31 昼休みの厄災
「なあ、本当に悪かったって。この通り、ゴメンって」
「…………」
「俺もあの時はかなり頭にきて興奮しててさ、どうにも収まりがつかなくなっちゃってたんだよ」
「…………」
「でも、陸と離れてみて改めて陸がいい奴だったってことは今回の件でよく分かったんだ」
「…………」
「だからさ、機嫌直して俺とやり直そう?」
「…………」
社員旅行が終わって早1週間。
仕事は相変わらず忙しい。
朝も早ければ夜も遅い。
昼休みだってそんなに悠長に過ごしていられない。
そもそも外回りが多いから、お昼の時間帯に会社にいることのほうが珍しく、今週はじめて私は食堂を利用した。
食堂に居るということは休憩時間だ。休憩するための時間だ。
にも関わらず席に着いて箸を味噌汁につけた瞬間、私の安息はいとも簡単に馬鹿な男によって奪われた。
言葉を返すのも面倒くさい。無いものとして扱おう。
私はそう固く誓って、目の前の食事に集中する。
けれども、正面を陣取る馬鹿な男は馬鹿なので私の心中など決して悟らない。
いつからこんなに馬鹿になったのか。
まぁ、私の知ったことじゃない。
「もう、無視するなよな。まあ、無視しちゃうくらい俺のこと意識してくれてるのは嬉しいと言えば嬉しいんだけど」
「寝言は寝て言うものよ」
「あっ、反応してくれた」
聞き捨てならない台詞につい口を滑らせてしまい相手を調子に乗らせてしまった。とてつもなく不本意である。
「でも、電話もメールも完全に無視なんてちょっと酷くない? 俺真剣なんだよ」
「というか陸は相変わらず忙しいな。仕事が始まってやっと直接会えた」
「昼休みじゃ時間も少ないからさ、今夜時間取れない? ゆっくり話をしたいんだけど」
マシンガンのごとく自分勝手なトークが続く。心の底からどこかに行って欲しい。
「私には杉浦とゆっくり話をする用なんてこれっぽっちもない」
「……あ、また杉浦? そんな他人行儀な呼び方するなよ」
「他人でしょ? いいとこただの同期社員」
「うわー、傷つく」
「それは良かった」
私は女としてはあり得ないほど素早く定食を食べ終わると、トレーを持って立ち上がった。
「えっ、もう行っちゃうの?」
「私は会社に仕事しに来てんの」
これ以上は付き合いきれない。
私は食器の返却口に立ち寄りそのまま食堂を出ようとする。
すると、当然の如く良也は私の後を追ってきた。
「ちょっと待ってよ。俺ちゃんと話がしたいんだ」
食堂はビルの最上階。
エレベーターで3階の営業部フロアまで戻らなくてはならない。
エレベーターに乗り込むとそこは偶々無人。
狭い空間に2人っきりになるのが嫌な反面、人目も憚らずくだらないことを話続ける良也の声が他の誰の耳に入らないで済むことにはほっとした。
私は壁にもたれて、良也を正面から睨む。身長は私の方が2センチほど低いのだけれど、偶々いつもより高めのヒールを履いていたので、僅かに見下ろす形になる。
「痴話喧嘩の末の意地の張り合いで生まれた副産物の安っぽい恋愛感情を語られたところで私は杉浦とは絶対に付き合わない。私なんかより、さっさと仲直りしてよりを戻すべきは木野さんでしょ。一時の気の迷いで私に構ってる暇なんてないでしょう」
「……由香里のことはもういいんだよ。アイツより陸の方がよっぽどいい彼女だったって俺気がついたんだよ。嘘じゃない。一時の気の迷いっていうなら、それは由香里のことだったんだよ、きっと」
良也は拳を握りしめて、少し表情を歪ませつつも真っ直ぐ私を見返す。
真剣な表情は先ほどまでとは違って嘘をついたり冗談を言っている雰囲気はない。
けれども、今本気でも明日本気かどうかはわからない。
何より、私は良也と付き合いたいなんてこれぽっちも思ってない。
だからこのやり取りは無意味だ。
「とにかく、私にはその気はないの」
言うと同時にエレベーターが3階にたどり着く。私は躊躇なく降りて奥の一課に真っ直ぐ進む。
廊下にはちらほら営業部の社員がいた。
大体の人間が顔見知りのこの場でこれ以上良也がしつこくしてくることはないだろうと高を括っていると、その私の予想と正反対の行動に出た良也によって、私の手が掴まれ引き止められる。
「俺、諦めないから」
「…っ」
少しでも真剣に取り合ったのが間違いだったらしい。
マジなモードに入ってしまった良也の声は昔の記憶を蘇らせた。純粋に互いを思い合い幸せだったころの淡い思い出。
そして同時に幸せをぶち壊された以降の出来事が頭を駆け抜ける。
「本気で迷惑だから」
私は強く腕を引いて、良也の手を引き剥がすとそのまま一課に飛び込んだ。
閉じた扉に背を傾けて大きく溜息をつく。
ドアの薄い壁を隔てたすぐそこで人目も憚らずに演じられた茶番劇。
完全に廊下にいた社員の視線を引き寄せていた。噂はすぐに広まるだろう。
超面倒くさい。
「……明日から外回りの時間増やそうかなぁ」
ぼんやり、今後の対策を考えようとしたとき、背中の支えが急になくなった。
「うわっ」
完全に油断していた私は大きく後ろに向かってバランスを崩した。
よろけて転びそうになるのを何とか自力で回避すると、転んで尻もちをついた方がまだマシだったと思えるようなドスのきいた声が降ってくる。
「ドアに寄りかるな。馬鹿か。危ないだろうが」
「……失礼しました」
睨みをきかせて言いたいことだけ言ったそのお方――榊課長は自分のデスクに負のオーラを放って戻って行く。
そして、雑に手に持っていた資料らしきものを机に放るとドシリと椅子に腰かけ難しい顔をして腕を組む。
デスクの上に置いてあった提出書類が目に入ったのかそれを表情そのまま取り上げて一通り目を通した後、ただでさえ多い眉間の皺を更に深くして、提出者を呼び出した。
――ああ、ご愁傷様。
呼び出された社員は慌てて課長の前にやって行くやいなや、書類の不備をこれでもかというくらい厳しく指摘されている。
しかも通常の倍の怒り具合で。
オフィスに居た他の社員は同情しつつも、絶対あの役回りにはなりたくないと心の底から思いつつ密かに様子を窺っている。
「……課長の機嫌の悪さどうにかならないかね」
私がドアから少し離れたところで無意味に突っ立っていると上原さんがいつの間にか隣に来て声を潜めて呟いた。
「いやぁ、どうにもならないんじゃないですか? 休み明けから――いえ、旅行二日目の夜から相当機嫌悪いままですよ」
「川瀬さんが原因みたいなもんなんだからどうにかしてよ……」
「……私は何もしてないって何度も言ったじゃないですか」
我らが一課の課長様はここ最近すこぶる機嫌が悪く、同じオフィス内で働く社員を戦々恐々とさせている。
まるで飢えた獣、マングースと遭遇したコブラ、興奮した人食いザメがそこに居るかのように社員皆が接している。
そしてそのすべての原因は私の悩みの種と同じところに起因している。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます