第三十二筆:フアン

 点々としたチュームを囲むようにめぐらされた木製の柵の隙間、入り口と思われる場所に立っていた紘和たち。紘和にも異民が異民に抱くであろう警戒心をそれとなく理解しているつもりだった。

 故に勢いで中に押しかけるようなことはせず、一応、柵の外側から侵略者ではないと、敵対心がないことを意識づけた上で声をかけようと計ったのだった。


「すみません、どなたかいらっしゃらないでしょうか?」


 紘和たちとは少し離れた所で待たされているアリスと友香にとっては流暢なロシア語が聞こえる。交渉などはタチアナが行うかと思っていたが、行っているのはその実、紘和であり、警戒心を和らげる目的で隣にはタチアナを立たせて赴いていたのだ。しばらくするとチュームの中から数人の顔がひょっこりと出てくる。そして、紘和とタチアナの姿を確認するとすぐさま顔をチュームに引っ込めてしまった。

 しかし、一分もしないうちに一人の男が紘和たちの方へ近づいてきた。


「ここらじゃ見ない顔、という表現もおかしいか。観光客だとしてもこんな辺鄙なところにくるのはおかしな話だとは思わないかい?」


 明らかに警戒心、いな敵対心を向けていると紘和は感じる。一方で、これは別に紘和にだけ向けられた言葉でもないようにも取れた。どのみち、男の言う通りこの区域がどういった場所に近いのかわかっていれば、どちら側の人間だったとしても、細心の注意を払って接触するのは当然のことである。

 いきなり攻撃されなかっただけ、武をわきまえた所作でよかったと受け取り、ここから距離を詰める努力を怠らないことが重要だろうと紘和は思った。


「嘘を言って揉めるつもりはありません。ですから単刀直入に要件を伝えたいと思います。今、私たちはロシアのとある組織から追われています。つきましては追手を凌ぐための拠点を設けたいと考えているのです」


 交渉のこの字も見つからないストレートな紘和の物言いに思わず目を見開いてその顔を見つめてしまうタチアナ。嘘を言って溝を深めるよりはマシなのかもしれないが、それにしては自分たちが危険であり、危険にさらされていると宣言してしまうことは、それはそれでしっかりと文字通り危険であると警戒心を煽ることになる。出向いた相手も数回の瞬きの後、明らかにその目を見開いたのがわかった。一方、当の紘和は真顔で相手の返答を待っていた。タチアナも紘和の人となりはある程度知っているはずだったが、恐らく駆け引きというものが基本ニガテなのだろうとこの時ばかりは思わされた。

 そう考えれば純の様な人間がそばにいるのは適材適所なのかもしれないが、それを本人の前で言うようなミスは当然しない。


「そういった厄介事に巻き込まれるのは正直御免こうむりたいですが」


 当然の返答である。しかし、恐ろしいのは紘和という男にある。恐らく交渉の類がニガテという意識があるのかは置いといて、相手から自分の要求が飲まれないということは想定済みだったと考えられる。それを踏まえて紘和は即座に実力行使に出ようとするのである。幸いにも良心があるため、紘和がタチアナに視線だけを送りその実力行使の是非を無言で問うてきた配慮により最悪の事態はまだ回避できるとタチアナにはわかった。

 紘和の実力行使、最悪の事態、それすなわち集落の人間の殲滅である。


「実は私はそのとある組織の一員で人質としてここにいます。追手が追跡の手を緩めていなかった場合は私がその足を止めることが出来ます」


 タチアナは自分でも何を言っているのだろうと疑問符を浮かべながら自国の民の死を回避するべく理解を得ようと説得を試みる。


「加えて、この人はとても強いです。現に私も逃亡することを諦めるほどです。と言っても強さは伝わらないと思いますが、わかりやすく言えば一人で戦争を、戦場を駆け抜け続けるだけの実力があります。なのでいざ襲われても恐らく人質の出る幕もなく迷惑をかけずこの場を去ることが出来ると思います」


 タチアナは間接的に交渉が決裂したらあなたたちは簡単に全滅させられてしまうことを匂わせる。しかし、あまりに強いの尺度の表現が大きすぎて逆に伝わりにくいことにタチアナは気づいていない。これも近くにいすぎたせいで感覚が麻痺したせいと言えよう。

 とはいえ、タチアナは気づかずとも伝えるしかない。言っていることは事実であり、ここで相手が、紘和がなぜ単刀直入に話を進めようとしたのか、その真意が、実力行使という殲滅が容易であるということに気づいてもらうしかないのだから。


「でしたらここで匿う必要もないと思いますが」


 予想より多少は紘和の実力を、強いということは伝わったのかもしれないが、今度はそれ故に相手からは強いなら自力で対処できるだろうと挑発的な言葉が返されてしまった。揉め事を持ち込みたくない、よりによって敵を引き連れている相手ともなれば一切のメリットが現状ないのである。

 このままでは話が前に進まない。そのためにこちらがお願いの質を下げる、もしくはメリットを無理やりにでも提示しなければ、とタチアナは危険性を伝えることから話をシフトチェンジして再度交渉に挑戦する。


「一人、追ってから逃れる際に仲間とはぐれてしまいまして、その人と合流するまでの間で構わないので、食料や身を休められる場所が欲しいのです。食料が一先ずもらえればこの近くで自分たちで後はなんとかします。なんなら謝礼を現金で致します。お助け願えないでしょうか」


 なんとしてもここで納得してもらい死を回避しなければならないという使命感がタチアナにはあるため、仕方のないこととはいえ、最初の紘和のズケズケしさは何処へやら、必死で助けを乞う構図が様になっていた。


「いいんじゃないの、そのへんで。俺の稼ぎでも出来ることはたかが知れてる。現金で手を打っておいても損はないでしょ。迷惑はかけないっていってるみたいだし」


 すると、そんなタチアナの必死な姿に心打たれた人間がいたのか、新たに一人、今いる男よりも少し若い男が姿を現し助け舟を出してくれたのだった。


「そうはいってもなぁ」

「何かを護る保守的、排他的な姿勢も度が過ぎれば時代遅れと揶揄される。それに、下手に刺激してもいいことはないと思うよ。その人質って人、軍人さんだよね。立ち振舞でわかるよ。そんな人が持ち上げる人だ。ここは二、三日余ってる場所を譲っても問題はないだろ?」

「軍人さん……なのか」


 タチアナはその質問には答えなかった。


「数日の人助けで臨時の収入が約束されるわけだよ? いい話じゃないか」


 渋る男の背中をゴールラインへ押し込むようなアシストが入る。


「わかった。でも、明後日には出ていってもらう。こっちも生活に余裕があるわけではないからな。だが、それまではチュームを貸してやる。食料も人数分用意しよう」


 ふぅとタチアナは思わず安堵の息が漏れる。


「助かります」

「ありがとうございます」


 紘和とタチアナがそれぞれに感謝の言葉を述べる。そして、紘和はすぐに友香たちの元へ行き事情を説明し始めていた。一方のタチアナは大きく息を吸ってある種の危機的状況を乗り切ったことに喜びを貯め、ゆっくりと再度緊張を解すようにその息を吐いた。そのまま両頬を軽く数回叩き自身に活を入れると、先程まで交渉を行っていた男に約束通りの札束を一先ず渡すのだった。その金額がいくらかの交渉もされていないとはいえ予想外に多かったのか、その男は目を大きく見開いた後徐々にたるんでいき、明らかに満足した表情をした。もちろん、受け取ってからは逆に顔をキリッと持ち直し、タチアナを案内するのだった。しかし、とタチアナは思う。

 何度も何度も自分が人質であるという立場を反芻した上で、敵のために交渉し、敵のために金を払う疑問を抱えるのだった。


◇◆◇◆


 チュームの一つを借りて暖を取る紘和たち。族長、一番最初に紘和たちとの交渉に臨んだ男、ゴルジェイから気を良くしたからか新たにチュームをまるごと一つ貸してもらうに至っていた。

 ただし、もちろん手放しの親切ではなく、これまた新たに一つの条件を飲むことで提供されることになっていた。


「お待たせしました。こちら鹿肉と水です」


 それは受け入れを後押しした、普段は街へ出稼ぎに行っているドナートという男が同棲するということである。ここで生活する上での身の回りの手伝いを始めとした、要するに監視が目的ということだそうだ。これはドナート本人が案内する際にはっきりと口にしていた。

 この監視下でも敢えて救いを上げるとすれば、日本語で話していれば紘和たちのいわゆる聞かれたくない話もドナートには理解できないという点だった。


「意外と広いんですね」


 友香がそう言いたくなるのも無理はなかった。テレビの向こうでみる遊牧民の家は組み立て式というのもあり、基本的には狭いというイメージがあるものだ。しかし、紘和やアリスも中に入って思ったことは温かいというよりも五人が一緒に入っても窮屈を感じさせず、身じろぎができるという点だった。

 そして軽い食事を済ませた一行は今後の方針を話し合い始めるのだった。ちなみにシカの生き血なども用意されていたが友香とアリスは辞退した。一方で紘和は特に嫌がる素振りを見せること無く順応してためらいなくそれをすすっていた。紘和曰く、貴重なものだろうし、郷に入っては郷に従えということだった。


◇◆◇◆


「ここにいる間は素直に純を待ちます。滞在期間までにここで合流できなかった場合は、私たちだけで先に敵陣へ乗り込むことにします。道案内はタチアナさんに任せるつもりです。後は臨機応変にライザの首を狙いましょう」


 紘和の計画と呼ぶにはあまりに淡白な、敵の案内が正しいことを前提に正面から突撃、という説明に誰もが異を唱えること無く作戦会議を終えようとしている。道案内を任されると言われたタチアナは当然、相変わらずの立ち位置に困惑の色を顔から隠せない。

 一方で、純がいなければこれほどまで機能していないかと思える連携、意識の統一の無さにため息をつきながら、その尻拭いをするようにタチアナは自然と紘和に質問を始めていた。


「えっと、臨機応変なんて便利な言葉で済ませていますが……。確かにこちらの戦力は明らかに充実しています。しかし、今回のように戦場、戦闘員の数が流動的に変化する戦況では、戦力というのは個々の力だけでは推し量れないものがあります。みなさんがどれだけ合成人の能力を把握しているのかは知りません。しかし、今もなお本拠地には千を超える、その未知数な合成人が待ち構えているはずです。そこに八角柱の一人に加え、蝋翼物の使い手と実際個々の力だけで比較してもこちらと遜色ない毛色が揃っていると言っても過言ではありません。みなさんは、こちらの、敵の戦力を過小評価していませんか?」


 紘和を始め、皆の視線がタチアナに集まる。


「それに、幾瀧さんなしでどうにかなる作戦なのですか? その彼の有無はそれこそ戦況を大きく左右しかねません。本来なら作戦の根本が崩れかねないほどの存在だと思います。となれば、しっかりと有無で作戦を立てるべきだと思います」


 そこに反論の意を示したのはもちろん、紘和だった。


「まず、誤解を解いておきましょう。私たちは、少なくとも私はそちらの戦力を過小評価していません。タチアナさんにもわかりやすく言えば、あなたが今からこの集落を一人で掌握する時、ここにいる我々を除けば達成は容易ですよね?」


 紘和の質問にタチアナは当然の様に顔を縦に振る。

 一般人を相手に合成人としての力を用いればこのぐらい難なく制圧は可能だろう。


「その感覚です。合成人であろうと私は負ける気がしないのです。例え徒党を組んできたとしてもです。個の力が全てではないという感じでタチアナさんは私たちの心配をしてくれました。しかし、少なくとも私にはその尺度が間違いなのです。決してうぬぼれではありません。私が見ている視点を共有できないならなおのこと、この誤解はタチアナさんとの溝を深くしていくでしょうが、それでも私にとっては純の有無に関わらず、合成人を前にしては変わらないのです。ですからエカチェリーナさんやライザさんと対峙する時までは一方的な制圧なのです。そして、二人を前にした時も結局、前に出るべきは私なのです。そのために純は私の自力を鍛えてきたのだと思います。まぁ、無理矢理に理由をつけるのでしたら、ですが。ついでに言うなら、先に私以外の誰かがその私がやるべき相手と対面したらという話もあると思いますが、その時は全滅前に私が必ず駆けつけます。出来なければ純がします。その純がフォローをしに来ないのであれば、そこまでだった、という話です」


 タチアナは紘和のことを己の理念に狂った危ない人間だと思っていたが、改めてその自負というものに背筋が凍るのを感じた。疑うことなく当然の事象のように、合成人千人を相手にしたところで全力を出さずとも突破のできる存在だと本気で思っているのだ。加えてロシアの最高戦力すら圧倒できると信じている。あらゆる者の努力を、才能を決して否定しているわけではない。かといって尊重もしていない。それがただただ紘和に出来る正当な評価なのである。一匹の蟻と一人の人間が戦った時の勝敗を疑わないように、それが仮に無数の蟻または毒を持つ蟻と一人の人間戦いであっても一般人なら異を唱えるものが出てもおかしくないところを、勝利で疑わないのである。蟻は何をしても蟻である、その評価が出来るのが紘和でされたのが合成人含むロシアの戦力なのである。

 しかし、これ以上に目を見張る奇抜さをタチアナは感じ取っていた。それは紘和の純に向ける信頼だった。ただの信頼ではない。本来であれば信頼とは信じること、その上で任せられることである。だから、失敗に対して働く信頼を信頼と表現するのは難しい問題である。だが、紘和は純が助けない命は、そこまでの命だと信頼しているのだ。そう見定められていると評価された友香やアリスへの信頼は二の次で、揺らぐことを一切気にしていない。それほどまでに依存し、身勝手な、信頼。

 タチアナは初めて他人に当てられてめまいがするのを感じるのだった。


「そもそも純なしでということですが、それは実際のところはありえません。私は確かにあなたに純と合流しなかった場合の話をしましたが、それはここで合流する話にはなっていなかったという話です。まぁ、純が死んでしまうということはありえません」


 タチアナはどういうことか正常な自分が歪に歪まされていくような信頼関係に顔を思わずひしゃげてしまう。しかし、その疑問に紘和が答えることはなかった。アリスに友香も初めて耳にしたのか各々が紘和の言葉に表情を作っている。

 アリスがタチアナ同様不気味なものを見るような顔をして、友香がへぇと関心を示すように聞き入っている顔をしているのだ。


「それに、後の二人も戦力、としてでもですが、それ以上のものだと私は期待していますし、疑ってはいません。あくまでそうならないけど、そうならば、程度だと思ってください」


 タチアナは触れる必要がなかったのだと思った。矛盾したような紘和の言い回しが、アフターケアのようなものでなく全て本心からの言葉なのか、ということではない。これもきっと何せ嘘ではないのだろうから。

 では何処に。部外者であるタチアナからすれば恐らくここにる純が集めた人間は、チームとしての連帯感などなく利害が一致しているから共に行動しているだけのメンバー。本当にそれである、その認識が正しければ、最もまともに見える友香という少女も列車内で純が言っていたようにどこか崩れ、それが異質となっているのは想像に固くなくないのだろうと、友香の紘和への反応で思ったのだ。だから、余計な言葉を重ねて新しい異質な感性に当てられたくないとタチアナは思い、耳にしたくないから触れることをやめたのだ。

 そんな中、触れられなかったことに安堵するものもいた。アリスだ。実力はある、としても紘和の言うところのそれ以上のものに心当たりが無いのだ。できるキッカケを失っているだけなのか、それとも本当に空っぽなのか。

 ここに来る前に友香に抱きしめられていなければ、今以上に存在理由に頭が重くなっていたかもしれないと思うアリスだった。


「それでは今日はもう休みましょう。明日は移動手段と当面の食料を確保する必要がありますし、最悪、純の取りこぼしと一悶着あるかもしれませんからね」


 こうして長い一日が終りを迎える。しかし、これから目的地までの距離を考えるならばまだまだ序の口と言えるのかもれないのであった。


◇◆◇◆


 友香はチュームが震えている音で目を覚ました。風が強いのか断続的に旗が風でなびくような音がチューム内に響いていた。音が気にならないほどに疲れているのか、友香以外にパッと見で起きているとわかる人は見受けられない。地元の人にとってはいつものことかもしれないが、友香にとって野宿に近い一夜は初めての環境であり、何より不安が疲れた身体の睡眠を浅くしていた。

 無事に優紀と再会することができるのだろうか、ということである。純はよくわからない人間であるものの、今まで友香をきちんと優紀に引き合わせているという一点に置いては絶対的な信用があった。だからこそ、当の本人がいないということは友香にとっては不安を煽ることになり、寝付けなかったのだ。もちろん仮に純が、いや、この場の誰もがいなくなったとしても自身の望みを叶えるべく友香は何でもすることをいとわない、紘和の期待以上の功績で答える働きを一人で達成する意気込みがある。しかし、無駄を省き、最善で行こうとするならば純たちに付き合うほ他ないというのも事実である。

 そのため、純と早期合流することは友香が不本意ながら今一番望む事案でもあった。


「はぁ」


 会いたいという逸る気持ちとそれを遅らせる原因にため息をつきながら、友香は寝てる者を起こさないようにユラユラと小さく揺れるランプの明かりを頼りに外に出ることを決める。

 夜風に当たるというレベルではすまない環境ではあるだろうが、このまま閉鎖的な空間にいるよりは思考がマイナスに進むのを少しでも和らげられ、いくばくかマシになると判断したのだ。


「さむっ」


 友香は思わず言葉を漏らす。外は予想通り風が強かった。雪が湧き上がるたびに音を立てずに頬に当たり体温で溶けていく。吐く息は当然のように白く、日中よりも喉が痛むような感じがするほど冷えていた。そして喉だけの話でもなく顔もピリリッと溶けた水滴により寒さをより濃く文字通り肌に感じさせた。しかし、空はどこまでも澄み渡り、満天の星空を映し出していた。どうやら雪が降っているわけではなく積もった雪の表面が風に乗って舞い上がっているだけだったようだ。

 それでも友香は確かに幻想的なものを見た気持ちに浸っていた


「きれい」


 この星空を優紀も見ているのだろうか。純が行こうとしているライザの元に恐らく優紀は、陸はいると思っている友香は、だからこそ一緒の空を眺めていたらいいなという思いに駆られる。

 だからこそ会いに行きたいという思いを、一緒に隣で見たいという思いだけを舞い上がる雪とは対象的に重く重く積もらせていく。


「眠れないのか?」


 チュームから出て立ち尽くしていた友香から少し離れた後ろの方からそんな声が聞こえる。


「天堂さん?」


 声は確かに聞き馴染んた声だが、先程チューム内で横になっていた姿を見ていただけに中から出てくる音がしなかったという、背後から声がしなかったという疑問の声と共に声のした右手へ振り返る友香。

 その先には防寒着を着込んだ紘和がいた。


「驚かせてしまったかな。すまない。分身して見張りをしていたんだ」


 タネ明かしをしながら紘和は友香に近づいていく。そして周りを確認したかと思うと近くにあった薪を徐ろに手に取る。すると突然薪に火がつく。

 それを雪の上に無造作に投げると、その上に薪を継ぎ足していった。


「寒いだろう?」


 そして、腰掛けられそうな岩を見つけるとそれを軽々と担ぎ友香の脇に置く。友香は素直にその気遣いに甘えることにして用意された岩の上に座る。

 一方の紘和は立ったまま空を仰いでいた。


「心配、ですか?」


 友香の口から自然とその言葉が出ていた。そう紘和の口から、ではなく友香の口から、である。口ではアレだけ悪口を言っていても友香は二人が友だちだと思っている。だからこそ、第三者である自分には本音を漏らして欲しい、捌け口になりたい、その気持ち故に出た言葉だった。しかし、当の紘和から返事はない。案にさっき言ったことをもう一度説明する気はないのか、それともそれなりの道を共にしてきたからこそ察せという暗黙のメッセージなのか、友香には判断ができない。そして、そのまま数分間沈黙の時間が続いた。

 口を開いたのは紘和の方からだった。


「こっち、ロシアに来てからアイツ、変だったんだよ」

「え?」


 友香は紘和からの思いもしない入りに声を出して疑問を顕にする。

 純を変と捉えるにはあまりに日頃から変だからである。


「普段から変なやつだって言うことは一先ず置いといて、こっちに来てからアイツ、何かやけに楽しそうだったんだ。俺も変なことを重ねて言っているのはわかってる。でも、イザベラと遭遇してから特にそうだなって感じたんだ」


 友香は紘和の一人称や砕けた喋り方から本心で喋っているということだけは理解した。


「同時に、圧倒的だと思っていた存在もそうでもなかったのかなって」

「どういう意味ですか?」


 言葉通り理解できない内容へ疑問で友香は相槌をうつ。


「見回りをしているのはもちろん、敵を迎え撃つためっていうのもあるんだけど、いち早く合流した純を治療するためなんだ。多分、アイツは無事じゃない」


 合流できることは疑っていないという意思は感じ取れたが、それでも紘和が純の安否を心配していたという事実に、友香は質問しておきながら内心では驚いていた。

 同時に、純が無事でない可能性にも。


「合流するのに手間取っているっていうのもあるけど、あの条件。別に純は不老不死ではないし、無敵というわけでもない。比類なき強さは認めるけど俺とも桜峰さんともあまり変わらない人間なんだよ。だからさ、無抵抗で一分間、なんとかもたせるだろうけど無事じゃ済まない」


 紘和は長く息を吐く。


「それに、あんな連中の要求は飲まなくても俺たちなら問題なかった。そういう意味でもあいつは楽しんでたんだろうなぁって。だから……心配だよ」


 紘和の口からはっきりと純のことを心配していると聴いた友香は改めて目を見開きながら驚くのだった。


「普段ならこんな会話のタイミング現れてくれそうなもんだけどね。あいつには絶対に俺がこんなこと言ってたって言わないでくれよ」


 紘和が少し照れくさそうにしていると友香は感じた。

 もちろん、実際は真顔で答えているのだが友香にはそう感じたのだった。


「それじゃぁ、切り札にでもとっておきますね」


 だからこそ、友香はからかうように悪戯な笑みを浮かべてみせた。紘和の照れ、弱みを隠して欲しいという言動に対して茶目っ気を出した上で空気を悪くしない返答、女として器量を見せるならと選択した笑顔がそれであった。そう、作って魅せた笑顔である。その裏で友香はすでに他の考えを巡らせ始めており、その邪念が漏れるのを隠すための笑顔なのである。この先、純が紘和の言う通り本当に負傷し、共闘関係に問題が生じる、ライザの元まで行けなかったり、優紀に出会えなかった場合、いかに紘和たちを振り切るかという、あくまで自己中心的な考えを、である。


「早く合流できるといいですね」

「あぁ」


 紘和の隣で星空を眺める少女は、心配なのは逃走時の金銭面だろうか、そこは適当に盗めばいいか、追われる立場はめんどくさいのかなぁと内心では、柔和な表情で優しい言葉を投げかけている人間とは思えない真逆の思考を巡らせているのだった。


◇◆◇◆


 翌朝。あれから友香はすぐに中へ引き返し、ゆっくりとまどろみの中に引き込まれていった。ちなみに紘和はどちらかが寝ていれば一週間は同じことを続けても生活に支障は出ないということだった。

 片方が寝ているという事実はあるにしろ、恐らく体力的、精神的にも常人には真似できない日数で紘和だから出来るのだろうと勝手に友香は思った。


「取り敢えずは何か捕りに行こうと思います。ただ、何があるかわからないから俺とタチアナだけで行く予定です。アリスと友香は基本留守番ということになりますが、問題はありませんよね」


 朝食のスープを流し込んだ後、紘和は今日の予定を漠然と話す。しかし、それに異議を唱える者は居るはずもなく、紘和とタチアナ朝食を終えるとはすぐに外に出ていった。

 ドナートも自身のチュームへ戻り用事を済ませてくると言い残し、紘和たちの後を追うようにその場を後にする。


「暇ね」

「そうだね」


 アリスの問に友香はそっけなく答える。そんなアリスの心境は優しい友香を裏切るようで心苦しいが、今後自分がこのグループ内で優位に立つために友香の身体の一部を採取しておくべきではないかということであった。今ここにいる理由というものが、自分の意志なのか、などというふと襲い来る不鮮明な狂気を感じているからではなく、アリス自身が生き残る上で友香の姿を獲得することが容易にできる瞬間だと思うが故の考えの元だった。生存本能ではないが、保身に走るのは極自然なことで、採血なんて大胆なことは純や紘和を前にすることはできない。もちろん、ここでそんな行為をしてしまえば追求や非難は避けられず、居続けることすら困難になるかもしれない。しかし、今のアリスの心情、ふとした行動の理由のなさを解決できるであろう純はこの先現れることがないかもしれないのだ。昨夜の友香と紘和の話を盗み聴いた限りでは純の安否はわからないということだった。アリスは新人類である自分を凌駕する人間という未知の可能性、このような表現が適切かわからないが、そんな人間でも所詮は人間だったと少し安心するのと同時に、あれだけ大見得を切っていたのにと見損なうという複雑な感情に見舞われたのだ。

 それは、ここを出ていくタイミングが近いのではないかとアリスに悟らせるのだった。


「これからどうします?」


 アリスは話題を振りつつ、よろけるように友香に近づき爪で軽く皮膚を傷つけるか、髪の毛を引っ張れないかと画策していた。


「大丈夫ですか、アリスさん」


 結果から言えばアリスの行動は空振りに終わる。

 そして、倒れそうになる身体を友香の両腕がその先でしっかりと支える形となったのだ。


「だ、大丈夫です。ちょっとふらついて」


 アリスはこの至近距離から友香がかわせるほどの何かをもっているとは思えなかっただけに、手を友香に触れられなかったことに驚きを隠せないでいた。


「アリスさんはまだ知らないんですよね」


 ボソリとつぶやくような友香の言葉にアリスは確信する。友香はアリスが何をしようとしたのか気づいていたと。その瞬間、何食わぬ顔で今をやり過ごしてきた友香という女にアリスは確実に恐怖した。平静を保っていられるということにではない。身の危険を感じさせる相手に慈愛の目を向けられる感覚にだ。強者か歪んだ感情を持ち合わせた人間が見せる独特の不気味さが溢れ出る瞬間。列車内でアリスが根はいい子だと思ったことが少なくとも間違いだと考えを改めなければいけないと思う程度には異質だった。

 そして、ジェフから聞いていた神格呪者というものがどういう存在なのか気になる瞬間でもあった。


「私が神格呪者で【雨喜びの幻覚】というものをもっていることは知っていると思うの。ただ、その力の詳細までは恐らく知らないのね。列車で幾瀧さんが少し説明していたけど多分それだけじゃわからないよね。私は神に愛され、そして呪われた存在。ありとあらゆる外的要因から対象とされない人間なの。新人類に近い異能者だと思ってくれればいいわ」


 アリスは授業を受けている気分になる。


「だから、私はあなたから敵意を向けられればそれを交わすことが出来る。私にとって害をなす行為に対しては基本オートでこの力が行使される。もちろん意識すれば今の所なんでも対象を外すこともはずさせることも出来る。身に覚えはあるでしょ?」


 アリスは列車でヘンリーに襲われた時のことを思い出していた。

 眼の前に居るはずの自分を素通りしていくヘンリーたちの姿を。


「だから私とあなたが一緒に待たされているのよ。アリスさんじゃ、私をどうにもできないから」

「ハハッ」


 喉がカラカラになるほどアリスは自身が危険にさらされていることを直感的にも理解できた。


「あなたのジェフさんに対する気持ちは否定しない。大切にして行動に示せばいいと思うわ。もちろん、どうしても不安なら幾瀧さんから改めてその真意っていうのを聞き出せばいい。でもね、それが私の愛の邪魔になる時は……」


 アリスの先にある顔はどこまでも、どこまでも笑顔と表現するにふさわしい笑顔だった。

 その笑顔から続いて出た言葉である。


「邪魔にならないようにしないといけないから、ごめんなさい」


◇◆◇◆


 タチアナは木の枝の上に器用に座りながら獲物を探していた。

 フクロウの合成人というだけあってそういったことは得意としているので適材適所というやつだった。


「兎が一匹、一時の方向に。お見事です」


 具体的な距離を言わずとも方向さえ言えば確認が出来てしまう紘和の身体能力。だったらタチアナは必要ないようにも思えるが最初に見つけると行った視野の広さでは若干動物的機能の差で勝る面があるらしい。だが、それ以上に大概なのは任意の場所に刃物を出現させることの恐ろしさである。幾度となくその超常的な力を目にして来てはいるが、兎の頭が突然スパッと胴体と分離することに見慣れたと思える日は来ないだろうとタチアナは思う。

 そして、それを淡々とこなす紘和の姿に冷や汗をかかない方がおかしいというものである。


「それでタチアナさんはどうするか決めましたか?」


 兎が三匹、トナカイを一匹、山菜をいくつか集めたところで紘和が突然タチアナに話を振ってきた。


「どうする、というのは?」


 タチアナは素直に話が見えてこなかっただけに聞き返す。


「昨日の夜の会話、全員聞き耳を立てていたと思ったのですが、違いますか? 今頃アリスさんあたりも桜峰さんに何らかのアクションを起こしていると思います。とはいえ、アリスさんに何か出来るとは思えませんし、それが仮に彼女の気分を害したとしても、桜峰さんも純が必要として仲間にした人間をそうそう手に掛けることはないでしょう」

「……この後情報を上司に報告できたらと思っていました」

「やめていただいてもよろしいでしょうか? 先程も少し触れましたが、桜峰さんも怖いですよ」


 ヒラリとタチアナの前を一枚の葉が落ちてゆく。それは先程頭と胴体を分離された兎を彷彿とさせる光景であり、事実同じことが形を変えて行われたのだろうと直前に何度と無く見たせいで鮮明に理解できた。

 明確な脅迫であると。


「桜峰さんが人を手に掛けるような人に見えませんが……私も諜報員の端くれです。天堂さんならやりかねないのでせめて理由を聞いてもよろしいでしょうか?」


 告げ口を中断して欲しいということに理由を問いかけるのはナンセンスだとわかった上でタチアナも言葉を選んでいる。

 そんなタチアナを紘和が見上げる。


「間違った情報、憶測でかき乱されたくないからです。それにあなたは内通者としての役割がある以前に私達の人質としての役割を全うしていただきたい。それだけです」

「わかりました」


 タチアナは想像通りに理由を聞いて素直に紘和の要求を飲むことにした。命が惜しいわけではない。情報を上司に伝えるためだ。情報は鮮度と同じぐらい事実を現場から残すことに意味がある。そして、それが出来る一人の人間としてタチアナは今ここにいると思っているからだ。

 とここまで考えてからタチアナは普通ではありえない提案を紘和に持ちかけるのであった。


「ふと思ったのですが、定時連絡、というものはありませんが、幾瀧さんが無事かどうか私の上司に聞いてみるのもありかと思うのですが」

「いいえ、結構ですよ」


 サクッと今度は発破ではなく頭と胴体が分離する音が銀世界に小さく、それでいて命が終わる音はハッキリと響いた。


「先程も言いましたがあなたはもう少し人質らしくするべきです。私たちにいらぬおせっかいを度々していただきますが、情が移ってしまいますよ」


 その声は下からではなく上からする。

 タチアナは久しぶりにまともな意見を敵とする相手から聞きつつ、声の方を振り返りながら危険を承知で珍しく嫌味を吐く。


「そうですね、人手は一人で足りますよね」


 タチアナの木が大きく揺れる。それは己の力量を誇示するようで、タチアナは分身という手段の有能さを再確認するのだった。


◇◆◇◆


 リュドミーナはちょっとした不測の事態に今後の対応を考えていた。純の足取りが追えていないということだ。紘和のところにも合流していない上に、ラーヴァルとも連絡がつかないでいたる。行動を共にしていないことが確認できた時点で自分が動くべきだったと後悔を始めていた。現在も捜索する時間を作ってはいるが、その時間が長ければ長いほど不信感が募る可能性もある。しかし、現在動かせる人員にも限りがある。付近に自分がいないことをリュドミーナは悔やむしかなかった。

 加えて、純を生かしたまま連れてくることをアンナと約束している以上、無下にすることもできない。それは自身の信用と地位を失いかねないからだ。今がその時ではないという事実がより不都合さを際立たせた。生きているかだけでも確認したい。なぜ純という強者に対してそんな不安を抱いているのか。

 それは、昨夜仕入れた情報が確かならば、耳を疑いもしたが、純が死んでいる可能性も視野に入れなければならなくなったからだ。


「くそ。アイツもここへくることを望んでいたんじゃないのか? 俺への嫌がらせか? 何がしたいんだ、アイツは」


 一人でいくつもの情報をつなぎ合わせても純のやろうとしていることが急に見えなくなったリュドミーナ。自身が自由になれる可能性を持っていた男。それが死んでいるかもしれない可能性に焦るのは無理も無い話だった。だからリュドミーナは純の安否の確認と並行して保険をかけるべくある情報を流すことにした。ロシアの茶番劇に終止符を打つべき存在を招き入れるために。さらに、ロシアの右手の一人にラーヴァルの確認をさせるべく動くように指示を出すのであった。


◇◆◇◆


 結局、紘和たちが旅立つ最終日までに純が合流することはなかった。受け渡した現金にありがたみがあったのか、トナカイを一頭移動用に、と受け取ることになった。そして、紘和たちはライザたちの居る場所までの道案内をタチアナに任せて歩き出すのだった。

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