るまでの暇つぶしにアンナとタチアナを同時に相手しても問題がないという判断からくる誘いなのだろう。否、タチアナはそんな生ぬるい考えで純が動いていないことを知っている。つまるところ、タチアナが諜報員として、ひいてはロシアの軍に所属しているという観点から、どこまで忠誠心と人間性の間で揺れ動くのか。一方、アンナは【漆黒極彩の感錠】の利点を知った上で、自身の今までの行為を踏まえて部下に招集をかけるという無様な行為を、恥を忍んで行えるか、その上で受け入れられるのかという人間の葛藤における物語を見たいという身勝手さ故に声かけたのである。
そして最初の話である最悪の形で実を結んだとしても時間稼ぎはできるということである、とタチアナは確信している。
「遠慮することはない。ねぇ、アンナさん」
最後に鼻で笑って挑発的に同意を求める純。
「それは、こちら側が桜峰さんを人質にとった上で、アンナ様が虚言を言っていることを知っていたとしても、ですか?」
だからこそ、鼻を折ってやりたいとタチアナが純に仕掛けたくなる気持ちは、短い付き合いとはいえ、何度も手のひらで転がされ続けた身としては至極当然のことだった。
「……俺はさっきみたいな軽口を叩くようなタチアナさんの方が好きだなぁ」
キョトンとした顔で純はそのままタチアナを見つめる。
「可愛かった。割と本気で」
「はぁ?」
素っ頓狂な声を出すタチアナ。
それはキョトンとした顔の純が言ったという、割と真面目に言われた気がするという状況判断が異性として見られているということをタチアナに不意打ちで意識させたからである。
「い、いきなり何を言い出すんだ」
思わず素が出てしまったこのタチアナの恥ずかしい瞬間を……誰も聞いてはいなかった。リュドミーナは相変わらずとして、友香は気絶し、アリスは未だに恐怖で萎縮している。そして純は、先程の挑発のスキをついて攻撃のラッシュを仕掛けるアンナの猛攻を捌き始めていた。この結果からアンナは己の手で純を倒すことに固執していることがわかった。恐らくトップでありながら様々な汚点を晒した今、後には引けない所まで来ているのだろう。
しかし、それとこれは別問題である。言葉のキャッチボールに乗っかった挙げく、誰にも知られず恥を晒す。こんな屈辱的なものがあってもいいのか。そう思ったタチアナは部下としてでも、ロシアのためでもなく、自分のため、純に一発入れてやりたいという単純明快な理由で足を振り抜くのだった。
◇◆◇◆
純はそこに人並みの愛は無いにしても、自身の記憶から好きであることに違いはなかったのだろうと、先程発した自身の言葉から再認識した。気になる女子にちょっかいを出したくなるような、まるで小学生丸出しの好きの意思表示である。だからこそ、わかっていることもある。これは、つぶ貝が食材として好きなように、人の築き上げてきたものを台無しにしようとするのが好きなように、死を近くに感じそうな戦いが好きなように、紘和を友だちとして好きなように、タチアナのことは恐らく異性として好きなのだろう。つまり、自分の快楽のための手段として用いて手放したとしても後悔しないと信じて疑わない存在であるのだ。
自分と天秤にかけて全て捨てることができるもの。
「ふっ」
突然、素に戻ったタチアナの声を背後に聞きながら誰にも気付かれないように笑う。だからこそ、自分と違う人間の気持ちは純の現在置かれている境遇に関係なくわかるつもりでいた。
背後から迫る風を切るような鋭い音に反応して純はタチアナの蹴りを回避する。
「そういえばさっき人質はナンセンスだったけどアンナが嘘を言っているという点は、良いことを言ったと思う」
空を切ったタチアナの足をそのまま右手で鷲掴みにし、突撃してくるアンナの間を割るように床に叩きつけた。理由は単純でどうなるか見てみたかったからだ。アンナが攻撃をやめるという選択が取れるか。そして、純の心は痛むのか。前者は攻撃をやめた。それはつまり、想像しているよりも仲間を思っているということ。少なくとも汚点をすべて消してしまう度胸は持ち合わせていなかったということである。
そして、後者に至っては人間であれば死んでいたかもしれない速度で後頭部から床に振り抜き、加えて、アンナによっては息の根を止められていたかもしれない状況であったにも関わらず、何も思わなかった。もちろん、それは生きていて欲しいということは当然として、死んで欲しいともだ。ただ、何か面白そうなことが起こるきっかけになりそうだ、
そのいつもの原動力のままに手段を選べていたし、結果は自身に悲観をもたらさなかった。
「嘘の答えは、どうしてライザを選んだかにある。同時に、なぜ未だに服従と憧れを使用していないか……だ」
純は使い古されたおもちゃに新たな息吹を吹き込むように語り出す。
「なぁ、どうしてだか教えておくれ。ロシアの愛」
そして、純は内心で愛だなんて皮肉だなと思いながらアンナに語りかけた。
◇◆◇◆
「使う必要がないからよ」
「改めて聞くけど、本当にそうなの? 俺は少なくとも全ての力を駆使していないからあんたは勝てないと思ってるんだけど……」
アンナはどう答えるべきなのか考える。
「ちなみに、服従と憧れがどういう力か、教えてもらっても大丈夫?」
「わざわざこちらから手の内を教える必要はない」
「それじゃぁ、教えてあげようか」
「またそうやって……何が狙いなの?」
アンナはわからない故の危険信号を探知していた。
恐らく、自分の中の何かが崩れてしまう、そんな危険信号をだ。
「服従は所有権を剥奪して、憧れは見たモノに限りなく近い模倣や贋作を作り出すのさ。まぁ、先に謝っておこう。実は俺は情報を集めるという面では決して支援に困ってないんだ。その片鱗はすでに裏切りという形で一つ理解してもらっているだろうけど、こいつすら正直おまけの域を出ない。つまるところ、知ってるんだ。ただ、対策は知らなくてもできたし、知ってれば無論余裕だったというのが現状なんだよね」
「それが……なんだって……言うの?」
意識を取り戻していたのか、頭から血を流しながらゆっくりと起き上がるタチアナが純の言いたいことの意図を尋ねる。
「さっきも言ったろ。彼女は根本から嘘をついている。その証拠は君もろとも俺を殺さなかったことが一つのヒントだと思うけど……どうだろう」
「だから、それが……」
同じ言葉をタチアナが繰り返そうとした時、その続きは一つの絶叫とともにかき消される。
その絶叫が鳴り止むと、音源であった女はゆっくりと純を見据えて口を開いた。
「お前は新手の神格呪者なのか」
その問いかけが冗談でも何でもないことは空気でわかる。
「冗談のセンスが無いな。そんな化物と一緒にされても面白くない」
そう言った純は確かに笑い声をあげなかったにしろ、眉をあげて満足したような反応を示す。
「一応、聞いておくけど、どんな能力だと思う? その神格呪者は?」
「例えば……全てを知っている、とか」
「全知! もしそんなんだったら、俺はぜひとも教えてもらいたいさ。どうしてこの世界はあっちこっちで同じ様なことを繰り返しているのか、ね」
それが日常だと、当たり前のことであると答えるような全知はこの場にはいなかった。
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