第三十六筆:ジュウリン
純と戦うこと三度。ラーヴァルはなんとなく左足を軸に百八十度回転、身体を純がいたはずの方向に向け後ろへ飛び退きながら考える。ただの経験、純という男と触れ合った感性からでしかない。それでも確信めいたものがあった。突然現れた純をかばう合成人がいた、その事自体は投げ飛ばされたことを含めて、問題ではない。なぜ、あのタイミングで突然純をかばうように出てきたのかが問題だと。それを純が忽然と姿を消した理由につなげる必要があった。だから跳んだのだ。
この混乱は純が狙って起こしたものであり、容易くラーヴァルのマウントを取るための策略だと確信して動く必要があるのだと。
「どこいった、幾瀧」
そのまま右目を守るように腕を、肘から上へ高く上げ後退を続けた。右目を狙うという純の宣言はブラフかもしれないし、それにより自身の行動が制限されて隙を見せているのかもしれない。それでも、数日前に経験したあの直感的に信じて受け止めた右目への一撃と純という男の常識にとらわれない悪意を評してこの行動が間違いじゃないと感じさせるのだ。そして、純を見失って一分は経過していないだろう短い時間だけ目を凝らして、突然目の前にラーヴァルは純を捉える。
口角を上ずらせながら驚きと喜びに満ちた純の顔がそこにはあった。
「俺の最良のタイミングを図れたんだ。勘だとしてもすげぇよ、あんた」
ラーヴァルはその言葉を素直に受け止めることが出来た。皮肉やお世辞ではなく、ただ純粋に敬意を表された。皮肉にも少しだけ嬉しかったのだ。だからといって手を抜くわけでも緊張が緩もこともない。むしろその認められた力を惜しみなく、全力でぶつけようとラーヴァルは地面を抉るつもりで両手を組み、純めがけて振り下ろした。前のめりに突っ込んできていた純の頭上を取る鉄槌。故に上に逃げるという選択肢はない。両手に手応えがなかった瞬間にどこへ回避したかを予測する。一歩でも後退、左右へ回避することが純には出来るとラーヴァルは思っていたからだ。
そこまで考えて初めてラーヴァルは前後左右の感覚がおかしいことに気づく。
「だから右目はまた次の機会にしといてやる。長い付き合いになる、当たりそうだな」
ラーヴァルは純に振り下ろす両腕の勢いを使われて逆に投げられていたのだ。それは同時に瞬間最高時速三百キロを超える一トン級のパンチを見切った後にラーヴァルの懐に入り背負投られたことを意味する。当たり前だが博打としてはあまりにもハイリスクローリターンだと感じさせられる。しかし、純はそれを躊躇なく実行に移したということは判断基準として出来ると思った、純にとってはハイリスクではなかったということなのだろう。
ラーヴァルの巨体が宙に浮き、一瞬のうちに背中らではなく巨体故に頭から地面に叩きつけられる。しかし、純の追撃はそこで終わらない。落下させた衝撃にその身を仰け反らせるラーヴァルの左の象牙を衝突し合う力を利用して、つまり、純が踏み抜くことで容易く折ってみせたのだ。
そして純は象牙を持った右手を霞むラーヴァルの視界の向こうで掲げてみせる。
「ありがとう。少しの間だけ本気を出しても楽しめると思えた。この象牙は俺にとっての賞杯、お前にとっての名誉の勲章だと思ってくれ」
純の言葉が終わると同時にラーヴァルは意識を失う。純の振り抜いた象牙がラーヴァル頭部を殴打したのだ。そして、純は白目をむくラーヴァルに更にもう一打反対側から頭部に殴打を決めると最後に胸元に賞杯を突き刺した。もちろん、心臓や肺といった臓器を避けて貫通させていた。それぐらいなら合成人の生命力を持ってすれば問題ないと判断していたからだ。
何より少しの間開け本気を出そうと思えた人間に対しての精神性の対応がこの全力だと純は思っているのだ。
「さぁ、次は誰だ。誰が俺を楽しませてくれる?」
合成人は愚かアリスも友香も手を止める。しかし、考えていることは違った。合成人たちが純という化物にどう立ち向かえばいいのかと絶望している中、アリスと友香は自身の目的を達成した暁には必ずケリをつけなければならない強敵なのだと知ら示されているのだと思ったのだ。
◇◆◇◆
焔雷。爆音に背後を振り返った時に、一本の大樹が縦に裂け燃えていた。この刀の性能を表す一節であり、雷の特性と副作用を示す。能力としては雷と炎を操る。ただし、炎が焔となっていることからも分かる通り少し特殊な燃え方をする。感情、特に怒りや嫉妬、憎しみといった負の感情に大きく左右される。通常時でも紙を燃やす程度の力はある。しかし、負の感情を抱えていればその焔は対象を灰にするまで消えることはないと伝えられている。
ちなみに、これは天のお告げであったにも関わらず、叶えることができなかった男の悲痛な叫び声とも言われている。
「少し冷えるな」
紘和はそう思い、件の刀を召喚していた。氷に閉じ込めた対象も適宜解凍しながら着々と戦闘不能の合成人の数を積み上げていた。加えて氷に囲まれているだけで気温は下がる一方で動きが鈍くなるのは自然なことで、紘和はそこで快適な温度を自身の周囲に展開しながら作業を続行していた。当たり前だが合成人が弱いということはない。しかし、生物が炎や雷、氷を自在に操る敵を前にして応戦できるのかと問われれば、いくら人間サイズになった蟻が強いと言われても難色を示すだろう。
それこそ攻撃が来る前にかわさなければならないわけで、反応できる生物はそもそも限られてくる。
「お前で最後だ」
「うわぁあ」
声を上げ、自身を鼓舞して立ち向かおうとした瞬間、無慈悲に凍結させられる合成陣。それと同時に紘和の足元の床が蒸気となって消える。
百メートルを自由落下し、難なく着地する紘和。
「終わったの?」
「あぁ。手伝いに来たぞ」
「残念、二次会はすでに始めてるよ、アリスちゃんたちが」
痛みに苦痛の表情を浮かべる者、失神する者が多く転がっていた。そこへ、氷の塊や寒さから意識を失った者、地上に転がっていた者と同じ状況の者たちがさらに降ってきた。
骨が折れる音が時々するのは蟻などの甲殻を持たない合成人たちの数を示していた。
「行くぞ」
「そうだな」
しかし、純は正門へは向かわず反転し、紘和を置いて即座に駆け出すのだった。
◇◆◇◆
タチアナの願いが叶うことはなかった。そして、恐らく形成が逆転することはないのだろうと思っていた。合成人の中にもロシアの右手と呼ばれる強い存在はいる。しかし、普通の合成人より強いだけで、純や紘和の相手ができるレベルの総称ではない。その証拠にラーヴァルはこの戦線からすでに脱落している。ならばせめてこの戦いの結末を見届ける一人として、生き延びなければとタチアナは胸に誓うのだった。だから、タチアナは味方を介抱することもなく純と紘和について歩き出そうとする。
しかし、そんな当人の覚悟を、助けに来た他人が知る由はない。
「大丈夫ですか、タチアナさん」
戦線とは反対側、自身の背後からかけられた言葉と同時に、縛られていた縄がほどかれた。
「オーシプさん」
心当たりのある声に振り返るとそこにはロシアの右手ナンバーフォーのオーシプがいた。行きよりも速いスピードで帰還してきた事実に驚愕できるものはその場にはいないが、息ひとつ乱さずタチアナの傍らに現れたのだ。
そして、タチアナをお姫様抱っこすると辺りに倒れる同僚を見ながらため息をつく。
「タチアナさん、笑ってください。無事なあなただけでも、助けられたあなただけでも笑ってください。それが、ここに間に合った私の力になります」
ロシアの右手で最も優しさに溢れていると感じ取れるのは年の功というやつなのだろうかとタチアナは思う。しかし、そんな安穏とした雰囲気は長くは続かない。ここは戦場真っ只中なのだ。
衝撃が来た。
「出たな、自己中」
「初対面なはずなのに、随分な言われようですね」
オーシプと純の足裏が重なったのだ。次にオーシプの地面に付いた左脚が切り飛ばされる。純の動きを見てから追従してきた紘和の不可視の一撃だった。しかし、オーシプは転倒しない。左脚で再びバランスを取り戻すと即座に百メートルの距離を取ったのだ。
そう、切り落としたはずの左脚がすでに生えているのだ。
「なんだ、アレ。化物か?」
「馬鹿だねぇお前。あれは合成人だよ。ロシアの右手のナンバーフォーのオーシプってやつだよ。覚えた、紘和? てか、自分を差し置いて化物とかナンセンスだろ」
「……ナンセンスかは置いといてもあれだけの再生力を持ってお前の攻撃を瞬時に受け止める。それでも序列的にはラーヴァルより弱いのか? そもそも、俺ロシアの右手の数人はすでに殺したことあるんだよな? 明らかにあれ、収まるところ間違えてる系だろ。新参ってわけじゃないだろうし」
「まぁ、そうだろうなぁ。貢献と能力に応じて序列は決まるけど、辞退することも可能だ。ただ、お前の所の中之郷さんと違って序列操作のニュアンスはちょっと違うけどね。あいつはただ自分のためにそうしてるから、逃げてないんだよ」
「つまり、強いの?」
「まぁ、エカチェリーナやライザのほうが強いと思うけど……選んでいいよ」
「ならお前に譲るよ」
「はいよ」
純の返事を待たずして紘和は正門の方へ駆け出していた。純には紘和に信頼されこの場を任されたわけではないということはわかっている。もちろん、オーシプを相手に負けるはずがないというベースはあるだろが、紘和がこの場を後にした理由は単純に、ラーヴァル以上の大物、厳密には純に再び強いやつを先に取られることを嫌ってのことである。
氷上でラーヴァルと一戦交えなかったことを悔しそうにしていた顔を思い浮かべるのはそれだけに容易く、それを裏付けるように紘和は純にオーシプの強さだけを聞いていた。
「アイツもまだまだガキだな、腕鳴らしがしたくてしょうがないらしい……」
◇◆◇◆
オーシプは一対二の状況であるにも関わらず、逃げる選択肢を取らざるを得ない状況にいた。単純にラーヴァルと他の合成人を単騎で倒せる人間に二人で立ち向かえるとは考えられないからだ。さらに、【最果ての無剣】の使い手が先に行ってしまったというのがライザを始めたとしたボスの危険へ警鐘を鳴らす。
だからオーシプは自身の身体を変化させる。
「多少強引にでも、通させていただきます」
「ゴキブリごときに負けるかよ」
「左様ですか」
オーシプの身体は平たく、黒光りしている。純の言った通り見た目はあのゴキブリである。事実ゴキブリであり、再生力や素早い動きも全てこれに起因していた。そして、オーシプは確信する。自身の合成人としの内容からも情報が確実に内部から漏れているということに。つまり、合成人の誰かが、この施設の誰かが純たちに情報を提供しているのだ。しかも、オーシプの実力、性格をそれとなく測れていることからも古参の可能性は高かった。
自己評価で言うのも恥ずかしいが、オーシプは確かに戦闘能力だけの物差しで測ればラーヴァルを圧倒する。それこそ過去の末席にも劣らないだろう。ではなぜロシアの右手という名誉を授からなかったのか。答えは、昇進することで喜ぶ者がいることを知っていたからだ。つまり、純がどこまで意図して説明していたのかはわからないが、誰かが喜ぶその可能性を見たいから、つまり、誰かの幸福を願ってではなく、誰かの笑顔を見るため、まさに自己中心的な理由からである。ではなぜ、そんな人間がロシアの右手に未だに座っているのか。理由は今後、ロシアの右手の空席を埋めるだけの実力者が現れないであろうということとオーシプが席につくことで喜ぶ者がいたからである。
オーシプは喜ぶ姿に救いを求める合成人なのだ。
「ちなみにあなたは私について詳しいようですが、その受け取ったであろう情報は役に立っているということでしょうか?」
「もし、筒抜けだとわかった上でその質問をしているなら、あんたはどうしようもない人間だな。誰のでもいいのか、この変態が。いいから人質返せよ」
純はゴミを見るような目でオーシプをこれ見よがしに貶して見下す。
オーシプが何を望んでいるか純にはわかっているからだ。
「誰のでもいいんです」
純は身を翻しオーシプの一撃を見送る。
初速二百キロ、インパクト時三百五十キロの一撃を。
「では、人質を返したら……嬉しいですか?」
オーシプは交わされたことに別段驚いてはいなかった。戦闘において純は達人という言葉では形容し難い領域の人間だと先の一撃と与えられた情報で理解しているからだ。だからお構いなしに質問をぶつける。そして、自身が求めるもののために破綻した質問を口にした。
敵の喜ぶことを問うたのだ。
「じゃぁ、タチアナさんを返して取り返すを繰り返すっていうのかよ。頭湧いてんのか? 自分で取り返せるから安心しろよ」
「流石にそこまで馬鹿じゃありません。心から出たあなたの喜びの顔を一度見ておきたいだけなのです。ですから返しても、取り返して一旦終わりにしますよ。だから、見せてください。私の憧れた顔を」
タチアナにとって狂気がそこにはあった。純に何かを見透かされたことでタガが外れて滲み出た本来オーシプが持つ狂気である。仲間であるはずのタチアナですら見たことのないオーシプの姿に身震いするほどの狂気。それは執拗に求める者から出る独特さでも、求めるために行う手段の奇抜さでもない。タチアナがオーシプという人間のこれまでを振り返った時に表情の変化を見たことがないという事実に。
つまり、顔は鉄仮面、声色は感情に合わせて抑揚を持つそのズレに狂気を感じようとしていたのだ。
「じゃぁ、死んでくれよ」
「残念なことにそれでは私があなたの笑顔を見ることが出来ない」
「自己中が」
純とオーシプが再度ぶつかる。オーシプは今まで全力で戦うようなことはなかった。先に言った通り功績を求めなかった故に前線で戦果をあげることがなかったからだ。だからだろうかと自己分析する。初めて仲間にもあまり見せたことのないこの歪んだ感情を惜しみなく振りまくのは興奮しているからではないかと。全力で戦える相手。その相手が自分という存在の感性を知っている。胸を借りるような気持ち。純にはそれがあったからこそ自然と最初から全力で相まみえたのだろうと。
◇◆◇◆
アリスは合成人という未知の身体に戸惑っていた。成りすましで身体を作り変えた瞬間に出来ることはすぐに把握できる。しかし、人の形を呈しているが、全く違う身体に違和感が拭えなかった。紘和やヘンリーを扱う際にもある程度の違和感はあった。しかし、それは天性の才能というアリスにない感覚的な問題であって人間というカテゴリーの範疇を逸脱していなかった故に順応することに、嫉妬することを除けば特に問題なかった。しかし、合成人は身体が違うのだ。まず、単眼と複眼が融合している点である。人間と遜色ない視野と視力、識別ができる一方でほぼ真後ろまでカバーできる視野、普段速いと感じるものがコマ送りに見えるような動体視力、そして見覚えのない色彩の風景。相反するようなことが同時に進行しているのである。どうなっているのかと言われてもそうなっているとしか答えられない、圧倒的身体的構造のハイスペック。さらに聴覚も人の耳がある位置とは異なる場所から、嗅覚も同様で、さらに敏感と互いの長所を共存させたままの存在が合成人であるとアリスは理解した。
そして、成りすましは合成人にも対応できることが同時に証明された。だから、アリスは最初の蟻の合成人に成りすましてから純の元へ戻るまでにいくつものDNAサンプルとなる血や髪の毛などを持参していたカプセルに手短に収納していた。こんなことが悠々と出来たのも友香の【雨喜びの幻覚】によりほとんど透明人間のように行動できたからだ。もちろん、流れ弾のようなものに効果は期待できないがそこは持ち前の経験則で補えた。後は当初の予定通り合成人の姿で純をかばうように現れ、仲間であるアピールをした後に二人でさらに奇襲をしかける手はずだった。
ラーヴァルに襲いかかる、そこまではよかった。
「せっかく楽しく遊んでるんだ」
「え? ちょっと待って私は」
「この場から消えろ」
アリスは最初、敵と味方の区別もつかないのかと思い、幾瀧純を殺したい宣言をしておくべきだったかと思った。しかし、投げ飛ばされた所が門前だったこと、純がそんな凡ミスをするわけがないという謎の確信がアリスを次の行動へ移した。奇襲はまだ続いているのだ。ラーヴァルを襲ったアリスが純によって投げ飛ばされたことがさらなる戸惑いを生み、他の合成人たちの判断力を遅らせ、鈍らせる。その隙を見逃すことなくアリスは強靭な顎で容易く容姿の似た合成人の関節部を狙って手足を噛みちぎる。数体襲ったところで敵も寝返ったと判断したのだろう、攻撃の構えを示した。
しかし、アリスを目の前にして目を丸くしながら突然辺りを見渡し始めた。
「彼らにかまっていても仕方がないわ。出来れば強い人の力が欲しいでしょ?」
声のする方をふり返るとそこには友香がいた。再び【雨喜びの幻覚】で姿をくらましたのだ。そして、友香の言っていることはごもっともでサンプルさえあれば検証は後でいくらでもできる。そう考えればロシアの右手やエカチェリーナのサンプル獲得を優先するべきだということである。しかし、アリスにも短い付き合いといえ、わかることがある。友香の言っていることはもっともだが建前でしかないということが。こんな所で油を売ってるぐらいなら先に進もうと自身の目的のためにアリスを急かしているのだ。
そう、友香は彼女の愛しき人に会いたい、その一心で現在動いているのだとアリスにはわかっているのだから。
「そうね」
だから逆らうことはしなかった。神格呪者の力が一般人を超人にまで引き上げることを知っているからだ。だからこそ、ここでアリスは一つの可能性を考え始めていた。合成人が出来るならば神格呪者も異能ごと成りすます事ができるのではないかと。試す価値はある。しかし、友香を対象にすることは恐らく出来ないだろう。敵意を感じ取ると自動的に対象から外れてしまう、恐らくそれはアリスのこのような邪念にも反応すると推測できるからである。だからこそ、アリスにも友香の指示に従う意味がある。友香の追う陸ならば、神格呪者の力を取り込み試せるかもしれないからだ。自身が非力ゆえ、ジェフに今度こそ見捨てられないための強力な力がそこにあれば手を伸ばしたくなることは至極当然のことだった。同時に今のアリスには合成人という人間のカテゴリーから逸脱仕掛けた存在を再現できたという自負が他の成りすましの合成人とは違うという自信に繋がっている。
成りすます人間さえ選べ、自分は捨てられる存在にはならないと。
◇◆◇◆
紘和は正門で待ち構えていた合成人を軽く氷漬けにするとアリスたちと合流するかを一瞬考えた。しかし、最終的には合流するだろうという判断で特に意識して探すことはしない方向に決める。正門の敵を片付けていない所を見るに、アリスと友香は【雨喜びの幻覚】で隠密行動をしているとわかったこともその判断に大きく反映されている。この状態であれば基本、向こうから接触がない限り気づくのは不可能と判断できるからだ。もちろん、声を出す方法もあるが、呼ぶ方も呼ばれる方も位置や侵入の痕跡として、危険にさらされる可能性が高まるだけだとわかる酔故にむやみに出来ない。
もちろん、紘和にとってはそうやって最大級の危険を呼び寄せたほうが手っ取り早いのだが、友香の戦闘力だけを見た時に消極的に、安全を取るべきだと考えるのだった。
「タチアナさんがいれば目的地まで簡単だったろうに……施設内の見取り図って普通玄関先にあるよなぁ」
そうぼやきながら正門をくぐると第九一二軍事研究所、通称蓋の開いたパンドラが姿を現した。紘和の知る軍施設よりも活気は感じられない。その代わりに重厚感や機密で溢れていそうな危険性を醸し出していた。外の空気や屋根に積もった雪といった外的要因が作り出す所が大きいのかもしれないが、それ以上に工場のように入り組んだパイプ、蒸気を上げる機械が司令部よりも広い面積を占め併設されていることが大きな要因のように思えた。だが、これぐらいなら別にどこかにあっても不思議はない。ここが他と違うのは、工場が隣接しているのに兵器の一つも視界に映らないということである。戦車が収容されていそうな倉庫も戦闘機が離着陸できそうな滑走路もない。そんな当たり前の機密情報を護るための軍事設備がここにはないのだ。
合成人が最大戦力とでもいいたげな感じが施設からも表れているということである。
「ようこそ、最強。まさか本当にここまで安々と侵入を許してしまうとは驚きね」
司令部の最上階の屋根から紘和の知らない顔が声高らかに現れた。
「誰ですか? お出迎えには感謝しなくてはならないのでしょうが、今回はこちらが一方的に予約、約束なしの訪問ですから構わないというのに。という冗談が出るくらいに逸る気持ちがあるので、私は早く先に進みたいので、手短にお願いします」
「手短にって言う割にあなたの方がお喋りじゃない。いい、良く覚えておきなさい。私の名前はニーナ。あなたをここで倒す女の名前よ」
紘和は内心雑魚に興味はないと思いつつも名乗りあげてくるところからある程度の地位の人間なのだろうと推察する。そして、その予想に反すること無く、ニーナはロシアの右手のナンバーファイブである。それでも合成人だけでは相手にならないことに変わりはないのだが。
◇◆◇◆
「信じられませんよ」
オーシプの心からの声。未知の経験。それは純と相対する者が抱く必然の言葉と感情。
手応えは微かにあるが圧倒される感覚を拭えない、そんな力量の差。
「そうだろうそうだろう。だから一回お前のくだらないプライドは捨てろ。どんなに速かろうが再生しようがお前は負けるんだよ。ただ、俺は殺すのが好きじゃないからな。正直、お前をどうやって足止めするかは悩ましいところなんだ」
「なら私がこの場から一日動かないというのはいかがでしょうか」
してやったりとオーシプは思った。いくら純でも結局はただの人間でオーシプと戦うということはジリ貧なのである。その証拠が先程の言葉からも表れている通り再生力とスピードに音を上げさせているところにある。そもそも仮に負けたとしてもそれこそ純も達成感という呪縛からは逃れられるはずもない。
最後に望むものを手に入れるのは自分だとオーシプは疑っていなかった。
「癪に障る」
こちらの思惑通りに事が運ぶ確信という一瞬の油断が純をオーシプの懐に招く結果を生んだ。そもそも高速で動けるオーシプに反応して介入してくる純の対応も明らかに異常なのだが、そんなことは外野で立ちすくむタチアナだけが考えることだった。あまりにも鮮やか。知っていたかのような、吸い込まれるような動作で純はオーシプの胸に今までちぎってきたオーシプの手足の一部を突き立てたのだ。そして、そのまま純は容易くオーシプを押し倒し脇に抱えたいくつものオーシプの手足を瞬時に無数に身体のいたるところに突き立てていく。急所を外して何本も何本も田植えを彷彿とさせるようにオーシプへ刺していく。再生力が仇になって出血死という選択肢はない。鈍痛だけが何度も何度も繰り返されるのだ。しかし、オーシプが驚いたのはそんな技ではない。流れるような攻撃でも、オーシプを生きたまま動かなくしてしまう手段を模索していたことでもない。これら一連の行動をただの作業のように、つまらなそうにこなす純の顔だった。
眼の前の男からは達成感というものがなかったのだ。強敵を倒したならば多少なりともやってやったぞという高揚感があるはずだった。それが純の表情から、瞳からは感じ取れなかった。虚無。つまり、純にとってオーシプはその感覚に該当しない心底どうでもいい敵だったということである。
それは同時にオーシプには現状、純を笑顔にする手段がないということにもなる。
「私は……認めませんよ」
「そうか」
オーシプは純の今の言葉から憐れみを感じた。オーシプがここまで来る道のりの中に彼を歪めた要因がもちろんある。だから、彼は誰かの笑顔を求めるのである。
どんな手段を用いても求めるのである。
「あなたに笑顔がないのは、やるべきことがの……」
オーシプの口は純の右手に鷲掴みにされ軋む音を立てていた。
そのため言葉の先を出すことが出来なかった。
「あぁ、最悪だよ」
握力だけで顎を砕く純。
そして身じろげば身体を引き裂いて出てくるであろう串刺しの状態のオーシプを確実に留めておくために純は近くにあった石のそばまで歩いていく。
「おゔぁえはいっじゃいなじゃにをうおぉおおお」
何かを言っている途中のオーシプの身体を強固に固定するように首から下を覆うほどに大きい石を突き刺さったオーシプの手足の上に置いた。
「お前じゃ、俺を笑顔にできない。出直してきな」
石の重みで杭となった手足が地面に沈んでいく。オーシプは再生のせいで絶え間なく続く激痛に気絶しかける。そう、絶え間ない痛みのせいで気絶仕掛けても覚醒させられてしまうのである。
鉄仮面なオーシプの表情がこの時ばかりは激痛に歪んでいるように見えなくもなかったが、それもゴキブリの様な顔からはよくわからなかった。
「それじゃぁ、施設案内を頼むよ、タチアナさん」
どんな狂人を前にしようと純という存在を知る者は彼を超える存在に出会うことはないだろう、そうタチアナに思わせるだけの絶対的異常者としての存在感が純にはあったのだ。
◇◆◇◆
紘和はニーナを相手に苦戦していた。圧倒的な再生力に加え、瞬間移動を彷彿とさせる俊敏さ、加えてまるで先の先を見通すかのような攻撃の数々、そして何よりも思うように動かない身体が紘和に劣勢を強いさせていた。最初は寒さが原因で身体が動きにくくなっているのかと思ったが、あまりの自由の効かなさに一つの可能性を考え始めていた。それは近くにエカチェリーナがいる可能性だった。もし、合成人の力に加え、蝋翼物のサポートを得てニーナが戦っているならば自身が苦戦している理由として納得できるからである。
つまり、ニーナは実際のところ、エカチェリーナに回復してもらい、瞬間移動のサポートをもらい、未来を見ている可能性があっても不思議がない。加えて身体の自由が効かなくなる条件にも紘和には心当たりがすでにあった。それは同じ動作の組み合わせをしようとすると失敗するということだった。最初に剣を縦に振って次に横に振ったとする。するとそれ以降剣を縦に振った後全く同じ角度で横に振ろうとするとその軌跡を描く前に身体が強制的にそれを拒むように動かなくなるのだ。つまり、連続する同様の動作を強制的に終了させていると推測できていた。
もし、前もって純から【漆黒極彩の感錠】とプルチックの感情の輪の関係性を聞いていなければ、ここまでの多数の異能という推測はできなかっただろうと紘和は思っていた。喜び、警戒、激怒、嫌悪、悲痛、驚嘆、恐怖、憧れを軸とし楽観、積極、軽蔑、後悔、失望、畏怖、服従、愛情を加えた十六の感情を元とした異能。恐らくニーナに起こる現象も紘和に降りかかる現象もどれかに該当しているのだろう。
タネが分かれば、異能によるものだと決めつければ、近くに潜むエカチェリーナを探し、【漆黒極彩の感錠】の機能を停止させることが最優先にして最適解だろう。しかし、紘和はこう思っていた。気づいていないふりをしてニーナを倒してしまおうと。その方が充実した戦いになると確信していた。何せ、不自由な戦いこそ、不利な状況にこそ、己の勝利に磨きがかかるというものだから。
◇◆◇◆
ニーナは単純な戦闘力でいくと普通の合成人の元となる人間とあまり大差ない。加えて合成人になった人間の中では日が浅い方だった。そんな彼女がロシアの右手まで上り詰めたのは取り込んだ生物とのシンクロ率が非常に高いことと、その生物が人の性能をもった事にあった。キロネックス。殺人者の手などと呼ばれる異名を持つクラゲであり、特有の再生力に加え、世界でも一、二を争う猛毒を持っているということである。そのため、多少の怪我は即座に再生することが出来る。
またこのクラゲの欠点でもあった着衣状態の対象に毒を注入できない点は人になったことで強固な刺胞が形成されることになり問題がなくなったのだ。
「さすがは最強。やるじゃない」
しかし、そんなニーナでも紘和を口でおちょくっているようで余裕はない状況だった。エカチェリーナのサポート込で戦っているのにだ。作戦内容は紘和と純を二人で足止めすること。しかし、現状は紘和のみが正門をくぐってきただけな上に二対一でも対等に戦われてしまっている状況だった。出来ればラーヴァルを筆頭とした前線で、戦闘を得意とする合成人でいくらか削るのが目標だったが、どうやら純がそれを引き受け紘和を先に行かせた状況のようだった。もちろん、ニーナは城門内にいるので外がほぼ全滅していることも、オーシプがすでに合流していることもまだ知らない。オーシプは合流するかもしれないと予定に入ってはいたものの、これだけ早く前線が戦闘不能に追い込まれることをニーナには想像できなかったのだ。
エカチェリーナのサポートは現在、喜びによる再生力の向上、驚嘆による対象との場の交換、警戒による数秒の未来視、そして失望による行動の失敗である。もちろん全ての力を駆使してサポートしてもらうことも可能だが、手の内を一変に公開してしまうことが紘和にエカチェリーナの存在を気づかせる要因にもなり得るし、何より今後戦う上でその能力を考慮されてしまうという一番のディスアドバンテージとなるとエカチェリーナは判断したらしい。そのために能力を制限することは事前にニーナにも伝えられていた。もちろん、足止めで稼ぐべき時間を稼ぐためには今以上に能力を使うことも想定はしている。また、紘和や純が【漆黒極彩の感錠】の能力を全て知っていれば隠す必要もなくなるのだが、正直そこは計りかねるということであった。純は知らないだろうが、紘和は仮にも最強を継ぐ八角柱の一樹を祖父に持つ。
つまり、場合によっては全力を出す可能性は十分にあるという話である。
「チッ」
ニーナは舌打ちした。これだけ優秀なサポートを得ても紘和を抑え込めていないからだ。だからこそ出し惜しみをやめる選択をニーナは取った。
純が合流してからやる予定だった身体の変化である。
「これで、終わらせる」
斬撃や拳、足技による打撃を受け続け、イライラが頂点に達した。そんなごく普通の理由と合わせて殺す気でやらねばならないと判断し、でニーナは全力を出したのだ。シンクロ率が高い、それは再現性の高さを意味する。一本あたり五千個の刺胞を備えた六十本に及ぶ触手が髪の毛にあたる部位から手足となって伸びたのだ。さらに透明な身体が銀世界と相まってその存在感を希薄にする。紘和にとっては急に変身したため消えたように見えている可能性もある。そこへ六十本の手足の奇襲である。確実に殺してやる、その意気込みが如実に表れた触手の動きは紘和到達への速度を加速させた。
◇◆◇◆
紘和はニーナとの戦闘で使用されている【漆黒極彩の感錠】の力を把握し始めていた。まず、瞬間移動したように見えるタネはニーナと何かの場所が入れ替わっているということだった。それこそ切り落とされた肉片だったり、ごく僅かな雪片だったりと様々なものとだった。
そして先読みは、恐らく傷を負うレベルの攻撃を食らうとわからなければ先を読む意味がないということである。そもそも読まれているという感覚なだけであって、ニーナの武術の実力が相当なものの可能性もあるが、無色透明な【最果ての無剣】の位置を把握しきれていない点からもそういった実力がないものだと推察していた。それは同時に先読みをしていても【最果ての無剣】の位置を把握していないわけだから自身が傷ついた未来でも見ない限り行動に移せないということを意味していることにつながる。つまり、ニーナにダメージを与えない攻撃をすれば先読みしようにもできないという帰結である。同時に【漆黒極彩の感錠】の対象兵器であることからニーナが理解するニーナに起こる出来事のみ回避ができているということである。
最も厄介に感じていた一定の行動を制限されていることは手にする剣を変えるだけでも対処ができる他、剣を振る際に軸を変えたり、角度を普段と少しでも変えるだけで看破できることが試行錯誤の末わかった。武術として一矢違わない洗礼された型故に引っかかっていると考えればこれほど厄介な能力はないだろうと思わされた。普段のようにいかないことがこれほどまでにストレスに繋がるとは、と。さらに、ここからわかったことは長期戦が不利であるということである。組み合わせが無制限でなく、人間に出来るちょっとした動作の違いにも限度があるからだ。
以上から紘和は早急に終わらせようと【最果ての無剣】をさらに多く周囲に展開しようとする。しかし、それは突然きた。ニーナが消えたのだ。瞬時に周囲の物の位置を記憶と照らし合わせるが何かと入れ替わった形跡は視界の範疇ではなかった。だからこそ【漆黒極彩の感錠】の残る異能、もしくはニーナの合成人としての未知の能力と判断し、仕込んでいた力を紘和は即座に一切のためらいなく開放したのだった。
◇◆◇◆
「なん、で」
痛みに泣き叫ぶよりも疑問の声が出ていた。突然、ニーナの身体が明確なダメージを負ったのだ。それは上半身と下半身が分離するという本来ならば致命傷になりかねない技である。変身した瞬間にこうなることは警戒によりわかっていた。だからこそ、回避しようとしたが、回避の手段がわからなかったのだ。
間違いなく切られたはずなのに、変身してから切られたという予知はなかったのだから。
「消えたって言うより、透明になって見えづらくなってただけなのか。ちょっと高く見積もりすぎたかな」
紘和の冷静な分析が聞こえてきた。僅かな切り傷や、一部損傷ならばクラゲとしての再生力と【漆黒極彩の感錠】の喜びでどうにかなる。しかし、クラゲだから生きているだけでいくら再生力があっても、治癒能力を向上したところでこれだけきれいに分離した身体がすぐさま治るわけはない。
最低でも数十分の時間を必要とした。
「どうした? 再生しないのか?」
紘和は簡単に再生できるものだと思っているのか、それとも最強であることを煽ったことに対する仕返しなのかはわからないが首を傾げてニーナに問うてくる。
「一体、何をしたの?」
「わざわざ生きてる敵に教えるやつはいないよ。しかし、よかったぁ。治らないみたいですが、その様子だと死なない感じでしょうかね? クラゲとの合成人なんですか、その触手?」
「あなたが言ったんでしょ。教えるわけ、ないわ」
ニーナはそう言って紘和の後ろへ瞬間移動する。今の状態なら背後から六十分の一で殺せると勘違いしたからだ。もちろん、伸ばした全ての触手は紘和に届かずに雪の上へ切り落とされる。
触手はすぐに生え始めるが激痛が視界を歪めさせた。
「面白かったよ」
ニーナはその言葉を最後に頭を殴打され意識を失った。クラゲ故にダイレクトに脳内に振動が響くので必然の結果とも言えた。
◇◆◇◆
莞爾。柴田勝家が所持していたとされる刀。斬られたものは、あまりの斬れ味から斬られたことに気づかず、斬られてなお莞爾として笑い続け、数十歩も歩いたところでまっぷたつに分かれ倒れたという逸話から、切ってから所有者の任意の時間で切られたという実感を与え、切られたという事実を反映する能力を有した【最果ての無剣】の中の一本。先読みの仮設を立てた段階で不意を疲れた時の対策として混戦中にすでに一撃入れておいたのである。オーシプの再生力や恐らく【漆黒極彩の感錠】の能力ですぐに再生すると思っていただけに軽い足止め程度だと思っていたが思った以上に効果があり、殺してしまっていないか心配するはめになったのが先程の紘和の状況だった。
嫌らしい点があるとすればすでに決着は付いていたにも関わらず、自分の力量を測り勝利をより甘美なものにするために敢えてその決着を送らせていたことである。
「さて、近くにまだいるのでしょうか、エカチェリーナさん」
紘和の問いかけに答える者はそこにいない。
「先を急ぐとするか」
戦闘で興奮したり、一人になったとわかった瞬間丁寧語が砕ける形式的な歪さを携えた圧倒的戦力が、引き続き蓋の開いたパンドラの住人に牙を立て、蹂躙をしようとするのだった。
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