第二筆:初まりまして

 黒い虹。

 優紀と陸がこのことを知るキッカケとなったのは一限の講義が終わり、学生たちが教室移動を始めた時だった。他愛も無い会話の中で、一際目立つ言葉だったということもあり、すぐに興味本位でスマホを開き、ネットニュースで確認して詳細を知ることとなった。


「天気雨に発生した黒い虹、かぁ」


 ネットニュースに映るそれは言葉通りの黒い虹だった。黒いただのアーチというわけでもなく、かといって黒のグラデーションというわけでもない。七つの黒が存在していると何故か分かる、それが黒い虹だった。

 そして、優紀はこの黒い虹に今朝の変化が関係していることを直感的に感じ取っていた。


「不気味この上ないな。ちょうど俺たちが電車を降りた頃に出てたんだな」


 まさにこれであった。不気味な現象からその現象が起こったのではないかと連想したというのもあるが、それ以上にタイミングがまさに陸が言っている通りの瞬間だったからだ。だから、優紀は書かれている記事を凝視した。しかし、黒い虹は天気雨の中、約五分間だけ見られた超常現象ということ以外には、どこかの企業のイベントだとか宇宙人襲来の予兆といったいかにもな煽り文句や都市伝説地味た記載がされているだけで有益といえる情報は何一つなかった。前例のない異常気象であるだけに騒がれるだけで原因が即座に記載されていないのは当然といえば当然だが、それでも優紀はこの解決しない現状に当事者と思っているからかもどかしさを感じていた。

 だからこそ、自分でこれ以上の情報を知るにはいったいどうしたものかと考える始める。


「で、どうするん、二限?」

「えっと……」


 正直な所、優紀はやりたいことがたくさんあり過ぎて、今すぐにでも大学を抜け出したいというのが本音だった。しかし、友香として振る舞おうとついさっき決めた以上、しっかりものだった彼女のイメージを崩してはならない、何よりそこから周囲に、陸に気づかれたくないというジレンマがあった。

 加えて、一つの大きな問題に直面しようともしていた。


「わかった、今日は任せてもらっていいよ」

「え?」


 そんな優紀のいや、友香の何かをしようと切羽詰まった表情にシビレを切らしたかのように陸が提案してきた。


「そんな何かしたげな顔をみちゃうとね。まぁ、今日が今日だしな。講義の出席とかそのへんは任せといてよ。うまくごまかしておくからさ」


 優紀を励まそうとする明るい言葉遣いを心がけているようだが、少し陰った様に嫌でも見えてしまう陸の顔からは友香の命日はそのまま優紀自身の命日になっており、先程の錯乱したように見えた状況から優紀のことを考えているのだとわかった。当然ではあるが、陸にとっても優紀は特別な人だった訳で、思い出せば沈む気持ちも当然である。

 そんな気持ちを押し殺してまで友香を気遣おうとする気持ちを裏切るわけではないが、今はその提案にのっかかって迅速に行動したいと思ってしまう優紀がいた。


「うん、じゃぁ、後のことはお願い」


 優紀は手を合わせて軽く首を傾げて笑顔を向ける。少しでも陸を安心させたいという思いもあっての仕草だったが、自分の友香へのイメージの足りなさから出たありふれた感じのぶりっこ感に若干の嫌気を感じてしまう。

 そんな姿を見ても陸はやれやれと両手を軽く上げて微笑を浮かべると荷物を持って立ち上がる。


「それじゃ、何かあったら連絡くれよな。そして、無理はすんなよ」

「うん」


 優紀は座ったまま手を軽くふる。陸もそれに応えるとすぐに休憩所を後にし、あっという間に雑多に紛れて移動してしまい姿が見えなくなった。それを確認してから優紀はすぐさま荷物を持ち、後を追うように休憩所を出て目的地へ走り出す。それはつい先程浮上した新たな問題、生理現象を解決するために向かう場所へだ。

 トイレである。


◇◆◇◆


 取り敢えず、男子トイレの前で一度止まり、札を確認しながら女子トイレを覗いた優紀。不幸中の幸いなことに、二限が始まるということもあって周囲に人の気配はない。しかし、念には念を入れて他に人がいないことを入念に確認してからサッと中に入る。身体は女子であるから問題はないのだが、やはり意識しだすと中身はさっきまで優紀という男だっただけに無駄な緊張感にかられていたのだ。もちろん洗面所に設置された鏡に写るのは間違いなく女性であり、友香そのものだった。

 ただ全身を一望して確認するのはこれが初めてだった。


「おぉ」


 カワイイ。そして、綺麗だ。決してボキャブラリーに乏しいわけではない。ただそういった取り繕いのない素直な言葉しか思い浮かばないほどに見とれてしまったのだ。懐かしいようで見たことない、否、見たかった姿が目の前にあったのだ。しかし、そう悠長に眺めていられない生理現象が優紀を現実に引き戻す。思い出すと途端にこみ上げてくるもので、優紀はすぐさまトイレの個室に飛び込んだ。内側からしっかりと鍵をかけ、洋式トイレを目の前にして取り敢えず座った。そして、考えた。

 どうやって用を足したものかと。

 当たり前だがつい今しがたまで男だった優紀に女性の作法がわかるわけもない。何がわからないか。別に何処に何があるかという話ではない。そんなことはむしろ一般男児として実物でなくともあの手この手で、そもそも最低限保健体育で知り得ている。つまり、現在の問題はスカートをどうするかであった。加えて、優紀には友香を大事にしたいという純真な思いから、一部始終を見ていいものなのかという思いもつきまとっていた。しかし、そんなことお構いなしに尿意はすぐそこまで迫っていた。だから、優紀は意を決して目をつむったままパンツをおろす。スルスルと肌触りのいい布が太ももを駆け抜け足首まで引き下ろされる。次にスカートの腰に手をかけ少し引っかかりを感じながらも無理やり下ろす。後は軽く力むだけで普段とは違った感覚の用を足すことに成功した。トイレットペーパーで拭き取るとスカートとパンツを履き直し、レバーを引いて水を流す。

 全てを終えたと思いほっと胸を撫で下ろしながら目を開くと、そこには上から覗き込む一人の男の顔があった。


「ハハハッ、スカートを下ろすのにホックを外さなければケツでつかえるだろうに、随分とそのスタイルのいい身体に助けられてるねぇ。まぁ、目をつむっておしっこするっていうのが目下最大の謎な訳だけど、そこのところどうなの? えっと……なんて呼べばいい?」


 沈黙。


「おや、黙ってちゃ始まらないぞ。俺はおしゃべりが大好きだ。さぁ、ミットを構えて。そう、俺の言葉を受け止めるだけでいい。嘘だ、出来ればリアクションが欲しい。一方的にまくし立ててマシンガントークをかますのも大好きだけれど、今はバラエティばりのリアクションを音で、声で欲しい。その点、その呆けた顔は合格だよ。なるほど、わかった名前を名乗るならまずはお前からってことだな。よし、いいだろう、俺の名前はぁああああっと」


 言葉の途中で顔は消え、代わりに扉の向こう側で着地する足音がする。


「何するんだよ、紘和。暴力反対」

「いつも訳がわからない。会って話がしたいだけなんだろ。外で待ってれば済んだ話だろう?」

「おやおや随分と目がマジだな、紘和。あれか、やっちまおう的な軽いノリで構えてないか。紳士だねぇ。いや、みんなの正義のヒーローってかい?」


 二人のやりとりはどことなく漫才のようにおちゃらけていた。


「奇人がぬかす」


 しかし、突然紘和と呼ばれていた男の声が、優紀が扉越しからでも感じ取れるぐらいの殺意のこもった低い声で聞こえてきたので、ビクッと震えてしまた。


「いやぁ、素直で結構コケコッコー。やっぱり俺、紘和のそういう所好きだよ。どういうところかわかる? この質問に答えられたら覗きはやめてやろう。では、紘和くんの答え」


 カチャッ。


「えっと、何事ですかね」


 優紀がそっと身なりを整えてトイレの扉から顔を少しだけ出す。眼前には男子小学生が休み時間に遊びでするような、片足で立ちながら中国拳法のような構えをした先程の覗き魔とものすごい眼光でそいつを睨みつける紘和と呼ばれていた男性がいた。

 お互いからは女子トイレという場もそうだが、ありえないぐらい食い違った雰囲気を感じる。


「遅い上に速い。まったく、魔が差すレベルじゃないね。まぁ、大声を上げなかった点は褒めてやろう。いや、褒めるだけではもったいない。俺が覗きをやめる条件と吊り合わせてやろう。どうだ、名案だろ? そう思うだろ? 仕方がない、仕方がないなぁ」


 あからさまに肩を落とした覗き魔。


「それじゃ、先外出ておくから。紘和は感謝しときなさい。以上」


 それだけ言い残すとステップを踏みながら女子トイレを後にする覗き魔。

 まるで旋風のように、場を荒らすだけ荒らして早々に姿を消したその男性の圧倒的存在感の余韻にポカンと優紀がしているとすかさず低姿勢でフォローをしてくる男性がすぐ隣りにいた。


「大変申し訳ありません。私の名前は紘和。さっきのは純。本日は彼があなたに突然お会いしたいということで参ったのですが。先程の無礼、誠に申し訳ありません」

「えっと、す、……桜峰です」


 優紀は名前を間違えかけながらも相手の自己紹介に自己紹介で返す。


「では、突然押しかけて申し訳ありませんが、外で待たせていただきます」

「は、はぁ」


 一礼してくる紘和に優紀は返事を返すことしかできなかった。


◇◆◇◆


 さっきとは面子を変えて優紀は、女子トイレの外で待機していた紘和に誘導されて再び休憩所の椅子に座っていた。


「さて、話の続きじゃないけどゆーちゃん。俺は回りくどい話も単刀直入な話も好きなんだけど今回は両方を綺麗に使ってみようと思う。そう、会いに来た目的をね。俺はこう言いたいわけだよ。ゆーちゃんを使って面白いことをしたい。そのために接点が欲しかった。どう?」

「どうと言われましても」


 優紀にとっては言葉通りの返事だった。一方的に話してくる純の話は全く意味がわからない。下手をしなくても所謂イタイ奴にしか見えない聞こえないである。加えて初対面でいきなり下の名前を愛称にして呼んでくる奴などは正直苦手の部類だった。

 しかし、純はニヤニヤと優紀を覗き込見っぱなしである。


「まったくもって疑いの眼差しを口にできないとは。気遣いは窮屈だと思うぞ? とはいえ、気づかいないのはそれはそれであれだな。つまり、どこかの紘和よりは実に普通だ。なぁ」

「顔見知り以上友人未満の男二人、口だって開きにくいのは当然でしょう。純に関しては庇いようもないほど疑われても仕方のない初対面をした訳ですし……」


 そこで言葉を切ると、少し怪訝な顔で悩みながら仕方がないといった表情を作り言葉を続ける紘和。


「私が、天堂一樹の孫だといえばおおよその身の潔白を示せるのではないかと」


 天堂一樹は優紀、日本国民なら誰でも知っている歴史に名を残す生きる英雄である。加えて、天堂家の人間といえば現当主、天堂一樹を筆頭に様々な分野で秀でた才能を披露していることで有名な一族である。

 その一族である、それだけで確かに悪人とは思えなくなる。


「必要とあれば今日のお詫びも踏まえて当主にあっていただいても構いません。とはいえ、口だけではどうとでも言えるでしょう。必要とあらば今からテレビ電話も可能です」

「い、いえ。わかりました。信じます」


 今日は他にやりたいことがたくさんある。

 加えて天堂家と顔を合わせるということの場違い感があったため恐れおののいてしまう。


「けっ、親の七光りかよ。あのクソジジイも早くおとなしくなってくんないかね」

「君の言うクソジジイのおかげでこの場が収まるんだ。この名にひれ伏しなよ」

「ハッ、俺に対しては遠慮と謙虚はないのか? 限定的な個性ほど死んでるものはないぞ」

「礼儀に個性とお前にとやかく言われる筋合いはない」


 優紀はこの会話が別次元の会話に聞こえてならなかった。意味がわかるからこそ、天堂の人間を前にしていること、その当主をクソ呼ばわりできる純という人間の異質さである。さらに先程、トイレの前で今にも殺人事件が起こるんじゃないかという空気があったのに今は感じさせないことにもある。その落差もまた異質そのものだった。

 そしてこともあろうか、その風変わりな男は言葉の先を再び優紀に向けてきた。


「わかった、わかったよ。ちゃんと自己紹介して欲しいんだろ。俺の名前は幾瀧純。好きなことは面白いこと。発展して逸話収集。嫌いなことは夢のない、とは言わないけどつまらないこと。ほら、これが俺の自慢のコレクション」


 そう言って投げられた、どこから取り出したかわからない分厚い紙束が優紀の膝にズシリと載っかった。どうしろと、という疑問は純の感想をよこせという目を見て解決した。隣で深々と頭を下げている紘和に大変なんだろうなと数々の苦労を思いながら優紀は意を決してゆっくりとページを捲り始めた。そうしないと暫くは解放されないだろうという考えもあってだ。

 その無造作に大量の紙束が綴じられたような本はどうやら純自身が集めた逸話をそれぞれ要約して直筆でまとめ直した、まさにコレクションと呼ぶにふさわしいものだった。そこには優紀でも知っているメジャーな神話から知らない伝承までもが実に千六百二枚渡ってに記載されていた。幾つか気になるところだけを虫食いの要領で読むだけでも実に一時間半はかかってしまった本だった。そう、一時間半かけて虫食いとはいえ読んでしまったのだ。そこには収集する理由がわかるほどに優紀にも惹きつけられる物語が存在していたのだ。

 顔をあげると腕時計を見せつけて時間の経過を訴えてくる純がいた。


「どう、面白いだろ? というわけで話を先に進めたいわけなんだよね」


 優紀はバツの悪そうな顔をしながら、とらせた時間のこともあり素直に首を縦に振る。


「わかりました。えっと……それで、具体的な用件というのは?」


 パッと優紀からコレクションを取り上げながら笑顔で話し始める純。


「ホントに接点を持っておきたいっていうのが大まかな目的だったんだけど、一つ、加えて聞いて欲しい話があるんだなぁ。まぁ、話百分の一ぐらいで聞いてくれればいい。おっけー?」

「は、はい」

「この指を見てください」

「はぁ」


 やけに楽しそうに純は優紀の目の前に右手の人差し指を立てる。

 それをスッと上に持ち上げる。


「はい、終わり」


 その声と同時に意味の分からない優紀は視線を正面に戻す。

 すると、友香の学生証があった。


「さて、誰がどうやってとったかゆーちゃんにはわかるかい?」

「えっと」

「はい、わからない」


 応える猶予もなく否定される優紀。


「予想はできるが、ゆーちゃんは見てなかったからね。ただ俺も嘘をつくには分が悪い。どうしてかというと紘和がみていたからだ。バットしかし、二人はこの俺に見惚れてたことになる。わかるよね? 俺はきっと二人の注目の的」


 そこからはまくし立てるように純は言葉を続けることをやめなかった。


「主人公とかラスボスって絶対かっこいいじゃん? そりゃそうだよね、自分中心にまわるから美味しいところだけしゃしゃりでられるんだから。でもね、面白いかって言われると別問題なんだよね。むしろ、こいつらに一泡吹かせられる方が絶対面白いじゃん? ほら、コレが語るに落ちるってやつだよな。最初に言ったとおり俺は面白いことが大好きな快楽主義者なんだ。無論、善悪とかを説いたりはさせないよ。俺が面白いかどうかなんだよね。で、今、俺は一枚噛みたいわけだよ。噛んだ上で出し抜きたいんだ。どうなるかと聞かれればどうなるかなんてほとんどわかってないんだけど。まぁ、着地の仕方は考えてるけどさ。……さて、俺はここまでで三つほど君にヒントを出している。一つは俺が快楽主義者であること。一つは俺が君を利用したいこと。そして、一つは俺の、いや俺に限った話じゃないが存在感、だ。どうだい、こんな言い方すればするほどきな臭く感じるだろ? それでいい。それが今日の顔見知り以上友達未満だ」


 満足気な顔で純は伸びをする。

 優紀にとっては随分と引っかかる内容へと膨らみ続けた。


「それじゃ、これで俺たちは退散するんだけど、最後に人生の先輩らしくお節介として、いや蛇足としてためになる話をしてあげよう」


 席を立ち、ある程度距離が取れてから純は一言。


「良い奴面してる奴は信じるな、俺然りな」


 それだけいうとパッと姿を消す純。


「えっと」


 辺りを見渡すと紘和の姿もすでになくなっていた。それはまるで狐に化かされたような時間だった。


◇◆◇◆


「見てみ、俺が好きな紘和のところはどこだと思うって亮太に聞いてみたんだけどさ、なんて返ってきたと思う」


 純は車を運転している紘和に助手席でふてぶてしい態度で座りながら話しかける。


「気色悪い」

「さすがだよねぇ、我らが一般人代表は紘和のことを聞いたのに俺の長所を返すんだから」


 純は正解したことに拍手をしながら感心していた。


「ちなみにそんな一般人代表は今、トラウマというギャルゲーをやってるらしい。夜は冒険オンラインゲームと充実してますな」


 紘和はため息をつきながら純にゲームの邪魔をされている萩尾亮太のことを不憫に思い、その手を止めるべく話題を投げかける。


「この後の予定は?」

「ただ何かが起こるのを待つ。それだけさ。種は撒いたが未来はわからない、そう九割方わかってないんだ。だから面白い」

「一割はわかってるのか?」

「いや、ただ言ってみただけだよ。ゼロでもなければ十でもない。まぁ、そもそもこれは未来の中でも限定的な場所の話さ。そこまでは正直、ロードマップだからね。それでも天堂家と遊ぶのより百倍以上に面白い。お前と遊んでるのよりはそのまた百倍以上面白いから期待してろって」

「ほんと、何のための称号だか」

「まったくだ。少なくとも紘和が持ってるのが不思議だ。まだクソジジイの方がマシだ。つまり、時代だな」

「チッ」


 紘和の舌打ちとほぼ同時に純が右手をピースしたまま何かを挟み込む。

 何かであってそれは見えない。


「運転に集中してくれよ紘和。まだ、俺を殺すには早いだろう?」


 不穏な空気だけがそこには確かにあった。


◇◆◇◆


「さっきから車を一台挟みながら俺たちを付け回してる奴がいる。何が凄いってお前がまいてるのに必ず一台挟んで付け直してるところだ。そして、それを執拗に振り切ろうと寡黙に努力できる、お前がだ」


 ぶっきらぼうに言いながらカーナビを操作し始める純。


「こっちのほうが多分、圧倒的に地元感強いし、そもそも付けてるのってチャールズのダンナでしょ」

「チャールズって……まさか、チャールズ・アンダーソンのことか?」


 まさかの部分を鼻で笑い冗談を込め紘和は純に尋ねる。


「そうそう。今、アメリカでトムのジジイが死んで忙しいはずなのに、どうして俺達の事追ってるんだろうね」


 チャールズ・アンダーソン。日本で言う天堂一樹のようなトム・チャールズを父に持つ現、大統領。

 父親同様のカリスマと実力を兼ね備えた存在だった。


「何したんだよ」

「酷いなぁ。その何かハプニングがあると俺のせいにするのやめない。そりゃ、これからするかもしれないけど、今のところは何もしてないってことになってるはずだ。むしろ、因縁あるとしたらお前だろ? なぁ、英雄のお孫さんで蝋翼物持ちの紘和さん」


 冷め切った車内を純がカーナビを操作する音だけが響き渡る。


「で、いつから気づいてたんだ?」

「大学出てすぐだよ。チャールズだぜ? 気づかないほうがおかしいだろ」


 尾行している様子から間違いなく気づくほうがおかしい。

 紘和ですら、車を出して十分ぐらいしてようやく不信感を覚えたレベルである。


「じゃぁ、取り敢えずさぁ、ここ、ここにしよう。いい感じの人気のない石切り場があるって、さすが都心から少し離れてるだけあるわ」


 ピクニックの目的地を見つけたかのようにはしゃぐ純の指示を紘和は黙って聞くだけであった。


◇◆◇◆


「凄いなぁ、あれ、絶対めんどくさいって」


 結局、チャールズが乗っていると純から伝えられた車は山道に入ると一定の距離をあけつつこちらの後をついてきていた。


「普通に考えたら罠だよ。二対一だよ。俺がいるんだよ。チャールズどんだけ自信があるんだよ。チャールズどんだけ俺たちに用があるんだよ。チャールズどんだけ真面目なんだよっと」

「向こうからすればお前は一般人だろ? 戦力に計算されてるわけ無いだろ」


 紘和が車を停める。見晴らしの良い石切り場に到着したのだ。

 そしてやはり、少し離れたところで例の車が停まっていた。


「ご挨拶、ご挨拶」


 純はサッと車から降りると両手を口に添えてメガホンに見立て大声で話しかける。


「チャールズ、カムアンジョイナス」


 どこかのCMで聞き覚えのあるコメントを片言に発する純。それに対して呆れた表情を隠さないでゆっくりと下車する紘和。純は車に肩を預けて目を手でかざし、つけてきた車の状況を伺う。

 すると運転席のドアが開き、人影がヌルっと降りてくる。


「日本語で大丈夫だ、幾瀧」


 流暢な日本語で現れたのはまさしく、あのチャールズ・アンダーソンだった。


「マジか、すげぇな。そんなに流暢に日本語が喋れるなんて。そして、俺の苗字を知ってるなんて。職権でも乱用したのか、初めまして、そうだよな? ん?」

「そんな真似はしていない」


 ハッキリとそう応えるチャールズ。その目はようやく見つけたいものを見つけた目だった。それでいて、忌々しいものを見るような目でもあった。

 一方で、紘和からすれば妙に純の言い回しに引っ掛かりを覚えるものがあった。


「しかし、やっとここまできた。お前がどれだけ凄い人間かはわかっている。しかし、この段階で接触には成功したが、俺には欲張れるだけの力がある」

「おい、紘和。アイツ、俺に何かしてやられてるらしいな」

「お前、さっきから何か……」


 紘和は変だぞと続けようとした言葉を途中で飲み込む。純が笑っているのだ。不気味なぐらい楽しそうな笑み。今朝方、桜峰友香を目撃した時とは明らかに別種の笑みを浮かべていたのだ。

 獲物を見つけたからではない、獲物に見つけてもらえた、そういった類のものに紘和は感じた。


「いいぞ、俺が何をするのかしたのかは知らないことにして、相手してやるよ、チャールズ。お前のその目に応えてこの俺が相手をしよう。さぁ、かかってこいよぉ」


 紘和はこれに似た光景を思い出す。紘和が初めて本気を出して一樹以外に負けを認めさせられた日のことだ。その時も純は明らかに三下のような、三十を迎える大人に似つかわないぐらいの中二病な文句を垂れながら、最強の称号を継承した紘和を圧倒したのだ。

 そして間違いなくチャールズも最凶以上のものを譲り受けている。それでも、紘和は直感的に勝敗を悟る。

 加えて己の未熟さを悟らされる。


「いいぞ、紘和。お前はそのお前らしさを見つめて、下がってろ。大丈夫、お前は強くなれるから」


 しかし、結果は予想外な終わりを迎える。


「さすがは、バケモノだ。やはり、これが精一杯というわけか」


 出会って数分もたたない内に、何もせずチャールズが両手をあげたのだ。

 やたらと派手な両腕についたガントレットが目立つ。


「やはり、ひかせてもらうおう」


 そう言うとチャールズは一礼して、即座に車に乗り込み、発進させて去っていく。

 あっけない幕引きに夕暮れの静けさが重なる。


「いいのか」

「だったら、どうしてお前は見逃した。チャールズもだが、俺に対する攻撃も、だ。アレが何か知らないわけじゃないよな、紘和。この場で俺があいつに殺されても俺はお前の都合なんざ知ったこっちゃなかったんだぞ」


 スッと紘和の首筋に純の人差し指が食い込む。


「残念だけど、俺はお前をある程度知っているつもりだよ。だから心配はしていない。それも織り込み済みで、むしろ今何を考えているのか聞きたいね」


 落ち着いた様子で質問を質問で返す紘和。

 それに純は満足したような笑みを浮かべて指を離す。


「チャールズの目的はわからないけど、俺にこの程度の小技はそもそもあまり意味が無い、天災だからな。まぁ、向こうも随分と俺を知ってるようだし、わかった上で……目印ぐらいの気分なのかもな。それと、随分と俺たちの知らないことも知ってそうだ。向こうがくれた接点とやらを俺らも大切にしようじゃないか、なぁ」

「知らないことを知ってそうなのは何もあいつだけじゃないんじゃないか?」


 紘和の視線の先にいる純は鼻で笑う。


「考えすぎだろ、おバカちゃん」


 太陽が見えなくなる。


「今日はもう飲むか? 途中で亮太でも拾って皮肉を肴にでもしてさ。今日は臨時休業ってな」

「そこまでして亮太にたかるぐらいなら俺が出すよ。まぁ、お前には出さないけどな」


 純が実に楽しそうにくだらない提案をまるで話を逸らすように始めるので紘和もそれに乗っかった。今はその時ではないのだろう、そう思ってやるぐらいには紘和は純を信用はしているのだった。


◇◆◇◆


 謎というにはハッキリとした二人組と別かれてから優紀はある一つのことに悩まされていた。それは意識しているからこそ生まれるものであり、更に優紀が友香になったからこそのことでもあった。

 スカートの圧倒的な開放感と周囲の目である。ズボンからは考えられない程の風通しの良さ、加えて足に擦れるスカートで余計にそわそわさせられる。そして、友香が可愛いという自意識、というか彼氏視点もあるのかもしれないが、ミドルといえどスカートで、胸だってある程度ある。男性とすれ違う際は否応なく視線を意識させられるのだった。優紀は一人、目のやり場に困りながら、はたから見れば挙動不審でいた。

 ちなみに友香は人付き合いはよかったらしく、学部に男女も問わず挨拶をされた。いや、今回は明らかに、あの友香が授業をサボって大学を出ていこうとしているという節によるところが大きいからとも感じられた。そんなこんなでなれない人付き合いもありつつの女性という身体に不自由を感じていたわけである。


◇◆◇◆


 授業を休んでまでしたかったことはただ一つだった。普段の優紀ならば、一人図書館へ寝に行ったり、ゲーセンへ行ったり、家に帰っていただろう。しかし、今回に限っては違った。それは一足早い、墓参りである。本来ならば放課後に向かう予定だった墓参りへ今から行こうとしていたのだ。理由は単純である。


 菅原優紀を探す。


 これだけである。大学を出たところでスマホを確認したが、連絡先に自分の両親、ここでは菅原家の両親の連絡先が登録されていなかった。しかし、妹とは今でも交流があったのか登録されていた。一方で、桜峰家の両親と兄の名前はしっかりと入っていた。友香の両親に電話をするという手段も考えなかったわけでもない。しかし、何をどう話したものかと悩み、結局問題を先送りにすることにしたのだ。

 他には優紀が話しかけたこともない学部内の同期の名前がいくつかあった。先程からグループチャットが騒がしく、既読にしないように文面を追っていると、出席していない友香を心配した声とそれを具合が悪いからと説明している陸の会話であるということがわかった。慕われているのだなと思ったのが正直な感想だった。そして、歩いて墓参りに行こうとしたら、先程の周囲の目線その他であった。

 ちなみに、キョロキョロしていると紘和と純が乗った車を目撃したのと、その車と一台開けて走っている車の中の人と随分バッチリと目があった気がしたのは印象的だったが、優紀にはどうでもいい話だった。もちろん、前者の訳の分からない二人組は金輪際関わりたくはないのだが。


◇◆◇◆


 結局、最期まで落ち着けた気はしなかったが、友香が眠る霊園につく。時間はちょうどお昼を過ぎようというところだった。確信があったわけではない。否、優紀はまだ現実に追いつけていないだけだった。ここに何があると決まったわけではない、と思おうとしていた。しかし、どんなに周りが気になろうと、他のことを考えていようと、足はしっかりと霊園まで向かえていた。そして、霊園内の目的地へと一歩が進む。日当たりのいい開けた土地にあるが、墓標は霊園内唯一の巨木の下にあるため秋には落ち葉で掃除が大変になる。まぁ、それ以外の点で言えば夏場でも木陰のある、他の場所よりも立地はいいところにあるとも言えた。

 すると目的地には先客がいた。優紀もよく見知った顔だった。そして、自分が何もお供え物を持っていないこと、加えてなぜ日中に墓参りに行くことを避けていたのかを思い出す。後者の理由こそが先客ではあったが、本来自分の知る状況とは異なっていた。だからこそ、確かな実感が湧いてくる。

 そこにいたのは菅原の両親だったのだ。線香の煙がすでに立ち昇っている。優紀が好きだったリンゴが添えてある。墓石は先ほど磨き終えたのか黒く光沢していた。墓周りの土は掃除から打ち水までしたのか湿っていて、雑草もほとんど生えていなかった。今どき珍しく造花ではなく、菅原家の庭に咲いていた見覚えのある花々がいけられていた。

 故にまだ確認もしていないのにそこの墓に刻まれている名前が否応なくわかった。つまり、今の姿の名前は決して刻まれていないだろうと。友香になった瞬間は確かに彼女が生き返ったような気がして充足感があった。それは今でも変わらない。しかし、厳密にはその身体の中にいるのは優紀であり、その側面が否応なく、結局のところ友香はここにいるのに友香ではなく、優紀はここにいないのに優紀であるという現実が襲いかかってくる。それを理解しているというのが自分だけだという孤独感に背筋は凍り、足はおぼつかなく、そして涙がこぼれそうになるのを優紀は友香の身体でハッキリと感じた。確認したかったはずなのに今は逃げ出したくて仕方がなかった。下を向き、上半身をこれでもかと強張らせる。そのため、これでもかというぐらい肩が上がり首に寄っていることがわかる。緊張。意識すればするほど身体も素直に反応し、それは自ずと腹の底から何かをこみ上げさせる。それを必死でこらえようと、しかし息遣いを荒くし、どうにかしなければと緊張が最高潮に達しようとしていた時だった。

 ポンッと肩に手がかかるのがわかった。その衝撃に条件反射のごとく、フッと顔上をげる優紀。あっと思った時にはすでにその人達の顔はあった。穏やかで優しい母の顔。厳格な父の赤く目を腫れさせた顔。つい、数カ月前に顔を合わせているのに、なぜだがとても久しぶりに感じられるほど二人の顔に救われた気分になる。それぐらい、心細かったのだ。だが、一方でさっきまでの孤独感とは別のなんと言われるかという不安で緊張を始めていた。避けていた亡くなった側の親が何を思っているのかを聞くという機会への不安と緊張だった。今は優紀の両親が目の前にいるわけだが、かけられる言葉はどちらにしろ、優紀にとっては覚悟が必要だと思うものだと身構えていた。

 そして、母の口が開いた。


「ありがとう、友香さん」


 それだけだった。それだけ言うと二人は自分の横を通ってその場から離れていく。

 しかし、そこで母がすすり泣いているのを背後から感じた。


「ありがとう」


 だからこそ、今度は歯を食いしばりながら、安堵に似た感情を抱きながら小声でつぶやき泣いた。母親も父親もどこまでも優しい存在であったと確認し、孤独感と罪悪感が少し救われた気がしたのである。葬式であって以来、優紀は友香の両親と顔を合わせたことはない。だからこそ、夕方の遅い時間を選んで友香の元へ訪れていた。罵倒される、恨みつらみの言葉がいつか漏らされるのではないだろうかという不安が拭いきれなかったからである。優紀が親なら、そう考えると事故現場に居合わせて、庇ったとなればなおのこと悔やみきれないはずである。もちろん、今回、そんな言葉を掛けられなかったし、掛けたのは優紀の両親である。ただそれだけでも救われた、そんな気分があった。だからこそ、意を決して優紀は墓標の前に立つ。

 そして、ハッキリと菅原優紀の文字を墓石に見つけ、死を確認したのであった。


「やっぱり、ツラいなぁ」


 しかし、言葉とは裏腹に、今度は納得して落ち着いていく自分がいるのも優紀は感じていた。足の裏でしっかりと地面を感じ、拳を強く握りしめている自分をだ。


「ここから、やっと始められる」


 死者との入れ替わり。そんな超現象が起こったのならば、好都合である。成し得なかったことを成し遂げる可能性があるのかもしれないと前向きな気持ちが芽生えたのだ。

 

 後悔をやり直せる可能性を。人類史上初めての死者の、最愛の人間の復活を始められる可能性を。それがどれだけ先程の孤独を埋めてしまうほど深い深い愛だと自覚するまでもなく。

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