第5話

 仁左衛門の好意で三日を療養に当てることが出来た。

 普段であればシラカバの身の回りの世話はヒノキがすべて行うのであるが、仁左衛門の屋敷では女中が何人かついた。

 ヒノキの面倒も見てもらえたが、シラカバに近づいてはいけないような気がして、もやもやし通しだった。




「ヒノキ、見えるかい?」


 屋敷の外に出て峠の方を指差し、シラカバが尋ねた。


「ここからでは、何も。姿を隠しているのか、どこかへ飛び去ったのか、わかりません」


「出向いてみよう」


 そう言うと、シラカバは散歩にでも行くかのような気軽さで峠に向かって歩き出した。

 杖を突き、さくさくと落ち葉を踏む。ヒノキは一歩下がって付いていく。シラカバに目が必要ないことが、ヒノキには少し残念だ。

 手を引くことも、着替えを手伝うことも出来ない。弟子と言われているが、甘やかされていて鍛えられることもない。

 ただ、付いて歩くだけだ。


 野盗が出たせいか、人通りがない。ぐるりと遠回りをすれば、なだらかで見晴らしのいい道がある。近道だからと、危険な峠を選ぶ者はなかなかいないだろう。


「御師様」


 峠まであと一息というところで、ヒノキが緊張した声で呼びかけると、シラカバは立ち止まった。杖を真ん中で持ち、力を抜き、だらりと腕を垂らす。


 峠の向こうから、女が一人やってきた。

 火のような真っ赤な着物を着て、長い黒髪は結い上げずに垂らしている。


 しずしずと近づいてきた女は二人に笑いかけた。ヒノキの背筋に幻の鬣が生え、ざわざわと騒ぐ。


 立ち止まった女は笑い続け、なにも言わず、動きもしない。

 ただ、口だけが左右にゆっくりゆっくりと裂けていく。髪が逆立ち、目が釣り上がり、着物が肩から滑り落ちる。


 真っ赤な着物は腕にまとわり付き、女は両腕を優雅に持ち上げた。下ろすときには腕ではなく羽になり、ばさりと大きな風を吹かせた。


 耳に千本の針を突き立てられたかのような痛みを感じて、ヒノキは耳を塞いだ。女が、羽ばたき、舞い上がりながら大音声で鳴いたのだ。


 今や、女であるのは顔、それも目と鼻だけだ。嘴が生え、翼を羽ばたかせ、鋭い蹴爪でヒノキとシラカバを狙っている。


「ヒノキ、ここにいるのは、あれだけか?」


「はい、御師様。かなり飢えているようです。お気をつけて」


 シラカバは小さく頷くと、手近な木に近づき、足をかけたと見るや、姿を消した。

 ヒノキが見上げると、木の枝から枝へと飛び移りながら、より高い木へ移動していく。


 怪鳥は狙いをシラカバに絞り、翼をたたむと、急降下する。

 シラカバは高木の細い枝に、すっと立ち、怪鳥を待つ。一線に飛び来る怪鳥が大きく嘴を開けた。シラカバは飛び上がり、嘴の上に飛び乗った。

 女性のもののような眼間に杖を叩き込む。


 怪鳥がなお一層、大きく鳴く。その声は地を揺るがし、ヒノキは倒れ込んだ。

 シラカバが怪鳥の頭上に飛び移り、両手で握った杖を怪鳥の首に突き下ろした。

 がくりと怪鳥の頭が垂れた。そのまま羽ばたきも出来ず、森に向かって落ちていく。シラカバは怪鳥の首を蹴って木の枝に移動した。


 巨大な怪鳥が落ちるごとに、木が薙ぎ倒されていく。地面に叩きつけられた怪鳥の上に、倒れた木が何本か覆いかぶさった。


 シラカバが怪鳥に近づき、止めを刺そうと杖を青眼にかまえたが、ふと動きを止めた。


「ヒノキ」


 呼ばれて駆け寄ると、シラカバは顔を仰向けてなにかのにおいを嗅いでいた。


「覚えがあるのだよ、この怪鳥」


 ヒノキが目を凝らして見ると、怪鳥の目と鼻は人に化け損ない、もとの鳥の姿に戻れなくなったものだと思えた。


「……シイ?」


 鳥の目はヒノキを見つめた。嘴が弱々しく震え、ピイと雛のような声で鳴く。

 その目も、その声も、ヒノキは忘れることはなかった。


「なぜ、シイがここに?」


 捕縛され、殺されたはずのシイがここにいるということは。ヒノキは身を震わせる。


「里は、里の人達はどうなったんでしょう」


 怪鳥が本気で暴れれば村の三つや四つ、あっという間に潰されてしまう。いくら術士だらけの里と言えども、無傷ではいられないはずだ。


「無事であることを祈ろう」


 シラカバが静かに言う通り、他に出来ることはない。ただ後悔が募るばかりだ。


 怪鳥の雛を助け、育てたこと。早々に山を出なかったこと。どこかで行いを変えていたら、シイが人を害すことはなかった。


「ヒノキ」


 シラカバにぎゅっと抱きしめられた。


「お前に会えて、私は幸せだよ」


 ヒノキは声を殺して涙を零した。

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