第十六筆:多くを得ても足りなかった剣

 これで良かったのだろうか、というのが友香の正直な気持ちだった。冷静に振り返れば、千絵を【雨喜びの幻覚】の能力に巻き込んでしまった方がまだましな結果を得られたのではないかと、反省したいほど浅はかな行動だったと当時を振り返るのだった。

 友香は千絵の姿を確認したのとほぼ同時に救出すべく走り出していたのだ。否、正確には紘和に千絵を殺させまいとするために動き出していたのだ。今までの言動や執念から、紘和が千絵の姿を確認したら迷いながらも、自身の行動の足かせとなると判断し、判断した時点でをためらいなく殺してしまうことを容易に予想できたからだ。その予想は現実味を帯びており、一瞬だけ目を見開きながら硬直していた紘和が何かを恨むように唇を噛むのと同時に千絵の元へ動き出していた。だから、止められそうで良かったと友香は思っていた。

 千絵にとって愛しい人に何の理由も伝えられずに殺されるのはもちろん辛いだろう。もしかしたら千絵もある程度の覚悟があり、愛しい人の邪魔になるぐらい、その手で殺されることを覚悟していたかもしれない。しかし、友香は自分の身を犠牲にして死んで蘇った経験があるからこそ、違う考えのもとに動いていた。それは、残された者の立場を死んでいった者が知るという特別な観点のことである。それは友香が身を呈してかばった優紀は、身体は救われても心は救われていなかったということである。友香の死で成り立つ人生という枷を、柵を与えてしまったのである。

 さらに追い打ちをかけるように友香は今だからそうだったと言える呪いの言葉を優紀に残していた。


「ありがとう。私はいつだって優くんのそばにいるから」


 死の間際に自分で残した言葉。あの時は間違いなく、【雨喜びの幻覚】により今まで人より孤独な時間を多く過ごし寂しい思いをしてきた友香だからこそ出来た優しさからです言葉だった。恋人として、死に別れてしまう悲しみを少しでも紛らわせてあげるために、愛を伝えた言葉だった。しかし、蓋を開けば優紀はその一言でさらに、今まで以上に友香という存在に縛られることになっていた。新しい一歩を踏み出すのに、死んだ人間がいつまでもいつまでも足を引っ張る形となってしまったのだ。

 だからこそ、千絵には紘和の足枷になって自分が邪魔者なんだと思って欲しくなかった。そして何より紘和には千絵との今までの想い出が邪険にされる様なものになって欲しくなかった。自分の思いを成就できない原因を愛しい人にして欲しくなかったのだ。間違いなく紘和は千絵を殺した後に剣の舞を阻止し、その関係者に確実に何らかの制裁を加えることが出来るだろう。突き動かすものが自身の理念であったとしても、状況への憤りだったとしてもそれは決着してしまえば、過ぎ去ったことになってしまう。そして、紘和はその過ぎ去ったことの中にある千絵を殺したことにどう向き合うのだろうか。間違いなく歩みを進める上でフラッシュバックするような想い出となるだろう。故に心が崩壊する可能性があるかもしれない。そうでなくても、間違いなく何度も何度も大切な場面で思い出す恋人との辛い、下手をすれば最悪とも取れる印象の想い出として紘和を苦しめるために心の底から浮上してくるだろう。だからこそ、友香は紘和に愛し合った存在というのはそれだけの代償があるということを経験して欲しくないのだ。

 そして、紘和のためにと巡る感情の中、友香は攻撃の対象となるために【雨喜びの幻想】を解く。つまり、前に倒れるように向かってくる千絵とそれを切り伏せるためだけに全力で加速する紘和の間に友香は突然姿を現すことになった。紘和の斬撃を止めることは不可能だろう。それでも、千絵への致命傷を回避することは出来るだろうと信じて涙を浮かべながら、愛のためだけに恐怖に打ち勝った友香は千絵をかばったのだ。

 そして、優紀、と友香は最愛の人の名を心の中で呼ぶ。短い間だけでも再びこの地を歩かせてくれたことに感謝をするのと共に、再び人のために身を犠牲にして死んでしまうことに謝罪をするために。友香はそんな自分の性分に内心、自虐的に笑いながら、目を強くつむり、死の瞬間を覚悟するのだった。

 そして、心の声に応えるように、まるで友香の行動に待ったをかけるように、自分の名前が耳に飛び込んできた。


「友香!!」


◇◆◇◆


 誰もがその異様な光景に動きを止めていた。それは、決して友香が誰もいなかったはずの虚空から突然現れたことにではない。友香が千絵を守るために、人を守るために自己犠牲を果たすという行為を成したことに対してでもない。いつの間にか友香と紘和の間に割って入り、血まみれになっていた陸の姿を見てだった。結果、友香も千絵も陸から飛び散った血を浴びながら、床に倒れるだけとなった。

 しかし、返り血は生き物のように陸の身体へと戻っていき、即座の復元を始める。


「殺す……お前らの都合なんざ……知らん」


 まるで友香をかばうように現れた陸は、逆鱗に触れたように怒りの言葉を紘和へ向ける。そんな目の前にいる憎むべき優紀の仇である陸に庇われた友香はそばで倒れもがく千絵のことを忘れてただただ見入ってしまう。助けられたことに対して驚きがあったからというのもあるが、それ以上に友香は優紀の面影を見た気がしたのだ。

 友香に対する陸の必死さが、自意識過剰だったとしても、危機的状況が起こす吊り橋効果だとしても、確かに友香は優紀を感じたのだ。


「優、紀?」


 思わず疑問が言葉となって陸に語りかける様に溢れる。おかしなことを言うとでも言いたげな紘和の顔が陸の背中越しに見える。当然である。

 眼の前にいるのは確かに陸なのだから。


「仇敵を前に、恋しいのか?」


 陸は友香を煽るように半笑いで顔を向けずに投げかける。そして、身体の再生が終わるのと同時に紘和に外傷を負わせるために見境なく噛み付こうと首を伸ばす。紘和も血が採取された瞬間に自身の死が直結する【環状の手負蛇】力を、対象の血液を身体に取り込むことでダメージを共有する特性を知っているだけに、陸の土手っ腹を思いっきり蹴りながら距離を稼ぐ。陸は数回床を転がりながら、串刺しの状態から脱し、転がる勢いを残しつつ起き上がる。

 友香はそこで千絵の存在を思い出し、戦場のど真ん中にいるんだということを再認識すると慌てて【雨喜びの幻覚】を発動し、千絵と共に戦場から離脱を始めるのだった。


◇◆◇◆


 紘和はまず、自分の犯しそうになった過ちを悔いた。感情的になりすぎて、思考と身体が切り離されたような感覚だったからこそ、友香が千絵をかばう瞬間に攻撃を中断することが出来ないほど踏み込んでいたのだ。ここで友香という存在を失うことは、自身の悲願達成の速度を大きく落とすことになるからだ。それは同時に、純から嫌味を連ねられ、罪を重ねることに繋がりかねないことだった。

 次に陸が突然、紘和の前に現れたことに驚いた。率直な感想として油断していた、だった。紘和は見事に陸の攻撃の範囲まで踏み込んでしまったのだから。千絵を用いて紘和を煽り、その人質を前に押し倒すことで陸との間合いを広げたように見せてから不死という特性を活かして距離を詰めてきたのである。【環状の手負蛇】という力を用いた見事なまでの陽動であったと紘和は解釈した。

 しかし、紘和はここまで推測したことが羊を数えるような感覚だったから、落ち着きを取り戻しつつ頭の中が整理され始める。果たして陸という人間に瞬時に紘和と友香の間に割り込むだけの技量があるのかと。しっかりと千絵を投げ出した後の陸を肉眼で捉え続けていたわけではない。だからこそ、投げ出すのと同時に姿勢を低くして千絵との間に割り込むべく動き始めていたとしてもおかしな話ではない。しかし、それでも間に合うだろうかという疑問は残る。紘和の知る限り純や一樹出ない限り、おおよそ信じられる対応速度ではないだろう。もちろん、相手は神格呪者の中でも長命であることに利点がある存在であり、それだけの技を磨いていた可能性があるかもしれない。凡人でも時間があればできるといったのは他ならぬ陸本人なのだから。同時に死闘とも言うべき手合わせからは、一樹に匹敵以上の実力を垣間見たのはそれこそ紘和だった。

 故に違和感があった。もちろん、ここでいう違和感は陸という人間の力量に対する紘和の評価の中に存在する齟齬に当たるものであり、陸が友香の名を呼び、介入してきたことに対してではない。紘和がそう感じ取れないのも無理はないだろう。友香の様に陸に優紀の姿を感じたわけでもなければ、千絵を切り捨てようと決断できた出来た男である。誰かを守るために瞬時にかばうと言った行動をすぐさま自分の立場になって想像することが出来るわけなかった。誰かを守ると言った任でもない限り、自身に必要な行為でない限り、特に今の紘和にとって個人を対象にして湧き上がる思いではないのだから。

 だが、皮肉なことに戦闘に対する分析から紘和は結果的に一つの結論を導き出した。そう、感情的な側面からではなく、現実にあったことから、陸が友香をかばうためにリスクを負ってまでも紘和の攻撃の盾になったことをここに推測してみせたのだ。

 それは友香と陸が確かに呼んでいたことと、友香という一人の人間の中に優紀という存在が共存していたという事例を知っていなければ紘和には導き出せなかっただろう。


「奇人が。知ってたくせに黙ってやがったな。クソが」


 実際に奇人、もとい純がその真相を知っていたかは紘和からしてみれば未だ憶測の域はでないため、現状は唐突に理解したことに対する八つ当たりでもあった。

 陸が友香の名前を呼ぶ声には何か必死なものがあった。それは映像作品で大切な誰かが失われる時に救いの手をのばすように出される声そのものだった。つまり、陸が友香を救いたかったのかという疑問が生じることになる。

 【想造の観測】。見たものを観たままに、観たことにしたものを現実に呼び起こす力。友香という血肉のないおよそ人間とは思えない存在をこの世界につなぎとめている力がある。それが魂と呼ばれる概念すら具現化できるのだとしたら、優紀という存在が陸の中にいたとしてもおかしな話ではなかった。事実、当時友香の意識と共に存在していたわけではないにしろ、優紀は友香の中に無意識に隠れていたことがある。【想造の観測】を理解した今の優紀にとって、その芸当が不可能とはむしろ思えなかった。加えて、この理屈ならば陸が友香をかばうことに納得ができた。同時に疑っていた身体能力も、紘和と友香の間にいる自分を陸が、優紀が、【想造の観測】が想像した結果だと考えれば合点がいった。

 転がり起きた陸は紘和を凝視している。友香は恋人だからこそ、この異例の事態に即座に反応していたのだろう。しかし、陸は優紀が中にいるという事実に対して肯定しなかった。紘和はその理由を考え始める。当然、今知られるわけにはいかないからだろう。当人が事実を認めない限り確認のしようがないことである。もちろん、それは仮にそこに優紀が本当にいた場合でも、いなかった場合でも同義である。だが、助けた、この一点に紘和にはない庇うという選択肢からなされたことと仮定して無理やり最悪の展開を想像する。それは、陸と優紀が手を組んでいる事実であり、友香に知られないように立ち回って何かをしようとしているということになる。

 同時に、この事実をどれだけの人間が共有しているかという可能性を模索する。逆説的な考えが多いかもしれないが、神格呪者が二人共存している事実が知られれば、陸という存在はここまで簡単に舞台へと現れるはずがなく秘匿されるべき存在である。ここに紘和が来るということが知られている場でみすみす兼朝や一樹が手放したくなるような存在とは思えない、それぐらいの利用価値ないしは紘和や純、友香から匿うのをより徹底していてもおかしくはないということである。つまり、蝋翼物の複製の方法を詳細に伝えていない可能性もある。

 【環状の手負蛇】ではなく【想造の観測】による複製であるということである。単純に陸に対する利用価値を意識させるために兼朝たちに詳細を伝えていなかった可能性もある。陸がいなければ複製はできないとなれば、立場というものはわかりきったように決まるだろう。あの手この手でごまかしながら、それでも手を貸していたことになる。では、素性を隠してまでもここにいたかった理由が本当に紘和たちの追跡から逃れたいものだったのかと新たな疑問が浮かび上がる。

 仮説の上に積み重なり始めた疑念にもよく似た仮説はその高さを紘和の中で伸ばし続ける。


「はぁ」


 深いため息を吐く。その場にいる誰もが気持ちを切り替えるために行った深呼吸みたいなものだと理解するぐらい、わかりやすく息を吐く紘和。紘和は考えるのを止めたのである。不確かでいて核心めいただけのモノにとらわれても意味が無いことを知っていた。どうせ真実は後に純の口から楽しそうに、馬鹿にされながら告げられるのだろうから。教えてもらえばいいということはその内容をきっと把握しているのだろうから。そう思わせるほどの怪物ぶりが純にはあるのだから。だからこそ、今は目の前の事態を解決しなければならない。

 わからないことは一つずつ目の前のことを解決していけばいいだけの話なのだ。


「続きを始めよう」


 紘和は陸へと突撃した。


◇◆◇◆


「俺の力は二人とも知ってるな? 予定外だが、手を貸してやる。遠慮はいらない。存分に俺を活用しろ」


 そう言って、紘和の剣を突き刺すような動きに合わせて右腕を盾にするように犠牲にしながら飛びかかる陸。その意味を理解したのか兼朝と瞳もすぐさま陸の加勢に入る。そして、友香は憎い相手に同情を覚えてしまうほど残虐な光景を目にした。苦悶の表情を浮かべながらも前へ前へと動く肉塊という防護壁を。そう例えるのがわかりやすいほどに陸の身体のあちこちから血が吹き出しては、身体に戻ってきていた。

 不死、ここでは再生するという特徴から陸の身体は以下の通りに利用されていた。一つは紘和の攻撃を防ぐための盾としてだ。陸が自ら兼朝や瞳を守るために任意で動くというだけでなく、剣撃を肉壁で回避した際に、刺した剣を巻き込んだまま肉体が再生するため、僅かではあるが勢いを殺すクッションとなるのと同時に、引き抜くのにも一瞬、普段よりも肉に挟まれている圧力の分だけ力が必要になり紘和の攻撃の連撃を僅かに遅らせることが出来る。もちろん、任意の場所から使い捨てのごとく刃物を召喚するだけなら陸という肉壁も何の役にも立たないがそれだけで押し切るには兼朝も瞳もやわではないため紘和と戦う上で優位に立てる要因となりえた。

 そして、もう一つは紘和の死角から一撃をいれる奇襲攻撃としてだ。前述の通り、突き刺すにしても引き抜くにしても兼朝や瞳にもデメリットが生じる。しかし、それ以上に陸の身体の影という限定条件であったとしてもどこからかわからない一撃を紘和の視線を切った上で浴びせることが出来るのである。その肉癖も切られていれば自然と血液や肉片で表面積が広がりこちらからの一撃をより視認しづらい障害物へと変えていく。さらに、陸はそんな中でも動き続けることが出来るのである。陸と一定の距離を保たなければならない紘和にとってこの力で推しきれそうだった先程よりもやりやすい戦闘ではないことは確かである。加えて陸たちからしてみれば一撃だけでも入れれば【環状の手負蛇】で後はどうにでもできるのだから。

 だが紘和の表情は顔が原型を取り戻す度に、苦痛に歪められているのを友香は見ていた。千絵は入り口の扉に隠れるように寄りかかっているのに対して、友香は【雨喜びの幻覚】を発動してはいるが、顔を扉から出してその光景から目をそらさず見ていたのだ。その行動が憎き相手がボロ雑巾のように扱われているのを見たいからなのか、優紀を感じた故に見たいからなのかはわからない。しかし、こんなにも残酷な連携があるのだろうかと、痛みに苦しんでいるような陸を助けてあげたいと思っていたのは間違いなかった。敵であっても、陸の出来る選択だったとしても、これぐらいの罰を受けるに値する人間だったとしてもそう思えてしまうほどに友香にとっては凄惨な光景だったのである。それでも千絵の時と違って足を踏み出せないのは戦場への恐怖なのか、陸への負の感情が傾いているからなのか、はたまた友香にも紘和のようなそういうことができる判断基準があるのかはわからない。だが、飛び出さないだけで、目の前で繰り返される死と再生が気持ちのいいものではないのには変わりなく、それを平然と容赦なく出来る三人に普通の人間とは違う感性があるのだと思うのは当然のことであった。

 しかし、拮抗はそう長くは続かなかった。なぜなら、いくら味方とは言え、陸を経由した攻撃が死角となるのは決して兼朝や瞳だけではないのだから。

 それは、陸が声にして伝えるよりも早く、結果として現れる。


「まわりぃ……」


 加えて、紘和は容赦なくその伝達を遅らせるために陸の喉を潰す。だから、兼朝が横を通り過ぎる紘和に気づいた時にはすでに二人の紘和に挟まれるような構図が完成していた。兼朝と瞳から視界が隠れたところで紘和は再びマカブインとグンフィエズルを刺していたのだ。だからこそ、兼朝と瞳は先程と違い、分裂した直後の紘和二人を直線的に面で圧力をかけて抑える瞬間を逃し、回り込まれてしまったのだ。そうなってくると先程とは対応も変わってくる。片方の紘和を陸が、もう片方を兼朝と瞳が背中合わせで対応する形へとシフトしていく。しかし、お互いを背にしている分身動きが取りづらく、兼朝と瞳にいたっては当初の逆で、紘和に二人の行動の自由を制限される形を取らされてしまっていた。窮屈。その言葉が適切なほど紘和に挟まれた三人の動きからは機敏さがなくなっていた。誰か一人でもこの狭められる包囲網から抜け出せればいいのだが、無数に降り注ぐ無色透明の刃物に意識を集中させながら紘和の実力から逃れるのはそれこそ無傷では済まされることではなかった。特にそういった行動を得意としそうな陸には容赦なく的確に意識を削ぎながら致命傷を与えることで行動を制限していた。一方の兼朝と瞳も切り傷が増え、瞳に至っては足もふらついているように見えた。

 友香の目にすら、三人の敗北、正確には兼朝と瞳の死がもうすぐそこまで迫っているのが予想できた。しかし、包囲網はこの後、予想外の展開で崩されていった。兼朝と瞳のペアを押さえ込んでいた紘和に無色透明な性質を持った【最果ての無剣】の模造品がついに傷をつけたのだ。


◇◆◇◆


 チラリと兼朝は紘和を捉えた瞬間に喉を潰されながらも何かを伝えようと喋っていた陸の声を聞き最悪の状況を瞬時にシミュレーションしていた。その結果、兼朝の中ではここらへんが潮時であると判断された。つまり、逃げるならばこのタイミングがベストだと判断したのだ。その理由は三つある。

 一つ目は確実に紘和の逆鱗に触れているためここで剣の舞の研究を確実に継続できなくなるためである。これは紘和がここに来てすぐに改めて納得させられなかったことで即座に撤退理由の一つとなっていた。こそこそと穴蔵で実験を続けられないのならば場所を移すのを優先するのは当然のことである。

 二つ目はできるだけ長い間、陸のそばにいることで実験の詳細を盗み取るつもりであったがそのチャンスがもうないことを悟ったからである。それは本来、千絵を見せしめにした瞬間に決着したと思われたが、意外なことにその後もこうして共闘してくれたため恩を返すことで機会がある可能性にかけていたが、このままでは兼朝自身の身がもたないと判断したため止む無く、陸から盗み出すのは諦め、今ある模造品の数々を持ち逃げして解析することを決めたのだ。

 そして三つ目にして最大の理由がこの状況だった。裏切りを見せつけるには、まさに千載一遇のチャンスだった。兼朝の握る無色透明な性質を持った【最果ての無剣】の模造品が瞳の胸を貫いて、その余りに突然の死角からの攻撃にさすがの紘和も対応を遅らせ、紘和の頬を掠ったのである。無色透明であるが故、瞳の服が赤く染まりながら突き破られるまで本来なら気付かず、顔面を直撃していたであろう所を瞳の一瞬の表情の変化から兼朝の行動を予想してギリギリのところで致命傷を避けたのは、紘和に流石と言わざるを得なかった。だが、兼朝側には一滴でも紘和の血が取れればそれでよかった。

 ただその一手に紘和の前で突然母親ごと貫いた兼朝の行動は、まさに仲間だと思っていた人間が裏切る行為のそれであり、誰の目から見ても想定外の事態だった。


「申し訳ない、瞳さん。これも日本のためなんですよ」


 不測の事態で普段よりも大げさに避けて僅かに体勢の崩れた紘和を尻目に、兼朝は無色透明な剣を瞳から抜かず、フラガラッハで即座に剣先だけを切り落とし、紘和の血が宙に浮いたように見えていたそれを回収する。


「なん……のつも」


 ゆらりと倒れる瞳は朦朧とする意識の中で兼朝の顔を眉間に皺を寄せて見つめていた。そして途切れゆく意識の中、最後に見たのは紘和の後ろ姿だった。

 そう、瀕死の瞳に駆け寄るわけでもなく、紘和は己の血が陸に渡ることを恐れてそれを阻止に優先して動いたのだ。


「何してんだ、兼朝」


 母親に一瞥もくれない紘和が大声で叫びながら兼朝を討つべく距離を詰めるのだった。


◇◆◇◆


「おっと、ストップ、ストップ。落ち着いてください、何もしないでくださいね、紘和さん。さもないと、即死ですよ?」


 現場はおかしな構図となっていた。兼朝に背後から刺された瞳が倒れ、二人の紘和が何も出来ず兼朝と陸を見つめているのだ。そんな兼朝と陸も肩を並べているわけではない。身体から流れては戻るを繰り返している血を見る限り、【最果ての無剣】が何本も刺さった状態のまま、陸は兼朝から背後を取られ、右腕で頭をホールドされているのだ。

 そして、その右腕の先には先程手に入れた紘和の血液が陸の口元に近づけられていた。


「やっぱり聡明ですね。それで構いません。武装解除も口も開かないまま、そのままですよ」


 兼朝はそう言いながらゆっくりと紘和から距離を取る。

 そして、紘和の踏み込みで三歩は必要な距離をとると兼朝は体勢を変えずに、陸に質問を始めた。


「陸さん。苦しいとは思いますが、質問に答えてくれませんか」

「面白いことを言う……な。この状況じゃ、脅しにもなってないぞ」

「いえ、単純に二人きりで最後の交渉を行いたくて」


 二人きりでというのは聞かれても構わないが、文字通り二人だけの会話ができる状況が欲しいという意味で兼朝は言う。


「単刀直入に無色透明な剣とフラガラッハの作り方の詳細を私に教えてください。正直、黒い粉と手持ちの数では今後、心もとないのです」

「教えるわけ……無いだろう。例え、この窮地を……救って……くれると言ってもな」

「そうですか。なら、仕方ありませんね」


 あっさりと、返ってくる反応に期待などまるでしていなかったような、なぜここまでして得た二人きりの交渉の時間を無下に出来るのかと疑問に思うほどにあっさりと兼朝は引き下がる。それと同時に黒い粉という気になる単語が紘和の耳に入る。

 しかし、次のセリフがそんな意味深な単語を忘れさせる。


「では、僕はこれらの武器を手土産にアメリカにでも亡命するとします」


 勝ち誇ったような顔の兼朝。


「これだけのものを提供するならロシアとアメリカ、どちらにするか悩みましたが、やっぱりアメリカの方が最先端だと思いませんか、陸さん」


 自国を守るために、開発を進めていた【最果ての無剣】を敵対する可能性のある国に提供し、亡命という自ら自国の敵となることを宣言した兼朝。それ以前にどうしてロシアとアメリカという蝋翼物を所有する二国を選び、三国の睨み合いというパワーバランスの崩壊し得ない状況を作り出そうとしているのか、紘和を始めとした人間には理解できなかった。

 そんな周囲の視線を気遣ってか兼朝は左手を差し出し、紘和に告げる。


「何か、聞きたいことでも? 紘和さん。質問だけなら口を開いても構いませんよ」


 まるで、純を彷彿とさせるようなやり取りに苛立ちを覚え始める紘和。つまり、兼朝はしゃべりたいのである。自身が誰にどのような嫌がらせをするためにどんな準備をしてきたのかをただ雄弁に語りたいだけなのである。そして、兼朝はするべき質問を間違うことない紘和を選択したのだ。瞳は置いといても、千絵や友香では力不足だと言わんばかりにだ。事実、紘和は真相を自分で知るためには近づくためにも問わねばならないことを理解していた。それがいかに屈辱的であっても知らないよりはマシであると知っているからだ。

 だからこそ、兼朝の誘いを受け、質問した。


「日本を、日本の剣を……一樹を裏切るってことか?」

「確認は大切ですよね。ただし、ご想像におまかせするよ。僕はアメリカに亡命するだけですから」


 今すぐにでもがなりながら切り伏してしまいたい気持ちを抑えながら、目だけで抗議をすると紘和は次の質問をする。


「どうして、ロシアとアメリカが選択肢にあった?」

「簡単な話だね。僕が亡命したとして今の日本から僕を護るのに渡り合えるだけの力があるのと、二国の主要人物にはつい先日の一件で僕に貸しがあるから話を通してもらえやすいからだよ。通る話が、模造品とは言え【最果ての無剣】なのだから願ったり叶ったりだと思いますしね」


 そして、先回りをするように兼朝はさらに喋り続ける。


「一応、建前でも合成人という存在がツァイゼルさんによって生み出されたものなら陸さんの生み出したモノはアメリカに持っていった方が選んだ理由としても歓迎されること間違いないよね? ロシアだってそこに欲張るな、なんていきなり手を出してくるはずもないわけだから、僕の安全を考えても、世界の情勢を考えても、冷戦に類似した事態ならさほど突発的な被害にはつながらないだろう?」


 聞いてもらいたいことを聞いてもらうために先回りをして解答するところなど典型的な嫌なやつをであった。


「お前が、ロシアとアメリカに作った貸しってやつは何だ?」


 徐々に怒気が声にのってしまう紘和。

 しかし、兼朝は質問をすることを了承しただけなので、質問である限り、言葉遣いなど気になることではなかった。


「察しが悪いですね? 心当たりがありませんか? といえば、紘和さんならお気づきになるのでは?」


 兼朝は紘和の反応を伺う。からかわれている自覚があるため、怒りがより露わに表情から読み取れるのが兼朝にとっては愉快この上なかった。

 そして、そんな腹立たしさに向き合いつつも思案する顔が突然、何かを思いついたように目を見開き、そして再び兼朝を呪い殺すかのような形相で睨む紘和を見て兼朝は正解を発表する。


「その通りです。僕がチャールズさんとエカチェリーナさんの入国、滞在、出国記録を全て抹消していたんですよ。そうでもなければ、あんな有名人が騒がれないはずありません。まぁ、そちらが行っていた事件の詳細は何もわかっていないのはしゃくでしたがね。全てのフォローは独断で勝手にやっていたわけですよ」


 チャールズの持つ【夢想の勝握】ならば兼朝を必要としないだけの力があるためハッタリである可能性があった。しかし、エカチェリーナの持つ【漆黒極彩の感錠】には対象を個に向けなければならない故にそこまで大きな隠蔽工作などには不向きなところがある。それはつまり、兼朝から何らかのサポートを受けていたという話に真実味を持たせるには充分なことであった。そうなると、同時に兼朝は前回の一件に蚊帳の外でうるさく羽音を立て続けていたことになる。全てに間接的に関わっていたということである。そう考えれば、チャールズは純と何やらあったようなので置いといてもエカチェリーナの部隊が隠れ仰せたことは頷けるというものだった。そして逆にチャールズは恩を兼朝に売らせていた可能性が浮上する。つまり、これはチャールズにとって兼朝の亡命先の選択候補に入る狙いがあったのではないかとまで思えてしまう。そうでなければ、理由がわからない。しかし、そうなるとこの【最果ての無剣】のような利益を兼朝がもたらすことをチャールズが予期していたことにもなってしまう。確かに、僅かな間ならば出来る節は見受けられた。

 しかし、ここまで出来るはずは、知れるはずはないと思っていた。


「他に質問はありませんか?」


 兼朝の一言に、紘和は広がり続ける疑念の海から意識を引き戻すことになる。どこまでが誰の描いた筋書きなのかはわからない。

 だが、今たずねなければならないことは他にある。


「お前は、俺の敵か?」


 兼朝はこの有意義な時間が終りを迎えたことを悟る。


「ありとあらゆるものに取り付き、そのものが持つ権力を啜り続けて僕は、紘和さんの敵になる可能性のある人物について回る、と応えよう」


 そして、宣言する勢いとともに兼朝は紘和の血液の付いた刃先を陸の口にねじ込もうとした。そう、ねじ込もうとしたのだ。だが、できなかった。最高の余韻に浸れたであろうその瞬間、兼朝の手に握られていたものはその手を離れ、宙を浮いたと思ったら、視界から消えてしまったのだ。

 それが【雨喜びの幻覚】によるものだと兼朝が気づいた時には、すでに紘和が一歩を踏み出していた。


「なら、ここで死ね」


 二歩目を踏み出そうとして、紘和は再び軽く後退する。自慢の怪力で無理やり地面を貫くように蹴って兼朝から距離を取ったのだ。理由は簡単である。それは、再生を繰り返す陸が兼朝の手から開放されこちらに突っ込んできていたからである。そして、今までの陸ならば攻撃を交わして兼朝に追撃しても問題はないだろう。しかし、現状陸の中に優紀ないし【想造の観測】が存在する場合、【雨喜びの幻覚】が陸に対して効果をなしていない可能性がある。つまり、陸を見逃すことが陸の死に直結する可能性があるということである。それは仮に陸の中に優紀がいたとして、友香を傷つけることはないとしても、他には容赦しなくてもおかしくないことが容易に想像できるからである。だから、一つに戻る主導権を持った紘和は陸と対峙する。

 そしてもう一人の紘和が陸の脇を抜け、この空間の入口とは別の侵入口へ姿を隠した兼朝を追撃しに行った。


「逃さねぇぞ」


 体重が半分になったとは言え、楽々と通路へ繋がる扉を体当たりで押し破る。すぐに扉の向こうにいた目標の背中を捉え、無剣二刀流で手にした【最果ての無剣】を召喚させながら、紘和は兼朝の行く手を阻むのだった。


◇◆◇◆


 ナメられたものだと兼朝はいくつもの投擲を交わしつつ、器用に通路を崩壊させず【最果ての無剣】に含まれる遺物の類の力を使わない紘和に軽い苛立ちを覚えていた。ここまできても全力を出されないというのは、兼朝にとっても多少プライドが傷つくというものであった。日本の剣の古参だったからと言うわけではないが、一樹に認められた存在である自負はあった。そんな兼朝と戦う上で紘和との全力での死闘を阻む存在がいるのが、腹立たしかったのだ。

 あれだけ、自身の強い歪んだ正義感を達成することに固執する紘和が全力で殺しに来ないということは、イコール誰かに【最果ての無剣】の使用を限定されていて、それを紘和が守っているということになる。無論、紘和にくだらない約束を守らせるほどの人間など数えるほどしかいない。純という、現在、天堂家で一樹と智が迎え撃っているであろう紘和の大学時代の悪友である。過去に一度だけ遊びに来た時には、一樹と一悶着起こせるほどのネジがトんだ男だった。何があって紘和が純と共に行動しているかは定かではない。何せ、紘和の求めるものから程遠い、対極の位置にいるのが純であるように感じるからである。そして、純がどんな目的で紘和をこの状態でここに送ってきたのかはわからない。

 もちろん、兼朝への、アメリカやロシアの一件に対する軽い意趣返しだとしたら、苛立ちを覚えているため、奇しくも成功したといえるのだろう。


「だったらよ」


 ならば、嫌がらせには嫌がらせをと兼朝は目の前に迫る曲がり角の壁へ全力で走り出す。


「後悔させてやろうじゃないか」


 壁を思いっきり両足で蹴り反転し、その勢いのまま通路の壁を緩やかなカーブを描くように走り紘和へ襲いかかった。


◇◆◇◆


 この時、紘和は初めて生死を分ける現場だからこそ、本気の兼朝と戦えたのだろうと思っていた。実際の所間違いではないのだが、兼朝の意地またはプライドであったというのが正直なところだった。そう感じさせたのが、まさに第一撃目だった。決して油断していたわけではない。足音も聞こえていたし、立ち込める通路崩壊による粉塵があるといっても影を捉えるには十分な視界が確保されていた。しかし、紘和が気づいた時にはすでに兼朝は紘和の懐で己の持つフラガラッハを振り抜いていた。それを辛うじて【最果ての無剣】を召喚して無理やり衝突させて防ぐ紘和。なぜこんな誤差が起こったのかは単純な話で、紘和の知る兼朝の能力的上限が想像とズレていたからである。

 初めて相手にする敵を前に警戒するのは当然である。一方で、紘和ぐらいの戦闘力があれば、そこまで構えなくとも通常の場合ならば相手は紘和に劣るので対応が出来てしまう。しかし、兼朝の場合は昔から稽古を積む上で相手をしてもらった一人であるのと同時に、実力を知れた中だと思っていたからだ。他の日本の剣への実力の評価は間違ったものではなかった。

 もちろん、この時点で現在の兼朝以上に智が実力をあることを紘和は知らないが、どのみち、紘和にとって兼朝は一樹や智に劣る、なんとかなる存在の一人だと認識させられていた。


「残念」


 兼朝は自身の攻撃が届かなかったことを素直に少し悔しがる。

 しかし、紘和の驚く顔が見られたのでそれはそれで満足といったところだった。


「テメェ」


 思えば、フラガラッハを用いた兼朝が今までの紘和との戦闘で切り傷だけで済んでいるということが武術という観点でそうとうな実力があったことの裏返しになっていた。刹那の時と違い、実力差が圧倒的でなかったから押し切るのに時間がかからされていたのだ。導かれる正解を多く持ち、それを紘和との戦いで繋げていけるだけの実力が兼朝にはあるということである。つまり、足音の感覚を同じままに跳躍距離を倍に伸ばせるだけの力を持ち、加えて戦場をより自身へ有利に働くように動くことが出来ることがこの一撃だけでも証明され、兼朝の実力の裏付けとなったのだ。それは同時に、紘和にとってフラガラッハを持たれてはめんどくさいと思わせるだけの力を持った人間であるということになる。

 どうやって持ち抱えていたのかわからない大量の無色透明な模造品を器用に一人で捌きながら、時折紘和が召喚した【最果ての無剣】軌道すらそらし、利用しながら対等、下手をすればそれ以上に紘和を押さえ込む兼朝。

 そして、兼朝が両手で振りおろしたフラガラッハと見えない刀身を下から押し戻すように一本の握りしめた【最果ての無剣】で受け止める。


「いいかい、紘和さん。少なくとも僕は、手を抜いた相手に負けるほど弱くはない」

「年寄りの説教なんて、聞きたくない」


 紘和は兼朝の背後に無数の【最果ての無剣】を召喚する。

 加えて、兼朝の攻撃を受け止めていた一刀はマカブインであったため、フラガラッハ共々、すでに分解が始まり兼朝を後ろへ押しのけようとしていた。


「ガキだねぇ」


 兼朝の煽りを皮切りに一斉に背後に配置した【最果ての無剣】が投下される。しかし、そのタイミングで兼朝の身体は紘和の上を飛び越えていた。言葉にすれば簡単なことで、紘和を支えに、ギリギリ残ったフラガラッハを頼りに思い切り床を蹴り、前方宙返りを決めていたのだ。紘和は即座に自分に向かって落ちてくる【最果ての無剣】を戻し、曲がった膝を無理やり伸ばしながら、兼朝を目で追いながら身体をひねる。そして、視界に兼朝以外のものを捉える。それは幾つにも切り分けられたプラスチック爆薬だった。マカブインで全てを視認され一瞬に分解できないように対応した結果だろう。紘和もその意図を即座に見抜き、自身と爆薬の間に【最果ての無剣】を大量に並べ盾とする。なぜ、至近距離に兼朝もいるのにこんな防御姿勢を即座に取らなければならないのかは単純な話だった。紘和でもここで勝つまたは逃げ切るのならば巻き込み上等で爆破しなければ、こけ脅しで済ませては今までの行動が無意味に等しいとわかっているからだ。目視できた無色透明故、まばゆい爆発の光が閃光弾のように輝き【最果ての無剣】に透け、間も開けずに肌をひりつかせる熱波が重なる【最果ての無剣】の隙間を縫って浴びせられ、鼓膜を突き破る爆音が反響しながら紘和を襲った。


◇◆◇◆


 紘和と陸は睨み合ったまま動かないでいた。なにせ、紘和には友香の様子がわからないため近くにいる可能性を考えるならば、巻き込みを避けるため不用意に攻撃を振りかざすことが出来ないのだ。とはいえ、先程のかばい様から察するに、もし紘和の攻撃が友香に向かえば何らかのアクションを起こすという可能性もなくはないが、結局のところ、それは陸が紘和の攻撃に間に合うだけの力量があると判断できなければならない。乱戦が始まって確実に陸が付いてこれる確証は今のところどこにもないのである。

 だから、紘和は陸の興味を引くために会話を始める。


「お前らは、俺の敵か?」

「どうした、急に」


 再生を終え、首を回しながら何かを整えているような陸から放たれる気迫からは本当に優紀がいるとは考えにくいものだった。


「時間稼ぎか?」


 紘和のあまり意味のない質問の意図に気づいていた陸は、紘和の質問には答えず、そのまま核心を問い返す。


「なら、始めるか?」


 紘和は構えてみせる。そして、友香を巻き込む可能性を陸に問う。

 陸はため息を短くつく。


「いいだろう」


 ハッタリの可能性もあった。陸が紘和を試している、という線だ。お互いが友香をこの場に巻き込んでしまうのは本意では無いからだ。しかし、紘和は陸の言葉を聞いた瞬間に、信じたことにして【最果ての無剣】を四方に展開し、その身を前に乗り出した。

 先程までのような誰かをかばいながら戦うのとは違う陸本来の戦いに、制限された紘和がどれだけ対抗できるのかを確認したいという私欲のために。


「もう少しだけ、茶番に付き合おう」


 紘和の眼前に左腕をすでに切り落とされていた陸の顎を狙った掌打が迫る。確実に急所を何箇所も刺し貫いたはずなのに、持っていると考えられる【想造の観測】を使用せず、真正面から陸は迫ってきたのだ。紘和は陸の伸び切っていない掌打のための右腕を右手で掴む。すると、陸はそのまま身体をひねり背中から、【最果ての無剣】の突き立った背中から紘和との距離を詰めようとする。紘和は即座に背中に刺さった【最果ての無剣】を取り消す。しかし、そのまま背中を預けようとする陸の回転で再生途中の血液で身体と繋がった左手がムチのようにしなやかに紘和の首元へと急接近していた。紘和はそれを下から突き上げるように召喚した【最果ての無剣】で左手を串刺しにしながら上空へ持ち上げる。

 一瞬の攻防であったが、ここで紘和は陸の本来の意図に気づく。

 奇襲でも奇策でもなく、紘和が優勢ではなく、これは誘導されてしまったのだと。


「痛いだろうが」


 密着していたのだ。外傷は負わないように攻撃に応じたつもりだった紘和は、それでも陸と密着する選択を取る形を選んでしまった。つまり、四方から串刺しにするという選択ができなくなったことを意味する。そして、次に紘和はフワッと自分が投げられていることに気づく。一本背負い。体重が半分になっていることを抜きにしても、キレイに流れるように自分の体が浮遊しているのを感じた。紘和はそんな久しぶりの体験を陸の右腕を切り落とすことで脱出する。遠心力で軽く放り出されるがそのまま見事に着地し、陸との距離をひらかさせる。

 否、これもひらかさせられたのだ。陸と紘和の立ち位置が入れ替わり、陸の方が入り口に近づいてしまったのだ。

 つまり、紘和に脇目も振らず、友香を追うべく走り出している陸がいたのだ。


「くっ」


 思わず、してやられた悔しさに言葉が漏れる。だが、直後に再び事件が起こる。少し遠くで爆音が響き渡ったのだ。そして、紘和は瞬きを一瞬する。そう、ただの一回の瞬きである。その瞬間に紘和の目の前からは誰もいなくなっていた。

 そして、背後から首元で声がする。


「桜峰はまだ預けておく。……お互い重宝するだろうし、縁結びの役割もきっとあるさ」


 紘和は慌てて背後を振り返るがそこにはすでに誰もいなかった。それよりも先程の爆音に呼応するようにこの研究室も崩壊を始めようとしていた。対象を取らないような、閉じ込められた空間で落ちてくる床を避けきることはさすがの【雨喜びの幻覚】にも不可能であるが故、紘和はこの勝負を未消化のまま切り上げて彼女たちを連れて撤退するため、入口に向かって走り出す。様々な事を知った紘和はその中でも自分がいかに蝋翼物に支えられていたのかを認識しながら、ただ走るのだった。

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