第十七筆:当然の結果な剣
「おはよう、諸君。元気だったかね?」
すでに日が陰った中、陥没した国会議事堂裏の瓦礫を払いのけて地上へ顔を出した紘和たちを出迎えたのは服をボロボロにし、幾つかの軽症が見受けられる純のドヤ顔だった。まるでここから出てくることが当たったことを自慢するような顔は、その場にいた誰から見ても不愉快極まりない顔でしかなかった。
だからといってそれに抗議するだけの余力があるかと言われれば、肉体的にも精神的にも疲労でいっぱいだった紘和たちは、その顔には一切触れず、地上へ上がる。
「そこは、こんばんはだろってツッコめよ。つまらない。おーい、こっち、重傷者一人。ハリーハリー」
明後日の方角を向いているというか、緊張感の欠片もない声が救急隊員を呼ぶ。
純の声に即座に駆けつけた救急隊員たちはすぐに、胸を赤く染めた瞳の姿を確認すると、心肺を確認し、様々な器具を身体に取り付けると急いで担架で運んでいった。
「みなさんも一応来てください」
救急隊員の一人が千絵や瞳、紘和にも手を貸そうとする。
「いや、私は大丈夫です。何かあれば後からいくのでお構いなく」
「し、しかし、天堂様のご容態が次に」
「そこの二人を、よろしくお願いします」
救急隊員の気遣う声を遮り、念を押すように頭を軽く下げる紘和。
しつこいという剣幕に押され、救急隊員たちもそれ以上立ち入ろうとせず、友香と千絵に毛布をかけて連れて行ってしまった。
「随分と震えてたな、お前のフィアンセ。それも、原因はお前にあるみたいだな」
救急車の後部座席に座り、テキパキと救急隊員の質問に答えている友香に対して、ガクガクと肩を震わせている千絵を見ながら純は紘和に質問する。
この疑問はある程度二人の仲を知っていればわからなくはないことで、先程から紘和と千絵は目を合わさず、言葉もかわさない上に、何より紘和の一言一言にピクンと都度身体を震わせ、怯えの色を伺わせていたからだ。
「それに、随分とボロボロだな。出血はそこまでとしても、お前、耳とか三半規管は大丈夫なのか?」
加えて、純はやせ我慢する紘和をからかうようにその状態を分析してくる。だが、紘和は自分たちのことを話すよりも先にこの整った状況の方が気になっていた。
だから、紘和は純の質問には答えなかった。
「どうして、ここまで俺たちが手厚く迎えられている? お前が救世主になったからなの?」
皮肉の意味も込めて、紘和はここに来る前に純に言われたことをなぞりながら質問した。
「う~ん、その一端? 副産物ってやつだな。つまり俺は、もっと凄いものを勝ち得てきてやったぜって話。まぁ、そのせいで二人ほどこの場から見逃す結果にはなったけどな」
「見逃した、だと?」
誰をとは聞かなかった。それでも兼朝はともかく陸は純にとって、何より友香と紘和、そうこの三人のメンバーにとっての最優先目標だと思っていただけに、キッと苛立ちと責任を追求するように紘和は眼を飛ばした。
「ほら、俺も止める体力がなかったんだよ。ね?」
随分と誇らしげに純は一回転しながら、自身の現状を紘和にアピールしてきた。見れば分かる程度に切り傷により赤黒くなった服が映る。脇腹から滲む赤色が特に色濃く痛々しさを感じさせた。同時に紘和はまた実力という点において自身の持つ物差しの使えなさに内心、嫌悪するのだった。圧倒的な紘和自身の強さを疑うつまりはない。しかし、要所々々を見ていくと足りない部分があることがよくわかった。紘和は確かに恵まれた身体能力を持ち、【最果ての無剣】という蝋翼物を扱うことに関しては長けていた。その二つで無理やりに互角以上の舞台までその戦闘能力を相乗的に伸ばしていただけだったということだ。つまるところ結局経験が足りないのである。【最果ての無剣】を制限された瞬間、圧倒的な制圧力は影を落とし、結果兼朝にも陸にも逃げられた。純粋な技という選択のなさが招いた当然の結果とも言えた。
それは純の身体を見ても言えることだった。紘和が純との初戦で何も出来ず圧倒されたのに対して、蝋翼物を持たない一樹と智が純をここまでの状態にしたということは、人数という違いはあれど、詰まるところは本人の持つ経験という技の選択なのだろうと想像に固くなかった。
その事実が紘和の中で浮き彫りになり、悔しいという感情に繋がる。
「深く考えるな、紘和」
珍しく、純が紘和の肩に手を置きながらフォローするような言動を始める。
「お前の今考えてることは、これからどうとでもなることだ。むしろ、気づけただけ温室育ちのお前には刺激的で良かったんじゃないか? いや、良かったんだ。そうじゃなきゃ俺が困る」
紘和はそんな気色の悪い優しい純の言葉に、思わず現況の顔を直視する。
「お前に必要なのは、間違いなく精神的なことだからな。他はその過程でついてくる」
紘和が初めてみたその純の表情は、空を見上げどうしたらいいものかと困りつつも、それに期待している、といった横顔であった。
「精神的なこと?」
だから紘和は思わず聞き返してしまう。
「そっ」
そこで紘和の視界がぐるりと半回転する。地面に打ち付けられる前に右手で身体を支える紘和。どうやら、純に足を刈り取られバランスを崩したようだった。
即座に何か言ってやろうと起き上がろうとする紘和の眼前に、その行動を阻止するように純の右拳が置かれていた。
「揺らぐようじゃダメだぞ、お前のスタンスが」
「はぁ……何が止める体力がなかっただ」
紘和は見た目の負傷からは想像もできないほど気力に満ちて動いているように純にため息をつきつつ、【最果ての無剣】を出現させる。
「早く、お前が俺のために何をしてたのか教えろ」
紘和が振り抜いた間合いをキレイに見切り、両の眉を大げさに上下させ挑発する純。
「お前が俺に勝てたらな」
鈍感な紘和でもこれが純にとって冗談であり、先ほど見せたどこか純らしくない顔をはぐらかすために始めようとしたことだとわかった。だから、路地裏で喧嘩する猫のように、純と紘和は足場の悪い陥没した瓦礫の上でじゃれ合い始めるのだった。
◇◆◇◆
「そろそろ飽きません? タイム、イズ、マネー。俺は話し合いに来たんだから話し合いを始めませんか?」
純はここに到着してからすでに十五分に渡って死闘の相手をさせられていた。最初こそ、奇襲を仕掛けられただけに、窮地に立たされた気分ではあったものの、時間が経過すればするほど、純にとっては順応するだけの余裕を作り出す時間でしかない。一方で、相手は体力を削られていくだけなので面白みに欠けた気分になり始めていたのである。もちろん、今回相手取っている一樹と智には未だに後者の兆しはない。
しかし、確実に純へ繰り出される攻撃に新鮮味がなくなっていたのは揺るがない事実だった。
「御老公」
智は話に応じるべきかと一樹の顔色を伺う。しかし、当の一樹にはその気が毛頭ないらしく、姿勢を低く保ったまま愛刀を握りしめていた。一樹がここまで純に固執する理由が単に毛嫌いしているだけではないことを知っている。そのもう一つの理由がまさにこの状況である。一樹と智を同時に二人相手取って余裕を見せる節すら出てきた純という人間の強さである。歳とは言え、過去にイギリスの最強であったブライアンの手から【最果ての無剣】を奪い、第三次世界大戦ではアメリカの正義にして最凶トムとロシアの愛ライザ率いる合成人の軍を退け、ブラジルの勇気こと白兵戦に於いて右に出るものはいないと評されるイザベラと互角に渡り合った一樹からすれば、目の前に現れた純は立ち向かわなければならない存在、いや皮肉にも嫌いであるが、壊れることのないおもちゃを見つけた感じなのだろう。
だが、それほどの男が一樹のことをまるで眼中にないかのように真剣に戦闘に取り組む様子を見せないのが、一樹が嫌う最大の理由であるのと共にこの戦いを終わらせない要因にもなっていた。全力で相手にするほどの価値が無いという立ち振舞が一樹を挑ませ続けている。要するに意地である。そして、このことを知りつつ純は一樹に向き合おうとしていないのは付き合いのない智にもわかった。だからこそ、ここは智が純に応対するのが、交渉にしろ戦闘にしろベストなはずだった。しかし、智はそれをしない。
やるべきとわかっていても一樹を立てる必要性を感じているからだ。
「ここまでくると、怠惰って言うより右顧左眄だな」
智にとってはほんの一瞬だけ意識を自分に向けていただけにすぎない。しかし、耳元から聞こえる声は純のものであり、身体の浮遊感と同時に頭に走る圧迫感は、純の左手で掴まれた智の顔が勢い良く投げられることを意味していた。しっかりと足払いで智のバランスを崩しながら、それでいて強引な投擲。智は塀に激突する直前に手にしていた刀を突き立て、その刀を支点に握力だけで身体を内側に百八十度回転させ、塀に降り立つ。智が一樹のもとに戻るまで数秒。これは下手をすれば決定打になりかねない時間に等しかった。
すでに一樹と純が一対一で激突している。駆けつけなければ。その一心で智は着地の衝撃で痛む膝を無理やり動かし、塀を蹴って走り出す。
◇◆◇◆
一樹の左にいた智が後方へ飛んでいく。歳を重ねたとは言え、八角柱に座す自分の力を疑うわけではなかった。それでも、現状がその心構えをグニャリと歪ませる。自分の力を磨くために時間も迷惑もかけて鍛錬を積んできた人生だった。そんな人生を歩んできたからこそ、一樹は眼の前にいる純というフラフラした芯の見えない人間には負けるわけにいかなかった。それは、ここに純が向かっているという情報をサルマンから受け取った時から、否初めて出会った時から変わらぬ一樹の思いだった。娯楽の片手間にやっているような戦いに、一樹は勝たなければならない。それはそういった武道の道を歩んでいる者のプライドのためでもあるのだ。
智を投げ飛ばすことで、出来上がったフォームという硬直時間を見逃さず一樹は愛刀の骨刀破軍星を無駄な動きを入れることなく突き刺す。
骨刀破軍星、ブライアンの一戦で切り落とされた一樹の左腕の骨を混ぜて作られせただけの刀。一般的な刀と比べ刃長は長く幅もなぜか厚い。骨の影響で茶色がかった刃に仕上がっている点は不気味さを醸し出す。
だが、その一撃はきれいに関節を曲げて純にかわされる。しかし、一樹の愛刀には刀という名称を疑うある特徴を持っている。それは諸刃になっているということである。もちろん、形状は刀のそれであるのだが、峰の部分が本来の機能を果たしておらず、かといって軽くなぞった程度では切れない程度の鋭利さを持っている。つまり、押すにしろ引くにしろ、そこにある程度の圧力さえ加えられれば傷をつけることが出来る仕様になっているのだ。だから一樹はかわされた一刺しをそのまま水平に純の方向へ滑らせる。後は、上や下へ回避を取ろうが軌道を変えて斬りつけるだけだった。この水平移動だけで切れるほどの相手でないことはわかっている。必ず何かしらの方法で抜け出すだろうと思っているからこそ先の一手へ一樹は構えているのだ。
だが、その予想は裏切られる。純は右肘と右膝で一樹の愛刀を挟み込んだのだ。しかし、一樹の持つ怪力を真っ向から受けて止められるほど、純粋な力と力のぶつかり合いで純が勝てるほど一樹の身体は甘くない。つまり、僅かではあるものの刃先が純の腹部にくい込んだことになった。その証拠に刀の上を細い血が這うように伝わりだしていた。そして徐々に勢いも太さも増していく。まるでレールの上でも進むかのように一樹の刀を挟んだまま素早く純が接近してきていたのだ。
遊ばれている。それでいて、純が確実に戦いを終わらせにきていることが一樹にはわかった。迷っている暇はなかった。純の左手が一樹の頭を捉えようと迫ってきているのだ。だから、両足を蹴り上げ、そのまま伸びてくる純の左脚に絡める。純によって刀が支えられていなかったら、一樹は自身の体重を支え、純の左腕を拘束することはできなかっただろう。だが、純の左腕は自由を失ったわけではない。だから、一樹は背中から地面に叩きつけられ、押し付けられる。いくら特異体質で一樹の筋肉量が通常の二倍以上あるからと言って頭部が強固に守られているわけではない。だから、その衝撃で一瞬だけ、ほんの一瞬、左手が緩む。その一瞬は肌に感じている刀身から直に感じ取っている純。当たり前のように得物は一樹の手の中から奪われる。そして器用に右手まで一樹の愛刀を運ぶとその長さを生かし、智の刀の範囲外からその刃先を智の眼前で止めてみせる。
加勢しようとしていた智もピタリと動きを止めて間に合わなかったことを悔しがるように顔を歪める。
「このままでいいから、俺の話を聞いてくれよ。それともこの刀の本当の隠し玉でどっちかの首を切れば、どっちかは満足するのかな?」
自身の身に危険が及ぶというリスクを敢えて取り、むしろそのリスクで楽しむように一樹と智を上回ってみせた純を見て、遊ばれていると感じる日本の剣、剣神にして傲慢な男の気持ちがわかるものはきっと数少ない武人しかいないのだろう。
◇◆◇◆
「それじゃぁ、時間もないというか、迎えに行く時間もあるからちゃっちゃと済ませよう。別にあんたにとって悪い話ってわけじゃないんだぜ? 爺さん」
純は上から体重を乗せて押さえつけているからといって納得できるような相手ではない一樹の動きを見事押さえ込み、智とは視線も合わさず一樹の愛刀で牽制を続ける。
「だからさ、聞いてよ。そして応えろ」
純は交渉から命令へと変わった言葉の雰囲気に心地よさを覚えたかのように、見下すように薄ら笑う。
「まず、要求だけど。今回起きてる事件の一切を見逃した上で、紘和の自由と天堂家としての権力の行使の自由を今後も約束して欲しい」
「今回起きてる事件、だと」
智は純がどこまで知った上で事件を定義しているか気になり、問い返す。
「まぁ、俺のこの襲撃を含めて、紘和のやる日本の剣の殺害と研究所の破壊。そして、これは俺にはわからないけど一般人、紘和の彼女が死んだとしても是非、見逃して握りつぶして欲しい」
「筒抜けはお互い様か」
その反応に純はケタケタと笑う。
「ハハハッ、そうだね。お互い様だね。優秀過ぎて互いに弄ぶほどなのかもね。っと脱線したね。だから、俺は先に見返りとして一つ、言わせてもらうよ。俺は、現場から逃げる者を全員見逃しますって」
一樹は一瞬目を見開く。
「糞ガキがぁ」
そして一樹は絞り出すように苛立ちと怒りの声を漏らした。
智はなぜ、この会話で一樹が激昂するのか理解できていない。
「これは、ついでだよ。あんたにとっても些細な事だろう? 見返りのメインはこれからだ。敬老の日でも血縁もないのに孝行してやる俺に感謝しろよ」
一樹の反応に満足したのか、純は笑みのまま息をつく。
「お前の望みを叶えてやるよ」
訝しむ智と一樹の顔を確認すると純は話を続ける。
「もちろん、リクエストを今から聞いてそれにお答えするわけじゃない。ただ俺の知りうる限りでできるあんたへの最大限の助力をしてやるって話だ。じゃぁ、ここまでもったいぶったその内容は何か、気になるよな。気になる気になる」
この場の視線を独り占めする感覚に酔いながら純はその酔いに満たされたと感じた瞬間、答えを発表する。
「そ、れ、は……最高の葬式だ」
純以外のオーディエンスの目がカッと見開くほど驚いているのがわかった。
「もちろん、看取るのは俺じゃない。当然の配慮だ。何せ、俺は嫌われてるし、今日やった感じだと万に一つもなくなるからねぇ、きっと」
その言葉を聞いて智はもちろん、一樹も純の提示した内容の真の意味に気づく。そんなことが本来ならば望まれていいわけがない。
しかし、智は最近、そんな苦悩を吐露した一樹の事を知っていた。
「お前みたいなのに、できるのか」
全力で立ち向かう相手を圧倒する力を持ちながら、自らをその土俵まで落とすような、人間として多くを欠いたように見える純が一樹の夢を叶えられるとは思わなかった。
「俺、だからこそ出来るんですよ。足りないだらけの欠陥品だからこそ、満たし方を知っている。完成品は完成品でしかない。だから、あんたに出来ないからこそ、俺に出来る」
一樹の心の中を見透かすかのように、純の言葉は止まらない。
「だからあんたも全力で紘和と俺の接触を止めようとはしないんじゃないのか? プライドが邪魔をするだけで、気づいてるはずだ。夢を叶える最良の方法を。そこの怠惰なやろうの気が変わるのを待つより、よっぽど現実的だと」
相手に一瞬でも思い当たる節があれば引き込まれてしまいそうな口上を、抑揚をつけてふるいにかけるように核心へと近づいていく純。
悪魔に取引を持ちかけられるとは、こんな感じなのだろうか。
「御老公」
智は純からの言葉に耳を貸すなと訴えるように一樹に声をかける。しかし、すでに結果は見えていた。それは恐らく、望みを叶えると言われた時点で、こうなることは決定していたのだろう。
ここでも望む戦いを行えない、老い先短い人間が純の言葉の魅力に惹かれるのは至極当然のことなのだから。
「そうかぁ」
そこには先程までの怒気に満ちた一樹の顔はなかった。
あるのは一時の休息を願うような、穏やかな、安らかなお年寄りの顔のそれだった。
「やだねぇ、そんな顔。普通なら気色悪いって思うんだろうな」
「やっとかぁ」
純から身体を離し、一樹はゆっくりと地面に大の字で横になる。純の言葉も皮肉というよりはどこか讃えているようにも感じられる言い回しだった。
そして、叶えるという言葉を一樹がこれ以上疑わないのは、自身の望みを言い当てていたからか、それとも自分よりも強者足り得るかもしれない存在への信頼なのかはわからない。
「じゃぁ、ちょうどいい傷をありがとさん。これで見逃す時の言い訳にできるよ」
背後からの一撃を警戒することもなく、純は上着の袖を引きちぎり腹にキュッと巻きつけると応急で止血しながらその場を後にしていく。そんな純に声をかけることも、ましてや殺そうとする気力も失せた智は、一樹の選択を自身が勤めることが出来なかったことを悔いた。同時に日本の剣で最強の候補であったとしても退いた結果を誇りに思った。
◇◆◇◆
「そろそろいいか」
急に来た飽きから純は戦う足を止める。
それに合わせて紘和が止まるのを確認すると純は天堂家で行ってきた内容を伝えた。
「お前んちに行って、お前を一人前の男にすることを条件に、この事件への関与のもみ消し、今後のお前の自由と権力を勝ち取ってきた。その勲章がこの脇腹だ……てぇ~」
胸を張った際に再び傷口が開いたのか、純が少し痛そうに右脇腹に手を当てていた。もちろん、わざわざ貰いに行った傷だと知らない紘和は、純の功績を聞いて素直に心で感謝していた。本来ならば反逆罪などの罪が問われ、指名手配犯になっていてもおかしくないことをしたのだ。それをもみ消した上で自由などが約束されているとなれば、紘和も頭が上がらないのは当然のことだった。
しかし、それでも納得いかない点がある紘和は息を整えながら純に追求する。
「俺を一人前にするっていうのはどういうことだ?」
「ん? さっきも言っただろ。自分でも言ってたじゃん」
純は両手を広げて説明を始める。
「お前は今回、少なくとも自分の技量のなさに気がついたはずだ。いかに恵まれた体格とセンスと愛された武器の力で戦っていたかは、武器を制限されることで理解できたんだろう? これはお前が気づけば勝手に成長することだ。問題は特にない」
ポンとどこに隠し持っていたのか刀にも見え、剣にも見える、しかしどちらでもない、刃のない物体を純は紘和に投げる。
「いっそのことしばらくはそれで頑張ってみるのも面白いかもな」
「何だよ、これ」
「何の変哲もないおもちゃだ。名前はないぞ。欲しいなら、そうさなぁ……奇剣とかどうよ。奇妙な剣、略して奇剣。危険な感じの語呂もよく、お前が大好きな俺の呼び名の剣。申し分なくね?」
手に取り、木刀と言い換えることもできそうなそれを紘和は振る。
意外にも手に馴染むそれを紘和は何度もふって、最期に純の顔先でピタリと止める。
「……妙に馴染むな。取り敢えずはわかった」
紘和は取り敢えずの了承を口にする。
純はそれに首を縦に振りながら満足気にすると本題を再び口にする。
「お前の言葉には説得力がない。どうしてだか考えたことはあるか?」
「ない」
「だろうな。お前の場合、一人で完遂できればいいわけだからな」
紘和の即答に純は嫌味のように、知っていたと返答する。
「そのくせ、お前は自分に常に問い続けている。俺は正しいことをしているのかと。同時に、情勢で有言実行した気になっている」
紘和の視線は純の視線から逃げるように、はたまた自身への苛立ちを抑えるように唇を噛み締めながら下へ向かう。なんとなくだが、中途半端に割り切れる自分がいることを紘和は理解していた。しかし、それがいかに異常であったかをついさっき紘和は知ったのだ。
◇◆◇◆
「二人とも大丈夫ですか?」
入り口付近に隠れていた友香と千絵を抱えて逃げるために近くまで来た紘和。その身体は中々にボロボロだった。理由は簡単である。兼朝の爆撃にはめられた半身が戻ってきたからである。爆炎に爆音は身体を軽く炙り、鼓膜を破る結果となっていた。疲労や切り傷などとは違う独特のダメージが見た目以上に、一人に戻ると同時に戻ってきたのだ。一人に戻る際に大まかな修復、否ダメージを、塩水を薄めるために水を足すように分散せていても水ぶくれや刀傷が綺麗になくなるわけではない。
それでも努めて笑顔で紘和は友香と千絵の前に現れた。
「はい。私も千絵さんも大丈夫です」
「では、ここから逃げます」
友香から無事を確認すると紘和はすぐさま二人の手を引いてここからの脱出を図ろうとする。しかし、そこに拒絶の声が響き渡る。
千絵だ。
「さ、触らないで」
紘和の差し伸べる手を拒絶する千絵の姿がそこにはあった。
まるで怪人にでも出会ったように怯えきった顔と震える声は、紘和に驚きを与えた。
「ど、どうしたんだ」
すぐにわかるはずもなかった。紘和を愛した人間が紘和の行動を、考えを深く理解していなかったことなどわかるはずもなかった。正義のためにやれることの上限に、紘和と千絵には大きな差があるということに気づけるはずもなかったのだ。その紘和の行動や考えは決して誰かから多くの共感を得るものではないということなど理解されてるはずがないのだ。だから紘和は千絵の拒絶の理由を、自身の為すべき正義の障害になると判断し、千絵を殺そうとしたことに千絵が怯えているのだとようやく恐怖に染まる顔を見てゆっくりと、そう、危険が迫っているにも関わらずゆっくりと感じる時間の中で理解し、本来ならば愛しい人を平然と殺す選択肢があった自分の身勝手さに憤りを覚えるべきなのだと察した。
そんな紘和の悲しそうな怒りでの葛藤の表情に、千絵は更に顔を強張らせた。
「桜峰さん、千絵をお願いします。道は私が作ります」
紘和はそれだけ言うと友香と千絵に背中を向ける。
「待ってください」
そこへ友香が声をかける。
「お母さんは、助けないんですか?」
紘和は正直、どちらでもよかった。死にかけていても死んでいても、紘和を殺したいほどに憎んでいた瞳に、それ以前に特に血がつながっていること以外特に何かを考えたことのない母親という存在に助けも供養も施す義理がないと考えていた。しかし、その選択で紘和は自分の印象を少しでも悪化していくのを防ぐ要因となると捉え、ただただ千絵の心象のみを鑑みて無言で歩みを瞳へ向けたのだ。
早足で瞳に近寄りながら紘和は考える。人というものは、親であるか否かに関係なく、失うべき存在ではきっとなく、かけがえのない存在であるべきなのだろうと。だが、殺そうとした時にためらいは微塵もなかった。同様に瞳にだってたとえ愛情がなかったとしてもしてもらった、ここまで育ててもらったという事実が、食事、教育にかけてもらった時間と金銭面が、感謝という言葉で大げさに表現しなくてもそういった支えに思うところがなかったわけではない。しかし、限りなく他人に近い存在だった。思っていることとやっていることに統一性がない。
それに葛藤しているという人間もいるが、それが本当に貞操だけでなく本心で結びつけながら考えているのかは本人も確証はなかった。
「くそ」
何もかもが足りない、否中途半端な気分に沈みながら、紘和は同時に当然の結果とすでに受け入れつつあった。どうしたいではなく、そうだったと。そして、奇跡的にも息をしていた瞳を担ぐと友香と千絵の所まで戻り、【最果ての無剣】で上から降り注ぐ瓦礫を弾き、上を目指しゆっくりと脱出を目指すのだった。
◇◆◇◆
「思い当たる節はたくさんあるだろ? というか、話戻るけど、フィアンセにもやらかしたみたいだしな」
純は目ざとく紘和の視線が下がるのを確認して、千絵が怯えていた理由と結びつけて紘和を追い込もうとする。
しかし、珍しく紘和は言い返してこない。
「どうした?」
「お前が、俺のためにしていることはわかった」
紘和の顔が純にズイッと近づく。
「今後の予定は?」
「カルシウム無しで怒りに身を任せないのは、自分は進歩してるって意思表示ですか? ハッ」
ドンッと近づいていた紘和の額に自分の額をぶつける純。からかいに対して紘和が反応を示さなかったことに内心、純は驚いていた。以前の紘和ならば、他の解決策はあったのかと問い詰めながら自身の経験不足から来る実力と、千絵を介した悪意に嘆き散らすところだっただろう。
しかし、紘和はそれをグッと堪え、さらに純にその先を問うてきたのだ。
「俺はおしゃべりが大好きだ。だがな、雄弁なことが沈黙よりも金ではなく銀のような価値があることを俺は知ってる」
衣装哲学から抜粋してきたようなことを得意げに語る純。
しかし、言葉のテンションとは裏腹に純の見せる神妙な顔に紘和は思わず魅入ってしまう。
「ここはそういう世界だ」
紫がかった空の向こうに誰かがいるかのように、挑戦的な言葉を、睨みを効かせながら空へ投げかける純。もちろん、声が返ってくるわけではない。ただ、紘和は付き合いがそれなりだからわかることがある。純は確かに何かに挑戦しようとしているのだと。
純の過去の発言を借りるならば、面白いこと、一泡吹かせるために主人公、またはラスボスに宣戦布告しているのだろうと。
「随分と無口だな。金のつもりか」
いつもの調子で紘和が根掘り葉掘り聞こうとしてくるのを期待していただけに拍子抜けの純。
しかし、無口でも目はしっかりと何かを訴えかけているように見えた紘和を見て純はやれやれとため息を付きながら伸びをする。
「それじゃぁ、約束ついでの武者修行の旅の準備にでも入りますか」
純はそれだけ言うと国会議事堂を静かな紘和を連れて後にする。次の予定地、イギリスに思いを馳せながら。
◇◆◇◆
「呼ばれず飛び出すピギャギャギャギャ」
車を運転していた純は国会議事堂へ向かう最中、とある人物に電話をかける。
「やっぱりお前、一樹側にも俺たちの情報売ってたろ? お陰様で待ち伏せされまくりだよ? 紘和だってとばっちりだぞ?」
「あれ? ご迷惑でした?」
「いや、面白かったよ。準備されてたから最初、ヒヤッとしたもん」
「それは何よりです」
純の携帯電話に出た相手は、あっさりとサルマンに純と紘和の襲撃するタイミングの情報をリークしたことを悪びれた様子を微塵も感じさせずに認める。
「それで、そろそろそっちの方に行こうと思うんだ」
「やっとロシアに来ていただけるのですか?」
「イギリスだよ」
相手からの反応はない。
「そっちの方って言ったろ? だいたい日本を抜け出す口実が整っただけありがたく思ってよ。どれだけ苦労したことか」
純はニヤニヤしながら電話の向こうの相手の反応を待つ。
「それで、ご用件は何ですか?」
あからさまに不機嫌になった声に満足した純はそのまま話を進める。
「今のイギリスでの進行状況は前に言ったからある程度調べてるとして、それを深掘りしつつイギリスに居る君の名前を把握しておきたいんだけど」
「私を見つけた時みたいに自分でまた見つけてくださいよ。どうせ、あなたのことならすぐにわかりますよ」
「いけずだなぁ」
「まぁ、私に聞くより部下のタチアナが現地にいると思うのでそっちにちょっかい出すほうがあなたの好みだと思いますよ」
「部下って、向こうはお前のこと上司だって知りもしないだろ。でも、その提案は面白いな」
頭を左右に振りながらリズムを取るように肩を軽く上下させ、ご機嫌になる純。
「では、現地にいる私を見つけ次第ということで」
「で、この情報は誰に売るつもりなの?」
間髪入れずに、質問をねじ込む純。
「欲しがる人に、です」
「誰かは教えてくれないの?」
「それは私の都合ですから」
純に言い勝ったようで得意げに話す相手。
「それじゃぁ、ジェフによろしく」
返事はない。
そのまま三秒ほどの沈黙が過ぎ去ると通話が切られた音がする。
「価値観のついでに全能感を教えたのが俺だってこと、忘れてるんじゃないかなぁ、あいつ」
純はそのまま携帯を運転席の窓を開け、進行方向へと投げ、車で踏み潰す。パキッと砕ける音が後ろから響くのを聞きながら純は再び国会議事堂を目指しアクセルを強く踏むのだった。
◇◆◇◆
純が国会議事堂に到着するとすでに振動と爆音が下から感じ取れる状態だった。純は急ぎ、天堂家管轄の病院へ救急車の手配を要請するとその足で陥没を始める裏手を軽快に駆け抜ける。
そして、目的の人物を見つけ距離を詰める。
「自称売国奴さ~ん」
亀裂の隙間からポンッと何かから押し出されるように勢い良く飛び出してきた兼朝がそこにはいた。
「はぁ……流石に絶望的ですよ」
声の方を振り返り、天堂家で足止めされているはずの純を見て、兼朝は身体をふらつかせながらなんとか立ち上がり敵を見据える。
「いや、俺はここにいる人に危害を加えるつもりはないよ。そう約束してきたから。そうでなきゃ今頃ここに来れてないよ。だから安心してもらって大丈夫だよ。それより質問いいかな?」
眉間に皺を寄せ、疑いと敵対の意志が表れている顔の兼朝に両手を胸の前で小さく振り、敵意がないことをアピールしながら純は質問する。
「俺が天堂家に行って、紘和がこっちに来ることがわかってたからサルマンに千絵をさらわせたんだろうけど、そのサルマンはどこからその情報を仕入れていたんだ?」
全てお見通しだと言わんばかりの純。
故に最小限の警戒を残しつつ、打ち明けてきた真実をそうだと認識できるからこそ、先の言葉も多少信じても大丈夫だろうと判断し話に応じ始める兼朝。
「なるほど、僕たちは踊らされていたんだね」
揺れは小刻みに続いているが、兼朝はゆっくりと座り、立てた右膝に頭をのせ、両手を組む。
「まぁ、どっちみちそう考えたほうが正しいですかね」
兼朝は純の含みある言い方に引っかかりながらも、確認する。
「約束っていうのは誰としたのかな? 一応、確認させてよ」
「こっちの質問には答えてくれないのに、そっちは質問するんですね。まぁ、俺も時間を潰してるだけなのでどうでもいいんですけどね。というか、誰としたかわかってる、そう思ったから警戒解いてくれたんでしょ? 用心深いなぁ。もちろん、あの爺さんとだよ」
「私も歳はいってる方だよ」
あえてをあえてで返されて、少し苛立ちを声に乗せる様に、名前を言えと強調する兼朝。
「天堂一樹。流石に、それを確認する方法はないけど、ここにいる全員を見逃す約束をしてもらった」
純は頭を掻きながらため息とともに事実を端的に伝える。
「まったく、親バカというか。これから幾瀧さんの言うとおり国を売る人間にまで情けをかけるとは、困った人だ」
「その辺はノータッチだよ。あんたたちの好きにすればいいさ。それより、崩れたりもう一人が来る前にできれば話して欲しいんだけど……社外秘でも漏らすぞって脅したほうが俺の質問に答えてもらいやすかったりする?」
「……それ以上は口にしない方がいい。思っていることとを思ったままにするのと口にしてしまうのでは訳が違う。そうだろう?」
牽制の様に睨みを効かせる兼朝。
そのまましばらく沈黙が続くと、兼朝は両手を引きながら地面に手を押すようにして胸を伸ばして、事後報告のように喋りだす。
「サルマンさんが諜報員なのは知ってるだろう。同時に彼には僕の下で國本さんとの連絡係を担当している。つまるところ國本さんから伝え聞いた話になるから相手は知らない」
「國本さんとこの央聖くんかぁ。なるほど」
「今の話を信じるのかい?」
もっともな疑問。直接的に争っているわけではないにしろ関係性を問われれば敵対関係と答えるのがベストな兼朝と純。
そんな兼朝の言葉を鵜呑みにする純に兼朝は思わず質問してしまう。
「いや、信じてないよ。そうだなぁ、嘘でもかまわないって言うべきかな。あんただってそうだったでしょ?」
「……確かに、そうだったね」
サルマンに情報を売り、純にも国会議事堂の下の情報を教えた人物は先程の電話からも分かる通り同一人物である。それを純は知っていながらも兼朝に嘘でもかまわないということで器量の深さを演出してみせる。ただ、純にも収穫はあった。リュドミーナが伝達の疎通を行う上で世界中を股にかけられる理由。それが商人である央聖の元にいたからということ。
もちろん、まだ知らないことも多いだろうが、情報を手広く扱えるようになった理由がわかったというものである。
「みてろよ、茅影」
ボソリと今回の一件で情報を垂れ流していた人間の名前を口にする純。
「それで、そろそろ逃げないと僕、逃げ切る自信ないんだけど」
「あぁ、それなら」
ゴンっと瓦礫をはねのけるような音がする。その方を見ると地面から手だけが生えたような異様な光景があった。
その手は下の血まみれの身体を引っ張るようにゆっくりゆっくり地上へ全貌を現す。
「ほれ、後はあの化物に手伝ってもらえって」
無理やり瓦礫を押しのけて這い上がってきた血まみれの陸は兼朝と純の姿を見て、怪訝な顔をするだけで身体を再生させ、その場に何事もなかったかのように立ち上がる。驚くことは服も全て何事もなかったかのようにキレイになっていたことである。それを見て純はあることを確信する。
しかし、紘和の足止めをする必要もあるため純は確認よりも素直に提案を始める。
「久しぶり。早速で悪いんだけど、もう国外に逃げるんでしょ? 途中までこの人のこと助けてやってよ。一時的とは言え手を組んでたわけだし、国外逃亡するという意味ではまだ仲間でしょ?」
「相変わらず、嫌味なやつだな」
「相変わらずってどういう意味だよ」
「そういうところだ」
距離はあった。しかし、陸の最後の一言は純の背後から聞こえてきた。
これみよがしの人知を超えた力を誇示するかのように陸は紘和との一戦の最後に見せた行動を再現する。
「こりゃ、まいったね」
純は後ろを振り返らない。振り返ったところですでに兼朝と陸がいないことが予想できたからだ。それに理由はもう一つあった。単純な話である。振り返った時に、圧倒できていた相手に得意げな顔をされるのが嫌だったからである。そう、今の純では兼朝は見逃せても陸には逃げられてしまうのだ。だからこそ、用意していた腹部の怪我という言い訳が純自身を惨めに仕立て上げることにいらだちを覚える。
この怪我はあってもなくても逃亡阻止に関係することがないのだから。
「次あったらいっぺん殺してみようかな」
低く小さい声が、それでいて静かに煮えたぎる怒りがしっかりと伝わる声が誰もいない荒れ地に吸い込まれていった。
◇◆◇◆
千絵が目を開けるとそこはいつもと違う天井だった。自室ではなく病室。昨日、紘和と友香を見送り、出勤しようとしたところを誰かに襲われたのだ。誰だったのかはわからないが心当たりはあった。恐らく、あの場にいた紘和に敵対する誰かに人質として連れてこられただろうということに関連付ければ、関係者の部下で当たり前のように部屋を、マンションを出入りしていても怪しまれない存在。サルマンである。
連れ去られた後はまるで夢でも見ているような時間だった。知らない空間で兼朝と瞳、そして知らない男の三人だけが何かをしている所へ、紘和と友香が乗り込んできた。そして見たこともない戦闘を繰り広げたかと思ったら、人質として見世物にされ、紘和に殺されそうになった。友香がどこからか止めに入ったため、本当に紘和が千絵を殺そうとしたのかはわからない。あまりの気迫に千絵が尻ごんでしまっただけの可能性もあった。しかし、尻込んでしまうほどの冷めた鋭い眼光からは、やはり千絵を助けようとしていたと解釈することはできなかった。
だから、千絵は初めて紘和を拒絶してしまった。友香に助けられた後、何があったかは覚えていないほど怯えていた千絵は、紘和の差し伸べた手を拒絶したのだ。その時の紘和の何故といった困惑と、千絵が抱く紘和への恐怖を読み取った紘和の苦悩に沈んだ顔が今でも忘れられないほどこびりついていた。好きだと言って紘和を支えると言った、世界の誰が紘和の正義を否定しても私だけはわかっていてあげると誓った千絵自身が拒絶してしまったのだ。あの戦いから一日経過し、少し落ち着いた今となっても真相はわからない上、千絵自身、心から紘和を愛せるかは疑わしいだろう。申し訳ないと思うのと同じぐらい、紘和が恐怖の象徴と心に根付いているからだ。
コンコン。
「はい」
病室のドアを叩く音に来客だと思い、反射的に返事をする。そして、引き戸がゆっくりと開かれた先にいたのは、紘和だった。
千絵はやはり一瞬ビクリとしながら、それでもここ一日考えていたことを、ここで紘和と向き合って話さなければならないと覚悟を決める。
「大丈夫か、千絵」
「私は大丈夫。……お母さんは大丈夫だったの?」
言おうと思っていた言葉が口から出てこない。
決めた覚悟をあざ笑うように、世間話でそのチャンスを不意にする千絵。
「大丈夫だよ。野呂さんに殺す気はなかったみたいだ。キレイに背骨、肺、心臓を避けて貫かれてた。命に別状はないそうだ。身体は休みさえ十分に取れれば元通りだって。ただ……」
千絵はその言葉の先を促すべく軽く首を傾ける。
「精神的に立ち直れるかは、本人次第らしい」
あの央聖への思いだけで紘和を殺そうとしていたのである。頼みの綱であったろう央聖への手土産を失っただけでもなく、兼朝に利用され、さらに無様に殺そうと息子の手で生かされてしまう。屈辱という言葉でしか表現を知らないが、瞳にとってはそれだけでは語れないぐらいの屈辱なのだろう。それ故の精神崩壊。
千絵は思う。自分は精神を病んでしまうほどに紘和を愛せてはいなかったと。愛してはいたが度合いが異なっていたと。瞳は実の息子にいらだちを覚えるほどに夫である央聖を愛していた。その依存とも言える光景を理解したいとは思わなかったが、あれほど心酔していれば、千絵は紘和の正義のために死ねたのだろうかと思った。
紘和を愛し続けていられたのだろうかと。
「あのね、紘和」
最初の一歩は、まごまごしていた分、サラッと踏み出せた。
「私たち、別れよう」
紘和は何も言わず千絵を見つめている。
紘和も千絵の口からこの言葉が出ることをまるで予想していたかのように落ちつた雰囲気だった。
「ごめんね、私から告白したのに、こんな形で」
喋る度に堪えていた涙がこぼれ始める。
それでも泣くよりも伝えるべき多くのことを伝えたいために涙をこらえる千絵の涙は一粒一粒が大きなものとなって一定のリズムで頬を伝う。
「やっぱり怖いの。どうしても、紘和を思うと一緒にあの時、私に駆け寄ってきた紘和の目がよぎるの」
鼻をすすり、千絵は本音を吐露し続ける。
「紘和は結局、私よりも自分の正義を優先するんだろうって。為すべきことを為すまで結婚できないみたいなこと言ってたけど、今の私じゃ、絶対についていけないし、邪魔でしかないもの。だからお互いのために、お互いのためにぃ……」
直接的に言ったわけではない。しかし、紘和にはわかる。
千絵は今、自分を殺そうとした男と別れようとしているのだと。
「別れよう。別れてください」
「そうだな」
紘和にはためらいなく同意することでしか、今の千絵を開放する手段を知らなかった。
「ありがとう」
千絵の涙を浮かべた笑顔に紘和は心を痛めている自分を実感していた。愛していたのだと実感できた。それでも千絵の言うとおり、紘和は千絵よりも自分の正義を今は選ぶのだろう。
しかし、千絵の言葉は終わっていなかった。
「だからね、今度は紘和が」
そこで一旦言葉を止める千絵。自分の気持ちを確認する。確かに千絵にとって紘和は怖い。しかし、紘和のなそうとしていることが決して悪いことではないと理解している。否、そういう話ではない。どれだけ理由をつけようと、やはり千絵の恋心は揺らぐものではなかったのだ。
そう、やはり千絵は紘和のことが好きなのだ。
「紘和が私のことを一番に考えられるようになったらまた告白して欲しいの」
どれだけ上から目線で図々しく、おこがましいことを自惚れながら言っているかは千絵自身が一番理解している。
それでも好きという気持ちが色あせていない、わずかにでも心の片隅に残されていることを別れを切り出すことで再認識した今、やはり千絵には紘和を完全に忘れることはできなかったということである。
「ダメ、かな」
涙を拭いて精一杯の笑顔で千絵は紘和に質問する。しかし、先程と違い間髪入れずに返事は返ってこない。
紘和は天井を向きながら細く息を吐き続けている。
「これから俺はイギリスへ行きます」
「はい」
紘和は喋るのと同時にくるりと背中を千絵に見せ、千絵の期待する返事とは違った話を始める。丁寧語になった言葉遣いがまるで他人であることを強調されているようで辛く感じる。しかし、千絵はそれに返事をする。
返ってくる言葉を全て聞いたと主張し、答えが欲しいと訴えるように力強く千絵は返事をした。
「その後も色々なところを巡ると思います。いつ日本に戻れるか正直わかりません」
「はい」
千絵は頷く。
「私は、必要のない連絡先を残しておいたりはしません」
「はい」
千絵は頷く。
「だからもし、曽ヶ端さん」
「は……い」
千絵は紘和から名字で呼ばれることが辛く、溜める涙に言葉をつまらせ、返事をハッキリと返せなかった。一つのけじめとして当然のことである。
わかってはいたものの、いざそう呼ばれると千絵は張り裂けそうになる思いに別れを告げたことを早まった行動ではなかったのかと後悔しそうになる。
「俺があなたをまた見つけられた時に、その返事をしようと思います」
パッと目の前が開けていくのを感じる。千絵が恐怖を訴え、別れを告げる。それを受け入れたという紘和の行動が結果として、昨日の出来事を、殺意を肯定したことになった。同時に
こうして事実をありのままに告げたお互いがなお、相手のことを考えていて、心の何処かで求めていることがこれで確認できたことになる。そう、千絵は感じていた。
だから千絵は病室を後にしていく背中に向けて大きな声で返事をする。
「はい」
可能性が僅かに残った。その事実に千絵はわっと泣き崩れた。身勝手な話である。この先どうなるかもわからない。恐怖は絶対に残るが、愛も残っている。その終着に少なくとも僅かな希望が見えたのは、身勝手とはいえ喜んでもいいのではないだろうか。
◇◆◇◆
「よかったですね」
病室の外の壁に寄りかかって待っていた友香が、晴れやかな顔をして出てきた紘和に明るく声をかける。
「ありがとうございます、桜峰さん」
紘和の世間一般ではダメだと思われる部分でさえ愛そうとしてくれる存在を殺さずに済んだことを、止めてくれた友香に感謝した。
◇◆◇◆
「おぉ、現総理のお孫さんじゃないですか。待たせてくれますね」
病院で千絵を見舞い、友香を拾ってきた紘和はそのままヒマツブシに足を運んでいた。
理由は簡単で、純がここを集合場所に選んでいたからだ。
「しかし、凄いな、紘和の爺ちゃん。昨日、国会議事堂周辺の爆破で行方不明になったっていう野呂総理の代役で急遽総理大臣に二度目の就任でしょ? なんか手際が良すぎっていうか、野呂総理、何したの?」
純や亮太の言うとおり、昨日の今日ですでに記者会見を済ませた上で日本の英雄である一樹が兼朝の穴を埋めるべく事件を隠蔽し、総理大臣の座に戻ってきていた。英雄であるがゆえに戻ることに異を唱えるものはいなかったし、兼朝の穴を即座に埋める代役としては適任であったため問題はなかった。しかし、国会議事堂の周辺が陥没したことと兼朝の消息が立たれたことは一樹に不信感を寄せる原因になっていた。
事実、亮太は手際の良さと徹底した情報統制に不信感をいだき、こうして紘和に事情を聞いてきている。
「昨日から帰ってないから知らない。そこの噂好きのほうがよっぽど知ってそうだけどな」
紘和は目を細めながら純に視線を向ける。
「ハッハッハ。知ってたらビッグニュースなんだけどね」
純はとぼけた顔で席を立つ。
「それじゃ、しばらくここにも来れないと思うけど、店、つぶすなよ」
「どういうこと?」
純は顎をクイッと振り、紘和に車で待たせている友香の元へ戻るようにジェスチャーする。
「ちょっと、野暮用さ」
それだけいうと紘和を先頭に純はヒマツブシを後にした。
「はぁ、金づる共が」
亮太の無気力な声だけが店内に残った。
◇◆◇◆
「で、どうしてイギリスなんだ? どうせなら野呂さん追いかけにアメリカに行きたいんだが」
車の運転をしながら紘和は助手席で足を伸ばす純に話しかける。
「まぁ、早い話が面白い実験してるって噂があってね。その邪魔をしに紘和が行くことで、ちょっとした訓練を行いたいわけよ」
「訓練、ねぇ」
すんなりと話の腰を折らずに紘和は純の説明を聞く。
「他にも足がかりにするとかいろいろ理由はあるんだけどさ」
純はそう言うと後ろに座る友香の方へ首を回す。
「陸が多分そっちへ向かう」
その一言に全員が同じことを思った。紘和と純は陸の瞬間移動のような存在の強制的な移動を目撃し、友香は愛しい人の愛を感じ取っていった。そう、陸の中に優紀が存在するという事実だった。
それを口にしたのは友香だった。
「陸くんの中に優くんがいました」
「へぇ、どうしてそう思うの?」
純は自分以外の人間がどのように優紀を感じたのか気になっており、特に恋人であった友香の発言には気になるものがあった。
「陸くんが私をかばったからです」
「それはゆーちゃんにとっては不確定であっても確信なんだろうけど」
「俺もいると思うよ。何らかの制限は受けているようだけど」
「へ?」
ここから友香の理屈に難癖をつけて少し楽しもうとしていた純は助け舟を出した紘和に邪魔するなよといった顔を見せつける。
そんな純に一本煮干しを突きつけた紘和は予想する制限の話を始める。
「正直、桜峰さんを助ける理由が九十九にはないはずなんだ。神格呪者の力を手に入れようとしているわけだから当然、桜峰さんは死んでもらったほうがいい。でも助けた。これは、陸の中にいることの裏付けにならないだろうか。事実、あのありえない移動。確実に俺が桜峰さんを殺せたタイミング割って入ってきたあれは」
「え? 何、お前ゆーちゃん殺しちゃいそうになってたの?」
「あぁ……うん……結果的に」
沈黙。
「髪の毛の動きや衣服から驚異的な加速で介入してきた線はないから、知っている知識から導き出せば、あれは【想造の観測】による自分という存在の認識を移動させたと考えるのが妥当だろう。多分、蝋翼物の複製も【想造の観測】だったんだろう。でも、ここで疑問が生まれる。なぜ、最初からこれを使わなかったのか。もちろん九十九が菅原さんの存在を隠したかったからだろう。ただ、唐突に肉体の主導権が入れ替わることが可能なのかもしれない。それが、桜峰さんを庇った理由に出来る」
「え? 嘘でしょ。そういうの俺が嫌味を込めて相手を逆撫でるように俺がするべきことなんじゃないの? てか、ゆーちゃん殺しちゃいそうになってたの?」
再び沈黙。
「でも、バレてからも【想造の観測】が多用されることはなかった。理由があるとすれば一つは、九十九の中にいる菅原さんが力が行使されることを拒否していること。二つ目は、【想造の観測】に制限があること。三つ目はこの両方だ」
「制限?」
友香が紘和の話を進めるように純の横槍を防ぐように質問する。
「そう、本来ならあり得ない死者を生者としてこの世に定着させている。桜峰さんという存在を維持することに能力の大半を常に使用している可能性だ」
つまり、紘和は陸は現在【環状の手負蛇】と【想造の観測】を手にしているが後者が優紀の支配下を完全に離れていないため、この力を使用しようとしても友香の存在を維持できなくなる規模の力を引き出せないと言っているのだ。
「じゃぁ、優くんはまだ生きているんですね」
脅威よりも先に恋人の安否を確信した友香は満面の笑みで喜ぶ。
「その確認もイギリスでできるでしょう」
純を置き去りにして友香と紘和はイギリスへ向けての、ひいては陸に関する情報をまとめて優紀を救える可能性に嬉々とする。
そんな中、純は疎外感を感じながらも内心ニヤニヤと微笑む。理由は単純である。紘和が友香に気を使い意図して語らないのか、はたまた千絵との一件で少し人間じみた感動を得たことでまともになったから気づいていないだけなのかは知らない。ただ、【想造の観測】が友香という制限を設けられていることは確かだろう。では、肉体の主導権が陸にあり、優紀の意志が共存しているのに、何故陸が【想造の観測】を用いて戦うことが出来るのかという点に疑問を持てないことに純は笑っていたのだ。
つまり、四つ目の可能性として二人が協力しているという可能性があるということだ。
「楽しみだな、イギリス」
予定通り紘和をアメリカから意識をそらしイギリスへ向かわせられることに満足する純だった。その行く末が例え不穏に満ちたものだとしても、三人が向かうのは当然の結果なのだが……。
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