第三筆:嬉々的状況

 結論から言えば事実関係が漠然とだが確認できただけで、それを収獲といえばもちろん収獲であるが、前進には至らなかったというのが本音だった。しかし、気持ちが上向きになったのもまた事実である。優紀は帰りの電車の車窓に映る夕日をドアにもたれかかりながら見る。そして、可能性を整理する。

 墓参りでわかったことは、現状、菅原優紀は、原因はまだハッキリとはしていないものの、おそらく友香をトラックから庇い、そのままひかれて死んだのだろうということ。つまり、この問題に対して解決しなければならないことは三つある。

 一つはこの身体の記録である。思考や記憶に至るまで誰が信じずとも間違いなく今の記録は優紀である。すなわち、この二十年間の友香としての記録はどうなっているのか。特にここ六年間の記憶はそもそも存在していないはずで、自分の行動が代替されている可能性もちらほらありはしたが、全てがそうだという保証はどこにもない。もう少し遡れば、客観的に友香が何をしていたのかは恋人としてわかる点もあるが、それすら実際のところは、今この優紀が存在する世界では不確かなものでしかない。

 二つ目は一つ目と被るところはあるが、人間関係の把握である。菅原優紀とは違う付き合いがあったとしてもおかしくない。最悪、陸は友達以上であるわけで、交友関係自体は広そうなのでスマホの人脈をたどればなんとかなるかもしれない上、一つ目の課題も断片的にしろ解決に向かうと考えられる。とはいえ、その過程でもしも陸が恋人以上になっていたらとは想像したくないし、陸以外にもその可能性がないわけではない訳で発覚するのが少々怖いところではあるのだが。

 加えて、幸いにも問題はまだある。幸いにもというのはその問題が、自分の今の状況を好転させることが出来る可能性を秘めているという意味である。その三つ目がある意味本命でこちらを解決することにあると言っても過言ではない。少なくとも最初の課題はここに結び付けなければならないのだから。それは優紀が友香に姿を変えた瞬間に発生していたと考えられる五分間の天気雨の間に出現した黒い虹だった。これが自身の異変に結びつかないわけがないと確信していた。とはいえ、このもっとも重大な問題がもっとも解決から遠いのも当面の問題となるのは間違いないことだった。さらに、蛇足で加えるなら会いたくないが、純と一樹の二人組にもきな臭さが消えないことから何かの手がかりになればいいと考えてしまう節がある。

 怪しいが連鎖する感覚である。


「次は……」


 優紀は最寄りの駅名のアナウンスを聞くと、背をドアから離し、降りる準備をするのであった。


◇◆◇◆


「あら、桜峰さんちょうどいいところで遭ったわね」


 いろいろ思考を巡らせているといつの間にか自宅であるアパートに着いていた優紀。

 ふと、今更になって果たして友香は自分が住んでいた場所に住んでいたのかという疑問もあったが、声の主とそのセリフから取り敢えず、同じ場所に住んでいたことだけはわかった。


「大家さん」


 そう、先程呼びかけた声の主で大家でもある花牟礼彩音が自分の、友香の苗字を呼びながら自室と思われる場所の前に立っていたからである。優紀の住む花牟礼ハイツはニ階建て全十部屋からなる築三十年のアパートである。彩音は優紀と陸が越してきた頃に彼女の父からアパートを引き継いだ人であるため歳ではあるはずだが、それを感じさせない若さを持つ、所謂美魔女というやつだった。一階の一〇一号室に住んでいて、たまに入居者に夕飯をおすそ分けに来てくれる。ちなみに現在は一○五号室に陸、ニ○一号室にサラリーマンの男性が一人、ニ〇三号室にOL女性が一人、そしてニ〇五号室に優紀が住んでいる。

 と、ご近所づきあいは把握できる程入居者は少ない状況だった。


「お赤飯余っちゃってね。いるかどうか聞いて回ってたところなの。でも今は桜峰さんしかいないみたいだからいろいろおかずも持って来ちゃうわね」


 彩音はにっこりと笑いながらそれだけ言うと部屋に戻っていく。どっと疲れたということもあり、今の優紀にはありがたい話であった。


◇◆◇◆


 部屋に入ると自分の部屋ではないような居心地の悪さを優紀は感じていた。慣れた手つきで台所を使う彩音はおいておき、それもそのはずでここは友香の部屋である。優紀の部屋と同じであるが、内装は全くの別物。ベッドの布団は整い、可愛い人形が数体ならび、化粧品や観賞用の植物、明るい色のマットと女性らしいの一言に尽きる部屋の配置であった。

 優紀は鞄を取り敢えず置くと、座らずにそわそわと部屋をうろつき確認してまわらずにはいられなかった。


「私も食べてっちゃうわね」


 優紀と陸は学生ということもあり、これでもかと食事に関しては彩音におせっかいを焼いてもらっている。嫌ではないという理由で二人共すなおにそのおせっかいには甘えていたためこういったケースは珍しいものではなかった。

 ただし、優紀は部屋があまり片付いてないということもあり、普段は彩音か陸のところで食卓を囲っていたのだが。


「よろしくお願いします」


 そう答えた優紀は座る前にカーテンを閉めてしまおうとベランダに近づいて気づく。それはきっと朝にでも干していったのであろう洗濯物の数々だった。

 気恥ずかしい。それが第一印象だった。照れともとれるそんな感情が先走りかけたが、優紀は一呼吸してそれを落ち着かせる。そして、流れるように窓をあけ、取り敢えずハンガーに掛けたまま、洗濯バサミもこれといって外さず物干し竿から流れるように引き抜く。顔はそっぽを向きながらレースのなめらかな感触やカップのやわらかい感触といった男物の服には基本ありえない肌触りを手に感じ取りながら、腕いっぱいに洗濯物を抱え、部屋の中に落とした。そして、すぐさま窓を閉める。

 友香というよりも女になってからと言うべきか、女性経験が中学生での経験で止まってしまっている、デートで手をつなぐくらいの感覚しか持ち得ない優紀にとっては、まだまだこうした初な反応をするのだろうなと今から気苦労が絶えない話なのである。きっと誰でも性転換すれば何かしらの違いにいちいち反応と言うか感想を抱くだろう。

 まぁ、そもそもそんな経験ができる人間がこの世にどれだけいるのかは知らない話だが。


「準備出来たから……あっ、片付けてていいわよ」


 配膳でも頼もうかと顔を出した彩音は洗濯物を取り込み終えていた優紀を見てそのまま顔を引っ込めてしまう。


「だ、大丈夫です。夕飯済ませてからしちゃいますから」


 優紀は大量に積み上げられた洗濯物は後回しにできると思い即座に台所へ向かうのだった。


◇◆◇◆


 赤飯に大根の煮付け、ワカメの味噌汁が今夜の夕食だった。


「いただきます」


 二人で丸テーブルを囲み座る。

 別に普段と変わったことはないのだが、今は優紀が友香である状況なだけにどんな会話をしたらいいのかと考えてしまう。普段なら課題や講義が難しいだったり、テレビを話題に雑談に老けていた気もするが、テレビのついてない部屋で優紀よりもしっかりとした生活を送っているであろう友香がそんな愚痴のような話を出すだろうかとなってしまう。

 かといって、落ち着かないという気持ちから何か喋っておきたいと考えてしまう。


「そういえば、今日はお祝いごとでもあったんですか?」


 結局らしさを出せる会話を思い浮かべることができずに、赤飯に紐づけた質問を選択する。


「身内にね、子供が生まれたっていうんでね。せっかくだからと思って炊いてみたの、今日は何か変なこともあったし、そういう意味でもお祝いに預かるのはいいと思ってね」

「そうだったんですね」


 会話はそこで途切れる。いな会話の膨らませ方がわからずに途切れさせたというのが正しい状況だった。そこから意味のない緊張感が支配したまま、時間は過ぎていく。そして、今日はなぜだか彩音も寡黙に食を進めるのだった。

 しかし、その疑問もすぐに解決することになる。


「どうかしたの、桜峰さん」


 それはあまりにも突然で、女の勘というやつは凄いと思った。

 加えてそこまで優紀は神妙な面持ちだったのかと思わされた。


「え?」

「人にしゃべるだけでも気分って晴れるものよ。無理にとは言わないけど」


 優紀はそんな優しい言葉に、反応を困らせる。


「そんなに、変ですかね」

「すごく思い悩んで、すごく大変だったんだろうなって顔してたわよ。それに洗濯物だって、いつもみたいにパパッとできてないし」


 すぐに言葉が浮かばない優紀。普段から気にかけられている相手だからこそわかるものがあるのだろう。だからこそ、陸同様に心配を掛けたくはないという気持ちがあった。とはいえ、陸よりは実際距離のある存在、それは親密の点でも歳の点でもいえることで、だからこそ言いやすいような気もした。とはいえ、本当のことを言うにはあまりにも突拍子がない。そこで、自分の変化を除いた、墓参りでのことを語ろうと決めた。ある程度解決したことでもあるが、悩んで苦しんでいた感情の部分である。

 話すことでより楽になることもあると思って優紀はゆっくりと話し始める。


「それが、今日は昔亡くなったかの、彼氏の命日でして……」


◇◆◇◆


 気が付くと、意外としゃべっていたと思う優紀。夕食からは暖かな湯気は消えていた。そして、目の前には無言で箸を置いてこちらの話に耳をしっかりと傾けていた彩音がいた。

 この場では名前を伏せたが、優紀(友香)の命日であること、友香(優紀)のせいで優紀(優紀)が死んでしまったこと、それに対する優紀(友香)の両親への罪悪感で事故以後、まともに会えていなかったこと、そして今日、許してもらえたような気分になれたこと、そして最後はだからこそ死んでしまったことを悔やみきれないと思うことで、優紀は身体の変化に対する苦労を置換し、話したのだ。


「よかったわね」


 優紀が話し終えてから、それなりの間を持って返された答え。それには少し、重たい感情が見受けられた。自分とは違って、という言葉が見えるようだった。

 そして、その答え合わせをするように彩音が口を開く。


「私もね、昔、婚約者を交通事故でなくしたの」


 交通事故、という単語に優紀は自然と肩に力がはいるのがわかった。


「省吾さんって言うんだけどね。生物学の世界ではわりかし有名な学者さんだったの。でもね理系らしくないというか、しっかりした人じゃなくてね、間の抜けたどんくさい人だった。でもね、イケメンだったのよ。少なくとも私にはもったいないぐらいカッコいい人」


 そして、息をゆっくりと吸い込むと、意を決したように彩音は事故の概要を話し始めた。


「省吾さんね、今からちょうどニ十年前に私と道一本挟んだ反対側で車にはねられたの。不幸な事故だった、と周りは言ったわ。雨でできた水たまりに車のタイヤが取られて縁石ごと省吾さんを……吹き飛ばしたの」


 それはつまり、どちらかが向かい側の相手に気づいて、声をかけ、見つめ合っていた矢先の出来事ということなのだろう。根掘り葉掘り聞ける状況ではないのでそれは優紀にはわからない。ただ少なくとも、彩音は目撃者となったのだ。彼氏が車に殺される瞬間を自分と同じように目に焼き付けているのだ。

 そして、声を震わせながら彩音は続けた。


「私はね、省吾さんの両親とは未だにいろいろお話出来てないの。だから、あなたはよかったねって励ましてあげたかったんだけど、私よりも立派よって言ってあげたかったんだけど、ごめんなさい」


 この時、優紀は彩音という人物が優紀と同じ、何処にでもいる不幸なエピソードを持つ人間の一人で、けれども少なくとも自分よりは苦しみ続けていて、その上で人を思いやることのできる優しい人間なのだと思ったのだ。少なくとも、優紀には失う気持ちも、負い目を背負い続ける気持ちもわかるつもりであった。ただ、彩音の場合は優紀より恵まれた環境がやってこなかっただけで、誰もが踏み出せない人の心を問うその一歩を、ニ十年間足踏みしていただけなのである。優紀もこうなっていたかもしれない。しかし、だからといって間違いなく他人にここまで優しい言葉を投げかける余裕を持ち合わせてはいなかっただろう。やはり、優紀にとって彩音は優しいと思えた。

 彩音が謝る理由などどこにもないのだと。


「いえ、辛いことを思い出してまでも励ましてもらえたんです。ありがとうございます」


 だから、優紀は今、彩音にかけて最もよかったと思われる言葉を、感謝を伝える。その言葉が正解だったのかはわからないが、笑みを浮かべながら溢れ出していた涙を拭っていた。

 そして、気持ちを落ち着かせた彩音は最後にこういって終わった。


「どうして私がって思っても、戻ってこないのよね」


 その言葉は今の友香を求める優紀には深く、深く深く刺さった。


◇◆◇◆


 食後の片付けも済み、無言だが共有したことによる悪い気のしない空気が漂っていた。


「それじゃ、なんかどっちが聞いてもらったかわかんなくなっちゃたけど、失礼するわね」

「いえ、ありがとうございました」

「こちらこそ、ありがとう、桜峰さん」


 彩音の笑顔がさっきまでの悲しそうな顔が嘘だったのではないかと思わせる。優紀はなんだかんだでこの人は強いものを持っているのだと思うのであった。そして、優紀は彩音を玄関まで見送った。


◇◆◇◆


 チャイムが鳴ったのは彩音を見送って数分後のことだった。誰だか検討はつくが、取り敢えずインターホンを確認するとそこには陸の顔があった。こいつ付き合ってないよなという疑念が頭を再びよぎるが、陸の良い奴っぷりからその延長線でしかないのだろうと思い、玄関を開ける優紀だった。


「今日の講義のプリントとノート持ってきた」

「ありがとう。お茶入れるから適当に座って」


 陸を家に上げると優紀は台所へ行き、麦茶の入った容器とグラスを二つ持つとすぐに戻っていく。するとそこには先に座っていた陸が気難しそうな顔をしていた。

 優紀はどうしたのかと疑問に思いつつグラスに麦茶を注ぐ。


「そういえば、夕飯は大家さんと一緒にすませちゃった。九十九君のところにも夕飯のことが書いてある手紙置いてあったでしょ?」


 麦茶の注ぎ終わったグラスを渡し、麦茶の容器をお互いから真ん中の位置に置くと、優紀も座る。


「いや、桜峰。女性として、そもそもいや」


 陸が言葉を濁すのは珍しいことである。


「洗濯物、しまえって」


 そこで下着の類を山積みにしたまま放置していたことを優紀は思い出す。


「い、今すぐ片付けるわ」


 身体が覚えているのかアイロン台を出し、一部の衣類にアイロンをかけながら、優紀はテキパキと洗濯物をたたんでいくのだった。


◇◆◇◆


「それで、改めて今日一日、妙だったけど大丈夫だったか?」


 対面に座るなり、陸は単刀直入に聞いてきた。


「えっと」

「取り敢えず、あいつの命日だったからっていうのも、あったんだろうけど、それにしてもいつもの桜峰らしくなかったからさ」


 陸はチラッと優紀に目配せすると言葉を続ける。


「午前中は息抜きと言うか落ち着くのに一人がいいと思ったからアレだったけど、やっぱり気になるというか、落ち着いたんなら少しでも話してくれて良いんだぞ。そうした方が楽になることもあるからな」


 その言葉、その顔は優紀の知った頼れる陸そのままだった。そして落ち着いたからこそ、整理する時間があったからか、先程似たような感じで彩音に話したからか、どこまで話そうか、そう考え始めている優紀がいた。何処まで喋っても信じてもらえるだろうか。それとも信じてもらえない上で慰めてもらうのだろうか。優紀は悩む。どちらに転がっても陸にだけは迷惑を、何かを背負ってもらうことになってしまいかねないからだ。今の陸は間違いなく、優紀の知っているであろう陸であるはずだが、それでも歩んだ人生の隣にいたのは今回だと友香なのだ。そんな陸がどこまで今の優紀に耳を傾けてくれられるだろうか。

 そこまで考えるとやはり当初のまま迷惑はかけまいと身体の変化は伏せることにしようと頼れるからこそ迷惑をかけまいと隠すことを結局選んでしまうのだった。


「ん~、なんだその、悪かったな」


 それは突然だった。頭の中で考えて沈黙していた優紀はあっけにとられる。なぜか、謝られたからである。

 しかし、その答えはすぐ言葉になって現れる。


「アイツの代わり、だなんておこがましいけどな、それでも楽しませるって約束しておいて、そんななんとも言えない顔させちゃって。いやはや、おせっかいも度が過ぎるって話だよな。忘れてくれ」


 そのセリフに、優紀は改めて確信する。

 この世界の友香も優紀の死をいたわり、その価値観に変化を与えてくれたのは間違いなく、あの日と同様に陸だったのだと。


「ありがとう、落ち着いたらまた話すね」


 今はその陸の優しさに甘えることでしか応えることができなかった。


◇◆◇◆


 あの後、すぐに陸は部屋を出ていった。そして、一人きりになった友香はすぐにベットに横になった。右腕を額に当てながら今日あったことを再び考える。

 黒い虹の出た天気雨、紘和と純、墓参り、そして優紀が友香に成ったこと。


「中途半端だな、俺」


 天井を掴むように左腕を伸ばす。一人だけになった空間で、思ったことが口から出てきた。それは振り返る余裕から出てきた望みからの反省だった。陸に迷惑をかけないようにと再度決めたことでそのことを少しばかり後ろめたくも感じた故に感化されてマイナスなことを考え始めてしまったのかもしれない。

 人生を楽しむことに空回りしていたと感じさせられる六年間。陸は十分に優紀に、今回だと友香に尽くしてきたはずだった。それなのにやってきたことといえば、最低ラインで日常をやりくりし、ゲームやクラブ活動といった趣味に時間を全力で費やしてきたことだった。確かに楽しかった。そこに嘘はない。そもそも楽しいに優劣があるとなんて思ってはいない。それでも、これが友香の愛した己の価値だったのだろうかと考えてしまうのだ。そう考えると、実に充実感のない楽しい時間を過ごしていたのではないかと、陸にも同じだけ無価値な時間を付き添わせてしまったのではないかと振り返ってしまう。そして、そのツケが身体だけの友香の出現だったのではないだろうかと優紀は考えを巡らせる。結局自分は、何をやりたかったのだろうかと。何もかもが中途半端だったなと。

 だからこそ行き着く先にこう思うことも出来る。


 友香の魂を、ここに呼べれば。


 どうにかして。これまで起きた超現象があるのならば、甦らせることも可能なのではないか。帰りの電車で考えていた内容がここに来てまた確かな色を持つ。開いていた左手が自然と力強い拳を作る。手がかりはあるのだから。そう考え始めると、中途半端を脱却したいという思いも相まって何かをやらずにはいられなくなる。

 スッとベットから起き上がるとテレビを置いてあるロッカー状の棚に収納されたノートパソコンを引っ張り出し、そのまま起動すると、やはり手短で最大の原因に直結しそうな黒い虹について検索し始めた。あれから約半日も経過すれば何か情報が出回っているだろうという考えもあってだ。するとすぐに異変に気づいてテレビを点ける。そして目的の内容を探してチャンネルを回す。一回ではなく、二回、三回と。しかし、目当ての情報は見つからない。そう黒い虹という単語が見当たらないのである。さっきの検索結果もそうだった。ゼロ件。スマホで検索してもニュースのトップにあった記事はなくなっていた。

 優紀は現実に体験できる情報規制が存在するのかという、露骨すぎる妨害に驚きを隠せないでいた。


「なんでだよ」


 疑問がつい強い言葉となって口から出てくる。それは手がかりがなくなったのに等しいからである。優紀の焦る気持ちはごく当たり前のことであった。だからこそ、確認のため慌てて陸に電話したのは自然のことだった。中途半端を脱したい、友香にもう一度会いたい、その強い決意が即座に挫傷したという現実を受け止めることはできなかったのだ。

 コール音三回で陸が出る。


「もしもし、ジュウゴか」

「ど、どうした、そんなに慌てて……桜峰?」


 優紀は、陸が疑問符を浮かべた言葉遣いでいつもの癖でジュウゴと呼んでしまったことにここで気づく。

 しかし、早く確認したいという気持ちがそのミスを深くは考えさせなかった。


「あ、えっとね、黒い虹、覚えてる?」


 少しだけ言葉遣いを直して本題に入る。


「ん……。もちろん、覚えてるよ」


 夢ではなく、これで実際にあったことだと安心する優紀。落ち着いてみれば彩音も口にしていたことであり、それがよりあったという実感を今の優紀に持たせた。そこから優紀はメディアから黒い虹の出た天気雨という情報がなくなっていることを話した。陸も何かで確認しているのかゴソゴソと動き回っているようだった。

 そして状況の確認が優紀に追いついたのか、陸が喋り始める。


「ん~、たしかにコレだけ特殊な現象がどこのメディアでも扱ってないのは、おかしいな。さっきから書き込みとかしても黒い虹はもちろんそれを示唆しそうな内容であれば徹底的に削除されてるみたい。削除っていうか正確には反映されないっていうのかな」


 そんなことが可能だろうか。優紀はもちろん国のできる力を知らない。世界となれば尚の事である。そしてこれは世界が国という単位でが結束して行われていることだろう。

 漠然とした世界各国にいる組織で形成されているわけがない。


「いったい、どうして」


 疑問が解決してもその先に疑問が待ち受ける。


「大丈夫か?」

「何がどうなってる」


 またしても言葉遣いを間違える。しかし、気にしていられないほど混乱していた。

 優紀は左手で長い髪をクシャクシャにかき乱す。


「おかしなことだけど、どうしてそんなに桜峰が気にするんだよ。今朝の事と、関係あるのか」

「ッ」


 優紀にとっては一大事である。最重要案件と言っても過言ではない。それほど微かで大きな手がかりだったのだ。しかし、それを陸に打ち明けるということは、巻き込むということである。沈黙が長く続く。どう応えることが正解なのかは全くわからない。だからこそ喉から溢れ出てくる言葉を全て無理やり飲み込む。

 関係ないわけないじゃないかという怒りも自分の置かれている状況の助けを乞う声も全て。


「桜峰?」

「ごめん……なさい」


 優紀はそういうと陸の名字を呼び状況を確認しようとする声を無視して電話を切った。そして自分のどうしようもなさに電話を握る手も力強くなる。見た目がどんなに変わっても中身が自分ではやはり中途半端なんだなと優紀は思う。あれだけ気遣う陸に感謝していたはずなのに、黒い虹という手がかりをなくした途端、そんな陸に当たりたいと思ってしまった自分にだ。

 その後、陸も電話を折り返してくるわけでも部屋を訪れるわけでもメッセージを飛ばしてくることもなかった。気を使わせてるな、とできる男の対応に優紀は感謝しかできなかった。頼ることのできる人間が少ない、否友香ならば多いのかもしれない。しかし、優紀にはこういった時に相談できる人間は陸を除けば家族しかいない。そして、その家族すら今は他人である。交友関係が狭いというよりも人脈を築く努力をしてこなかったことにこれだけ悩まされる日が来るとは思っていなかった。そして、同時にこれほど二度と会いたくないと思っていた人間の顔が思い浮かぶのは実に皮肉な話だった。

 考えを巡らせれば、いたのだ。国に関わる存在が。今となれば偶然とは思えないタイミングで接点が欲しいと言って近づいてきた二度と会いたくないと思った男の隣に確かにその男はいた。天堂紘和である。

 八角柱の一人にして元総理までしていた一樹の孫であり、世界に三人いるというサイキョウの最強を引き継いだ男が。実に数奇に感じさせる不自然で不気味なチャンスの様に感じた。しかし、天堂家ならば日本という国にも、世界という組織にも名前を轟かせている。接点があるなら何か掴めるかもしれない。会おうとしても向こうから無下にすることもないだろうと考えられる。そこに根拠はないが、あのヘラヘラとした純の言動が悔しいことにその可能性を確かなものに感じさせていた。目的地は決まった。都合がいいかはさておき、明後日は土日である。金曜日は自主休講にして三連休にしようと決める。そして、優紀は電車の時間を確認すると、僅かな希望が繋がったことに安堵したのもあり、どっと来た疲れに逆らえず、ゆっくりとベッドに倒れ込み深い眠りに入るのだった。


◇◆◇◆


 優紀は珍しく設定した目覚まし時計よりも早く、五時に目が覚める。眠りが浅かったわけではない。むしろぐっすりと眠れていた。それだけ昨日は疲れていたし、今日は逸る気持ちに駆り立てられ起きた、やる気に満ち溢れていたということでもある。

 スッと上半身を起こすと下半身が随分と開放的であると感じる。そう言えば着替えにしろ、シャワーにしろ何もせず寝てしまったんだなぁと優紀は改めて自分が友香になっている実感を得る。夢ではなく、これが現実に起きていることだと。そう、友香の身体はここにあると。

 優紀はベッドから足を出す。両手で髪を、顔を、胸を触っていく。取り敢えず、きれいにしないとなと素直に彼女の清潔さを優先しようと普段ではやらない身支度を始める。まずは、風呂場へと向かう。大きめの鏡がかけられた風呂場内の洗面所でボサボサになった髪をした友香をみた。取り敢えず、シャワーを浴びて整えなければこの髪の毛はどうしようもないなと思う優紀。それにしても、覇気のない顔をしていたが、それでも可愛い顔だなと思った。


◇◆◇◆


 カジュアルなTシャツを脱ぎ無造作に風呂場の外にある洗濯機へ投げ入れる。ミドル丈のスカートのホックを外してジッパーを下ろし、同様に投げ入れる。そして、淡い水色をしたブラジャーとパンツ姿になった優紀はその姿をまじまじと鏡越しに見る。下心や興奮していたわけではない。これが六年後の友香なのかと、純粋にきれいな身体だと感心していたのだ。

 二度と見ることできないはずの存在を目の前にしている。


「友香」


 友香を見るたびに同じことを考え、今回はそれが言葉として溢れる。そして、言葉として出してしまったことで、その嬉しさに涙がこみ上げてくるのを感じる。好きな人の姿を見ることが出来た。未完成という言葉が正しいかはわからない。それでも、取り戻す可能性は開かれていると思うことができるほどの存在感が目の前にはあった。

 だからこそ頑張らなければならないと今日やろうと思っていることに対して意欲を燃やす。


「よし」


 そう言うと気合を入れるために両手で自分の頬を軽く叩き、笑顔をして、その姿に自分で照れるのであった。


◇◆◇◆


 未だに照れていた。いざとなって優紀は恥ずかしいがるというか緊張を始めたのだ。見たこともない彼女の、友香の裸を見てもいいものかと。興味が無いわけではない。魅力的でないといったら嘘になる。しかし、許可もなくシャワーを浴びるためとは言え自分勝手にみてしまってもいいのだろうかと。純真な恋心と言えば聞こえはいいが、中学生以来恋をしたことはなく、ある意味一途だった優紀は、女性経験はからっきしである。だからというわけではないが、端から見れば度を越すほど友香の貞操と呼ぶにも至らないかもしれないことを考えていたのだ。

 最終的にはタオルで目隠ししてシャワーを浴びるのだった。もちろん、長髪を洗うことから始まり、優紀が優紀だった頃では体験したこともない身体を、常に緊張しながら恐る恐る洗うのだった。


◇◆◇◆


 さっぱりするはずが逆にドッと疲れを感じ、バスタオルで身体を拭き、そのまま身体に巻くと目隠しのタオルを取る優紀。心の隅で何をやっているんだろうという複雑な気持ちを抑えつつ着替えを持ってきていないことに気づき、取りに向かおうとする。しかし、その前に思い出したかのように鏡の前に背を前にして立ち直す。そして、優紀はおもむろに髪をかきあげる。拭き取ったとは言え、みずみずしい長髪は少しの雫を飛ばしながら一瞬、うなじを見せながらぺたりと首筋に張り付く。

 優紀はこれが水に滴っても美しいということだと確認するのだった。


「綺麗だ」


 なんだかんだで嬉し喜ばしな状況が続いているかもしれないのであった。


◇◆◇◆


 優紀はオシャレに無頓着だった。ジーパンと数枚のTシャツがあれば夏などはどうとでもなると考えていた。冬場はそれに数枚の上着を着こなすだけで事が足りるのだ。つまり、オシャレというものにこれでもかとお金を使わない人種だった。

 それ故に、カラーボックスやタンスに入れられた下着や服の量に圧倒された。


「はぁ」


 思わずため息が漏れる。そして、携帯を手に取るとすかさず、女子大学生で検索をかける。そして、それっぽい服を探し始める。そして、淡い緑色の下着と白と灰色で落ち着いた感じの肩まであるビスチェ風のワンピース、黒のカーディガンを選んだ。精一杯の努力であるが、果たしてそれが流行なのかはわからないでいた。

 一番不安だったのはブラジャーの付け方で、取り敢えず前でホックを止めてから後ろに回し、紐を肩に通すと、果たしてこんなのでいいのだろうかと胸を押し入れるのだった。正しいかは無論分からないがそれなりに出来たことに満足を覚えながら服を着るのだった。最後に洗面所に戻り、これまた慣れない手つきで長い髪を丁寧にドライヤーで乾かしていくのだった。

 流石に化粧まで凝っていたら時間がいくらあっても家を出られそうにないので、すっぴんと呼ぶ状態で優紀は部屋を出た。正直、こんなにきれいなのに何をする必要があるのだろうという疑問はある。しかし、今は早く目的地に行きたいという気持ちが心を駆り立てているため、天堂家を目指してスマホ片手にナビを見ながら歩き始めるのだった。

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