第四筆:災は投げられた

 偶然とは恐ろしいもので、それこそ偶然はなくあるのは必然だという言葉が頭をよぎる程度に作為的な何かを疑ってしまう。つまり、紘和との遭遇は電車に乗る必要すらないぐらいに早いものとなったのだ。

 距離にしてアパートを出て数百メートル、駅のロータリーで合うことが出来たのだから。


「大丈夫ですか、桜峰さん」


 しかし、それは前置き通りまったく予想だにしていなかった再会の仕方であった。転んでいた優紀をかばうように、突然目の前に現れたからだ。なぜ、転んでいて、かばわれる状況にあったのかと言われるとそれはそれは優紀の理解を再び超えた状況であり、これまた現実味を感じさせない過激なものだった。


◇◆◇◆


 起きた時間に反してアパートを出る時にはすでに七時を回ろうとしていた。女性の身支度は時間がかかるを身をもって経験できた気分であった。それでも普段ではありえないぐらい早い時間からの行動であることに変わりはない。ただ、当初の予定とは異なったので優紀は電車の時刻表を調べ直しながら歩いていた。早く出た理由には、早く紘和にあって問題解決の糸口がないか確かめたいというのももちろんあったが、陸と通学時に鉢合わせないようにするという意図もあった。だからかもしれないが、隠し事をしているような気分であることと、自分のファッションセンスへの疑問、中身が男である自分が女の服を着ていることがやはり気になり、周囲の目を気にしながらコソコソと早足に移動していた。そして誰ともすれ違うことなく最寄り駅のロータリーまでたどり着くのだった。

 そう、誰ともである。仮に道中ならばまだ問題はなかったかもしれない。しかし、駅前にもかかわらず、誰もいないのだ。深夜や早朝ならばその可能性はまだあるかもしれない。だが、今は七時を少し過ぎた時間であり通勤の時間帯に差し掛かっていても不思議でない時間であることは間違いなかった。この異変に優紀はなんとも言えない恐怖を感じ始めていた。

 そして、その恐怖は音となって突然現れる。駅の方を見ていた優紀の背後からキキィと複数のブレーキ音がしたのだ。その音に反射的に振り返った優紀は五台の黒いワゴン車が停まっていることを確認した。そして次々とドアが開くと中から黒いスーツで身を包みサングラスをしたおよそ日本人とは思えない容姿の男女が二十人出てきた。目に見えるだけなのでプライバシーガラス過ごしにはまだ複数人いることが予想できた。

 そして、先頭に立つ男が話しかけてきた。


「桜峰友香さん、ですね」


 流暢ではあるが日本人ではないとわかる訛を感じる発声だった。そして、これが名前の確認を目的としたやり取りではないと即座にわかった。張り詰めた緊張感にこの誰もいない状況を人為的に作為的に作ったであろうことから間違いなく友香と知った上で襲って来ているのだと。

 脳内を警報音が埋め尽くす。


「違いますけど」


 実際には本当のことを言っているという本人だけがわかるシュールな返答は厄介事を避ける時につくお決まりのセリフであった。そして、そのセリフをスタートの合図に優紀はためらわず駅の方へと全力で走り出す。とにかく逃げなければと。友香を守るため、逃げ切る妙案があったわけではないが、逃げなければ始まらないと走り出した。しかし、二歩目が宙を浮いた瞬間、ガクッと前に進まなくなる。同時に右腕が掴まれている感覚があった。優紀の記憶では一秒足らずで間合いを詰められて捕まる距離ではなかったはずであった。下半身のバランスが崩れ転びそうになるが腕を引っ張られているためそれすらままならない。

 優紀は体勢を崩しながらも後ろに顔を向けると確かに先程質問してきた男がそこにはいた。


「手間を取らせないでいただきたい」

「は、はな」


 離せと言葉が続かない。想像の範疇を超えられた行動への驚き、そして何よりも純粋な遭遇したことのなかった恐怖が優紀の中にはあった。怖いのだ。眼の前の人間が自分よりも力の強いものであり、捕まったら何をされるかわからないという恐怖が刻一刻と強くなる。だから腕が、足が恐怖で震えている。

 そのために思うように身体は動かせないようになっていた。


「大人しく、ついてきてもらいますよ」


 グイッと勢いよく引っ張られる。抵抗しようと踏ん張ったはずなのに華奢な身体はその勢いでズズッと簡単に引きづられてしまう。しかし、その危機感は優紀を友香の身体を守らなければという思いに結びつけ、どうにかして抜け出さなければと右足を上げた。そして全力で前に蹴り抜いた。

 ドンッとコンクリートに当たったような感触を得る。


「手荒な真似はしたくないのですが」


 手応えが一切なかった。女の力がコレほど非力なのかと感じた瞬間だった。

 結局、この身体を守ることすら出来ないのかと、中途半端な己に再び直面する優紀。


「たす……けて」


 どうしようもない絶望感に優紀はただ助けを求めることしかできなかった。

 誰でもいいから友香のこの身体を守ってくれと。


「離れろ、悪党が」


 その声は上から降ってきた。加えてドンッという人が降りてきたとは想像しづらい着地音がその場にする。そして、優紀は聞こえた瞬間に引っ張る力がなくなったせいで転んでしまう。どうやら掴んでいた男は、割って入ってきた男を一瞬で視認したのか、警戒、もしくは着地に巻き込まれないように引いていたのだ。

 そして転んだ優紀は声の主の背中を確認した。


「大丈夫ですか、桜峰さん」


 今、最も会いたいと思っていた紘和、その人だった。


◇◆◇◆


 突然の来訪者の出現にスーツ姿の男女が優紀の知らない言語で喋り始める。


「昨日ぶりですね。それにしても、間に合ってよかったです」

「は、はい」


 チラッと後ろを振り返り優紀の、友香の無事を確認すると、紘和は前を向き、再び右腕を前に左足を一歩引いて構える。何か武器らしい武器を持っているわけでもないのに、構え直したのだ。

 すると、先程の男を筆頭に誰もが姿勢を低くしたりと各々戦闘態勢を整えているのが伺えた。


「まさか、本当にあなたのような人間が来るとは思いませんでしたよ。蝋翼物の三本が一つ【相乗兵器:最果ての無剣】を受け継いだ最強が来るとは、ね」

「でしたら、そちらこそ余計な戦闘は避けるべきではないでしょうか? 他国で白昼堂々と人さらいまがいのことなんて外交問題にまで発展しますよ。それに万が一にでもこんな場所で最狂と私が激突してしまっては……いや、困るのは結局戦力差的にそちらになるのでしょうかね」


 優紀の知らない単語が飛び交う。しかし、知っている単語もあった。サイキョウである。三カ国で保有されている、一人で世界を相手にできるとまで言われている人間三人に与えられている称号のことである。日本の最強は話の流れから目の前にいる紘和。そして残りはロシアの最狂、エカチェリーナ・ボチャロフと最近代替わりしたアメリカの最恐、チャールズ・アンダーソンであり、その称号を持つだけで後の歴史に名を刻むことは決定しているといっても過言ではない実力者ということである。紘和がその称号を受け継いでいたことは恐らく世間に公表されていることではないのだろう。優紀は聞いたこともなければ、その称号を聞いて真っ先に思い浮かべる人間はやはり未だに紘和の祖父である一樹だからだ。一方で、会話の中で出てきたサイキョウ同士の衝突からわかったことは優紀の知らない言語、つまりここでは日本語と英語ではないという点からのこった選択肢、ロシア語であると逆算することができ、ここにはロシアの最狂が来ていると推察することができた。それにしても、本当に人間一人が世界を相手にできるとは到底想像できなかった。

 優紀にとっては、否多くの人間にとってその称号は計り知れない権力や財力、武力を持った人間を指すことと同義だと思っているからだ。


「憶測で物事は語らない方がいいですよ」


 集団の先頭の男が紘和の言葉を否定する。


「立場というものがあると思いますが、そういうのは結構です。私も国の命令でも、自分の意志でもなく、この場では友人と呼ぶ方が納得していただけるから言うだけで本当はそれすら恥にあたる人間に顎で使われてココに来ただけですから」


 しかし、紘和は国際問題に発展することを隠蔽する様な発言は心底どうでもいいといった感じで身内の話を続ける。


「こいつが随分と、性格を始め人間の域を超えた常識はずれな存在でして。それでも括りは一般人なのですが。あなた方という存在に加え、そのバックであるボチャロフさんが来ていることを掴んでいるんです。信じていただけないならば連絡を取ってみてください。きっと彼女の目の前には今、幾瀧純という奇人が人を馬鹿にしたようにキャッチボールの成立を許す気のない会話を繰り広げているでしょうから」


 再びロシア側がざわつき始める。後ろにいた数人が車の中に戻っていくのが見える。恐らく確認とやらをしているのだろう。場が一層の緊張感に満たされる。すると、優紀の近くで突然携帯の着信音が響く。それが紘和の方から聞こえてくると感じた時、ズボンのポケットから携帯を取り出し、開きながら怪訝な顔をしている紘和がいた。

 ため息と共にボタンを押すと優紀と紘和の間ぐらいの距離に携帯を滑らせた。


「呼ばれず飛び出すピギャギャギャギャ。ねぇ、あの素っ頓狂な顔の写真欲しい? うわぁ、睨んでる、凄い睨んでるよ。これいくらで売れるんだろうな。ウケる、めっちゃウケる」


 スピーカー状態の携帯からは独特のもしもしと思われるフレーズと共に純の声が聞こえてきた。


「まったく、俺のことどんな風に紹介したんだよ、紘和。最狂がめっちゃ考えてるように見えるんだけど。それだけ心が冷静なんだけど。ハハッ、称号なんて当てにならんわ。それで、電話に出たってことはもうゆーちゃんの救出はできたの? やぁやぁ、電話越しだけどまた会えたね、ゆーちゃん。減気なんだろうけど元気? 電話越しに同音異義ってどう考えても質が悪いよね。それにても、一度遭ってるから俺たちの印象がとりあえず知った顔の救援に見えてホッとできたでしょ? あぁ、でもこうやって聞くとまさか知ってて恩を売るためにタイミングを見計らってたか猿芝居だと思っちゃうかなぁ。でも、一応言っておくとゆーちゃんが襲われるって知ったのは今朝方だったんだよ。信じて欲しいなぁ。まぁ、信じてもらえなくてもいいけど、お互い友好的であったほうが得だとは思うよ、ねぇ。それじゃぁ後の雑用はそこの紘和に任せてあるから、まぁ、安心してよ。一応そいつ最強らしいし。じゃぁ、頑張ってくださいな」


 ぷつんと電話が一方的にかかってきたのと同様に一方的に切られる。


「まったく」


 額に右手を当てコレでもかと言うぐらいヤレヤレ感をアピールする紘和。すると、カタッという音が携帯のある方からする。優紀は注意してその方向に目を凝らすと、携帯がキレイに真っ二つにされているのを確認した。仮に滑らせた時に傷がついていたとしても真っ二つになるほどの衝撃があったなら先程の通話ができるはずがないだろう。だからこそ、何故割れたのかという謎が残る。

 優紀は手で覆われてよくわからない紘和の顔が気になた。確固とした証拠があるわけではない。しかし、この謎を引き起こしたのはきっと紘和なのだろうから。そして、これが最強たる力のほんの一部であると優紀が知るのはそう遠くないことだった。


◇◆◇◆


「まさか、ですね。本当に一般人なんですか、彼」

「実に残念なことに。あなた方のような力も、私のような恵まれた身体や蝋翼物を所持しているわけではありません」


 現状の確認が済んだのだろう。

 先ほどとは打って変わって素性を隠すわけでもなく、より臨戦態勢として銃や刃物を各々が持ち寄り相対していた。


「しかし、随分とお待たせしてしまいました。アナタなら逃げることも可能だったでしょうに」


 出方を探るためなのだろうか。

 世間話のような会話が始まる。


「おっしゃるとおりでしょう。しかし、なぜ正義が悪に背を向けなければならないのですか」


 本人の尺でしかきっと測れない理屈が飛び出す。理想とでも言うのだろうか。

 しかし、それにしては正義という言い方に、それが当然であるべきだという強要めいた圧力があり、理想を唱えようとする声というには違和感のあるものだと感じた。


「それに彼女の安全の確保はもちろんですが、あなた方の足止め、いえ、実力を見極める必要もあるということでしたので。きっとあの奇人もボチャロフさんの実力が測れると楽しんでいることでしょう」


 返事は穏やかであるが、徐々に言葉から挑発めいた表現が見え隠れし始めていた。

 紘和は未だに右手で顔を覆っているためその表情が読み取れない。


「我々は蝋翼物に対抗する手段の一つとして生み出されています。あなたにそう簡単に遅れを取るような人間ではありません。それに何かに秀でているとは言え、ただの人間にそもそもボチャロフさんが劣るわけないじゃないですか」


 パンっと乾いた音が駅ロータリーに響き渡る。優紀が、それが銃声であると気づくのは自分から数メートル離れたコンクリートにめり込んでいる真っ二つに割れた銃弾を紘和から視線を外して目撃してからだった。当然である。いくら知った音であったとしても実物を耳にする機会など日本にいれば普通はない。当たり前のように使用されたところで理解が追いつくはずがない。

 しかし、その射撃を結果から言うなら紘和は弾いたことになる。


「もちろん、実力を測るだなんて必要のないことなんだ。お前たちみたいな小悪党は束になったところで勝てやしない。赤子の手をひねらないようにするなんて実に意味のないことだ。だから、実力を測るといったが別に生かしてやるなんて意味じゃない。足止めがいつだって撤退戦だと思うなよ」


 左右の手首で何かを回すような仕草をしながら喋り続ける紘和。丁寧な言葉遣いからいつの間にか消え、本性を剥き出ししたような演出をする。

 そして、見えた顔からは女子トイレで初めて会った時の純と対峙していた時の怒気と気迫が殺意を放っていた。


「どいつもこいつも俺をナメやがって。実力がないのはわかってるけど、お前らと同じ土俵で測られるのは癪にしか触らない。俺に遅れを取らない? 俺に? 俺の正義に? ハハハッ」


 口調がエンジンを吹かすようにどんどんと荒々しくなる。


「まぁ、それでも俺は、出来うる正義を為して、悪を滅するだけだ」


 そして冷静さを取り戻したような淡々と最後の言葉を口にした途端、凄みが増す。


「無剣一刀流」


 紘和のその一言で状況は一変した。気づけた人間とそうでない人間に訪れた差は縦にキレイに裂けたか裂けていないかであった。裂けた人間は、その一瞬で血を噴水の様に飛び散らすと左右に身体を地面に打ち付ける。その衝撃で内蔵が身体から飛び出る。そして声を出すこともできず、しかし手足を痙攣したかのように小刻みに動かしている。

 ドロリと血液が油のようにヌメリけある広がりをロータリーに描いていく。


「おごるなよ。為すべきことがある人間はいつだって挑戦者なのだから」

 

 最強たる力が顔を出す。


◇◆◇◆


 ロシア側から戦況の報告が飛び交う。だからといって、誰もが怯んでおらず。この凄惨な状況に活路を見出すために行動していることがわかる。優紀は悲鳴を上げることもできずにその地獄のような光景に腰を抜かす事しかできなかった。生まれてこの方、こんなに現実離れした現場に八這わせたことはなかった。死者を出した事件の悲惨さに優劣をつけることはできないだろう。仮にその基準があるとしても死人の数ではないはずである。しかし、この足がすくみ立ち上がることもましてや這いずり逃げることもできない様な感覚の原因は間違いなく広がる血溜まりの数であった。そして、優紀にとっては確実に死者を出した事件の中で最も悲惨な場であった。ニュースで見る殺人事件よりも、戦争の資料映像よりもである。

 身近で嗅いだことのある匂いが強烈に恐怖心を煽る。だからだろう、自分の身に何が起ころうとしていたなんて気づくわけもない。物量で紘和の攻撃を掻い潜ってようやく優紀の前にたどり着いた人影が襲おうと己の身体を覆っていたとしてもだ。それほどまでに受け入れたくない現実が、背けたいと思う意思が、狭い視野を自己防衛手段として完成させていた。

 ピチャッと顔に何かが当たっていた。感覚が自分の内側に向いているせいなのだろうか、ツーッと滑らかに鼻筋を始め何箇所も辿っていく液体の感覚がはっきりとわかる。

 そして、それが決して水といった類のものではないことも。


「少し待っていてください」


 優紀は現実に引き戻されるように声の主を確認するべく顔を上げる。そこには優紀の身を案じたわけでもない、戦闘の終了までにかかる時間だけ待たせることに対する申し訳無さそうな顔と安堵させようとしている向ける優しい顔が歪に溶け合った紘和の顔があった。実際に歪だったかは問題ではない。この凄惨な現場で見る顔がただひたすらに不気味に見えたのだ。ドチャと隣に投げ捨てられた者がコンクリートに打ち付けられる音がする。過去に聞いたことのある、人間が力なく地面に叩きつけられる音だ。左手に飛び散った液体の感触がある。友香が吹っ飛ぶ情景がフラッシュバックする。何も考えられなくなる。怖いと思ってはいる。しかし、その怖いが追いつかない恐怖の情報量が優紀に思考するというスキを与えない。

 実に呆けていた様に見える優紀の顔に、紘和は軽く頷くとすぐさまロシアの群衆へと飛び込んでいった。なんだか人間でないものがちらほら見える様な気もしたが、それが視認できないほどに頭は働いていない。そもそも助けに来た人間が人間なのかすら今の優紀には怪しい認識だった。その最強の背を見ながら優紀は右手の人差し指で自分の鼻の頭を撫でる。ねっとりとした感触。ゆっくりと確認すると、やはり赤かった。誰かの血である。水と違い、指で拭き取ったはずなのに鼻には未だに血が辿った部分に湿り気がしっかりと残っている。

 そしてその誰かは左をゆっくり振り返ると横たわっていた。口を開き、悲痛を叫べないままの状況のまま、目を大きく見開いて半分が横たわっていた。その死体から出た血なのか、それより前に転がっていた死体が染めていたアスファルトの上の血なのかわからないが、とにか赤黒い血が死体の衣類に吸収されて染まっていく。それでも吸収しきれない血がさらにゆっくりとゆっくりと血溜まりを拡大している。スーツは湿ったように色を変化させ、中のYシャツまで赤黒い色が這い上がっていた。優紀はショックから涙が出ていることに気づく。次の瞬間、全ての感覚が戻ったような気がしたのと同時に口に手を当てる。そして胃からこみ上げてくるものを必死で抑えようとした。


◇◆◇◆


 【最果ての無剣】。神に並ぼうとして作られたとされる世界に三つある蝋翼物が一つの相乗兵器。無色透明で所有者の知りうる様々な逸話や神話になぞらえた能力を有する刃物をありとあらゆる場所に重複を許さず召喚する。これが蝋翼物を知っている人間が知っている【最果ての無剣】の情報である。知っている事自体が、その人間を八角柱に在籍する人間のいる国の重要な組織に所属していることを意味しているほど秘匿された情報。つまり、縦に引き裂かれたメンバーはその出現を予期できなかった、もしくは力量足らず避ける動作が間に合わなかったために上空から振り下ろされた何かに切り裂かれたのである。

 これだけで先程まで口を開いていた男は、紘和の言葉を理解した。決して油断していたわけではない。ただそれでも足りなかったのだ。失態と呼ぶにはあまりにも力量差のあった作戦。どこで誰が見ているかわからないという理由から本来の力を全力、否、有効に活用することがエカチェリーナから普段より強く制限されている。それをすでに破っている者もいていわゆる切り札を切って対抗し始めているにも関わらず敵わない。そもそも、本来ならば紘和を彼らとエカチェリーナで押し切る算段だった。それがただの一般人の介入により目的が達成出来ないでいた。しかし、ロシア側としても戦いを始めてしまった手前、仕入れた情報通りならば貴重であるその存在、友香を逃すわけにはいかなかった。

 男は脹脛に力を込める。そして、跳ぶ。蹴ったアスファルトが軽く舞う。それほど瞬発的な加速。さながらカエルが人間サイズになったら繰り出すような勢いを連続で出しながら一瞬にして乱戦の中紘和を超え目標の女の前に着地する。誰か一人が持ち帰ることに成功すればそれでいいのだ。少しでも早く動けと。ここに着た要領のままアスファルトを蹴り、そのまま女を抱えればいいのだ。

 後は一直線に最短を跳んで逃げ切ればいいのだから。


「ッ」


 ここで男の意識は途切れる。何故か眼前にいた紘和がいて、驚いたこととほぼ同時だった。


◇◆◇◆


 隊長格の男のあっけない死に様に残った六人は、一歩を跳んで進む紘和の地面が陥没しているのを確認する。隊長格の男のような力を溜めて跳ぶのとは違い、自分がぶつけた力からの反発から跳んでくる紘和。逃げる事も考えたが誰もが隊長格の男のように脹脛が強いわけでもない。加えてココまで来た車はすでにキレイに半分に切られている。目的の達成と自分の命を天秤にかける判断力が頭をなくした部隊には求められた。

 しかし、そんな二択を想像した時点で紘和から距離の近い人間が、手には何も持っていないように見えるその距離感の狂わされる一振りに何も出来ず命を落としていた。だから、少しでも紘和から距離のあった三人が背を向けることに成功した。

 残りの二人は、紘和が右手を振り上げていることから迫っているはずの一振りを押さえ込もうと一人は防御の姿勢を、もう一人は拳銃を放つ。しかし、銃弾は出ることなく拳銃は暴発する。すでに何か見えない刃物が銃口を捉えていたのだろう。暴発の音とともに引き金を引いていたはずの腕は二つに裂けていた。一方、見えない何かを捉えるべく構えていたもう一人は真剣白刃取りの要領で確かに何かを手で捉えた。

 そして捉えたまま勢いを殺すことが出来ず、紘和に振り抜かれ二つに避けた。


「ぐっあぁあああ」


 この時、初めて痛みに苦痛を訴える声を出せた、腕を引き裂かれた女は、絶叫したまま紘和の左手が顔面を覆おうとしているのを見た。そして、バキッという頭蓋の割れるような音がしたのと同時に意識を地面に持っていかれる。


◇◆◇◆


 ここまで紘和は己の身体的特性と見えない刃物を出現させるだけで蹂躙していた。それほどの力量差は始まる前からが言っていたとおり明らかだが、もう少しロシア側の条件が違えば善戦が出来たのではないかと内心考えていた。残り三人を殺せば、足止めの必要もなくなる。紘和は手にした何かを逃げる三人の足元めがけてブーメランを投げるように低く投擲する。

 一人がタイミングよくジャンプして回避する。どうやら視野が広いのだろうと紘和は思うと残り足首から下を切り落とされ、地面に打ち付けられた二人の頭上に見えない刃物を出現させて落とした。二人の頭から血が吹き出すのを確認すると視野の広いとみられる最後の一人に照準を合わせて、走力の差でグイグイと距離を縮めていく。紘和は届きそうな距離まで来ると首を捉えようと左手を伸ばした。


◇◆◇◆


 死んでたまるものか。彼女はそう思いながら逃げていた。死んだ仲間のために現在の最強のデータを本国に持ち帰ること。少しでも情報を、任務が失敗するならばそれを前提として次に繋げるための選択をしなければならいという使命感のもと飛ぶように走る。幸い、視野は広く足もそれなりに速い。だが、後ろに見える最強はその速さすら力任せに見える一歩でどんどん距離を縮めてくる。

 そしてついに射程圏に入ったのか左腕を伸ばしてきたのが見えた。だから彼女はそのタイミングに合わせて肩を右に傾け、大きく左側へカットした。こんな小細工がどこまで通用するかはわからない。でも、少しでも時間を稼げれば、最狂が間に合うかもしれない。そう思えば思うほど、どんな小細工でも弄そうと思えたのである。最悪、彼女にも切り札がある。

 しかし、彼女は見て聞いた。最強は確かに一瞬右へ傾いていた。明らかに両足は宙に浮いたままである。だが、宙で何かを蹴り飛ばしたかのように、その証拠にバンッという厚い金属板を叩くような音がすると左へと跳んできたのだ。そして彼女は背後から首を抑えられる。すぐに殺されないことから何か情報を引き出すつもりなのだろう。

 当然だ、最後の一人ということは相手からすれば最後の手がかりでもあるのだ。


「紘和、そこまでだ。取り敢えず、エカチェリーナちゃんは俺が撮影した写真を削除することで金輪際、特別措置が日本側からない場合に限り、入国しないことを約束してもらったから。ほら、弱い者いじめしな~い」


 救いはまさかの敵から差し伸べられたのであった。


◇◆◇◆


 紘和が最後の敵の首根っこを掴み殺そうとした時、前方から手を大きくバツにして掲げながらスキップしてくる純が見えた。

 近づいてくるとボチャロフの入国制限を条件に生き残った敵を見逃せと言ってきた。


「ボチャロフを追い返したのはまだわかる。君が殺したとなれば国際問題では済まないわけだし、そもそも均衡が崩れる」

「崩れたほうが面白くね。もしかして、俺、選択肢間違ったかなぁ」


 誰が聞いても常軌を逸した会話だった。

 特に彼女は自分のボスに当たるボチャロフを殺すかどうかの話を平然として、それが普通にできる可能性のある一般人の存在に背筋が凍るような思いだった。


「問題はそこじゃない、こいつを生かす理由がないことだ。目の前の悪を野放しにする理由がどこにあるんだ」


 そして、彼女は紘和の言葉に更に驚かされる。情報を聞くために生かされていたわけではないということに。間に合った純と呼ばれる人間が何らかのアクションを起こしたからこそ生きながらえているということに。

 こいつらは何かがズレている。


「まぁ、目的は果たしたわけじゃん。ゆーちゃんを救ってエカチェリーナだけ本国にお帰り願う。だから、あれだ。お前への嫌がらせだ」


 彼女はそのセリフが逆鱗に触れたのだとわかった。


「嫌がらせで、済ませるのか。お前は俺への嫌がらせで対処の仕様があった敵を、見逃すのか。ふざけるのも大概にしろよ。俺は」


 純は突然フラフラと身体を揺らし、まるで踊っているかのように振る舞い始める。

 しかし、それが金属音、地面に刃物が突き立てられているのであろう切れ込みの出現から攻撃を交わしているものだとわかる。


「わかってるんだろ? ストレス発散はやめろよ。俺が仮にお前がこの約束を破ってその女を殺したところで関係が変わらないことも、お前がここで全力を出したとしても勝てないのがわかってるからこんなふざけた得物の出し入れしか出来ないんだろ?」


 そんな純にとって容易く勝てる紘和という存在は、蝋翼物に対抗しうる、先の大戦でも活躍した自分達をあっさりと殲滅した。あまりにも容易くだ。

 それは同時に彼女がいかにただの人であるかを、強者ではないことを、忘れていたことを思い出すように再認識させられた。


「ほら、お前は物分りだけはいいんだ。つまらないのが長所だろ?」


 背後から舌打ちが聞こえると首から圧迫感がなくなり前に転びそうにでる。

 すると、彼女の目の前には純がいた。


「怖かったろ? 頑張って強くなるんだぞ」


 その、本心から言っているであろう優しい言葉に彼女は後ずさりした。こいつらは狂ってるという純粋な異物を前にして出る恐怖から。


◇◆◇◆


 少し遠くに見えていた人影がゆっくりと優紀の元へと戻ってきた。近づくに従って死体は霧散し、血溜まりは蒸発していくように消えていった。弾痕や亀裂なども何事もなかったかのように元通りになっていく。

 その人影は優紀の前で止まると実に穏やかな声で話し始めた。


「お待たせしました」


 優紀は紘和の言葉に返事ができないでいた。余韻は未だに身体を強張らせていた。

 加えて目の前の何もなかったかのような情景を見るとさっきまでのことが夢だったのではないかと思えてくる。


「今日はゆっくりと自宅でおやすみください。そして明日なのですが、今日のことを詳しく説明したいので是非、我が家へいらしてください。不安でしたら迎えを出しますし、誰かと一緒に来ていただいても構いません」

「は、はい」


 そう答えるのが精一杯だった。そして、本来の優紀の目的であった紘和との連絡先を教えられると、家までおぶられて送ってもらうのだった。

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