第三十五筆:カイセン
「と、まぁ要約するとラーヴァルにアンナはライザかもしれないよって教えてた代わりに、ここまで連れてきてもらったわけ。不信感が煽れてれば、もしかすると俺たちが着く頃には漁夫の利かもしれないな」
純はラーヴァルと分かれた直後の話は伏せ、グンフェズルで奇跡的回復力を果たした純は全快になった上で紘和たちと分かれて以降の出来事を伝え終えるのだった。。
「本気で狙えると?」
「いや、ぶっちゃけ俺としてはそうならないとは思ってるよ。言ってみただけ。そもそもそんな状況になっているのを見るのは愉快だろうけど、攻め手としては面白くないよな。ハハハッ」
話を聞く限りその場のほとんどがラーヴァルを始め多くの者が何かしらの行動を起こしロシア内部が揺れると思っていた。
思っていなかったのはそうなるかもよと言った本人と、狙えるかと問い返した紘和だけだったようだ。
「じゃぁ、どうして狙えないのか。理由一つ目。ライザが騙していた理由がまっとうなものだった場合。残念なことに内通者からはその辺の事情は聞かされていなくてね。だから、彼らを納得させるだけの理由があるかもしれない。何せ、とても強力な力で、巧妙に騙しているわけだからね。少なくとも理由は、相応なものだと予想できる。そしてもう一つは【漆黒極彩の感錠】かな。みなさんはどのくらいこの蝋翼物について知っていますか? はい、タチアナくん」
「正解すると何がもらえるのでしょうか。そもそも私が教える義理はありません」
「たくましくなったねぇ。俺は嬉しいよ」
何度目になるかわからない立場を交えたタチアナのツッコミに対して、およおよと泣き真似までしておちょくる純。
「と、言うわけで紘和、答えを教えてあげなさい」
「……八つの感情をベースにした異能を発言できる錠前の形をした蝋翼物」
「五点」
純の評価に対し眉間にシワを寄せ、その点数を言いたかっただけだろと言わんばかりに不機嫌な表情をする紘和。
「それじゃぁ先生が教えてあげます。蝋翼物、【漆黒極彩の感錠】はプルチックの感情の輪に則って八つの基本感情とそこから組み立てられる八つの応用感情の系十六感情に沿ったの異能を任意で発現させることができる。ちなみに基本感情の強弱派生とか深掘りすると面白い種別一覧満載だがここでは割愛される。少し脱線した。要するに異能のオンパレード、反逆を鎮圧するのは暴力的でも穏便であったとしても造作もないってことだね。俺も前に戦った時は失望の力に苦戦させられたよ」
日本で遭遇した時に異能を使われはしたものの、エカチェリーナを結果的に生身で圧倒していた純はそれを知る人間が数少ないことをいいことに、その力がより強力であるように印象づける様に語る。実際、普通に考えれば強力な力であることは確かなので侮って欲しくはなかったので自分が苦戦しているという構図が説得力をもたせられると思ってのことでもあった。
しかし、隣でタチアナが渋い顔をしていることから誰もが苦戦したという言葉を信じてはいないように見えた。
「他の異能は実際に体験するに限ると思うよ。相手をしたいなら早いもの勝ちだぞ」
白けた空気を濁すように純はその場を煽る。
「やりたいのか?」
「そういうお前こそ」
純と紘和が互いの顔を突き合わせながら楽しそうに笑っている。自分の力がふるえる遊び場を目の前に興奮が隠せない子供のように。そして、その光景は決して微笑ましいものではない。アリスからすれば自国が、新人類がこんな感覚で敗北したのか、と悔しい思いを感じさせる。タチアナからすればこれから合成人の仲間たちがおもちゃにされるのが恐ろしく感じた。一方で唯一、友香だけがそんな光景に何かを考えることなく目的地を一人睨んでいるのだった。
◇◆◇◆
ラーヴァルは戻ってすぐにアンナと思っている人物との面会をするために移動していた。
しかし、その行く手を阻むように現れたのはリュドミーナだった。
「純の捕獲はどうした? そもそもあれから音信不通で何があった?」
ラーヴァルからすればこちらの情報を純に流していた存在とのご対面である。
「すまない。通信機器を破壊することを条件に大人しく純は連行していたのだが、途中で逃げられた。追いかけようともしたが、すばしっこい上にエカチェリーナも手を焼く存在だ。俺たちが善戦しても無理なのは想像がつくと思う。だから恥ずかしいと思ったが手ぶらで帰ってきた次第だ。だが、どうやら彼らの目的地はどのみちここのようだ。来るとわかっているならばそこで待ち構え、戦力を増強した方がいいと判断した。全員で囲って言うことを聞かせるほうが得策、そうは思わないか?」
どの面下げてという感情を押し殺す意味も込めて長々と探りを入れるように喋りつつ、ラーヴァルはリュドミーナの反応を伺う。
「そうか。いつになく丁寧な報告とでもいうべきか……。わかった。無事に帰ってきてもらって助かった。待ち構える戦力としては申し分ないだろう。それと一応、連絡が取れなくなってからオーシプをそちらに向かわせていたが、すれ違ったようだな」
ラーヴァルはリュドミーナから普段と変わらない対応を見て、こちらの不信感を悟られずに済んだか、と判断した。第一目的がアンナと会うことである以上、裏切り者とは言えそれを脅迫のネタとしてリュドミーナをここで揺さぶっても時間を浪費するだけで無意味だとわかっているからだ。加えて、場合によってはリュドミーナの手を借りる事態も今後は想定できる。
純との関係性を突きつけるのは今である必要はないと判断したのだ。
「では、迎撃の配置についてはオーシプを除いた四人で後ほど話し合うとしよう」
「わかった」
話はこれで終わり、その空気が両者共に出ていたので二人はその場を離れるのであった。
◇◆◇◆
リュドミーナはラーヴァルが自分と純との繋がりを純から聞かされていることを理解した。情報を扱う側としては嘘にも敏感である。分野でいうならばリュドミーナとラーヴァルでは年季が違うということである。故に動揺はしないし、誘われる箇所から痕跡を嗅ぎつけたのだ。
通信機器の破壊、これが意味することは外部に情報が漏れることを防ぐ必要があったから。つまり、純が何かしらラーヴァルと交渉を行ったと考えるのが妥当だろう。そして、ここに来る直前で純と一悶着あったのならば、何かしらの被害がなければおかしいが、乗ってきた車を始め、外傷が見られる兵士の傷はここら一帯でつけられたにしては時間経過が見られるものだった。それは純と揉めた形跡がない可能性が高いということを示唆していた。
では外部に知られたくない、リュドミーナに知られたくない交渉内容とは何か。純という人間を想定した時に考えられるのは、純がラーヴァルにアンナのことを話した可能性があることである。それは間接的にリュドミーナが純に情報を伝えていたことをバラした可能性すら浮上する。
そして、この事実はリュドミーナにとって厄介事ではなく一つのメッセージとして認識させることになる。それは純がリュドミーナにラーヴァルとアンナの出方を探っておけ、ないしはその出方が重要であるという意味に捉えられるからだ。だから、ラーヴァルの揚げ足を取って確認を取るという作業はしなかった。恐らくラーヴァルにも最悪、リュドミーナもしくは純と再接触する気があるという意志の表れでもあると思われたからだ。そんな利用できそうなケースをドブに捨てるほどリュドミーナは馬鹿ではない。利用できるものは利用してでも目的を遂行する。それがリュドミーナだからだ。
◇◆◇◆
ラーヴァルはアンナがいると言われて通された大広間に入ると、そこにはアンナの他に陸とエカチェリーナがいた。
「純には逃げられたようですが、あなたが無事で良かったです、ラーヴァル」
ラーヴァルは頬に汗が伝うのを感じていた。
死地にいるのと似たような緊張。
それだけの圧迫感がある人間がその場にはおり、心が休まる瞬間が許されない雰囲気が自身が純から伝え聞いてしまった人間故にあった。
「それで、この後彼らを迎え撃つべくみなで対策を練るという話のようですが、ここへ来たということは他に何か私に直接言っておくべきことがありましたか?」
喉がカラカラに乾く感覚。真実を確認することへの恐怖、数秒で瓦解しそうな現実を考えると声が出ない。ラーヴァルはそれだけ嘘であって欲しいと願っているのだ、アンナはアンナであってライザではないと。それだけ自分にとって彼女は尽くすに値する人間だと。だから勇気を振り絞った。
手に汗を握りながら訪ねたのだ。
「自分でも何を言おうとしているのかわからない。だが、聞いて欲しい。お前は、本当にアンナなのか?」
返事はない。沈黙がラーヴァルの言葉を飲み込み続けた。答えて欲しい。ラーヴァルは自分が次の一歩を歩みだすための判断を求めた。沈黙というものがこれほどまでに恐ろしく感じたことはない。早く、早くと求める気持ちが鼓動を加速させていくように感じていく。
そんな沈黙を破ったのはエカチェリーナだった。
「どういう意味だ?」
純が言っていることが正しいのならこの場でアンナをしっかりと視認できているであろう人間の一人がそう問いかけてきた。六つの瞳が冷たくラーヴァルを見下ろしている。三人は意味がわからないという意味でラーヴァルに視線をむけているわけではない。どこまで知っているか言えと命令しているのだと悟った。同時にラーヴァルは自身にここまで威圧的であるということが外部にバレてはまずいことの裏付けになっていると悟る。しかし、それでも理由を聞かずして下がるわけにはいかなかった。ライザのためにと死んでいった仲間は大勢いる。その仲間はラーヴァル同様ライザのためにと信じて忠を尽くしてきたのだ。
だから、ラーヴァルは話を前進させるために答えた。
「アンナ、あなたがライザ様であの地下にいるライザ様がアンナなのか、という意味です」
「それだけか?」
今度は間髪入れずにエカチェリーナの返答が来る。
しかし、妙に引っかかりを覚える返しにラーヴァルは緊張が緩んだ、眉間を広げ少し素に戻っったような表情をしてしまう。
「まぁ、限界がそこだとわかってよかったよ」
エカチェリーナの言葉に続くようにラーヴァルを急な目眩が襲う。
「何を……する気だ」
それだけ言い残すと自分の体が前に倒れたと認識し、意識が消えていくのを感じていた。
「ありがとう、これで純とリュドミーナのスペックが知れたよ。だから、この戦いが終わるまで我慢してくれ。戦力は多い方が良いから」
もはや誰が言っていたのかもわからないが辛うじてラーヴァルが意識を失う中で聞いたセリフはそこまでだった。
◇◆◇◆
東部管轄区にあるアンナたちが居を構える軍事施設、第九一二軍事研究所。通称、蓋の開いたパンドラ。誰がそう呼んだのかはわからないが、災厄も希望も全てそこから解き放たれ続けているという意味合いを込められているらしい。もっと具体的にいえば合成人という存在を知っている人間が畏怖と敬意を込めて呼んでいるということである。知らない人からも知っている人からも恐れられる場所。そんなところに数人で攻め込んで来るという情報があったらしく、厳重な兵の配置を上層部は議論し、つい先程その通達が下の兵たちにも通達された。正直なところ、数人であるというのにこれほどの兵を割くのかという疑問は兵の中でも賛否両論だった。
純たちを知らない合成人からすれば当然の疑問で、純たちを知っている合成人たちからすれば十分すぎる、または足りないかも知れない処置だと。
「正面に戦力が偏っているが、数人で来るなら普通個別に四方から、少なくとも正面突破は考えられないと思うんだけどなぁ」
これは純たちの戦闘力を知っていたとしても疑問に思う者が多い点だった。戦闘力を知っていても純や紘和の性格を把握しているものは少ない。普通に考えれば正面突破ほど愚直な考えはないと考えるのは当たり前のことだった。一番目立つところから多勢の敵の中に数人で、四人で侵入するというのが実に馬鹿げている。潜入でなく侵入にしたってその経路は隠密であるべきだと考える。それを考慮しなくてもいい実力差があるのかもしれないと考える人間が多少はいるかもしれないが、そう思っているのは紘和だけだろう。
見張り台に立つ一人と上空から偵察する一人が気づくのは同時だった。
「正面に敵影あり。写真で紹介された人間と一致。幾瀧純、天堂紘和、桜峰友香、アリス・レイノルズ、そして人質のタチアナを確認」
通達内容によれば、発見次第人質の事は考えずに全力で応戦しろということだった。この全力の意味するところはエカチェリーナによって施される【漆黒極彩の感錠】による感情の抑制が解除されていることからも、合成人としての真の全力を解放しろと意味すると皆理解していた。もちろん、仲間を見捨てる様な指示に難色を示す者も多かった。しかし、そんなことを考えているようでは一分と持たず持ち場が制圧されると言われているため、皆覚悟を決めていた。
そして開戦の号令がかかる。
「ここで奴らを食い止めろ」
「おぉおお!」
様々な声が呼応し、異形の姿を成した人々が純たちへ襲いかかった。
◇◆◇◆
「先に確認しておきたいんだけど、タチアナさんはアンナがライザでライザがアンナだと疑っていて、そんなことができるのはリュドミーナだと思ってる。であってる?」
目的地が近くなったところで突然、純が後ろを振り返りタチアナに、タチアナが紘和から聞いたことを元に立てた推察を確認してくる。
「信じたわけではありませんが……」
「ん~、なら問題ないかなぁ」
何が問題ないのかはタチアナにはもちろん、恐らく純以外の誰もわかっていないだろう。
むしろ当事者としては問題でしかない。
「ちなみにこれから正面切って君たちの拠点を叩く。面倒なことは嫌いだし何より盛大に始めたいからな。開戦の号令は派手な方が景気が良い。でだ、俺と紘和は肩慣らしにもちろん戯れるわけだけど、アリスちゃんとタチアナさんはどうする? ゆーちゃんは、まぁ、戦わなくていいよ。一番非力だし、大事な局面まで体力温存してもらいたいしね」
「私は、自分の力が合成人に対してどう及ぶのか確かめたい」
純の質問にすぐさま答えを返したのはアリスだった。純からすれば合流してからジェフのことをいかにはぐらかそうかと考えていただけに、戦いに意欲的なアリスには満足するものがあった。
何か心境の変化があったことに違いはないが、試したいとは何だろうという興味もあった。
「まぁ、それなりに使えそうなのを頼むよ。せっかくだから初戦で一発殴って合成人の血でもなんでも手に入れたら場を混乱させるのもありだなぁ……って、試したいってそういうことか。なるほど。というわけで、アリスちゃんの準備が出来たらゆーちゃんは力を使ってアリスちゃんを俺の直ぐ側までエスコートしてよ。で、アリスちゃんが合成人の姿で俺を守る。そのまま二人で奇襲をしかける。んで、俺が消えろっていったらゆーちゃんは俺に力を三十秒使ってんでその後はまたアリスちゃんに使ってあげてよ」
「温存って……わかりました」
友香がやれやれといった感じの返事をする。
「あぁ、でもアリスちゃんには後で飲んで欲しい血があるから合成人のストックの順番、しっかり決めといでね」
「全然知らない相手にどうやって優先順位なんてつけるのよ。そもそもその血って何」
「教えない! サプライズプレゼントだから」
「べぇー」
無邪気な会話がこれから戦場にいくということを疑いたくさせる。
「それでタチアナさんは?」
「仲間と戦うつもりはありません。でも、あなたたちの動向を近くで確認しつつ、真実を知るためには人質でいることの方が得策だと思うので付いていくつもりです」
「それじゃぁ、人質らしく」
「ちょっ」
純はそう言うとササッとタチアナの両手首を背中に回して縛ってしまう。
「どうする? 後手縛りしっかりしとく? それとも諸手とか鉄砲が好み? ついでに一本縛りか部分吊りでもして持ち運び便利にしとく? エロくて人質感がいいと思うけど」
「こ、これで充分です」
少し頬を赤らめながらタチアナは答える。
「さいってー」
友香が純を心底蔑む眼差しを送る。ゴミを見るような目である。紘和も右手を額に当ててデリカシーのない友人に文字通り頭を抱えた表現をとる。
アリスだけが頭に疑問符を浮かべている。
「イメージできるとは、さてはゆーちゃん、ゆーくんとお楽しみの経験あるの?」
「ないです。タチアナさんの反応と縛るって単語からなんとなく想像しただけです」
「そういうことにしとくか……想像はできるのね」
「やめてください!」
これが合成人たちに発見される数分前の、緊張感の欠片もない会話である。
◇◆◇◆
「おぉ~、まるで俺たちが正面から来るってわかってたような人数と配置だな」
「バカでもお前を知っている人間ならこうするだろうさ」
「それじゃぁ、上のは任せるわ。俺、飛べないし。下は任せろ。アリスちゃんは適当にどうぞ」
「別に俺だって飛べないぞ」
「私は飛べるようになるかもね」
「それじゃぁ、調子乗って殺すなよ。散開」
気の抜けそうなテンションの会話に、簡素な意思疎通。実際に陸と空を攻略するだけでも合成人相手に考えれば至難だと言うのに、人数差がある。
加えて殺さないというハンデを自らに課して挑む眼の前の三人。
「お願い」
出来れば合成人に勝って欲しい、そんな願いが口から溢れるタチアナ。それほどまでに自身に課した足かせが純たちにとっては機能を果たしていないことを彼女はよく知っているのだった。
◇◆◇◆
正門に集められた合成人の内、半数が蟻の合成人である。蟻の合成人が多いのは野生下でのサンプルが多いという理由でも捕獲難易度が容易であるという理由でもない。蟻の性能が人間サイズで再現できることがシンプルに強いという点にある。最大の特徴は装甲の硬さ。有名な話で蟻はどんな高さから落ちても死なないというものがある。これは蟻の外皮が終端速度に耐える強度を持っているから衝撃をものともしないことにある。つまり、約七十キロの人間で考えると時速二百キロの衝撃までは無傷で済む甲殻を生み出すことができると考えられたのだ。結果それだけの外皮を蟻の合成人は有することになった。さらに自身の五倍以上のものを咥え、場合によっては人間サイズならば一トンのものを切断できる顎を持つ戦闘能力。加えて種類によっては飛行能力、更には毒をも有する。
端的に言って蟻の合成人は対人戦において強いのである。
「何だよ、これ」
そんな蟻の合成人の中でも飛行能力に長けた合成人たちと鳥類をベースにした合成人たちは普段見慣れたものに驚かされていた。氷である。しかし、その氷がまるで生き物のように地面から生えて合成人たちのもとに伸びて来ていたのだ。先行して触れたものは一瞬にして氷に飲み込まれていく。その後はピクリとも動かず、まるでショーウィンドウに飾られた一つの作品のようであった。追跡速度はそこまで速くないため触れて凍っていく者を目撃した合成人が即座に距離をとり回避をするのは可能であった。
しかし、追跡性能は高く氷の先端部分は器用に伸び縮みし、形を変えて追いかけ続ける。
「やはり、こういうちまちましたのは趣味に合わないな」
一番最初に伸びた氷の先に紘和が立っていた。つまり、【最果ての無剣】の何らかの異物によってこの状況が作られたことは誰もが瞬時に理解した。それは、氷を自在に操る遺物が存在したことを意味する。
そして、敵の姿を眼前に捉えて誰もが身構えた次の瞬間だった。足元が寒いと飛んでいる合成人は思った。釣られるように眼下を覗くとそこには自分自身が映っていたのだ。つまり、追跡速度は決して遅いわけではなかったのである。先程まで加減していたのかはわからない。ただ、現状言えることは氷を生成するのに恐らく時間も距離もあまり関係ないということだった。
紘和が立った氷の柱、約百メートル。そこから正門城壁まで一瞬で氷の床が広がったのだ。つまり、地上と空中という戦場がいとも容易く分断されたのだった。
◇◆◇◆
「まったく、やることなすこと派手だと思わない? てか氷漬けになってるけど生きてるの、アレ?」
気の抜けた純の言葉が上空が突如陰るという異変に気を取られていた合成人たちの集中を取り戻させる。
この何も持たない身一つで突入してきた緊迫感のない男が、伝達された内容によれば紘和よりも危険視しなければならない存在だと。
「思ったんだけど……今、見上げてたよね?」
質問の意図はわからないが持ち直した臨戦態勢を崩さない合成人たち。特に今最も純の近くにいる、数メートルの距離しかない蟻の合成人からすれば間違いなく標的にされている一人であると自覚しているため、この場の誰よりも目を見開いていた。
純の一挙手一投足から目を離さないようにと重ねて集中していく。
「つまりさ」
耳元で聞こえる純の声、視界に映るのは上空を分覆う氷。
一瞬で距離を詰められ顎を下から強打されたと理解する。
「皮膚と同じ様に伸縮性に富んだまま、結構いい感じの硬度があるってことでしょ、蟻の合成人って。それとも可動域は当然の様に柔らかいか。常識って通じるのかな」
前を向こうと頭を動かそうとするところへ今度は首、喉仏付近に打撃を食らったと知覚する。
もちろん、痛みは感じないはずだった。
「まぁ、どっちにしてもさ、可動域付近に対しては内部組織への負担はかけられるってことじゃないの?」
これ見よがしに何度も同じ部位を純が叩きつけているとわかる。故に首は身体が空中に浮きながら九十度まで曲がろうとしていた。伸び切る筋繊維がいつ切れてもおかしくない状況。
蟻になりきれなかった人間の悲惨な末路がその合成人の脳内を駆け巡る。
「まぁその前に」
何度も入れられた純の拳が止んだと思った次の瞬間身体が反転するのがわかった。
「関節あるっぽいって触診でわかったし、脚の関節折ればいいって話か」
バキッと何かが突き刺さる音が響く。脛骨と大腿骨の間をいとも容易く純がいつの間にか手にしていた木の破片が膝蓋骨まで到達、粉砕したのだ。全てが頑丈な皮膚で覆われていない。ある程度強度の下がった柔軟な物質で構成されている。
そこが膝裏だったという話である。
「アァアアア」
「ハハハッ、思い出すよな、子供の頃虫の脚をむしったこととか」
何故か懇切丁寧に敵にその弱点を伝えながら、ひたすらに喋り続ける純。そして、無邪気な笑みが折ってちぎった右足をバトンのようにクルクルと宙に回しながら放り、掴むという構図。それは邪気をはらんだただの悪意にしか見えなくなる。確かに純は殺さないと言った。それは敵を気絶させる程度のことだとこの場においては誰もが思うだろう。しかし、どういった手段をとっても敵を生かして無力化すること、だったのだ。生きているだけでも儲けものかもしれない。
それでも、計画を把握しているタチアナからしても吐気がするほど情けをかけるには程遠い、趣味の悪い光景だった。
「おいおい、今の笑うところだぞ? 気づかなかった?」
言葉の壁以上の壁があることは誰にも理解できた。
◇◆◇◆
「コントロールが荒くなるのは残念だが、よしとするか」
アジィアアールの魔剣。刀身から溢れ出る冷気は任意の分子の動きを止めることが出来る。端的に言えば、液体を個体に変えてしまえるまでの冷気を任意の場所に送れるということである。今回は空気中の水分を対象にある程度の座標を視覚情報から測定し放っている。つまり、目で追うように相手に氷を走らせるよりも、壁までのようにすでに視界に捉えている範囲を対象と取ってしまえば精密さにかけるが速度が増すということである。
伝承によれば、変わらない日常、つまり想い出を色褪せず固定することに取り憑かれた魔女が生み出した魔剣とされている。まるで時間という概念を凍結しそうな文言だが、実際に作用できるのは三次元に留まっている。
しかし、今でもその魔女は普遍を求めて魔剣と共にあるとされている。
「後は全員氷漬けにしていけばいいか」
そういうと今度は上空と切断した氷の床を底面とし、合成人と自身を覆うように箱を形成すし、逃げ場をなくし、包囲した後凍結させる。ちなみに氷漬けにできるが、実際は空気中の水分しか凍らせていないため人体まで凍りついていないので純の言いつけどおり殺してはいない。しかし、氷自体は密着しているので放置しておけば自然と凍死してしまう。だから四肢が壊死した頃合いを見計らって凍結を解除することで殺さなない言いつけを守ることに紘和はしている。ちなみに人体は凍らせていないと言ったが、身体を震わせたり何らかの力で氷を内側から壊そうとした場合、その氷の内側を生物の意識が混迷するまで温度を低迷させるといった、より残酷なことを行っているだが。
結局の所、死ぬよりも辛い地獄の牢獄に入れているということである。
「後は精度を上げつつ速度を維持する練習だな」
何よりもタチが悪いのは血液を対象に凍結、壊死させて身動きを封じていくという最も簡単な方法をとるのではなく、武器の性能と己の実力の向上を余すところなく実証するためにどんな酷いことすら、酷いことをしている認識で行っていないというところにある。
◇◆◇◆
前線へ特攻してきた蟻の合成人の脚をもぎ取り、それでも這いつくばってくる合成人には口内へそのもぎ取った脚を内側から頬を貫くように刺す。もちろん、貫通しないが内側は当然強固ではないため痛みに怯み、個体差はあれど痛みから失神するものもいた。そうして、いとも容易く合成人の包囲網をこじ開け正門へ近づく純。
楽しく踊るように合成人を圧倒する姿はロシア側の指揮を下げるには充分なほどに残酷だった。
「前線に立つ。それはここで食い止めれば最小限の犠牲で済むことを意味する。臆するな。俺たちがここでやつらを止めるんだ」
大声と共に正門の上から氷の床を突き破って人影が落下する。
地響きは凄まじく、構えていなかったものはフラフラと電車の停車や発車の慣性に引っ張られるようにバランスを崩した。
「まぁ、こうなるわな。長い付き合いになりそうだな俺たち」
立ち込める雪と砂の混じった煙に向けて純が声をかける。
「お前は害であり、危険分子だ。だから、抵抗できない状態に追い込む必要がある。そのためのナンバースリーだ」
ゆらりと動く影は次第に大きくなる。
一歩一歩が大きな音ともに近づいてくる。
「いいか、お前ら。俺たちは勝つ。だから全力で総力を上げて潰せ」
マンモスの姿で駆け抜けていくラーヴァルの背中が士気の下がった合成人たちを奮い立たせる。
中には脚を折られてなお飛行能力で戦線に復帰しようとする蟻の合成人も現れる。
「いいねぇ。やっぱり下を選んで正解だったわ。俺を楽しませてくれよ」
背後から迫る飛んだ蟻の合成人の首をふり返ることなく鷲掴みにすると、突進の勢いを殺さずにそのまま突進してくるラーヴァル目掛けて投げつける。ラーヴァルはそれを正面から受け止め、地面に下ろす。そこを純の飛び蹴りが襲いかかるがラーヴァルは出現させた象牙で弾く。因縁の対決の火蓋が再び切って落とされたのだ。
◇◆◇◆
割と厚めに作った氷の壁、正門に張った側面と床の二箇所突き破るだけの怪力から、姿を目視は出来なかったが恐らくその体重からラーヴァルだろうと想像し、どうして敵対関係を取ったのか疑問に思いつつ空いた穴を即座に修復した紘和。そして、穴を開けるという単純な打開策に気づいた他の合成人たちもラーヴァルのように氷の壁に攻撃を始めた。しかし、いくら装甲があっても、一トンもの切断力を持った顎でも、紘和が壊される可能性を加味し始めた段階で意味をなさない。壁はより分厚く、少しの傷がついた瞬間に紘和が再生させてしてしまうからだ。チャンスはラーヴァルが突入する前にしかなかった。
同じ轍は二度踏まない。
「ちなみに、他のロシアの右手はどこに配置されているのでしょうか」
そう、同じ轍は二度踏まない。
「教えていただければ、私が相手できるというのに」
次こそは純より先にロシアの右手と接敵してみせると。
◇◆◇◆
「どうして戻ってきたんだよ。あの流れだったら右目を失わない選択肢だって考えられただろうに」
肉薄する中で純はラーヴァルに事の顛末を聞く。
「なんでだろうな。正直、これが賢いやり方じゃないっていうのはわかる。それでも従わなければいけない時ってあるだろう? そういうことだ」
「まぁ、こうさせられることは予想通りだからな。だから俺も万全な体調で挑んでる。安心しろよ、この前とは打って変わって俺は強い」
事実、ラーヴァルの攻撃は全て紙一重でキレイにかわされている。首元を掴むための右ストレートも、足払いで空中へ誘導してからの頭突きも全て先読みされているかのようにかわされる。しかし、絶好調の純は見慣れた光景だとしてもラーヴァルの動きも絶好調のように見て取れた。臆することなく、僅かなためらいもない攻撃の数々は連撃となり純に限りなく反撃のすきを与えなくさせている。もちろん、以前の日本襲撃の時のようにリミッターが外れた状況にあるのはもちろんだろうが、それにしても純の植え付けた恐怖をここまで瞬時に克服して戦場に復帰するのは不気味であった。ラーヴァルと共に帰還した合成人も正門の警護に何人かあたっているようだが、まるで人が変わったように純と向き合っていた。
そして対面している純にとっても同じことが言えた。同時にこれが【漆黒極彩の感錠】の与える力の一つなのだろうと純は推察する。感情の制御はもちろんだが、十六の感情に則った異能を純も全て正確に把握しきっているわけではない。
単純に障害に感じないから不要というのが大きいところであるが、それでも他者に大きく影響力をもつ対象兵器というものに興味をもつならこの瞬間だろう。
「やっぱり蝋翼物はすげぇよ。この世のものとは思えない」
純は誰にも聞こえないぐらいの声でそうつぶやくとラーヴァルの迷いない殴打に身を翻して交わしラーヴァルの加勢に入ろうとしていた合成人の一人の頭を鷲掴みにしながら地面に叩きつける。
「よそ見をするな」
ラーヴァルは背面に回り込んだ純に大ぶりの裏拳を叩き込もうとする。
しかし、それは一人の蟻の合成人によって防がれる。
「つぅ、これがナンバースリーたる所以のパワーってことね」
「お前、何を考えてる」
多少傷がついたぐらいでほぼ無傷の味方の裏切りにラーヴァルは虚を付かれる。
「何だと思う?」
蟻の合成人は顎を突き出しラーヴァルを噛みちぎろうとした。
周りの合成人たちも押せ押せの状況が一変、味方の裏切りに混乱をする。
「ほんとなんだよ」
しかし、そんな純をかばった合成人に真っ先に一撃を加えたのは他ならぬ純だった。
「せっかく楽しく遊んでるんだ」
「え? ちょっと待って私は」
「この場から消えろ」
純は蟻の合成人の脚を払い、浮いた両足をしっかり掴むと一周その場で回転してハンマー投げの要領でその合成人を正門前の敵が未だ多く構えた場所まで吹き飛ばした。状況の把握が追いつかない多くの者を置いて純は一人戦闘を再開する。狙うは半身捻って純の方を向くラーヴァルの右目。我ながら完璧だと思える状況とタイミングに純は震えながら拳を叩き込んだ。
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