第三十九筆:コンラン

 とにかくまずい。紘和という脅威を改めて直に目にしたこともあり気が引き締まっていく。そして、エカチェリーナは【漆黒極彩の感錠】の能力をフル稼働させる。もちろん、今まで全ての力を使っていなかったのは相手を見て能力の行使を抑えていたというわけではない。そもそも全ての能力を均等に扱う点に置いて蝋翼物に負荷がかかることはなく、何の問題もなく機能させることが出来る。つまるところ、特定の能力をオーバーワーク気味に使っているため、能力の制御がしづらかったのである。しかし、エカチェリーナは日本での敗北を忘れていなかった。故に、純が従える蝋翼物の所有者である紘和を全力で止めると即決できたのだ。


◇◆◇◆


 紘和は先手必勝とでも言いたげに動き出したアリスを見ながら戦局を考える。アリスが成りすましした者が想定外だったのか敵の動きが若干鈍っているためにできた悠長で、それが許された時間だった。まずどちらを優先して倒すかと戦術を考えた後、どちらと戦いたいかに思考を即シフトチャンジする。まだ見ぬ合成人のトップ、ライザは培養基で眠っている以上、選択肢から外れる。八角柱という情報しかないアンナとの一戦に興味がないわけではないが、どうしても戦闘力がある部類だと思えていないため気がひけるところがあった。しかし、第三次世界大戦中に一樹と一戦交えたことがあるという事実が紘和を悩ませていた。

 そんなくだらない時間は戦況に関係しないくだらない思案の際中に選択肢を失っていた。紘和の視界がすでにアリスを無視して攻撃を紘和に当てようと突っ込んでくるエカチェリーナを捉えていたからだ。

 だから、紘和は即座に消去法で選ばれた自身の対戦相手を迎えるべく構えた。


「どちらのサイキョウが上か、決めさせていただこう」


 紘和は大将首のことを一先ず忘れることにした。それらしい文言で己のボルテージを高め、眼の前の戦いに酔いしれる様に【最果ての無剣】を展開する。最強と最狂の蝋翼物が激突したのだ。

 ちなみに相乗兵器である【最果ての無剣】は主に使用者に莫大な恩恵を与える特徴があり、対象兵器である【漆黒極彩の感錠】は何かに効果を付与する特徴がある。どちらが有利かと聞かれれば難しい話ではあるため、その点を留意してどちらに勝利の女神が微笑むかは見ものである。


◇◆◇◆


 エカチェリーナは明らかに物思いにふけり出遅れた感のある紘和に躊躇なく先制攻撃を仕掛けていた。アリスはアンナの方へ行ったが、これは特に問題はない。戦闘能力的にアリスがエカチェリーナの相手を紘和に任せたことは正しく、ライザは実際のところアンナであり合成人としての力がないから同じ姿で経験値の差で対処ができるという判断に問題はないということである。一方でエカチェリーナの計画からしても成りすましの能力者をここまで連れてくるということが当初の目的の一つでもあったため好都合だったのだ。

 だから、エカチェリーナが紘和とぶつかることは必然的でなければならなく、先手をとって優位が取れるこの状況はとても好都合だった。エカチェリーナは警戒で攻撃を受けるタイミングを見つつ、積極と激怒を複合させた物理攻撃に対するカウンターを自身に展開する。加えて、悲痛、対象者が受けたダメージのみを共有する力、喜び、傷の再生、奇跡を誘発させる力でカウンターに失敗した際の保険をかける。更に紘和に対して失望と軽蔑、短所を増幅させ、嫌悪で長所を機能させなくする圧倒的不利状況を押し付けた。そしてダメ押しに愛情、絶対防御と効果の過剰を付与して全ての異能に優位性をもたせた。しかし、今回は悲嘆を活かすべく絶対防御の部分は喜びでカバーするとした。

 そして、紘和の鋭い一撃はエカチェリーナの頬をかすめた。


◇◆◇◆


 今までの経験値を、成果を知るには自身が不利な立会ぐらいがちょうどいいと思っていた紘和ですら、ただ突っ込んでくるだけのエカチェリーナには違和感を持ち始めていた。すでに【最果ての無剣】で無色透明な何本かをエカチェリーナの全方位に出現させ、単調な攻撃をしているはずだった。しかし、それを回避する素振りなく最小限の手さばきでいなして近づいてきているのである。さらに任意の場所に出現させられる【最果ての無剣】が同じ場所から出現させることが出来ず、違う場所から試みても出現させられない事案が発生していた。行動が制限された上で最適化が進んでいる。紘和はそう考え、内心でほくそ笑む。今までにない純粋な異能を、蝋翼物というアドバンテージを駆使し、駆使されながら戦っているという状況に。

 先のニーナとの戦いで先読みと行動を制限することが出来るのは把握していたが出来うる行動の制限の幅に、認識を改める必要性を感じる紘和。本来であれば対象兵器に対するアドバンテージ足り得る対象が取れない見えないモノである【最果ての無剣】。しかし、攻撃として放たれたことでどこからか、どのようにかして攻撃してくるという予測のふるいに引っかかり、結果として攻撃してくるなにかとして存在していると認識され、【漆黒極彩の感錠】でも制限をかけられるのだろうと考えることができる、ということである。この調子でいくと遺物の使用回数、加えて無剣二刀流も大した効果が期待できないことも予想できた。ならばと紘和はためらいなく前に出る。打つ手が無いからと様子を見ることはしない。

 あえて言うならば様子を見るために窮地へ飛び込んだのだ。


「仮に未来を見て、私の行動が制限されたとしよう。それで対策ができるのか」


 手にしたアジィアアールの魔剣の先から枝葉を伸ばすように氷が宙を走る。それは一瞬にしてエカチェリーナを捉えた。同時に紘和の頬にも鋭い痛みが走るのだった。


◇◆◇◆


 逃げるという選択肢がない以上、先程のような全体攻撃を室内で交わすことはまず不可能である。加えて警戒でどれだけ未来を見ようと、この空中を走り回る氷の筋の軌跡のパターンはエカチェリーナの動きに順応しており限られた空間で対処するというのは厳しいのが現実あった。つまり、ここは一度攻撃を、氷によるダメージを受けることで失望による次の氷結攻撃に対する制限を、氷のダメージを届かせないこと、とするまで制限の意訳を拡大する必要があったのだ。これによって大幅なリスクを背負う可能性は減ったのだ。一方で保険としてかけていた悲痛によるダメージ共有をこの程度のダメージで紘和に察せさせてしまったことで相手が物理的な攻撃を避ける可能性が出てくる。すると、無作為に対象を取らない先程のような氷を走らせる攻撃ならまだしもタイマン性能を誇る物理技に対する積極と激怒によるリターンが減るのが痛いところだった。それでも自身が負けに直結しかねない可能性を潰した方がメリットが大きいと判断した故の行動だった。そしてエカチェリーナは紘和の拳を正面から受け止め続けることとなった。


◇◆◇◆


 未来を見て、行動に制限を課す。加えて痛みの共有が先程氷結行為からわかった。紘和は蝋翼物というものに当初そこまで興味がなかった。自身のもつ一本があまりにも強すぎたという点が大きく魅力的に感じていなかったからだ。今までの戦いの中で蝋翼物に頼らない力、価値観を手に入れてきたというのも大きいだろう。だからこそ、ここで初めて蝋翼物という壁にぶち当たったことが少しだけ関心をそそる面白みを紘和に与え始めていた。そして、チャールズと一戦を交えたこともあったが、あれが小手調べでもないことが今この場でわかった。

 だからどうした。興味は少し湧いた。しかし、戦っている今という状況に勝る面白さがその異能を推察していくこと、理解することに勝ることはない。故にその打算のない真っ直ぐな戦いに意欲的な考えが紘和の拳をエカチェリーナに届かせた。全てを鑑みて勝つ手段がなくなったわけではなく、あくまで少しの窮屈を感じさせる新鮮味でしか無いと。ならば今はごちゃごちゃと考え始めたところでエカチェリーナに勝てるわけでもないと、紘和が求める闘争心が素直に己に従ったのだ。もちろん、この攻撃は紘和の知らない積極と激怒によってエカチェリーナが超反応したかのように拳をぶつけ相殺される。だが、この行動は同時に紘和に激怒の存在を知らせることとなる。

 先程、考えなしに行動したように、戦いたいという欲望に身を任せた紘和だが、もちろん、常に勝つことを見据えて勝負には挑んでいる。そのため悲痛の効果をあらかた予想し、確認するために拳を握ったのである。素早い手際だったが、確かに氷の切っ先がエカチェリーナの頬をかすめた時、傷ができ、再生していた。自然治癒力を上げるのか、単純な回復魔法とでも呼べば良いのかわからない。だが、これはキャパオーバーでどうとでもなる。問題は、この痛覚共有だった。初見でエカチェリーナの頬の再生を見ていただけに自身の同じ位置に発生した痛みがダメージだけなのか、傷も共有していたのか、それが今後を左右することだったのだ。故に打撃痕を残す意味も込めて敢えて近接戦を挑んだのだ。結果として紘和の打撃はエカチェリーナからの反撃で相殺された。そう、紘和にダメージが共有されなかったのである。もちろん、今回はダメージ共有をしていなかった可能性もある。しかし、本来拳が衝突した場合、打ち付けた紘和側は確実に何かしらのダメージを負わねばおかしいのである。つまり、【漆黒極彩の感錠】の中には技の威力を相殺する力が存在する可能性があると紘和には判断できたのである。

 攻撃に対する制限、ダメージの共有、未来を視る、傷の回復、攻撃の相殺、位置交換。紘和が把握できただけでも自分がより危機的状況に追い込まれつつあることがわかった。そんな焦燥感に若干の苛立ちを覚え始めてもいた。窮地を楽しんでいたはずなのに少しだけ覗かせたその苛立ちは徐々に戦いをより前のめりに加速させていく。どれだけ少し冷静に、自制しようとしてももともと持ち合わせていた闘争心と相乗効果を生み、前に前にと紘和の思考の余地を埋め尽くし身体が先に攻撃を行おうとするのだった。


◇◆◇◆


 エカチェリーナは紘和が随分と攻撃的になった印象を感じていた。ダメージ共有も臆することなく思い一撃を乗せてきた。恐らく、軽蔑による短所の増幅で精神的自制が効かなくなっているのかもしれないと察した。当たり前だが、エカチェリーナも紘和に武芸における明確な短所が存在するとは思っていない。もちろん、出来ない技術や未熟な連携も存在はするかもしれない。しかし、それが短所と言えるほど立派な弱点である可能性は少ない。だからこそ、精神面に大きく影響すると予想はしていた。以前、遠目に見ていただけでも、そしてタチアナ、リュドミーナの報告からも正義、それを遂行するための力を求めることに対する自制の乱れが目立っていることは知っていた。現状、攻撃を単調化させることで、失望と激怒で優位な状況を続けられている。しかし、裏を返せば超攻撃型となり、純に並ぶ勢いで連撃を打たれれば身体がついていけなくなり積極で自身を滅ぼしかねない状況にもなっていた。少なくとも警戒による知見では押され始めるのだ。遺物による攻撃ではなく、紘和自身の圧倒的な戦闘力によって。そして、その未来は確実に速まっている。それは直前に見ていない現実となって確実にエカチェリーナの腹部を捉えてきたのだ。


◇◆◇◆


 【最果ての無剣】のもう一つの顔。それが無剣無刀流。無剣一刀流が遺物をただ扱うだけ、無剣二刀流がその遺物を二つ存在させる。では無刀流とは。答えは無剣に縁のある豪傑の力を自身に憑依させるというものである。ただし、身体という肉体的に縛られていない者を前提とし、憑依させた者を支配できるだけの、歴代で最強の使い手であることが前提とされる。この力が実際にふるわれたという記録は少ない。理由は単純でそもそもこの【最果ての無剣】そのものが無剣一刀流以上の使われ方をしたことがない、使用者に使わせたことがないのだ。加えて、歴代最強が常に更新されるわけがないのである。そんな中でも紘和の無剣無刀流は特殊なものであった。先も述べたとおり身体という肉体的に縛られていないという言葉に誰しもが死者を真っ先に考えただろう。しかし、紘和に発生したのは生霊という概念からくるものだった。もちろん、使おうとして使ったことはなく、初めて使用した際は純と戦った際に劣勢を強いられていた時に自身の力を前借りしてでも勝ちたいという強い欲求から偶発的に使用したに過ぎなかった。

 つまるところ、紘和がこの力を使うということは自身に自身の力を付与することと同義である。そして、これは純を追い詰めるに足る力の可能性でもあった。エカチェリーナに追い詰められ、募った苛立ちが、闘争本能が、今なら十二分に力を使えると判断し、いとも容易く実戦に無刀流を投入したのだ。その結果、一振りが三撃に見える拳が繰り出されることとなった。エカチェリーナが割り込むには当然、手が追いつくはずもなく、未来を見たところで対処ができない攻撃となったのだ。紘和は暴力を押し付けたのだ。


◇◆◇◆


 同じ手は食わない。少しの変化でもエカチェリーナは失望で抑え込もうとする。さらにエカチェリーナはこの対応できない連撃を、ダメージを共有することで紘和に嫌厭させることで抑制しようとした。しかし、止まらない。恐らく外傷がないという痛覚のみでは紘和が怯むに値しないということなのだろうか。それとも、尋常ではない質量が同じ痛覚でも緩和させてしまうのかはわからない。だが、エカチェリーナが押され始めているのは未来が見えずともすでに明確となっていた。

 紘和が何かしらの【最果ての無剣】の能力で自身を強化しているのだとしても、何がそうさせているかは皆目検討つかずでいた。このままではただの力量差で押し切られるのは目に見えていた。痛みは癒せないのだ。つまり同等の痛みを喰らい続けていたら勝ち目はない。とはいえ、共有しなければ前線はこの拮抗状態する危うくなるだろう。それはアリスに襲われているライザに後に加勢にいくことすら敵わないことを意味する。

 そして、神はロシアに味方しない。


「ハハハッ、あれを見てみろよ。リュドミーナ。それに陸も」


 グッタリとした友香を抱えた純たちが姿を現したのだ。


◇◆◇◆


 アンナの姿を獲得したアリスは動揺するライザにいとも容易く攻撃を通した。当然である、ライザのふりをするアンナが目の前に現れたのである。つまり、新人類の成りすましの性質上アンナになったということは、ライザとなったアンナの血液をどうにかして入手し、結果アリスを通じて露見させたことになるのだ。

 紘和やヘンリーには劣るものの八角柱の一人である。最低限の戦闘能力はあるようで存外身軽だった。


「観念しなさい」


 アリスは自然と優位を取った人間ならではのセリフを吐く。

 しかし、その優位的状況が覆る言葉がライザから返ってきた。


「これは。いったい。え? だって」


 攻撃が簡単に入ったのはアリスが想像していたよりも実際は遥かに、深刻に、動揺していたからだったのだ。疑念と状況整理が追いつかずに慌てるのではなく、明らかに認識と違った現象を前に逃避行動を始めるそれだった。だからこそアリスは次の行動に移れないでいた。相手の恐怖が、悲痛な叫びが伝播し歳相応の萎縮と感情移入をアリスに誘発させたのだ。紘和だったらためらいなくトドメを刺せていただろう、そのDNAを取り込んだことがあるアリスにもできるだけの精神力が生まれていてもおかしくないのかもしれない。

 それでも一人の少女としての感情が静観しているという結果を物語っている。


「どういうこと? あなたは……。え? 待って」


 見慣れていない姿ではない。しかし、何かがライザを苦しめるトリガーになったのは間違いない。しかし、アリスがそれを即座に理解できるはずはない。だからアリスはただライザが落ち着くまで声をかけるわけでもなく見守ることしかできなかった。もちろんその間、紘和の援護をしにいこうという考えは思い浮かばなかった。なぜなら、眼の前の敵を倒すまたは押し止めるのがアリスに与えられた最低限の役割だと理解だけはしていたからだ。その結果、硬直状態を長い間維持したまま純たちの到着を迎えることになったのだった。


◇◆◇◆


「どうやったんだ?」

「そこで、仲間に何してやがるんだって心配じゃなくて、どうやって【雨喜びの幻覚】を突破したか聞いてくる当たり、お前はさすが、と皮肉しか言えない」


 その言葉に鬼のような形相を向けているのは紘和ではなくなぜか純の傍らにいる陸であった。


「何、彼女、殺すつもりなんでしょ? そんな顔で見ないでくれよ……九十九さん。今はこれが正解でしょ。同意の元落ち着いて欲しいかなぁ。で、紘和の質問に答えるなら、まぁ、簡単な話、敵意がなければ触れられる。触れてしまえば……気を失わせるのぐらいわけないさ。俺、仲間だし」


 敵意すらも自在にコントロールできると豪語する純に、それが真似できるとは到底思えない紘和。しかし、実際は純にとって【雨喜びの幻覚】の感知能力は大したことがないということが判明する。

 しかし、仲間をも軽くあしらうその男を最後に目に捕らえた友香の顔が驚きと怒りに満ちた形相だったことは紘和でさえ想像できた。


「そんなことより、はい注目。アリスちゃんはどこですか?」


 緊張感のない純の声が戦いの音が止んだ戦場を駆け抜ける。そして、少しの間をおいて申し訳なさそうにゆっくりと手を挙げる人間がいた。

 アンナに成りすましたアリスだった。


「どうよ。この真実、最高に面白いだろ?」


 純は実に楽しそうに秘密を暴く。

 同時に大仰な身振り手振りと口調が、周囲に不快感と恐怖を植え付ける。


「エカチェリーナから採血したはずなのに、アリスはアンナに成りすましてるんだから」


 純の言っていることがわからない人間はいない。しかし、それをすんなりと受け入れることが出来るかは別問題である。純と一緒に来たリュドミーナとタチアナ、陸は信じられない光景を目の当たりしている顔。そして、アリスと紘和からしてみれば事前に教えてもらっていた情報と異なる現実に眉をひそめる。そう、今この場で最も多くの情報を持つ者の頭の中は以下の通りである。アンナとライザの認識が入れ替わっていて合成人の目から見た場合、判断ができない。加えて、エカチェリーナとアンナの認識が入れ替わり合成人の目ではなく、全ての人間の目から見ても判断ができない状態だった可能性があったのだ。

 可能性という言葉に留めたのは、純が知っていたかもしれないからだ。そして、他にもこの事実を知りうる人物がいる可能性も純という候補がある限り可能性はあった。だが、もし純以外に知りうる人物がいるとすれば、それは間違いなくアンナに加担している存在である。もし、そうでないとすれば興味がなかったのか、事態を重く受け止めていなかったのか、最悪の場合は……。状況の判断に未だ混乱する誰もが明確な何者かの悪意を想像する。しかし、状況は進む。誰かの思惑通りなのかはわからない。

 それでも劇的に変化を遂げたのだ。


「あぁああああああ」


 ライザの姿をした何かが激痛に抗うように頭を抱え、裏返った金切り声で潰れた様な悲痛な叫びを上げ始めたのだ。疑心や戸惑いといった全ての感情が地下空間に響き渡る爆音をあげる異様な存在に塗りつぶされる。誰もが声の主の身に起こるであろう変化を見逃さないように注目していた。そして、数秒の激しい振動の波が穏やかになった時、アンナがライザに、ライザがエカチェリーナに、そしてエカチェリーナがアンナとなり忽然と姿を現したのだ。初めからそこにいたかのように、すり替わったという行為が該当しないことが明白な状況でそこに現れたのである。

 さらに不可解なことがあるとすれば先程までの飲み込めなかった状況が嘘のように、誰もがライザを、エカチェリーナを、アンナをその人本人だと受け入れていることできていることだった。


「また、お前に邪魔されるのか……幾瀧」


 そして、恐らくこの状況の全てを説明できるであろう八角柱のロシアの愛にして蝋翼物、対象兵器【漆黒極彩の感錠】の所有者、最狂アンナ・フェイギンが口を開く。


「一応初めましてだろ? あんたは日本に来ちゃいないんだからさ。そもそも俺が戦ったのはエカチェリーナさんだ。違うかい? アンナさん」


◇◆◇◆


 アンナはまだ計画の最終段階一歩手前であるが故に歯ぎしりして純を睨みつけていた。さらにアンナからしてみればなぜこのからくりが見破られているかということに疑問があった。アンナが教えたと認識している人物はラクランしかいない。互いに研究の利害が一致しているという協力関係の元、様々な圧力を掛け合ってお互いの願いを成就しようとしていたからだ。つまり、真っ先にアンナが疑いの目を向けるべきはラクランであり、その身辺だった。しかし、この時のアンナはラクランを疑うよりも先に、部下であるリュドミーナとアメリカの正義、チャールズに疑いの目を向けていた。

 前者はライザをアンナと誤認したと知っていたからだ。これは身内からアンナの計画が発覚し妨害されることを防ぐための、いわば予防線に近いトラップだった。もし合成人の中で気づく者が現れるとすればリュドミーナだと思っていたため特に問題はなかった。むしろ、妨害に転じてこなかった故に、知っていることを前提として情報を収集、拡散させることに成功していた。

 後者は統率兵器【夢想の勝握】が持つ圧倒的な情報制圧機能である。そもそも蝋翼物を看破できるモノがあるとすれば同等の力以上のモノを行使する必要があると考えれば自然のことである。加えてアメリカという大国を収め、八角柱を実質収める立場の人間である。リュドミーナ以上に知られる可能性を危惧していた存在ではあった。しかし、そういった素振り、接触が一切なかった故に今まで漏洩はないと安心しきっていたのだ。

 しかし、この二人が動いていなかったとしても結果に整合性を埋め合わせるように間接的に誰かが動き回っている可能性を疑うべきだったのである。その男がアンナの目の前にいる純だった。極めつけは蝋翼物以上の力、神格呪者との接点も持つというところにも振り返ればあった。

 では、そもそもアンナの計画以前にどうやって世界中の認識を誤認させていたかの種明かしである。特定の能力をオーバーワークさせている。これが答えである。【漆黒極彩の感錠】の中に驚嘆がある。ある時は日本から逃走する時に海上を渡る手段として、またある時は相手との位置を入れ替えたりと逆転させるという本来の能力に沿った力を発揮させていた。しかし、本質を捉えて効果を最大限に使用した時、驚嘆という力は人間の立場そのものを逆転させることが出来るのである。それは決してその人物になるわけではなく、一種の自己暗示と集団催眠を併用させたものに近い。故に対象者が違和感を持たずとも周囲が違和感を持つ、外的要因でもズレを感じさせれば自然とそれまでの記憶を保持したまま元の立場へ戻ることになる。つまり、外部から干渉を受けない擬似的な閉鎖空間であればあるほど驚嘆は真価を発揮しやすいのである。そして、他へ回すべき効果をできるだけ驚嘆に用いることでより強固な効能を付与するのであった。結果、合成人であるライザを意識不明のまま培養基に押し込み、能力を発現させない環境に、アンナにとって腹心的存在だったエカチェリーナをアンナに、そして自身をエカチェリーナに入れ替えて、強大な人体実験を密かに、そしていざという時は切り捨てられる算段まで考え、実行していたのだった。


◇◆◇◆


「いつから、どこまでお前は知ってたんだ」

「答える義理はない。ただ、これで紘和は全力のあんたと全力で戦えるはずだ。てか、紘和、お前はバカだよねぇ。なんで豊富にある遺物を使わないの? どう考えたって宝の持ち腐れしすぎだろ? いいか、【最果ての無剣】解禁したんだからさ、もっと有意義に力を使えよ。何、奥義使ってみちゃってるんだよ。普通に考えればそんなの俺以外に使う必要ないのわからないの? 覚えたでしょ、世界のありとあらゆる武器?」

「あ、あぁ」


 エカチェリーナにはアンナの声も純の声も紘和の声も全てが雑音であり、脳が理解しようとしなかった。それ以上にエカチェリーナという肉体に、明らかに二人の人格が共存している、という事実に吐き気が止まらずにいた。全く違う思考、価値観を同時に処理する感覚。

 二重人格、ジギルとハイドのような人格が交互に現れるわけでも、ましてや天使や悪魔が交互に意見をするようなものでもなく、ただ二人同時に存在する感覚。


「あなたは誰?」


 ライザとエカチェリーナが一つしか持たない口から出した共通の疑問だった。もちろん、わからないわけではない。ライザだったエカチェリーナで、エカチェリーナに戻ったライザであることはわかっている。それでもこの疑問を口にしなければ、同時に存在する自我が保てなかったのだ。もちろん、返答はない。互いに違う言葉を口にしたいが故に叶うはずもないのである。しかし、意識を内側に集中して落ち着こうと考えれば考えるほど、この状況に陥る現況の顔が思い浮かぶのだ。それは落ち着きを取り戻そうとしている身体には毒でしかない。それでも鮮明に思い出す。

 立場を入れ替えられた瞬間を、どうしてこんなことを始めようとしたのかも。


「どうして、私が」


 エカチェリーナは口元を汚したまま、とめどなく流れる涙を拭いもせず顔を上げた先にいたアンナの姿をしたアリスに問いかける。


「こんな目に合わなければいけないんですか」


 もちろん、こちらも返事が返ってくるはずはない。エカチェリーナも本来ならばアリスと対峙していることはわかっているはずだった。しかし、それに気づかないほどの混乱がエカチェリーナの中では起こっているのだ。だが、アリスもそんなことは知らない。

 だから、アンナの顔で、元凶が心配そうな顔で尋ねてくるのだ。


「大丈夫……ですか?」


 エカチェリーナの狂いそうになる気持ちが形をなして周囲を巻き込むのは時間の問題だった。


◇◆◇◆


 この中で最も外野にいるのはタチアナだった。おかしな話ではあるが無関係な一般人というワードが脳裏をよぎるほどに蚊帳の外さがあった。そんな彼女だからだろうか、状況を最も広い視野で確認できていたのかも知れない。場違いにも程がある緊張感のない声で煽り散らかす純。そんな純に計画を失敗に持ち込まれた上に重なる煽り文句に身体を温めるアンナ。そんな二人の会話を聞き逃すものかと耳を傾けるリュドミーナ。一方で戦いも不完全燃焼な上に知らされていない事実を耳にし、挙げ句説教までされ徐々に怒りが全面に出てき始めている紘和。そして何故か一人合点がいったような顔をし、この場から改めて引き上げようとしている陸。

 さらにそんな状況の更に外で気が狂うほど泣き叫ぶエカチェリーナとそれを心配そうに見つめ続けるアリス。


「どんでん返しがすぎる。やってらんねぇ」


 タチアナの素の声が、仕事を抜きにしたただ一人の人間としての感想が漏れる。もちらん、誰かの耳に聞こえることのない小さな小さな小言だった。しかし、そんな彼女すら結局は関係者だと言わんばかりに混乱は混ぜて乱れる字のごとく、巻き込んでいく。

 意を決したように培養基に近づくアンナも、それを楽しそうに見送る純も、それに虚をつかれたようなリュドミーナも、ふざけるなと激昂する紘和も、忽然と姿をくらましていた陸も、より大きな声で絶叫し始めたエカチェリーナも、そのエカチェリーナに首を両手で突然締め付けられて驚くアリスもタチアナにとっては、もう理解の追いつかないどうでもいい案件に見えてきたのだ。


「まぁ、一周回ってこうでもしなきゃってことなのかな」


 しかし、この小言には明らかに反応があったことをタチアナの視界は捉えた。どうして分かるかと聞かれれば、親指を立てた純の笑顔と目が合ったからだ。そして、今なら紘和や友香の抱く純という仲間に抱くよくわからない感情がわかるような気がした。

 そう、タチアナはこの時、ロシアのため、合成人の敵討ちのためなどに関係なくただの私情で、ただひたすらにむしゃくしゃしたという単純な理由でフクロウへと変身し、純に襲いかかったのだ。


「う~ん、この状況でも上司を守るために時間稼ぎをしようと突っ込むタチアナさんは、部下の鏡だね」

「違いま……ちげーよ、死ね」


 タチアナの軽やかな飛び蹴りを、出てきた右脚を易々と掴んでみせる純。火中の栗を拾うとまでは言わない。それでも混乱は人の感覚を麻痺させる。

 それはただの一般人ではなく、れっきとした関係者とさせてしまうまでに。


「よくやった、タチアナ」


 アンナの声がする方向からガラスの割れる音がするのはほとんど同時だった。そして、その場にいた誰もが、ライザが入っているであろう培養基が飛散したものだとその破砕音に直結させる。

 視線が集まる先には実際砕けた培養基からまるで生き物のように、ミミズが這うように何かを探して動き回る血液とガラスの破片、放り出されうつ伏せに倒れるライザの姿があった。


「いや~、ほんといい仕事だよ、タチアナさん」


 アンナではなく純がボソリとタチアナにだけ聞こえるようにそうつぶやく。そんな中、血液がある一方を目指して移動を始めた。それに呼応するようにライザの身体がぬるりと粘性を持つ赤い液体の中に起き上がる。

 そして目覚めたライザは無言で培養基から離れていく血液を大きな音をたてながらすすり始めるのだった。

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