29 お疲れな鬼上司を個人接待

課長が私を連れて入ったのは旅館から歩いて15分ほどのところにある地元の居酒屋だった。


そこは地元では結構有名なお店らしく、飾らない雰囲気と郷土料理が楽しめる隠れた名店らしい。


店内には沖縄チックな郷土品があちこちに飾られており、地元民らしい砕けた雰囲気のお客さんが既にたくさんいた。


アットホームな雰囲気がどことなく「酒のみや」を思い出させた。


カウンターに案内され、課長が適当にお酒と料理を注文する。私は隣で所在ない思いで小さくなっていることくらいしか出来ないでいた。


とりあえずビールということで、ジョッキで乾杯するといつぞやと同じように課長はすごい勢いでビールを呷り、心底幸せそうに顔を歪ませていたので私の肩の力は僅かに抜ける。


「そんなに幸せですか?」


「幸せだな。さっきまで地獄だったからな。この反動はデカい」


「地獄って大げさなこと言わないで下さいよ」


「馬鹿言うな。あれを地獄と言わずにどれを地獄と言うんだよ。俺だって自分でこんなこと言いたくないけどな、見た目やら肩書きやら何やらで自分の周りに媚びた笑顔を顔にはっつけた女が次から次へとやってくるんだぞ。しかも社員。その辺の逆ナン女だったら適当にあしらってそれで終わりで済むもんだけど、社員だぞ。旅行から帰って変な噂でも立ったらたまったもんじゃない。徹底して全員を同じようにあしらうのにどれだけ神経すり減らすかお前にわかるか?」


「……分かりません。とてつもなく大変だということは何となく伝わってきました」


「よし。ならお前はこれから俺の疲れが取れるようにトコトン付き合え。上司命令」


「もうここまで来た時点で命令なんてされなくてもちゃんと付き合いますよ」


聞く限り課長の置かれていた状況は相当ハードだったはず。


男と女じゃ相手から加えられるプレッシャーの度合いは違うだろうけど、S社の坂上課長一人をいなすことだって大変だった。


見たところ課長は本当に疲れていて、本心から今解放されたことを喜んでいる。


こんなときくらいは普段お世話になっている部下としてお付き合いするのが筋ってもんだろう。


私は自分自身にそう言い聞かせた。


地元の名店と言われるだけあって、出てくる料理は目に珍しく、どれも美味しかった。


お酒は少々強いものが多かったけれど、店主のおすすめを聞き出しそれにあったおつまみを出してもらうのは楽しい。


酔ってしまえば余計なことを考えずにいることもできて、私は自分が想定していた以上に課長との時間を楽しんでいた。


折角仕事から離れて体と心を休めるために旅行に来たのだと課長は言って、仕事の話は一切するなと話題を縛られる。だから、プライベートなことばかりを話した。


課長には3つ年上のお姉さんがいること、昔犬を飼っていたこと、大学での専攻が理系だったこと、ジムに行くと隣の人と勝手に競って鍛えて無理してしまうことなど、色々と興味深いエピソードを知った。


私も5つ年下の弟がいること、実家のレストランのこと、学生時代にバレー意外に唯一はまった歌手のこと、和食を時間を見つけては作ろうと練習していることなど、取り止めのないことばかり語った。


「あれから松さんと馨さんのところには行ったのか?」


「はい。と言っても2回だけですけど。基本中の基本からということで最初はお味噌汁、次の時は肉じゃがの作り方を教わりました」


「すっげぇ家庭的だな」


「でも、どちらも一工夫あって、上手くいくとすごく美味しくなるんです。余裕があるときに家で作ってみたんですけど、自分の部屋に立派な日本の料理が食べられるんだと思うと軽く感動を覚えました」


「大げさだな」


課長がカウンターに頬杖をついてこちらを向いて柔らかく笑んでいる。


「だって、実家では完全なるイタリアンか謎の創作料理ばっかり出てくるんですよ。そりゃ父の作る味は美味しかったですけど、私も弟も学校の給食で皆が地味だって嫌うようなお惣菜をそれはもう大事に食べたもんです」


力説すると課長は楽しそうに目を細める。正面から目が合って、私の方が気まずくなって目を逸らした。課長はそれを気にすることなく頬杖を取ると、カウンターに向かい遠い向こうを見るような目をした。


「あんまり記憶にないけど、川瀬の作った料理は美味かったような気がするな」


どうやら課長は体調を崩したときのことを思い出しているようだった。


「ようだった気がするって失礼な」


「しょうがないだろ、飯が食えるようになったとはいえ味覚なんて全然しっかりしてなかったんだから。それでも美味かったって何となく思えるんだからきっと美味かったんだろうよ」


「……それはどうもありがとうございます」


「手料理、また食いたいな」


「えっ」


それはどういうことだろう。


真意を探りたくて課長の顔色を窺おうとしたら、再び正面から目があってしまった。そして目の前にはさっきまでとは少し雰囲気の違う光を宿す瞳。


「また、俺に何か料理作ってくれないか」


「えっ、あの…」


「家も近いんだ。別にいいだろ」


「いっいつか、そのうち、機会があったらっ」


何となく嫌だとは言えなくて、適当に肯定とも否定とも言えない言葉を連ねる。すると課長の瞳の力が弱まり、また元の穏やかな笑みに戻った。


「じゃあ、そのうちな」


「……はい」


それからしばらく経って、3時間近く話し込んでいたことに気がつき、私達は店を後にした。

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