第三十七筆:ゾウフク

「本当に見えてないんですね」

「正確には視界に入っていない、認識の外に強制的にいる、だけらしいですけどね」


 アリスと友香は二人で基地内を散策していた。万が一に戦闘が発生しても大丈夫なように戦闘慣れしているアリスが先頭を行き、安全を確認しながら後ろから友香が付いてきている。とはいえ、【雨喜びの幻覚】で安全はほとんど保証されているためポーズでしかなく本当に万が一、である。

 先程の会話は能力の確認と際して、そんな暇を潰すために敵兵の前で手のひらをヒラヒラと遊ばせたアリスの問いに対する友香の答えだった。


「だから攻撃を当てれば誰かがそこにいることは推察されるし、そこから適当に攻撃されれば負傷する可能性だってあるの。だから万能とは程遠いわね。でも、私みたいな人間にはこのぐらいでも充分過ぎるほどの力、だけどね」


 アリスは誰の目から見ても充分凄いというツッコミをしたい衝動を堪える。


「でも不思議ですよね。そんな力を持つ人のことを神に呪われたみたいに呼ぶのは。どちらかといえば、選ばれた、愛されたって感じがしますけど、この呼び方を考えた人はどんなつもりでそう呼び始めたんでしょうかね?」


 アリスは今の世間話に返事がないことを疑問に思い、後ろから付いてきているであろう友香の方へ振り返った。そして、アリスは地雷を踏んだことを理解する。どこが地雷だったのかと問われれば、恐らく持つ者に対する配慮が足りなかったであろう言葉を選んだこと。しかし、どうしてそれが地雷に成り得たのかは持たざる者には到底理解できるはずもなかった。友香の目からハイライトが消えたような雰囲気を、明らかに纏う空気が重くなるのを感じさせられたのだ。


◇◆◇◆


 友香はアリスの言葉に神格呪者がどれだけ的を射た言葉かを思い返す。この力がなければ優紀は自分に縛られることはなかっただろう、優紀が友香に変わることはなかっただろう、優紀が自分のために奮闘することも困惑することも、ましてや殺され魂を縛られることもなかっただろう。そう、こんな自分を相手に刻み込んでしまうような力さえなければ優紀は間違いなく、いつか前を向いて歩けるようになるはずだった。

 もちろん友香は優紀と付き合うことになったのも、一瞬でも再会できたのも神格呪者であったからではある。それへのありがたみが友香に決してなかったわけではない。それでも現実は常に張り裂けそうな悲しみで埋め尽くされ、いつ決壊してもおかしくない状況であった。天秤にかけたところで今の友香に幸運と不運が釣り合う落とし所はない。

 仮に神に愛されているならば、天秤の針は幸運に傾いていなければならないはずである。


「こんな力を授けた神様がいるなら」


 友香はアリスを真っ直ぐに見つめて宣言する。


「私はこの力で神を殺す。私の愛を邪魔した……邪魔する最大の敵として」


◇◆◇◆


 アリスが今までに聞いたことのない友香の小さく低い声が、はっきりと耳の鼓膜を振動させていた。友香の覚悟が本気であることと愛に対する異様な重さが浮き彫りになる。

 だからこそ次の言葉を慎重に選ばなければとアリスは思ったのだ。


「ごめんなさい、つい」


 しかし、先に口を開いたのは友香だった。

 我に返ったのかアリスのことを気遣うような言葉を投げかけてきたのだ。


「いえ、私もその……少し気になって……配慮が足りなくて、その、ごめんなさい」


 アリスは気の利いた言葉を持たず、もごもごとただバツが悪い様に振る舞うことしか出来なかった。


「多分、神格呪者って呼び始めたのは九十九陸っていう人よ。私のキューピッドでゆーくんの親友、そして私の……探している人」


 友香はその場の空気を戻すように穏やかにアリスの質問の意図を汲んだ話を絡めて喋り出す。


「もちろん、本人から直接名付け親だって聞いた訳じゃないけどね。でも、きっと、彼ほどこの力を恨んでいる人はいないと思うの。だって、彼、死ねないから」


 ここから先、アリスは驚くほど友香の話を聞いていなかった。


「痛みがないわけじゃない。死ぬような痛みを、実際に死んで味わい続けてる。知っている人は必ず先に行く。友だちも愛した人も事故や老化で絶対に先に死んでしまう。きっと死ぬより怖いものが、彼にとっては生かされることだったと思うの。自発的に生きるわけでもないから。おかしいわよね、死ぬより怖いことが生きてることだなんて。でも想像すると私は怖くなる。生き続けなければならないということが、生き続けてわかるんだもの。だから、ジュウゴ君が……彼が皮肉を込めて名付けたんだと思うわ。もし、他に付けた人がいるなら、それこそ何かの物語の作者みたいな存在ね。だって、こんな名前よ。皮肉が過ぎるわ」


 そう告げた友香の敵とも呼べる相手に向けているであろう哀愁漂う笑顔も今のアリスにはどうでもよかった。理由は単純だった。あの時点で神格呪者は三人いて、一人は存在を限りなく薄くし、一人は不死ときた。あと一人の能力は推測できないが、今一番大切なのはこの完全無欠の力が三種類も存在し、アリスはその三つを扱い分けることが出来るということだった。そう、アリスが新人類として保持できる対象の容量は三人分。そして、神格呪者も三人。合成人の力が欲しいとここへ来た時は思ったが、それが馬鹿げていたように感じるほど成りすましという力が神格呪者を取り込むために備わった力のように、天啓のように感じられたのだ。

 まるでジェフの力になるための最高の異能が取り揃えられていたように。


「そう、ですね」


 濃縮された愛への狂気にアリスが添えることが出来たのは空返事、それだけだった。


◇◆◇◆


「真っ先に来るものだと思ってましたよ」


 純とタチアナが悠々と正門をくぐった先で待っていた一人の兵。タチアナは所属している部署が情報を扱うだけあって在籍している全ての兵を記憶していた。だからこそ警戒した。

 タチアナの記憶にない兵に。


「……いや、正直いらないから大人しく待っててくれればよかったんだけど。ほら、タチアナさんいるし。というか急用?」


 そんなタチアナが警戒した男を前に自然と話し始める純。


「明らかに警戒しています。正直、自分の信用もどこまであるかわかったもんじゃありません」

「それは、ライザが君に対して? それとも俺がお前に対して?」


 その質問に兵は口を閉ざした。


「黙ることはないだろう。前にも似たようなことして俺を喜ばしてくれたじゃないか。剣神と剣王を相手にさせたのもイザベラとラーヴァルと戦えたのも俺に取っちゃ大差ない。まぁ、それでもお前が黙ったということは……俺はお前を憐れむだけだよ。せっかく楽しいことを教えてやったんだ。俺みたいに余裕を持ってしてやろうぜ、なぁ?」


 タチアナは会話についていけていなかった。だからこそ状況証拠と相まって記憶にない兵が誰なのか頭の中で見当を付けていた。

 彼がロシアの裏切り者だとすれば、ライザとアンナの関係に気付ける合成人だとすれば導き出される答えは難しい話でもなかった。


「リュドミーナさん、なのですか?」


 タチアナの質問に目の前の兵は純の時と同様に答えない


「不思議だよね。どんなに頑張っても骨格が似てるから誰でも簡単にわかるもんだと思ってたけど、タチアナさんみたいな部下でも知らなきゃわからないのか。そりゃ潜伏もしやすい、か」


 タチアナの質問には純が答えた。

 そして、ようやく当事者が口を開いた。


「ここまでご苦労だったな、タチアナ。イギリスで共闘した時も純とはぐれた後もしっかりと働いていてくれたようで私も君のような部下を持てて誇りに思うよ」


 タチアナの前でリュドミーナが純に手を貸していたことを認めた瞬間だった。


「いつから、お二人は手を組んでいたんですか?」

「想像に任せるよ」


 タチアナはリュドミーナから答えが返ってきそうに無いと判断し、口が軽そう、もとい自分の反応を見て面白おかしくしたいであろう純の方を見て答えを尋ねた。


「二年前ぐらいに、紘和を使って利用してる。だから手を組んだと言われると誤解を感じるね。手を貸した、と言って欲しいかな。実際、こいつがいた方がことは運びやすいが、こいつがいなくてもことは運べたからね」


 純の言葉にリュドミーナの表情に不服の色が濃くなった。


「それじゃぁ、幕引きを、舞台に上がりながら見に行くとしますか」


 いつの間に移動を始めていた純はリュドミーナの肩をポンポンと軽く叩くと先へ進む。リュドミーナはその背中を無言のままに追いかける。そしてタチアナは数秒後に二人の後をついていった。即座に行動できなかったのは、少なくとも二年間、リュドミーナの指示の下に動かされていた自分が今までしてきたの意味を考え、それがまとまらなかったもどかしさからである。


◇◆◇◆


「外の様子はどうなってるの?」

「ニーナ、オーシプ、ラーヴァルを含め、ほとんどの合成人は戦闘不能です。襲撃者誰かがこの場に来るのも時間の問題かと」


 アンナの問にリュドミーナは的確に現状不利であることを伝える。


「天堂が近くまで来ている」


 そこへエカチェリーナが合流した。

 ニーナを置いてでもこちらと合流した方が勝算があると踏んでのことだった。


「ここで迎え撃ちますか?」


 リュドミーナの提案に即座に反応したのは陸だった。


「いや、ここで足止めをする者と地下の彼女を守る者に別れるべきだと思います。我々が束になれば戦闘力で負けても、戦略的には勝てる可能性があります。そもそも、俺からしても彼女の結果が気になるからここへ来たわけですので……目的を忘れずに行きませんか? 計画を邪魔しに来た彼らに報復するのは、時間の無駄だと思いますよ」

「それじゃ、足止めはツァイゼル、あんたに任せてもいいよな」


 若干喧嘩腰に命令したのはアンナだった。守るべき優先事項、決してわからなかったわけではないが、それでも外部の人間に時間の無駄をしようとしていることを指摘されたのが癇に障ったのである。先の作戦でも基地内に攻めてくる前に純たちを倒す算段だった。この段階ですでに失敗した時のことを考え、脱出を提案していたのは陸とエカチェリーナだったが、自らの戦闘力ならなんとかなると作戦を推し、結果として二人は納得していたのである。少なくとも蝋翼物同士がぶつかって拮抗しなければ、伝説上の武器に優劣がつくということになる。それぞれが対等以上の力関係でなければ蝋翼物という一つの名称でカテゴライズされる理由がないのである。しかし、結果としてこのありさまである。

 ならば提案者であり神格呪者という化物にこの場を任せて、提案の正しさを証明させようという、苦労させてやろうという意趣返しだったのである。


「構いませんよ。あなたたちがしっかりとしてくれるのなら」


 沈黙。

 先に口を開いたのはリュドミーナだった。


「では、私も残ります。時間を稼ぐならむいてますからね。一応、数人同行もさせますが、先へはエカチェリーナとアンナとで向かってください」


 みながうなずくとすぐに行動を始めた。

 そして突然、彼女は姿を現した。


「会いたかったわ、九十九」


◇◆◇◆


 エカチェリーナの姿を基地内で見かけた友香はその先に何かあると感じ、アリスと共に尾行していた。そして、入った部屋にはエカチェリーナとライザ、知らない顔に陸がいたのだ。そして今すぐにでも行動を起こしそうだった友香を止めたのはアリスだった。単純に様子を見たかった、それだけの理由だったからこそ友香を静止するためアリスの右手は友香の右肩をタップできた。振り返る友香の目を見つめてアリスは顔を横に振る。真剣な眼差しで無警戒の情報を聞き出せるチャンスを棒に振ってしまうのかと訴えかける。友香も頭で考えていること、やらなければならないこととで身体が噛み合っていないことは理解していたのだろう。だからこそ身体を小刻みに震わせながらも深呼吸すると、友香は落ち着きを取り戻したようにその場に立ち留まったのだ。

 しかし、友香の想いは理性で長時間押さえつけられるものではなかった。その結果が先程の登場である。もしかしたらまだ待ち続ければ何かこちらに有益な情報を聞き出せたかもしれない。敵がしっかりと分散してから姿を現せば数的不利は確実に避けられただろう。名乗り出なければ不意打ちの先制攻撃が確実にできただろう。だが、アリスにとって誤算だったのは、友香にとっては今この場に陸が残り、戦える、戦う状況にあるとわかっただけで姿を現すには十分な理由だったということである。


◇◆◇◆


「敵です。作戦通りここは俺とリュドミーナに任せて先へ行ってください」


 陸の声に皆が状況を理解し即座に行動を開始する。


「あれが【雨喜びの幻覚】と成りすまし……か」


 アンナはそう言ってエカチェリーナと共に部屋の奥にある扉を開けその場を後にした。

 しかし、その場に現れた友香は追いかけようとしようともしない。


「一度そこに居ることがわかってしまえば、【想造の観測】からは逃れられないのに。いいのかい、桜峰」


 友香に苗字で呼び捨てられたことに陸は前回と違ってより濃い敵意を感じていた。だから順調に事が運んでいる思っていた。もちろん、再会が間もないために前回の考えを引きずっている可能性もある。

 しかし、陸にとってやることは今まで通り何も変わらない。


「どうせ話は聞いてただろうからわかってるよね? 此処から先は通さないよ」

「そんな不完全な力で私を止められると思ったら大間違いなんだから」


 友香は陸が【想造の観測】を完璧に使いこなせないことを前回の戦いで心得ていた。その原因が身体に馴染んでいないからなのか、優紀が生きているからなのかはわからない。それでも確かなことは陸が優紀の意思を表に出さず、友香の邪魔をしているということである。それだけで容赦なく戦うには十分な理由だった。例え、陸がキューピッドであろうと、神に与えられた力にイタズラに操られた結果こうなったのだとしても、優紀との接触を妨害することは友香にとって単純に叩く理由に成り得るのだ。先程の陸がいないところで向けられたあの笑顔を陸が知ることはない。だから陸は迎え撃つ。

 そうしなければ自身の身が危ない上に、作戦が台無しになりかねないからだ。


「こい、桜峰」


 陸は瞬時に友香の背後を取った。


◇◆◇◆


 アリスは姿を友香によって隠されたまま先行したエカチェリーナとライザの後を追っていた。友香があのタイミングで声をあげて姿を晒したのはもちろん、過半数を陸といち早く対峙したいという理由が占めていた。しかし、冷静さを取り戻しつつあった友香はライザを標的として純たちと行動していることに配慮し囮となることも考えていたのだ。故に、別れた方を追った方がいいという考えを導き出していた。そのためには友香かアリスのどちらかを確実に、安全に先へ向かわせる必要があった。もちろん、アリスからしても神格呪者と対峙したかったが、そこは友香にしても標的が同じだったため、信頼を得るという当初の目的もあることからアリスが折れることになったのだ。故の派手な登場で注目を引いたのである。ここには友香が一人いるという情報を刷り込むために。

 そしてアリスは二人を追い続けた。不意打ちで仕留めることも可能だろうが、それよりも守ろうとしているものをはっきりとさせたほうがいいと判断したが故に攻撃は仕掛けず情報が拾えることを優先した。しかし、時間がないのも事実だった。もし友香がもう一人、能力によって隠していることが陸に知られるとアリスの姿は認知されてしまうからである。

 だからこそ、守るべきものがわかったらこのアドバンテージを維持したままライザを抑えて純たちと早急に合流するのがベストだった。


「私だけで終わらせてもいいのか」


 純よりも紘和よりも先にいて、様々な合成人の力を身に宿した故の自信がアリスの言葉からは漏れていた。


◇◆◇◆


「まぁ、待ってくれよ」


 陸の友香への攻撃はリュドミーナによって防がれた。その行動に最も驚いていたのは友香だ。

 警戒を怠ることなく、しかし助かったと思いながら陸の一撃を止めたリュドミーナを睨みつけたまま友香は距離を取る。


「距離を取ることに特に意味はないぞ」


 そんな友香の行動を軽々と潰す陸。

 しかし、それをいとも容易くリュドミーナは止めに入る。


「……どうしてこんなことをするのか、聞くべきなんだろうか、チャフキン」

「聞いたところでその疑問を解決できるかはわかりませんが、少なくとも今、私とあなたの利害は一致していない、ということだと思いますよ」

「そういうことにしといてやるか」


 リュドミーナは気に入らない人間を見る目をする。同族嫌悪に近いと自身で理解している。意味があるような、含みのある言い回し。どちらが仕掛けているのかわからない、まるで水を押すような感覚。前進することを、進展をただ足踏みさせるだけの無意味な時間。全能感を知った日にそれを打ち砕く男との出会いがリュドミーナの脳裏をよぎった。


◇◆◇◆


 リュドミーナ・チャフキン。ロシアの右手ナンバーツーの合成人。そして、合成人となった時の素体はプラナリア。再生能力に秀でたことで有名な生物であり、リュドミーナもその特性を引き継ぐことに成功した合成人である。つまり、自身の消化液にさらされない限り自滅しない再生力を持った合成人ということになる。

 そして、プラナリアの頭部を切断して、尾部から再生させた個体に、切断前の記憶が残存している可能性というものに対しても一つの答えを出した瞬間だった。この場合における解答は限りなく存在しているに近い。ではなぜ限りなくなのか。答えは記憶を共有しているからである。当たり前だがプラナリアの合成人として生まれた瞬間にその特性を活かすべく、まずリュドミーナは右腕を切り落とした。結果、ものの数分で右腕はリュドミーナに似た何かになったのだ。ここで重要だったのは同一の個体が生まれなかったという点にあった。それは同じクローンでも性格が違うようにという話ではない。体格も性別も違うのに似た存在が誕生したのである。しかし、対面するリュドミーナは互いにどちらが本体で、分裂体かを把握し、且つお互いの視覚情報や思考を共有していると理解した。これは分裂後も変わらず百キロという距離を維持しているならば共有が持続的に可能であることがわかった。故に百キロという距離を堺に分裂体を配置することで独自のネットワークを形成することが出来たのだ。ちなみに本体の判断がどこでされたのかはわからないが、分裂した時点では大元が右腕を切り離した方に決定したのである。なぜ断言できるのか。それは本体にだけ各分裂体に対してあらゆる情報共有を任意でオンオフする権限を有していたからである。

 話を戻すと、リュドミーナは限りなくリュドミーナに似たコピーを量産できることになったのである。それは整形すれば姿をより違うものに変え、各地に情報網となる枝葉として分散し、個では得られない経験値を複製した分だけ加速させて得られることが出来るということであり、時間が経ち、分裂すればするほどリュドミーナという存在を強力な最多の個として成長させることになったのだ。故に、【漆黒極彩の感錠】や合成人同士の強固な繋がりを俯瞰できるだけの価値観を手に入れ、それは忠誠心を希薄にさせ、我を強くすることになったのである。その影響が本元で起こったのならばコピーにも気づかず伝染していてもおかしな話ではなかった。

 そんな全能感が芽生えつつも世界を動かそうとまでしなかったリュドミーナはただの個である純と日本という地で出会うことになる。事の発端は日本の関東に配置させていた数多くのリュドミーナとの連絡ができなくなったことから始まった。恐ろしいことに殺された誰もが視覚に犯人を捉えることが出来ていないという点にあった。もちろん真っ先に自身の分裂の離反か合成人の中に裏切り者がいるのではないかと考えた。しかし、どちらも冷静に考えればありえなかった。前者は殺される人間を見ている情報がどこかから拾えるはずだから、後者はリュドミーナの数をすべて把握できる手段と権限を持つ合成人が限られているという点にあった。限られているということはその人物を捉えてさえいれば殺人現場を目撃することは容易いということである。次に考えたのは分裂を繰り返したことによるバグであった。今まで疑うことなく分裂したもの全てが本体とすべてを共有できるという考えがあった。しかし、ここに来て偶然そのしがらみを、本体が把握できない脱した個体が出現したかもしれないということである。その個体は間違いなく自身を起点とし、新しいネットワークを構築しようとするだろう。場合によっては邪魔者である本来の本体のネットワークから隔絶しようと考える可能性もあった。

 もちろん結果的にリュドミーナの考えはすべて考えるだけ無駄であったわけである。


「どう? 結構面白い体験だったんじゃないの?」


 これが初めて化物と評したくなる存在、純との開口一番だった。原因究明のため自ら日本へ赴き、休憩がてら訪れていたファミレスで突然相席してきたその男はそのまま事の顛末を楽しそうに語り出したのだ。やけに似た人間を多数目撃したという不信感から知人にどこかの国のスパイが紛れていると告げ口をして殺して回らせたのだという。

 そして、飽きたから種明かしをしにきたと。


「信じろと?」


 当然の疑問だった。もちろん、リュドミーナの正体以前に、分裂体が殺されていることを知っている時点でほとんど信用に足るのだが、それでも信じられないという思いの方が圧倒的に強かったのである。誰からも今まで怪しまれたことがないという実績が、なんとなく似ているからの一言でただの人間に看破されたのである。

 至極当然のことだった。


「あぁ、そういうのはどうでもいいや。それよりもさ、自由が欲しくない? いや、これじゃさっきの君の無意味な質問と一緒だから、俺はもっと単刀直入に話すとしよう」


 もったいぶった末に純の放った言葉はリュドミーナの心を動かすには十分だった。


「アンナの、いやライザの支配から抜け出してひと稼ぎしてみないか?」


 その後は純にいいように言いくるめられたと思っているが、情報という財産を売りさばくということをリュドミーナは覚えていった。その過程で情報を集めるということがよりリュドミーナの全能感を加速させていったのは言うまでもないことである。同時に何度も純を手伝うことにもなった。しかし、それは危険な橋を渡っているようで心が若返るような心地よい緊張感があった。その緊張感をより攻めるために裏切りという背徳感を織り交ぜ、より甘みを濃くした密を作り出し、それはリュドミーナの心を満たしに満たしていった。ある時は天堂家に純襲来の情報を流し、ある時はパーチャサブルピースの内部の情報を雇われ役として流し、そしてある時はイギリスの町中で情報を流していた。

 最近だと、紘和たちが過ごした村落のドナートとして登場するに至っていた。だが、リュドミーナは協力関係にあるだけで決して純の仲間になったつもりはない。しかし、その協力関係の上で友香を今失う訳にはいかない。だから、アンナとエカチェリーナがいなくなり、陸と二人きりになったところで友香を庇いに出たのである。コウモリ野郎としてはこの上ないタイミングだっただろう。


◇◆◇◆


「ちなみにお前はオリジナルなのか?」


 リュドミーナの素性を知っていれば当然の疑問を陸は口にする。プラナリアの合成人のオリジナルを中心とした分裂体の集合体を叩く上で、その核となりうるオリジナルに標準を合わせることは定石であった。では、なぜ合成人を製作した一人でもある陸がそのことを質問するのか。もちろんオリジナルの顔を忘れたなどと言った単純な理由ではない。陸は外見はもちろん、その中身にも個体差を持ちながらリュドミーナが増殖していくことを知っているからである。

 それは前述した整形などで容姿を整えしまえば外見だけは瓜二つに出来てしまうということを含んでいる。


「聞いたところで返ってくるはずのない質問ってどうしてしてしまうんですかね?」

「どうしてだ?」

「雰囲気、だと思います。ってどうして質問した側が答える羽目になっているのでしょうか」


◇◆◇◆


 リュドミーナは微妙に首を傾けた後、軽く鼻で笑いながらも視線は陸から離さず、ゆっくりと友香を背にしたまま距離を取る。もちろん、陸が言った通り距離を取ることはほとんど意味を持たない。陸が現在、神格呪者として【環状の手負蛇】と【想造の観測】の二つの力を有していることをリュドミーナは知っていた。故に、いかにして高速の移動手段を生み出しているのかという原理も本人がそこにいるから、もしくは相手がそこにいると認識したからであると想定していた。一方で殺そうとした所で致命傷すら与えられない不毛な戦いであることも理解していた。だが、どちらの要素も決してリュドミーナが友香を守れないということには繋がらない。

 まず、距離を取ることにはほぼ意味がないというのは、結局陸が認識しようとする以上、こちらを見る必要があるということである。もちろん最初から対人間の距離を一定に保つ認識をしていたとすれば本当に無意味だが、それは距離を取るという必要性が失われるだけであってリュドミーナには問題がないのである。要するに、現在、リュドミーナにとって大切なのは陸が何かしようとする時間とそれを認識するまでの時間のタイムラグである。その僅かな時間がエカチェリーナの次の行動を可能とするのだ。厳密にはその行動予測ができるだけのデータ量と対応できる力量を数による処理と経験で補っているのである。

 リュドミーナは別に情報的アドバンテージを持っているからこそナンバーツーというわけではない。単純な戦闘技術だけの話をすればロシアの右手では最も高いのである。それも当然といえば当然のことで情報を個体間で共有できるということは経験も個体間で共有できるということである。つまり、二人に分裂した次点で二人分の人生を、三人に分裂した次点で三人分の人生を歩むことになるのである。だから自然と戦闘技術だけは磨かれていく。それこそ、普通の人間ではたどり着けないような領域にまで手が届きそうなレベルにまで特定の技術を研磨することが可能なのである。残念なことがあるとすれば肉体は劇的変化をできない、つまり行使できる技術にも制限があるという点である。だからこそ、リュドミーナには才能だけに着眼しても、純という存在は異端に見えるというのはまた別の話なのかもしれないが。

 そして、致命傷を与えられないということは与えなければならないというわけではない。これは時間稼ぎであればいいのである。勝てない敵に勝とうとすることは決して悪いことではない。諦めなければ何かが味方し、偶然の勝機も致命傷を追わせられずとも何かしらの形で生み出すことはできるのだろう。今回であれば、守っていれば確実にリュドミーナより強い援軍が到着することが決まっているのである。軍といっても二人であるが、その二人はリュドミーナの妨害とは思えないちょっかいをいとも容易く、それこそ直近で行けば合成人を圧倒してしまうだけの戦力なのである。

 グサッ。

 ここまで来てただ一つ誤算があったとすればリュドミーナがプラナリアの合成人になって愛というものに鈍感になっていたことである。雌雄特有の性の感覚に興奮して様々なことはやってきた。しかし、それも力を手に入れた頃にした一時的な好奇心だけのことで、時間の経過と共に性欲は薄まっていく。何より今は情報という新しく飽きないおもちゃに夢中であった。ちなみに合成人は子孫を残す上ではベースとなっている人間という個体で処理されるため、普通の人間と何ら変わりはない。だから、リュドミーナも様々な個体で様々な恋をしたこともあったが、これもオリジナルに向けられているものではないとわかる故に急激に冷めてしまったのである。

 つまり、本能的にも感情的にも愛し合うということに鈍感になっていってしまったのである。


「どいてください。これは私たちの問題です」


 背後から右ふくらはぎにつきたてられたボールペンによってリュドミーナは力が抜けるように膝から崩れる。この行動から友香に殺意がないことだけはわかる。同時に知ってか知らずか、分裂できない損傷部位を再生する力が著しく低いためためこの行動はリュドミーナを動けなくするには有効な攻撃であったのだ。

 つまるところ、恋人同士の喧嘩に第三者の関与はご法度だったのである。


◇◆◇◆


 陸は目の前で起こった想定外の局面に思わず動揺した。友香が壊れかけているということに。何か一つでも間違えばリュドミーナを殺していたのではないかと。しかし、現実は邪魔者を場外に追いやっただけで済んだゆえの壊れかけているという認識だった。まだ生かそうとする意思はあるのだと。だから陸はタイムリミットが想像以上に早いことを悟った。

 それでも今ここでできることが増えるわけでは決してない。


「ありがとう」

「お礼なんていらないわ。早くゆーくんを返して」


 友香の溢れんばかりの想いが形となって放たれようとした。

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