第七筆:賽は投げられた

 優紀は真っ暗な自分の部屋にいた。食事先での提案は保留にし、あの事実がわかった後、ビルから最寄りの駅まで紘和に送ってもらい、行きと同じ時間をかけて自宅に戻ったのだ。何を考えるわけでもなく、むしろ考えないようにボーッとしながら家路についていた。アパートに着いた時には二十二時を回ろうとしており、いくつかの部屋からは明かりが漏れていた。陸は珍しく出かけているのか、部屋に電気はついていなかった。優紀は部屋に入るが電気もつけず、カーテンは締め切ったまま、スカートを脱ぎ、Yシャツのボタンを外してベットの上に倒れ込んだのだ。そして、落ち着いたことで今までの出来事を懸命に整理しようと頭が働き出した。


◇◆◇◆


 神格呪者【雨喜びの幻覚】。今の優紀が背負う神に愛されてしまった人ならざる人の称号。この力にどのような効果があるのか、今の優紀にはわからない。すでに当たり前に使っているのか、それとも何かトリガーとなる行為が必要なのかもわからない。そして、そのことは純と紘和も知らないということだった。つまり、エカチェリーナから情報交換を引き出した上でのことであるため、ロシア側も【雨喜びの幻覚】の力を何も知らないということである。一方で、知らなくても軍事利用できる、またはしたくなる力が少なくとも神格呪者の力にはあるということである。その興味は純も焚きつける魅力がある。それ程、優紀の知らない力は強大であり、故に神格などと呼ばれているのだと考えが一周した気分になる。

 そもそもこの【雨喜びの幻覚】は誰にもたらされた力なのか。純から説明を聞いた時にもふと考えたことだった。優紀が本来持っていた力なのか、それとも友香が本来持っていた力なのか、はてまた優紀が友香になったことで備わった力なのかということである。普通に考えれば、優紀は今までそんな力を自覚したことがなく、平穏無事な生活を送ってきた。それはきっと友香も同じで、こうして何かの支障があった様に見えない今という環境を見た上での空白の六年を始め、生前に特異な何かを感じるようなことはなかった。もちろん、優紀自身のことは自分のことである以上、比較的自信を持って言えることだが、こと友香に関しては恋人だったとはいえ赤の他人である。もしかしたら、隠し事の一つぐらいあったかもしれない。とはいえ、軍事利用されるような力を隠しきれるものだろうかとも考えてしまう。この考えが楽観的なものかはわからない。ただ、普通の人間が憶測で語るにはあまりにも非現実的であった。

 だからこそ、優紀からすれば優紀が友香に成った時に身につけた力だと考えたいのだ。直近で身につけた力であれば、その効果を自覚できていなくてもそこまで不自然ではない。何ならチャールズによって情報封鎖された天気雨の中で出現した黒い虹によって神格呪者としての力を授かり、その副次作用がこの姿だと考えたほうがまだ優紀にとってはシンプルで納得できる道筋だった。

 そしてここまで想像できる状態になった今だからこそ、優紀は一樹との会話を終えて考えていた、口に出さなかった第二の疑問が可能性として現実味を帯びてくる。最悪を想定した恐怖が、この未知の出来事を考える上で巡るマイナスな感情が構築した疑問。



 優紀が友香になったことを知っている人間がいるのではないだろうか、と。



 そしてなったことを知っているということは必然的にこの状況を作り出せる人間であるということである。それは同時に天気雨の中の黒い虹によって死者が近しい関係に会った人間を依代にに成り変わることを仕向けた人間ということになり、神格呪者の作り方を知っているということになる。さらに言えば、対象を優紀に絞っていた可能性すらある。黒い虹が日本でしか確認されていなければ、出どころが優紀たちの視界に入る場所だった。数えだしたら理由を紐づけることはいくらでも出来る。それは同時に優紀にとって偶然、友香が生き返ったという望みが叶ったというわけではないということだ。誰かの都合で進展した状況が優紀にとってのチャンスに動こうとする行動力になっただけであり、それすら誰かにとっては計画のうちかもしれないのだ。

 加えてそれほどの力があるということはその人間も神格呪者のような能力者もしくは蝋翼物のような武器を持つ強大な存在ということになる。ここまでくると勝手な妄想が独り歩きしているようにも感じられるかもしれない。しかし、現に情報統制にはチャールズが出てきていることが半ば判明している。つまり、黒い虹の一件には少なくともそれクラスの人間が隠蔽したい何かがあるということになる。

 そして何よりツァイゼルと呼ばれる人間は、今の友香が神格呪者であるということを知っていた。もちろん、最初は鵜呑みになどできなかった。自分にそんな力があると自覚すらしていなかった優紀からしてみれば信じられなくても、嘘と吐き捨てようが何ら不思議はない。しかし、鵜呑みにせざるを得ない状況が確かに優紀の周りでは起き続けているのである。ロシアが、合成人が、最狂が動いていたのだ。それはツァイゼルという人間の情報に間違いはないと判断ができなければ起こさない行動だっただろう。そして起きたということは情報に何らかの確証があったことを逆説に示すことに繋がる。つまり、ツァイゼルが優紀が友香になったことを知っていると考えるのは筋を通せてしまう。正解の憶測だけの確信は幾度となく始点と同じ終点を迎えつつ、その往復区間を延長し続ける。

 では、そのツァイゼルに心当たりがあるかという話である。友香に優紀が成ったという情報をリアルタイムで見ていた人間がどこかにいた訳である。有象無象から選ぶにはあまりにも難しい話である。だからこそ、直近の相関図から引剥てくるとロシアと繋がりがありそうな人間という話になる。何せツァイゼルはエカチェリーナに情報を提供しているからだ。そして内部にいなかったというわけで外部の接触を考えるとロシアと敵対関係を持つこととなった紘和と純に行き着く。ただあれ程の殺戮を優香と接触するために演技で行えるとは到底思えなかった。何より、それ程の実力があるならわざわざ遠回りなことをせず、直接力付くで抑え込むこともできるだろう。となると、次の黒い虹に関わってくる候補はやはり先に疑いの目を向ける対象にもなったチャールズとなる。ツァイゼルがチャールズ本人の偽名または協力関係にあると考えるのが何より自然である。

 整理しているはずが、すればするほど情報が散らかっていくのがわかる。普通に生きていれば決して無縁だった世界に突然放り込まれれば誰もがそうなるのかもしれない。ただ、一つ確実なことがあればこれは優紀の友香の代わりに死ねばよかったという後悔の意思に関係なく、優紀とは何の縁もゆかりもない人間が勝手に巻き込んだ事件であるということだ。つまり、優紀は壮大な陰謀の渦中にいることになる。優紀だけなら構わない。しかし、友香を巻き込んで行われているのだ。今にして思えば、純も言っていた。主人公やラスボスに一泡吹かせた方が面白いと、それに一枚噛むために接点を求めに友香に近づいてきたと。

 優紀は最愛の女性を再び危険に晒しているのだと怯える。簡単に人の命が消えていく戦場を、簡単に人の命を奪ってしまえる存在を優紀は知ってしまっている。失ったものを再び目の前よりも遥か近くで失う可能性がどこにでも転がっている渦中と自覚すればその恐怖は今は隣り合わせということである。

 六年前の夏に亡くした初めて恋を共にした女性。

 置かれた状況とあいまって優紀にとってそれは狂気にも似た深い深い愛となり、手放したくない、失いたくないという気持ちを徐々に強く抱かせた。


「どうして、俺が、友香がこんな」


 目に涙が溜まるのがわかる。誰かに恨まれるような、ましてや殺されるような人生を送ってきたつもりはない。しかし、様々な思惑を持った人間から優紀自身が、友香が神格呪者故に狙われている。そう考えれば確かに神に愛されてしまったというのがわかるような気もする。愛称に呪という文字が入っているのはそのためではないだろうかと。

 力を持つ故の不幸を背負わされているということなのではないだろうかと。


「フッ」


 自虐的な解釈にどうしようもなくなり笑うように息を吐く。そして、溜まった涙が頬を伝って流れていった。血とは違い、つぅと素早く転がるように流れていく涙。溜めていた時とは違い一度流れてしまえば、それは決壊したダムのごとく溢れ続ける。幾度となく涙は頬を伝う。優紀は鼻をすすりながら、声を噛み殺すように泣いた。代わりに、死にたくない、死なせたくない、どうして俺が、どうして友香が、こんな危ない橋を、嫌だと様々な感情が、訳のわかりたくない現実のせいで何度も何回も湧き出て、優紀の身体をより身動きできなくなる様に縛り上げていくのだ。

 もちろん、次の行動を起こそうと思えば、純と紘和の手を借りれば可能だろう。やはり手がかりは黒い虹にあるのだから。しかし、今はそんな考えまで及ばないほど、優紀は自身が想像して到達した現実に打ちひしがれていた。


◇◆◇◆


 都心部にあるとあるタワーの頂上付近で一人、鉄骨に腰を下ろし、足を無防備にぶら下げながら明日起こる今までを変えるかもしれない出来事に思いを馳せている人間がいた。その男は今までもこれからも世界のために尽力するだろう。

 しかし、そんな男にも救いを求める権利はもちろんある。


「うまくいくだろうか」


 頭を過る一人の男の顔。

 今回の接触がその答えだと信じてこの男はこの場に留まり、確認することに決めていた。


「長生きに何の意味があるか考えたことがあった」


 男の両腕に巻き付き、銀色に輝くそれをチラリと見ると言葉を続ける。


「人はどれだけ生きたかよりもどう生きたかが重要だって誰かは言うけど」


 男は足をブラブラさせながら星の出ていない曇った夜空へ視線を移す。


「俺もそう思ってた時期があったなぁ」


 懐かしい思い出があるのだろうか。そう思っていたということはどう生きるかに固執していた時代が少なくともこの男にはあったということだ。

 そして、それは同時にそれが決して正しいとは限らないということを学んだということでもあった。


「ただ、どれだけチャンスを掴めるかは、努力して増やしても、運良く巡り合っても時間の許す限りしか選べない」


 まるで、何を言ってるか君にはわかるかいとそこにいない誰かに問いかけている様であった。


「つまり、長い時間生きてきたこともない人間が言うと、全部小さなことに思えるってわけだよ。お前がそれを言うのかよって」


 一瞬心地よい風を感じる男。

 ハァと息を上空に、冬に白い息を吐くように小刻みに漏らす。


「今はホントそれに期待したくなるよ」


 ギュッと男の両手に力がはいるのがわかる。


「まぁ、こんなことを言う俺が長生きしたわけではないんだけどな。そう長生きはしてない」


 陰った笑みでガントレットを再び見つめる。長生きしたわけではないと言う通り、その男は現在の医療技術、生活水準が整った世界では三十三歳と決して歳寄りと言うには若すぎる年齢だった。だからと言って今までの言葉に重みがなかったかと言われれば、そんなことはなかったように伺えた。

 すると突然、何かを思い出したかのようにオッと口を丸くして手を叩く男。


「そう言えば、今までまともに会話したことがなかったけど、あの人って確か」


 長生きしている人に心当たりがあるようで、その男は思い浮かべた人物の年齢を頭の中で数え始めていた。その男にとっても自分が生まれるより前から生きている人物の人生は誰かから伝え聞いたものでしかない殆ど無い。本人と会えばいつも考えの違いや立場の都合で衝突していた気がするからだ。つまり男にとってその人物は敵対関係にあることが多いということだ。

 バキッと何かがひしゃげる音がする。


「おっと」


 音のした所は男の座っていた鉄骨で、そこは握りつぶされたかのような手の跡が付いていた。つまり、男が無意識に手をおいていた鉄骨に力を入れて出来てしまったということである。

 そこからは思い出す人物に対する憎悪にも似たものが想像できた。


「やっちまった」


 言葉とは裏腹に落ち着いている男。それもそのはず、先程の現象がまるでなかったかのようにすでに鉄骨が元に戻っていたからだ。

 そして男は想像していた人間の年齢を、その人間自体を考えることをやめた。


「さて、寝ようかな」


 言うやいなやヒョイッと地面のない空中へ身を投げ出す。まるでソファーからたち上がるような感覚でその男、チャールズはタワーから落ちて都会のネオン散らばる暗闇に消えていくのだった。


◇◆◇◆


 その女、エカチェリーナは日本から逃げるように海面から数十メートルを飛ぶように移動していた。百メートルぐらいの距離を消えては出てと瞬間移動の要領で距離を稼いでいた。そして出現するたびに先程までエカチェリーナがいた場所で大量の海水が飛沫を上げて大きな音と共に海面を打ち上げていた。

 まだ【漆黒極彩の感錠】を手に入れてからエカチェリーナは日が浅かった。蝋翼物をうまく扱えるようになるまでその全てを最大限に引き出すのにも時間がかかると言われている。本当かどうかはさておき少なくとも歴代の所有者が扱っていた年月から比べれば実に短い。

 エカチェリーナはまだ十年しか、である。


「クソッ」


 汚い言葉がつい口から出てしまう。十年もエカチェリーナは扱ってきたはずだと思った。自分よりも年下のチャールズや紘和は、これまた自分より浅い年月でまさに例外の様に蝋翼物を使いこなしている。実際に衝突したことはない。そんなことお試しでもありえないだろう。それぐらい強大な力である。その一部でも使いこなす自身が純という何の力も持たない男に打ち負かされたのだ。屈辱でしかなかった。しかも、エカチェリーナは愚か蝋翼物すらただの興味本位で突っかかってきたという言い回しが、己の惨めさをより浮き彫りにさせる出来事だった。そして、終わってしまえばどちらにも興味を失ったようにあっさりと欲しい情報だけを聞き出して去っていったのだ。

 あの時、【漆黒極彩の感錠】の力の詳細について聞くことも、幾度か力を行使させて自分たちの状況を好転させる手伝いをさせるといった条件も突きつけられたはずだ。少なくとも交渉とは本当に通したいものを通すために最初はより大きな利益を要求し隠れ蓑にしながら相手の出方を伺うものである。そこから条件などという言葉で削ぎ落としては付け足しを繰り返し、本当に通したい利益を手に入れるべきなのだ。さもなければ交渉をしているにも関わらず損失を被る可能性だってあるのだ。そして蝋翼物にはその能力だけでも知っておくだけで多くのアドバンテージがある代物である。純はそれを承知で、きっと楽しみたいからという理由で無下にして必要最低限の、最悪こちらが優位なまま交渉を終わらせてきた。ツァイゼルを教えたことが若干の今後の取引として不利益になるかもしれないが、些細な事でしかなかった。

 友香をさらう目的も教えたところで知らぬ存ぜずで今後は通せる。


「絶対に後悔させてやる」


 純の言ったとおり、戦闘向きの戦力がまだ残されている。エカチェリーナはこれを全力が出せる状態にセットしてから日本を発った。仮に一人一人では勝ち目がなくとも、数で押し切れば一般人の方はなんとかなるだろう。後はその数に任せて紘和を足止めして友香を再び手に入れればいいだけだった。いや、すでにそれすらもエカチェリーナにとっては本心ではなかった。

 当初の目的は間違いなく新たに確認された神格呪者の確保だった。しかし、今の彼女は純への復讐で燃えている。だからこそ純の計画が壊れてしまえばいいと本隊を動かしたまである。そして、彼女の判断は正しかった。将来的にも脅威に、障害になる存在を早急に討ち取ろうとしたことだけは。


◇◆◇◆


 家まで送ると言ったらここから近くの駅までで構わないと言った優紀を車で送り終えて、紘和はレストランへと戻ってきていた。

 するとそこには、紘和が招待もしていなければ来ると聞かされてもいない女がいた。


「さぁ、紘和。ここからはロシア料理のフルコースだぞ」


 先日殺し損ねたロシアの女だった。

 丁寧なことに黄色いルバシカの上に緑のサラファンという民族衣装を来て純の隣にいた。


「俺を煽ってどうしたい? あぁ?」

「素晴らしい、誰かわかった瞬間に殺さず我慢して俺に質問できるなんて、素晴らしい。ほら、タチアナさんも拍手、拍手」


 パチパチパチと純の拍手だけが広いレストランの中を反響する。


「お前に聞いても意味がなかったな。それでタチアナさん、どうしてここにいるのか教えてもらえますか? そもそもエカチェリーナさんはこのことを知っているのですか?」

「ここにいる方に民族衣装を着ればこの指定された時間にこのレストランへ来てもいいと言われましたので。そしてもちろんエカチェリーナ様は知りません」


 矢継ぎ早にされた質問にタチアナは全て応えた。


「俺や奇人と関わっていることが、つながっていることがどれほど危険であるのかわかっているのですか? 状況を見ればこの場で私に殺されても不思議ではありません。一方でロシアからすれば内密な接触は裏切り行為とも取られる。どちらにしろ何故、罠だとわかっていてここへノコノコと現れた」


 ゆっくりと紘和はタチアナとの距離を詰めながら話す。


「あぁ、それ確かに気になるかも。どうして俺に連絡先教えてくれたの?」

「お前は黙ってろ。話してるんだ。わざわざ、話してるんだ」


 バキッと近くの椅子が音を立てて壊れる。恐らく紘和が純の真上に刃物を落としたのだろう。

 そして、タチアナは試されているんだと思い、本心を告げた。


「罠でもあなた方に会えるのなら、今の私は仲間の仇を取れると思っていたからです。それに死ぬ危険からはこの場に限りそこの方が護ってくださると約束してくれましたので」


 紘和は面食らったような顔の後忌々しそうに純を睨む。

 一方で純は握りしめている自分の手に爪が食い込んでいる。悔しそうにしているタチアナを見てニヤリと口角を上げる。


「ハハハッ。すごいね。それに光栄だよ。ありがとう。でもさ、この期に及んで敵討ちなの? 勝てる算段でも持ってるの?」

「そんなところです」


 茶化すような純には目も合わせず、まっすぐと紘和を見てそう答えた。


「どうだ紘和。これがお前の正義の下に積まれてく犠牲の姿だ。もっとわかやすく言えば復讐の連鎖ってやつだ」


 タチアナを指差し、腹を抱えて笑いながら純は言った。そんな純の言葉に紘和はタチアナに近づく足を止めた。

 眉間にシワを寄せ、辛そうに一瞬顔を伏せる。


「あの時殺しておけば、後腐れは生まれなかったはずだ。今からでも遅くない」


 表情からは似つかないセリフをハッキリとタチアナに告げる紘和。


「いいね。復讐の連鎖を繋ぎ止めたのは俺だってさ。責任転嫁だよ。そもそもお前が殺さなければよかったんだ。何のために法律があると思ってんだよ。あんなクソみたいな都合の悪いものに蓋をする、いや都合の良いものに味方するついでに出来たような法律にさ」


 純は愉快そうに紘和を侮蔑して続ける。


「そしてタチアナさん。あんたは敵討ちの算段ができてるんでしょ? こいつを殺す手伝いはできないけど、こいつに殺されないように護ることは出来るよ。チャンス。チャンスだよ」


 純はホラ目の前にいるぞ、やっちまえと言わんばかりにタチアナの心を煽る。


「情報も得ないまま殺すわけにはいけません。それに仮にあなたが味方してくれなかったとしても死んでしまうことを情報としてしまうわけにもいけませんから、私はあくまで話し合いを選びます」

「似てるねぇ。自分のやるべきことを、自分の力量をハッキリと理解した上で、失敗を避けられるところ。駄々をこねない分、タチアナさんの方が映えると言っても過言じゃない。君、諜報向きだね」

「そうですか?」

「本当は君の力のベースとか適当に聞いて、その代わりに教えてあげようと思ったけど、料理を作ってもらうだけでいいよ」


 実際、タチアナは合成人で構成される部隊の中でも諜報寄りの活動をメインとしていただけに言い当てた純に少しだけ驚いた。少しだけ、なのはこちらの神格呪者捕獲の作戦を向こうが知り得たという一番の驚きをすでに経験していたからだ。ちなみにタチアナは決して普通の人間に劣るわけではない。ただ、自分より戦闘向きの合成人が多いだけで自分が諜報活動に向いた能力を持っていた適材適所の末の配属だった。時には戦闘を避けることのできない情報を得る任務もあるが、それをこなせるだけの力はあるのだ。しかし、この場ではそれすら許されず戦闘を避けていいように相手に言いくるめられて情報を入手しなければならないことにプライドを傷つけられていた。力を得たと思い込んでいただけの人間だと眼の前の二人を見て改めて痛感する。

 一方で、ダンッと紘和が床に足を踏みつける。それはぶつけることの出来ない苛立ちを発散するかのよう足音だった。少なくともパキッという亀裂が入る程度には溜まっていたものあったようだ。

 そして、一息吸うと純のいるテーブルに座る。


「さぁ、前祝いだ」


 純の掛け声にタチアナはキッチンへと向かうのだった。


◇◆◇◆


 泣き疲れていつの間にか眠ってしまっていた優紀は、何かに追われていたかのようにハッと目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む強い日差しはすでに朝と呼べる時間を過ぎていることを知らせていた。テーブルの上の携帯はピカピカと着信があったことを知らせているが優紀は携帯に手を伸ばそうとはしない。枕もシーツも涙に加え、夏の暑さで流れる汗とは別に恐怖心から出た冷や汗で湿っていると感じるほどにしっとりとしていたが、それでも起き上がろうとは思えなかった。

 真っ赤に腫らした目を擦る。顔に触れるその華奢な手が、今までのことが決して夢でなかったと優紀に再度突きつける。あれだけ、友香を取り戻したいと思っていたのに取り戻せず、最悪再び失ってしまうのでないかという、夢であればよかったと思ってしまうほどの悪夢が連日続いていたのである。そして、その悪夢はすぐにでもまた自分に降り掛かってくるのではないのかという現状がある。その情景を、一昨日の経験から容易に想像ができ、さらに昨日の純の言葉が脳裏をよぎり身が竦む。殺されるかもしれない、生かされても人間として扱われる保証はどこにもないという恐怖があるからだ。頭を抱え、カタカタと小刻みに身体が揺れる。どうにかしないと友香を、自分さえも救いようがないのに、小刻みに身体は動くのに、ベットの上から起き上がることは一向に出来ない。

 強大な力の前では何をしたら正解なのかはわからない。しかし、自室にこもりたいと思い、外界に身を晒さないことで安全を確保するという点で逃げるという選択をとっているわけでは決してない。本当にただの恐怖だけで、何が起こるかわかりもしないことを永遠と考えながらただただ動かないだけだった。解決策を講じようなどとはもう考えてすらいなかった。時間が経てば経つほど、努力をせず悪化していくであろう状況にただ押しつぶされていった。


◇◆◇◆


 ピンポーンと音がする。起きてからどれだけの時間が経過したのかはわからない。それぐらいに優紀は最悪の状況を想像し、心境に浸っていた。だからこそ、突然の大きな音は優紀をある意味現実へと引き戻す。ビクッとしながら誰だろうチャイムを鳴らした人間を考える。インターホンを確認すればすぐの話だが、優紀は再び膨らむ自分の悪い妄想に、そんな簡単なことすら出来ないでいた。

 もしかして、ロシア側の誰かがまた来たのではないかと。可能性は十分にあった。一昨日は自宅からの最寄り駅で待ち伏せされていたのである。もしくはツァイゼルと呼ばれる人間、もしくはそいつと手を結んでいるかもしれな有力候補であるチャールズが情報隠蔽をより確実なものにするため乗り込んできた可能性もある。はたまた紘和といった日本の政府関係者が保護を名目に押しかけてきたのかもしれない。面白いことが好きな純が事件の渦中に投げ入れるために会いに来た可能性だってあった。

 そして今度は扉をドンドンドンと叩く音がした。何かに攻め込まれているような感覚が優紀に押し寄せてくる。なるべく声を出さないようにと息を殺し、目をつむり、身体を亀のように丸める。そして、バキッという何かが壊される音と共にバンッとドアの開く音がした。急ぎ足で部屋に向かってくる足音が聞こえる。そして優紀は陸の姿を捉えた。


◇◆◇◆


 陸は友香の部屋の前にいた。ここのところずっと体調が悪そうにしていた友香。しかも優紀のことを思ってとなればより、心の方は疲弊しているに違いないと思っていた。それでいて土曜日は出かけていたし、今日は部屋にいる気配はあるのに電話に出ない。ここしばらくメールすら返信がない状況が続いていたため、陸は心配になったのだ。まさか、時期外れの傷心自殺とかしてないだろうかと昔から知る友香のメンタルが気になり、チャイムを急ぎ鳴らす。

 しかし、応答はなかった。それが余計に最悪のケースを感じさせ、陸は思い切った行動に出る。手にしたバールとペンチを用いて玄関の扉をチェーンもろとも壊したのだ。修繕費がいくらかかろうが友香が死んでしまってからでは遅いのだから。バキッとチェーンを切り、ドアを思いっきりバールで鍵もろともこじ開けると靴も脱がずに友香を探す。早く元気な姿を確認しなければと。

 すると下着にYシャツを羽織っただけという何とも乱れた姿でベットの上で震えて丸まりながらこちらを見つめる友香を発見する。

 思わず、最悪の状況ではなかったことに胸を撫で下ろすのと同時に安心のため息が漏れる。


「ジュ、ジュウゴ」


 今にも消えてしまいそうな掠れた声を確認すると陸はカーテンを開けながら友香に言う。


「目のやり場に困るから、何か着てくれると助かる」


 友香はゆっくりと自分の身なりを確認すると顔を赤くしてタンスへと向かった。


◇◆◇◆


 優紀は来訪者が陸であったことにホッとしていた。随分と見ていなかった様な気がしたからだ。実際は数日しか会っていないのに不思議な感覚である。

 そのせいか、すがりつきたくなるような思いと、ありがたいという支えられた様な気持ちに包まれた。


「ジュ、ジュウゴ」


 だから、安堵したのか声が漏れてしまう。しかし、口は今の気持ちと裏腹に先程の恐怖を引きずっているようで来てくれてありがとうと続けたかった言葉も含めてはうまく出せなかった。

 しかし、優紀の声を聞いて安心したのか、陸は一瞬微笑んだかと思うと慌てて窓の方へ近づいていき閉め切っていたカーテンを勢いよく開けた。


「目のやり場に困るから、何か着てくれると助かる」


 自身が動けなくなって窓を開け放たれるという光景に六年前のあの励ましに着た紘和がそのまま思い浮かんだ。そこでより自分が思っている以上に安堵できたのか、優紀は冷静さを取り戻して今の自分の身なりを確認する。陸の言葉通り自分がいかにだらしない装いをしていたか気づかされる。友香のあられもない姿を勝手に見せてしまったと。そう思えるぐらいに気持ちには余裕が生まれていた。

 だからベットからすぐさま起き上がり、タンスで適当にパジャマっぽい服をチョイスし、Yシャツを脱ぐと急いで下着はそのままに上と下を着るのだった。


◇◆◇◆


「最近の桜峰は黒い虹で妙に騒いでたり、駅近くで物騒な事件もあったみたいだしで、今日何度も電話したのに出ないからその、心配しちゃったよ。メールにだって返事が来ないし」


 カーテンを固定し網戸にした後、玄関の扉を取り敢えずで閉めて、陸は訪れた経緯を説明しながら戻ってくる。さっきの慌てぶりからよほど心配して駆けつけて来てくれたことが伺える。そんな陸の説明にもあった携帯を開く。

 珍しく着信履歴が陸で埋まるほど来ていた。


「あはは、マナーモードにしてたから気づかなかったよ」


 優紀は携帯のマナーモードを解除して履歴をサッと確認し終えるとテーブルに置いて、その場で体育座りした。


「大丈夫か?」


 テーブルを挟んでゆっくりと座ろうとしていた陸が真剣な眼差しを優紀に向けて問いかけてきた。だから、優紀は即答できなかった。なんとなく嘘を付きづらくなってしまう勢いというものが陸のその目からはあった。

 そもそも、あの状態の優紀を見れば誰でもただ事ではないと思うだろう。


「えっと……」


 言葉をつまらせる。どう説明したら、そもそも説明していい内容なのか今までですらわからなかったのにここ数日の優紀が知ったことはあまりにも奇天烈なものだった。

 それほどまでに、ここ数日は現実離れしたと言えてしまいそうな日々を送っていたのだから。


「確かにさ」


 下を向いて言葉を選んでいた優紀に、陸は話しかける。


「確かに桜峰は菅原の認めた可愛い魅力的な女性だと思うよ。あの時、俺は菅原の惚れた女として自信を持ってもらうためにそう言った。覚えてる?」

「うん」


 優紀が記憶していた言葉とは多少違えども、それは覚えているものだった。その六年前もそしてさっきも焼き付いた情景で、そして今も言葉に支えられて優紀は前に進んだのだから。忘れるわけがなかった。

 そして、陸は言葉を続ける。


「でもさ、菅原の認めた可愛くて魅力的な君は何もその言葉通りってわけじゃない」


 優紀は陸の言葉に聞き入る。


「怒った君に、泣いている君に、はたまた悩んでいる君にさえ、魅力を感じていると思うよ」


 その通りだと優紀は思う。優紀にはそんな友香を嫌いになるところが想像できなかった。

 一時のすれ違いがあろうが、それを含めての友香が好きだと思える自信があった。


「それが菅原の愛した桜峰なんじゃないかなって」


 今にも落ちそうな涙を必死でこらえる優紀。


「だからさ、辛い時は辛いの一言でもいいから欲しいかな。そうでもしないと君を百倍にも楽しませるのに苦労させられちゃうからさ」


 優紀は思う。この男はくさいセリフを平気で言える、泣かせ上手なやつだと。

 最近流していなかった、それこそ六年ぶりにでもなるかもしれない嬉し涙が優紀の心を暖かくしてくれるのを感じる。


「大丈夫か?」


 ゆっくりと同じ言葉を投げかける陸。


「……ちょっと、ツラい」

「そうか」


 テーブルに突っ伏して涙を堪らえようとする優紀の頭を陸がそっと撫でる。ようやく出せた言葉はたった三文字だったが、昨日帰宅してから出した言葉の中で最も楽になった言葉だった。同時に、陸には敵わないなと改めて思う優紀だった。


◇◆◇◆


 多少の嘘を織り交ぜながらではあったが、優紀はいくつかのことを陸に打ち明けた。六年前の事件が忘れられないこと、純や紘和といった人間に駅前の事件をベースにいろいろお世話になっていたことなどだ。

 無理はあったが、六年前の事件が忘れられないのも事実だし純や紘和に振り回されていたのもまた事実だった。


「そっか。大変だったんだね」


 何かしらの形でも打ち明けるだけでも随分と楽になるなと思う優紀。もちろんその相手が長年連れ添う幼馴染である陸だったから安心出来たからというのもあっただろう。しかし、これを気に問題が解決に向かうわけではなかった。

 しかし、なんとかしないとと行動しようと考えられるまでには心が回復していた。


「今度はもう少し早く相談するね」


 陸はそれ以上は何も言ってこなかった。語った優紀ですら無理を感じる言い分にそれ以上踏み込まず、ただ応答するその姿は、まさに友香になって初日の踏み込み過ぎた質問をした時の反省を活かすようで、こちらを無用意に刺激しまいとする心使いを感じられた。

 直後、優紀の電話がまるで優紀の行動力が回復したタイミングを見計らったかのように鳴った。

 携帯を手に取り発信相手を確認すると、それは紘和からの電話だった。


「一緒に聞いてもかまわないかい?」


 陸はそっと優紀の肩に手を置きながら聞いてくる。

 優紀はコクリと頷くと電話をスピーカーにして出る。


「呼ばれず飛び出すピギャギャギャギャ。残念、幾瀧純でした」


 普通なら問答無用で電話を切るところだった。しかし、優紀は純がこういうやつであることを知っているため特にツッコむことなく話を進めようとする。

 強気と表していいかも分からないが、優紀が純に気圧されることなく率先して話を進めていこうと思えるのは、今こうして傍に頼りになる陸という存在がいるからだろう。


「もしもし、どうかしましたか?」


 ガガッと電話を取り合っているのだろうか、雑音が聞こえる。


「もしもし、お騒がせしました。天堂紘和です。桜峰友香さんのお電話でしょうか?」

「はい、桜峰です」

「昨日の今日で突然のお電話、申し訳ありません。昨日のことで新しく進展がありまして、メールでも地図を後で送らせていただきますが、今すぐに来てもらいたい場所があります」


 声のトーンが徐々に真剣なものに変わっていくのがわかった。しかし、来てもらいたい場所とは一体どこなのか、優紀は見当もつかないでいた。

 その伝えたいことに関係ある場所なのか、それとも昨日のように天堂家が用意できるような特別で密談をする時に用いたいような場所なのか。


「一昨日のこともあるので誰の監視もない、とある廃工場です」


 それは優紀のどの予想にも反した場所であり、何かが起こりそうと直感的に感じさせる場所だった。

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