第三十一筆:トウボウ

 列車がヘンリーたちに襲撃される数時間前。ヘンリーからの紘和一行襲撃の案件の通達を受けた八角柱はテレビ電話でモニター越しに緊急会議を開いていた。紘和や純の驚異を知る一樹、チャールズ、ライザはヘンリーの要請、イギリスの大切な国民が紘和たちに人質に取られ誘拐されているためその奪還の協力要請に即座に応じる意を示していた。純の予想と違ったことは、少なくとも四人、半数が要請の内容に関わらず、純たちが何か害なすことをやったという事実を引っ提げた時点で八角柱を動かしていいと判断するほどの脅威とすでに認定されていたことである。

 一方、ラクラン、シャリハ、イザベラ、マイケルは協議に参加したものの少数に対して自らが対応を迫られること、何より国民奪還という点に必要性の低さを感じ、多少なりと非協力的な態度を見せていた。

 しかし、ヘンリーの語る純という人間に、ロシアを訪れていたイザベラとラクランズの性能向上のテストデータを求めていたラクランが要請に賛成の意を示したことにより先ほどの襲撃は成立した。


「しかし、これはあくまで私の国で行われる案件。彼らとは因縁もあるのでヘンリーさんに与えられる時間は私たちの部隊が到着するまでの時間ということでよろしいでしょうか?」

「構わない。最悪、あんたらが始末してくれるならね。ただ、アリスという一際小柄な少女は生きたまま渡してくれるとありがたいわ。彼女がアタシたちの国宝級の財産なの」

「わかりました。それで、誰がヘンリーさんとご一緒するのですか?」


 そして、イザベラとヘンリーが直々に参戦、ラクランはラクランズを手配させ、一樹の代役として紘和たちの行方を近くで見守っていた智が第一襲撃陣となったのだ。結果は失敗に終わり第二陣が動く状況となり今に至っているわけである。


◇◆◇◆


「くっそ、まさかこんな序盤で出鼻をくじかれるなんて、人生楽しいな」

「強かったのか、イザベラさん」

「あぁ、いろいろ折れてるけど、右肩が一番やばいな。正直、上がらないかも」

「……いい気味だな」

「そうですか。……つか、氷点下さむっ」


 そんな純と紘和の会話を紘和の背中越しに聞いていた友香の肩を軽く叩く存在がいた。


「どうしたの? アリスさん」


 いつもと変わらない落ち着いた顔の友香を見て少し口にするのをためらったように見せた後、アリスは意を決したように言葉にした。


「どうしてこんなに危機感がないの? いつもなの?」


 友香は一旦顔を正面の紘和の背中に向ける。

 そして、三十秒後に再び首を回してアリスに向き直る。


「残念なことにいつも通りね」


 苦笑交じりに答えた友香の顔がその信憑性を裏付けていた。

 だからアリスはため息をついてから先頭を走る純の元へ行った。


「ねぇ、ジェフ様の真意。私、まだ聞いてないんだけど」

「その話、もう少し落ち着いてからでもいい?」

「え?」


 アリスの疑問は純の後ろから突如現れた狼に似た人間の登場によって解決される。


「ここからはライザ以外はひとまず全員戦闘不能だ。さっきのヘンリーみたいに必要ないからって軽率に殺そうとするな。忘れんじゃねぇぞ、紘和」

「善処しよう」

「善処じゃねぇんだよ。守らなきゃ、お前の願いが遠のくだけなの」


 左手の拳が鈍い音を立てて狼の顔を歪ませる。手負いのはずなのに全く勝てる気のしない純の強さにアリスは今は味方とわかっていても身を竦ませるものがあった。

 そんな中、紘和も当然の様に苦虫を潰したような不服を顕にした顔をしたまま純によって吹き飛んでいく狼の両足をためらいなく切断していた。


「五体満足である必要は、ないんだよな」

「あぁ~……お前にとっても余計な手間だろ。変なこだわり持ちやがって。手加減していいんだからせめて手を抜けよ」

「逆に生かしておいて何になるんだよ」

「何かあるかもしれないだろ?」

「何かって……はぁ」


 紘和のこれ以上質問しても意味がないことに対して漏れたため息につられるようにアリスと友香も顔を見合わせると同時にため息をつくのだった。


◇◆◇◆


「それで、神格呪者と蝋翼物はこちらに向かっているのですか?」

「はい。タチアナを同行させているので見失うことはないでしょう。そして、イギリスで実験していた新人類の有力サンプルもこちらに向かっているようです。アンナ様」


 リュドミーナが報告していたのは八角柱であるライザの腹心にして現在、代行でロシアの実権のほとんどを握っている女性、アンナだった。そんなアンナもリュドミーナ同様にライザによって生み出された合成人である。

 違いがあるとすれば、合成された生物以外でアンナが人類初の合成人であるとされている点である。


「それはよかった。これで、条件は限りなく満たされるのよね、ツァイゼル」


 問いかけられた本人から返事はない。


「早く彼らを捉えて連れてきなさい。ヘンリーなんかに、他国に彼らを明け渡すわけにはいかないのだから」

「お任せください。彼らは必ずここへ連れてまいります」


 アンナの命令にリュドミーナは応え、その場を後にするのだった。


◇◆◇◆


「ラーヴァル。現場の指揮はロシアの右手で唯一日本から生還した君に任せます。これは君が彼らの危険性を理解しているからこそです。そして、くれぐれも生きたまま連れてきてください。以上です」


 リュドミーナはアンナといた部屋を後にしてすぐさまロシアの右手の一人として同僚のラーヴァルに指示を飛ばしていた。通信機の向こうからは殺意に満ちた返事がある。純と因縁を持つラーヴァルだからこそ当然の反応であるが、通信機越しからでも伝わるその怒りはいくら一度対峙したことがある経験者だからといって指示を忠実に守ることが出来るのかという不安が脳裏を過る程だった。一方で、純が対峙すれば自然と激闘が始まってしまう最初から予想できたことで、それを踏まえた上で、生け捕りを命じたのはただの形式であった。なぜなら、合成人が純にかなうとリュドミーナは思っていないからである。正確には今のところ、ではあるが。そして、今後その可能性があるとすれば自分だろうと思っているのがリュドミーナだった。

 つまるところ、目的があるため生け捕りを命ずるが、それは仮にラーヴァルたちが死にものぐりでやったとしても、生け捕りの命令が出ていたからという理由で加減したという余地を残し、失敗しても指揮が落ちないことが優先された命令でもあるということである。


「……出ないということは既にヘンリーたちと接触したのか、それとも」


 次にリュドミーナはタチアナとコンタクトを取ろうと連絡を入れたが取れない、という状況の理由を考える。ラーヴァル率いる部隊はイギリスからタチアナたちが脱出した時から配置を進めていたため、ヘンリーたちを接触させてそれなりの時間を持たせてから合流を果たせると予測している。更にリュドミーナは自身の元に無数に集まる情報を頭の中で整理する。ヘンリーたちの戦力がラクランズとイザベラ、そして日本の剣の智であること。彼らの合流経路、そしてそれに伴う各国の動き。各国間のパイプ役筆頭のパーチャサブルピースの動向。世界中のあらゆる動きから現在しておくことで利益になる行動を先に先に選択するのだ。

 外部勢力で言えば、アメリカの何かを予期しているかのように進める軍事力の拡大とオーストラリアで起こる謎の記憶障害が気になるところではあるが、それは半年以上前から始まっていることなだけに今関係してくることではないと判断する。それ以外のカナダとエジプトは特に何もない。

 正確には水面下でいろいろ画策はしていそうだが前者に比べると些細なことであるのだ。


「やはりタチアナから情報が欲しいところだが、取り敢えず彼らが逃げ延びた先に私を間に合わせられるか……」


 リュドミーナは間に合わない場合を想定して新しくロシアの右手として繰り上げされた二人のうち一人に連絡を入れることを決めた。ちなみにロシアの右手とは合成人の中でも特に力を持つ、実力者とされる五人の総称であり、リュドミーナはこれのナンバー二に位置しているのであった。


◇◆◇◆


 合成人との攻防を軽くこなしながら逃げ続ける純たち。針葉樹林に囲まれた中を移動しているからか合成人が一斉に襲ってくることはない。逃げる側にとっても追う側にとっても点々と、しかしそれなりには生い茂っている樹木というのが視界を遮り邪魔をしているということである。一つ間違えれば待ち伏せの袋叩きにあっていたかもしれないが、今のところそれはない。代わりに様々なタイミングでじわじわと断続的に物陰から襲いかかってきていた。そこが逃亡側からするといつどこから襲ってくるかわからない時があるという点で精神をすり減らす要因ともなっていた。そして、人間とは違った種の血を引いているため身体が一般的という人間の基準よりも頑丈なのか、戦闘不能に追い込んだと思った合成人がすぐに息を吹き返し、絶え間ない攻撃は止むことを知らなかった。

 お互いが体力と精神を徐々に削る持久戦を理解した上での戦闘になりつつあった。


「早速だけど人質さん。この辺で隠れられる所、陣取れる集落とかない?」


 飛びかかってきた合成人の足を引っ掛け、躓いたところに拳を添えるように顔面に叩きつけながら、純は右手で掴んで離さないタチアナに情報を求める。


「私が教えなくてもあなたならどうにかできるのではありませんか?」

「役に立つ気がないならここに置いていってもいいんだよ、タチアナさん?」


 純の挑発的な言葉にタチアナは噛み付いたりはしなかった。置いていけばいいと言ったところで純は本当にタチアナを置いていくだろうし、いなくなったところでロシアという土地を駆け巡り、この状況を打開してしまうだろう。だから、逆に置いていかれることだけは避けなければならなかった。なぜなら純たちの動向をタイムリーに追う唯一の手段を無くしてしまい、それがロシア側に最も不利益になるからだ。

 純の挑発がタチアナがそう思っていることを知ってのものだとわかっているのがまた憎たらしいところなのだが。


「……すぐ近くに少数の遊牧民が拠点を作っているはずです。立派な町のようなものを求めているならあまり期待はできないでしょう。まだ東部軍管区に入っていないとは言え、そこへ向かうための経路には入り始めていたのですから、おいそれと民間人が密集している場所はこの近辺にはありません」


 それだけ徹底して守るべき秘密、この場合は軍事機密がこの先にはあるということである。その一つは間違いなく合成人という非人道的な実験成果である。しかし、タチアナの口ぶりから知られていようが自らが教えたという体を防ぐべく言葉を選んだのだろう。

 もしかすると、まだ純たちの知らない秘密を隠しているということもあるのかもしれないが。


「それって向こうも場所は特定できるのかな」

「わかりません。私もこの付近を定期的に遊牧している事以外は知らないので正確な場所まではそもそも把握していません」

「それって……知らないことと大差なくない」

「え?」


 マジか、と続きそうなあっけからん純の返しに拍子抜けしたことで、タチアナはいつの間にか自分に視線が集中していることに気づいた。そして、純の言ったセリフに皆が頷いていることも、である。

 そこでタチアナは初めて自分が本当に頼りにされていたことを知ったのである。


「えっと……本当にこの寒空の中、無計画に当てもなく取り敢えず逃げ出したんですか? その……幾瀧さんともあろう方が」


 今度は純の方に頷いた顔が一斉に向く。


「え? そうだけど。別に俺、神様じゃないし。人間様だよ」


 そう言いながらも後ろをふり返ることなく、背後から襲いかかってくる合成人を裏拳で弾き飛ばしている。


「だったらどうして線路沿いに走らなかったんだ?」

「道草が食いたかったから?」


 至極まっとうな紘和の疑問に真面目な顔で首を傾げながら純は答える。この状況はきっとタチアナなしでもなんとかはなるのだろう。しかし、明確にこうしてやるといった裏をかいたような作戦があるわけではないという話だったのだ。その言葉通り、行きあたりばったりだった現状に、複数の大声でツッコミが入ったのは言うまでもないだろう。


◇◆◇◆


「本当にあいつら何者なんですか?」


 一人の合成人が伸びている仲間たちを目に、隣にいる上官に戸惑いを隠せない疑問の声を投げかける。


「……クソッ」


 この場の誰よりも現状を理解して憎悪し、予見し身の毛をよだたせ、気分をグチャグチャに損ねているのは指揮を任されたロシアの右手ナンバー三のラーヴァルだった。マンモスという太古の遺伝子をその身に宿し、圧倒的な怪力を手に入れた合成人である。純粋な力ならば合成人の中では間違いなく頂点に君臨する。しかし、そんな人知を超えたラーヴァルは第三次世界大戦で確かにその真価を発揮していたが、約半年前に自称人類最強を謳うただの人間を前に何も出来ずに敗北していた。それは蝋翼物や神格呪者といった超常の力で殺された同胞と違い、ただの人間に生かされたという屈辱をラーヴァルに残したのだ。目を覚ました時、どれだけ現状に生き恥を感じたか今でも鮮明に思い出せるほど屈辱的な出来事であった。

 ラーヴァルは今、その目の敵を生け捕りにしろと命を受けていた。しかし、ラーヴァルにはそれが無理難題だということはわかっていた。恐らく殺す気でかかったところで生け捕りにすることはかなわないだろうと。そもそも前回はリミッターが解除されているにも関わらず負けたのである。だからといって沸繰り返したこの憎悪をぶつけることに躊躇はしない。だが、ラーヴァルの作戦では今の所その構図さえ考えついてはいない状況ではあった。

 そもそも、この作戦には不可解な点が多い。ラーヴァルがこの作戦に参加しているのは復讐という私怨以外の何物でもないと言っても過言ではない。では、何がラーヴァルにとって引っかかるのか。一つは今のロシアの戦力で蝋翼物や合成人を総動員しなければ、地の利があろうとも純たちを現状の戦力で生け捕りにすることが不可能であること。それをアンナを始め、ロシアの右手の誰もがわかっているにも関わらずブレインとも言えるリュドミーナが指揮を取らずに一度敗北を期したラーヴァルに全権を一度担わせたということである。サポートに関しては徹底しているがラーヴァルも適材適所という言葉を知っている。故に、純たちは捕まることなく逃げながらえているのである。だからこそこの配役をしたリュドミーナに不信感が募っているのである。正直な話、彼の合成人としての力は情報という分野において常軌を逸しているといっても過言ではない。そんな力を持つ人間が誰かの下に付き従い続けているというのも不思議な話なのである。裏で何かを画策しているのではないかというのは誰もが口にしないだけに思っている合成人共通の認識でもあった。しかし、そんな事実が存在しない以上、纏う雰囲気だけが、定着してしまった観念が暴走しているだけだとラーヴァルは俯瞰も出来るだけに素直に指示に従っていた。事実、ブレインであると思えるだけの貴重な戦力であり、仮にも合成人という数少ない人種の仲間であるからだ。

 何より、この作戦に対する不信感は純たちを生け捕りにするという目的そのものにある。憎き純を殺害するわけでも、紘和から蝋翼物を奪うわけでも、神格呪者である友香や新人類であるアリスをさらうわけでもない。もちろん、生け捕りにすることで先に述べたすべてを後々処理することは出来る。それでもそもそも何度でも言う通り生け捕るという目的が現実味を薄れさせている。恐らく、指令を出したリュドミーナもどういった形であれ、そもそも捕獲できるとは思っていないだろう。こちらの舞台の指揮を、名誉を下げないレベルで、違う目的、例えば少しでも本丸に目標が到達する前に戦力を削いでおく、ぐらいの目的ならばまだ可愛い話である。そこに因縁のある自分を適任としぶつけるのは、今も憎悪による追撃を欠かさないラーヴァル自身を鑑みても成功といって他ならない。しかし、結果損害を出すだけで何を得ることが出来るのだろうと。あのリュドミーナが何を得するのかが見えてこないのである。

 もしこの命令が下されたのがライザだったならばまだ飲み込み方も変わっていただろう。しかし、立案はアンナでありその影にはツァイゼルの姿もある。協力者ではあるが、陸として現在戦う純たちと少なからず関係性のある人間としての立ち位置が今の彼にはある。故に生け捕るという行為が純たちをただ招くための措置にしかラーヴァルは感じないのである。まるでいらぬ騒ぎを揺動に堂々と互いの同意がすでになされているようなそんな無意味、不気味さ。

 だからこそラーヴァルは一つの結末を想像してしまう。出来るはずのない、死者の蘇生。合成人の始まりを知り、超常的な何かであると錯覚してしまうような純たちを知るラーヴァルは、その邂逅に何か特別なものがあるのではないかと想像してしまうのである。憶測や邪推が募った結果の妄想だとしてもラーヴァルには何か言いようのない悪寒が走っているのではないか、憎悪で知覚できていないのではないかとふと我に返ってしまう瞬間もあるほどだった。

 だからこそ、望む願いだとしてもその異質に対する恐怖を振り払うように、ラーヴァルは純たちへの復讐に自らの力を振るおうと奮起する。


「俺が前線を切り開く。サポートしろ」


 肥大化していく身体に、復讐心を乗せ、逆立つ身の毛を怒りに変えてラーヴァルは木々を薙ぎ払い前進するのだった。


◇◆◇◆


「ツァイゼル、と昔の様に呼ばれることに不満でもあるのかしら?」


 リュドミーナが出ていった後アンナは再びツァイゼル、陸に声をかけた。


「今は私とあなただけよ。エカチェリーナも今はここにいないの。だから、昔のようにおしゃべりしましょう?」

「お前は本当に彼女を生き返らせたいのか?」


 ようやく口を開いた陸の第一声は確認だった。しかし、その質問に対して答えは返ってこない。

 それを返事とした陸はそのまま余計な会話を挟むこと無くシメに移る。


「俺がここに来た時、互いの利害が一致していることは確認した。後は不測の事態でも起きない限り口を聞く理由がない。そうは思わないか?」

「悪かったわね」


 陸の場所からその顔は確認できない。しかし、思惑はどうあれ現状は協力関係にある。だからこそ、どうであれ協力相手の思惑を推察するために顔色が気になるのは、至極当然のことだった。


◇◆◇◆


「何かが来たぁ」


 純だけが楽しそうに大声で奇声を挙げながら雪上を駆け抜けていた。これは先程、紘和が嫌味のように言っていた生かしておく理由に対する解答とも取れる発言なのだがそんなことを思い出す余裕がある状況ではなかった。

 純の言うところの何か、それは半年前に日本で純が全員戦闘不能にした合成人の中で最も実力があったマンモスのことだった。激しい地響きと共に茶色い体毛の巨体は立派に生やした牙で木々を安々とへし折りながら純たちの目の前に現れたのだ。マンモスを知っている人間ですら少なくとも実物が目の前に突然現れてそれがマンモスだと瞬時に理解できることはないだろう。立派な象牙よりも灰色という固定観念から、ましてや絶滅したはずの生物が人の形を成したまま動いているとは想像できるはずもない。だからこそ純の先程の第一声は意表をつかれて動けなかった一部の人間の足を無理矢理に逃げるという思考へと移行させることに成功させたのだ。といいように言えばこうなるが、実際のところその効果を発揮したのは一部の人間、アリスと友香だけである。純は誰よりも先に奇声をあげ、対処する余裕があり、紘和は即座に友香を守るように前に出ていた。

 タチアナに至っては顔見知りである。


「逃げることはないだろう? つれないじゃないか、自称人類最強さん」

「もう折れた牙は生えてるのか。五体満足で何よりだよ」

「五体満足だ? 笑わせるなよ。右はかろうじてあるが左はどうにもならなかったよ。クソ野郎」


 紘和を無視して回り込んできたラーヴァルの言葉を純とタチアナだけが理解する。


「それはすまないことをした」


 ラーヴァルに仕掛けようとする紘和やアリスを左手で制する笑顔の純。


「代わりといっちゃぁなんだけど。この負傷した身体で、リミッターを解除していないあんたとサシで相手をしてやるよ」

「ふざけるなよ」


 そんな純の提案を即座に却下するラーヴァル。


「どうしてお前が勝てる戦いを申し込まれてそれが代わりになるっていうんだ」


 純はラーヴァルが却下した理由に驚く。合成人という満身が消えてなくなり、しっかりとした自己評価をした上で、自身と純の強さの優劣をはっきりとさせたのだ。

 そして、その先、恐らくこちらを最も倒せる称賛として全軍、物量で圧倒しようとしているところまで伝わってくるようだった。


「……名前」

「なんだと?」

「いやね、あんたがこんなにも優秀に育つなんて知らなかったからさ。名前を覚えておきたくてさ。いや、聞いておきたくってさ」


 ラーヴァルは一瞬、その紳士的とも取れる行動に不気味さを感じる。その気に圧されたからだろうか。一方で、ほんの少しだけ喜びを感じてしまっている自分がいることが腹立たしくもあった。

 そして、ラーヴァルは口の中の唾液を喉に押し込んでから答える。


「ラーヴァル。ロシアの右手がひとり、ラーヴァル・ロージン」

「それじゃぁラーヴァルさん、どうすれば俺の納得いく形でお前は勝負ができると思う」


 ラーヴァルは独特の言い回しに自分が試されていることを悟る。恐らく、純が手足の一本や二本切り落とされればラーヴァルはそれなりの勝負ができる可能性がある。しかし、それを対峙の条件とすれば、純が納得いくかは至極怪しい話である。つまり、意味のない探り合いをせずに最大限をぶつけてこいということだと判断する。

 襲っているはずなのに、その対象に譲歩されているような、はかられているような、それでいて悪い気はしないラーヴァルは思案した結果、条件を口にした。


「一人で俺たちの相手をしてくれ。お前が良ければ開幕一分、行動できる範囲を制限してくれるとなお助かる」

「いいのか? そんなことで。動くな、とかじゃなくても?」

「構わない。勝てるなら、そのギリギリのハンデで勝ちたいだろう?」


 戦い、力と力をぶつけてただ優劣をつけるだけの土俵に乗せられている自分がいることには気づいているものの、ラーヴァルは純の挑発にしっかりと目を見据えて返答した。


「というわけでここは俺が時間を稼ぐよ。みんなは先に行ってこいつらをまいてくれ。後で合流する」


 純は後ろを振り返り指示を飛ばす。

 不思議なことになんだかんだ純に文句を言ってはいるが、今この瞬間、この場にいる全員が残るべきではないのかと思案していた。


「いいか、約束は守れよ。俺はすぐに追いつく」

「わかった」


 純は頼りありそうな言葉を若干気の抜けた様に投げかける。それで諦めが付いたように紘和が返事をした。

 そして、タチアナを抱えるとアリスと友香に走るように促す。


「今更やめてくれよ紘和。必要ならもっと早くにそうしてたんだからよ」


 突然の純の大声に周囲の誰もが意味を理解しかねる。


「いくぞ」


 紘和もその返事に答えることなく一言出発の合図を発すると走り出した。タチアナも無駄に抵抗することなく、アリスは無言で、友香はチラチラと振り返りつつもその場を後にした。

 そして入れ替わるようにラーヴァルの指揮下に入っていた多くの合成人が純を取り囲むように茂みや木々から姿を現す。


「それじゃぁ、始めようか」


 首と左肩を回しながらウォームアップのような動作を入れる純。

 次に左足を軸にコンパスのように右足で雪上に一定の円を描く。


「今度はしっかり視力を奪ってやるよ、ラーヴァル」

「ぶっ殺せ」


 ラーヴァルの牙を円の中、左手で掴みながら押さえつける純。そこへ多くの合成人が牙や爪を立てて純の肉体に襲いかかった。


◇◆◇◆


「まだアイツに死なれたら困るんだけど、大丈夫なのよね?」

「それは私も同じです」


 アリスの質問にわかっていると声を荒げたい感情を抑えているのが紘和の威圧的な同意から伝わってくる。


「ちなみに何かしようとしていたのですか?」


 タチアナは人質という立場でありながら剣呑な雰囲気を紛らわそうとする自分にちょっと呆れつつも紘和に質問した。


「えぇ、負傷箇所を治しておこうと思ったのですが……」


 紘和はそこまで答えてタチアナの顔を見る。流れに任せてロシア側の人間に答えてしまったという顔がそこにはあった。

 そしてしばらくの間をもって、ため息を挟み、どうしたものかと戸惑いを隠せないまま有耶無耶にすべくに紘和は言葉を続けた。


「今のはその、できればご内密にお願いします。いっそ、聞かなかったこととして処理してください」

「グンフィズエルによる奇跡の向上。治癒力を飛躍的に高める効果のある宝剣だと存じています」


 タチアナの解答に目を丸くする紘和。蝋翼物である【最果ての無剣】に治癒関係の伝承があることをロシアは知っているということになる解答だったからだ。もちろん、タチアナは諜報員ということで知り得る機会はあるのだろう。だが【最果ての無剣】のグンフィズルの能力が情報としてどう知れ渡ったのかはここでは問題ではない。問題点。あまりに当然なこと故に一考すらしてこなかったこと。それは伝承として誰でも【最果ての無剣】の力を推測する手段を持ち合わせているということである。それが国ともなれば伝承に対する知見の収集は個人を大幅に凌ぐ勢いということになるだろう。つまり、未然に遺物に対して策を講じておくことが出来るということである。そして、紘和はここで今まで考えたこともないことを考えさせられることとなる。各国は【最果ての無剣】が召喚できる遺物を実際のところどれだけ把握しているのかと。どのラインまで伝承を調べているのかということである。

 以前、純の趣味で集めた遺物の伝承を掲載した本を見たことはあるが、紘和の教養にないものまで様々なものがあった。恐らくかつて所持していたイギリスは多くの記録を集めていたに違いない。冷静に考えれば、蝋翼物を知る国ならばある程度の情報を集めている可能性もある。そして、ここまで考えて紘和はその先の可能性にたどり着く。それは、純も紘和もまだ知らない遺物の伝承記録を他国が所持している可能性があるということだ。純が言うには紘和の知らないものは召喚することが出来ないらしい。

 事実、ウザコリフなどは純から教えられるまで知りもしなかったので召喚することは叶わなかった。


「調べているものなのか」

「他の蝋翼物に比べて使用者に強さが依存するのも然りですが、誰でも簡単に知り得る可能性があるのが【最果ての無剣】だと思いますけど」


 ここで紘和の頭の中にはすでに純の心配が消えていた。

 【最果ての無剣】はまだほんの少ししかその実力を発揮していないのではないか。


「もしあなたの知っている伝承を教えてくださいと言ったら素直に教えてくれますか?」


 ここで周囲の誰もが紘和の言動が穏やかであるのとは裏腹にお願いではなく命令、最悪脅迫に近いものだと理解できた。だが、アリスも友香もどうしてそんなことを知りたがるのだろうと思う程度で紘和の思惑には気づいていない。なぜなら、使用者の知らない遺物を召喚することができないという規則を知らないからである。同時に、現状の持ち合わせだけでも充分に強いと思っているが故にピンときていないのである。しかし、タチアナはこの質問の真意に気づいていた。故に返答に迷っていた。蝋翼物によって嘘が意味をなさないのではないかという不安。新たな力をタチアナが渡してしまうかもしれない不安。諜報員と言っても現在紘和が扱える【最果ての無剣】の全てをタチアナは知っているわけではない。殺される心配は純の言いつけを守ると考えれば極めて低い。

 だが、素直にしゃべるのもプライドというものがあった。


「知っている数だけではダメでしょうか」

「ダメだと言ったらどうしますか?」


 紘和の質問は先程と大差なく、質問という形をなした脅迫だった。


「私もロシアという国の諜報員です。譲歩しても知っているモノの名称が限界です」


 だからタチアナはすかさず最低ライン、死を覚悟するラインまで下げる。そう殺されないかも知れないギリギリのラインである。恐らくアリスも友香も何も言葉を発しないのは、紘和という人間が次の返答次第ではあっさりとタチアナを殺してしまってもおかしくないという剣幕を見せつけているが故の緊張感からであろう。

 そのため数秒という短い時間を体感的に長く感じるほどに沈黙が続いたように紘和以外は感じていた。


「それじゃぁ、遊牧民がいそうな場所を一緒に考えてください。まずはそれからです」


 紘和以外の誰もが意表を突かれてキョトンとした顔をする。


「……随分と短絡的に見える人物像が板についてしまったようですね。あなたの振る舞いを尊重しようと思いましたし、何よりそれだけでは聞く意味があまりない。ついでに言えば殺しはしないという取り決めがされていたので、今回のこの件は、あなたが、私が純にしようとしたことを口外しないという形でその後の会話もなかったことにしましょう」


 タチアナには紘和の本意はわからない。ただ殺される心配はないと思っていた自分が生温かった、そう思うだけの恐怖が、殺すつもりはなかったと言葉にする紘和から滲み出ているのを敏感に感じ取り、タチアナは顔を上下に揺らせるのだった。


◇◆◇◆


 取り敢えず、それなりの距離を稼いだからか戦う音が辺りから消え、寒さと静けさが際立ってきた。紘和たちはあれから友香のことを考えて休憩を挟むことにして暖を取っていた。

 木材を調達することもそれに火をつけることも【最果ての無剣】があればわけもなく、あっという間に環境は整った。


「なるほど。取り敢えずこっちに行ってみれば逢える確率は高いということですね」

「はい」


 タチアナと紘和は木の棒で雪の上に何かを描きながら遊牧民と遭遇するための計画を練っているようだった。友香は、そのための休憩ということもあってか、やはり戦闘で鍛えている人種ではないせいで疲れているのか横になったまま動かなくなった。死ぬかもしれないという緊張感もあっただろう。むしろ今までなんとか紘和たちの足取りに合わせられていたことの方にアリスは驚いていた。それだけこの旅の先に友香は何かで何かを成し遂げたいと強く願っているのだとわかる、とアリスは思った。そう考えると自分だけが宙に浮いたような思いでこの一向についていっていると思ってしまうのだった。

 もちろん、アリスにとってはジェフが何を思って自分たちを見捨てたのか知りたいという思いがあった。しかし、イギリスでの出来事を経て新人類という立場の誰もがジェフの真意を知りたがっているわけではないことも知っている。日本の警察組織に引き取られた仲間、国外へ自力で逃亡した仲間をアリスは知っている。一方で、安否が確認できていない仲間もいる。死体が転がっていないということは新人類という人間とはちょっと違う人種である。生き残っていると考えるのが普通でそいつは今アリスのようにジェフを追いかけているのだろうかとも考える。もし、追いかけていないとすればアリスだけが親離れを出来ていないような、アリスだけが大人になりきれていないような、アリスだけが裏切られた事情を理解していないようで、形容しがたい疎外感を感じるのだった。だからこそ、この行動は自分のやりたいことなのだろうかと、宙に浮いた状態だと周囲と比較してしまっているのだ。

 捨てられたから会いたいというのは、あまりにも短絡的だったのではないかと。


「大丈夫。あなたの愛する人のことを信じてあげて」


 後ろから包み込まれるように抱きつかれたアリスは警戒することもなくそれを安心して受け入れていた。

 しかし間もなくして、それが起きていてアリスの考えを見透かすような友香によるものだと思いいたり、ビクッと身体を硬直させる結果にはなったのだが。


「お、起きていたんですね」

「私もなんだかんだで慣れてるってことね」


 そこから二人の会話は続かなくなる。しかし、どちらも現在の体勢をやめようともやめさせようともせず、ゆったりとした時間が、心地良い時間が流れた。

 少なくともアリスには肩の力が抜けていくような時間が生まれた。


「あ、ありがとう」


 アリスにとっては小さい声でお礼を言うのが精一杯の感謝だった。友香はその言葉に返事はしない。ただギュッと軽く抱きしめ直すだけだった。そして、そんな二人を傍から見て、紘和とタチアナは出発をもう少し遅らせようと思うのだった。

 その後、軽く雪の降る中、出発してから一時間も経たないうちに紘和たちは遊牧民がいるであろうチュームが密集した場所を見つける。もっと簡素な環境を想像していただけに柵や物見櫓のようなものまで存在し、しっかりと村の様な形態であることに驚かされるのだった。

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