42 木野さんの憧れと暴走
話を聞いてみると、なんとも嬉しいような、こそばゆいような、今までの事を考えるとふざけるなと叫びたくなるような事実が浮上してきた。
有難いことと言って良いのかどうかはこの際置いておいて、木野さんは私なんかに憧れてこの会社への入社を決めた女の子だったのだ。
確かに一昨年、人事の依頼で入社1年目の社員代表として内定式に赴いてひとつ下の後輩の前でスピーチをしたことを覚えている。
初年度から一課に配属され辞めることなく働き、短い期間でそれなりの業績の残していた私が当時の新入社員代表に選ばれたのだ。
でもって、木野さんはそんな私の話を聞いて憧れ、他社からも出ていた内定を蹴り、心情そのままに入社式を迎えたのだった。
研修期間を終えてその後、夢のOL生活にいざ羽ばたかんとしたときに、木野さんにとって衝撃的な出来事が起こる。
配属先が営業ではなく総務だったのだ。
研修中に細やかな気遣いと事務処理能力が高いことを評価され、営業に必要な精神的な強さが足りないと判断された結果出された人事だった。しかも、内定式で私の話を聞くまで事務希望だった事も悪い方向に作用した。
その人事は入社する前から営業部で頑張ろうと思っていた木野さんにはあまりに大きなショックを与えてしまった。
ショックに打ちひしがれながらも、勤務してからの配置転換もあると知った木野さんははじめの内は精力的に働くのだけれど、私は2年目も調子が良くて成績が伸びていたので、自分との差を感じて焦りが募る一方だったという。
そして、いつの間にか自分には追いつけない、同じようには仕事が出来ないと気持ちが下向きになり、コンプレックスを作るだけ作って、仕事に対して消極的になっていった。
そんな日々を送っていたときに偶々飲みの席で良也と出会ったというのだ。
当時私と付き合っていた良也が私の愚痴を吐き出し、木野さんのすることに対して喜んでくれるのに何とも言えない優越感を抱いた。
その心地よい感覚に惹かれて良也に尽くしている団扇に恋をして、付き合いたいと思うようになったとか。
結果として私と良也が別れて良也が完全に自分のモノになったとき、はじめて川瀬陸に勝った、自分にも私より優れた部分があるのだと実感が湧き、今まで仕事で感じた事のない達成感を味わえたらしい。
けれども付き合っている内にその感覚は薄れていき、次第に良也が自分と私を比較してるんじゃないかという強迫観念に囚われて疑心暗鬼になっていく。
そして実際良也は私と木野さんを比べており、それが木野さんに伝わらないわけもなく、それから先は負の連鎖。
極め付けが社員旅行。
「私、遠くから川瀬先輩がビーチバレーしてるいのを見てたんです。運動神経まで良いって知ってなんだか無性に張り合いたくなってしまって……。けど見せつけるつもりで良也を連れていったら、もう良也のことなんか全然気にしてなくて、代わりに榊課長とすごく親しげで、挙句の果てに――」
“正反対”。
私と二人でした会話のこの言葉が一番問題だったらしい。
拗らせて憧れている張本人から自分とアンタは全く別なのだと言われたのだ。
自分と違って女の子らしい木野さんを羨んで言った台詞だったのに、逆に相手を最大限に傷つけることになってしまったとは思いもよらなかった。
傷ついた木野さんは自暴自棄になってとんでもないことを考えた。
自分だって負けないと。
良也と同じように現在進行形で私と親しく見えた課長も振り向かせてやろうと。
そしてその気持ちは良也との喧嘩によって引き返すことの出来ないものになり、話の流れによって営業で活躍するという当時の目標もやる気も取戻し、今日まで奮闘したというわけだ。
「営業にも転属が決まったし、榊課長も私の話を聞いてくれるようになったし、何より自分のやりたかった仕事が出来るのが嬉しくって、私ここ最近今までにないくらい充実してたんです」
「で、なんで急に馬鹿みたいに暴走したんだ」
課長が対して興味もなさそうにソファの背に肘をのせてだらしなく頬杖をついている。この人は今家にでもいるつもりなのだろうか。
私はそんな課長を横目に木野さんの話に耳を傾けた。
木野さんはそれまで床を見つめていた視線を上げて良也を見やった。
「……榊課長が今日出勤されること知っていたから昨日聞けなかったことを聞こうと出社したら良也が居て――」
廊下で言い争いになったということだ。
売り言葉に買い言葉。
良也は勢い余ってあろうことか、これから私と二人きりで第一資料室に行くんだから邪魔者はさっさとどっかに行け、とそれはもう意味深に言い放ったという。
興奮状態の木野さんはその言葉を真正面から真に受けて映像資料室の卑猥な噂が頭を駆け抜けて頭に血が上ってしまったとかなんとか。
そこまで聞いて私は頭を抱えてソファに深く沈み込んだ。
隣で課長が「ああ、あの下らない噂」と遠くを見た。どうやら知っていたようだ。
「川瀬先輩と良也がよりを戻したと思ったら居ても立っても居られなくなって……。それに、違和感もあったんです。川瀬先輩、良也に興味なさそうだったし。どちらかというと――」
木野さんは視線を良也から課長に移す。
私はその動作を見て、何か良からぬことを言われる予感に襲われ身を起そうとしたのだけれど、木野さんは私が触れて欲しくないところは避けて、話を続け出したので安心して再び脱力する。
それで、それまで自ら赴いた事の無かった資料室のデータを見たいので資料の探し方を教えて欲しいと言って課長を連れ出したのだった。
資料室に辿り着くと居るはずの私達の姿が見えず、当然奥の映像資料室に居ると推測する。そして、私と良也の関係が戻ったのが本当なんだと思い違いをした。
ならこっちこそ見せつけてやる。自分は良也なんかよりレベルの高い男を落として良也は勿論私にも悔しい思いをさせようと思い立ち、その場の勢いで色仕掛けに出た、というのがことの顛末だった。
何とも想像しづらい予想外の話である。
どうしてそこまで考え無しになれたのかがさっぱりわからない。
けれども長い事不安と劣等感を抱き、溜め込んでいた心に掛かった負担は簡単に私が想像できるようなものではなかったのだろう。
あれこれ悩んで寝不足と体調不良にみまわれた自分だからわかる。
すべてを話し終った木野さんは情緒不安定になって泣きはじめ、良也は唖然としたまま床に座り込んでいる。
私も予想もしなかった事実を聞かされ唖然として言葉が出てこないところだったが、幾つか疑問が浮かんで隣で一人冷静な顔をしている課長に問いかける。
「課長は木野さんが何を考えているのかわかっていたんですか?」
「……まあ、あれたけ常に川瀬川瀬って言われればなぁ。旅行のときからずっとだったし」
「旅行のときから?」
「初日の宴会の時からお前の話題ばっかりだったぞ、こいつ」
「――あっ」
「だってそれは、それ以外共通の話題が思い浮かばなかったから……」
木野さんは気まずそうに呟く。
私は旅行中に見た木野さんに向けられた課長の笑顔を思い出した。
あれは、私のことを話しているときに出た表情だった?
「一課に入るとかなんとか下らないこと言ってしつこく付きまとってくるくせに、話をすればどうやったら川瀬先輩みたいに、こうすれば川瀬先輩みたいにってやる気満々だったからな。元々営業志望だったのに総務に配属されたって話も聞いて、何となく気になって調べたらこれがとてつもなく面白い」
「面白い?」
「内定後に職種希望の変更があったから人事がその理由を文書で提出させていたんだが、その志望動機欄がすごかった。まだ入社してもいない学生が『川瀬先輩みたいな格好いい営業ウーマンになりたいです』って小奇麗な字で書かれているのを見たら吹き出すしかなかったな」
「ちょっ、言わないで下さい!」
泣いていたはずの木野さんがとてつもなく慌てて前のめりに叫んだのだが、課長の口は止まらない。
「それを見て以降、木野が川瀬の名前を出す度に俺の頭に浮かんで来るのはその書類だ。微笑ましいったらなかったな。仕事もまあそれなりに真面目に本気で頑張っているようだったから構ってやっていたわけだ。木野の眼中にお前と杉浦は入っていても俺は枠外。そうわかっていたから絡まれても適当に放っておいたんだけどなぁ」
思わせぶりに語尾をのばした課長に対して木野さんは頬を赤く染めて俯いた。
「……すいませんでした」
「全くだな」
課長はきっぱり言い切ると、膝に手をついて立ち上がる。
そのまま立ち去りそうな雰囲気だったが、課長はそこで私を見下ろした。
少し伏せ気味な視線が先ほどまでと違ってどこか陰っているのは気のせいだろうか?
「人様の色恋沙汰や女の嫉妬なんてもんには興味はない。いい歳した大人の個人的な問題に俺が関わるのは筋違いだと思っていた。川瀬が予想以上に参ってるようだっだし、ずっと様子がおかしかったから、そこは気になってはいたんだが……」
「課長?」
見慣れぬ表情が何を語っているのかが分からず必死にそれを読み取ろうと見つめ返す。
でも陰った表情は消えてしまった。
「まあ、お前が一番理不尽に巻き込まれたんだ。気が済むまで説教でもしてやれ。文句は俺が言わせない。どう考えても馬鹿はこの二人だからな。それでも気が済まなかったら、何でも言え。杉浦は懲戒解雇、木野の人事異動と減給くらいなら幾らでも手配してやる」
容赦のない物言いに良也と木野さんの肩がビクリと動く気配がする。
良也はともかく木野さんにその処分を下すのは職権乱用ではないだろうかと一瞬頭を掠めたが、おそらくこの人ならなんの戸惑いも障害もなくそのくらいのことはやってのけるだろう。
でも、その力を頼る気には何故か全くならなかった。
「お気持ちだけ受け取っておきます。自分が納得できればそれでいいです」
自らの意思を真っ直ぐ伝えると課長は「そうか」と呟いてドアに向かって踏み出した。
その一歩が完全なオンオフのスイッチだったかのように、課長はそれまでまとっていた空気を一掃して仕事モードに切り替わった。
「俺は仕事に戻る。お前達も適当に戻れ。会社は仕事をするために来る場所だ」
上司として放たれた淡白な言葉。
素っ気ない風だけれど、私はゆっくり話してから来いと言われているような気がした。
「はい」
自然と口にした返事。
仕事中と同じありきたりな一言の返事だったけれど、ここ最近で一番穏やかな気持ちで言えた。
課長はそのまま振り返ることなく資料室を出て行ってしまった。
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