第二十筆:突撃、イギリスの希望、ヘンリー・カンバーバッチ!

「起きてください」


 瑛はそんなモーニングコールで目を覚ます。昨晩の大晦日は高級な酒を片っ端から飲みながら皆で新年を迎える挨拶をしたところまではギリギリ記憶にあった。

 純が騒ぎながら流し蕎麦を一人でこなしているのが妙に印象的だった。


「篠永さん、そろそろ時間ですよ」


 瑛は聞き覚えのない声を背景音楽に、酒が抜けきっていないため何か時間厳守の約束を交わしたか思い出せない、といった様な考えをしていた。


「どうします? 起きないんですけど」

「一応年上だしな、乱暴にはって、やめろ純。冷水ぶっかけるのも、裸にひん剥くのもなしだ」


 危険なワードが飛び出したところで瑛は反射的に跳ね起きた。


「ちょ、裸にされるのだけは勘弁よっ……つぅ~」


 目をカッと見開いて起こした身体は、自分が机に突っ伏していたことも忘れる程、危機回避を意識したこともあり、その勢いで起こしたせいで椅子をひっくり返すこととなる。ドンッという音共に頭に強い衝撃を受けるが、背もたれがクッションで柔らかいタイプの椅子だっただけに、音程の打撃は受けていなかった。そして、上下逆さまの視界で瑛は紘和によって行く手を阻まれた純がジタバタしているのを見た。

 どうやら間一髪のところで貞操の危機は免れたらしい。


「起きましたよ」

「チッ」


 友香の事後報告に本気で舌打ちをする純。

 よっぽど先輩という存在に何かをしてやりたかったんだろう。


「それじゃぁ、篠永さん、よだれ付いてますし、髪もボサボサなので早く身支度整えてきてください」

「えっと友香ちゃんだっけ?」


 瑛は友香の顔を確認して、うっすらと記憶にある昨日自己紹介された名前を聞いてみる。


「そうですよ、桜峰友香です」


 あっていたことに胸をなでおろしつつ、瑛は肝心なことを聞くために申し訳なさそうに口を開いた。


「それで、こんな朝から何があるんだっけ?」


 聞かれた友香は目を見開き、そしてため息を着き、ちょっと呆れたという感じがにじみ出ていた。

 しかし、一呼吸、心を落ち着かせるように息を吸うと優しく現状の説明から始めた。


「もう、十時で朝が早いってわけでもありません。そして、お昼からはヘンリーさんと昼食会です。自分がここにいる理由なんですから忘れないで下さいよ」


 瑛はヘンリーという名前に頭が冴えていくのを感じる。そう、瑛が紘和へのインタビューを終えてもなお帰国しなかったのは、旅費に見合った天堂家のスクープが取れなかったからでは決してない。もちろん、食い下がれないという意味ではそれもあるのだが、現状一番の理由が紘和がこれから会う予定の八角柱の一人、イギリスの希望であるヘンリー・カンバーバッチの元へ同行するためだったのだ。

 というか純経由で許されたのだ。


「あぁああ。ごめんなさい、今すぐ支度するから、ほんとごめんなさい。だから置いて行かないでね」


 それだけ言うと部屋着がはだけているのを気にもとめずに急いで洗面所へ向かい身支度を開始する瑛なのだった。


◇◆◇◆


 純と瑛がグリニッジ周辺の駅で出会った日。

 瑛は純の後についていき、紘和が泊まるホテルまで案内されていた。


「やっぱり凄いところにいるのね」

「せっかくだし泊まれるように掛け合ってあげようか?」

「ホントに?」

「その代わり」


 良くしてもらうということはその対価を求められるに等しい。むしろ求められないということは不気味で仕方がないというのが瑛の思うことの一つであった。

 だから嫌な顔はすれども、紘和に取材が出来る機会が設けられることに対する対価の支払いを受け入れる覚悟はあった。


「その代わり?」

「しっかり取材してくださいね」

「それだけ?」


 当然のことを言われて結構な対価をふっかけられると思っていた瑛は拍子抜けした。


「それだけですよ」


 だからこそ、瑛は裏を考えてしまう。最悪のケースとしては、千絵から聞いた情報を元に紘和目的でここへ来たことがバレていて、嗅ぎ回っていた瑛を殺す、まだは行かなくても口封じするために敢えて迎え入れたパターンである。紘和がこういった姑息な手段で近寄る記者に嫌悪感を示すなら何かしらの罰があってもおかしくはないが、流石に瑛には殺されるビジョンまでは見えなかった。当然だろう、姑息とは言え、死に値するかと言えばそうでもないし、何より後輩に当たる顔見知りである。

 だから圧力を正面からかけられるのかもしれないと。


「どうかしました?」

「なんでもないわよ」


 瑛が神妙な顔で考えていたため、純が何か気になることでもあるのかといった顔で覗き込んでいた。

 そして、思い当たる節があったのか、右手の拳を左手に軽く叩きつけながら純は口を開く。


「安心してください。殺されそうになったら俺が止めますから」

「え?」


 瑛は目測の誤りを知り、驚いた。冗談と思うにはあまりにも騙す気がないという顔であっさりと言われたからだ。しかも、言葉をそのまま受け取るなら紘和に殺されそうになることも、それを純が平然と止められることもまるで普段からやっているかのように告げられたことになり、急に本当に取材は面会することはできるのだという緊張感とそうされるかもしれない事態が取材をすることにはあるのだと確信できた。だからこそ、むしろその言葉を聞いてしまったからこそ今更引き下がることは出来なくなった。記者としてスクープが欲しいというプライドもあるが、何より取材を断るという行為が失礼につながり殺されかねないということだ。何せ、取材はしっかりとすると応え、コネクションがすでに生まれてしまったのだから。事情を少しでも知っているから機密が漏れる可能性を塞ぐのは当然の策である。とはいえ、それ以上に知り合いであった後輩が瑛を何の躊躇もなく殺す可能性があったことにただただ驚かされて、心穏やかではなかったのだが。


◇◆◇◆


 ホテルの一室に通される瑛。瑛が普段使い慣れているビジネスホテルとは違い、ドアを開けて続く通路の先は一般家庭のリビングのようにソファーとテーブルが置かれていた。加えて台所まで完備されており、奥の方にはまだ部屋があるようだった。

 きっとそこにバスルームや寝室があるのだろう。


「どうして篠永さんがここに?」


 純が瑛を通したリビングには紘和と瑛の知らない女性が一人いた。


「ん、外であったからお前の嫌がらせに連れてきた。お前の取材を勝手に許可した。インタビューだよ、インタビュー」

「なんでお前は、そう勝手に」


 瑛はため息をつく紘和と向き合うようにして座っていた女性と目が合う。瑛は一人嫌な汗をかきながら、千絵と別れた根本の原因を彼女に向け始めていた。まさか、別に好きな女性ができたんじゃなかろうかと。こんな場所にわざわざ連れてきているぐらいである。疑いの目を向けたくなるのは致し方ないだろう。彼女の方も緊張しているのか瑛と目を合わせてはそらしを繰り返していた。

 そんな彼女に気がついた紘和が口を開く。


「彼女は篠永瑛さん。俺達の先輩で曽ヶ端さんの友達、出版社に勤めてる人だよ」


 的確な紘和の紹介の後、彼女は即座に立ち上がり頭を一度下げてから自己紹介を始めた。


「初めまして。桜峰友香です。大学生ですが今は訳あって休学してます。よろしくお願いします」

「よっ、よろしく」


 大学を休学して純と紘和と行動を共にしているとなるといよいよ怪しさが増してきたというものだった。


「まったく、千絵というものがあり」


 瑛の後ろから純の言葉が聞こえてくるのと横を何かが勢い良く通り過ぎたのはほぼ同時だった。勢い良く何かが通過する際に生じる風の先を見るため瑛はゆっくりとギギギっという効果音が聞こえてきそうな感じで後ろを振り返る。そこには純の突き出された右脚の裏を右手で受け止めていた紘和がいた。どうやら、瑛の横を通過したのは紘和で、純はその勢いを殺すために障害物として右脚を前に出したようだった。しかし、一歩間違えて紘和が勢いを殺しきれなければ紘和は頭を強打、純だって風圧から察するに吹き飛ばされていてもおかしくなかった。

 瑛は見たこともない純と紘和の行動に度肝を抜かれるのだった。


「冗談にも言っていいもの、悪いものがある」

「その判断基準は個々によって違う。わかれ、紘和」

「私も天堂さんと同じ意見ですよ」


 そんな純と紘和の口論にいつの間にか混ざる友香がいた。突然現れた友香は純の胸を軽く押していた。純も不意の押しだったのだろう、バランスを崩す。それに合わせて紘和が握っていた手を離すと純はケンケンしながら後ろへ後退し、転倒はすることなくなんとか踏ん張った。瑛は直前の出来事に驚きすぎたせいで、自分の注意が散漫だったと判断した。

 そう、普通の人間が突然その場に降って湧くわけないのだから。


「実は結構怒ってる?」

「私の一番は優くんだけですから」


 瑛の側から友香の顔は見えない。しかし、同じ女としてわかる。間違いなく顔は微笑んでいる。そう感じさせるほど声が先程の緊張した感じよりも、否きっと普段よりも落ち着いているであろう声だったからだ。

 初めてあってもわかる声からはそういった独特の圧力が伝わってきた。


「ゆーちゃんに本気でかかってこられると俺も困るからねぇ。ここは多数決に従うとするよ」


 純は両手を胸の前で軽くふってお手上げの意思を示す。取り敢えず、瑛の中にあった友香が紘和の新しい恋人説はこうして語られることなく未然に誤解を解く形となったのだった。


◇◆◇◆


 友香が簡単なおやつを作るということで台所へ向かった。

 それを機に純と紘和、瑛の三人は男と女で分かれて向かい合うように座った。


「まずは篠永さんがどうしてここにいるのか、聞いてもいいですか?」


 殺される可能性がふと頭をよぎった瑛。ここに来る前に純からかけられた言葉、瑛への取材の許可は当然純の独断であり紘和から了承を得ていないこと、そして先程の人間離れした力が眉間に皺を寄せ、普段よりも低めの声で問いかけてくる紘和のせいで思い起こされたのだ。

 これは試されているのかと思わされてしまう。


「私は」


 つばを飲み込む瑛。背中にじっとりとした汗をかいているのがはっきりと分かる。

 純にはすでに嘘を告げているという状況がこの上なく瑛の首を絞めにかかる。


「ほら、篠永さん怖がっちゃってるじゃん。わかりきったことを聞くなよ。どうせ本人はチャンス到来って軽い気持ちで来てるんだろうし」


 体温が下がるのがハッキリとわかった。室内は温かいのに体感気温は外よりも寒いかも知れなかった。ここへ来た目的が観光ではないことは承知の上で純は瑛を招き入れたのだ。確かに、瑛が出版社に勤めているとなれば嘘の方に問題があったとも言えなくはない。では、どこまで瑛の方の事情が把握されているのかが問題であった。

 独自に追いかけてきたことになっているのか。いや、そんなことはないだろう。ロンドンからグリニッジまでは自力だったにせよ、情報元は千絵である。紘和との連絡はシャットアウトしていたとしても純か友香とは続いている可能性もあった。さらに、情報を聞いた場所は紘和や純の友達である亮太の店である。どこから瑛が取材を敢行しようとしたとバレても何も不思議な事はなかったのだ。

 とくダネに浮かれ、自分で掴み取ったチャンスと周囲を疑わなすぎたと今更反省する瑛。


「だって、旅行先で俺に偶然あってしかもお前と一緒にいるってわかれば昔のよしみで、あのおかしい事件について聞きたくなるのが記者ってもんだろ?」


 顔を伏せ、迫る死に対する緊張を隠していた瑛はそれが取り越し苦労、最悪の状況を深読みしすぎた結果だと知る。

 そんな純の助け舟に救われた気持ちで顔をあげると紘和の厳しい顔つきは決して崩れていなかった。


「偶然にしては出来すぎてないか。それに俺は本人の口から聞きたいんだが」

「お前が怖すぎるんだよ。あの顔見ろよ。それにインタビューだって別に答えたくなければお前が答えなければいいだけだし、正直お前が何を警戒してるのかわからないよ」


 紘和と純は横目でお互いを睨み合う。


「粗茶ですが」


 そんな空気を気にもとめず、友香がティーカップをそれぞれの前に置いていった。


「はぁ、わかった」


 諦めを口にした紘和は目の前のティーカップを手に取れ、香りをかぐと口をつける。


「それでは、篠永さんのインタビューを受けましょう。ただし、質問に応えられるかどうかはわかりませんけど、よろしいですか」


 場の空気が少し和やかになるのを感じた。純も満足そうに首を縦に振っている。

 友香も瑛に笑みを送り、再び台所の方へと戻っていった。


「はい、よろしくお願いします」


◇◆◇◆


「以上で、質問を終わりにしますってなるかぁ。なんで全てお答えできませんなのよ」

「ウケる。これは酷い」


 純だけが笑い転げていた。あれからテーブルにはクッキーが並び、瑛の隣には友香が座っていた。そして、瑛の質問は一切紘和に答えてもらうことができなかったのだ。

 そのため、瑛は先程の臆した空気と違い、軽くおちゃらけたようにしながらも怒っていたのだ。


「質問に応えられるかどうかはわかりませんと言いましたが」

「言ったけど、言ったけどさぁ。流石に酷いよ」

「というわけで以上です。これ以上首をツッコむのでしたら追い出しますよ」

「と、その前に」


 純の割り込みに明らかに怪訝な顔をする紘和。


「篠永さんには是非今後も俺たちとイギリス旅行を楽しんでもらいたいんだけど」

「ん~、別に同席させてもらうのは是が非でもって感じだけど、何するの? いや、何をさせたいの?」


 今となれば瑛にだって純の目的はわかる。紘和に取材を受けさせようという善意からではなく、瑛という人間を求めていたからこそ、ここへ招き入れたのだと。

 つまり、記者としてここへ来ても今は得る成果はないという結論に瑛は達していたからこそ、次の純の言葉に期待する。


「年明け一発目のヘンリー・カンバーバッチ氏との対談に同席してもらいたいんです」

「お前、何考えて」

「考えてるよ。考えてるに決まってるだろ。だからお前は黙ってろ」


 それは、瑛が予想だにしなかった提案だった。


「ヘンリーってあのイギリスの希望のヘンリー」

「いいリアクションだねぇ。その通りだよ、篠永さん。どうせならメディアに携わる人を連れてあいつの嫌がる顔を見たいんだよね」


 純が瑛を連れて行く理由は瑛には理解し難いものだった。故に身の危険が一瞬頭をよぎる。

 しかし、それ以上に目の前に転がるネタの大きさに瑛の心は奪われていた。


「そういうことですか」


 友香は何かに合点がいったようにため息を吐きながら純にジットリとした視線を送る。もちろん、瑛には知る余地もない。だが、今の友香の発言には、瑛にとって不可解点があった。友香に合点がいくということは、こうなることが事前にわかっていたということになる。

 それが瑛でないとしても誰かメディアに携わる人物が紘和たちを付けてくると予想していたことになるのだ。


「いいよ、その案件、是非協力したい、と言いたいけど」


 だからこそ、瑛は聞きたくなる。


「私、死なないよね」


 瑛の不安そうな顔に純は笑顔で答えた。


「そこは自己責任」


◇◆◇◆


 瑛には空いていた別室を取らせたためそこへ移動してもらっていた。


「例のシールのお陰か」


 紘和は友香も一旦部屋を出たのを確認すると純に対して質問する。


「まぁ、役に立ってはいるだろうけど、そういう目的じゃないからなぁ。その意味ではゆーちゃんの方が鋭い」

「悪かったな。それで、篠永さんは偶然だと思うか」

「そういうことにしといたほうがお互い都合がいい、って感じかな。見ただろ、お前の圧に怯えてたじゃん。まぁ、俺が下手したら殺されちゃうかもよって事前に言っといたせいもあるだろうけどな」


 純はさらに紘和の質問の核心に答える。


「十中八九、監視の一人だろうね。しかも、本人がそう思っていないパターンだ。メディアに垂れ流せば自然とこういう人間がでしゃばってくる。それを利用したんだろうけど……この采配。篠永さんは千絵に一杯食わされてそうだよね。お前と別れていなければ千絵が彼女として付き添っただろうに。ある意味貧乏くじだよね」


 紘和はため息を漏らす。


「と考えれば、知らないところで千絵の友達が殺されてた、はお前にとって後味が悪いだろ? 俺なりの配慮だ」

「嫌がらせ、だろ。取ってつけたようなお世辞はいい」

「さいで」

「で、他は?」


 紘和は話の流れから他にも送り込まれているであろう監視役に心当たりがないか純に尋ねる。


「他は少数精鋭で専門的な奴らじゃないかな。でも、ここら辺にはすでに潜伏してると思うよ。何せ、天堂家もしくは関係者直々に依頼されてるだろうからね。事前の情報はある程度筒抜けでしょ。だからあの機長欲しくなかったんだよねぇ」

「まぁ、すでに機長自身が罰を受けたからあれは勘弁してやってくれ」


 何かを思い出したようで紘和は純から顔を反らす。


「じゃぁ、俺はまた市内を散歩してきますよ」

「画策、だろ」


 純はそれには答えず手を振りながら部屋を出ていった。


◇◆◇◆


 時は戻り、正月。


「お待たせ」


 身支度を整えた瑛が一番最後にロビーへと到着する。

 しかし、そこには瑛の知る人物がもう一人いた。


「花牟礼山さん」

「あれ、篠永さん」

「お二人は知り合いなんですか?」


 そんな二人に驚いていたのが友香だった。どうやらホテルの通りの反対側を歩いていた彩音を友香が見つけたらしい。実は彩音が旅行に行くきっかけを作ったアパートの住人こそが友香だったのだ。友香は行き先を告げていなかっただけに彩音の姿をイギリスで見かけてとても驚いていたらしい。

 一方、瑛も現地で知り合い彩音と知り合いロンドンからグリニッジへ行き先が同じだったため同行したことを説明した。


「もう帰られるんですか?」

「新年も無事迎えられましたし、私は帰りますよ」

「じゃぁ、また帰国したらよろしくお願いします」

「私もこんなところで桜峰さんとそのお友達に会えてよかったですよ」


 そんな軽い世間会話を済ませて彩音はその場を後にしようとしていた。瑛も友香もその去り際を手を振って見送った。だから二人の後ろにいた紘和しか気づかない。探していたものに出会えたような、喜びに満ちた顔をした純がそこにいたのだ。しかし、何も言わない。故に気味が悪かった。純は一体、この瞬間誰に対してあんな感情を向けていたのか。当然、紘和にはその対象であろう彩音について純に聞こうとは思えなかった。それほど、取扱危険という張り紙が純の身体を包装している様に見えたからだった。


◇◆◇◆


 友香は違う用事があると言って何処かへ行ってしまった。それから数分で一台のリムジンが到着する。

 後部座席の中から出てきた大男に一瞬怯む瑛。


「お待たせしました。天堂様以下二名の方ですね」

「そうです」


 紘和が前に出て確認への返事をする。


「では、お乗りください」


 後部座席から出てきた男がドアを開いたまま中へ入るように促す。


「レディーファースト」


 純がそう言って瑛を前へ押す。


「ちょっと」


 少しよろめきながらも車のドアに手を置き転ぶことなく中へ入る。


「すごっ」


 中の広さや豪華さに驚いているのだろう。ここのホテルへ来る時に友香も似たような反応をしていた。そして、次に紘和が乗ろうとする。

 すると、そこへ純が回り込んできた。


「レディーファースト」

「あ? お前女になったのかよ。邪魔だ、入るかどいてくれ」


 ここに来て純が悪ふざけのように紘和の行く手を阻んだのだ。

 そんな姿にドアを押さえている男も仕方ない奴だと言わんばかりの蔑んだ目を送っていた。


「イライラすんなよ、ちょっとした戯れだろ」


 純はすぐに一回転しながら横へずれる。


「さぁ、お乗りください」


 その後、紘和、純の順番に乗り込むとドアを押さえていた男を乗せ、車は出発した。


◇◆◇◆


「みなさま、初めまして。私、ヘンリー様の元で秘書官を勤めさせていただいてます、デニスと申します」

「で、どこに連れて行かれるの?」


 デニスの自己紹介も早々にぶしつけに質問してくるのは先程も外で変な行動をしていた純だった。ヘンリーからは紘和以上に厄介な男だと伺っていた。

 奇行が目立つ、粗相が多いという意味では確かに厄介そうな人間だが、デニスにはヘンリーの言う意味がいまいち掴めないでいた。


「順を追って説明いたしますので、大丈夫ですよ」

「何、また地下なの? 国立海事博物館の? マジかよ。名前に違わぬところに招待してくれるの? 嬉しいねぇ」


 純のまくし立てるような単語の嵐にデニスは言葉を失う。


「話の腰を折るな」


 舌打ちの後、紘和が短い言葉で純を注意する。

 瑛だけが話についていけておらず、三人の顔を交互に覗き込む。


「随分と耳がよろしいようで」

「何? 当たってたの? ヘンリーの血筋っていうのもあながち間違いじゃないの」

「いえ、関係ないと伺っております」


 知っていたであろうことをさも適当に当ててみせた様に振る舞う純を見てヘンリーの言っていたことを理解する。これは黒幕として糸を引くのが好きなタイプだと。

 だからこそ、会話で冷静さを欠いたら負けてしまうと。


「そっか。まぁ、それはいいんだよ。それで俺達はどこへ連れて行かれるのって聞いてるの」

「どこへと言うのは先程ご自身がおっしゃっていたではありませんか」

「……理解してないのか、知らされてないのか。それとも俺の情報源を知らないのか」


 ブツブツと頭を整理するように呟く純。

 そして、考えがまとまったのか純はとんでもないことを言い始める。


「お前、秘書官とか嘘だろ」


 デニスの顔に変化はない。


「何を言い出すんだ。事前に説明を受けてただろう。この人は間違いなくヘンリーさんから紹介されていたデニスさんだ」

「じゃぁ、試してみるか」


 その言葉を合図に純が手にしていたグラスをデニスに投げつける。デニスはそのグラスを受け止める。

 同時に、後頭部に激しい衝撃を感じた。


「随分と前倒しじゃないか。ハハッ、誰だよ、お前」


 純の右腕がデニスの首を鷲掴みにしていた。


「本当のこと言わないと、気絶させちゃうよ」


 しかし、それは叶わぬものとなる。運転席側から突然銃口が二つ飛び出してきたのだ。純は即座に両手で銃口を持ち上げ、デニスを蹴り飛ばす。その勢いで拳銃二丁を奪い取るとデニスとの距離も開く。

 それを狙いデニスが車のドアをぶち破り、そのまま外へ飛び出したのだ。


「ちょっと、何よこれ」


 突然の乱闘、銃の登場、人が車から飛び出し地面をすごい勢いで転がっていく情景など、瑛がパニックになる要因は満載であり、故に大声を上げる。

 ある意味唯一この場でまともな反応をしているとも言えた。


「紘和、止めろよ」

「穏便にしとけば根城まで行けただろうに」


 やれやれと言った顔で紘和は座ったまま手だけを動かす。すると、金属が何かと擦れるような音が下から鳴り、徐々に焦げ臭くなってくる。

 そしてリムジンもガクガクと音を立てていた。


「いつの間にか運転席も空だけど、頑張んないと建物にぶつかるぞ」

「え? 何、どういうこと」


 瑛の声だけが現状の危険さを伝えている。この時、紘和は車を分解するか、目前に迫る建物を分解して距離を稼ぐか考え始めていた。しかし、結論から言うとそのどちらも実行されることはなかった。ドンッとまだ建物との距離はあるのに何かにぶつかった音がして車が止まったのだ。運転席を覗いているため下半身しか見えない純だが、何やらはしゃいでいるようで足をばたつかせていた。

 そして、その要因が開け放たれたドアから顔を覗かせた。


「ダメじゃない、被害を拡大したら」


 そこにいたのは頭から被るような大きなドレスを身にまとった大柄のオカマとして有名なヘンリーがいた。


◇◆◇◆


 ドンッという衝撃音とともに揺れた機体。

 そして叫ぶ機長の目の前にはヘンリーがいた。


「どういうことだ」


 音を聞き駆けつけ、機長をナメますように機体正面に張り付いているヘンリーに気がついた三人はそれぞれが別々の反応をしていた。

 紘和はヘンリーの登場を不思議に思い、友香はどうして人がいきなり現れたのか戸惑い、純は両手を振っていた。


「ほら、一瞬でいいから開けて」

「し、しかし」


 機長は恐怖のあまり声が上ずっていた。

 巨大なオカマが物欲しそうに上空を飛ぶ飛行機に張り付きながら見つめているのだから無理もない。


「だから人は連れ込みたくなかったんだよ、特に男はさ」


 そんな純の言葉は誰も聞いておらず、友香は腰を抜かし、紘和は急ぎ扉を開けるように機長の元へと駆け寄っていた。


◇◆◇◆


「初めまして、天堂、そして幾瀧。あら、もう一人桜峰とかいう女性がいると聞いていたのだけど」

「出た、やっぱ生はすげぇな。てか、オカマが八角柱の一人とかやっぱウケる」

「あら、随分と失礼じゃない」


 そんなヘンリーと純のやり取りを一歩引いた位置から見ていた紘和が口を開く。


「初めまして、カンバーバッチさん。もう一人は遅れてくることになっています」

「へぇ」


 ズイッと紘和の近くまで距離を詰めるヘンリー。身体が大きいため少し近づかれただけでも圧迫感は相当のものだった。

 そしてヘンリーは紘和の後ろのトランプの置かれたテーブルを見ていた。


「何か?」

「いいえ、別に何でも」


 ヘンリーはそれだけ言うとそのままテーブルまで移動しソファーに腰を下ろした。


「時間は有限よ。ここにある一番アルコール度数の高いお酒を持って早く席につきなさい」

「紘和、俺のもな」

「どうして俺が」


 紘和はそう言いつつも渋々、アブサンを両手に二人の元へと行くのだった。


◇◆◇◆


「さて、お互いどこまで手の内が知れてるのか確認しておきたいんだけど、よろしいかしら」

「パネェ」


 純が驚き、紘和が若干引くのも無理はない。アブサンと言えば、ニガヨモギの香味成分であるツジョンにより幻覚などの向精神作用が引き起こされるとされ一度販売を禁止されたことで有名だが、ヨーロッパに伝わる酒の中でもアルコール度数が高いことでも有名だった。紘和が持ってきたのは七十相当のまさに、アブサンと呼べる一品だった。

 それをヘンリーは瓶から直飲みで半分ほど平らげてみせたのだ。


「日本人が風味やらにこだわりすぎてるだけよ。こんなの大したことないわ」

「それじゃぁ、ひよっこは角砂糖でお付き合いさせてもらいますね」


 そう言いながら純はクラシックスタイルと呼ばれる独特の割り方を始める。


「それで、話を戻すわよ。お互いどれだけ手の内が知れてるか知りたいの」

「それは私たちから話すことで、入国の一件に対する貸しを返させるということですか?」

「そう思うのはあんたたちの勝手よ」


 紘和からすれば予定外のことだった。ヘンリーとはいずれ会うということがわかっていただけに、そのタイミングの早さに驚いていたのだ。しかも、ヘンリーは恐らくこの天堂家が所有する飛行機をどこからか付けていたことになる。なぜ、このタイミングなのか。

 全てがヘンリー側主導のもと、試される形を取られている現状に紘和は内心で舌打ちする。


「手の内が知れてる、かじゃない。俺達がこれからあんたの国ですることを見逃せる準備が出来ているか確認がしたい、っていうのがこちら側の言い分。だから、あんたらの手の内なんざ知らん。これは交渉でも何でもない。一つの案件を俺たちが偶然肩代わりする結果になる、それだけだ」

「どういうことだ?」


 純の得意気に喋る内容に疑問の言葉を向けたのはもちろん紘和だった。

 武者修行の一環になるとだけ聞かされていた立場からすれば、話がやや複雑に聞こえるため聞かざるを得なかった。


「そう、あなたが頭なのね、幾瀧」

「今はね、今だけね」


 偉そうに胸をふんぞり返しながら純はヘンリーに嬉しそうに応える。紘和は二人だけが分かり合えている空気を壊す訳にはいかないと判断し、その行く末を見守ることにした。

 だから、アブサンを一口ストレートで喉に流し込んだ。


「でも、変わらないわ。私はお互いの手の内が知りたいの。教えてくれるかしら」

「一国を背負うって立場は大変だねぇ。俺なんてフリーターだからね。背負ってるもんが違うよ。カッカッ」


 純は両手を組むとヘンリーが求める答えを喋りだす。


「あんたの国で開発が進められていた黒い粉によって生まれた新人類ってやつらの暴動を沈めてやるよ。ロシアが生み出した合成人よりもおぞましいかもしれない化物を、この俺達がな」

「化物じゃないわ。彼らは私の国の……人間よ」

「実験に利用して力を持った対象が暴れてる。モルモットが牙を向けている、その状況で国民を主張するのは、俺達をヒールにしすぎじゃないか」


 紘和には純とヘンリーの会話の内容が理解できていない。黒い粉、新人類、暴動その全てが紘和が初めて耳にすることだった。

 一体、イギリスの国内で何が行われているというのか。


「言い過ぎ、そうかしら」

「そうだろう? 日本やロシアが技術協力をしたからと言って、そのおかげで実験が成功したからと言って種を蒔いたのはお前たちなんだからなぁ。だから、これだけ歪な場が設けられてるんだろ。勘違いすんなよ」


 紘和には相変わらず内容はわからない。しかし、ヘンリーの純を忌々しく睨みつける顔からこの会話が純優勢に動いていることだけはわかった。当然だろう。主導権を握るためにヘンリーは手の内を明かせという名目で純と紘和がヘンリーたちイギリス側にどういった恩恵をもたらすことが出来るか示させようとしていた。紘和がそれに応えようと最良に選択をしようと探りを入れて自分で考えろと言われたのが、先程の解釈は各々の勝手というヘンリーの返答であった。だからこそ、純は自分たちがやろうとしていることがイギリスのためになると核心をつきながら主張したのだ。そして、事情をすべて知っている純だからこそ、その先の選択を出来た。ためになるが、してやるに変わったのが良い証拠である。

 下手な探り合いをせずとも、これみよがしに自分の持つ全能的情報量を披露するタイミングを間違うことのない純だからこそ出来る技だった。


「随分と言ってくれるじゃない、このガキが」

「オカマ相手にだって容赦はしない、当然だろ?」


 勝ち誇ったような顔をする純と不敵な笑みをこぼすヘンリー。しばらく、そのままの顔でお互いが顔を突きつけ合う。

 そして、先に動いたのはヘンリーだった。


「それじゃぁ、話は向こうで」

「了解」


 ヘンリーの伸ばした手に握手で応える純。蚊帳の外で釈然としないからか紘和の酒を飲むスピードは上がっていく。しかし、そんな紘和を無視して二人は次にトランプを手に取り始める。

 どうやら、今日の案件はもう済んだらしくこれからポーカーに勤しむようだ。


「紘和、お前ディーラーな」

「るっせぇな、後で全部教えねぇとぶっ殺すぞ、あぁ」


 声を荒げながら紘和はそれでもディーラーを務めるのだった。ちなみに結果はほとんどヘンリーの圧勝だった。故に純はボロ負けし、イギリスの空へ大金を抱え込んだまま消えていったヘンリーに文句をたれながら別れを告げたのだった。


◇◆◇◆


 飛行機から空へ飛び降りたヘンリーは純という人間が聞いていたよりもいかに警戒すべき人物かをポーカーで思い知らされた。何せ、彼が本気を出せば負けるということはありえないのだから。

 つまり、幾度か勝ち星を拾えた純がいかに異質であるかをヘンリーだけが今日知ることとなる。


「うふふ、楽しみね」


 舌なめずりをしながら砲丸のごとく加速して落下していくのだった。


◇◆◇◆


「ふぅ」


 何故か純にヘンリーが入ってくるタイミングで隠れるように指示されていた友香は、ヘンリーが大空へ消えていくのを見届けると姿を現した。


「お疲れ」

「どうして私、隠れなきゃいけなかったんですか?」

「なんとなく?」


 特に理由はないと言い続けられそうだったので友香は仕返しと言わんばかりに先程の出来事で気づいたことを口にしてやることにした。


「さっきヘンリーさんから受け取った紙も隠しておくんですか?」

「なんだそれ?」


 酔いが回っているのか随分とがさつに純の元へ近づく紘和。


「めざといね、ゆーちゃん」


 今度は気づいてくれてありがとうと言わんばかりの態度でヘンリーと握手を交わした右手から折りたたまれた紙を出し、広げてみせた。中には年明けの昼過ぎに迎えが来ることと、対談を行う場所、迎えに来る人物の顔写真が同封されていた。そして、最後にこう記されていた。本当の目的地へは当日あった時に教えると。


◇◆◇◆


「ごめんなさいね、こちらの不手際で。でも、賢い子たちで助かったわ」


 ヘンリーは謝りながら三人が車の外へ出るのを手助けする。


「いえ、助かりました」

「でも、街を破壊するのとかは勘弁よ」


 紘和の返事にヘンリーはそう言うとウィンクを飛ばす。

 一方で状況がうまく飲み込めず、しかし、記者としてこれはスクープの現場に立ち会っているという事がわかる故あたふたする物が一人。


「幾瀧、あの子が桜峰? なんだか聞いてた人と違うんですけど」

「ん? 桜峰代理の篠永さんだよ。俺達の先輩でメディア関連の人」

「え? どういうことだよ」


 軽くカチンと来て素が出ているヘンリーの元へマイクが届く。


「初めまして、ヘンリー・カンバーバッチさん。私、篠永瑛です。早速なのですが、これはいったぁああ、マイク、私のマイクがぁああ」

「くだらない質問するなら、次はあんたがこうよ」


 瑛の絶叫が市内を駆け巡る中、ヘンリーの握力のみで粉々にされたマイクや接続機器が無残に路上に散らばっていくのだった。

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