第二十八筆:真実は私の後ろで歩き続けた!
「こうして面と向かって話すのは実はろ……いや、こういう話をする場でもないか、桜峰」
アリスが紘和と純を迎え撃っている中、階下へ進んだ友香を出迎えたのは陸だった。応接室よりは少し大きめな部屋で奥には培養基やよくわからな機材が稼働を続けている。
ただ防音対策は万全なのか上層で行われているであろう戦いの音などは一切聞こえてこない。
「単刀直入に話して。三人は、何をしようとしてるの?」
「どこまでもメルヘンだね」
久しぶりの再開を喜ぶ場としてはいささか雰囲気のない場所。それ以前に、その相手が現在起こっている騒動の渦中で火を炊いている。そして何より友香の恋人である優紀を殺したとされる男である。伝聞であるにしろ、今までの、今ここでの所業を見ている友香としては、少なくとも非道なことができる人間という認識になりつつあった。
故に友香は陸の言葉に睨み返した。
「おぉ、怖い。……敢えて答えるなら、俺たちは二人で新人類を使った存在の証明、っていうのが丸いかな、をしているつもりだよ」
友香の質問に陸は隣にいるジェフに少し身体を向けながら両手を広げて答えた。
「これは、ただの内戦じゃない。だから、君にも彼らの前にいてもらいたいのだがね」
陸の答えを補足するように、いや補足するように促される様に前に出されたからこそジェフが言葉を続けた。
しかし、それは友香の求める答えではなかった。
「そういうのが聞きたいんじゃない。わかってるくせに。はぐらかさないでよ!」
友香は生き返ってから今日までにわかったこと、気づいたことを、真実を知りたいが故に昂ぶった感情が冷静にするべき話を、包み隠さずに元凶を前にぶちまけさせられる。
「そこにいるんでしょ? いるんだよね? ねぇ、優紀」
愛称で呼ぶことはせず、真摯に訴えてることをアピールする友香の声は密室に近い空間であるだけによく響いた。
「私の身体がここにあること、国会議事堂の地下で私を天堂さんの攻撃から護ってくれたこと。私にはこれだけでわかっちゃうんだよ。心当たりが確信に変わるには充分なんだよ」
今にも泣きそうな声で答えて欲しいという思いを乗せた、震えた声が部屋を満たしていく。
「陸くんに何かやらされてるの? それとも二人で何かしようとしてるの? それは私が傍にいたら邪魔になるの? この空っぽな身体が関係あるの? そもそも、本当に優紀は陸くんに殺されたの?」
答えて欲しいという気持ちが疑問を重ねる言葉と共に膨らんでいく。さらに感情の昂っていると陸に昔の呼び方を使ったり、そうあって欲しいという願望に近い憶測が目立つ当たりからわかりやすくなっていった。それでも核心をついているように聞こえるのは、陸と友香の間でなされる問答だからなのか。
答えが返ってくる間を与えるわけでもなく、友香はまだ言葉を続ける。
「だったら、それを隠しても、嘘だったとしてもいい。なんだって、理由さえくれれ、私にだって協力できるかもしれない。私はただ、ただ二人のそばにいたいよ。だって、好きなんだもん。今のメンバーで二人を追うのは何の意味があるの? そんな回りくどいことするなら、連れて行ってください。私だって優紀の役に立ちたい。たちたいです!」
言っていることは支離滅裂に聞こえるが、相手を信じているが故の応答を待つ声である。だが友香の中で何かしらの答えのある疑問は、ぬくもりを求めているはずなのに冷たい涙がこぼれ始めるのだった。
この新人類を用いた内戦を進めたと思われる陸たちが悪とするならば、愛というものは人を悪の道にも簡単に踏み出させるより凶悪なものということなのだろうか。友香だって陸に協力するということが良いこと悪いことで区分した時、今回は後者であると理解している。それでも友香は優紀のためなら何でもできるのだ。無論、今は内戦の片棒を担ぐ程度かもしれない。しかし、第三者から見たそれはすでに狂気として見られていても不思議ではないものだった。
ジェフから見た友香はまさに愛狂を振りまく存在に他ならなかった。
「何を、期待してるんだ?」
もちろん、これを言ったのは陸である。冷たく現実を見ることを強く進める意思を感じる、抑揚のないドスのきいた声。
友香を拒絶していることだけは誰の目からも明らかであり、友香自身が否応なく拒絶される対象であると自覚させられた。
「あいつを殺して手に入れた力。桜峰、【想造の観測】の内容、知ってるか?」
言葉に気圧されているのか、何かしら理解ある雰囲気から返事がもらえると期待していたのか、はたまた落差か、どちらにしろ呆然として言葉を返さない友香を後目に陸は話を続ける。
「自身が認識していたと思ったものを現実にする力。それは所有権が譲渡されても、あの場にいた元所有者に最も近い人間にも引き継がされてしまうものらしい。つまりこの場合、あいつがあいつを死ぬ直前にいると思い描いて死ねば、残るということだ。結果として事実、【想造の観測】に不純物として紛れ込んでる。これは俺も神格呪者の力を二つ同居させたことがなければ、ましてや【想造の観測】を手にしたことがなかったから初めての経験だったけどな。つまり、【想造の観測】にこびりついてきた残りカスみたいな残留思念が必死に、無意識にお前を生かそうと足掻いてるだけだよ。自我なんかありゃしない。だから【想造の観測】による俺のいないという意識が、観測がこいつを消すのも時間の問題ってわけだ。後少しでこの二つの力は俺のものになる。わかるか、お前の寿命も、こいつの寿命も刻一刻と今も迫ってるんだよ。よかったなぁ、今度、死ぬ時は二人同時だぞ。ハハハッ」
話す内容は理路整然としていた。陸が優紀を殺し【想造の観測】を手に入れた。優紀の名前を出さずに説明するのは意識することを、【想造の観測】の無意識下の干渉を最小限にして消し去ろうとしているのだろう。
内容の話し方は、主に二つ。一つは怒り。【想造の観測】を手にしてもなお、残る障害である優紀に対する鬱陶しさである。それがあるからこそ二つ目は存在していると言っても過言ではない。その二つ目は喜びである。後数日で邪魔者がいなくなり、能力が自分のものになると想像しての愉悦だった。忌々しそうに語り始めた経緯を忌々しそうに振り払える喜びを、目だけが笑ってない笑みが、友香にそれが真実だと訴えかけられているように感じた。だが、それで諦められるなら、愛にとりつかれた友香は存在しないだろう。
だから、友香はそんな陸の言葉の後でも自分の言葉を続けた。
「……それが本当なら、この場で今すぐ私を殺してよ。先に行ってるから。今度はあなたを待ってるから。そばにいないから、ずっと待ってるから、ゆっくり人生を楽しんでから私と永遠を一緒に過ごしてくれればいいから」
先程の愛狂すらも凌駕しかねない重い想いに当事者以外は頭痛を、めまいを覚えたことだろう。
何せ、相手の死を待つデートの約束など普通は人生で聞くことはないのだから。
「だから、私を殺してよ。死ぬ前に優紀に会わせてだなんて贅沢は言わないから」
友香の叫びに陸から何か葛藤しているような気配を隣にいたからか感じ取ったジェフ。だからちらりと陸の顔を確認する。
そこには眉間にシワを寄せる陸の顔があった。
「わからないかな、さっきも言ったが【想造の観測】には残りカスがある。つまり、力を完全制御できてる状況じゃない。確実に殺すためには、お前の【雨喜びの幻覚】を俺が確実に、確実に突破するにはあいつがいなくならないといけないんだ。だから今、殺せと言われて簡単に殺せるもんじゃねんだよ。気持ちの悪い、自己満足、一方的な愛の囁きを俺に並べられてもこちとら叶えてやれねぇよ。そんなに死にたくて、この現状が理解できないなら自殺しちまえよ。あいつも浮かばれるだろうな」
もううんざりだ。
そう誰の目からも見て取れる陸の口から出た罵倒の数々の最後は、友香にとって、愛した人に生き返えらせてもらった友香にとって、最大級の地雷とも取れる皮肉だった。
「でも、自殺したら陸くんの、あなたたちの願いが叶わない」
陸が目を見開く。陸の描く計画に気づいているかもしれないという予感が一瞬だけ過り驚かされたというのもあった。しかし、それだけは絶対にない。だから、目を見開いた大きな要因は別にある。献身的な愛だった。別に陸が愛を知らないからというわけではない。それでも、なのだ。好きな食べ物を好きなだけ食べて、食べて、食べて、吐き気がするのと感覚は近いだろう。それでも食べさせられるとしたら。そう、食べさせられて、食べさせられて、食べさせられる。きっと好きだったものが嫌いになっても納得の行く経緯だろう。そう、その愛は嫌悪感と恐怖で満ち満ちているようにしか見えなかったのだ。これほどまでに愛は美しさを失えるのかと。そして、それを美しいと思っている誰かに反吐が出たのだ。
一方、もちろん友香は神格呪者の力が譲渡されることを先程の口論で知ったし、全てを集めることで何かが起こることは誰からも知らされていない。つまり、友香の生死がどれほどまでに今後に影響するかを知ってはいない。しかし、友香の自殺を良しとするなら純が陸に対する餌として友香を連れている理由はない。そう、陸ではなく、奇人故に信じられる存在の理由にかけた結果の駆け引きだったのだ。そしてこの場面で自殺の無意味さを立証するならばあのような言い回しが最も動揺を誘えると友香は思ったのだ。
ただ、本当だったとしても受け入れる気概は出来上がっているのは言わずもがなであるが。
「……わかった。わかったよ、桜峰」
友香はその返事に陸の根負けを期待した。友香からすれば陸の見開いた目は驚きだと思っているからだ。
だから、答えが聞ける、そう思っていた。
「すまない、ジェフ。少々荒事が必要になった」
ジェフは何も言わず背を向けると部屋の奥へと向かっていった。
「今、お前を見てるとすごく八つ当たりがしたくなる気分なんだ。だから、先に謝っておくよ。すまない。本当にすまない。計画に変更はないから」
計画という気になる言い回しとは別に、明らかに友香の思惑とは違う事が運ばれていると察していた。
友香に殺意が向けられていると【雨喜びの幻覚】が告げているのだ。
「でも、お前が言ったんだからな。じゃぁ、望み通りその愛に溺れて死んでくれよ」
陸は何もないところから撓る金属製の武器を生み出す。【想造の観測】を完全に掌握できていないと言ったではないかという疑問は一切出て来ない。それ以上にここで友香は自身の目論見が外れている可能性をしっかりと考慮しなければならないと改めて自覚する。それは陸にとって友香は必要のない人間で、優紀が陸の中から消えかけている可能性をだ。つまり、殺すつもりはあると。ならば優紀を救うためにまだ死ぬわけにはいかない。友香の優紀への愛はこだわりを持たず、自由に、優紀を救うためだけに形を変え続けるのだった。
◇◆◇◆
「さて、今回も最終局面で俺のご登場です。ハイ、拍手」
友香は純のそんな声を聞いた気がした。結論から言うと確認する前に気絶したのである。金属片を数珠つなぎに接合され、接合部分が金属片を密着、分離することでしなやかさを生み出した鞭のような武器に友香は為す術なくやられたのだ。なぜ陸がそのような武器を使用したかと言われれば友香からすれば未だに優紀の意識が存在するために【想造の観測】をコントロールしきれていない、つまり【雨喜びの幻覚】を確実に捉えることができないということだったのだろう。だから、存在はしている友香を不規則な動きで友香を攻撃の対象とせずとも攻撃を当ててしまう状況できる武器を生み出したということであった。故に陸は振り回していれば戦闘能力のない友香にはいずれ勝てる武器を選択できたと言える。
一方の友香は対象から外れる特性を逆手に取った敵意の察知を意識してできるようになったことからランダムとはいえ物があたってダメージを与える特性上、攻撃の来る方向がわからないわけではない。だから自身にできる最大限の努力で攻撃をかわし続けた。
その結果が長期戦に渡る端的な攻防で、致命傷と呼べるものは一つもなくともかわしきれなかったダメージは確実に友香のか弱い身体に蓄積し続けたのだ。
しかし、それで純が間に合ったというのは友香自身の手で何かをつかもうとしていただけに皮肉な話でもあった。
「お疲れ様、悲劇のヒロイン」
純はすでに意識を失っている友香にそれだけ伝えると陸の前に出る。
「随分と派手にやられたようだね」
陸は頭部から血を垂れ流し、明らかな負傷を匂わせる純に内心驚いていた。
聞いていた話によれば、純は現存する人類の尺では図ることのできない化物の類だったからだ。
「どうしてって思ったでしょ? おかげさまで以前とは比べ物にならなぐらい強くなったと思うんだけど……試してみる?」
「俺のことも人間だとでも言ってくれるのか?」
陸は言葉にしながらも純から漂う不安とも不気味とも取れる何かを警戒せざるを得なかった。
「いや、お前らは化物だよ。俺が認める数少ない化物だよ」
ズイッとまるで瞬間移動を想像させる移動を見せる純が陸との距離をゼロにする。
「いいのか、そんなに血だらけで接近して」
悪寒に負けじと陸は第二ラウンドと言わんばかりに純と接触した。
◇◆◇◆
陸が純の血を口に含もうとするたびに顎を叩く。【環状の手負蛇】による不死性を利用した身体のリンクによる一方的な展開になるのを未然に防ぐ。純がしたのはそれだけのことだった。再生し、一定の範囲内に事実上の瞬間移動、自身の存在がそこにあると認識することで【想造の観測】を活かす技を用いても、純の予測とスピードが匹敵する状況を作られた陸は為す術なく攻めきれずにいた。
しかし、国会議事堂地下陥没の際の開けた場所という条件を除いたとしても、あの短期間でここめで成長できるものかと陸は自身の悪寒の正体と対面させられていた。
「化物め」
「化物っていうのは殺しても死なない、観たと思ったものを意のままに出現、実行できるような存在のことを言うんだよ。まぁ、後者に関しては制限があるようだけどな。もし全力を出されれば俺はここに立ってないだろうからな。ハハハ」
陸は純の煽りに反応するような真似はしなかった。陸が純を化物だと言っても、自身が化物ではないと言っても必ず否定してくることがわかっているからだ。自身の主張はそこになく、ただ否定することで同じ土俵で遊んでいる気分に浸る。今の純からはそういった類のいやらしさがにじみ出ていた。恐らくよっぽど気分がいいのだろうと陸は推測する。
理由はわからなくとも規格外の強さを手に入れ続けていればその高揚感も当然のことなのだろうと思った。
「ここでお前の血を拭ったら見逃してくれたりしないか?」
陸は勝てない理由を身体で覚えたからこそ、ここで戦うことに価値がないと判断し、次の段階へ行くために即時撤退の選択をした。
すると提案したとは言え、一方的な状況のは陸で純に何のメリットもない提案だということはわかっていただけに、想定とは違う解答が返ってきて驚く。
「まぁ、そもそもなんで戦ってるのかっていう疑問もあるよね。どっちかといえば、助けに来たというか……本末転倒になるのを防いであげたわけだし。桜峰さんと何かあったか聞いてもいいの?」
言われてみれば先に手を出したのは目の前の危険をいち早く処理しようとした陸だった。
「思わず、殺しておきたくなった」
陸は正直な思いを口にした。
純はそれに気分を良くしたのか腹を抱えて声を殺しながら笑った。
「なんの冗談だよ。お前が俺に負けるなんて有りえないだろ? だから、逃がすんじゃない、お前が勝負を預けるだけだ。だからよ、まだ俺を殺さないでくれ。先約もあるんだ」
純のセリフを聞いて陸は本心で言っているとわかった。目が笑っていないのだ。口角と声、肩が冗談を笑うように上がり震える中、目だけが形を変えずに陸を見つめているのだ。つまり、純は本気で陸を化物と思い、誰かに殺されるつもりでいるのだと。
陸はゆっくりと攻撃の意思がないことを表明するために、純の目の前でしっかりと血をハンカチで拭うとそれを地面へ投げ捨てた。
「その先約。少しだけ興味があるけど聞いても?」
「ハハハッ。桜峰さんと何かあったかスルーした人間に教える気なんて毛頭ないよ。ないけど、まぁ、自分を立たせると言う意味で言葉を敢えて作るなら」
はぁ、という息継ぎと共にぐにゃりと雪だるまが溶けるように首を傾け、チーズが溶けた様な穏やかな顔で、そう、普段ではあまり感じられない温かな雰囲気で純は告げる。
「殺すつもりの人間には殺されるつもりでいてあげる必要がある。そう、やるやらないにしろ、そうしなければならない理由がある。わかるだろう?」
同意を求められる相手だと思っての発言だということがよくわかった。背負うものを分かち合うのは簡単な様で難しい。だから陸は、直視していた純の目から視線を逸した。勝ちを譲られたせめてもの嫌がらせのつもりだった。
そんな陸の心を見透かすように純は犬を追い払うように手首をシッシと振った。
「と、いうわけで俺が協力できるのはここまでだ。まだやるべきことが残ってるので」
陸は後ろにいるであろうジェフに協力関係の終了を伝える。
「あぁ、ここまでありがとう」
陸はジェフのその言葉を聞くとその場から姿を消した。
「なんだよ、建物の外まで移動できるんじゃねぇか」
【想造の観測】の影響力の範囲を目の当たりに、純は加減されていたのだろうと思った。まだ完全にコントロール出来るほど折り合いがついていないのかもしれないが、それでも自分と比べれば十分すぎるほど化物であると。だからこそ思う。そんな化物が望むものがどういった形で終わりを迎えるのだろうと。せめて、自分と同じ様に報われたと思うことができればいいなぁと思うのだった。
◇◆◇◆
「すごいね。私には何が起きているのかほとんど理解できなかったが、それでも君の今までの言動を知っている私からすれば化物と呼んだ彼を圧倒していた君はやはり化物であって彼は人間なのではないかね?」
「生物としての許容を超えている、その一点において彼らは絶対に俺を超過する……あんたがジェフだよな?」
陸の姿が消えて間もなく、暗がりの向こうから野次馬らしく、現実離れした現場を見た興奮冷めやらぬままに声をかけてきたとわかる存在がいた。
純はその姿を確認すると、奥に引っ込んでいだ当人、ジェフのもとまで足を運んだ。
「しかし、こんなに若いとは思わなかったよ」
「写真で見たことないの?」
「ないよ。まぁ、そもそも興味があるのは顔じゃないからね」
邂逅したイギリスに牙を向いたジェフとそのイギリスを支援する立場の純。しかし、新人類を手元に置いておらず、終いには陸に逃げられ、追い詰められているはずのジェフから焦りは一切見受けられない。
それどころか会えたことを光栄に思っている節さえ見て取れた。
「それで、今回の俺達の悪役っぷりはお眼鏡にかないましたか?」
「それを決めるのは私ではなく死んでいった彼らだよ」
「あぁ、そういうことじゃなくて。あんたとヘンリーで考えたこの新人類の弔い、いや孤児たちの願いをかなえるべく用意した戦場は終りを迎えても良いのかって話です。死者に感想を聞きたいわけではない。茶番の終わりを宣言して欲しいだけです」
ジェフはその核心に迫る言葉を聞くとゆっくりと席に椅子に座った。
純もそれにならって近場の椅子に腰を掛けた。
「やはりあなたは異質ですね。それは蝋翼物を持つ者とも、八角柱に座るような人智の最高峰にいる者とも、ましてや合成人、新人類、神格呪者とも違う。言うならば、完成を急ぐ人間、ですね」
「へぇ、案外いいこと言ってくれるじゃん。俺が未完成だって? まだまだ成長できるって? どうしてそんなに物分りが良いのにこんな内戦をあんたは始めたんだろうねぇ」
純はジェフの称賛を嫌味で返す。
それだけ見極められるのならば、どうして死なせることを選ばせてしまったのかと。
「彼らが望んだからだよ」
純はそのセリフを聞いて、可愛い子の願いを前に目の曇った、実に人間らしいジェフに冷たい眼差しを送りながら耳を傾けた。
「少し、自分語りをさせてくれ」
ジェフの独白が始まる。
「私は捨てられた彼ら孤児に、ここにいてもいいという充足を与えたかった。理由は孤児だからだ。私が別に孤児だったから同じ境遇から支えになりたいと思ったわけではない。どちらかといえば、そうだな、恵まれない子供というカテゴライズを勝手にして、それを哀れに思ったから救ってやりたいと思った。子供と限定するのも、さらに親を持たないことを限定するのも明確な理由があるわけではないが、少なくとも私の良心が可愛そうと思う対象であり、救ってあげたいと思う存在であるというだけの話だ。それ以上に手を伸ばさないのは、それ以上を救うだけの力が、知識が、金がないだけだ。だからこれは自己満足から始めたことだと言われても仕方のなかったことだった。だからこそやるからには全力でその子がここにいてもいいという充足を、つまるところ将来こう成れたらいいという選択肢をいくつも持てるように、知識を与え、サポートも行ってきたんだ」
救う理由が明確な分、ただの善意よりは、少なくとも紘和が現状叫ぶ正義よりはまともだなと感じる純。
「そして、そんな彼らは結果を残す存在となり、私の手を離れていくはずだった。しかし、人間というのは恩を感じる生き物だったんだよ。特に私の独断で選んだ孤児はそこへの感謝の執着が強かったのだろう。常に私の研究分野、そうだな、人の想像、今の新人類誕生の基盤となってしまった研究の手伝いをしたいと言っていたよ。ただね、これも確かなんだ。私の研究は人の想像、そうなぜ想像できるのか、そこだったから本来人体実験は必要ない。そして、そもそも孤児に恩を着せて、私の研究を手伝わさせるために集めたわけではないんだ。どちらかというと、想像力の足りない私にとって子供というの存在そのものが、想像力を豊かにしてくれる存在だっただけなんだ。だから研究に大きな進展はなかったが、想像力、楽しいという充足感の想像は私も含めて皆浸れていたと思っていたよ。私のことを実の親のように慕い、恩を返そうとしてくれた訳だからね」
ジェフは悲しそうな目をしたまま、まるで憐れむような目の純と一瞬目を合わせ、すぐに視線をそらすと話を再開する。
「そんな時だ。黒い虹から採取されたとされる黒い粉がイギリスに、ヘンリーの元へ持ち込まれた。取り込んだものに特異な力を授けるというふれ込みでだ。だから研究者として私のもとに昔なじみのヘンリーからものにしてくれと話があった。それからだ。孤児たちの耳に不思議な力をもたらす可能性がある粉の存在をどこかで耳にしてしまったものがいたのだろう。世界に復讐したいと望むものが現れた。その時に思い知らされたよ。孤児として迎えて初めてのお願いが世界への仕返しだったことに。あぁ、彼らの憎しみは想像では癒えていなかった。癒えていなかったんだよ。時間は解決しなかったんだ。私だけの力では彼らを愛しきれていなかったのだ」
ジェフが語尾を荒げ、悔しそうに目から涙を浮かべているのが純の位置からでもわかった。それでも純の心は変わらない。
自身の才覚に自信のない人間の言葉にただひたすらに冷めた哀れみの目を向ける。
「だから力を与えた。彼らにとっての幸せを掴んで欲しいと思って他者を圧倒できる力を、この黒い粉の力を加えて与えた。随分と親和性が良かったのだろうな。すぐに力は発現した。彼らの過去を想像の糧に絶大な力をもたらした。あとは転がるように戦場が組まれた。彼らはその存在した証を爪痕として残したがっていたからな。加えて人体実験をされた身体だ。それこそ生きるよりは死んだほうが都合が良かった。政府から見ても生き残って他の場所で人体実験されるかもしれないからな。だからこの戦場から先のことは私は知らない。終わったと君たちが思っているのなら終わったのだろう。ロシアの情報やから君たちの話を聞いた時には少し喜んだ。彼らが苦しむ姿を数分で終わらせる事のできる人間がいるとね」
ジェフは話し終わったと言った顔で純を見つめる。
「満足したか、誰かに聞いてもらって。でも、まだ口にしておいたほうがいいことはあるだろう? ここまで語ったんだ。最後までお互いに悔いが残らないように喋っておこう」
そんな純の促しにジェフは涙を、歯を食いしばりながら続けた。
「あぁ、あぁ、そうだ。わかっていたよ。彼らは復讐をしたかったというのも本心ではあっただろう。ただ、それとは別に私の研究のためだと思って動いてくれていたと。私の想像するという人の可能性は新人類の出現によって大きな意味を持った。今までの基礎研究がこの結果を得て宝の山となっただろう。それが、いや、私のためになるとわかってて彼らは新人類になって実験データを集める戦いをさせられているんだ。そう、全てはあのヘンリーに仕組まれていたことだ。知っていたさ、偶然知れ渡るはずはない。あいつが孤児に私のためになるとでも風潮したのだろう。そして、私は研究者としての側面で、孤児たちを利用してしまったんだ。やめることもできただろう。でも、孤児のためと言って……いや、孤児のためにもなるはずだったんだ。なのに、今彼らは、死んでいる。私は」
縋るような目が純に向けられる。
「私は間違っていたのだろうか。研究者として酷いのだろうか。それとも孤児のやりたいことを尊重できたのだろうか。私に良心はあるのだろうか。私は……」
「答えは出てるんだろう?」
それ以上何も言わない純にジェフは目を見開いていく。その沈黙がジェフにとって徐々に不安を駆り立てる。化け物じみた人間に自身の悩みを聞いてもらえれば何か言ってくれると思った。アドバイスでなくても一蹴するような否定的な意見を、意にも介さない極論を言ってくれると思っていたからだ。
そうしてもらうことでジェフの立場がしっかりとあったと証明できるとおもったからだ。
「それだけか。君は天堂紘和という男に何かと食って掛かる、それ以外の人間に対しても……」
「あんたは、あんたの言葉で言うところの完成された人間なんだ。さっきの新人類との戦いもあったから少しは期待してたけど……ダメだよ。俺はあんたに興味がない」
「そんな」
「国外に逃がしてやる」
ジェフは純の言葉を受け入れてから、悪の権化として殺されるつもりでいた。愛した孤児たちと同じ道を歩み、死というその先で安らぎを共にしようとしていた。
しかし、純はジェフのその行動すら見透かしたように立ちふさがった。
「あんなことをした私に、まだ生きろというのか?」
「そうだよ、問題あるの?」
決まった事項をただこなしているだけ。感情的になっているジェフに対して実に機械的に話を進めていこうとする純。恐らく言葉通り興味がない故の行動選択なのだろう。
ジェフにはそれが許せなかった。
「俺の意思はどうなる。ふざけるなよ、見下すのも見透かしたフリをするのも大概にしろ、幾瀧」
ジェフは大声で叫ぶとボールペンを握りしめて自分の首に突きつけた。
「じゃぁ、死んでくれよ」
その一言にジェフは硬直する。
純の意図せぬ方向に動こうとした結果であったのに、むしろジェフの死を望んでいたかのような言動。
「俺はどっちでもいいんだ。どっちでも面白くできる。自分で死ぬことすらできない人間が死ぬ決意をした、素晴らしいよ。自分が悪者だと思い込んで誰かに殺してもらって善人っぽく死ぬのを待つよりか、逃げるよりかは全然いい。でも、あんたらの愛憎じゃぁ俺は満たされない。満たされないんだよ。だから口は出さない。これは次のロシアにとっといてるんだ。あれは純粋に狂ってるからな。意図的じゃない。愛している自分に酔っているわけでも、誰かのために愛を原動力にしているわけでもない。ただ純粋な自身の理想の……すまない。言い出してしまった。それだけは謝るよ。興味がなかったはずなのに、あんたの身勝手さについ熱を持ってしまった。そういう意味では、少しさぶかったな、俺」
ジェフはゾッとする。そのあくまで自分中心に事が運んでいるというスタンスと見透かすような純の言葉に。だからこそ、ジェフは折れたのだ。
自分で死ぬことすらできない人間が死を覚悟したことをやめることで失望されることを。
「好きに使ってくれ」
ジェフはボールペンを捨てて、三つの小瓶を渡す。
「この黒い粉で、私を逃してくれ」
思っていることは本当で、それでもただどうしても誰かを、自分すらも信じることが、愛することができなかったジェフの末路である。だからこそ、変わりようはある。純という男を通して見える世界に、ジェフの周囲には愛があったのだから。そう、最初からあって後はしっかりと繋いでを離さなければいいだけなのだから。
だから、今はこの場を、やり直すためには生還することに意味がある。
「あぁ、後で楽しませてもらうよ」
瓶を受け取った純。こうして、新人類との戦いに終止符が静かに打たれた……はずだった。
◇◆◇◆
激化することなく迅速に抑え込めた新人類との戦いの翌日。パーチャサブルピースの人間はすでに修繕費だけを置いて主要人物は撤退したとのことだった。あちら側の主戦力には死者は存在しないらしく、さすがの手際と言わざるを得なかった。
そして、純はたった一人でヘンリーの前にいた。
「さて、誠に勝手ながらご報告にあがりました」
純は随分と大仰にヘンリーに話しかける。
「それは、ジェフを逃してくれた件のことかしら」
「あら、ご存知? やっぱりロシアと縁があるだけに情報戦は得意なようですね」
二人きりの部屋で密談が始まる。
ヘンリーにとって一方的に外部に漏れては困る話がだ。
「全く頼んでもいないことを……。しかし、旧友の願いを成就させて国外に逃がしてくれたことには感謝するわ。……それで何が望み?」
「お礼ってことですか? そんなもの受け取れませんよ。受け取れるわけがない。なぜ感謝されるのかわからないのだから」
純はヘンリーが目を細める姿を見て手を一回叩く。
「それがわかった上で望みを叶えていただけるなら知ってて欲しいんです。あなたは結局俺の手のひらの上だったことを知っててもらいたい。それだけです。聞いてもらえますか? いや、叶えてもらえますか?」
「えぇ、聞くだけよ」
「反応してくれても構いませんよ」
そして、純は楽しそうに話し始める。
「俺たち日本側は今回、ジェフたちのヒール役として呼ばれた。これは本人から確認済みです。では、なぜ日本だったのか。もちろん、あなたが言ったとおり天堂家なら後始末に情がないというのも一つの理由だったのでしょうが、一番の理由は絶対にこの紛争を収めることの出来る、国というしがらみの少ない人材の獲得にあった。ジェフの幸せのためと報酬金に釣られた新人類を自身の存在を世に示したいだけの力を得た化物になりきらせ、それを戦場で殺せるだけの人材を。そう、ジェフが言っていた彼らの望む仕組まれた戦いを成就させるためには俺たちが必要だった。まぁ、どうして彼らが死ぬことが彼らの救いになるだとかいう俺の知りえない世界の話は散々向こうで聞いたからいいよ、わかったことにした。だってそうだろう。確かにその気になった新人類もいたし、ジェフはその爪を立てた証が孤児の求めるものだと察したつもりになれるんだ。最初の引き金があなたから渡された大量の金銭だったとしても結果が、存在をかけた戦いが成立した、それさえわかれば俺には十分だ。頭はいいのに愛に気づいてやれず、最悪を転がることを選んだ人間なんてどうでもいいじゃないか。まぁ、機会はやったけどな。では、なぜあなたがそんなことをしたのか。善意ではない。利益のためだ」
大きく息を吸い込み、思いっきり両手を広げ、核心を大々的に語る純。
「ジェフに生まれてきた新人類を兵器として使うことを反対されるとわかっていたあなたにはこうして兵器のデータを集め、僅かに知るノウハウを自身の手元で昇華できるように開発するしか方法がなかったのだから。まぁ、それはこんなことをしなくても時間が解決してくれただろう。つまり真の目的は別にあった。故にどうであれ本心ではジェフが生きていることは望まれていないはずだ。国外に逃げたからまだ良かったものの生きたままこの国に残られたら数日のうちにあなたの計画はバレていたでしょうから。とはいえ、ジェフはいわゆる天才の部類だ。いつか気づくでしょう。この戦争が今後の新人類量産のために行われただけでなく、死者を生き返らせる新人類を生み出す実験だったと」
ヘンリーは何も答えない。
沈黙だけが部屋を埋め尽くした。
「たくさんの仲間の孤児が死んでいくさまを見せながら黒い粉を使えば、仲間を生き返らせたいという死に対するトラウマ的恐怖で能力を発現させる可能性があった。それが実現できれば今回の死者にもおつりがくる。あとはいなくなったジェフに代わり救いの道を刷り込ませればいいのだから。それで、成功したんですか?」
「死んだわ。仲間の死を見たくないとか言って舌をかんで自殺してしまったわ。孤児の中でも後々教育しやすいようにと中途半端に幼い子を選んだのが失敗だったわ」
「とはいえ、黒い粉はまだ手元にある。素体もはいて捨てるほど移民という形で補強できる」
純はそう言ってジェフからもらった黒い粉の入ったビンを投げ渡す。
「そこまで知っていてどうして踊っていたの? それにこんな手土産までいただいちゃって」
ヘンリーは隠すつもりはないと言った顔で純に真意を聞く。
「あんたの計画が失敗する、その結果が欲しかった。そしてジェフが生きて逃げ延びている。実に表向きは大団円なのにあんたにとっては不都合が並んだ。いや、面白かったよ。その御礼が、ジェフがお前のしでかそうとしていることに気づいて絶望する顔だ。俺は好きに使ってくれと言われてたしな」
「それで?」
「言ったろ? 俺はあなたに知っててもらいたかった。それだけですよ」
「この後に殺されるとは?」
「あなたのもつ恵まれた運命力を持ってしてもおそらく無理ですよ。それはポーカーをした仲ならわかるでしょう? だって可能性がゼロなものには意味がない。だから、今回だって全く生まれるはずがない死者を蘇らせる合成人の誕生する可能性を引き上げるために日数わざわざ一週間近く設定して、大きな戦場を設けて、確率を出現させようとしたんですから」
「……そう、ね」
イギリスの希望、ヘンリーは特別な体質を持っていた。それは確率の底上げだった。全ての事象に対して確率を百パーセントに近づけることができるのだ。もちろん、近づけるための条件として本当に可能かどうかという大前提がある。例えば、胸を刺されて死亡が確定している人間が救われる確率は変わらない。しかし、刺される直前、何かの表紙で致命傷を避ける確率は変えることが可能である。それが隕石の落下によるもののみならばさして確率に変動を起こすことはできないが、突風や逆光などならば無理矢理にでもその事象を確率的に持ってくることができ、救われるということである。
だから紘和はヘンリーに成りすましたアリスに苦戦を強いられていた。攻撃が通る確率を上げる上でアリスと紘和には技量差があったからだ。故に攻撃はまるで当たるのが当然のごとく序盤は直撃し続けた。しかし、紘和の成長に合わせてその確率に変動した結果が僅かなずらしだった。
ちなみにポーカーも確率を引き上げればほぼ勝ち続けることが可能だったのが、紘和に対してはそうであっても純に対しては押し切ることができなかった。確かに勝ち越しはしたが決して一方的にすることができなかったのである。
つまり、この点に関して言えば純は強運を持つことになるわけだが、それ以上にヘンリーには気に入らないことがあった。
「どうしてそこまで知ってるの。ただの一般人が、どうして」
「基本はあなた達とさして変わらない。優秀な情報屋が知り合いにいる。それだけだが、俺自身が単に優秀な情報通なんですよ」
ヘンリーの細くなる目を見ながら純はため息をつく。
「では、共通の知り合いを引き合いに出しましょう。ロシアの合成人を一人、いや何人かご存知ですよね」
ヘンリーはそれだけで理解する。
つまり、入国初日にその何人かに接触し、あらかた内情を調べていたということだろうと。
「なるほど、そりゃ筒抜けよね」
「意外と冷静なんですね」
純からしてみればヘンリーが情報屋に対して怒りの矛先を向けるものだと思っていた。
「情報を扱う人間と一緒にいるのだから専属でもない限り難しいでしょうからね。それに、合成人としての自身の力に自信があるのでしょう。アタシの意趣返しがたいしたことないぐらいに」
ヘンリーは自身が平静な理由を理路整然と述べる。
「さすが上に立つ人間だ。割り切りが違いますね」
「ちなみに」
ヘンリーは一段と低い声で、まるで純が茶化し始めるのを遮るように言葉を割り込ませる。
「共通じゃない方の、あなたではない情報屋は誰なの?」
「まるで俺の言い方に引っかかりがあったみたいな聞き方だな。まぁ、そのとおりなんだけどね。ちなみに知ってて聞いてる?」
ヘンリーは嘘を答えてはならないと直感する。
だから手元に来ていた自身の情報を統括して答える。
「ソフィー・コラード。アタシは彼女を知っている」
「……いい線いってるよ。それじゃぁ、ヒントのような答えだ。どうして俺は情報戦で勝てると思う?」
ソフィーという人間でいい線、そして情報戦で勝てない相手がいるとしたらと想像する。
ヘンリーの中ですぐに答えが口を開く。
「よかったな。デカイ借りができたじゃないか。まぁ、弱みを握られただけだろうけどな」
「なめやがって」
ヘンリーの巨体が風圧と共に純へと迫り、重い拳が少ない動作で、それでいて確実に殺すための力で純の胸骨めがけて放たれる。
一秒にも満たない、まさに電光石火。
「言ったろ、俺の手のひらなんだよ。そう、覚えとけ、俺の手のひらだ。だから、情報戦で勝てるのは俺自身のおかげでもある。忘れるなよ、イギリスの希望」
奇跡とでも言う形で間に合った純の右手五本の指の第一関節がしっかりとヘンリーの拳を引っ掛け、動きを止めた。
「じゃぁ、肉弾戦でケリをつけましょう」
◇◆◇◆
一言で済ませてしまうならば蚊帳の外。瑛は泰平や梓に連れられ強制的に帰国させられた時にこの数日の事件を振り返っての感想だった。決定的な何かを目撃できたわけでもなければ、新人類の情報を持ち帰れたわけではない。後者に関して言えば箝口令を敷かれている。守らなければ何かしらの罰を受けることになるだろう。あれだけ何かをやってやろうと思っていた瑛でも社会的に潰され、最悪殺されるかもしれないと考えれば記事にする気も失せるというものだった。当然のことだろう、そう思わせるだけの不気味な、ただのお願いが泰平の渡してきた電話の向こうから聞こえてきたのだ。あれほど穏やかな声で人生の危機を感じることがあるとは思えなかった。
ホテルを襲撃された時の現実離れした異様な恐怖とは違い、現実が確実に自らの首を絞めに来ていると理解できる恐怖。
「お金もらってもなぁ」
もちろん黙秘の対価として多額の臨時収入はあったが、それでも納得はできていないのが瑛の本音だった。
瑛の知る限り、突然始まった新人類とイギリスの戦いは後にイギリスの革命と呼ばれる一大事件として周知されるようになるが、開始三時間で決着していた。無論、純には置いてけぼりにされたので、何かがあった場所は倒壊した現場という事実からわかるが、その何かを知るのは現場に駆けつけられなかったためわからずじまいだった。多くの兵器と人間離れした人間同士の戦いが繰り広げられたのだろうが、内戦の一部分も目撃ができず、記者としてガッカリしたのは間違いなかった。しかも純たちと合流して話を聞こうとすればやってきたのは泰平と梓で、二人の話によればどうやらヘンリーに追われているらしく、ロシアの知り合いの力を借りてすでに北へ移動しているとのことだった。だが純が事情の説明と一緒にイギリスでプチブレイクしたチャコールドリンクをご機嫌取りに渡されていたらしく、瑛はそれを飲みながら二人のふわっとした話を聞き流した。要するにお払い箱ということなのだ。
帰国後は出国した時のように千絵に呼び出され、ヒマツブシでネチネチと嫌味を言われた。どうやら千絵には瑛が何をしていたか国の情報として入手していたらしい。つまり、瑛のマスコミ精神は筒抜けだったようだ。しかし、これも箝口令を守っているかどうかの試練なのではと疑心暗鬼だった瑛は千絵の話す内容に耳を傾けるだけだった。
とはいえ、ほとんど紘和がどうだったかという質問と別れ話を利用したことに対する軽い叱咤だった。
「あぁ~、何か事件起きないかなぁ」
その望みが遠くないうちに叶うことを瑛はまだ知らなかった。いや、世界中の誰もが追いつく非日常にまだ気づけていないだけなのである。
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