綴られた世界
白井坂十三
第一章:ついに始まる彼女の物語 ~分岐編~
第一筆:今日は転機
澄み切ってなめらかで吸い込まれそうに抜ける青い空がホームの隙間から見える。その青く広がる広大な海のような天上の世界に磨き積み立てられた白い雲がちらほらと岩礁を作る。そして、目線を線路の先に向ければ遠景が陽炎となり蝉の声が現実への覚醒を手助けする。
風流な表現の仕方はいくらでもあるだろうがつまり、夏である。
「あぢぃ、疲れた、眠いよジュウゴ」
大粒の汗を頬に伝わせながら菅原優紀は大学へ向かうために三番線で電車を待っていた。
疲れたや眠いを口癖のように話す彼は、成績がちょっと不審であること以外は普通の大学二年生男児である。
「日本の夏の暑さに嘆くもよし、夜遅くまで勉学に勤しむならなおよし。しかし、その実ゲームのせいなのが誠に救いがない」
いつものように九十九陸が隣で身も蓋もない相槌を叩く。優紀とは男友達である。言ってしまえば腐れ縁ということになり、中学一年から高校まで常に同じクラスで青春時代を共に過ごしてきた。そして現在、大学ですら同じ学部を専攻し、同じアパートの下、一人暮らしを互いに励んでいる。だから、朝の通学も普段とほとんど変わることなく今に至っている。
ちなみに、ジュウゴという渾名は苗字と名前の総和の読みを言いやすくした形である。
◇◆◇◆
「そういえば、今日の一限、レポート提出あったけど、あの後やったの?」
七月も末、大学生にとってはそろそろ夏休みであり、同時に良を取るため、不可を取らないため、目的はそれぞれだとしても成績を出すために誰も彼もがテスト勉強、レポートの提出と大忙しになる時期でもある。
エアコンの効いた電車内に場所を移していた二人はそんな大忙しの元凶である課題に、陸の一言で目を向けさせられていた。
「あぁ、やったとも。やったよ。でもな、終わるかどうかは別問題。ジュウゴは終わってるのか? なら、後で見せてくれ。いや、見せるべきだろ」
「嫌だね。てか、そこは最後見せてくださいで土下座じゃないの? もう単位を落とす準備ができてるその覚悟だけはスゴイと思うよ、見習いたいとは微塵も思わないけど」
出入り口付近に寄りかかりながら優紀は陸に助けを求め、陸はそれを軽くあしらった。この二人は大学生活における態度が正反対であるにも関わらず一緒にいる。
陸は何事もそつなくこなす、いわゆるデキると呼ばれる部類の人間である。そして、デキることを自慢するわけでもなく、かといって謙遜するわけでもなく、それこそいい人のそれであり、学部での人望も厚い男である。ちなみにどうでもいいが身長は優紀の方が高い。
一方の優紀は何事もギリギリでこなす。ギリギリでこなすといっても最低限を守ってこなすだけであり、決していいものを間に合わせるわけではない。毎回程よい一本の藁を掴みながら濁流を漂っている、そして漂える知識と技量だけは持ち合わせているそんな鼻につく感じのダメ人間である。しかも、そのダメ人間である点を反省せず、そのままなのがなおのことたちを悪くしている。要は開き直りの我が物顔である。
周囲からしてみればなぜそんな二人が意気投合、とまでいかなくともどうして今日まで一緒に一緒にい続けられるのかはちょっとした不思議であった。そう、大学生活という学生生活の中でもより多くの人間と接する機会があるこの環境の中で、二人は常に二人なのだ。もちろん、誰とも話さないというわけではない。
それでも強調できるほどに二人きりなのだ。
「なら、なおさら俺をお前に見習わせろ。だから手始めに課題を見せろ。いや、そもそも、そもそもだよ。どうして昨日のあの状況で終わるんだよ、おかしいだろ? 俺、昨日お前と遊んでたよな? な?」
◇◆◇◆
昨夜もいつものように二人は陸の部屋で夕飯を囲んでいた。優紀が実家から送られてくる米を炊いた炊飯器とゲーム機器を持って陸の部屋に転がり込む。そのタイミングはまさにジュウゴがおかずを作り終える瞬間である。とはいえ陸も優紀の来るタイミングに合わせているのか、ドアはすでに施錠されておらず、優紀はチャイムをならしたことがほとんどなかった。
優紀が匂いにつられて玄関からリビングまで一直線に駆け抜けると、梅肉とオクラがあえられたものがのった冷奴と熱々の湯気のでた鱚の天ぷらがテーブルに並んでいた。
「えぇ、肉野菜炒めが良かった」
「特売だったんだ、鱚」
優紀のわがままをサラッと流し、大皿にウドの卵とじをのせて台所からリビングにやってくる陸。
学生が作るにしては実に渋く、ザ・和食といった感じの夕食である。
「一合?」
「に、ちょっと盛って」
「あいよ」
優紀は慣れた手つきで陸のご飯を自前のしゃもじでテーブルにあった茶碗によそると、ご飯の残った釜を脇に抱えて腰を下ろした。この釜が優紀の茶碗となり、残った分がそのまま優紀の分でもある。
陸も腰を下ろしたのを確認すると優紀はしゃもじをくるりと手首で一回転させる。
「いただきます」
二人で声を揃えて食事前の挨拶を済ますと優紀は器用にしゃもじを使い、いつものようにおかずを釜の中のご飯の上にのせる。今回は味の濃いウドの卵とじをご飯にのせてから、鱚の天ぷらをおかずに頬張る。
陸はいつものように胃に流し込むように食べる優紀を見ながら微笑する。
「別に飯は逃げないぞ?」
「知ってるさ。熱々をこのご飯の上でキープしたいだけだよ。しかも置いとくだけで卵とじから滲み出る 美味しい汁が白米に染み渡り味付け飯の完成だ。わかるか、美味しく食べたいんだよ、量を」
「つまり、いいこと言ってるようで食い意地が張ってるだけなんだよな」
優紀は陸の嫌味を気にもとめず天ぷらと米を交互に食べ、ときたま思い出したように口直しに甘酸っぱい梅肉に夏を感じるネバネバオクラを冷えた豆腐と一緒に口にかきこむ。そう、とにもかくにもご飯がすすむ。優紀はいつものように陸より多くを食し、早く食べ終えると洗い物をするためにキッチンへと向かうのだった。
◇◆◇◆
優紀の分の洗い物が終わった頃合いを見計らって陸が入れ替わりで洗い物を始める。だから、優紀はいつものように陸の洗い物の最中にゲームの準備を始める。今は二人で無料オンラインゲームを攻略している。正確には一人で黙々とやっていても面白く無いので優紀が陸を巻き込んだのだ。ゲーム機を起動させ、自分のサーバーに颯爽とログインすると、様々なアイテムの相場を確認しながら優紀が出店しているアイテムの売上を確認する。どうやらうまく市場に乗れていたようで、出店するために集めたアイテムがしっかりと自身の資金になっていることに喜ぶ。それと同時に出店するためのアイテムを再びどう集めるかクエストを確認しながら考える。
ゲーム攻略のために始めた作業が本来の目的からそれ始めるあるあるな状況である。
「そういえば予告イベントって何時からだっけ?」
「二十時だった気がするけど」
洗い物を終え、扉から顔を出す陸。優紀は時間を確認するとイベント開始残り十七分を有意義に活かすため陸がログインしたことをコールで確認した上で一緒にデイリークエストを消化しながらレベリングを開始するのだった。
それからというのは談笑しながらゲームに没頭し続けた。途中同じチームに所属して仲も良いおはぎが合流し予告イベントに向かう。もちろん、イベントが終わったからと言ってゲームは終わらない。レベリングの続きにレアアイテムの確保。特に後者があれば三十分や一時間で終わるわけはない。日付を超えて一時間したところで陸が明日提出のレポートの話を持ちかけ、現実に引き戻されたところで終わりにするのだった。
優紀は陸の一緒にレポートをやるという提案を聞き捨てて、早々に炊飯器とゲーム機を抱えて出ていこうとする。
「たくっ、人として睡眠時間を削るのはどうなのよ。俺は寝るね、遊んだから」
「一理あるはずだけど、説得力にかけるよねぇ」
「わるぅござんした。適当にやって寝るさ」
「やらないに一票。おつかれ」
「おつぅ」
優紀は自堕落さを改めて認識しつつ、昔の自分だったらありえなかったのかなぁと思いながら陸の部屋を後にしたのだ。
ちなみに、結果はすでに分かっている通り陸は課題を終わらせ、優紀は陸の一票を受け取る形になっている。
◇◆◇◆
「そういえば……今日はどうする?」
陸は先程までの和やかなテンションから一転、声のトーンを一個下げて真面目な顔で優紀に問いかけてくる。今日だからこそ、いつか聞かれるとわかっていたことだが、自分から言い出せずにいた。
そして、いざ聞かれればそれに慣れたということはなく、電車の揺れる音が鮮明になりながら優紀は胸をきゅうっと締め付けられるのを実感した。
「あぁ、帰りに寄ってくるよ。……忘れてないから、忘れるわけにいかないから安心しろ」
「そんなことはわかってるさ。俺が聞いてるのはその後だよ。夕飯一緒にするのかって話だよ」
トーンを下げた、そう思ってしまうぐらい身構える質問だったのかと優紀は自分の深層心理に心労を感じる。陸はいつものように明るい口調であり、右手の人差指を口元で左右に振りながら応対していた。その自然な気遣いに優紀はかなわないなという雰囲気を隠さず顔に出し、深い溜息をついた。まだまだふっきれてないな、と。
そして丸まった身体を少し伸ばすようにして明るく返事をする。
「いや、今日は一人ですますわ」
「さいですか」
その時、電車の中からは窓の外は晴れているにも関わらず雨がサーと音を立てて降っていることしか感じ取ることはできなかった。
◇◆◇◆
「まもなく、……」
そんなこんなで約二十分の電車移動も終わりに差し掛かる。下車する駅名がアナウンスされたからだ。結局あの空気の後再び課題を見せてくれと嫌だの押収に各々の独自解釈を効かせるだけで移動時間はあっさりと過ぎていった。
二人は電車から降りる準備のために開くドアに向けて身体を撚る。朝の通勤時間ということもあり日本特有の満員電車ならではの圧迫感が、我先に降りようとする人々の前のめりな意識とそんな乗客に押し負けまいと身体に力を入れる人々から前後に迫ってくる。だから、優紀は陸の後ろにぴったりとくっつく形となる。
しかし、優紀は今日、いつもと違う感覚の中にいた。それは陸の背中を観ている、ということにだった。陸の背中が随分と広く、そして自分の方が少し高いと思っていた身長も随分と差があったんだなと感じる程度に。そう、一回り大きく感じていたのだ。
停車の反動で身体が大きく前後左右に揺れる。普段なら足の踏ん張りが効いているはずが、いつもより力が入らずに優紀はよろけてしまう。違和感のために気が滅入っていたからというわけでなく、ただ単純に踏ん張りが効かなかったように感じた。しかし、この時はまだ楽観的だっというか深夜まで夜更かしをしてゲームをやって、実は自室に戻った後も少しだけゲームをしていたための寝不足が疲れに出ててきているだけだと決めつけ、ある意味学生らしい無意味な充実感に浸っていた。そしてプシューッという音と共にドアが開き、優紀は前の陸に続いて駅のホームに降りようとした。
しかし、車内と車外の気温差からできる僅かな風の流れに頭部と足元に改めていつもと違う違和感を覚える優紀。髪はふわっと持ち上がるような毛量に、足元では太ももが布とこすれ合うのを感じた。そんなことに気を取られていたからだろう、電車とホームの間隔を誤ってしまい、もつれた脚からバランスを崩す。いや、これはもつれただけではなく靴そのものが普段とは違いバランスが取りづらいものだったためによろけてしまったのだ。
結果、陸の背中に頭からぶつかり、そのままホームに倒れこんでしまった。
「っう、わりぃなジュウゴ」
反射的に優紀は陸に謝った。
優紀は今でもこの時の陸の顔を鮮明に覚えている。陸自身が違和感をもったかのように顔をしかめて振り返ったのを。そして一瞬口をポカンと開いたかと思うと口の端が釣り上がり、そして何の冗談だと言わんばかりに笑ったのを。普段見せることのない豊かな感情の起伏の連続を。
もちろん、この頃の陸の立場からしてみれば、ましてやあの時を考えても当然の反応だったのだろう。
「どうしたんだよ、桜峰。急に、その……男らしい口調とか、さ」
世界が、日常が……いや優紀が一変した。
優紀はこの瞬間、陸に何を言われているのか全て、そう一言一句理解が出来なかった。当然である。優紀は菅原優紀であって断じて桜峰なんて苗字ではない。それに、その苗字を今この瞬間に聞くことになるなんて思いもしていなかったのだ。数十分前の電車内ですら、その言葉を使わずにコミュニケーションをとったばかりなのに。そう優紀が、その周囲すら日常的に意識して避けていた単語。
それをまさか陸がハッキリと言ってくるとは思いもよらなかったのだ。
「何を、何を言ってんだよ、ジュウゴ。俺は……菅原、優紀だろ? どうしてここで桜峰が……友香の苗字が出てくるんだよ。おい」
優紀はこの時自分でも驚くほどに今の状態がはっきりとわかった。自身の声が動揺を隠しきれず震えていることに。落ち着こうと息を何度も吸おうとしていることに。しかし、呼吸はそのやり方を忘れてしまったかのように乱れて、吸った息を吸い、吐く息を逃すまいとするように迅速にさらに吸っていくばかりである。そしてこの全ての原因が陸に友香の名前を出されたからではなく、さっきの自分の声が懐かしいということに気づいてしまっていたからだということに。
次の言葉が思い浮かばず、口をパクパクとするだけになった優紀は陸からもう一度何かをもらおうと、否、この状況を説明、否定してもらおうと顔を上げる。しかし、陸の顔からはすでに笑顔が消えていた。
そして、心底心配そうな顔を向けると真剣な顔で重たそうに口を開いた。
「桜峰。優紀は六年前の今日……」
それだけで、欲しくはない言葉をもらっただけで優紀が絶望するには充分だった。当然、状況をハッキリと理解したわけではない。今も頭の中はぐちゃぐちゃで底なしの沼に頭まで沈んでいるのに走っている様な気分だった。しかし、陸が嘘を言っていないという事実から納得するための最小限の理解を得た、そういったところだった。とりあえずオカシイのだと把握するのには充分過ぎたのだ。優紀はここから異様な情報量で真っ白になった頭の中、菅原優紀を探した。襲ってくる絶望の波を振り払うように。だが、一日たりとも忘れたことのなかった声が、六年前から直接運ばれてきたかのように、鮮明に探しているはずの優紀ではなく、桜峰友香の顔を脳内に映し出す。故に、彼女の存在で次々に、優紀という存在が塗りつぶされていくようだった。それは、頭の中から外に移っても同じことで、自分の姿の変化に確かな違和感を持っていた。
明らかに髪の毛は肩にかかっている。胸の凹凸はハッキリと感じ取れる。服装だって今までに感じたことのない感覚が身体に伝わっていた。
しかし、そんな自分の姿に目を向ける余裕がなかった。だが、確認をしなければと身体が何かをしたいかのように探す。そして、自然とまだ震えてもたつく手で普段ならズボンのポケットから出すはずの学生証がないことに気づく。そして、自分の肩にかかった見知らぬ手提げ鞄の中からはみ出ていた目的のものを無事見つけ出す。学生証をすがる思いで取り出し、優紀はその顔と名前を確認した。そこには、六年経てばこうなっていたのかもしれない、そして彼女の魅力の一つであった右下の泣きぼくろをもった桜峰友花という名前の女性が映っていた。
それは、優紀の知りうる限り、六年前に交通事故で死んだ自分の彼女、その女性だった。
「ちょっ……」
めまいに吐き気まで襲ってきた優紀はその場に、人目も気にせず力なく座り込んでしまう。トラウマにも近かった過去の記憶が鮮明にフラッシュバックする。克服したわけでも忘れたわけでもない。過去の一ページとしてどうにか人生というアルバムの数ある中のものにしたはずだった。
しかし、その一ページが想い出という封印をやすやす突破してきた。
「顔色悪いぞ」
そう聞こえた。そして、スッと出された手鏡から優紀は学生証と同じ顔を観た。正確にはより蒼白で覇気のない顔だったが、それを観たのだ。
優紀は理不尽で意味の分からない現状に逃げ道を完全に絶たれてしまった。
「ここだと目立つから」
今度は、はっきりとした陸の声が耳元で聞こえた。周囲はざわつき、優紀と陸を取り囲むようにポツンポツンと野次馬が集まり始めていた。しかし、そんな状況だからといって現状と過去に挟撃された優紀自身は何もできなかった。それを悟ってか、声をかけてきた陸がさらに肩をポンポンと叩き、ゆっくりと肩を貸した。
そして軽々と優紀を起こし、担いでみせた。
「いや~、すみません。お騒がせしましたぁ」
陸は人混みをかき分けながら優紀を連れて、それ以上は何も言わず構内を抜けた。
しかし、この時、実はこの状況がもっと騒ぎになっていてもおかしくないにも関わらず、そこまで至らなかった。それは人々の目が下ではなく上を、遠くを見てていたからだった。
◇◆◇◆
優紀と陸は一限の授業をふけてひっそりとした校内の一角に設けられた休憩所で沈黙を保って座っていた。駅からバスで大学まで十分。優紀は、その移動中に頭の混乱が収まったわけではないが、当初よりは落ち着きを取り戻しつつあった。そのため改めて服装や体型の変化は確認できていた。カジュアルなTシャツに股間に開放感を感じるのはミドル丈のスカート、そして肌触りのいいパンツに何より胸に当たるブラジャーの感覚。そしてあったものがなくなっていた。これが女性の身体、そして、桜峰友香が生きていたらなっていたであろう姿。
全てに対して否定を繰り返したいが、自分が惚れた女を忘れるわけがないという不確かでいてもっとも確かな感情がこの身体は間違いなく友香であると優紀に実感させる。
ここで本来、余裕があれば、ましてや二次元であればいろいろとやましい方向に流れたりもするのだろう。しかし、今回の優紀の場合はパニックに直面して出来たことは、目の前の事実確認をすることだけであった。次にどうしたらという解決策のない疑問が先行し、旋回してしまい、そんなお色気な展開を考慮する余裕が無いのであった。そして、気づけば二人きりのこの状況であった。
だからこそ何も言わず、ここまで連れてきてくれた陸はとても頼もしく感じた。また、未だ言葉を出さずに講義にも出席せず、自分を待っていることが優紀にはとてもありがたかった。同時に、自分が一限の講義をサボっているという事実を理解するぐらいに周りが見え始めてきていた優紀は休憩所の机に頬杖をつきながらただ窓の外の景色を見つめてより落ち着こうとしていた。頭の中は未だに未処理のものが多い状態である。だが、いざ落ち着こうと改めてわりきった瞬間、あれだけ優紀という自身の存在の消失を恐れていたはずの人間が、まったく別のことを考え始めていることに気づく。それは先ほどとは全く反対の反応である。それでいて優紀にとってある意味最も望んでいた感情の一つでそれがひょっこり顔を出したのだ。
それはかつて望んでいたことの達成という歪んだ幸福感だった。
◇◆◇◆
友香は六年前の中二の夏、雨が降る下校中、優紀の身代わりとなり目の前でトラックにハネられた。それは付き合い始めて一年経とうとしていた矢先の事故だった。
その日は優紀が傘を紛失したので友香の傘に入り相合傘で下校していた。相合傘自体は特別珍しかったわけでもなく、周囲からも公認の恋人だった二人は照れも恥じらいもなく歩いていた。どちらも部活動をしていたわけではなかったので放課後、すぐに帰路についていた。そこへトラックが下り坂に侵入し、水たまりにタイヤを滑らせハンドルの自由を失い、交差点の信号を無視して二人に突っ込んできたのだ。これは後になり全てニュースで知ったことである。
そして、優紀より先にトラックの存在に気がついた友香が自分を突き飛ばしたことにより優紀は助かる形となった。そして、優紀はこの瞬間を忘れたことがなかった。瞬間と言うにはあまりにも長く感じた時間。そこで確かに、トラックのヘッドライトに照らされた友香と目があった。
突き飛ばされてアスファルトにその身が打ち付けられるまでの間、確かに制服のスカートを翻し、満面の笑顔でハッキリと口元を動かしていた友香を優紀は観ていたのだ。
「ありがとう。私はいつだって優くんのそばにいるから」
声を聞き取れたわけではない。ただ、そう観えたのだ。そして、背中にヌルっとした水の感触を得た時にそのまま頭も打ち付けた優紀の意識はそこで途切れることとなる。身体をくの字に曲げ、不気味な音をたてた友香をその目に焼き付けて。
目を覚ました時には白い天井、すなわち病室にいた。そばにいた両親はその光景に喜んでいた。だが、優紀が身を起こして友香の名前を口に出した瞬間、顔が一瞬で曇ったのがわかった。優紀はだろうなと至って冷静に思いながら再び横になった。幸い、怪我は大したことがなくすぐに退院することになる。
葬式に参加する誰もが、友香の親族ですら優紀のせいではないと言ってくれたが、身代わりにしてしまったという意識はどうしても優紀を攻め続ける形で残った。特に、友香の両親が自分のことを微塵も恨んでいないはずがないないのだと思いながら。しかし、不思議なことに時間は経過しても涙は出なかった。代わりに葬儀を終えてから三日間、部屋から出ず、魂が抜けたように布団の上から微動だにしていなかったことだけは覚えている。いわゆる、自己防衛だったのだろう。そして、毎日、毎分、毎秒と思ったのだ。
死んだのが友香じゃなくて自分だったらよかったのにと。
「お前はお前の人生を二倍以上に楽しむ権利がある、と思うわけだよ。そう、義務じゃなくて権利ね。お前が桜峰のおかげで生きていると思うなら、助けられた意味を考えてもいいんじゃないか? お前が助けられたのは間違いないだろ? 助けられたんだ。犠牲とか身代わりなんて賢そうに悲しみに浸れそうな言葉に寄りかかるなよ。お前は桜峰のご行為を無碍にするようなカッコ悪い男なのかよ」
四日後、学校へ出席しない優紀を心配して陸は閉めきった部屋の扉を開け、ズカズカと窓際まで来ると窓を思い切り開け放った。
勢い良くカーテンが外側にはためく。
「そう、お前はこの権利をイケメンゆえに行使する。桜峰の選んだ男だろ? 胸を張れよ。大変なら俺がついてる。だからお前の人生ぐらい百倍には楽しくして、魅せてやれるからさ」
慰めの言葉にしてはとても朗らかな空気を終始まとわせ、真剣味を微妙にそぐものだった。それでもしっかりと考えてきた言葉なのだということは、優紀を思っての言葉なのだということは痛いほど伝わってきた。何より、陸は優紀に誰もしなかった責任を負わせたのだ。お前のために友香は死んだのは間違いないと。残酷に見えるかもしれない。だが、それを前向きに捉えさせた上でポンと間違いなく背中を押してくれたのだ。友香の愛してくれた自分は、それだけの価値があるのだと。そう思わなければ、友香に失礼であると。思いにけじめがついたわけではない。全て生きている側の都合に合わせた感情論だとも思う。それでもただ一点疑いようのない点があるとするならば、きっと友香は自分を愛してくれていた、ということだった。
だから、優紀はなんとか一歩を踏み出せるようになったのである。
「今の俺の価値が百倍で補えると……思うんじゃ……ねぇぞ」
優紀はようやく泣いた。そしてこれを堺に二人の絆はより深くなったのだった。優紀は友香の死を背負って楽しく、陸はその人生を見守るために。
ただ、友香が生きていれば、という気持ちが失われることはそれでもなかった。
◇◆◇◆
当然と言えば当然のことだが、優紀はこの状況になって、あれだけ辛く悲しかった友香の死んだ日のことを思い出していた。いつまで経っても色褪せない記憶。いや、洗っても決して落ちることのない匂いのような、重くのしかかる、のしかける記憶。そう、未だ鮮明にその日の情景も感情も薄くなることなく思い出せるのだ。それだけ優紀にとって重大なことだった、とらわれざるを得ないことだったとしても、陸に手を差し伸べてもらったとしてもブレることなく残り続けるその日の全てを、今に限らず、いついかなる時でも思い出せるのだ。だが、今日に関して言えば、いついかなる時と言えど、心に留めていても常に思い出そうとしているわけではない。それでも、やっぱり思い出せるのだ。
その明瞭さに若干の執念と置き換えて済む問題かと思える、ちょっとした自分に対する不気味さを感じつつあった。
『ありがとう。私はいつだって優くんのそばにいるから』
その違和感が最大限にあるとすれば、この聞こえてもいない言葉だろう。確かに友香は言っていた。それは疑いようのない事実だった。ただ優紀はそれを観たのであり、聞いたわけではない。最期の言葉だったからというのもあるが、それでも記憶に鮮明に残る言葉に優紀は今更、いな、この状況になったからこそ思うところがあった。口の形である程度わかりはするかもしれないが、引かれて飛ばされていく人間の口をそうできるのだろうかと。その疑問を解決できるとすればそう言ってもらえたと優紀自身がその言葉を美化している可能性だった。ただ、優紀はその可能性を前向きに検討することは出来なかった。なにせ最愛の人が残した言葉を一言一句間違えて覚えていたと思いたくないからだ。
それでも、なぜ今日という日に限って思い出した矢先にこんなにこの言葉を考えさせられるのかは優紀自身では全くわからないことだった。そう、これほど優紀が友香から愛されていたということを疑わないのと同じくらいに……。
◇◆◇◆
想い出と向き合い様々なことを沈黙の間考えることが出来た優紀はふと隣でずっと見守ってくれていた陸のことを思い出し、そろそろ何か喋って陸にも、いや、自分で自分の気持ちを紛らわせる、整理しようと話をふることにした。
「なぁ、ジュウゴ」
陸はこちらにゆっくりと身体の向きを変えながら、それでいてやれやれといった顔で顎を突き出し、言葉を促した。
「昨日の夜、俺達、何してたか覚えてるか?」
「ん~……、そうだなぁ」
陸は優紀の喋り方に違和感を覚えているように眉間にシワを寄せつつ、椅子に背中を預けて額に手を当てる。
「桜峰が夕飯を作りすぎたって言って俺のところに来て一緒に夕飯にしたよな? その後今日のレポートを俺が手伝って解散、だったはずだよな?」
陸は優紀に確認するように説明した。そして、優紀はやはり記憶とハッキリとした違いがあるのを確認したのと同時に、もし友香が生きていたらこんな感じに生活していたのだろうと思った。そう、友香の姿を追いかける。
思考している姿が沈んでいると捉えられたのか、陸が口を開く。
「まぁ、今日があいつの、その、なんだろう。まぁ、取り乱す理由としてはわからなくも、ないけど。取り敢えず、元気出せよ。桜峰のそんな姿、みたくないって」
「二倍以上、だっけ?」
「百倍でも足りないんだろ?」
陸は変わっていなかった。こんな状況になってもあの日の優紀にかけた励ましを覚えていて、友香となった優紀を気遣うのだ。しかしそれは、今の陸からすれば友香に投げかけた言葉ということになる。それは友香も優紀が死んだ時、それだけ思って来るんしんだのだろうかということだった。こんな時に考えることではないかもしれないが、それがなんとなく嬉しかった。
一方であれだけ動揺していたとは考えられないぐらい今は冷静に自己分析が、俯瞰できている。
「そう……だったかもね」
だからこそ、この時、優紀はこの事実を陸には隠すことに決めた。事態をややこしくしたくないということもだが、これ以上陸に迷惑を掛けたくないというのが本心だった。だから、優紀は友香を演じることに決めた。
だからこそ、今は友香らしく、優紀の記憶の先にいたであろう彼女の姿に成りきる。
「あ、ありがとう、ジュウゴくん」
その言葉を聞いて安心したのか陸の表情は幾分良くなったように見えた。
「じゃぁ、二限までこのままゆっくりしてようか」
陸が欠伸をするのにつられて優紀も大きな欠伸をするが、普段と違って手で隠すのだった。そして、ゆっくりと時間が経つのを二人で感じるのだった。ちなみに二人が今朝の世間的な異変に気づくのは一限の授業が終わり、生徒たちが教室移動をしている時だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます