30 夜の浜辺で
会計で私が払う払わないでひと悶着あったが、結局課長の言い分に負けてしまい、また財布を使わずにしまうことになってしまった。
それにちょっぴり不満を感じた。
どうにかしてその微妙な不満を解消したいと思っていると、帰りの道すがら目の前に自販機があるのが目につき、私は思いついたことをそのまま口にした。
その時の私は酔っていたのだ。
「あっ、酔い覚ましに何か飲み物買いましょう。私が課長の分も買いますから」
「別に俺はそんなに酔ってないぞ」
いらないと言われてしまえばそれまでなので私は強引に課長の腕を引っ張ると自販機の前に立たせた。そしてそのまま近い距離で顔を覗き込む。
「酔ってなくても買うんです。どれがいいですか」
私は決めるまで逃がしはしないと、腕を強く掴んだままじっと課長を見上げる。すると課長は自販機のジュースの種類を見ないで私を見下ろしてきた。
「私を見てても飲み物は買えません。早く選んでください」
「……お前、意外に酔ってたんだな」
今の状況と関係ない指摘に私は頬を膨らます。
「酔ってちゃダメなんですか」
「……いや、大いに結構だ」
課長は少し考えて言葉を選んでからそう言うと、お茶のペットボトルを指定した。私はさっそく財布を出してそれを買うと、自分は缶のオレンジジュースを買い、取り出したお茶を課長に突きつけた。
たかが百何十円のものを奢ったことが何になると言われてしまえば何にもならないのだけれど、私は妙に満足して歩き出そうとする。
すると今度は課長に呼び止められた。
「折角買ったんだから少しゆっくり飲んでから帰ろう。夜の海行ってみないか」
自分が買ったものを課長が大事に飲もうとしていることと、夜の海という言葉に妙に惹かれて私は嬉々として頷いた。
旅館も居酒屋も昨日遊んだビーチ沿いの道より一本奥のメイン通りに面していた。
私たちはメイン通りから逸れて海岸に向かって歩くと、すぐに真っ暗なビーチにたどり着く。
外灯はあるがその光が届く範囲は狭く、砂浜の向こうには僅かなひかりを反射して煌めく波とその波音、どこまでも続いて夜空との境がなくなった海が広がっていた。
少し酔いが醒める。
昼の賑やかさが嘘のようなその景色の雄大さと大きな暗闇にほんの少し恐怖を感じ、私は知らず課長の側に一歩寄ってシャツの裾を掴んだ。
「どうした」
「いえ、夜の海って初めてで、こんなに迫力があるなんて思ってなかったんで、何か呑まれちゃって…」
「俺も夜の海を見るのは久しぶりだな。砂浜歩いてみるか?」
私は声を出さずに頷く。すると課長はシャツの裾を掴んでいることに関して何も言わずにゆっくりと歩き出す。私はそのままの状態で海に目をやりながらついて行く。
いつの間にか口数が減っていき無言でそれぞれの飲み物に口をつけながら海を眺めて歩く。
海に意識が向いているせいか静寂の気まずさは一切感じなかった。
まして沈黙が今の状況には好ましい気がした。
けれども、私の方からその沈黙を破った。
「あっ」
足元を全く見ないで歩いていたため、何かにつまずいて大きくバランスを崩し前のめりに倒れそうになった。
瞬間掴んでいた課長のシャツを離し、砂浜に転がる覚悟で受け身を取ろうとした。
けれども、いつまで経っても痛みも砂も襲ってこず、代わりに温かくて適度に硬い何かに体を支えられる。
そう、私は課長の力強い腕に支えられ、広い胸に中途半端な姿勢で体を預けていた。
「おい、大丈夫か」
「はっはい」
一日前にも同じような状況になったことを思い出した。
瞬間そのときと同じように体が熱くなる。
しかもあの時は美香に突き飛ばされて仕方なくといった部分もあったのだけれど、今は自分の不注意のせいで転んだためより恥ずかしい。
お酒が入っている分体温が上がる速度は異様に早く。一気に熱が出たみたいに体が茹だった。
早く離れなくては、そう思うのだけれども体勢が悪いのか酔っているせいなのか上手く体に力が入らない。
そうこうしている内に私のものではない力で私の身体が動いた。
中途半端に前屈みだった姿勢が直され、真っ直ぐ立った状態になるが課長の腕は私の腰に回って体を支えたまま。
体勢が変わったせいで相手との体の距離が一気に詰まり、密着する。
そしてもう片方の手で顎を掬われ上方に顔を向けさせられる。
そこには遠くの外灯の僅かな光だけでも整っているとわかる顔と熱の籠った瞳。
私の思考が停止する。
「……何で抵抗しないんだ?」
低い声が妙に耳に響く。何も答えられない。
「誘ってんのか?」
「……えっ?」
少し頭が回転しそうになるが、脳が働き出す前に更に高く顎が掬い上げられ影が降ってくる。
抵抗?
誘う?
そんなことなんてどうでも――――
「いい加減にしろよ!!」
「「!!!!」」
突然、耳に飛び込んできた大声に私と課長は完全に身を固くしてその場で反射的に一歩離れた。
何事かと思って周囲を見渡すと少し離れた外灯の下で横道からビーチに入って来たのであろう一組のカップルが怒鳴り合っている。
「いい加減にするのはそっちの方でしょ! ぼんやり元カノのことばっかり眺めちゃって、サイテー」
「馬鹿言うなよ。お前だって折角旅行に行きたいっていうから付き合ってやったのに、他の男のところに行ってヘラヘラ愛想振りまいてたじゃないか!」
痴話喧嘩というより修羅場な雰囲気のカップルを私と課長は遠目にしばし唖然と眺める。大声にびっくりし過ぎて思考が完全に引っ張られていた。
そして、こちらの存在に気がついていないカップルは益々ヒートアップする。
「私なんて本当は二番目の女のつもりだったんでしょ! 無理して付き合わなくてもいいわよ、よりなんて幾らでも戻したらいいじゃない!」
「ふざけるなよ! 昨日から急に色目つかって俺以外の男のところに媚び売りに行ってる自分は棚に上げるのか!? 今日だってずっと姿が見えなくなってからソワソワして」
「うるさい! 自分だって宴会場に川瀬先輩がいないの気にしてたじゃない!」
「お前こそ俺が居るのに榊課長に媚び売ってるんじゃねぇよ!」
「えっ?」
「あっ?」
私と課長は聞き捨てならない応酬に思わず声を上げてしまった。
そして波の音以外自分たちの出す声だけしか響いていなかった海岸でその声は良く通ってしまったらしい。
カップルは勢いよくこちらを振り向く。
そしてほぼ暗闇の中なのにばっちり見つかってしまった。
「陸!」
「榊課長!」
カップル――良也と木野さんは声を揃えて私たちの名前を呼んだ。
呼ばれてしまった。
その後は最悪だった。
売り言葉に買い言葉で二人の喧嘩は収まるどころか激しくなる一方。そして、私たちが絶妙なタイミングで居合わせたことで、とんでもない方向に話が転がり出した。
「そんなに言うならもういいわよ。良也なんてもういらない! 私は榊課長と付き合う!」
「おい」
「ああ、分かったよ! お前なんかより陸の方がよっぽどいい彼女だったからな。俺だってお前なんかやめて陸とよりを戻す!」
「はあ!?」
「いいですよね、榊課長!?」
「いいよな、陸!?」
木野さんは課長の腕を掴んで絡め抱こうとし、良也は正面から私の両肩をがっしり掴んだ。
返事なんか聞かれなくても決まっている。
「「いいわけないだろ!!」」
沖縄旅行最後の夜は東京の職場への最悪のお土産を私にもたらした。
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