第四十筆:バケモノ

 アンナがこの計画を開始したのは第三次世界大戦が終結して間もなくのことだった。この計画。合成人という新たな人類の形体を用いた生物の進化を観測、確立することが当初の目的だった。

アンナは医療分野、生物学におけるエキスパートである。幼い頃から生命の神秘に関心があり、目を輝かせていたことがスタート地点である。それはペットを飼ってみたい、テレビで見た動物のドキュメンタリー番組などごくありふれた経験を経て関心を増幅させ仕事にしたいと考えるようになる、ごく自然な好きという動機から来る賜であった。しかし、この好きが変質する出来事が中学生のアンナにあった。親しい人の死、母方の祖母の死だった。多くの人間の人生で避けられない自然の摂理。人によってはこの死に至る過程を経て医者を志す人も少なくはないだろう。だが、アンナはここで他と違う考えを展開していた。もちろん、死んだ祖母に涙する普通の少女だったが、同時になんと生きるということが脆いものか、と思ったのだ。これが老衰でなかったら、苦しんで手の打ちようがなく息を引き取った祖母でなければ考えが変わったかはわからない。それでもアンナは生き続けることに、意味があると思ったのだ。それは一時的な措置ではなく、永続的な生……不老不死を生み出そうとする動機へと繋がる。

 当然だが、最初から不老不死を目指して動き出したわけではなく、先述した通り、生き続けることに意味があるという考えが生まれただけで基本は生物に関わる分野で何かをしたいという感情から勉学に励んでいた。そして、進学を重ねるに連れて自身の考えが誰も達成していない不老不死という概念の話に結び付けられると後に理解したという話である。加えて、様々なSFを通して可能性を夢見たことにより不老不死は自身の才覚を持って挑戦すれば叶えられると歳月を重ねて思ってしまったのだ。事実、彼女の実績は華々しく、大学院を出る頃には世界に名を馳せる偉大な研究者の一人となっていた。その全てが不老不死という誰もが目指さない研究の果に生まれた副産物でしかなかったのだが、周囲がその動機までを知ることはなかった。

 そして月日は流れ、不老不死の研究は難航するものの世界の宝としてアンナは若くして当時の七星としてロシア代表となる。そこで初めて機械工学の権威、ラクランと出会うことになる。他の五人が武闘派だったり、本当に国を、国家を代表する政治系統を兼任する大物だったということもあり、少々肩身の狭い思いで当時は出席していた。だからこそ、学問を通じて七星になった共通の間柄ということでラクランと会話を重ねることは自然と多くなっていった。そこで初めてアンナは生物にとって情報、記憶というものが重要であることを知る。なぜ、ラクランとの会話でこの様に話が弾んだのかはまた別の話であるのだが。

 しかし、アンナの中の不老不死を実現する最終的なキッカケを与えたのは、ツァイゼル、神格呪者【環状の手負蛇】を有する陸との出会いが大きかっただ。突然、アンナの前に現れた陸はアンナの研究成果から彼女が不老不死の実現を夢見ているとすでに察していたのだ。だから、不老不死の身体を研究させることで不老不死を終わらせる糸口を見つけられるのではないかと考えた陸は淡い期待をいだきながら世界の宝に話を持ちかけることにしたのだ。不老不死であると名乗る人間がアンナの目の前で頭を撃ち抜き、倒れ、再び起き上がると今度は心臓を刀で一突きして横にかっさばいたのである。もちろん、血溜まりは残ることもなく平然と陸は自身の体を修復し不老不死を証明した。そんな陸の目の前には目をキラキラと輝かせたアンナがいた。陸がここに来るためにアンナを警護していた軍、さらには幾人かの研究員を殺して、血の海ができた箇所があるという壮絶な状況下で、最初、その猟奇的光景に恐怖に目に涙を浮かばせていた人間とは思えないほどに純粋な輝きを放っていたのだった。不死がすでにある。その可能性の提示はアンナに大きな大きな希望をもたらしたのである。もちろん、その出会いが今日に至る不幸を具現化したと言っても過言ではないのだが。

 そして【環状の手負蛇】の血液が他の生物同士のDNAを無理やり定着させること、抜かれた血は合成人の素材として使用されないか密閉した容器に保存しなければ本体に返ってしまうことなどを知る。一方で、その行為を続けて貧血になるのかといえば足りなくなった物は即座に新たに生成された。結果、合成人という生体兵器を量産することには成功したが、ゼロから一が生まれてくる現象を説明するだけの言葉をアンナは用意することが出来ず、陸の能力の解明による死という目論見は見事外れるのだった。そのため、ある程度の研究材料としての血液を提供した後、陸はアンナの前から、ロシアを後にしたのだった。それが第三次世界大戦終結直後の話である。

 陸がアンナの元を訪れた時期が、一樹がイギリスから【最果ての無剣】を強奪してピリついていたということもあり、【環状の手負蛇】の解明結果はすぐ軍事転用され、そのまま合成人の量産を中心に研究を強いられていたため、アンナにとっては陸の滞在期間中に不老不死の計画を進行させることはあまり盛んに出来ていなかった。しかし、【環状の手負蛇】の血液サンプルさえあれば彼女にとっては十分だった。そう、すでにアンナの頭の中には不死を止める方法はわからないが不老不死を生み出す算段はついていたのだ。臨床実験といったアウトプットな実験が出来ていなかっただけなのだ。そして、すでにベースとなる個体は決めていた。それがライザであった。合成人第一号にして、ロシアの右手ナンバーワン。そんなライザが何の合成人かといえば、高温は百五十一度、低温であればほぼ絶対零度、X線、放射線にも耐える身体を持ち、果ては宇宙空間でも十日間ほどであれば生存できる生物、クマムシである。寿命三ヶ月と短命で、物理攻撃に対する耐性もないため不死とは程遠く、一方で生き抜く力という意味では莫大なかな可能性を秘めた生物である。だが、アンナが着目したのはそこではなく、クマムシがそれだけの多様な生命力を獲得した性質、DNAを取り込むという点に着目したからである。つまり、アンナが目指す不老不死は進化し続ける生物、より具体的に言うならば常に失いかけた機能を外部から取り込むことで自らのものとすることで器官を失う前に、老化を重ねる前に新しいものを継ぎ接ぎさせることの生物を生み出そうとしたのである。

 結論から言うと、アンナの実験は失敗に終わりライザは瀕死の重傷、昏睡状態に入ったのだ。原因は、DNAを取り込む頻度を加速させるために腺下垂体を弄り成長ホルモンなどを過剰に分泌させたなどの人間の性能を向上させたことによる不全などではなく、単純に大量に取り込むためにトウキョウトガリネズミの食事ペースを取り込ませようと、合成人に、クマムシに更にDNAを掛け合わせようとした際に血液がライザの体内で拒絶反応を示すように暴れ出したのだ。二種間では起きなかった反応だけに驚きは隠せなかった。さらにライザが悲鳴をあげ、まるで自我を失っていくのに抗うように悲痛なものに、失敗したという現実と相まって見ていることにライザは耐えられなくなった。だから投薬で無理やり昏睡状態にして、陸の血液に漬けたのだ。そして、ラクランから聞いた人間は記憶というものが一個人を形成する肉体とも精神とも違った情報体として形成するの側面を持つということと自我を強化するために同じ人間の記憶を複数用意しておくことを考えたのだ。こうして生まれたのが記憶育成計画であり、【漆黒極彩の感錠】を用いた他者への他人格形成だった。


◇◆◇◆


 化物。普通に生活している上では常人より圧倒的に優れた人間を格別のものとし称える表現として用いられることが多い。しかし、実際の意味は自己の本来の姿を変え、人に怪異の情を起こさせるものということであり、つまり人間という個体を中心に見た時、どれだけその姿からかけ離れた姿をした存在であるかということを意味する。今までなら、前者が純や紘和といった規格外、後者が新人類や神格呪者といった異能を持ち合わせた人間のことを示していた。

 人の形をした女が、意味を持たない言葉をただうなりながら粘性のある赤い液体、血液を人の目も気にせずにすすり続けている。その身体からは常に切り傷と共に内側から彼女の食欲を満たそうとするように血が滴り吐き気を催しそうな自給自足を形作っている。そんな化物へアンナがすかさず小瓶を叩きつけた。割れた瓶の中からは黒い粉が溢れ、血液と溶け合う。だが、破砕音を気にすることも、突然投下された異物に臆することもなくライザは食事の真似事を続けていた。そんな不気味な時間が数分間に渡って続き、誰も声を発さずに見守っていた。しかし、突如として血をすする行動をライザはピタリと止めた。そして、おもむろに自身の左手人差し指を噛みちぎり始めると、何かに惹かれるように視線を動かした。

 その先には自身よりも不気味な存在を前に思考が停止しつつも、未だ自分の状況が飲み込めず目を見開き、複雑な恐怖に怯えるエカチェリーナがいた。


「ワ……タシ?」


 ようやく人の言葉をカタコトながら話したライザの様なそれは、血をすすっていた四つん這いの姿勢のまま、目にも留まらぬスピードでエカチェリーナに近づくと、頭を噛み砕いた。噛み砕かれたエカチェリーナからは悲鳴はない。それを許さないほどに大きなひと口が一瞬で襲いかかり粉砕したのだ。その光景を一番近くで見たアリスは少しの間をおくとすぐに顔を背け嘔吐する。ごく自然な反応。

 骨を砕き、肉を咀嚼し、血を啜る音が響き渡る。


「紘和」


 純の口がようやく開く。


「お前の言う通り、あれはやってよかったよ」


 紘和はその言葉使いに若干の違和感を覚えつつも、臨戦態勢を整える。それと同時にエカチェリーナをあっさりと食したライザがスッと立ち上がった。そして、先程ライザが食べた自身の左手人差し指がいびつな形で生えてくる。

 明らかに大きさが違い、それはまるで継ぎ接ぎしたという印象を強く与えるものだった。


「ドウ……シタ……モ…のだろうか」


 たどたどしい言葉が徐々に滑らかさを取り戻していく。


「仲間を食べたはず……ナノニ、自身のためだと思えて、ナニ……も感じない」


 そして言葉が滑らかになるにつれて身体から赤い蒸気が立ち込めていく。


「お腹、すいた」


 言葉と同時にライザの口がアリスの背中を襲おうと飛びかかったのだ。


◇◆◇◆


 アンナは自我の定着と【環状の手負蛇】の血液との再融合を同時に達成したライザを見て心を震わせていた。そして、躊躇なく成りすましの新人類、アリスにその牙を向けたことに安堵した。本来ならばエカチェリーナの中のライザの自我をもっと育てる予定だった。しかし、アリスという成りすましの新人類の登場によってもしかしたらという一つの可能性が生まれていたのだ。それは自我のストックを可能にすることだった。補強ではなく補填できるのだったらその方が維持は容易い。だからこそ、計画をはやめても大丈夫な可能性はあった。その保険として新人類を生産するに至った黒い粉を事前に陸から手に入れさせ、先程ライザに血液と共に服用させて新人類の成りすましの力を偶発的にでも発生させようともしていた。実際にはアリスを食べてしまえば、結果的に計画に支障はないため本能的に行ったであろうその光景にライザは安堵したのだ。だが、その実験の成功を確信をさせない一撃が介入した。


◇◆◇◆


「冷たい」


 ライザのアリスへ伸ばした手が氷漬けにされているのを確認、自身で視認しての言葉だった。アリスも背後に突然現れた冷気に反応して振り返り、自分がエカチェリーナの二の舞になろうとしていたことをそこで初めて自覚した。

 そんな窮地を救ったのは紘和のアジィアアールの魔剣による凍結能力だった。


「そのまま凍ってろ」


 しかし、紘和の目論見は達せられない。血液を蒸発させるだけの熱量である。動きを封じる手段として凍結を選択したのは間違いではなかったが、食欲を増進させるために代謝を良くした結果が高温な体熱を纏い、アジィアアールの魔剣を凌いでみせたのだ。

 つまり、ライザの腕が氷の中から抜けたのだ。


「逃げろ、アリス」


 恐怖でこわばってしまい動けないであろうアリスに大声をかける紘和。そんな中アリスは両手を床につけ仰向けで必死に足で床を蹴るように後退する。

 もちろん、そんな移動で距離は稼げるわけもなく、何度も足を滑らせては無様な姿を晒していた。


「たす、けて」


 恐怖に震え上がる中、自然とアリスの口から小さな声が漏れた。追いつかない思考が、恐怖で上手く動かせない身体が、理性とは関係なく発した言葉。自分ではどうにもできないと本能が理解した結果のすがる思いである。新人類となる前の弱者としてのアリスは幾度となくこの言葉を周囲に投げかけてきた。実ることがないと学習し、強大な力を得てそんなセリフを使うことはなくなっていた。だが、まだ子供である。

 得体の知れない恐怖を目の当たりにすれば当然の反応であった。


「当然だ」


 アリスは即座にライザとの間に割って入った紘和の背中を見た。しかし、それはほんの一瞬で眼前にはなぜかライザの顎が外れたかのように大きく開いた口が迫っていた。直後、鮮血が飛んだ。


◇◆◇◆


「残念でしたね」


 アンナの隣で自慢の部下を紹介する様なていで純が語りかけた。【漆黒極彩の感錠】の驚嘆によって紘和とアリスの位置を入れ替えた、そこまでは良かったがそれを予期していた紘和が前もって置いといたであろう【最果ての無剣】の一部によって致命傷は避けたものの右肩から心臓付近まできれいに切られてしまったのだ。

 野生の直感で頭部から真っ二つになることを避けたことは純としても、ましてやアンナからしても驚きの勘であったが。


「ちなみに、あれはそちらの喜びの作用なのか? 実に気持ち悪いけど」


 切り口をまるで縫い合わせようとするように筋繊維が寄り合い、血液がつなぎとして凝固させようと動き回るように見える様は、もはや人間の治癒力の比ではなかった。恐らく再生しないところを見るとエイズの所有する魔剣、スコヴヌングによって切られたものだと推測できるが異様なものは異様でしかない。

 陸の再生と違い、何か虫が這いずり回っているようなそれはただただ嫌悪感を与える不気味さを持ち合わせていた。


「いいえ、あれは次のステージへ行こうとする生物の進化よ」


 悔しそうに睨みつけながら言うアンナに純は眉間にシワを寄せて返す。


「お前はアレに歩幅を合わせて歩くことが出来るのか」


 アンナは何を言われているのか理解できなかった。

 最も純が何か説教じみたことを言っている時点で理解できない、疑問符が脳内に立ち込めることになるのだが。


「天才と馬鹿は紙一重って言うが、この世界の天才はみな愚かだ」

「それって自分のこと?」


 アンナの返しに純は面食らったように目を丸く大きく見広げてみせた。


「言えて妙なり、だ」


 終わりと同時に振り抜かれた純の裏拳を紙一重でかわすアンナ。


「日本での借り、返させてもらうわ」


 こうしてアンナと純がぬるりとぶつかった。


◇◆◇◆


 純がアンナのそばに移動した時、そっとタチアナに友香を預けていった。恐らく一番近くにいた、攻撃を加えていたから当然のことなのだが、敵サイドであるタチアナにちょっと前まで標的としていた神格呪者を預けるのは不用心すぎやしないかと思いながらも、当人は辺りを見渡していた。同じく盛り上がる場に飛び込めなかった上司のリュドミーナも立ち尽くしていた。どうして渦中の合成人であるはずにもかかわらず蚊帳の外なのか。恐らくアンナに利用されていただけの組織の歯車であったことはだいたい察しがついている。それでも、不思議なことにアンナに対する怒りよりも目の前の戦場に参加していない現状の方に憤りを感じていたのだ。

 一方のリュドミーナはタチアナとは少し違った。立ち尽くしてはいたが、今まで積み上げてきた経験が瞬時にこの場の情報をいかに言語化して保存することで価値を見出させるかにシフトしていたのだ。つまり、両者には違ったプライドが心中で働いているのである。それでもタチアナが動かないのは惹かれるものがあって、それに従いたいと思うからなのだろう。


◇◆◇◆


「寒い」


 ロシアという地においていくら地下であろうと暖房がきいていなければ当然寒い。しかし、ライザが口にする寒いはそういうことではもちろんなく、単純に激しい代謝、つまりエネルギー効率が悪い故の体温低下に値する。もちろん、紘和が展開した冷気もあるだろうが、内臓が外気にさらされ続けていれば、ライザの今の身体ではどうすることもできるはずがない。それは体温の急低下ということもあるが、それ以上に、紘和がライザを切ったスコヴヌングの魔剣によるところが大きい。

 この魔剣は付属する治癒石を用いなければ切られた傷を癒やすことができないのである。


「癪にさわるが、さっきのがお前の最大のチャンスだった。もう、あんなラッキーは起こらない」


 紘和はチラリと純とアンナが戦闘を始めたことを確認しながら改めて、心ここにあらずといったライザと未だ恐怖に震えるアリスとの間に入る。


「もう、大丈夫だ」


 誰も気づかない紘和の、大きな人間としての成長。それは短い日を過ごしたアリスですら気づいても不思議ではない違いだった。敢えて、気づかない理由があるとすれば、あまりにも当然のことだからである。そして最も付き合いのある純が気づかなかったのは、目の前にごちそうがぶら下がっていたというのもあるが、気づくという表現が不適切なだけの話だったからである。

 紘和の成長。それは仲間を、アリスを護る命を受けていないにも関わらず、救ったことにある。これだけ当然に思えることですら、今までの紘和を考えれば、アリスを見捨てて、最悪アリスを殺してでも不利な状況を背負うことを嫌い、確実な勝利を選択していただろう。

 それを自ら背負い込む余裕が生まれている、紘和自身が強くなっていることを自覚していると判断できることでもあった。


「邪魔」


 油断と言うにはあまりに酷な、紘和の成長の結果生み出されたアリスへ気を使う時間は結果としてライザの逃亡を許すこととなる。ライザの言葉と共に投げられたものによって紘和の視界が閉じたのだ。至近距離ということもあり反応が若干遅れたのがその投擲物を避けきれなかった一つの理由。そして、もう一つの理由は、飛んできた物を払い除けた瞬間に血が飛び散り紘和の視界を奪ったからである。反射的に紘和の手で払い除けたそれは右肩から外側、切り離れかけていた部位だった。紘和は即座に袖で血を拭いながら目を開く。この一瞬があれば視界の回復した先にライザの口が待ち構えていても不思議ではないからだ。そのぐらいの危険性をフラッシュバックさせるものが先のエカチェリーナを噛み砕く光景にはあった。加えて、ライザが自身のむしり取って投げる直前に放った邪魔という言葉。再生しない肉体に対する言葉にも取れるし、アリスを食べることを邪魔する紘和も該当するニュアンスを含んでいるのだ。身の危険を感じるだけに対処を急ぐのは当然だが、食われれば自分の体の一部が反映されると考えても後の脅威足り得ることだった。

 しかし、ライザは紘和の目の前から消えており、右肩を引きちぎった際にこぼしたであろう血溜まりだけがそこには広がっていた。即座に紘和はアリスの生存を確認するために振り返るが、そこには五体満足のアリスがいた。次に、負傷の具合から周囲に点々と続いているであろう血痕を探すべく床を見つめる。

 逃走経路や次の攻撃手段を紘和に予想させる材料はない。


「あいつはどこいった」


 紘和はアリスにライザの行方を尋ねる。しかし、アリスは首を横にふるだけだった。恐らく、紘和の後ろにいた上に飛んでくるものに反射的に目を閉じていたのだろう。紘和も期待はしていなかったが思わず眉間にシワが寄り苛立ちを隠せずにいた。そして、即座に最も情報の多いであろう血溜まりに目を向ける。頭の中で状況を整理しながら、まだ知らない合成人としてのライザの能力をいくつも考える。透明になり気配を消す、血液一滴が落ちるよりも速くこの場を移動できるだけのスピードを持った合成人。様々な可能性だけが次から次へと浮上する。もちろん、こうして考えていたのも実際の時間にすれば三秒程度である。そんな中、波紋を広げながら、まるで動いているかのような血液に目は釘付けになっていた。直後、紘和は頭上に視線を向ける。そこには今まさに上から降る一滴の赤い雫が紘和の視界に収まった。

 ライザが最初にすすっていた血液のあまりにも奇妙に動く、生きている情景を見ていただけに血液に広がる波紋に、そこに何かが落ちてきていると当然の発想をするのが遅れたのである。つまり、ライザは天井にあるパイプまで跳躍し、それを伝いながら移動していたのである。そして、未だに来るべきはずの反撃が来ない。

 同時に前後の会話で寒いと言っていたこと、異常な熱消費量を考えて、紘和はライザの本質を理解する。


「あいつ、まだ食うつもりで仲間を、合成人を探しに行ったのか」


 紘和はそれだけ言い残すと【最果ての無剣】で天井の一部を切り抜いた。そして、純の方に視線を一瞥すると一階へと壁を蹴りながら跳躍していくのだった。


◇◆◇◆


「つれないなぁ。よそ見すんなよ」


 紘和がライザを追おうとしていることに気づいたアンナの何かを邪魔するように純はしゃべり、アンナの顔面に回し蹴りを叩き込んだ。アンナからすれば驚嘆により紘和の邪魔をしようとしたわけだが、結果として愛情による絶対防御に作用を限界まで引き出す方を選んだのである。敗北を期した上で、イギリスで更に力をつけたという情報からアンナは【漆黒極彩の感錠】を過信していなかった。

 眼前の敵は最善を尽くして勝てればまだ良いぐらいの強敵と踏んで対峙しているのである。


「ちなみにさ、何の合成人なの、アレ?」

「教えるメリットが私にあるの? そもそも知ってるんじゃないの? リュドミーナとよろしくしていたんでしょう?」

「それだとリュドミーナには計画をすべて話していたみたいじゃないか。嘘は良くない。それこそ、その【漆黒極彩の感錠】の能力の振り幅みたいに……。驚嘆、あれは本当に驚いた。その力が今自由になったなら、俺とかどうなっちゃうんだろうね」


 互いが互いを牽制する会話。いかに情報を引き出した上で今後の状況を優位に進めていくかという駆け引き。しかし、アンナにとっては圧倒的に不利な展開だった。なぜなら、特に敵、この場合は純に対して引き出したい情報がない、正確には何の情報を引き出せばいいかわからない状況にあるからだ。一方で、アンナは引き出される情報も多ければ、そもそも純がどこまで把握しているのかわからない状況である。

 つまり、できるだけ相手の口車に反応を示さないことが最善という不利な状況下にある。


「教えてくれよ。どうして俺に驚嘆を使用して逆転させないんだ?」

「しつこい」

「他にも喜び、楽観、警戒、積極、激怒、軽蔑、嫌悪、後悔、悲痛、失望、畏怖、恐怖、服従、憧れ、愛情ってあるわけだろ? 全部駆使しなくても俺ぐらい余裕だと思ってるの? なぁ」


 そんなはずはなかった。すでに奇跡を誘発し、アリスにとっての最悪の結末をズラし、三分間の間であらゆる純の行動に対処するパターンを模索し、純の打撃に割り込み、その攻撃を相殺し、純の短所に拍車をかけ、長所に制限を設け、精神的負荷までかけつつ、アリスが受けた痛みを返し、純の全ての一度行った行動を禁止し、純の攻撃に当たらぬように、死角をキープし、絶対防御を展開していた。つまり、服従と憧れを除いた全ての力をすでに行使しているのだ。しかし、純は現状それをものともしていないのだ。軽蔑、嫌悪、後悔に関していえばそういったものが存在しない人間なのかと疑うほどに能力の恩恵をアンナは感じられずにいた。つまり、紘和よりも全てがハイスペックであることを意味した。悲痛に関しても適度に喜び、楽観、警戒を用いて愛情を解きつつダメージを、痛みを与えているはずなのに純は顔色一つ変えていない。

 極めつけは、すでに幾度も言葉をかわしているにも関わらず息を切らすことなく、つまるところ呼吸困難に陥ることなく、失望をかいくぐり攻撃を通している選択肢の多さにあった。


「化物め」


 どん詰まりである。


◇◆◇◆


 紘和がライザに追いついた時、すでに損傷部分は生え変わっていた。再生したと思わなかったのは【最果ての無剣】によって召喚される武器の異能を疑っていないからである。つまり、再生しないのならば取って付けたというのが紘和の解答だった。現に、すでに左手人差し指がその可能性を十二分に示唆していた。何より、赤い蒸気を立ち上らせながら仲間の合成人を貪る姿がそこにはあった。だらりと垂れたワニを彷彿とさせる爬虫類特有のゴツゴツとした尻尾が飲み込まれていくのだ。生え変わった右腕がゴツゴツとした皮膚で左部位と全く違う性質を見せるのはそういうことなのだろう。

 教えられなくてもわかる。眼の前の合成人は取り込んだモノの性質をそのまま肉体に反映させていくのだ。さらに食事をすることでエネルギーを使い切る、燃費が悪いといえば聞こえは悪いが、本来よりもエネルギー循環が良すぎる故に最高のパフォーマンスを短時間であれば常に獲得できているということである。そう、ギアにゼロが存在しないのだ。

 故に、大量の食料が、紘和や純たちによって瀕死の状態で転がる合成人というロシアの兵力が全てライザの力となって紘和に牙を向ける可能性があることに気がつく。だからこそ食事に夢中になっている今が好機と紘和は【最果ての無剣】の数で攻めるべきと無剣二刀流で展開して、だ。しかし、紘和はこの時点で一つの見落としというにはあまりにも酷な、警戒すべき要因を見落としていた。それは、ライザが地下から逃亡し、この正門広場まで続く廊下に来るまでにすでに複数人の合成人を食べていたという可能性である。余すところなく食すため、捕食痕は殆ど残っていない。だからこそ、紘和はここに来るまでに誰ともすれ違わなかったことに違和感を持つべきだった。

 突然、何かに気づいた、実際紘和が【最果ての無剣】を展開したわけだが、ライザの首がぐるりと百八十度回転する。そのライザの顔を見て紘和は先程の考慮すべき可能性に気がつく。人間の眼球。しかし、その瞳は明らかにトンボなどに見られる複眼、少なくとも個眼で構成されており、紘和を確認したのと同時に単眼に戻った。紘和は瞬時に逃げられると判断した。事実、ライザの背中から突然四枚の翅が生える。湿り気を持った重たそうな翅を数回震わせるだけでピン伸びた飛行可能状態まで持っていく。

 イコーウォマニミコニェ。かつて世界が新しく生まれた時に抑止力として存在した十三の王の一体に対抗するために創られたとされる本来であれば物理的に切れないものを斬る霊剣。そして、斬り終えたと使用者が判断すると勝手に物理法則を無視して鞘に戻っている。ちなみに、切れないものを斬る副作用で切れるものを斬ろうとすることは可能である。そして、その真骨頂が空間を斬ることにある。

 紘和は即座に鞘から剣を抜き虚空に振る。即座に斬ったと判断することで、鞘に戻すとライザの目の前まで瞬間移動した。理屈としては目の前の空間を斬ったということがその斬った分の距離を縮めただけ紘和が移動したと解釈されたからである。距離は振った使用者の力加減で調整ができる。もちろん、突然の出来事にライザの目が大きく見開くのがわかる。そこへもう一度、居合の要領でイコーウォマニミコニェを振る。ライザも【最果ての無剣】の特性を知っている以上、紘和の素振りに見える攻撃に対して回避の動作を取る。そして、そのまま飛んで逃げようとするがライザは動けなかった。それがこの斬り終えたと使用者が認識しているかどうかに関わる部分であり、認識しない場合、斬り続けられる空間がいびつに歪むことで斬撃の中心に空間が正常に戻ろうとする引力を発生させるのである。ちなみにこれはわずかでもイコーウォマニミコニェで斬られれば発生はする。同時にこの引力に巻き込むことで前述の切れるものを間接的に斬るのである。欠点があるとすれば周囲を否応なく巻き込むことであり、事実外壁や床が引力により引き剥がされ、ひび割れていく。しかし、紘和は特異体質のため過剰な体重と踏ん張りがあるため一定時間であればその引力に耐えうることが出来るのだ。

 つまり、時間をおけば相手が勝手に引き裂かれるはずだった。


「なんだい、それ」


 ライザは動いていなかった。それは少なくとも紘和に匹敵するだけの体重、もしくは踏ん張りが効くだけの力もしくは身体の構造をこの短時間で習得したということである。しかし、驚くのはこれだけではなかった。いくつもの剣を出現させ投擲しているにもかかわらず硬くなった皮膚というよりは外殻と恐らく見えないものを感知できる何かの動物由来のセンサーを搭載しているのか確実に攻撃を避け、または防いでいるのである。

 紘和は今までに経験したことのない強さを目の当たりにした。


「化物め」


 化物からの称賛とも言える、本来の化物への向けられた化物目め、だった。

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