第二章:ついに始まる彼女の物語 ~日本の剣編~

第十一筆:どうしてもやりたい剣

 大学構内の木々の葉も弱まった陽ざしに寒暖差を感じ始め、乾いた風に撫でられてかさかさと声をあげている。それもそのはず、木々はこれから足元を色艶やかにする準備で忙しい時期を迎えようとしているからだ。それは同時に桜峰友香が退院してから一ヶ月も半ば、九月を折り返していることを意味していた。


◇◆◇◆


 四日間の眠りから覚めた友香は、その後、知らないうちに自分と彼氏である菅原優紀がその親友である九十九陸に殺されかけていたことと自身が神格呪者と呼ばれる内の一つ【雨喜びの幻覚】を持っていることを幾瀧純と天堂紘和から告げられた。陸が起こしたとされる殺人未遂とされる事件は三人の神格呪者、とりわけ【環状の手負蛇】を持つ陸が不老不死という特性故に長年に渡って実行しようとしていた計画だったらしい。神格呪者としての能力を全て獲得することで何かを叶えることが陸の目的であり、能力の譲渡方法が神格呪者の死後近くにいることとされていたことも説明を受けた。だから、友香は陸に殺されたはずだったが、六年前に死んだとされていた優紀の意識が友香の中にあり、優紀の持つ【創造の観測】でその場を逃げ切ることに成功したと加えて説明を受けた。ちなみに六年前の事故も陸によって仕掛けられたものだと告げられた。

 純と紘和はそんな神格呪者、以前と危険な思想を持つと考えられる計画が失敗に終わり逃亡した陸を捕らえるために、加えて友香に復讐を果たさせる手伝いをするために、友香の目覚めを首を長くして待っていたのだと言った。そして、友香は二人の話を聞いて優紀を見つける協力関係を結ぶことを決めた。一方で、友香はこの二人に不信感を募らせていた。募らせるほど時間を共にしたわけではないが、純という人間から溢れ出る何かに、気味の悪いものを感じていたのだ。ここ数日の話が嘘ではないとしても、他にも隠していることがあるのだろうと。それに目が覚める時に何故自分が六年越しに目覚めたと勘違いしたのか、ここが一切解決しなかったからだ。


◇◆◇◆


 友香の身体は現在、特殊な状況下にある。意識はある、身体もある、触ればその存在を感じることが出来る実態のある身体だ。しかし、中身が無いのだ。それはマスコットキャラクターの着ぐるみのようなものだった。それでいて生きているのだ。推測の域を出ないが、これは優紀の【創造の観測】によって友香をなんとかこの場に留めた結果だとされていた。

 そのため、身体が日常生活を送れるのかどうかの精密検査が翌日から続いた。天堂家が運営に携わる病院ということもあり、あらゆる危険から安全が保証されると言っていた。例えば身体の解析情報を、友香自身を手厚く外部の手から守るということである。そして、一週間に渡る検査の結果、以下の点がわかった。

 一つ目は、食事や睡眠と呼べる活動を必要としないこと。つまり、身体を動かすということにエネルギーを必要としないこと、生理現象が発生しないことなどが挙げられる。しかし、三十六度八分という変化のない体温を有しているため寒い、熱いといった感覚はある。また、呼吸は行っているようにみえるだけで、全く機能として働いていない。ちなみに寝ることも食べることも出来ないわけではなく、味覚もあるので行為を楽しめない、何の意味もないというわけではない。

 二つ目は、身体の構成である。わからなかったということがわかった。何で出来ているかという検査ができなかったのである。検査にかけるため身体の一部、髪の毛や爪を採取しても、採取した傍から霧散し、まるで何事もなかったように身体へと返還されていた。それは六年前の姿というセーブポイントへ自動的に巻き戻されるような修復現象だった。一方、レントゲンなどにかけてみると、そこには誰も居ないのである。写真に残すことができる。さらに感じられる体温はあるのにサーモグラフィーさえ、その存在を隔離されたかのように情報を残さないのである。【雨喜びの幻覚】によるものかとも考えられたが、本人の意志で目の前から消えたり現れたり出来ることを関係者の実際の目で確認していることからそうではないということがわかっている。ちなみに痛覚もあるようだが、閾値が限定されているらしくどんな痛みでも軽くつねられた以上の痛みを感じないことがわかった。

 最後に記憶である。ここ四日間の記憶が友香にない理由はわからない。純と紘和にとっては自分たちを正義の味方のように、事実、そのように紘和はしていたつもりだったが、仕立て上げることが出来たため、加えて余計な国との絡みを説明する必要もなくなりいい事ずくめであった。そして、中身はからっぽでも記憶を保存することは出来ているようだった。一週間にわたる学習訓練も、史実や学力といった経験的情報もそれ相当に蓄積されていた。しかし、極稀に十四歳から二十歳までの六年間の記憶の中で友香自身が経験したことをいくつか忘れているないし、思い出せないことが確認されていた。これがこの身体であるが故の障害なのかどうかは全くわからない。そのため、両親には工場の事件に巻き込まれた影響でここ数日の記憶と、幾つかの想い出を忘れてしまったが、無理に思い出させようと焦らせないで欲しいと病院側が、紘和の指示で伝達済みだった。また、友香にも純や優紀が生きていること、友香自身が普通の人間とは違うことは機密案件とすることで外部に漏らさないように口止めをしてあった。


◇◆◇◆


 退院して一週間を友香は実家で過ごした。特別な事件に巻き込まれたということで面会謝絶となっていた友香。病院まで迎えに来た、友香にとって妙な久しさを感じる両親はとても心配そうにどこも悪くないかと尋ねながら最後に優しくそして強く抱きしめた。事前に病院側ないしもしかしたら国の重役とでも言える人間から話を聞かされていたこともあって、友香にあれやこれや聞いてくることはなく、無事でよかったと元気な姿をただひたすらに喜んでいた。

 食事も睡眠も出来ないわけではないので、友香はゆっくりと心配する両親のもてなしに一週間、甘え続けた。大学へ進学してアパートを借りてからは一度も戻ってない。たかだか五ヶ月足らずなのかもしれないが、母親の手料理、父親のおやじギャグ、友香自身が過ごしてきた自分の部屋は、実に暖かく、ぬくもりを感じさせてくれた。実に平和で、まるで純と紘和が言っていたことが夢だったのではないかと思わされてしまうほど、穏やかな日常を送ったのだった。

その後、何故か家庭の事情で大学に行けていなかったことになっていた上、全ての科目を数日に分けて追試という形式ではあったにしろ期末テストを受けることが出来きた。そして、無事一学期をフル単位で納めると、改めて夏休みに突入した友香。どうやら天堂家にかけあった両親のおかげで紘和からのはからいがあったようだった。

 夏休みはアパートと実家を行き来しながら、夏休みの間だけ始めた家庭教師のバイトをやる傍ら、自分の将来の選択肢を増やすために公務員の勉強をしてみたり、院試について調べてみたりと自学自習に励んだ。もちろん、その傍らで学部の友達と映画に行ったり、海に行ったりとレジャーも楽しんでいた。しかし、勉強や娯楽に励んだところで、優紀捜索の進行状況がどうなっているのか、気にしないでいることなんてできなかった。むしろ、逸る気持ちを紛らわせるように今までのことを必死にこなしていたまであるのだ。

 そして、何の連絡も来ないまま大学の二学期を迎えてしまったのだ。今日も、木から落ちていく葉を外に見ながら、友香は大学の講義を聞き流しながらあることを考えるのだった。


 優紀を探しに行きたいなぁ、と。


◇◆◇◆


「もしもし」


 九月ももう終わるかといったある日、いろいろ考えを巡らせた結果、友香は連絡先を交換していた紘和に日も暮れて薄暗くなった部屋の中で意を決して電話をかけたのだった。

 紘和はコール一回で電話に出た。


「はい、天堂紘和です。桜峰友香さんですか?」

「はい」


 実に誠実な印象を受ける。

 そして、友香は緊張しながらも質問した。


「あの、その後どうなっていますか?」


 協力関係であるのに退院してから一切情報という情報が入って来ていない。それは一般人、ではないがろくに戦えない友香を危険に晒すことはできないという配慮で同行という選択肢を切られ、陰ながら守られているというのはなんとなく察していた。だからこそ友香も独自に調べたいが、自分の知っている単語をネットで調べたところでそれが検索結果としてヒットするとは到底思えなかった。もちろん、試しに神格呪者という単語で検索をしてみたが、一件も引っかからなかった。そして何より、口外することを禁じられた内容がほとんどである。誰かという宛もそもそもないのに聞いて回ることなどもっと出来ない状況である以上、純と紘和からの連絡が頼みの綱だった。懸命に捜索してくれていることを疑っているわけでは決してない。しかし、少しでも耳にしたいという気持ちが友香にはあった。初恋の、死んだと思っていた優紀が生きているかもしれないのだ。だからこそ友香が優紀に会いたくて会いたくてたまらない気持ちをどれだけ押し殺してこの一ヶ月半を過ごしてきたかは想像に難くなかった。

 何か考え込んでいるのか、紘和からの返事はすぐには返ってこなかった。


「あの?」


 沈黙に耐えられず、友香は催促の言葉を漏らす。


「申し訳ありません。これと言って私から話せることは何もありません」


 はぐらかそうと言い訳をするわけでもなく、素直に謝罪していることがわかるほど、誠実な謝罪だと友香は思った。

 だからといって友香が納得するかは別だった。


「もう、一ヶ月も経つんですよ。もしかしたら優くんは助けを求めているかもしれないんです。私をこうして支えてくれてるからまだ生きている可能性があるにしろ、いつ、またいつ、ジュウ、いえ、陸が優くんを襲うかわからないんですよ」


 八つ当たりにも等しい言葉だった。加えて陸に自分が襲われたと聞かされただけで実感のない友香は、つい、陸に対する呼び方に違和感を覚えつつも敵意を向けてみている状況だった。

 そんなことを思うからだろうか、一度口から出た暴言は次の暴言を呼んでしまう。


「だいたい、本当に陸が私たちをやろうとしたんですか? 詳細は隠しているのかもしれませんが、当事者である私が知らないことが多すぎませんか? どうして、どうして教えてくれないんですか? 狙われてるっていうんなら私だって危険な状態なんでしょう? それなのにあなたたちは私に隠して、隠れて何かしている。優くんのことだって同じように思ってるんでしょう。あなたたちは何がしたいんですか!」


 自分の誰にも打ち明けられない苦しみがわかるであろう人だからこそ、自分の不幸を、声を大にして打ち明ける友香。そして、ここで部屋の外に漏れんばかりの大声で自分が怒鳴り散らしていたことに気づいた。だからといってこの焦燥感を、不安を今すぐにでも解消する方法を大声で相手を非難すること以外では今の友香は思い浮かべることが出来なかった。

 すると、チャイムが鳴り響いた。自分の部屋のが鳴っていることは即座に理解できる。しかし、問題は友香が耳に当てている電話の向こうからもほとんど同時にチャイムの音が鳴ったということだった。

 そして、玄関の向こうからゴニョゴニョと、きっと電話で聞いている内容と同じ言葉が発せられているのだろうと理解する。


「申し訳ありません」


 その本当に申し訳なさそうな、唇を噛み千切る勢いで何も出来ていない自分を恥じるかのような謝罪。


「私の出来うるところでは、これが限界なのです。あなたのことは誰かが必ず監視し、私がすぐに駆けつけられる状態にあります。プライバシーを考えて、考えているからこそ隠してお守りしているつもりです。そんな中でも私は、毎日のように日本という狭い国の中を、国外へ逃げた形跡のない菅原さんと九十九を探しています」


 多分、理解を得るために紘和は本来しゃべるべきではなかった監視という言葉も添えて自分のやっていることを打ち明け、友香に誠意を伝えようとしているのだろう。想像はしていたにしろ監視されていた事実と、このようにすぐさま紘和が駆けつけられることに驚きはしたが、それ以上に、真剣に紡がれる言葉に、友香は自分が先程八つ当たりのように喚き散らしたことを恥ずかしく感じ始めるぐらいには冷静さを取り戻していた。そして、インターホン越しに玄関の向こうで頭を下げている紘和を確認する。

 だから、駆け足で玄関へ向かい、修理されたドアを開ける。


「せっかくですから、あがってください」


 落ち着きを取り戻した友香は電話した本来の目的を相談するために、紘和を部屋にあげることにした。ちなみに、なかなか頭をあげようとしない紘和を部屋にあげるのに苦労したのは言うまでもない。


◇◆◇◆


「謝罪のためとは言え、玄関の前ではお見苦しい姿を。申し訳ありません」


 テーブルを挟んで向かい合うように座っている紘和と友香。

 そして、やっとの思いで頭を上げてもらい部屋に上げた紘和の第一声が先のそれだった。


「いえ、私の方こそ、その、気になっていたとは言え、失礼なことを」

「こちらこそ、心のケアを怠るべきではなかったと」


 そして、紘和は気になることを口にする。


「純と連絡が取れない状態が続いているので、注意が散漫になっていたと反省せざるを得ません」

「幾瀧、さんというと、病室で私にナイフを投げてきた方ですか?」


 取り敢えずで友香は問い返しているが、純という男を忘れているわけもなかった。

 何を考えているかわからない不気味な雰囲気を携えつつ、初対面でわかりやすく説明するとは言え友香にナイフを立て続けに投げてきた男である。


「はい、その節は本当に申し訳ありませんでした」

「いえ、天堂さんが謝ることでは」


 再び頭を下げる紘和。友香はそんな純のために頭を下げる紘和を不憫に思いながらも考える。そんな男が音信不通になるとは、確かに何か起こっていそうだなと。

 そんな友香の心中を察したかのように紘和は音信不通になった純の事を話し始めた。


「あなたが退院して間もなくのことです」


◇◆◇◆


「紘和はさ、当たり前を考えたことはある?」


 純と紘和は、行きつけの昼間はカフェ、夜はバーを営む一軒の店、ヒマツブシに来ていた。

 店長が積みゲーを処理したいという理由もあるのだが、実際は純と紘和が二人きりで話をするために本来ランチタイムなのにもかかわらず店を閉めて使わせてもらっていた。


「正義が当たり前のことなら、いつもお前の顔を見ながら考えてるよ」


 いつもの突拍子に聞こえる言い回しに、紘和は純に嫌味で返しながら、店長が去り際にサービスで置いていったコーヒーにミルクと砂糖を少量加える。


「そんな立場が違えば簡単に変わってしまうような、正解を求めることに意味のない価値観について議論したいわけじゃない」


 純はこれまた店長のはからいで置いていってもらったいくつかあるご自慢のサンドイッチの内、たまごサンドを食べながら、嫌味を嫌味で返す。

 純の何も気にしていない態度に反して紘和はギロリと睨み返しながら、その怒りを己の内に押しとどめて話を続ける。


「人がいつか死んでしまうこと、とかか?」


 紘和がこの発言をするのには理由があった。それは優紀という交通事故で亡くなったはずの人間が辛うじて生きていたという事例を、生死の新しい概念を目撃したからだ。果たして、他人の中で意識だけが残されていた状況を生きていたと呼べるのかはこの際置いといての話だが。

 加えて、不老不死と呼ばれる存在にまでご対面することが出来た。腹立たしいことに、この一件で、紘和の周りに【環状の手負蛇】の力の詳細を知る人物がほのめかされたわけだが、恐らく紘和の祖父である天堂一樹であることは間違いなかった。一度は見てみたかった、能力の詳細は知らないという発言を考えれば、理由はわからないが詳細を伏せられた、または意図的に関係を隠蔽されたことになる。それに、冷静に考えれば一樹は第三次世界大戦で合成人が投入されたあの戦場で陸と出会っている可能性があっても不思議ではないのだ。

 話は少し逸れたが、そんな理由で人が死ぬという当たり前をひっくり返す事例を実勢に個の目で見てきたからこその紘和なりの純への答えだった。


「植物は二酸化酸素を外部から取り込んで酸素を生産する。つまり、植物をいっぱい植えれば地球温暖化はなくなるんだ」


 突然、小学生の様に明るい声で、初めて知った知識を誰かに話したいという雰囲気で純は紘和の解答に答えた。

 バカにされている、そう直感するほどだった。


「さぁ、紘和君、何か言いたいことがあるみたいですね。手を挙げて、さぁ」


 上半身をひねり、首だけを伸ばして紘和を覗き込むように煽る純。その突き出た憎き顔を紘和は平手打ちしようとする。

 しかし、サッと顔を引っ込めて攻撃を交わした純は嬉しそうに紘和を指名する。


「全く、手を挙げてって言ったのに、そんなユーモアなボケで来るなんて思いませんでした。でも、はい、どうぞ」


 左手で自分の頭を掻きむしるように撫でて純のペースにのせられていく自分を落ち着かせようとする紘和。


「人の呼吸で見ればそうかもしれない。でも、人が生活する上で排出する二酸化炭素量を、仮に日本人一人あたりで補おうとすれば、約東京ドーム一個分の敷地面積が必要になる。そんな絵空事」

「流石は紘和。お前は俺の思い描く通りに喋ってくれる。お前のちっぽけな頭の中じゃ出来ないことも、世の中には空だって海だって拡張できるスペースはある。それにお前でも出来ることがあるぞ。いらない人間を切り捨てて、更地にすれば、追いつくだろう?」

「いちいち煽らないとお前は話を進められないのか」


 バンッと両手でテーブルを叩きながら立ち上がり、真面目な返しの途中に割り込まれた上でさらに煽られたことで、大声で純に抗議する紘和。


「たく、密談したいんじゃなかったのか? 二階まで筒抜けでせっかくの泣けるシーンが台無しなんだが」


 すると、ひょっこりとバーカウンター横の扉から騒ぎを聞かねて顔を出す男がいた。


「すまない、亮太」


 二人の視線の先にいたのは、純と紘和の友人であり、この店の店長をしている萩尾亮太だった。

 そう、以前純に変な質問をされていた男でもある。


「ったく、俺が口外しないなんて誰が決めてるんだよ。面倒事に巻き添えはゴメンだからな。何よりこの前もたかりに来やがって。これ以上俺のゲームの邪魔すんなら今すぐにでも出てってもらうぞ」

「そこは店の、じゃないの?」

「いいか、紘和。お前はもう少し、肩の力を抜け。まともに相手するな。するならしっかりしろ」


 純の揚げ足には目もくれず、亮太は紘和を宥める。そして、ドアから顔を出したまま亮太は紘和に何かの入った袋を投げた。

 紘和が受け取った袋の中身は煮干しだった。


「あ、ありがとう」


 紘和が礼を言う先のドアはすでに閉められていた。亮太の言わんとしていることはわかる。

 紘和は一瞬食べるのをためらうが、よだれを垂らしながら煮干しに目を向けている純を確認すると、袋を開けて煮干しを一本純にこれみよがしに見せつけてから口に入れるのだった。


「そうだ純。独りで寂しくて相手して欲しいなら素直に甘えられるようになれよ、めんどくさい」


 おもむろに再び開いたドアから顔も出さずにそれだけ言うと亮太は再びドアを閉めた。


「ケッ。あんなクサイ決め台詞吐いたやつが、実際はギャルゲーの邪魔だって怒りに来ただけとか……納得いかんわ」


 純は椅子の背もたれに体重をのせ、器用に椅子を傾けながらコーヒーをそのまま流し込みつつ悪態をついた。一瞬にして場がフラットな状態に戻ったのだった。


◇◆◇◆


「当たり前なんだけどさ、植物は昼夜問わず呼吸してる。つまり、排出する二酸化炭素よりも光合成で生産される酸素が多いから、植林とかは温暖化を救う可能性があると思うわけだよね」


 毒気が抜けたように純は紘和に説明を開始した。

 小学生でも習うことをわざわざ言う必要があるのだろうか、という疑問が湧いてくるものだった。


「そこで、お前の。いや、蝋翼物とか神格呪者なんて特別な、そう誰も持ってない唯一無二のモノなんだけどさ。紘和……」


 ここで間を一瞬貯めると純は言葉を続ける。


「誰が作ったと思う、取り敢えず、お前の持ってる、ソレ」


 当たり前に自分の手元に今はあり、世界の均衡を崩すことも可能な蝋翼物。はたまた、それ以上に強力な神格呪者と呼ばれる能力を持つ者たち。後者は置いといても前者は物体である以上、誰かに、何かに作られた、生み出された物である可能性は極めて高い。そして、人によって蝋翼物を作り出せるのならば、作った人間は誰なのか、レシピはあるのかと様々な知らないことが、疑問とすら捉えていなかった問題が出てくる。紘和の知る史実によれば蝋翼物は百年以上前から国家というものを左右する存在だったと聞いている。それは七星が出来るよりも前から存在していたことが伺える。そんな時代にこれほどまでの技術力を持つ何かがあったとして後世に伝えられていないのは、実におかしなことだった。だからといって。紘和は神によって生み出された授かりしものなどとは到底思えなかった。いな、思いたくなかった。

 当然だろう、神は存在しない、少なくとも生きているうちに手を差し伸べてくれる存在ではないのだから。


「いい事だよ、考えることは」

 

 純の言葉に紘和はふと頭に思い浮かんだ言葉を口にする。


「目的を覚えたぞ」


 その言葉は純が陸との口論の末、発した言葉だった。その反応に純はニタっと満足した様に笑うと残りのサンドイッチをまるでハムスターのように口に詰め込む。

 そして、数回の咀嚼で飲み込んでしまう。


「そのためにも、九十九とかに改めて会えたら、いや、追いかけていけたら面白そうだよな……つ~わけで俺はいろいろと調べたいことがあるから、何かあったら俺がお前に連絡する」

「わかった」


 紘和が即了承すると純はすでに店の外へ足を向けていた。

 あれだけピリ付いた空気を幾度と繰り返していたにも関わらず、やるべきことに理解ができた途端、二人の息はピッタリとハマった様に、映る。


「亮太、ごちそうさま」


 紘和も大声で二階の自宅でゲームに勤しんでいるであろう亮太に礼を言うと純の後を追うように店を後にするのだった。


◇◆◇◆


「しかし、純は肝心の行き先を告げずに姿を消していまして。それ以来、携帯に連絡を入れようにもどうやら電源を切っていてつながらないのです。純のことですから、どちらかの行方を追っているはずです。しかし、私の方は正直、捜索に限界を感じ始めています」


 長い説明を丁寧にわかりやすく友香にした紘和。理由はともあれ約束を守って陸と優紀の捜索をしていることは伝わった。同時に、どうしてこれだけ地位もあり、人徳もありそうな紘和が純と共に行動しているのかという疑問がより一層深いものとなった。

 だが、捜索が難航している上に、純がいないという現状は友香にとって本題を切り出すにはありがたい状況だった。

 紘和ならきっと真摯に受け止めてくれると信じていたからだ。


「状況はわかりました」


 友香はそう言うと口に溜まったつばを飲み込みながら紘和に提案した。


「私にも優くんを探すのを手伝わせてください」


 しかし、返事は友香にとって冷たく感じさせるものだった。


「いち大学生である桜峰さんがどういった形で手伝えるというのでしょうか」


 その言葉は実に冷たく、先程までの懇切丁寧な説明があったためピシャっと拒絶される印象を強く受けた。それは紘和が余計なことをしないで来るべき時まで待てと暗に友香言っているようだった。それもそうだろう【雨喜びの幻覚】を持つ以外友香は普通の女子大生なのだから。

 会話の感じからすんなりといけると思っていたが、実際はうまくいかない場合を初めから想定していた友香にとっては多少、紘和の雰囲気の変化に驚きはしたが、何ら問題はなかった。だからめげずに頭の中で組みたてていた自分のセールポイントを売り込んでいく。


「以前、幾瀧さんがおっしゃっていた言葉を借りるなら、私は、【雨喜びの幻覚】は餌なのでしょう?」


 友香の問いかけに紘和は微動だにしない。


「なら、私を近くに置いておくことに損はないはずです」

「私はここへは先程のようにすぐさま駆けつけることが出来ます」


 紘和は事実を告げ友香に諦めを促す。きっと、ここで来れるという表現に僅かなタイムラグを主張したとしても意味が無いのだろうと友香は悟る。

 それほどまでに出来るという言葉に自信を感じられたからだ。


「私がいたほうが、いろいろと動きやすくなりますよ。足がつかないという意味で」


 紘和にとって確かに魅力的なことであった。純と連絡がつかない以上、恥ずかしい話、これ以上のことをやることができにくい状況ではあった。現状、一樹や紘和も所属する日本の剣を始め、様々な国の、それこそ世界の関係者から、判明した神格呪者の存在を隠しながら陸と優紀を追っている状況である。どれだけ地位や権力を持っていても、出来ることは多くなるが、その行動はすぐに誰か、特に先に上げた近しい人から順に何故このような行動をしているのか悟られていく危険性があるのだ。

 幸いにも一樹は先日のエカチェリーナの侵入という一件でロシア側に今後どう圧力をかけられるかといったことにご執心なため、それなりに動けはするのだが。


「それも私には今は、必要のないことです」


 今はと、紘和はいつか必要となることを示唆することで友香が納得しやすく、引き際を設ける。一方の友香も紘和の意図に気づかないわけではない。現状、この話に取り合うつもりはないが、いつか存分に活躍してもらうつもりなのだろうと。だからと言ってここで引き下がってしまっては状況が好転していくとは思えなかった。

 だから友香は自分の価値を下げるが、それでいて純という人間がいない、紘和のみを相手にするからこそ成功率が上がると思っていた切り札を出す。


「じゃぁ、もし私が一人で探すと言い出したらどうしますか?」


 紘和の顔が明らかにやっかいなという顔になったのが友香にはわかった。事実、紘和は随分と思い切ったことを言ったものだと目の前の友香に関心していた。きっと友香自身も利害関係を結んだのが純との会話からだけだったことを頼みの綱に信頼関係をギリギリ崩さないラインで切り出した条件だったのだろう。他にも自分の価値を交渉の最初に提示していた。つまり、【雨喜びの幻覚】に紘和の判断によって関係が崩され、手元から離れていく可能性と【雨喜びの幻覚】で姿をくらましつつ行動される、それは陸や優紀への手がかりを、餌を失ってしまうことと同義だった。

 しかし、この関係が崩れる可能性はとても低い。なぜなら、友香もこの関係が崩れると、純や紘和の地位や権力、加えて情報網を失い、見つけ出されることはあっても探すことは困難な状況に陥るからだ。その証拠に今まで一人で無茶な行動をしなかったのだ。だから、それがわかった上で選択を紘和に委ねているのだ。

 実に優紀のためとはいえ肝の座ったことをすると紘和は思いながら、想い人の存在というものに感服した。


「次にあなたを見つけた時には、逃がさない努力をしますよ」


 紘和は友香の身体が震えていることに気づいた。【最果ての無剣】という無色透明の蝋翼物の存在も友香には教えられている。紘和の言った逃がさない努力というものに物理的拘束力を想像したのだろう。紘和もそれを匂わせるように声に抑揚をつけないことで伝えたつもりだった。恐怖というのはそれだけ人を縛ることが出来る。

 だからこそ、紘和は次のセリフに意表を突かれた。


「それが、私が優くんを探す上で支障が出るから言った言葉なら知れて良かったです。そうならないようにできますからね」


 支障が出るというのが大人しくしてもらうために何かしらの手心が加わることを指しているのは明確だろう。その恐怖に友香は震えていたと思っていたからだ。しかし、先程の震えは友香にとって優紀に満身創痍で会えなくなることを恐れてのことだったのだと紘和は気づく。なぜなら、友香は見えない一撃で、こちら側と張り合う覚悟もあると言っているのだから。もちろん、強がりの可能性もある。しかし、紘和にもわかることがある。今の友香の目は間違いなく、強い決意のある人の目だったからだ。ここまでお互いを思い合えるとはなと紘和は、純が苦手だと言った友香を心の中で褒め称えた。同時に、これ以上は時間の無駄だと判断する。

 それに友香同様、紘和にも切り札があった。


「ふぅ」


 実に長いため息を吐いていくに従って紘和の顔は穏やかになっていく。


「桜峰さんが、どれだけ本気かの熱意は伝わりました。互いの口論はどちらに立っても正解にすることができる。それでも自分たちの主張を通したいとするということは、引き先がないということは、時間の無駄ということでしょう。ただし、最悪を迎える可能性もあります。ならば正解に寄り添うと決める必要もあるわけです」


 紘和の言葉にパッと顔が明るくなる友香。

 自分の方が、失うモノもあるが、もし紘和に出会えなければ、そもそもそういった状況で探すことが決まっていた、という考えから優位にはあると捉えている。

 だからこそ友香にとって自身の要求が通ったと思ってしまった。


「じゃぁ」

「いいえ。早まらないでください。桜峰さんに熱意がどれだけあろうと、どれだけ私たちに価値があろうと、あなたがそもそも大学生であることには変わりありません」


 そして、これは友香にとって予想外の返しだった。


「大学はどうなさるおつもりですか?」


 ズル休みをし続けよう、そんな甘い友香の考えを見透かすように紘和の言葉は続く。


「親御さんとしっかり相談していますか?」


 こうして、友香は紘和の言葉に詰まり、絶対に避けては通れない壁を用意されたのだった。


◇◆◇◆


「それでは、大学をどうするか決めてから、もう一度私に連絡をください。それまでは今まで通りでお願いします」


 紘和はそう言うと満足したように部屋を出ていった。何も言わずに優紀を探したいという一心で、大学なんてズル休みで誤魔化そうと考えていた浅はかな自分に友香は気付かされたのだ。友香にもこのことがどれだけ大切なことかはわかる。国立の大学に通っているとは言え、私立に比べれば確かに安い授業料である。しかし、それが一般家庭の経済力に影響を与えないほど安い料金ではないことはわかっている。だからこそただ辞めるという言葉に何の説得力がないのはわかっていた。だからと言って、紘和からも改めて釘を差されたが、優紀や陸を探したいや天堂家というワードを使うことは出来ない。

 だから、友香は浅はかにも情に訴えることしか思い浮かばなかった。今まで親にこれといったわがままをしたこともなければ、反抗期というものがなかった友香にとって一世一代の勝負にも等しかった。それでも、優紀を探しに行きたいという思いが上回り、かと言って即日行動に出せるほど友香の心臓は強くないので、残り三日を大学の授業に出ることで、心の整理とし、迎えた土曜日の昼過ぎに、実家へ一時帰宅するのだった。


◇◆◇◆


 ただいまと玄関を開けるとおかえりと両親から返事がくる。なんてことはない、友香にとっては当たり前の温かい日常。前日に明日の昼過ぎに、家に帰ることだけを連絡していた。だから、いつも通りだった。友香はこの後、起こりうる事態を悪い方向にしか捉えることができなかった。当然のことである。リビングに入ると友香の父がソファーに座り、お茶を飲みながらテレビを見ていた。

 母は台所で、昼食の片付けをしている。


「この時間だったらお昼うちで食べればよかったのに」


 台所越しにそんなことを呟く母。


「今日は泊まっていくのかい?」


 父は陽気に、娘が帰ってきたことに喜んでいた。友香はアハハと乾いた笑いで精一杯相槌をうつとカバンをソファーの脇において、洗面所へ逃げるようにリビングを後にした。


◇◆◇◆


 手洗いうがいをしながらも秋だと言うのにすでに背中越しにじんわりと汗が広がるのを感じる友香。緊張しているのだ。どのタイミングで話を切り出せばいいのかもわからない。それでいて大学を辞めるために実家に帰省したのである。あの穏やかなリビングを思い出すとそれだけで化粧が崩れてしまうのではないだろうかと思ってしまうほどの汗が額からにじみ出てくる。

 ジャァと流しっぱなしの水の音だけが洗面所を満たしていく。


「はぁ」


 選ぶということに対する緊張感。献身的にここまで育ててくれた大切な家族よりも今は六年前に不慮の事故で永遠の別れとなってしまった恋人である優紀を選ぼうとしているのだ。本当に正しいのだろうか、という考えもうっすら湧いてしまうほどには天秤に釣り合う決断であった。そもそもである。友香は中学時代の恋人関係が続いて結婚までいく確率が風のうわさで一割未満とすら聞いたことがある。つまり、本当に優紀に拘る理由はあるだろうかと。死んだ恋人が生き返ったことで舞い上がった補正なのではないかと考えてみたりも友香はここ数日でせざるを得なかった。そして、今もありとあらゆる形で優紀への思いを自問自答していく。

 何が好きなのか、どこが好きなのか、どうして好きなのか……。


「やっぱり、好きだ」


 鏡に映った友香の顔は自信に満ち溢れていた。成長したからと言って変わるような想いではなかった。それこそ、この六年間告白を全てふってきた友香には、疑いようのない自身だけが自問自答で顕になっていくのを感じられた。何にも変えられない好きなのだ。

 その自信が緊張の後ろめたさを和らげていく。


「よし」


 友香は覚悟を決めて洗面所を後にした。


◇◆◇◆


 リビングに戻ると父と母がテーブルを挟んで座っていた。母が用意したのだろうか、お茶の入ったコップが三つテーブルに置かれていた。

 友香は心臓をバクバクさせつつも、それを悟られないように気をつけながら、ゆっくりとお誕生日席と俗に呼ばれる場所に座る。


「で? 今日はどうしたの?」


 ソファーに腰を落ち着かせ、お茶に手を伸ばそうとした友香を遮るように母が言葉を投げかけてきた。一瞬ビクッとなり母や父の顔を確認する友香。しかし、両親の視線はテレビへと注がれていた。神経質になりすぎているのかなと思いつつ友香はお茶を手に取り一口、乾いた喉へ流し込んだ。

 そして、口が少し潤ったことを確認すると、友香はゆっくりと用意してきた言葉をしゃべり始めた。


「二人とも、ちょっといいかな」


 控えめな友香の声に父も母もどうしたのだろうという疑問を顔に貼り付けて友香に振り返る。


「実は、話したいことが、お願いがあるの」


 どう説明するか、友香は事前に考えて来たはずなのに思うように言葉が出ない。喉の水っ気もすでに失われているような感覚であった。

 それでも、絞り出すように友香は言葉を続ける。


「私……」


 友香の思い詰めたような顔に気を配ったのか、いつの間にかテレビは消されており、無音の中、父と母が心配そうに友香の次の言葉を待っていた。


「大学を、辞めたいの」

「え?」


 その一言に驚きの声をボソッとあげたのは母だった。何を言ってるの、そんな顔だった。一方の父は一瞬驚いたように目を見開くと右手で顎をさすりながら目をきつく閉じていた。

 まるでこの娘は何を言っているのかわかっているのかとでも言う風に。


「どうして? まだ二年生でしょ? あんなに頑張って大学入ったのに、どうして辞めたいだなんて言うの? ねぇ」


 身を前に乗り出しながら追求してくる母。それだけで、友香は覚悟を決めていたはずなのに胸の奥がキュゥッと痛くなるのを耐えられそうになかった。

 あれほど優紀への想いに自信があったのに現実に我が子のことを思う親の心配する顔を見ると罪悪感がのしかかってくるのだ。


「私、やりたいことが……あるの」


 本当ならもっと理由をつけるはずが、申し訳無さに、母の追求に焦らされて頭の中が真っ白になり、ただ言うことの出来ない核心だけを言葉にしてしまう友香。


「やりたいこと? それって何?」


 ごもっともな母の理由を求める言葉に、紘和との約束上これ以上の形で説明出来ない友香は押し黙ることしかできなかった。

 俯いて、零れそうになる涙を堪えながら、唇を強く閉ざすことしか出来なかった。


「ねぇ、お母さんに言えないことなの? ねぇ、友香ってば」


 母も初めての友香の親不孝と取れる行為に動揺が隠しきれずにいた。徐々に感情も高ぶり声が高くなっていくのがわかる。

 そして、真相を突き詰めようと、ヒステリックに母は問い続けた。


「友香、答えてよ。そんなただやりたいことがあるって言われて大学辞めるだなんて、将来のことにあてでもあるの? もしかしていじめられてるの? お母さん、友香が答えてくんなきゃわからないよ。どうして、こんなに突然、辞めるだなんて」


 最後には泣き崩れそうになりながら、母は友香の心境の変化を問い続けていた。


「父さんも大学を辞めるのは反対だ」


 母の心配している声がまるで責め立てているかのように聞こえ、申し訳ないという気持ちで友香が押しつぶされそうになっているところで、ダメ押しのように父からその言葉は告げられた。やれやれと、随分とくたびれた顔をしながらもその声はとても部屋に響く声だった。そんな声に友香は顔を上げ、母も幾ばくか気持ちを落ち着かせ父の方へと顔を向ける。同意した父の言葉にその通りよねと言うかのように。

 友香はもうどうしよもない、八方塞がりだと、両親への申し訳無さとは違った、優紀を探しに行けない友香自身の力の無さも加わり心がより一層重く苦しくなっていくのがわかった。


「休学って知ってるかい?」


 先程の大声とは違って、穏やかに、友香に救いの手を差し伸べるように父は続ける。


「父さんは、今まで反抗期ってもんがなかったお前がまさかこんな感じで俺たちを困らせに来るとは思っていなかったがな」


 どうしようもないことをしでかしたが、家族である故にどうしようもなく支えてしまう。

 父はまるで反対したい自分に言い聞かせるように喋り続ける。


「何も辞める必要はないだろう? 辞めてしまったらせっかく進学して勝ち取った将来の数ある選択肢をドブに捨ててしまうようなもんだ。もちろん、お前が、勉学が嫌で嫌で仕方がなかったり、いじめられて悩んでいる、そういう風に、大学にいる必要がなくなったなら無理する必要はない。つまり、辞めてもいい話は別なんだが、そういう訳ではないんだろう?」


 暖かく受け止める言葉を続けて、父は友香に質問する。


「は、い」


 友香はそんな言葉に、堪えきれなくなった涙を流しながら、それでいて泣き声をあげないように声を押し殺しながらゆっくりと答えた。


「お父さん、そんな」


 母は友香の身を案じるがために父の発言に大なり小なり問題があると感じ反論を唱えようとする。

 しかし、父はそんな前のめりになる母の鋭い眼光で制すると一言、首を縦に振りながら言った。


「友香が初めて自分からやりたいって俺達に相談してくれたんだ。俺達の大事な可愛い娘だ。だから、考えなしじゃないっていうのは、わかるだろう」

「でも……」

「踏み外したら怒ればいい。それまでは俺達の娘を信じてあげようじゃないか? なぁ、母さん」


 母はそれきり何も言わず、鼻をすすりながら涙を流していた。


「いいかい、友香。何事も選択肢は多い方がいい。もちろん、ありすぎて迷ってしまうだけで途方にくれてしまっては本末転倒だけどね。でも、何かやりたいことがある、そこに一直線になって周りが見えなくなった状況で大学を辞めたいっていうのは早計だと思うよ。それが父さんたちに言えないことなら尚更だ。でも、父さんは応援してみたい、そう思ってる」


 友香は泣きながら、しかし、父の顔をしっかりと見て話に聞き入る。


「もし、お金のことを心配してるなら、それは父さんに失礼なことだぞ。別に大金持ちってわけじゃないけど、まだ友香を支えるぐらいの余裕はあるよ。もちろん、これから先頼りっぱなしだと危ないけど」


 最後は、少し本音があったのか舌を出しながら困ったように笑ってみせる父。


「だから、安心してもう一度最初から友香の口で言ってごらん」


 ただただ感謝の気持ちだけが湧き上がってくる友香。こんなわけのわからない理由で大学を辞めようとした友香を父は信じた上で、さらに上の選択肢を提示してみせたのだ。あまりにも物わかりがよく、順調すぎる展開にも思える。しかし、そこに邪推する予知はなく、これが愛されているということなのだと友香は素直に受け取ることができた。

 だから、友香はそれに応えようと自分の言葉で改めてお願いするのだった。


「わたじ、どうしてもやりだいことがあるから……」


 鼻をすすり、溢れて止まらない涙を何度も手の甲で、服の袖で拭きながら、温かさに包まれた友香は言った。


「大学を……休学さぜてください」

「世話のかかる娘だ」


 頭をわずかに傾けながらやれやれといった感じで微笑しながら父は返事をするのだった。

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