第三十三筆:サクソウ

「さて、本来なら、両手に華の中、口うるさい奴に意味深な言葉と一緒に自分たちの持つ武器を確認し戦力つつ、移動を開始していくところですが……」


 集落からある程度離れ、何かあったとしても迷惑がかからない、何より第三者から聞き耳を本当に気にしなくて良くなったところで、紘和が口を開いた。


「純と合流できていないことを考慮して、快適に当初の予定通りにライザの元へ向かおうと思います」


合流できなかったこと、結局移動はするのか、そして何が快適なのか、その一切に理解が示せず、臨機応変を歪に歪めた表現を耳にしているような錯覚に陥っているタチアナとアリスを尻目に友香が質問する。


「当初の予定……というと、一週間後に東部軍管区にたどり着いて大将首をとるという予定にのことですか?」

「それです。正確には四日後に東部軍管区で大将首をとるべく行動している、ですが」

「でも列車を用いてその日数ですよね。そんな都合のいいことができるんですか?」


 紘和に友香が相槌を入れることで話の要所々々がまとめられていく。


「ここの土地勘があれば今日にでもたどり着くことは可能です。なくても問題はないのですが、到着時間に多少の誤差が生じてしまいます。そして、それを可能にするのはこの」

「【最果ての無剣】ですか?」


 まるで短時間で料理をしてしまいそうなノリで話は進む。


「まぁ、それ以外ないですよね」


 タチアナとアリスはもちろんこんな日本の料理番組のノリを知らないので、いつになく真面目に話が組み立てられ、話されているなぐらいに感じていた。一方で、この後の過酷な戦闘を考えて、ちょっとお茶目に進めているつもりなだけに反応が薄いのは紘和と友香的には残念なところだったようで、少なくとも友香の表情は曇っていた。

 そして、紘和はそんな友香を励ますように、コホンと咳き込み、場のリセットを試みてみせる。


「早速ですが、人死を避ける上でも私たちの進路上の安全確認していただきたいのでタチアナさん、お願いできますか?」


 お願いという名の断れない命令。つい先日人質らしくしろと言った人間のセリフとは到底思えない言葉であった。飛行能力をもつ他に聴覚、視力共にフクロウが人と交わったことで通常よりも飛躍的に向上している。それは紘和も先日の狩猟風景で確認している。

 一方で、その先日の状況ですでに互いの格付けが決定しているというタチアナには皮肉な話でこの話のミソであるのだが。


「東部軍管区方向でどのくらいの距離の安全をとればいいのでしょうか?」

「タチアナさんが把握できる範囲でいいですよ。私はそれに合わせようと思います」


 紘和からすればタチアナに華を持たせる提案のつもりだった。しかし、そんな気遣いを知る由もないタチアナは確認する。結果、悪気言い放たれた紘和にとっての事実、タチアナの能力に対して紘和が合わせられるという話は、事情を知らない者が聞いたとしても皮肉に聞こえなる鼻につく言い方であり、当人にとっては自身の性能を見せつけようとやっけになるのは自然な話だった。

 特にここ数日、人質なのにというよくわからない自問自答がストレスになっていたタチアナにとっては、である。


「わかりました」


 そう応えたタチアナはみるみるうちに姿を変えていく。白い羽毛をその身に包み、腕から翼が生え、目は大きく、足の肉付きもよくなるのが目に見てわかった。

 アリスはもちろん、友香もタチアナが変身する姿は初めて見ることになる。


「それでは、行ってきます」


 くちばしから流暢な言葉が出てくる感覚に友香とアリスは戸惑いつつも、顔を上下に振って羽ばたいていくタチアナを見送る。

 そしてタチアナがある程度の高度で停止したのを確認して友香が一言。


「タチアナさんって本当に合成人だったんですね」


 友香は上から舞い降りる真っ白な羽毛を手に掴んでボソリとつぶやいた。合成人ということでイギリスに居る時から同行しているが、こうしてタチアナの真の姿とでも言うべき容姿をみるのはなんだかんだで初めてで、何より少しだけその体色、白銀世界の白という色の雰囲気と人と動物が調和した姿神秘性を感じていたからだ。

 決して、疑っていたというわけではない。


「ふと思ったんですけど、私が彼女の血液をなめたらどうなるんですかね?」

「今更ですね」


 一方、友香がつぶやいたものとは違い、単なる好奇心として人に聞いてみたという、フランクな感じのアリスの問いかけ。今更とは言ってみたものの、特別何かを深く知っているわけではないので、紘和も少し気になったのは事実だった。

 成りすましは、対象としたい相手のDNAを取り込むと容姿はもちろん、その身体的特性まで全てを再現できる。DNAをストックできる数は三つまでだが、ストックしているものの技術は応用として使用できる。後者はアリスが新人類の中でも成功例に近いが故に出来ることである。加えて、ストックを失っても技術の方は覚えていることができるので再現できる肉体を再獲得できれば、いつでもある程度のスペックは再現できるというものである。

 合成人を取り込み、身体的特徴を再現できれば、その合成人となっていない身体での技術の再現性には難があると考えられるものの、単純にその成りすました身体的特徴は、瞬発的な火力アップとしては驚異的なものが期待できるのではないだろうか、と紘和は考えるのであった。


「問題はあれを人間と識別できるか、なのでしょうか」


 思考の整理をするようにポツリと疑問だけを口にする紘和。当たり前だが、人間以外のDNA情報を再現していたら食事がままならない。牛肉を食べて牛にならないのがその最たる例だろう。故に対象とするのは人間に限るという話である。それこそできてしまえば合成人以上の汎用性が生まれてしまうかもしれない。そして、今よりもイギリスが手元に置きたくなる気持ちはより一層増すだろう。

 無論、そんな使い勝手のいい人間を純がそう安安と誰かに譲るとも思え合いが。


「後でかじってみますか、アリスさん」

「人の居ないところで物騒な話を進めないでください」


 羽ばたく音も静かで、すでにそれぞれのすぐ真上まで降りてきていたタチアナが嫌そうな顔で講義してきた。


「逃げずに戻ってくれたんですね。あぁ、レイノルズさん。必要に応じて試してみてください。どうせこの先いただくチャンスはいくらでもありそうですから」

「自殺願望はありませんので」


 タチアナからという意味ではなく、ここから先には合成人がたくさんいるという意味なのだろう。

 同胞がやられていくかもしれないところを想像していい気分がするわけもなく、明らかな敵意をアリスに釘を差すように向けてタチアナは着地した。


「はっきりと物が見える距離一キロ圏内には木と雪以外特に何もありませんでした」

「ありがとうございます。それではみなさん少々下がっていてください」


 そして、本来の目的であった情報を伝えると、その情報から移動手段のための工程に移る紘和。礼を言われてすぐにタチアナは元の姿に戻っており、皆大人しく巻き添えを食わないように紘和から離れるように下がりだした。紘和は何も言わなくても皆が安全なところまで退避したのを確認すると、すでに何かしらの遺物を手にしていたのか、右手を振り下ろした。すると雪原を炎が一直線に駆け抜けた。火が通り過ぎた後は地面が見え、木々が燃えていった。

 そして、右手を振り上げると燃えていたはずの木々から火が消えた。


「これでほぼ完成ですが、ちょっと工作が必要ですかね」


 話が見えてこない紘和以外の人間は首をかしげる。


「さて」


 その一言と共に周囲の木々が市販されている木材と遜色ない加工された角材の姿に早変わりする。そして理解が追いつかない三人を置いてけぼりに紘和は黙々と木材を用途に沿ってカットし組み立て始める。大仰に言っているが最終的に出来上がったのは犬小屋を大きくしたようなものだった。それでも紘和という人間が日曜大工をあっさりとこなす姿には、育ちがいいという固定観念からそんなことも出来るんだ、と皆を驚かされるには充分だった。

 しかも日本人の大工らしく精密な切り口に継ぎ合わせ、さらに補強として杭も端材から作成し、それを腕力で埋め込んでいた。


「すごいですね」

「そうですか?」


 友香の褒め言葉が果たして日曜大工が出来ることに対してか、全てのはめこむという工程を人力でしてしまう怪力に対してかはタチアナとアリスの知るところではない。


◇◆◇◆


 局地的な春を感じさせる、土のはだけた長く伸びる一本道の両端を雪に挟まれた道に、先程作られた大きめな犬小屋が置かれる。紘和を除いたトナカイと女性陣はすでに中で待機している状況だった。この家ごと移動することまでは想像できなくもなかったが、正直どうやって移動させるのかという疑問があった。もちろん【最果ての無剣】にある何かしらの力を使うのは間違いないだろう。

 最悪、紘和が押して走るといい出したところでトナカイよりは馬力がありそうだなと納得してしまいそうなところが少し順応して怖いと感じるところではある。


「それじゃぁ、移動を始めますね」


 紘和の声は外からする。ご丁寧に添えつけられた扉や窓から紘和が中に入る様子はないが、外の景色が紘和の声とともに音もなくゆっくりと動き出していたのはわかった。摩擦音を感じさせない点からまさか持ち上げてる、などといった疑問が浮かぶが流石にそれは納得できるところではない。それは中にいた誰もが同じで、故に友香が代表して窓から顔を出して外を確認した。そしてその動作に移行している時には、すでに家がものすごいスピードで動き出していると気づかされた。窓から身を乗り出した時に感じた肌に痛いと感じさせる冷たさと吹き飛ばされそうなほどの風圧がそこにはあったのだ。

 友香はよろけ出そうになるところを上から伸びてきた手によって中へ押し戻される。


「景色を楽しみたい気持ちもわかりますが、危ないですよ」


 重力と風圧を意にも返さない紘和が器用に家の側面に張り付いたようにいた。恐らく友香が窓から顔を出すまでは屋根上にいたのだと思いたいほどに不自然な姿勢がそこにはあった。ヤモリである。違う点は、吸着性のある足で張り付いているのではなく、指先を器用に所々に用意されていたと思われる壁のくぼみに引っ掛けて、握力でしがみついているのである。

 まさに人間離れした様な人間業だった。


「ひとまず、中でお待ち下さい」


 紘和はそれだけ言うと友香が顔を引っ込めるのを確認して上に戻っていった。


「ちなみにここを開けていただければ連絡は容易だと思っています」


 状況の確認をしようと悩む友香に答えを出すように屋根の一部が開閉する。

 小さめな隙間から紘和の顔が覗いており、みなどうすればいいのか理解する。


「早速だけど、どうやって動いてるの?」


 室内組を代表してアリスが移動のカラクリを聞く。


「原理はリニアモーターカーと同じです。【最果ての無剣】を利用して磁石を作って浮上、推進しています。無色透明と言えど何かしらの物質でできています。それを電気抵抗がなくなるまで冷やしてあとは電気を流せば即席でこんなことができるわけです。急ごしらえですが、調整は全て私がしているので問題はないでしょう」


 さらっと原理の説明までしてくれたような気もするが、要するに【最果ての無剣】を冷やし、電気を流すことでこの家は動いているということになる。加えて炎で随時道を広げながら進んでいるのである。

 それだけの属性を放つてる遺物が存在することなど、もちろん友香を始め皆知らない。


「冷やすって、外気よりも冷たくしつつ私達が凍死、感電しないように制御して……そもそもそれだけの力が扱えるものが存在していたなんて。第三次までに火の系統は確認していたが、これほどまでに幅があるというの」


 ある程度は紘和の行っている凄さがわかるタチアナはわかっているからこそ頭の中がパニックを起こしているように見受けられた。


「他にもあるのですが、危害が最小限、負担が少なく済むことを考えてこうなりました。というわけでみなさんは気楽にしていてください」


 こうして戦力外通告されたトナカイと共にライザの元へ向かうのだった。


◇◆◇◆


 タチアナは人質でありながら明日には東部軍管区に入るというのに、これといって何もない平和な旅路に頭を整理していた。敢えて何かあったとするならば、戦力外通告され、食料となる選択肢しかないと思われていたトナカイがポチという名前を授かりペットとして飼われだしたことだった。一つ屋根の下にいたため愛着が湧いたアリスと友香の要望に答えてのことだった。食糧難というわけでものなく大人しいこともあり、ポチをペットにすることに反対する者はいなかった。そして、ポチに芸を覚えさせる光景を眺めたり、紘和から使用した神器やら遺物についてそれとなく探りを入れて過ごす日々が続いたのだった。しかし、ポチにも【最果ての無剣】に関しても特に収穫はなかった。

 だからこそ、考えをまとめることが日課でもあったのだ。こうしていられるのも今日までなのだから。理由は単純、東部軍管区に入るということは合成人からの襲撃が続くことを意味する。正直、この区画に入る前にヘンリーを始めとした他国からの妨害を予想していたが特に何もなかったのは驚きだった。

 特にヘンリーには行動を起こす理由が明確にある。一度入国が許可されている以上、国家間という制約があれど八角柱の一人である。ロシア側も見返りを求めはするだろうが、アリスを取り返すだけなら正直戦争が起こるほどの問題には発展しない。故に、ヘンリーがわがままを通してやっきになって追撃をしてくるのは目に見えていた。しかし、現実は違った。これはアリスという新人類の価値がその程度ということなのか、タチアナの知らないところでロシア側と密約をかわしたか、それとも何らかの制裁が与えられているか。後の考えほど可能性は低いはずなのに有り得そうな気がしてならないタチアナ。嵐の前の静けさ、そう捉えて不気味でならないのだ。

 だが、タチアナにとってこのことはさほど問題ではない。ここ数日で気になり始めたことに比べれば、だ。それは紘和が、というよりも純がライザを標的に動き回っているという点だった。特にロシアの実質の支配権を持つ人間が狙われているという事実には違和感などない。もちろん、そんな人物を標的にしようと動き出す酔狂さはここでは加味しない。だが、ライザは現在表舞台に姿を現していない。代わりにアンナが全権を握って合成人を始め政に尽力を尽くしているのが内部状況であった。ここで重要なことはなぜライザが姿を消さなければならないかという点である。

 理由はライザが意識不明の状態にあることに起因している。これが現在、東部軍管区をロシア側が他国にも自国の民にも進入不可領域にしている最大の理由である。合成人を製造している時から厳重に扱われている区画故に段階を踏んで最終的に進入不可としたように見せられているため、不審がられずに隠し通せることが出来ているのである。最大戦力の一人が機能停止状態にあると知られれば他国に攻めいるスキを与えかねない、同時に自国の民の不安を煽る結果となるとして現在は医学研究に尽力しているという体でごまかしがされている。

 実際にライザは医師として最高峰故に八角柱に在籍している。その知識と技術は治療薬さえあれば必ず救うほどの才能を持つ。これは同時に救わない手段も多く知っているという評価である。また、功績も充分すぎるほどにある。その筆頭がこの合成人である。【環状の手負蛇】の血に着目して多種族の血を繋ぐ。この際限なく種族を、文字通り合成できたとしたら一体どれほどの戦力が誕生するかを考えれば偉業であったということは疑う余地もない。他にも生態学に関しては多くの論文を出したり、新薬の開発を行っている。近年ではラクランと共に、機械と生命の融合という観点から共同開発を進めていたものもあった。

 そして、現在意識不明のライザをつなぎとめているのはそんな彼女自身の技術によるものだった。これだけ不吉な言葉を並べればまるで死んでいるような感じがするだろうが、植物状態という意味ではほぼ同義である。アンナが言うところには突然倒れたらしい。しばらくして心臓が止まったということもあり、急遽保管されたツァイゼル、陸の血を保管した培養基に保存するという名目で沈められたのである。この種族のDNA情報をつなぎ、死者をなんとか生きている状態に保てる血液は結論から言うと生きているのである。ヘモグロビンと呼ばれるタンパク質単位で自律行動するのである。意思を持っているかは定かではないが一つ一つが確かに生きているのである。実際、通常の血液とは異なり未知の成分で構築され、ある一定の範囲内であれば持ち主の元へ戻ろうという帰巣本能を発揮させる。体外で増えることは基本ない。だが、血液自体は本体となる陸によって増殖させることは可能である。そんな未知の生命体の血液がその未知の力でライザの心臓を動かし続けているのである。

 このライザが床に伏しているのは大多数の合成人が共有している情報だが、瀕死に近い状況であることを知るのはごく一部である。もし、これを好機と純たちが攻めに来たのだとしたら内通者が居るということになる。疑いたくはないが、仮に誰か候補が居るとしたら現状一人しか考えられないと思えるのがタチアナの悩みのタネでもある。しかし、確証はない。そもそもこれは最悪のケースであるだけで偶然攻めてきたタイミングだったという可能性もある。しかし、だとしても何故八角柱を大胆にも標的にしたのかがわからない。今までの純の行動からすれば陸を追ってここまできたはずである。

 それがなぜ今回はライザをターゲットにしたのかがよくわからない。


「そもそも純たちは、いや、純は本当にツァイゼルを追っているの?」


 行く先々で何かが明るみになる。もちろん、ツァイゼルがそれだけ何かに絡んでいたということは疑いようがない。しかし、こうもいった先々で純が利を得ているような構図がここにきて、ふと何か大きなことに巻き込まこまれているんじゃないかという得体の知れない恐怖に包まれるのだった。頭の中を整理させようとした結果が、想像したくもないケースという最悪をタチアナにイメージさせた。つまり、純は陸を使ってここでも何かを得ようとしているのではないか。

 タチアナは屋根に続く扉を室内の棒を使って開ける。


「どうしましたか?」


 すぐに紘和の顔が出てくる。

 タチアナは確認しなければと口を開く。


「あなたたちはライザ様が身動きできない状況にあることを知っているのですか?」

「突然何を言い出すのですか?」


 タチアナはここで最悪のケースを確認しておく必要があると思ったのだ。内通者が居る場合と純が手に入れようとしているものの存在を、だ。もちろん、この質問自体がタチアナの最大の汚点となることは覚悟の上だった。なぜなら、ライザが動けぬことを知らなければタチアナがボロを出したことになるからだ。しかし、純という男を想定すれば、ライザのみ倒していいと宣言させていることからライザの今の生死がわかったところで結果は変わらないという気持ちにさせられてしまったのだ。仲間を信じていないわけではない。信じているからこそ、逃げる準備を誰に頼むかが重要になると判断したのだ。内通者にでも頼んでしまえば、それこそ意味をなさにのだから。

 しかし、返答は当然の様にはぐらかされた。追求したいという気持ちをタチアナは抑え込む。下手に刺激をすれば気づかれたと殺されてもおかしくはないからだ。

 人質であってもほとんど機能はしていない自信以上に、紘和を信用していないという一点における判断である。


「そのままの意味でした。動けないライザ様だけ殺害のターゲットにされている。それが今のライザ様の状況を知ってのことなのか確認したくなったのです」


 やってしまったと反省するのと同時に返答はないにしろ知らなかったかもしれないという可能性がタチアナに妙な安堵感を与えた。


「動けない? さっきだって会議に出席したから私たちが襲撃を受けたのでしょう? ……詳しくお聞かせ願いませんか?」


 しかし、この紘和の言葉に全てが一変した。ボロを出してまで聞いたかいはあったものの安堵感というものが一瞬で吹き飛ばされるような感覚。そして、タチアナは知ることになる。八角柱が顔を合わせて何かを決定する際に代理という行為が取れないという事実に。だからこそ、票に意味をなすのだと。


◇◆◇◆


 リュドミーナの指示でラーヴァルの行方を探るべくロシアの右手ナンバーフォーである、他のメンバーよりもいくばくか年老いて見える男、オーシプ・ブリュハノフは現地に赴いていた。列車事故の現場に事故の痕跡を見てイザベラという八角柱の実力を再認識しながら、ラーヴァルが純を追ったという方向に走り出す。そして、ものの数分でラーヴァルとの通信が途絶えた場所まで走り抜けると、現場には血痕を始め、争った痕跡があるだけだった。ここで考えられる可能性は二つあった。一つは、ラーヴァルが役目を果たし、純を連れて帰還している可能性。この場合、リュドミーナの連絡に出ないというのが不審な点になるが、通信機器が全て機能停止になっている可能性もある。その場合、連絡手段に最も足、飛行速度の速い部下を出している可能性もあるが、ラーヴァルが連れて行ったメンバーを考えればその連絡が辿り着くのは恐らく一週間はかからずとも、ある程度の日数を要することになり、リュドミーナの指示が出る前にたどり着くことは決してないだろう。オーシプですら不眠不休で走って四日かかっているのだ。

 そして、もう一つの可能性は純がラーヴァルを倒して殺している、である。加えて従えている、あるいはラーヴァルが寝返っているというロシア側にとって最悪の状況も紐付けるように考えなければならない。理由はどうあれ、敗北の意識からある程度の交渉で純に従っているという可能性もある。

 寝返ったと考えるのは極めて難しい状況だが、可能性があればそれを疑うだけの細心の注意を払う様にオーシプはリュドミーナからいいつかっている。


「もしもし、リュドミーナですか? オーシプです」


 オーシプは見たままをリュドミーナに報告する。現場には争った形跡はあるが、純もラーヴァルたちも確認できなかったと。

 リュドミーナは報告を聞くと戻ってくるようにとだけ指示した。


「ではまた」


 オーシプは電話を切って一呼吸入れると再び走り出す。足跡は降雪で消えている上にどこかで乗り物を調達していればさすがに今から純もしくはラーヴァルと合流するのは難しい。しかし、現場から帰れば、乗り物を調達していなければ遭遇するチャンスが有ると考えたのだ。

 ちなみにオーシプは乗り物に乗らないのではない。自身で走ったほうがヘリよりも融通がきく上に列車よりも速く移動ができるから走っているのである。


◇◆◇◆


「浮かない顔ね」

「幾瀧が見つからなかった」


 リュドミーナはロシアの右手のナンバーファイブにあたる女性、ニーナ・コロチナを前に頭を抱えていた。オーシプの簡素な報告を聞く限り、何も進展しなかったからである。

 それは純が生きている可能性が百パーセントではないということである。


「でも、その幾瀧っていうのがいなくてもなんとかなるでしょ? それともその人じゃないとできないことでもあるの? 別に蝋翼物を持ってるわけでも神格呪者でもないのに」

「そういう尺度で測れる問題ではない。野球をする時、道具と人数、場所があればプレイができると思っているのと同じだ。例えば酸素のない空間で、できるか?」

「できるわけないじゃない」

「そういうことだ。当たり前すぎるぐらい必要な最低の条件として幾瀧が必要なんだ。特別な力はないが、あれがその場にもたらす力は特別だ」

「わけわかんないよ。まぁ、エカチェリーナさんもこっちに戻ってるし、問題ないって。もっと気楽に行こうよ」


 リュドミーナはニーナに顔を向ける。


「私たちにはそれだけの力がある。合成人っていうアドバンテージを信じよう。ただの人間とは違うんだから」


 笑うその女は、ロシアの右手の中で最も殺しを得意とする合成人だった。


「それに明日から忙しくなるんでしょ? それこそ特別な蝋翼物と神格呪者、それに新人類だっけの相手をしなきゃいけないんだから。できるだけ戦闘不能に追い込んで、いいものは奪う。オーシプさんもエカチェリーナさんも間に合うかはわからないんだから」

「大丈夫よ」


 ニーナの不安は解消されることになる。

 いつの間にか空いていた広間に通じる扉が開いて、そこには話に上がっていたエカチェリーナがいたのだ。


「前回の汚名は必ずすすぐ。必ずよ」


 リュドミーナは本来の目的とはズレているであろう眼の前の好戦的な女性陣に思わずため息を漏らす。善戦すればそれでいいと思っているのか、生け捕りが目的であることを忘れてもらっては困ると思うのだった。


◇◆◇◆


「つまり、あなたたちの知るライザとアンナは私たちの知る彼女たちとは違う存在ということになりますね。不審な点があるとすれば、合成人の方々が誰一人この不審な点に気づいていないことにありますが」


 移動を止め、タチアナの話を聞くべく室内に戻っていた紘和。そこでは紘和たちがライザと思っていた人物がアンナでタチアナたちがアンナと思っていた人物がライザであるという珍妙な話が挙がっていた。

 電波が届かないということもあり、確認するために互いの知る人物の顔写真を突き合わせるという手段も取れずにいた。


「タチアナさんはどの様にお考えですか?」


 タチアナは紘和の質問に何も答えられずにいた。理由は簡単である。わからないからという一点だった。タチアナからすればアンナだと思っていたものがアンナだとしてもライザだったとしてもなぜ情報を共有していないのかという猜疑心をくすぐられる状況。後者だとしたら、今後の忠誠にも影響していくのは間違いなかった。さらに、この情報操作が合成人内のどこまでに影響しているかも気になるところではあった。タチアナが下っ端だったが故に知らなかった可能性もある。上層部、特にロシアの右手やエカチェリーナに関して言えば、知っていても不思議ではない。しかし、誰も知らないとなれば、一人その状況で何をしようとしていたのかと疑念が募ってしまう。ちなみに、ここでなぜタチアナがアンナたちは紘和たちを騙しているという可能性を疑わないのかと言えば、それを可能にしそうな類似の力を知ってはいるものの、その力に世界全ての人間を巻き込む、という拡張性がないこと、そして何より類似していると言えばしているだけであり、ここまで精巧に騙せる機能を有していないと聞き及んでいるからだ。そもそもそんな他人を完璧に騙せる手段があるとすれば、潜入にタチアナみたいな人間を使用する必要がない。合成人だって、タチアナの知る限り見た目や技能だけで心の内まで把握できる存在ではないのだから。それがだけの演技派という考えも出来なくなはないのだろうが、それではあまりにも現実味のない、お気楽な思考、逃げているだけにしか思えなかったのだ。

 さらにこの話の厄介なところは、ではどちらが見た目、性格共にライザを見間違いさせられているのか、という点である。つまり、どちらかが事実という前提で話していたが、どちらも事実、もしくはどちらも虚偽の可能性もあるということである。問題は、そのどちらを取るにしても結局のところタチアナにそれを実行できる手段の知識がないという点である。

 タチアナは考えれば考えるだけ、自分がどうすればいいかという、知らされていない立場故のトップへの不信感から、忠誠が崩れていくのを感じていた。


「取り敢えず、騙されている立場で納得した理由が得られなかったその時に考えを改めて伺えたらと思います」


 紘和は自分はどちらにしてもやることは変わらないといいつつも、信じていたものを疑わなければならない状況になったタチアナを不憫に思ったのか、少し気の利いた言葉をかけたのだった。少なくともタチアナは現在、ふたりの上官に疑いの目を向けているのだが、紘和がそこまでわかっているかと言われれば、わかっていない。

 だが、少しでもタチアナに落ち着きを取り戻させる感覚を与えたのは間違いなかった。


「そうですね。聞けばわかります」


 タチアナの落ち着きを取り戻した声に、紘和はぼやく。


「あいつはどこまで知った上で何がしたいのだろうか」


 言われたことをただやるだけだった紘和という人間が、自身の目標に関係ないことの意図を考える貴重な瞬間だったが、そこに誰かが賞賛の言葉を送ることはなかった。全ては明日、日が出るのと同時に強襲を仕掛ける東部軍管区内で誰かが答えを用意してくれているはずだったからである。


◇◆◇◆


「ライザ様」


 アンナは一人、陸の血液の入った培養液に漬けられた女性を見ながらそうつぶやく。どうしてこんなにも遠回りをしなければならなかったのか、自分でもそうさせた状況が訪れた日のことは今でも疑問に残る。出来心と言うにはあまりにも不慮の自己だったと。しかし、それも後数日で終わる。純を招き入れて彼の配下の人間を使えば、どうにか出来るとこの血液の持ち主が言っていたからだ。日本襲撃は失敗に終わったが、今度はホームである。

 不確定要素だった人間の存在は今のところない。


「それでは、行ってきます」


 返事はもちろん返ってこない。そして不確定要素とは知らないことだから起こりうると彼女はまだ知らない。


◇◆◇◆


 流れてきた緊急を要する不測の事態を確認するためだけに一人の男が東部軍管区に侵入する。もし、純が死亡していた場合、ここから先の役目を誰かにこなさせなければならないからだ。

 決して自分では追うことのできない役割を、お味方だよりでやらなければならないのだ。


「味方……か」


 内心で思った単語を口に出す。そう思ってしまうほどの関係であるのかもしれないが、実際のところはどこまで行っても敵である。好敵手と書いてライバルと読ませるような良好な関係でもない。それでも擦り切れそうな心身だった当時を思えば、苦肉の策だったとしても、そういった感情が芽生えてしまうのは仕方のないことのような気がする。だからこそ、純の生死を確認しに独断専行でここまで単独で奇襲したのである。何もなければそれでいい、そう全ては明日のためにと。

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