第三十八筆:ロシュツ

 ライザとエカチェリーナを追っていたアリスがその先で目撃したのは、赤い液体で満たされた培養基があちこちに設置された一室だった。光量が少なく、培養基の赤が映える空間だからかより不気味という感覚を目で感じさせられる場所である。そして、そんな培養基の中心に唯一人が入れられているものがあり、その構図からこれらが生命維持装置の様な役割を果たしているようにアリスの目には映った。また、ゴウンゴウンと機械の稼働音が低く鳴り続ける環境は姿を隠しているだけの身からすれば、気配や足音をかき消す要因として優れている一方で、視覚的に感じた不気味さを聴覚でも煽られている様だった。

 そんな雰囲気に飲まれながらアリスは注視する。中央、人が安置されている培養基の中にはアンナがいる。タチアナの誤解が正しければ、今のエカチェリーナにはアンナがライザに見えているはずである。なぜこの様な状況が出来上がったのかは未だに謎だが、隠しているという事実はアリスにとっては大きなアドバンテージであった。

 アリスには現在、三つの選択肢がある。一つは付与されている【雨喜びの幻覚】を活かした不意打ちである。これは奇襲を成功させるという点では確実だが、一撃で致命傷以上のものを与えなければ【漆黒極彩の感錠】とロシアの右手ナンバーワンの未知の能力が襲ってくることになる。つまり先制に失敗しても倒し切る気概と実力を求められる。

 二つ目は相手の未知の部分を我が物にするために姿が認知されないことを利用し、DNAの回収をしてしまうという手である。今取得しているDNAより優れているかはさておき、今までに取得した合成人のよりは重宝する可能性が高いのでやれるならやっておきたいが、こちらも取得しかできないため結局純粋な戦いを強いられる。

 そして、三つ目が先程のアドバンテージを活かした初動となる。それは前に挙げた二つの作戦の要である【雨喜びの幻覚】を有効に活用しないことで真価を発揮する。要するに、ロシア側に真実である疑念を植え付けるということである。仲間割れが誘発できれば御の字で、それが出来ずとも疑心が互いの意思疎通を鈍らせることには繋がるだろう。嘘をつかれていた、裏切られていた、それは信頼との落差があればあるほど動揺はするはずなのだ。仮にポーカーフェイスがうまかったとしても、人の顔色を伺っていたアリスはそういった微妙な変化に敏感に察することができる自信はあった。だから、成否を確認し行動することは容易で先二つの訪れる戦闘に優位性を継続してながら行うことができるのである。

 だからアリスは先手必勝とまずは攻撃的優位を活かす手段を選び、拳を掲げ走り出した。後者に関しては一つ目の作戦が失敗した後でなんとでもなるからだ。だったらライザを殴り、合成人としての能力を頂戴した上で動いた方が得策だと判断したのだ。選択肢は有利なものから消化していく。

 全部乗せである。


「なんで」


 しかし、結果は思わぬ方向へと転がっていく。ライザとエカチェリーナがアリスの初撃をかわしたのだ。だから、成功が約束されたと思っていた不意打ちという初動が失敗したことにアリスは疑問と驚きの混じった声を上げたのだ。

 一方、衝撃を受けつつもアリスは敵の反撃に身構えようと意識だけは即座に切り替えていた。未知の敵であることはもちろんだが、好機が一転するのはこの短い間に経験してきてはいたからだ。しかし、体制を立て直し敵を見据え直した後、再び不思議な光景をアリスは目撃した。ライザとエカチェリーナがアリスという敵対勢力の位置を把握できていないということである。それは、二人が何かを探すように周囲を見渡していることからわかった。目と鼻の先にいるはずのアリスを捉えられていない、つまり攻撃はかわされたが【雨喜びの幻覚】の恩恵をアリスはまだ受けているということになる。

 では、どうやって回避したのか。どちらかの持つ何かしらの力に新人類の未来視に近い能力があるとアリスは推測した。突拍子もない推測かもしれないが身近にそういった例があるからこそできた推測。それを裏付ける理由を挙げていくなら、初撃をくらった未来を見たからこそ攻撃に対して回避できたが、反撃はできないこの状況ということである。つまりここからは、どれぐらい先の未来が見えているのかを確かめる必要があると思い、不意の一撃ではなく、連撃を加えるように立ち回ろうと決めた。検証のため初動は同じく、と拳を再び掲げて殴りかかろうとした。だから、拳がそれ以上前に進まないことにアリスは気がついたのだ。ライザもエカチェリーナも何かをしたようには見えない。しかし、同じ動作から繰り出そうとした攻撃は放たれることは無かったのである。失敗したのだ。


◇◆◇◆


 エカチェリーナは【雨喜びの幻覚】という力の脅威を初めて実感していた。敵の追撃を想定し、【漆黒極彩の感錠】の警戒を展開していた。ルチックの感情の輪の十六のうちの一つ、警戒。この能力により、先の未来、具体的に三分先の未来までを任意で取得することができる。だから何者かに何かをされて吹き飛ばされるアンナの姿を確認でき、共に回避の行動に移ることが出来たのだ。だが、この万能な能力を持ってしても反撃できないという点が、蝋翼物が神格呪者を上回れないということなのかと認識する。見えない敵、それを【雨喜びの幻覚】と判断し、友香か誰かが追跡してきたと断定するには十分だった。

 だから、エカチェリーナはこの不利な状況を少しでも打開するために失望を発動させた。これは以前、純を相手にした時にも用いた、一回目の成功した動作と同様のものに対して二回目以降のその動作を失敗させるという力である。残念なことに対象とした人間の動作は二十四時間しか記憶できないため、長期的に持続して完封するというわけにはいかない。しかし、動作を制限していくという性質は確実に有利を作り出すことができる。失敗するから次の手を出す。それは数を重ねれば重ねるほど悪循環を招く、はずだった。しかし、純と戦って、常人でない人間にはあまり意味をなさないことを学んだ。つまり、同様の動作も支点や角度を変えることで多様性をもたせ対処できると知ったのだ。だからエカチェリーナは油断していない。今戦っている相手が純、もしくはそれに付随する人種ならばこの程度の能力の総力ではツメが甘いからだ。エカチェリーナは躊躇なく、積極と激怒も発動した。


◇◆◇◆


 なぜ行動が制限されているのか、アリスにはわからなかった。しかし、見えないというアドバンテージがすべての失敗から動揺を消し去ってくれるのも確かであった。事実、アリスは身体が動かなくなったわけではないと体勢を低くできたことで理解し、落ち着きながら次の手を考えていた。考えていたと言っても攻撃しなければという考えが先行していた分、そこまで気の利いた攻撃を組み立てられたわけではない。見えないアドバンテージがある上で、死角からしっかりと反撃の取られない形で一撃を入れよう、そう考えたのである。そして、その一撃は見事エカチェリーナに阻止され、今度は吹き飛ばされることとなったのだ。


◇◆◇◆


 積極は間に割って入る。今回ではアリスの攻撃が来ると警戒でわかった次点で、その瞬間に合わせて無理やり干渉したのである。そこに激怒、物理攻撃に限定されるが、必ず打ち勝つことができる力を乗せてエカチェリーナは迎撃したのである。結果、何かを吹き飛ばしたという手応えがエカチェリーナの判断の正しさを証明した。ここでいう物理攻撃というのは触れることのできるものに限定される。つまり、相手が紘和のような蝋翼物の所有者であり、光線や対象に異変をもたらす異能などだった場合、激怒は意味をなさないことになる。しかし、初撃を食らう時に見た未来の映像では頬を殴打されて吹き飛ばされるような光景であったことから、ここに潜んでいる相手が紘和以外だと想定したのだ。あれだけ障害を退けることに躊躇ない人間の一手にしては【最果ての無剣】を使用しないのは生ぬるいという、敵を正当に評価した上での判断だった。

 ちなみにこれだけの能力があって、以前の純との戦いではなぜ披露しなかったのかという疑問もあるだろう。表面上の言い訳としては、能力を公開することのデメリットが大きいという点であったが、実際のところは使用していた。純が気づけなかったのは、警戒で未来をみようが、積極により無理やり間合いを歪ませ割り込まれようが、激怒によって連撃の一部に勝ったところで覆らなかったという単純な、つまり、純の戦闘能力がエカチェリーナの敗北で帰結する未来が覆せなかったというどうにもしようのない理由だった。

 だから、エカチェリーナはここまで順調に出し惜しみをせず、不利な局面を有利な状況にまで持ち込んでいた。そもそも培養基の中にいる一つの可能性を失うぐらいならば、これぐらいのことは当然の出費と言っても過言ではない。故にどれだけ手の内を見せようと守り抜く、エカチェリーナはそういう気概で臨んでいた。たとえこの時点で紘和でもましてや純でもないとわかっていても、だ。


◇◆◇◆


 さすがのアリスもついには迎撃されたことに対して姿が見えないというアドバンテージに、アドバンテージを感じなくなっていた。念には念を入れて死角を、と反撃を決めにくい位置から攻撃を放ったにも関わらず、まるで無理攻撃を迎撃できる場所に割り込んだ様に、急にエカチェリーナがアリスに向き直り、なおかつ圧倒的なパンチ力で吹き飛ばしたのである。恐らく純の言っていた十六の感情をベースにした【漆黒極彩の感錠】のいずれかの能力なのだろうが、その詳細を一切知らないアリスは座り込んだまま、未だにアリスの姿を捉えられていないエカチェリーナとライザをただ見ることしか出来なかった。見えない対象にも自動追尾ができるのか、それとも【雨喜びの幻覚】にそもそも欠点があるのか、それとも【雨喜びの幻覚】に対して一時的に看破できうる手段を持ち合わせているのか。

 可能性は様々だが、確実なことも一つあった。間違いなく、今のままではアリスの攻撃は全て撃ち負けるということである。せめて、純か紘和のような身体があれば過去に得た技術でなんとかできたのかも知れない。しかし、現在得ている合成人の身体では骨格の違い、元の人間で考えればなおのこと再現させるには足りないスペックだった。

 どうすればと考える。二人を見つめながら自分ができる最善を考える。そして、考えている時にふと違和感に気づいたアリス。焦っていると時間を短く感じることがあり、視野が狭くなる。だから違和感と思っていたものが赤信号だということに気づくまでにアリスは鈍い一撃を食らうことになる。エカチェリーナとライザの二人と視線が合っていたのだ。敵の視線が今までのように探すように揺らぐことなくまっすぐと合い続けていたのだ。

 それは【雨喜びの幻覚】が【漆黒極彩の感錠】により突破されたと思うよりも先に、友香の身に何があったのかわからないが第三者に対する【雨喜びの幻覚】を解除したとアリスに思考させた。


「覚悟しろ、新人類」


 エカチェリーナに殴り飛ばされたアリスは瞬時にストックしていた合成人に変身し、硬い身体で防御力を高めることを優先した。同時に、頭の中では心理作戦として用意しておいたライザとアンナの入れ替わりを暴露する準備をシミュレートしていた。ジェフと強くなって再会するために死ぬ訳にはいかない。だから、ありとあらゆる勝利への可能性をアリスは掴もうとする選択を瞬時にし続けられるのだ。


◇◆◇◆


 陸は友香と接戦を演じさせられていた。これならば、まだリュドミーナと戦っていた方が気が楽だったという話である。この場の誰もの推測通り、陸は友香を殺すことはできない。理由は二つあり、一つは自らがこの神格呪者という呪縛から開放されるため。そしてもう一つが、【想造の観測】を使う上で内に格納している優紀を制御するためにあった。互いの最終目的の利害が一致しているためなんとか体をなしているこの関係が、友香への過度な攻撃が認められるとその途端に優紀の理性が陸の理性を飲み込んでこようとするのだ。恋に焦がれた相手を守ろうとする気持ちが目先にとらわれてしまうという最悪の状況が待っているのである。恐らく優紀も最終目標に到達した方が良いのはわかっている。それでも壊れかけた心が、愛し続けたという年月が優先順位をたやすくひっくり返してしまうのだ。

 だから、致命傷でなくとも鮮血を飛び散らせる様な攻撃は控えなければならない。だが、友香はそういった事情を当然知る由もなく、大切な者を取り返すために死に物狂いで攻撃してくる。イギリスの時のようなためらいがなくなっているのがその証拠で、陸の致命傷となる部位をためらいなくボールペンで突き立てようと攻撃を仕掛けてきていた。友香の見えない一撃を見えるようにした上で、手を抜く、それでいて、こちらは友香に敵意があり倒そうとしているように見せかける必要がある。矛盾めいた戦いを強いられる陸は息苦しさでいっぱいだった。せめてもの救いがあるとすれば、友香が【雨喜びの幻覚】を自分以外に用いて戦闘をこの場では行っていないことである。これは、ライザとエカチェリーナを追う【雨喜びの幻覚】が付与された状態のアリスの姿を確認しているため間違いない。仮に何か、誰かを【雨喜びの幻覚】に巻き込んで挟まれるように戦われていたら、現在の陸では【想造の観測】でどこまで対応しきれるかわかったものではなかった。同時に、この行為が、友香はまだ壊れてはいないという証拠だった。確かにリュドミーナを背後から攻撃したことには驚いたが、それでもまだ他者を重んじる余裕があるのである。

 そんなこんなであの手この手で攻防を繰り広げる。


「君じゃ絶対俺には勝てない。そろそろ死んでもらうよ」


 そして、陸は視界の端に陸にとってもの援軍を確認し、ようやく殺しにかかっても問題ないと判断するのだった。


◇◆◇◆


「あれ、どっちが勝つかな」

「どうして止めるんだ」

「恋人奪った張本人だよ。一死報わせてやりたいじゃん? 彼女と別れたばかりのお前なら少しは愛のために、なんてことがわかるんじゃないの? イギリスでは出来なかったわけだし、ここいらで発散させないと、ね。あっ、もしかして追いつかれたことで若干消化不良に感じてる? ごめんね、追いついちゃって。でもやりたい相手はこの先にいるから我慢我慢」


 発散させなかったことを棚に上げて語る純に無言でゴミを見るような視線を向ける紘和。

 リュドミーナの分裂体の案内で本体のいる場所までたどり着いたが、すぐに加勢するのを純が制したのだ。


「えっと、普通に本体を助けて欲しいのですが」


 リュドミーナの分裂体が素直な意見を言う。そんな危機感のない会話を聞くタチアナ。

 しかし、随分とこのノリにも慣れたものでタチアナ本人は、どうにかなるんでしょという気持ちで純を見つめるのだった。


「それじゃぁ、紘和はこれ持って奥の隠し通路からライザとエカチェリーナを追っかけてよ。多分、人体実験の成果を持ち逃げしようとしてるから、ぜひなかったことにしてくれ。あぁ、その小瓶はアリスちゃんに渡してやってくれ」

「ライザは大将首として、その研究成果であろう培養基の中のアンナの首も落としていいってことなのか?」


 紘和は純から血液の入った小瓶を受け取ると、任務の変更を確認する。


「……そうなるかどうかはお前が間に合うかどうか、いや、お前たちが間に合うかどうか、なのかな」

「随分と歯切れが悪いな。そんなに大切なことならお前が行けばなんとかなるんじゃないか?」

「お前はカレーを作る時にシチューの元を入れるか?」


 純の質問に答える者はいない。意味はわかる。物事には順序があるのだと言いたいのだ。例えて伝えようとするところに神経を逆撫でるものがあるが、そこに引っかかっていては話が進まないこともまたわかっている。しかし、わかっていてもわからないのである。なぜその過程が必要なのかが、である。

 もちろん、それを尋ねたところで確実に答えが返ってこないこともお約束であると無駄な意思疎通が出来ていることも火に油を注ぎながら酸素を供給するようで腹立たしさ増々であるのだが。


「それじゃぁ、桜峰さんを任せたぞ」

「まぁ、ここで死なれちゃ困るしね」


 この時、タチアナだけが一つ先の疑問を抱いていた。それは、純のそばで異質さを第三者という距離間から新鮮に捉え続けた故に直感的に導き出すのは自然のことだったのかもしれない。

 純が死なれて困るのは、果たして友香なのか陸なのか、それとも……。


「いくぞ、最後の大仕事だ」


 純の掛け声と共に全員が動き出した。


◇◆◇◆


 友香は陸の拳から明確な変化を感じ取り始めていた。突然、殺気を帯び始めたのだ。それはまるで何かのタイミングを図っていたかのように、である。友香には【雨喜びの幻覚】の副作用によって視線やそれに付随する自身に向けられる何かに対する感受性が他者よりも高くなっている。もちろん、無意識で無差別に対象を捉え続けているが、本人の意思で絞ることもできる。特に今は死闘を覚悟している他に、自分にしか【雨喜びの幻覚】を使用できないという縛られている状況下故、索敵感知範囲を限りなく狭めている。だからこそ、陸の変化に気づくことが出来た。つまり、陸にとって早々に決着をつけなければまずい状況が生まれようとしていると友香は解釈したのだ。では、その要因となりえそうな事、人物は。チラリと視線を動かすと純たちが近くまで来ていることが確認できた。それは同時に、友香にとってもサシの邪魔をされる最悪な状況を意味していた。


◇◆◇◆


 陸はなかなか現場に踏み込んで来ない純たちに苛立ちを覚えていた。それは純が近くに来て以降、友香の動きのキレが増したことにより本気の度合いが変わったのが原因である。その猛攻に陸はくしくも数回の殴打を手加減なしに加えてしまっている。もちろん友香も直撃を【雨喜びの幻覚】で【想造の観測】に割り込んでいるため致命的にならないように避けたり軽減させたりしている。しかし、押さえつけている優紀の堪忍袋がどこかのタイミングで切れてしまうのではないかと思われる立ち回りをしてしまったことが、ここでは一番の問題だった。

 純という人間を知っていれば、この焦らすような行為がわざとかと疑いたくもなる局面だが、神格呪者というおもちゃが壊れてしまうのをただ眺めるという選択はありえない。そう思える側面もあるだけに、真偽を測りかねていた。最終的に陸が視界の端に捉えて三分後、純たちが飛び出してくるのだった。


◇◆◇◆


「ゆーちゃん。アリスちゃんに使ってる力はもう解除してくれていいよ。これからこいつが助っ人として向かうから」


 陸と友香から見える位置に飛び出した純は大声でそれだけ言うと隣で軽くはねて身体を温めている紘和を指さした。誰が見ても準備万端の戦闘態勢を彷彿とさせ、助っ人としていれば必ず戦果を残してくれるだろうという安心感のある姿である。

しかし、友香は能力を解除はしなかった。


「それは、紘和さんの姿が見えなくなってからでも遅くはないですよね」


 紘和がアリスの元についた次点で解除することには問題がない。問題は今解除してしまって紘和が間に合わない可能性だった。最悪の場合、純の仕込みで紘和を行かせない可能性だってある。アリスの安全を考えるならばこれぐらいの用心はするに越したことがない。

 事実、紘和は未だに移動を開始していない。


「だってさ。ところで何してるの、紘和?」

「いや、レイノルズさんを心配するぐらいならここで全員で九十九を相手にした方が確実じゃないかと思って」

「え? 何、見捨てるの、仲間を。正気か?」


 その場の注目を一身に浴びる純に向けられた冷ややかな視線には、お前が言うか言葉も乗っているのがわかるほどだった。


「まぁ、俺が正気だとすれば紘和、お前の選択は大いにありだ」


 純は口の端を上げながら続ける。


「ただな、それは正解じゃないんだよ。お前が強者を求めて戦いたい気持ちもわかる。だけど、今回の目的はそこにいる神格呪者の始末じゃないだろ? いいか、助けるためじゃない、任務遂行のために動くんだ。わかったら行け。正直、お前は邪魔だ紘和」

「気に入らねぇな」


 紘和の味方と呼べる存在にはなったにしては怒気を孕んだ一言は、周囲の人間を敵味方問わず萎縮させてもおかしくないほどにむき出しの感情だった。それは唯一人を除いて、次の行動までのタイムラグを発生させた。紘和はこの一瞬のスキを逃さずに走り出していた。結果的に生じた状況を刹那の判断で有効利用したのだ。しかし、陸にとっては視認するだけである程度行動を制限することができる。認知した状況を想像で上書きし、現実とさせる。

 それだけだと意識したのと同時に頭部を掴まれたのは同時だった。


「残念」


 敵意をむき出しにされた張本人だけが、紘和のアドリブに寸分の迷いなく付いて行き、陸の顔の向きを無理やり紘和のいない後方に向けたのだ。結果、陸の視界にはどんな気分?と煽りたそうにした顔の純が映し出される。本気を出した所で軽くあしらわれる存在、そんな陸にとって好都合な化物が神格呪者と合成人と共に襲いかかって来たのだった。


◇◆◇◆


 エカチェリーナの物理攻撃がアリスに届くことはなかった。あれだけの威勢を放ちながらもロシア側は下がったのである。

 しかし、その理由は背後からすぐに現れる。


「大丈夫そうで何よりだ」


 全く心配した雰囲気のない言葉が投げかけられたのだ。紘和の登場である。言葉の端々から漏れる苛立ちの原因をもちろんアリスが知らないが、きっと純に何かされたのだろうと予想できるのは短い付き合いながらも嫌な順応だと感じた。

 一方でそんな思考が出来ることに、何よりも戦闘面では頼れる援軍の到着にアリスは内心安堵していた。


「それと、友香さんの汚名を晴らすために言っておく。彼女は私がすぐに君の応援にかけつけると言っても能力の解除は即座にしなかった。つまり、こうなる状況が出来上がるまで君を護ることを選択していた」


 そう言った紘和の手から小瓶がアリスへ投げ渡される。


「だから純から渡されたそれを飲んで、彼女のために生きて帰り意味があったと証明してやれ。そうすれば私怨で解除することになった力に対する罪悪感も少しは和らぐことになるだろう」


 もちろん、敵を前に全力を出そうとした友香がその時点で罪悪感を抱ける精神状態にあるかは不明瞭だった。それに、アリスは手にした小瓶を手に作戦中に言われていたとっておきがこれなのだろうと思い見つめる。何に成りすませるかわからない、そもそも赤いだけで血液ではない可能性もあるという普段ならしてしまいそうな純への不信よりもこの場を乗り切ってみせるという強い気持ちが中途なく小瓶の蓋を開けさせた。そして、躊躇いなくアリスは体内へと吸収させた。即座に取り込んだ人間の力をアリスは表に出した。その姿はこの場の誰もが既に目にしている姿、アンナだった。

 まだ自身が何に成りすましたのか理解していないアリスは敵対する顔を見てよほどロシア側が驚く姿になっているのだと思いながら培養基に反射した自身の姿を確認するのだった。


「なるほど。驚くのも無理ないわね」


 アリスは勝ち誇ったような顔で両手を胸元の高さまで掲げ、拳を作ったり解いたりした。


「誰にとってもサプライズじゃない」


 驚く者を置き去りにアリスは動く。それに合わせて紘和も前進する。神格呪者と新人類、さらに合成人のタッグマッチが今、始まった。


◇◆◇◆


「今頃向こう側では混乱の種が蒔かれてるんだろうなぁ。楽しみだなぁ。なぁ?」

「俺との戦いじゃ身が入らないってこと?」

「まぁ、三対一だしねぇ」


 友香を主軸に純とリュドミーナの分裂体が陸を襲い続けていた。

 タチアナは友香によって負傷したリュドミーナ本体の手当をしながらその行く末を見ていた。


「そうは見えないけど」


 純の言葉を真っ向から否定する陸。事実、陸の言葉の通り陸の敵とも言える存在の練度はお世辞にも褒められたものではなかった。友香の殺意は周りを気にしないものであり、純にはまだ仲間意識があるのでそこまでではないが、リュドミーナの分裂体に対しては容赦なく陸との対角線上に挟まれてもそのままボールペンを突き立てる勢いを失わせることはなかった。

 一方の純も陸か友香のどちらかが不利な展開に持ち込まれた時のみ割って入るという意味のわからない行動をとっていた。


「どうしてさっきから邪魔ばかりするの」


 友香がそう感じるのも無理はない。

 純が介入してから現在、体力の消耗だけしつつ誰も一滴の血をこぼしていないのだ。


「それじゃぁ、もっともらしい理由を一つ」


 純はそう言うと友香の背後に回り込んだ。そして気絶させるつもりで手刀を放つ。もちろん、この害意のある攻撃は【雨喜びの幻覚】によって友香を自動的に対象から外す。そして当てるべき対象を見失った右手をそのままに純は迷いなく振り切る。

 すると陸の首元を純は鷲掴むことに成功していたのだ。


「まぁ、不老不死だから死ぬことはないんだろうけど。仮にさ、この人類最強の俺がこんな感じで殺し続けたとしよう」


 その場の誰もがあっさりと陸に攻撃を届かせた純に驚く。特に陸からしてみれば【想造の観測】を百パーセント引き出せる状況にないとはいえ、こうもあっさりと純が陸を信じたことに驚かされたのだ。そもそも現状、友香の【雨喜びの幻覚】はほとんど機能していない。それは【想造の観測】によって友香の姿は捉えられるモノ、つまり神格呪者ではなくただの女性という認識を友香に上書きしているためである。ただし、【想造の観測】を意のままに扱えていない故に第三者にかけた力の解除までは出来ずにいた。そのことは変わっていない。そして、この変わっていないことが現在の陸の窮地を生み出すのだ。つまり、【想造の観測】による友香に対する上書きを解除しない限り、友香が意識を失ってしまうからである。そうしなければ、陸は陸自身をうまく制御できない、優紀が主導権を握る可能性があった。それを純は言葉にしないだけで疑っていないのだろう。

 躊躇いなく友香を傷つけることがそうならないと確信して陸への致命になりかねない攻撃を届かせたのである。


「そしたらさ、死んじゃうかもしれないじゃん」


 支離滅裂な言動のはずなのに誰もが一瞬そうなる可能性を頭によぎらせてしまう。そして、純はつまるところ、こうした心理戦を絶対のものとして陸に襲いかかったのだ。

 陸が友香をかばうことをだ。


「もちろん、死なないだろうし、そもそも殺しは俺のポリシーに反するからありえないんだけど……ゆーちゃんからしてみれば、彼氏を救い出す手段に全く見当がないまま俺が終わらせてもいいものかと考えてしまうわけだよ」


 陸を投げ捨てた純はゆっくりと友香の方に振り返る。


「ご理解いただけたかな?」


◇◆◇◆


 傍から聞けば今の純の言葉は自身がこの場の戦いを終わらせるだけの証明という大きな暴力ですべての疑問を受け付けないとでも言いたげの圧力を放ったように感じるだろう。しかし、友香は純に核心をつかれていると思った。端的に邪魔をするも何も、友香に殺すつもりで傷つけようとしも死なないから出来るだけであり、不死でなければ本当に殺すつもりがないのだから邪魔もクソもないと言ってきていたのだ。事実、優紀が生きている可能性を捨てられるほど友香も考えなしではない。だから、あれだけ覚悟を決めても本当に戦って何か解決させるつもりだったのかと言われれば、陸との力量差に甘えてもやもやしたこのやり場のない感情を少しでも晴らそうとしていただけだった。つまり、問題の先延ばしをしていたに過ぎなかった。

 だから友香は純に何も言い返すことが出来なかった。


「で、本音はアンナの研究成果が出るまでの時間稼ぎだけど。お前は目的の物は手に入れたのか?」


◇◆◇◆


 陸は引き際を察する。状況が不利というよりかは、これ以上ここにいても特に収穫がないからである。純の言う目的の物、【環状の手負蛇】を用いた合成人の精製方法に関する資料はすでに手に入れていた。正直、ここまで一人で来ていた友香の安全が皮肉にも純がそばにいることで成立している以上、下手にボロを出す前に逃げることが得策と判断したのだ。より正直なことを言うならば、あの純の何かに待ち焦がれるようなキラキラした瞳から逃げたいというところだった。恐らく、何かを仕込んでそれが開花するのを待っているのだろう。その時間稼ぎが今である。

 そして、この時間稼ぎへの参加は友香と対面する目的もあったが、ロシア側の思惑成功への邪魔者の足止めも目的であったことから研究資料の見返りの延長料金代としては十二分に働いたと言えるだろうと陸は思ったのだ。


「目的? お前の狙いもそれか?」


 陸のそれとない問いに純は答えない。

 代わりに純はリュドミーナの方に振り返り質問した。


「なぁ、ロシアの右手ナンバーツーのリュドミーナさん。俺がイギリスで頼んでおいて例のDNA、あの小瓶の中の血って誰のだっけ?」


 リュドミーナは純の質問の意図がわからないと言った顔で答える。


「エカチェリーナさんのですよね? そう頼まれていましたから」


 純はその答えに満足したのか、改めて後退を始めていた陸に問いかける。


「気にならない? アリスちゃんが何になってるか?」


 同じ言葉なのに全く違う事柄を刺していたのだと理解する。だから陸は純の質問に動きを止めた。答えはエカチェリーナであるはずなのだ。しかし、純の言い方ではエカチェリーナでない何かに変身していると汲み取ることができる。それは陸の知らない何かがここで行われていること。今まで陸がエカチェリーナだと思っていた者が違うということ。

 つまり。


「俺が手に入れたものは本人から受け取ったものではない、ということか」


 【想造の観測】は絶対の能力である。しかし、最初から疑問にすら思わなければ改変を上書きすることすら叶わない。それは報酬を受け渡したエカチェリーナが誰であるのか、そもそもこの合成人の精製方法が本物かどうかも疑わしくなるということである。

 陸は純の嫌なペースに飲まれているとわかっていながらも引けない状況であると認識したのである。


「さぁ、もう少し遊んでくれよ。神格呪者諸君。いつかたっぷり礼はするからさ」


 この上なく不穏とわかるものがすでに空っぽのはずのパンドラの箱から姿を現そうとしていた。

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