41 ピンチ転じて
「で、何を調べたいんだ」
「その前に、川瀬先輩いないですね。ここの鍵持っていったのって川瀬先輩ですよね。ドア開けっ放しでどこ行っちゃったんでしょうね?」
「さぁな。それより早く用事を済ませろ。こっちは忙しいんだ」
「そんな急かさないで下さいよ。今日は土曜日じゃないですか。業務時間外ですよ」
「仕事がなきゃ会社に来てない。終わっていたらとっくに帰っている」
「あはは、確かにそうですね。じゃあ私の調べ事何ですけど――」
木野さんの声が途切れる。そして甘ったるい声色に変わって言葉が紡がれる。
「榊課長、私にご興味ないですか?」
「……はあ?」
予想外の問いかけだったのだろう。課長の声は普段より幾分か間の抜けたものになる。
「だから、私に興味ないですか――女として」
甘い問いかけの後、沈黙。
そして大きなため息が聞こえてきた。
壁が薄い。
「ない」
「即答ですかぁ?」
「ああ、ない」
きっぱり言い切る課長に私は幾分ほっとする。けれども木野さんの声は傷ついた様子もない。
「ショックですぅ。私これでも女としての魅力に自信あったんですけど」
「それは見込み違いだったな。話はそれだけか。なら――」
「前の彼氏は私の魅力に惹かれて川瀬先輩よりも私を選びましたよ」
私と良也の身体が同時に強張る。それでも会話は淡々と続く。
「……それはその彼氏がお前の方が好みだったんだろうよ」
「榊課長は私より川瀬先輩の方がいいんですか?」
ドキン。
木野さんの問いに私の心臓が跳ねる。
「木野。お前何がしたいんだ?」
課長が心底呆れたようにため息まじりの息を吐く。
それを受けても木野さんは明るい声のまま言い放った。
でも、声質が今までと違う。
「私は今榊課長がとっても欲しいんです」
可愛い女の子というイメージが強かった木野さんの普段の姿からは想像できない妖艶な声音。
背中に冷たいものが走る。
私の上に覆いかぶさる良也も息を呑んで固まっている。
何なんだこの状況は。
「言っただろ。興味がない」
「でも、男の人って興味のない女の人でも手は出せるんじゃないですか?」
「そういうやつは実際は少ないんじゃないか」
「榊課長はそういう人ではないと?」
「……何が言いたい」
「私、榊課長のこと好きなんです。どうしても私じゃダメですか?」
挑発的で情熱的な言葉と冷静な言葉の応酬。
そして訪れる沈黙。
胸が苦しい。
張り詰めた空気の中で課長は今何を考えているの?
私の不安が一杯になったその時、薄い壁の向こうの気配が揺らいだ。
「はっ」
乾いた笑い声。
その場の空気を破ったのは課長のほうだった。
「そうだな、俺はどうでもいい女でも抱こうと思ったら抱けるかもしれないな」
淡々としたしていたけれど、先ほどまでと明らかに変わった声質。
攻守が逆転したと瞬間的に相手に分からせるような、強い男の有無を言わさぬ声。
「……なら私と今ここで遊んでみませんか?」
明らかな誘い文句を放っておきながら、女の迫力は先ほどまでとは打って変わって弱い。
一方、男の方はその分より力を増す。
「ふうん。お前は俺と遊んでどうなりたいわけ?」
口調が砕けた。
――上司として接していない。
男は畳みかける。
「木野は俺に抱かれたいんだろ、今ここで。それで、俺に抱かれてその後どうするんだ?」
見ているわけではないのに、課長と木野さんの距離が縮むのが分かる。
自分の心臓が壊れそうだ。
「その後は……」
言い淀む木野さんに男は容赦しない。
「――お前には俺とのその後のビジョンなんて何もないだろうが」
突如、妖艶だった男の声は怒りを孕んだより低いものに変わった。
「先に何もないのに、その場しのぎで俺に体を捧げたところで何になるって言うんだ。一時だけ勝った気分に浸れたところでそれでおしまいだ。俺はどうでもいい女を抱けても、その女にその後媚びたり懐いたりしない」
「そっそんなのわからないじゃないですか」
突然木野さんから余裕がなくなる。
声から伝わってきたのは必死さだ。
「もしかしたら、課長だって私を抱いたら私の事のほうが好きになるかもしれない!」
「じゃあ百歩譲ってそうなったとしよう。で、お前は満足か?」
「満足します」
「嘘だな」
本人の言葉をばっさり切り捨てる発言は本人のよりも確信を持った口調だった。
「無意味なことをしているって自分で分かっているんじゃないのか? お前はこの方法じゃ全然満たされないだろう」
「……何のことですか?」
「それとも当てつけみたいに見せつけられたら満足か? 一人でアイツが持ってるものを羨ましがって欲しがって。アイツより自分が優れた部分を無理やり作ろうとして。以前に一回上手くいったことを良いことに、その武器使って今度は俺を落としてどうするつもりだ。満足するわけがないだろう」
――当てつけ?
――アイツ?
「馬鹿なこと考える前に、もっとやりようがあったんじゃないのか。俺はお前のことをそこまで馬鹿じゃないと思っていたんだがな」
「……だから、何を言っているんですか」
「面倒くさい奴だな。自分の好きな相手を間違えるなって言ってんだ。お前が本当に落としたいのは――」
「やっやめて下さい! ここで言わないで!」
突如木野さんは大声で課長の声を消し飛ばした。
何? どういうこと?
意味がわからない。
私の中で疑問が全く解けない。
良也もそれは同じようで、いつの間にやら力を抜いて壁の向こうの会話に聞き入っていたようだ。
訳はわからないままだったけれど、このチャンスを逃す手はない。
私は隙を見て良也の胸を押し、空いた隙間から体をずらす。
「あっ」
良也は私が逃げ出そうとしていることに気がついたのか再び体を押さえようと腕を伸ばしてくる。けれども、そう何度も自由を奪われてたまるか。
こちらから良也の腕を取ってもみ合う形になる。隣の部屋を気にして声を抑えつつも抗議する。
「ちょっといい加減にしてよっ」
「静かにしろよ。俺の話はまだ終わってないんだからな」
「さっき終わったでしょっ、もう離して!」
「なんだかよくわからないけど、榊課長は由香里のことそこで抱けるって言ってたぜ。だったら俺達も――」
何を言ってるんだこの馬鹿は。
「ふざけるのも――」
「いい加減にしやがれ」
「「え?」」
先ほどまでくぐもって聞こえていた声が急にはっきりと耳に届いておかしいと思った刹那、目の前の良也の身体が後方にすっ飛ぶ。
「がっ」
そのままおかしな姿勢で床に転がり、痛みに声を上げる良也が1ミリくらい気になったが、それ以上に私と良也の間に立ってこちらを見下ろしてくる影に唖然とする。
「かっ課長? あれ? 鍵は?」
疑問を口にした直後課長がスペアキーを持っていることを瞬時に思い出す。
「その前に助けてくれて有難う御座いますくらい言えないのか?」
「えっ、あっ、ありがとうございました。とっても助かりました」
「よし。因みにお前、今ここでこの馬鹿野郎に一体何されてたんだ?」
声のトーンが普段よりワントーン以上低い。馬鹿野郎って。
「い、いえ、ちょっと、いやかなり強引なことはされましたけど、特にご報告するほどのことは――」
「てめぇ杉浦、川瀬に何するつもりだった」
見下ろしてくる顔は私の声が途切れる前に良也に向けられる。表情の恐ろしさは普段の3割増しだ。
「い、いや、何も」
「何もするつもりがねぇ奴が女の上に跨ってるわけねぇだろうが」
「あ、あの課長」
完全に言葉遣いが仕事モードからかけ離れている。強いていうなら極道モードだ。
あまり話を掘り返してほしくない私は思わず課長の腕を引っ張って注意を良也から逸らす。
「本当に、大丈夫です。自分のことなので後でコテンパンに処理しときますので、課長のお手を煩わせるほどの事ではっ」
「馬鹿は休み休み言え。俺の目に入った光景だけで懲戒免職ものだぞ」
「懲戒免職!?」
良也が転がったまま声を張り上げ一瞬体を浮かす。
「セクハラ以上の光景に見えたからな。川瀬が正式に会社に訴え出るなら話が通らなくはない。というか俺が処理する以上必ず通る。最低でも出勤停止と降格。本気出せば解雇も軽い」
「ひっ」
「だっ大丈夫です。自分で蹴りはつけますんでっ」
特に良也を庇う必要性はないのだけれども、仕事を辞めさせることになると責任を感じざるを得なくなる。
なので、必死に課長に変わって制裁を誓うと、課長は良也を跳ね飛ばしてできたソファーの空きスペースにどっしりと座り込み、腕と長い足を組んだ。
そして、こちらにくるりと顔を向け不満そうに言い放つ。
「男にいいようにされやがって馬鹿かお前は」
「ばっ馬鹿って。 私はちゃんと抵抗しましたよ! って、私達がここにいるってわかっていたんですか?」
「抵抗したところで回避できてねーじゃねぇか。そもそも自分に気のある男とこんなところで2人きりになるな。鍵を持って行った奴が施錠もせずに部屋に居ないならその奥にいると思うのが当然だろうが。……まさかこんな状況だとは思いもしなかったが」
「私はただ話をしていただけですっ」
「ただ話をしていた結果が今の状態なら一生俺以外の男と話なんてするな」
「はぁ!? 何急に無茶苦茶言ってるんですか!」
オフモードの口調で話しかけられたので思わず釣られて考えなしに反論する。
相手の方も止まらない。
「下心バリバリの男伴って油断するなんて子供か。そういえばお前この前提出した書類ガキみたいな誤字あったよな」
「そ、それは今関係ないじゃないですか」
「それにたまに何だか知らないけどひらがなを書き間違えるよな。あれこそ本当にガキだよな。馬鹿丸出し」
「なっ」
「未だに計算ミスは多いし、事務作業が雑。会社に提出する書類にまるで気が配られてない」
「だから、なんで今私のダメ出しをするんですか!」
堪らず叫ぶと、急に目の前の顔が綻んだ。
「お前とのこういう気軽なやり取り本当に久しぶりだな」
「へっ?」
穏やかに目を細める課長の表情に気を取られているうちに、その顔は半回転してドアを見やる。
その目はもう切り替わっていて、今度はいつもの上司の顔。
「わかったか。こいつはお前が思っているような完璧人間なんかじゃ全然ない。張り合う必要なんて全くない」
ドアの前には目をまん丸く開けた木野さんが立っていた。
「川瀬は完全に営業向きだ。でもって事務仕事には不向きだ。一方お前はどうだ? 総務の中でも仕事が正確で早かったって聞いたぞ。営業だって現状人並みには熟せそうじゃないか。お前はお前でちゃんと評価されるべきところがある。要は目立つか目立たないかだ」
「えっ? あの」
一体何の話だ。
訳が分からないでいると木野さんが恐る恐る口を開いた。
「……私なんかに川瀬先輩よりも優れているところがあるんですか?」
「あるだろう。少なくとも、さっきこいつに指摘したことは確実に木野の方がしっかり出来ているはずだ」
「……今までそんなこと誰にも言われたことないです」
「お前が聞かなかっただけじゃないのか。以前は知らんが、今となっては木野は社内の女子じゃ評価されているほうだよ」
「でも――」
「憧れるのもいいけどな、自分を見失うな。人にはそれぞれ向き不向きがある。お前はコイツに固執し過ぎだ」
憧れる?
固執?
コイツって――私?
ってことは…?
「……由香里は俺でも榊課長でもなくて陸の事ばっかり考えていたのか?」
いつの間にか体勢を立て直した良也が目を丸くして課長と木野さんを交互に見ている。
途端、課長が再び向き直って私を見やる。
その表情は悪戯に口角を上げていた。
「モテモテだな川瀬。4角関係の矢印は全員お前向きだったみたいだぞ」
「はっ? えっ? ええっ!?」
私は事の衝撃に無駄に大きく声を上げて体を反らし、ソファの端から転がり落ちそうになった。
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