第7話

 下り坂は一本道だった。黙々と前に進む。ヒノキはシラカバの滑らかな手の感触に胸が高鳴り続け、恐らくシラカバに知られていることを思い、ぎゅっと目をつぶっていた。


「ヒノキ、着いたようだ。広い場所に出た」


 確かに、通路とは違い、空気がこもった感じがない。


「蝋燭が残っているようだ。火をつけてごらん」


 手探りで火口箱を取り出し、火種を熾す。油を染ませた縄に火をつける。真っ暗な闇に目が慣れていたせいで、その小さな火でも辺りの様子がよく見えた。


 広く丸い空洞の中央に大きな石塔がある。塚というより祀られているようだ。


 すぐ右手の壁に灯明皿が据え付けられ、半分ほど溶けた蝋燭が残されている。火を移すと洞内は光り輝いた。

 石塔が火を反射し、美しい。黒曜石のような滑らかな石肌は女性の肌にも似た柔らかさを感じる。


「御師様、石塔に文字が書いてあります。が、梵字のようで私には読めません」


「そう。書き写して、仁左衛門さんに読み方を教えてもらうと良い」


 地図の隅に梵字を書き写していると、石塔の文字がどろりと溶けたように見えた。

 驚き目を上げたが、文字に異変はない。


「ヒノキ、下がりなさい!」


 突然、シラカバが叫び、ヒノキと石塔の間に駆け込んだ。石塔がぐにゃりと歪む。ヒノキ目掛けて倒れてくる石塔に、シラカバが突き出した杖が深く刺さる。


 ずるずると杖が石塔に飲まれていく。もう一歩でシラカバの手も飲み込まれるというぎりぎりで、シラカバは手を離し、飛び退った。


「御師様!」


 武器をなくしたシラカバの代わりに自分がどうにかしなければ。ヒノキが思ったことを見抜いたようで、シラカバは優しい微笑みをヒノキに向けた。


「心配いらないよ、ヒノキ。火を消してくれるかい?」


 それでは何も見えなくなってしまう。そう思い、師の目が利かないことを一瞬、失念した己を恥じた。走り行き、蝋燭の火を吹き消す。


『愚かなものよ』


 空洞内に女の声がこだました。


『女は闇を恐れるとでも思ったか? どれほど暗かろうと、わらわの目に見えぬものなど……」


 声の途中で獣の鳴き声が聞こえた。洞内に響き渡り、鼓膜を破るかというほどの力。


『な、なんだ、そなたは』


 石塔が叩き折られた。爆発的な音が、無数の石塔のつぶてが壁に打ち当たっている様子を伝える。


 なにがいるのだ?

 御師様はどこへ?


 ヒノキは闇の中、なにもわからず壁に背中をつけて震えることしか出来ない。


「私の杖を返してもらうよ」


 シラカバの声だ。岩を崩すガラガラという音と共に、女が怨嗟を吐く。


『そなた、異形か! わらわを石榴姫と知っての所業か!』


「石榴姫? 封じられているのは、ただの右足だと聞いたのだけどね」


 びゅう、と、聞きなれた音がした。杖が振るわれ、シラカバが辺りを薙いだのだ。

 ヒノキは暗闇の中に白木の杖を見た。右に左にと石塔を薙ぎ払い、石片を洞窟の壁に叩きつける。石塔に突き立て、より深く穴を穿つ。


『止めよ! 止めよ! わらわを地上に戻すのは止めておくれ!』


「なぜ? 自由になりたくないのかな」


『自由など、ないわ! わらわはただ地を這うのみぞ。踏みつけられ、踏みにじり、もう懲り懲りなのじゃ」


「あなたが懲りても、あなたの頭はまだ諦めてはいないようだ。妖力が戻っているのを感じるはずだ」


 杖が閃き、石塔の基礎部を粉々に砕いた。


『そなた、情けは持たぬのか』


「右足を置いていれば、村にあやかしが集まって来る。人を殺めるものも出た」


 闇の中に、さらに昏い闇が凝った。美しい女の姿をしている。半裸に纏っているのは絹の薄物一枚。長い黒髪は足首までも届き、化粧もせずとも真っ赤な唇。男を惹きつける力が漲っていると知る女の笑い方をしている。


『異形が人の心配か。ふふふ、愚かな。そなた、そこな子どもに見せたのか? 己の姿を』


「あなたの最期の言葉を聞こう」

 

『そこな子ども。よく見ておけ。これがこの者の真の姿じゃ!』


 女が恐ろしいほどの光を生んだ。身が何万もの光の粒になって弾け飛ぶ。あまりの眩しさに腕で目を覆おうとした刹那、石塔の欠片の中央に人影が見えた。


「御師様」


 口を突いて出た言葉が正しいのか、ヒノキは分からないまま目を瞑った。


 光が消えてなくなると、恐ろしいほどの静寂が残った。目が痛み、開けられない。ガラガラと石を掻き分けながら、何者かが近づいて来る。

 足音がしないのは、足の裏に柔らかな体毛が生えているからではないのか。暗闇の中、真っ直ぐヒノキに向かえるのは光目を持っているからではないだろうか。光の中で見えたのは、たった一つの影だけ。

 異形の影だけ。


 そのものがすぐ近くで止まった。カツンと聞きなれた、杖が突かれた音がする。

 ふわりと優しい腕に抱き込まれた。


「怖かっただろう。すまないね、待たせてしまった」


「……御師様」


「ああ。帰ろう」


 シラカバに手を引かれ、坂を上る。いつもの、よく知ったシラカバの手だ。温かく、柔らかで、力強い。


「御師様」


「なんだい?」


「地図を落としてきてしまいました」


 ふふ、とシラカバが笑う。


「大丈夫。もう道は覚えたからね。ヒノキは私が手を引いていってあげよう」


 どこまでも、シラカバは手を引いてくれるだろう。それが例え闇の奥の異形の棲み処だとしても。

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