第八筆:危機的状況

 あれほどまでに陸を巻き込みたくないと思っていた優紀だったが、通話の内容を一緒に聞いていたことで結局、巻き込んでしまうことになった。指定された場所が廃工場ということもあり、何か危険を察したのかもしれない。それまで通話を黙って聞いていた陸はその場所を聞くなり、優紀を、この場合は友香を気遣い、どうしてそんな危なそうなところなんだと割って入ったのだ。きっとこの通話の前に説明した時の紘和や特に純から何か危険を感じ取っていたのだろう。優紀も純に関しては不気味なやつだと説明していたし、通話での第一声が、その純だった。陸にとっての第一印象は最悪なものだろう。

 そして、紘和が第三者の通話の介入に驚き戸惑っていると純が愉快そうに割り込んでこういったのだ。


「来ればよくね。親友みたいだし、ある程度知ってるなら来てもらったほうが早いだろ? 安全はこの紘和が保証してくれるしな」


 こうして車という移動手段を持たない優紀と陸は一時間後、指定された廃工場の最寄り駅で紘和と待ち合わせをすることになった。


◇◆◇◆


 陸とは特にする会話もなく、お互いがお互いを気遣う故にすれ違った微妙な空気のまま移動することとなった。優紀からすれば突然、渦中に招き入れてしまうようなことはしたくなかった。もちろん、形として話した以上はいつか本当のことを知られてしまうとは思っていたが、それが流石に話した矢先になるとは思っていなかった。

 陸の方も優紀の想像でしかないが、隠されていたということに支える者としてやはり寂しさに似たものがあったのだろう。優紀の、友香の人生を友香を、優紀を失ってから六年もの間、楽しいものにしようとそばに居てくれたのだから裏切られたという感覚が生まれていてもおかしくはなかった。しかし、結局はこうして付いてきてくれている以上、陸がいかに優紀のことを考えて行動してくれたかが伺えた。だからだろうか、微妙な空気とは言え、決してギスギスしたものではなくなかった。言うならば、お互いが謝るタイミングを見計らっているような、仲直りの兆しが見えているかのようなそんな雰囲気だった。


◇◆◇◆


「お待ちしておりました、桜峰さん。とこちらが」

「初めまして、桜峰の友達の九十九陸といいます。以後お見知りおきを」

「九十九さんですね。初めまして。そして改めまして天堂一樹の孫、天堂紘和です」


 駅を出てすぐ、場違いな高級車が目立つように止められていたためすぐに紘和を見つけることが出来た。幸いなことに無人駅であることからも分かる通り人の往来が少ない駅であったため客寄せパンダにされるような騒ぎはなかった。紘和もこちらを見つけるとすぐに降りてきて後部座席のドアを開けて待機していた。そして、陸はまるでウチの娘がお世話になっていますと言わんばかりの空気をまといながら自己紹介をこなしていた。紘和が天堂家の人間だということは説明していたが、目の前にしてこの堂々たるや、さすがに肝が座り過ぎだと思わされた優紀。そして車での移動は先程までと同じく別断会話のないものだった。しかし、雰囲気は全くの別物で陸が紘和に優紀には手を出させないと言った感じで両腕を組みながら運転席を睨んでいたので、優紀にとっては気恥ずかしい空気だった。


◇◆◇◆


 指定された廃工場に連れてこられた優紀と陸。廃工場と称するだけあって山奥で周囲に人っ子一人いない、ある意味人里から切り離された様な感覚すら抱く静けさと哀愁が漂う場所だった。

 廃工場入り口付近で車を降りてすでに開いたゲートを通って少し歩くと倉庫街の一角の入り口のすぐ横で錆びたドラム缶の上に立ちながら手招きする純がいた。


「やぁやぁ、お二人さん。待ってたよ。実に定刻どおり。すごいね、バカ真面目に時間調整でもしてるんですかね、この運転手は」

「そいつは悪かったな」


 純のハイテンションに一切の起伏を感じさせない応答をする紘和。


「そして、どうも初めまして、になるのかな。何でも知ってる君の不安を煽りに来た幾瀧純です。この展開は……ふふっ、覗き見で予想できたかな? なんつって」

「初めまして、九十九陸です……随分と面白い人ですね」


 純の独特な自己紹介と煽りに若干引き気味に、それでも精一杯の対応としてお世辞を添える陸。それにしても純は優紀、というか友香に対してはもう少し友好的な初対面だったように感じるだけに、少しだけ棘を感じるその言葉選びに、男女で対応を分けてるのかと考える。だが、本当に短い付き合いだが、純がそんなくだらない理由で対応を変えるだろうかとも思うわけである。実にくだらないことに気が逸れたと思う。ただ、そう思っても逸れるだけの何かが純の口からこぼれていたには違いないはずだった。何か、大切な見落としをしているような、そんな感覚。無意味を意味ありげに話したりもする純の言葉だから揺さぶられるものがあるのか。

 結局、違和感と呼んでもいいかわからない程度のことだとここは思うことにする。


「それで、新たな進展というのは一体何なんですか」


 そして、優紀はいてもたってもいられず本題を口にした。

 そう、先の違和感は純と紘和が揃って伝えたいとした内容に比べれば大したことないはずなのだから。


「それはね、これからとある人物に電話をしてからにさせてほしい」


 慌てる優紀を焦らすように、にこやかに人差し指を小さく左右に振りながらそう言うともったいぶるようにゆっくりと胸ポケットから携帯を取り出した純。耳元に当てているときにはすでにコール音がしているようだった。純から紹介されるとある人物というのに皆目検討がつかない優紀。今回の一件に自分たち以外に近いしい立場で関係者がいたかと考えれば、天堂家で出会った人とロシアの何人かだけだった。そして、前者なら勿体つける必要性はないし、後者はそもそも連絡できるという前提が想像できなかった。実際には、純はタチアナの連絡先を知っているが優紀は知らないし、ここでは関係のない話である。

 電話口からコール音が途切れたのがわかる。


「ほら、聞いてごらん。この人はゆーちゃんも知っている人間だよ」


 純は電話に出た相手と一言も会話を交わすことなく、携帯をポイっと優紀へ意味深なセリフと共に投げ渡した。

 優紀はそれをしっかりと受け取ると恐る恐る心当たりを探しながら携帯を耳に当てた。


「もしもし、えっと」

「桜峰……いや、菅原優紀君ですね」


 ボソッと誰にも聞かれないぐらいのそれでいて低い声での問いかけに優紀は恐怖した。初めて友香を優紀として認識された言葉である。一時期はその孤独感にも悩まされていた。しかし、昨日から、何かの渦中にいると知っている今、菅原優紀と呼ばれることは安堵から最もかけ離れた恐怖だった。何せ電話の相手はこの入れ替わりを知っていることになり、優紀以上に優紀のことを知っている可能性があるからだ。つまり、同時にこいつがツァイゼルなのかという可能性が導き出される。そして、とっさに電話を渡してきた純の方を見た。一つの疑念が生まれたからだ。純も知っていたのではないか、と。いや、話はそんな簡単なものではなく、全てが純を中心として仕組まれた奇劇だったのではないかと。

 すると覗き込むようにドラム缶に座った状態の上半身を曲げ、純はニヤリと笑った後、優紀の顔を見ながら教えてやろうかといった顔で口を開いた。


「数日前に知り合ったチャールズ・アンダーソン君だ。もしかすると今君が三番目ぐらいに聞きたい声だと思ってね」

「へ?」


 優紀は恐怖からくる緊張とわけのわからない怒涛の展開から頭の処理が追いつかず、気の抜けた声を漏らしてしまう。誰でも知っているアメリカ元帥がなぜ、誰もが知っているわけでもない友香を優紀として知っているのか。この際、純は紘和を通じて知っていたと無理やり結びつけてもいい。ただ、チャールズが優紀を知っていることは、つまり、昨日までの出来事を整理した優紀の中では黒い虹の情報を隠蔽した、この変化に対する答えを持つツァイゼルに繋がる人間という可能性が真実味を帯びてきたことを意味する。一番手に入れたい手がかりを持っていると思われた人間が結局はツァイゼルで黒幕だったのではないかと一瞬で流れ込む情報量と憶測で頭がパンクしそうになる。

 どういうことだと言う単語が脳内を囃し立てる。


「チャールズ・アンダーソンってあのアメリカ大統領の?」

「そうだよ、それ以外に誰がいると思う?」


 陸が驚きの声を上げる。無理もない。誰だって突然の電話の相手が大統領だったら、それも八角柱にも名を連ねる最凶ともなれば驚かされるのは自然なことであった。しかし、その言葉に驚いていた人間がもう一人。

 聞いてないぞと言った視線を純に送っている紘和がいた。


「どういうことだ。何企んでやがる。俺は今日、この場に集まれば残ったロシアの残存兵力を潰しつつ、ツァイゼルを追い詰められるって聞いてたんだぞ。それが、アンダーソンだと? あの時からお前はチャールズにしてやられてたっていうのかよ。答えろ、純」


 辺り一面に何かが突き刺さる音がする。【最果ての無剣】が展開したのだろう。紘和の怒りが一瞬で沸点に達したことだけはわかった。一方で、優紀はもちろん陸にも紘和が何故、純に対して声を荒げているのか純の言ってた話の内容が半分はわからないため、わからない。しかし、紘和からしてみれば三日前に純と一緒に出会っている人間だった。そして、あの時去る間際に紘和は蝋翼物【夢想の勝握】の洗脳に近しい攻撃を純が受けていたことに気づいていた。しかし、【夢想の掌握】は所有者より破格の精神力や力を持った人間に洗脳と言った類の効果を跳ね返される事例が確認されていた。だからこそ、天災などとのたまった純の言葉を信じていた。

 しかし、この状況ではまるで紘和にとってはチャールズが純を上回っていることを証明しているかのようだった。


「お二人とも早とちりだよ。まず、チャールズ君はツァイゼルじゃない。そんな事実があればロシアとアメリカは残りの八角柱を敵に回すことになる。いくら彼らでもそんな愚行をするタイミングぐらいは今じゃないと心得ているはずさ」


 ペラペラと補足だと言わんばかりの説明をする純。しかし、その純を信じていいのかすら今の優紀には判断できない状況でだった。

 優紀は簡単に理解し納得し頷くことはできなかった。


「そして紘和。俺がこういう人間だって知ってるだろ? だったら、信じろ。今日の彼はお友達だ。いいな、まだだ。ステイステイ。お前のここでの役目はこんな事件を計画した悪しきツァイゼルを断罪することだろう? 焦るなよ」


 まるで犬にでも言い聞かせるように純は紘和を説得する。しかし、優紀とは違い、歯ぎしりしながらも明らかに馬鹿にしたような説得であったにも関わらず、納得した様子で紘和は展開していたであろう【最果ての無剣】を収めていた。その様子に満足だと言わんばかりの顔をする純。

 そして突然、ドラム缶から飛び降りるとすかさず混乱している優紀の手を取り、勢いよく走り出す純。


「ちょっ」


 ぐんと引っ張られ、優紀はその拍子に携帯を落とすがそんなことを気にも留めず純は走る。


「この戦いが終わったら、俺もゆーちゃんもやりたいことがわかるんじゃないかな?」


 その言葉が言い終わった時にはさっきまで自分たちがいた場所、つまり陸と紘和のいた場所は爆撃を受けていた。


「じゃぁ、そっちはよろしく紘和。ロシアの合成人どものご到着だ」


 実に楽しそうに、新しい玩具を手に入れたように嬉々とした大声を純は叫ぶ。そして、優紀は純と共に陸と紘和から距離を離されるのだった。


◇◆◇◆


 優紀は純に引っ張られるがままに走らされた。

 決して疲れたと言うわけではない。心は先程の情報で多少なりとも疲れているだろう。とはいえ、走れないというほどではない。それは巻き込みたくないと思っていた陸が巻き込まれた矢先に突然爆発に巻き込まれた光景を目にしたからだ。爆撃なんて危険な現象を初めて実際に目の当たりにした以上に親友が巻き込まれた様を見るのはショックが大きかったのだ。それもあれだけ土煙を上げながら勢い良く火が吹き上がったのだ。

 向こうには紘和がいるとわかっているとはいえ、二人がどうなったかわからないという現状は優紀を放心状態にしてしまうのは十分すぎる理由だった。


「さて、どうやらロシアの刺客に再び襲われているわけだけど、あれが噂に聞く合成人の真骨頂か……。ゆーちゃんは、がんばれ……そうにないよなぁ」


 後ろから追ってくる、人間とは思えない形相の何かを確認する純。優紀が使い物にならない以上、加えて、あちら側よりも早く決着をつけて合流しなければと思う純は急停止して、優紀を大量に積まれた木箱の山の裏に隠すように寄りかからせる。

 そして追従してきた敵の前にくるりと右足を軸に一回転しながら現れ、先制の一言を発した。


「ボチャロフさんちのエカチェリーナちゃんはどこだい?」


 すると、追いかけてきた集団は足を止めて、しかし臨戦態勢を崩すことなく答えた。


「白々しい。お前が追い返したんだろ? 先日は知らぬ所で世話になったようだが、今回は同じ鉄は踏まない」

「そうお世話。随分と動きやすかったでしょ? アレ君たちのところの【漆黒極彩の感錠】の力だけじゃ、不向きだもんね。誰もいない状況を作った上でその情報を外部に一切漏らさせない方法。良いサービスだったでしょ? 関係者か、それこそ特別な人間じゃなきゃ前回の一件は知りえないのだから」


 やたらとサービスしたことを強調し挑発したいのか、それとも恩を売りたいのか、声を張り上げる純。正確には張り上げたと思うほど随分と引っかかる内容だと優紀は思ったのだ。

 ちらりと木箱から覗くとそこには前回駅のロータリーで薄っすらとした記憶の中にあった信じられない光景が映っていた。


「やはり、最凶がいたのか……」


 ロシア側にも思うところがあったのだろう。

 全員が苦虫を潰したような顔をする。


「まぁ、サービスって言ったけど、この件に関しては君たちじゃなくて俺もその対象に入ってたんだけどね。ハハハッ。それで、主様がいなくて大丈夫なのかい、君たち?」

「むしろ、いないからこそ、お前が彼女を、エカチェリーナ様を本気にさせたからこそ戦闘力だけは保証できる。それにお前は殺せと命令が出ている。安心しろ」

「いや、それは安心って言わないでしょ?」


 そう、純の眼前にいるロシア勢は確かにあの駅周辺での出来事を知るロシア勢の仲間なのだろう。しかし、前回とは数だけでなくその姿がおかしいかった。そう、人間らしからぬ姿をしていたのだ。人の形を模しているのだが、獣や昆虫の類の特徴を身体に宿していた。

 これが合成人。


「じゃぁな」


 そう言うと先頭にいた甲殻類特有の堅い甲殻の皮膚に包まれた、両腕が鋏となっている男が純に襲い掛かってくる。


「いやいや、俺は心配だよ。面白みに欠けるなぁって」


 振り下ろされた巨大な鋏をひらりと身体を横にしてかわすとそのまま姿勢を低くし直し、純はズイッと距離を詰める。そして屈伸運動を利用してその蟹のような男を下から両手で持ち上げる。その勢いのまま蟹男を軽く宙に浮かし、肘からの打撃を溝に叩き込む。

 苦悶の声が漏れる蟹男を落下する勢いに任せて純は腕を思いっきり引っ張り叩き落とす。


「あぁああ」


 鮮血を飛び散らし、蟹男は激痛を声にして訴え続ける。見た目は蟹でも血は赤い。

 そう、これは人と人の戦いなのだ。


「力があると慢心している弱いやつほどつまらないもんはない。あぁ、血はやっぱり赤いのね。ちなみに身のお味は蟹なの?」


 純は引きちぎった右腕の匂いをかぎながら、その嗅いだことのある人間としての匂いを感じ取り美味しくないと判断したのか下に置くと手のひらを返しクイクイと手首を上下させ、かかってこいと挑発する。

 だが、そこで仲間の無惨な姿に激情したり、純の挑発に乗って突っ込んでくるようなやつはいなかった。なぜなら、純の後ろで転がっているはずの蟹男は叫び続けながらも、すでに右腕を再び振り下ろそうとしていたからである。それは甲殻類特有の自切からの再生である。蟹のポテンシャルと相まってそれはまさに人知を超えた現象を人に再現していた。

 それでも、蟹男の攻撃が純に当たることはなかった。振り返ることなく振り下ろされた腕を掴み、純が背負投げをしたからだ。仰向けになった蟹男の顔面に即座に下に置いておいた引きちぎられる間際に自切された右腕を、純はためらいなく叩き込んだ。バキバキッと軋む音と共に額の甲殻が自慢の甲殻によって砕け落ちていく。そして、むき出しになった柔らかそうな身の部分に純は平手打ちを入れた。するとピクッと身体を震わせ蟹男は動かなくなった。脳にダイレクトに振動が伝わったのだ。

 脳震盪で一時的に意識を失ってしまうのは無理もない話だった。


「余裕だと思ってこの任務に当たってるのか? 学べよ。お前らのエカチェリーナ様から聞いてないのか? 俺は一般人代表、人間の域を超えんとする天災だぞ。異形の力を手に入れておいて、コレだと情けない、実に情けない」


 そこで初めてロシア勢から警戒と怒りの顔色が出始める。人間サイズの甲殻類の装甲を同じ強度の装甲といえそれを用いて砕ける力。エカチェリーナも確かに負けたと言っていた。しかし、それは実力を出しきれない状況であったことに加え、純が何かしらの策を事前に仕込んでいたからであり、正面から正々堂々と負けたとは誰も思っていなかったのだ。しかし、先の一連の出来事で現実を帯び始める。

 そう、明らかに目の前にいる純は人外から見ても人間離れしていた。


「誰が何をモチーフにしてるとか知らないからこそやっぱり楽しみにしてたんだよ? でもやっぱりこの程度。ここまでの展開、これからの展開は間違いなく面白かったし面白い。しかし、本来面白くならなければならない、考えて考えて生きることを考えなきゃいけない戦闘という死を隣に感じるこの場でこれは、実につまらない。学習はしたか? 満身は捨てたか? お前らがいかに普通の枠から抜けきれてない、ただの、ただの人間だと思い知ったか? 安心しろ、俺は人間だ。俺以下である限り、お前らに限らず誰でもその尊厳を、特別なんかじゃないと保証してやる。なんてったて人間は強いはずだからな」


 散々俺様理論を雄弁に語った純は満足げにクルッと一回転して二回戦の開始を宣言する。


「俺を越えて化物になりたいなら、せっかく出せる力をムダにするなよ。一番後ろのお姉さんみたいに必死になれ」


◇◆◇◆


 友香を狙うためこの廃工場の場所を知らせた黒い縞模様が僅かに入った白い羽毛で覆われたフクロウ、タチアナは二日前の戦闘経験があるために周囲よりも彼女が今出来る最大限の警戒態勢で純に挑んでいた。挑むと言っても広い視野で状況を見ながら仲間の配置を的確に指示しているだけではあった。しかし、純から言わせればタチアナが一番この場で真剣に対峙しているようだ。これが百聞は一見にしかずということなのだろうか。身体に刻み込まれたあの紘和を諌めてしまう秘めた力を感じさせる恐怖は容易に己を守ろうと万全な状態まで引き上げてくれていた。

 一方で仲間も皆、不幸中の幸いと言うべきか、目の前に倒れた仲間の負傷をみてより深く意識を集中し始める。たった一人と侮ることなかれ。獅子だって兎を追うのに全力を出す。ならば、人は天災に抗うために一致団結できるのだ。


◇◆◇◆


 背後に気配を二つ。そして鼻をかすめた拳。純の正面にゴリラ、後ろに狼と蜻蛉。ゴリラの後ろではさらに四人ほどが次の準備に備えている。状況を瞬時に確認するよりも先に自然と動いていた純の握りしめられた右腕は状況判断終了と同時に物凄い勢いで掲げられていた。自然と視線は集まり、そして拳が弛み、手が広げられる。その場にいた誰もが不利な状況を打開するための策を講じる手段だと身構え、考え凝視した。そして、虚空に何も起こらないと思うまでその一連の流れから一秒あったかどうかである。ブチッと何かが無理やり毟り取られる音がしたのだ。そして音の方向からは床に押し倒されていた蜻蛉がいた。痛みからから他に何かをされたのか、ともかく気絶させられたにも関わらずピクピクと動いている手足が、毟られて舞う粉々な羽根と共に脅威を伝播する。眼の前の人間は複眼を持つ人間を手に掛けたのだと。

 だが、臆することなく狼は動けた。ここが戦場である以上、見慣れた光景だし、いつ誰が最後を迎えようとこの部隊にいるということは覚悟してきたことだからだ。故に純の首を引きちぎろうと、何が何でも早急に殺さなければ自分が危ないという本能のままに動く。しかし、狼が口に捉えたものは血なまぐさく堅いものだった。

 そして、それを感じつつ押し込められることで嗚咽を漏らしそうになるが狼の記憶はそこで途切れる。


「コノヤロウ」


 蟹の右腕が口にねじ込まれた状態で顎から蹴り上げられた狼をみて激高するゴリラが全力で拳を振るう。五百キロを誇る握力から放たれた握り拳。しかし、純はあっさりと狼を右脚で蹴り上げつつ地面に両手を着くと、身体を撚ることで左脚に勢いを載せてゴリラの腕を弾き軌道をそらす。勢いをつけた拳が目標を見失う。だからといって勢いは残っているため、ゴリラは自身の腕に引っ張られるように前のめりにバランスを崩す。

 そして後頭部に何かが当たった感触を感じるとゴリラの目の前には床が迫っていた。


「がっあぁああああ」


 激痛と同時に訪れる暗闇の視界。顔面は流血しているのだろう。目を開けるのもままならない。そのぐらいの勢いで床にぶつけられ、結果として顔が首の力では抜けないほどにめり込んでいた。しかし、すぐ近くに純がいるとわかっている以上、何かし続けなければ危ない。ゴリラは抵抗を諦めずその場でその怪力である大きな腕を振り回す。

 しかし、抵抗むなしく首筋に強烈な一撃を受けゴリラは意識を失った。


「本気を出す。難しいよな。わかる、わかるよ」


 ゴリラの上を教壇のように歩きながら純が語る。


「そもそも本気っていうのは状況に酔ってこそ真価を発揮する。平時に出すには理性が邪魔で、体力が枷となる。まぁ、俺の場合は本気を出しては何も知らずに終わってしまうから出さないわけだが、お前らは違う。さっき言ったとおり自覚しろ。俺は、手を抜いてお前らが勝てる相手じゃない。技術だけで本来の身体能力をカバーできる俺と比べるな」


 たかが人間に。それがロシア勢の総意だった。そう思ってるうちはまだ慢心しているのかもしれない。それでも純は何の特異な力を持った節がなく、自分たちは合成人であるはずだった。戦績という現実がそれを証明している。

 息切れ一つしていない純という存在が、合成人を圧倒している。


「さて、そろそろものになるかな。やってみよー、ゆーちゃん」


 純はロシア勢の増援がやってくるのを確認しながら、微笑みを向けて木箱から顔を覗かせていた優紀に微笑みかけるのだった。


◇◆◇◆


 優紀は数分と満たない戦闘の一部始終を眺めていた。紘和にあれだけの大口を叩け、エカチェリーナを相手にしたと本人の口からでしか聞いていないだけだったが、何かしらに秀でた人間なのだろうとは思っていた。正確には、今までの相手の力量が高すぎたというのと見たことがない想像の領域を脱していないからで、純の力量が明瞭に浮き彫りにならなかっただけである。しかし、それは予想の範疇を越えたものとして確かに目撃できた。

 だが、今回は差が見られるため実力というものがより明確にわかる。反射的に動くのではなく反射で動いている。加えて人間としてのリミッターが振り切れたような反応速度に追いつくこれまた並外れた怪力とそれらを使い切る技術があったのだ。俊敏さと馬鹿力は見ればわかる、そして卓越した技は優紀には実際の所わからない。だが、なければあれだけ無駄のない動きは出来ないだろう、そういう程度の理解だった。

 そこで、先程の暴言である。


「えっと……え?」


 陸の無事を紘和がいたから大丈夫だと思うことで落ち着きを取り戻していた鼓動がまた早くなるのを感じる。誰かを心配していた数分前とは違い、自分を心配するが故の緊張である。そして、純という男はここ数日の付き合いでも優紀がわかるほど、あの手の笑顔を向けた相手に良い出来事をもたらさない。

 そしてそれは、素直に受け取るにはあまりに突拍子もない言葉だった。


「疲れた、選手交代ってこと」


 そう言うと後ろにステップしながら純は優紀のそばまで下がってくる。


「そんな、私にはあなたのような力は」

「もちろん、俺みたいな技量も力量もないだろう。なんせ、俺は強くて賢い完全無欠の人類代表だからな。だけど、君は神格呪者なんだろう? 人ならざる人の力、魅せてくれよ」


 最後のセリフを耳元でささやくように優紀に告げた純は、そのままひょいっと木箱から優紀の身体を引きずり出し、敵の前に放り出したのだ。よろめきながら前線に放り出された優紀は何人もの異形の姿を確認する。毛や鱗といった外的変化がその立ち姿をより強大に優紀の前に映し出した。距離にして約二十メートル。場の空気と恐怖から取り敢えず身構えてはみる。だが手足はカチカチと震えている。このままでは動くことすらままならなそうだった。しかし、そんな優紀を待ってくれるほどロシア勢は優しくない。眼前に突如長い舌だけが現れ、優紀を捉えようとしてきたのだ。

 そう、舌だけが、長い舌が突然数メートル先から伸びてきたのだ。


「っつ」


 驚きで勢い良く息を吸い込む優紀。避けなければ、しかしどうやって。解答を知らない疑問に身体が硬直してしまう。蛇のようにうねりながら近づいてくる舌。つるりと、しかし大量の唾液を飛び散らせながら、尋常ではない速さで脇目も振らず優紀めがけて近づいてくる。

 しかし、考えるのとは別の本能的な訴え、友香を傷つける訳にはいかないという気持ちだけがパッと優紀の身体を即座の行動に移した。結果、優紀は回避した。そして、不思議な感覚が訪れる。それは、観えていたということだ。あまりにもハッキリと舌が観えていたのだ。それに転じて疑問がさらに湧く。あれだけ柔軟な舌が避けた優紀を見失ったように動き続けているということだ。大した距離を舌に対して横に移動したわけではない。

 しかし、あまりにも簡単に攻撃から外れることが出来てしまったのだ。


「音とか内部は流石にできないみたいだな」


 ドカッと何かが床に叩きつけられる音がする。音の方向に目を向けるとそこにはカメレオンが後頭部から床に純によって押し付けられている光景があった。

 カメレオンは死角からの攻撃に為す術なく気絶し、ピクピクと幾度か身体を痙攣させた後動かなくなった。


「不完全というべきか、再現性が高いというべきか。生き物だというべきか」


 そして優紀のそばまでくると軽くガッツポーズを決めた後、手を差し伸ばし優紀が起き上がるのを手伝った。


「ほら、俺の手伝いなんて簡単だろ? 何か掴んだみたいだしな」


 荒療治というものがあるが、もしカメレオンに対して何も出来なければ純はどうしていたのだろうと優紀は思う。それと同時に、きっと何か掴めると思わなければこんな賭けに出る人間でもないかと反する気持ちを思うのだった。


◇◆◇◆


 その後の展開も一方的なものが続いた。純に突っかかれば床に倒され、優紀に突っかかれば乱された後に純の格好の的となるのだ。どちらに転んでも最後には純が待ち構え、その連鎖を断ち切るため優紀を狙っても全て肩透かしとなる。そもそも優紀が殺せない対象故に純に対する殺意のある攻撃とはまた別物であるところを純に潰されてるとも取れる。

 そして、木箱などの多い狭い倉庫内で動きづらいとはいえ、たった二人、はたからみればたった一人に殲滅させられているのだ。床にも血溜まりが多くなり、鉄のような匂いが充満していく。ねっとりとした空気が足元から這い寄ってくる。そんな時間を数分と続けていると、いつの間にかロシア側から突っ込んでくる相手がいなくなったと思いあたりを見渡すと、二人、未だに立っているのが確認できた。光が差し込んでいたため表情は見て取れない。

 ただし、片方からは尋常ではない殺気が伝わってきた。


「お前ら、こんなに強かったのか」


 ミシッと不気味な音だけが徐々に大きくなりながら連続する。


「全力って、本当にそういうことだったんだな」


 人影がみるみるとその大きさを膨れ上がらせていく。


「もう、我慢ならねぇよ、お前ら」


 それは、人影というにはあまりにも大きく、巨大な何かのシルエットへと変貌していた。


「潰してやる」


 限りなくマンモスに近い人間がその巨躯からは想像もつかない速度で突っ込んできたのだ。マンモスの姿に性能を人体で再現できる。そこいらの軍隊を相手にするならば何も問題はなかったのだろう。合成人としてロシアで秘密裏に創られた彼はロシアの右手といわれる合成人の中でも戦闘能力だけでいったら五本の指に入る存在だった。特殊な血液をつなぎとして他の生物の遺伝情報を取り込んだ人間。普段はエカチェリーナの持つ【漆黒極彩の感錠】によって両者の感情を取り持っているため、意識の主導権を絶対的に人間に置いている。そのため、影響下になくても基本的には人間に寄るように出来ている。しかし、感情が高ぶるとその優劣は朧げになる。その状況が過度に続くと、人間では制御不可能な力が野生の取り込んだものの力が開花する。それが彼らにとっての意識を乗っ取られるかもしれない危険な全力であり、エカチェリーナが開放した箍であり、とっておきの手段だった。

 だが、相手が悪かったのだ。優紀には避けられ、純には象牙を捕まれたまま勢いを殺されることなく放り投げられる。マンモスは空中で身体を捻りながらその巨体からは想像もできないしなやかさでなんなく受け身を取る。ズザァと足に力を入れながら踏ん張ると勢いに引っ張られ床がめくれ上がっていく。勢いが消えたのと再び純を捉えようする。そして、身体とともに大きくなっていた両の目に純の両手が突っ込んできていた。突っ込んでくることを見据えてカウンターのように突っ込んだ純の腕が吸い込まれるように、かろうじて閉じることにした瞼の上から押し込まれた。絶叫するマンモスを尻目に純の回し蹴りがキレイに外側へ振り抜かれ右の牙を砕く。

 そしてそのまま横転したマンモスの首に右足を押し付け、トントンと砕いた牙で鼻先をつつきながらその存在をアピールさせる。


「さて、どうしたものか」


 純が次の行動を考え始める。そんな中でも首への負荷がマンモスに死の恐怖を徐々に与えていく。こうやってみな死んでいくのかと。だが、マンモスが他の仲間同様に敗北とは違う、死を覚悟したこの瞬間、気づいてしまう。それは純が誰一人たりとも殺していないことにだ。使い物にならなくなった者は数多くいるだろう。しかし、誰一人として絶命した者は視界に映っていないのだ。つまり、純は手を抜いていたのだ。確かに、全力を出さないということは言っていた。そこは正直、問題ではない。

 問題があるとすれば戦場で全力を出した相手を、まるで辱めるように生殺しにしていることだった。


「お前こそ」


 バカにするなという言葉はマンモスの首に乗る純の足の力がほんの少し強くなりすぐに途切れる。


「キャッチ・アンド・リリース。ナメてなんかいないさ、むしろ次に出会う時に期待してるんだよ、合成人諸君。それに、普通は次があることを喜ぶべきだろ? 死人に口なし。生きててなんぼだよ。そんな武人の教示を語って良いのは本物か、バカだけで十分だ。言ったろ、あんたらは弱い人間なんだ。これは恥じゃない」


 周りの見えないマンモスは自分に告げられている言葉だと思い、やはりナメていると怒りの感情が湧き上がるのがわかった。一方で、一理あるとさえ思ってしまう言葉に丸め込まれそうになった自分に更に憤慨する。それでも、今は何もできない、動けないでいた。そして、合成人諸君の言葉の通り、確かに純はこの場でいる合成人全員に対して言っていた。

 特に、未だに立っている合成人の目を見て話していた。


「ありがとう、お互いいい経験になったと思うけど、生命力。コレが凄いに限るね。結構、加減がいらなかったのは本当にいい経験だった」


 フクロウことタチアナは言い返すこともせず、無言で優紀を睨むことしかできなかった。


「それに俺はタチアナさんとの約束も護ったろ? ここにゆーちゃんが来ることも、奇襲を成功させることも、そちらの被害を最小限に抑える約束も。まぁ、そもそも俺は殺しが嫌いだから、最後のサービスみたいな約束は別にしなくても問題なかったけど。それでも、きっとタチアナさんは俺を信じてくれたから戦力をしっかり均等に分散させたんだろうね。どちらを倒すのにも最大限の兵力で、最大限の生き残りを確保するために。その点は、実に賢明な判断だ。やっぱり、タチアナさんが一番この場で必死だ。ただ、紘和の方に行った奴らのことは残念に思うよ」


 ただ合成人と戦ってみたいという理由で昨日、この廃工場に友香を連れてくると教えてくれた純は、牙の砕けた断面でマンモスの頭を思いっきりたたき昏倒させてその身体から降りてくる。


「早く全員担いで逃げないと、きちゃうよ、紘和」


 今度は紘和を静止するつもりはないと、この場からすぐに消えろと暗に言っているのがわかる。だからタチアナはそれに従い、仲間の介抱を始める。純にも優紀にも目をくれず生き残る準備を始めたのだ。敵を取るのは今じゃないと。


◇◆◇◆


 純はクツクツと笑いをこらえながら、疲れでその場にへたれこんでいる優紀のそばへ来た。フクロウのような合成人が仲間の手当に追われているようだったが、純は特に気にもとめていないようだった。

 どうやらこちらは決着が着いたのだろう。


「それにしても、だ。わからない。最悪の結末にして最高の劇場となるわけだが、なぜなんだ。いいなぁ、手のひらで転がせないっていうのは。いいかい、ゆーちゃん。これから俺達は、世界を覗くことになる。俺が娯楽に挑み、紘和が改革に挑む世界のほんの一部を、だ。自覚しろ、自意識過剰で構わない。これから先に待つのは、きっと想像を越えるための面白い、だ」


 純は自分に酔った演説家の如く両手を広げ、そして優紀にお辞儀した。そしてそのままピチャピチャと血溜まりに派手な音をたてながら陸と紘和に合流するために走り出すのだった。優紀も陸が気になり、疲れに震える足に激を入れて純を追いかけた。


◇◆◇◆


 激突の音がする倉庫を開けて純と優紀はそれぞれ別の感情を表情に出していた。純は口角を上げて面白さそうだなと、優紀は理解できない恐怖に口を馬鹿みたいに開けていた。なぜなら、見えない何か、それは紘和が両手に持っているであろう蝋翼物【最果ての無剣】によって首を刺されて持ち上げられている、陸の姿があったからだ。


「天堂さん、いったい何を……何をしてるんですか!」


 しかし、言葉とは裏腹に優紀には魚の小骨がスッと取れる感覚もあった。それはやけに引っかかりを覚えた爆撃される前の純の会話の正体に気づいたからだ。どうして、陸は紘和によって即座に隠蔽された駅周辺で、そもそもチャールズが絡んで隔離されていたらしい場所で起こった事件があったことを知っていたのだろうかと。本当は無意識に避けていたのかもしれない点が繋がった、そんな光景が突き刺された陸からはあった。

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