リュウグウノツカイ

和田ひろぴー

第1話

 何時の頃からか、頭の周囲に変に拘束感を覚えだした。そして、その前後辺りから何をするにしても感覚が直接的では無い、何か水菓子の透明な部分にくるまれているような、全てにおいて実感の無い状態であった。今まで好きであったり楽しく思っていた趣味のこと、心弾むお気に入りの音楽、それらがみんな尋(ひろし)には心に響かなくなった。まるで自分の心がガラス玉の表面のように何のとっかかりも無くなってしまった。それであれば、気持ちは平滑で楽しみも苦しみも無くなればいいのに、何故か全ての思考において、

「あ、これはダメだ。」

「あ、これは行き詰まっている。」

「これをやっても、先に何があるというんだ。」

と、閉塞感はやがて暗澹たる虚無感へと変貌していった。毎日がただただ重しとなって時を連ねるだけだった。

「希望が無いとは、かくものっぺりとして、何も無いものなのか。」

そう思った尋(ひろし)は、何時しか自身の手でこの生を終えようと考えるようになった。ただただ消え入りたい、そう願う日々が続いた。そして秋も深まったある日の夜、たまに夜景を眺めに訪れる、とある河川敷にかかる橋のたもとに立っていた。川面には周囲の工場のプラントがライトアップされ、その光が揺らめいてこちら辺りまで伸びていた。ふと橋脚の所に目をやると、誰かが捨てていったであろう、小さなアーミーカラーのゴムボートが無造作に横たわっていた。幸い、穴も空いていないようで、水面に浮かべるには十分なだけの張りはあった。

「今日は逝くには、いい日だな。」

そう呟くと、尋はボートを浮かべ、その辺りに落ちているやや大きめのコンクリート片を1つと、1メートルほどの棒の切れっ端を持ってボートに乗り込んだ。そして、岸のスロープを棒で突くと、尋を乗せたボートは離岸して、ゆっくりと流れて行った。

「この辺りは河口だから、程なく海・・だな。」

比較的水量のある河川は、暗く群青色にゆっくりと波打ちながら、やがて尋を湾内にまで運んだ。ボートから見渡した岸辺の景色は、先ほどのプラントが煌々と輝き、少し離れて家々や小さなビルの明かりが点点と光り、下から見上げていた橋脚は橋の姿を現し、水銀灯に照らされた下を車が往来していた。

「見納めにするには、ま、美しかったかな。」

そう呟くと、尋を乗せたボートは緩やかな海流にまかせ、さらに沖へと運ばれていった。そして、どれぐらい漂ったであろうか、先ほどの光は随分と遠くに小さく見えるか見えないかにまでなり、今度はうっすらと月の明かりが尋の手元辺りを照らしていた。その明かりを頼りに、尋はボートに結んであったロープを解いて、一方をコンクリート片に十の字に、そしてもう一方を自身の左足の踝に結わえた。そして、最後に何か感情めいたものを思い出そうとしたが、やはり平滑な脳は反応しなかった。尋はコンクリート片を抱え、両足を海面の方に突き出して、徐に塊を海中に放り投げた。と、同時に、自身の体も海中に引きずり込まれ、見る見る深淵へと落ちて行くのだった。それからは息が出来なくて藻掻いたのか、それとも落ち行くにつれて、あまりの水圧に気が遠くなったのか、もはや定かでは無かった。ただただ暗くて冷たい周囲と自身が1つになっていく感覚だけはあらゆる方向から伝わってきた。そして、痺れるような感覚もやがては消え、そのまま覚めぬ眠りにつくのかと最後の思考に至ったとき、遥か下方より、僅かに、しかし確実に小さく輝く何かがゆっくりと登ってくるのが見えた。そしてその光りは次第に大きくなっていき、真っ直ぐと尋の方に向かってきた。冷たさと平滑な脳みそのせいで何も感じなくなっていた尋に、ふと認識が蘇った。

「何だ、これは。」

そしてとうとう、その光りは一筋の巨大な物体となり、尋の真正面で止まった。それはまるで巨大な銀色の太刀のようだった。そしてその後方は深紅の焔が燃え盛っていた。何とそれは、巨大な生物であった。そして深海をたゆといながら、両の大きな眼(まなこ)で尋を見据えた。

「これが黄泉からのお迎えか。」

それにしては、何か実感のようなものが。咄嗟に尋は言葉を発しようとしたが、水中であることが発声を阻んだことで、これが今目の前の現実であると直感した。そして、

「何者?」

と脳裏に言葉を浮かべると、その生き物は、

「我、時ノ城ヨリ遣ワレシ者也。」

と、聴覚にか、それとも念のようなものか、いずれにせよ、尋は言葉を、いや、概念を尋に放った。それを受け止めると、尋は、

「では、誘(いざな)ってくれるのか。」

と、再び言葉を浮かべた。しかし、その生き物は彼を凝視し、しばし沈黙が続いた。が、やがて、

「汝ノ時ハ、マダ動ノ律ノ中ニ在リシ。我ラノ元ニ行クハ能(あた)ハズ。」

そう言い放つと、銀色の巨体は大きなうねりと共に体を翻した。その瞬間、無数の水泡を孕んだ海流が尋を包んだかと思うと、彼の体はたちまち遙か彼方へと押しやられていった。


 ふと右の目尻の辺りに何か光りのような物を感じた。そして左頬は何かに触れていて、潮の混じった地面の匂いがした。ゆっくりと目を開けてぼおっと辺りを見渡した。

「橋脚。」

尋は呟いた。自身の声が聞き取れたのと同時に、体が感覚を帯びていることに気づきだした。

「俺、生きてるのか・・。」

そしてようやく、尋は昨晩小さなボートで離れたはずの岸に再びいることに気づいた。そして、

「あ、ロープ・・。」

昨晩しっかり結わえたロープも、その一方に十の字に結びつけてあったブロック片もそこには無かった。寝そべっていた体の左側だけが微かに濡れていた。大分意識がはっきりしてきた尋は体を起こし、記憶を蘇らせてみた。

「確か、海に出たはずだよ・・な。で、」

何故か尋はその後のことが思い出せなかった。いくら思い出そうとしても。今までにそんな経験は無かった。仕事に疲れてたまに寝落ちすることはあったが、前日の記憶が曖昧であることさえない。なのに今日は昨晩の状況がすっぽり抜け落ちている。消去とでもいうのか。ふと橋脚の横から見える空を見上げると、日は昇り始めて幾時間は経った頃だった。

「10時23分。」

尋は咄嗟に思った、何故それが解るのかと。そして、起ち上がると同時に堤防のスロープを駆け上がって、すぐ近くにある公園の時計台を見てみた。

「10時23分・・。」

彼は時間の感覚は比較的ある方だと自身では思っていたが、数ヶ月ほど前の、生きる動機を失いだした頃から時間の概念を喪失していってるのに気づいていた。しかし今は、その感覚が戻ったどころか、むしろ信じられないぐらいに鋭利になっている感じがした。

「昨晩、何があった?。」

その部分はやはり思い出せない。また、生きる気力のようなものが再び蘇った感触も無い。日の光を浴びて体が覚醒するほど、気怠さと虚無感は以前のままであることも認識しだした。ただ、昨日までとは何かが違う。尋は橋脚の上を走る道路のたもとにまで歩いて行くと、昨晩ここに来るまで乗って来たおんぼろの自転車に再びまたがり、取り敢えず部屋まで帰ることにした。ゆっくりと軋むペダルをこぎながら、このまま進むと右側にバーがあり、その窓の所にはピンク色で表示されるデジタル時計が置いてある。そこを通りかかる前に、

「10時49分。」

と、思い浮かぶ時間を頭で中に呟きながらふと右側に目をやると、

「10時49分・・・。」

ハンドルを握る手の内側に、じわっと汗が噴くのを感じた。偶然だ、偶然がたまたま2回重なっただけだ。そう思って振り切ることは出来たかも知れない。しかし、今の尋は、そうではしなかった。もっと何か根底のようなものか、さらにその先の方から来るものなのかは解らないが、そんな感覚が自身に訪れたその変化を拒むのを否定させた。そしてしばらく走って部屋の前に着くと、自転車を止めて静かに鍵を開け、着ていた上着を壁に掛けると、

「11時2分。」

と、小さく呟いた後、ラップトップの脇に置いてある小さな置き時計に目をやった。

「11時2分・・・。」

もう驚きはしなかった。核心。そうに違いなかったが、それを肯定する根拠が、尋にはあまりにも無かった。そして、尋は部屋に僅かにある時を知らせる物を全て伏せた。

「今考えても、仕方ない。」

そう自分に言い聞かせて、冷蔵庫に入れてある食べかけのパンとグレープジュールで軽く食事を取ると、尋は再び部屋を出て鍵を掛け、自転車を軋ませて仕事場に向かった。

 尋はとある小さなスペースで、様々な事情で就学が困難な子供達に勉強を教える手伝いをしていた。かつては勤めの身でばりばりと仕事もこなしていたが、心に変調を来たした辺りから何となく離職し、追われるように生きることの無いこの仕事場に身を寄せるようになった。

「こんにちは。」

尋はそこの主催者の添(そえ)さんに挨拶した。

「こんにちは。あれ、今日はちょっと元気そうね。」

「ええ、まあ。」

といって、尋は仕事場の入り口から入ると、すぐ右手にある事務所で、今日来る子供達のために勉強用のプリント作りを始めた。

添さんは、尋の状態を何となく知っていた。ここに手伝いに来る前、簡単な面接で彼の表情と声のトーンから、彼が癒しのようなものを求めていることはすぐに察知出来た。膨よかな体型に三つ編みのスタイル。小さい子供達も通うので汚れても平気なように、常に絵柄の就いた前掛けをしていた。それが添さんのシンボルマークだった。そして、誰にでも気さくで大らかであった。あのときの尋にも。

 早速、低学年の子供達がわいわいと騒ぎながらやって来た。

「こんにちわー!」

「はい。こんにちわ。」

何人かの子供達が添さんとハイタッチを交わすと、入り口左手のスペースに入っていき、みんな思い思いのことをし始めた。本棚から絵本を取り出して読む子、大きな柔らかい積み木で何かを組み立てる子、両手を挙げてわあっと駆け回る子。みんな溌剌としていた。そんなきゃっきゃと騒ぐ声も、昨日以前の尋には正直耳障りではあった。しかし、今日は少し違う。きいきいと甲高い声は耳に付くが、

「ま、子供って、こんなもんだよなあ。」

と思えるほどの余裕があった。そんな中に、いつも1人、部屋の隅っこの方で窓の外を眺める子がいた。尋はその子の存在には以前から気づいていたが、全ての人に対して関わりを避けていた。でも、今日は何かお話をしてみたくなったのだった。


 部屋履きのサンダルを少し引きずりながら、尋はその子に近づいていって別に挨拶をするでも無く、目線の先に長く伸びた草が少し撓んでいるのが見えた。

「何か見えた?。」

「バッタ。」

風に揺れる草の一群の中に、不規則に鈍く揺れる撓んだ葉っぱ。その局部にショウリョウバッタが1匹止まっていた。

「ほんとだ。虫とか、好きなん?。」

「うん。」

そういうと、二人はしばらく黙ってゆったり揺られるバッタを眺めていた。止まっている葉の緑に溶け込んで自身の体も全く同じ緑色に擬態してる、その光景がかつて物珍しくて興味を持っていたことを、尋はふと思い出した。

「近くで見てみよっか。」

「・・・うん。」

尋とその子は外に出て、バッタのいる茂み辺りにかがみ込んだ。すると、さっきはただじっとしているだけに見えたバッタが、口の両側を動かして黒い歯先に葉を挟んで食べているのだった。

「食事中だったね。」

「何かシャリシャリいってる。」

二人はバッタの食事風景がこんな風に静かに音を立てながら丹念に幾何学模様を描きながら削り取られていくんだと、夢中になった。と、その時、尋は視線の先にいるバッタのさらに奥の茂みから何か視線を感じた。そして次の瞬間、

「あ、止まる。」

うっすら青みがかった小さな立方体が縦に並んでいたのが、急に途切れている光景が浮かんだ。

「ガサッ。」

突如、茂みから大きな緑色の物体が飛び出したかと思うと、バッタを両の腕で挟んだ。

「うわっ、カマキリだ!。」

二人は思わず声を上げた。急に身動きが出来なくなったバッタは、必死で後ろ足を振って逃れようとしたがカマキリのホールドが余りに巧みなために、それ以上の抵抗は無駄であった。そして、

「ムシャムシャ。」

と、音とも雰囲気ともつかないカマキリの食事の様子が始まった。二人は先ほどにも増して釘付けになった。そして、

「食べてるね。」

「うん!。」

カマキリの半透明なエメラルドグリーンの眼は中心部に黒点を含みながら、まるでエサを採られまいと睨み返すように二人を凝視していた。そして淡々と食事は続いた。彼らの興奮を他所に。すると、後ろの方から誰かが近づく足音がして、

「二人とも何見てるの?。」

と、添さんも一緒にかがみ込んで彼らの視線の先を見た。

「あら、カマキリ。バッタさん、食べられちゃったのね。わあ。」

よく動物のドキュメンタリーをテレビで見た時に流れるナレーターの声が、野生動物の弱肉強食のを哀れみと、しかし同時に自然の掟である風に語る、そんな紋切り型の言葉を、尋は添さんのリアクションから感じた。それは大抵の人間にとってはごく普通の反応なんだろう。そして、

「あ、これっ、そんなに引っ張り合っちゃダメでしょ。」

といって、室内で小競り合いを始めた子供らの仲裁をすべく、添さんは戻って行った。残された二人はその後もしばらくは屈みながら件の光景を眺めていたが、

「のど乾いたなあ。戻って何か飲もっか。」

「うん!」

といって、興奮冷めやらぬ感じで部屋に戻って、他の子達に見つからないように小さな冷蔵庫の横でコップにグレープジュースをと注ぐと、のどを鳴らして飲んだ。そして、

「凄かったなあ。」

「あんなの初めて見た。」

「あの眼、見たか?。」

「こっち見てたね!。」

二人が共有した時間は、もはや共通の話題以上のものとなって結びつけられた。見つかるまいと緑を纏ったバッタの目眩まし。そんな技さえ容易に見抜くカマキリの複眼。そこには人間の感傷など入り込む隙は一切無い。ただただ繰り広げられる生と死。その光景に見入ったのか、逆に二人が魅入られたのか。いずれにせよ、鮮烈な虫たちの営みは昨日までとは少し違った尋に、また1つ感情のようなものを上書きしたようだった。

「にしても、あの整然と並んでたキューブは一体・・、」

一瞬過った妙な光景のことを尋は思い出した。しかし、説明のつかないことが続いている尋には、理屈で自身を宥める作業が億劫になり始めていた。たまたま浮かんだだけかも知れないし、そうで無かったとしても。そして、ジュースを飲んだコップを台所で洗っていると、

「真(しん)君、お話ししたね。」

と、添さんが少し驚いた様子で尋に近づいてきた。そのとき尋は、あの子の名を初めて知った。

「別に頑固とかそう言うんじゃないんだけど、なかなかお話してくれないの。あの子。」

ここを利用する子供達は、家の事情で色々とあることは添さんとの話の折にちょくちょく聞かされてはいた。でも、自身も生きていくことの閉塞感や想像だにしない苦悩は日々刻まれている。尋は、彼女の話を聞くことで敢えて問題意識を持つよりも、話したければ話すし、そうでなければそっと傍らにいる、ただ何となくそれでいいかなと考えていた。


 夕方も5時過ぎになると低学年の子供達は家からお迎えが来たり、あるいは一人で帰っていく。そして、入れ替わるように中学生達がやってくる。それまでに散らかされた絵本や遊び道具を片づけて、端に寄せてあった学童机を並べて授業の準備をする。

「こっちの方に来とこうか。」

「うん。」

真君のところは母親が迎えに来ることになっていたが、最近は随分と遅い時間になって、ようやく来ることがしばしばあった。今日は共通の話題で盛り上がった尋は、彼を事務所のスペースに連れて行き、スタッフのデスクのところに座らせた。そして、尋は計算用紙として置かれてある広告の裏紙を鉛筆を取ると、

「今日のは、こんな感じだったかな。」

といって、件のカマキリがバッタを捕らえて食べている様子を描き始めた。表の印刷が薄らと浮かんだ紙の上を鉛筆が走っていき、黒い線は見る見る生命感を帯び始めた。真君は目を見張った。

「うわっ。こっち睨んでる。」

薄緑に透き通った眼の奥にある黒くこちらを睨む小さな瞳。バッタの腹の柔らかい部分に食い込む鋸の歯状の棘。真君は夢中になった。そして、尋が一通り描き終えると、

「お兄ちゃん、凄いね。」

「そっかあ。じゃあ、はい、これ。」

といって、尋は真君にその絵をあげた。

「いいの?。ありがとう。」

「2人が目撃した記念に。でも、ホントは3人だったけど、添さん、苦手そうだったしね。」

そういって、2人は微笑んだ。そして次の紙を取ると、

「真君も何か描いてみたら?。」

「うん。」

と頷くと、驚くほどの速さで色んな昆虫を描き始めた。カブトムシ、トンボ、テントウムシ、巣を張っているジョロウグモまで描き出した。子供らしい拙い絵だったが、空間を自由に埋め尽くす勢いは躍動感に満ちていた。それを見た尋は、

「凄いな、真君。あっという間に紙いっぱいになったね。」

「でも、お兄ちゃんみたいに上手くは描けないなあ。」

「でも、これ、ただのカブトムシとかじゃ無いよ。動こうとしてるよ。」

「ホント?。」

真君の目が輝いた。尋は物心着いた頃から、何故かしら手先は器用な方だった。図工の時間でも不自由したことは無く、淡々と課題をこなしてはよい評価を貰っていた。しかし、そんなことが続くに連れて、自身に画才のようなものが備わっていることに慣れるのと同時に、そういうことで食べていくのは容易ではない現実にも直面した。そして、たまに頼まれてイラストのようなものを描く以外、次第に描くことから遠ざかっていった。しかし今、目の前で起きた出来事を率直に評価してくれる存在がここにいる。尋は久しく忘れかけていた何かに、ふと触れたように感じた。

「命・・かあ。」

素っ気なさそうだった子供。成り行きで通っている1人の男。いつもはただそれだけの関係だったが、今日は何かが違う。気のせいか、いつもより自身の手に温もりがあるような気がした。

「尋さん、ちょっとお願い。」

添さんが、やって来た中学生達の宿題の手伝いに追われていた。そして、真君にもう2枚ほど紙をあげて、

「もっと描く?。」

「うん。」

そういって、真君は黙々と描き続けた。尋は教室に様変わりした部屋にいくと、唸りながらペンの止まっている中学生の机を巡回しながら、手際良く数学を教えていった。そうこうするうちに、夜の9時半頃になってようやく、真君の母親がやって来た。

「すみません、遅くなっちゃって。」

忙しくしているせいか、彼女は飾りっ気が全くなかった。髪の毛の手入れも追いつかない様子だった。他の生徒の面倒で手が離せない添さんに代わって、尋が真君を連れて来た。右手にいっぱい描いた広告の紙を抱えて。その中に1枚、眼光の鋭いカマキリの絵を見た彼女は、

「これも真が描いたの?。」

と驚きの表情を見せた。

「違うよ。お兄ちゃんが描いてくれたの。」

真君は嬉しそうに母親と尋を交互に見た。

「そうでしたか。どうもすみません。」

「いえ。今日ちょっと、面白いことがあったので。な。」

といって、尋は真君を見た。

「うん。」

彼は満面の笑みを浮かべた。その様子を見た母親が少し驚いたような表情で、

「そうでしたか。何か最近、真のあんな顔を見たことがなくって。」

少し申し訳なさそうに母親が語った次の瞬間、

「あ。」

キューブだった。あの薄青い立方体が急に見えだした。左から一続きに並んでいたが、やがて右の方で壁面を形成していた。そして、そこから先に立方体の列は無かった。どうやら停滞している感じだった。

「あの、今、幾つか並行して用事とかされてます?。」

尋は、ふとたずねた。

「ええ、まあ。」

「差し出がましくてすみませんが、お体、気をつけて下さいね。無理をなさらないように。」

そういって、尋は真君の方に目をやった。

母親は、尋の推察のようなものを感じ、思わず本音を漏らした。

「何年か前から色々ありまして、自分でも何から手をつけていいのか解らなくて・・。」

混乱が落胆へと変わりそうな雰囲気だった。

「ゆっくりでいいんじゃないですかね。優先順位をつけるのって。」

気休めのつもりは全くなかった。尋はそのことを伝えるべきだと思った。そして、

「彼の絵、凄いですよね。ぼくもビックリしました。」

母親の表情が和らいだ。そして、

「どうも、有り難う御座いました。」

と礼を言うと、母親は真君を連れ立って帰って行った。嬉しそうに尋に手を振りながら。そして、

「あ、また。」

先ほどの立方体が再び現れた。ただ、さっきは壁面だった部分から、2、3個が崩れ落ちて右の方に列を作ろうとしているように見えた。

「さて、授業に戻るか。」

尋は一息つく間もなく、唸る中学生達の間を巡回していった。


 三々五々に中学生が帰った後、尋は教室の片づけをしていた。今日は他のスタッフは休みだったのと、たまたま手の空いてた尋が見れる程度の人数だったので掃除は比較的早く終わった。

「お疲れ様。」

添さんが声をかけがてら、コップに冷たいお茶を入れて差し出した。

「どうも。」

軽く会釈してお茶を飲んでいると、

「今日ビックリした。真君。あんなお話する子だったなんて。」

尋はどの子に対しても分け隔てをしないという訳では無いが、淡々と勉強を教えてあげたり程度の付き合いだったので、誰がお喋りか、誰が無口なのかを気にしていなかった。ただ、今日は何故か真君のことが気になったので何の気なしに話しかけただけだった。

「虫というか、凄く絵が好きなんですね。」

「それも初めて知ったの。何か感情が一気に爆発したって感じで。」

添さんにとっては、かなり衝撃な出来事であったらしい。ここの施設を利用する子は、みんなそれなりの事情がある。なので、時には子供らしからぬ表情や言動もありがちだった。それだけに、添さんが子供達の心の鍵探しは一筋縄ではいかないということも度々耳にはしていた。

「今日はお手柄ね。尋さん。」

そういって、添さんも持っていたコップからお茶を飲んだ。

「お手柄、かあ。」

尋心の中で呟いた。少し引っかかった感はあった。思い返せば、そもそも自分がここへ来たのも何かを変えたいとか、そういう期待感からでは無く、ただ単にここが誰からもあまり干渉されない、自身の能力をほどほどに出しながら距離を置ける場所だと思ったからだった。もはや、疲れ果てていたのかも知れない。そして、お茶を飲み干すとコップを洗って片づけて、

「じゃ、失礼します。」

といって、自転車にまたがり施設を後にした。いつもは何も感じない帰路だったが、今日は何故か夜風を頬に感じた。そして何かを思い出したように、

「11時・・・、」

といって、考えるのを止めた。こんな風に時計が無くとも正確な時間が解る能力など、備わって何の意味があるのか。そう思い直して軋むペダルをこぎ続けていると、左手にいつも通りかかる小さな公園に差し掛かった。ふと見ると、ブランコの所に誰かいる。

「真君だ。」

ニコニコしながらブランコに座って揺られる真君と、その後ろで彼の背を押す母親の姿があった。尋は自転車を止めてその様子を眺めていると、母親がこちらに気づいた。

「こんばんわ。」

尋が会釈した。すると真君と母親が近づいてきて、

「あ、お兄ちゃん。」

と嬉しそうな声を上げて膝の辺りにしがみついてきた。

「こんばんわ。今日はどうも有り難う御座いました。」

「いえ、別に。」

尋は母親と挨拶を交わすと3人で先ほどのブランコの所まで戻った。そして再び母親は真君の背を押し始めた。やはり、普段ならこんなことはせずに真っ直ぐ帰ってるのにな・・と、尋は思った。すると、

「あの、少しいいですか?。」

と、母親は尋に何か言いたげな表情をした。

「真、ちょっとここで遊んでてね。」

「うん。」

というと、真君は2人をニコニコしながら眺めてブランコをこぎ出した。

すぐ脇の所にある青いベンチに尋と母親は座った。

「最近、自分でもどうしていいのか、解らなくなっちゃってて。」

そう言い出すと、母親は俯いて微かに嗚咽を漏らした。尋は動揺した。添さんから何気に聞いてたお話が頭を過った。しかし、尋が彼女にしてあげられることなど何も無い。今日見えた不思議な光景のお陰かどうかは解らないが、あの時、ああいう風に声を掛けるのが精一杯だった。このまま重たい空気と沈黙が続くのかと思った。しかし、

「でも、今日の真の様子と尋さんの言葉で、何かちょっと吹っ切れたような気がして。」

と言って、母親は顔を見上げた。目元には光る物があったが、少し晴れやかな笑みが零れた。その瞬間、彼女が何か思い詰めていたことや、それが一気に元の流れに戻って行く様子を尋は理解した。いや、そう感じ取った。母親の姿越しにブランコに揺れる真君。そして、その上には一列に並んで連なっていくあの青い立方体が見えだした。

「よかったです。また待ってますから。」

その後、尋と母親は二言三言言葉を交わした。そして、真君と母親はお礼とさよならの挨拶をして公園を後にした。会釈をした後、残された尋は再びベンチに腰掛けて、少しずつ自身の変化を思い出していった。思い詰めた人間の様相。彼女に見た表情は他人事では無かったはず。では一体、何故?。尋は今ここでこうしていることが、実はそうでは無かったはずだったことに気づきだした。


 夜風に潮の香りが混じっている。ここは海からは結構な距離だったが天候が悪くなる前、風向きによっては湿った磯の匂いがすることがあった。

「あれ?。俺、確か海に向かって進んでたような・・。」

昨日より以前の出来事は比較的クリアーに思い出せた。といっても、特に活動的に過ごしていた訳では無く、何事も起きない淡々とした毎日だったはず。そして、日々陰鬱だったことも覚えている。それが、昨日の夜辺りからの記憶が不鮮明なままだった。

「小舟、縄・・。」

断片的には自身で何かをしたことは思い出せたが、その後は今朝川縁で起きた所まで飛んでいた。そして、何かが変わっている。デジタル時計よりも正確な時間感覚、何かの拍子にだけ見れる不思議な立方体。しかし、これ以上はここで考えていても何も起きないだろう。そう考えると、尋は再び自転車にまたがり帰路についた。部屋の所まで来て自転車を所定の所に置き、暗い部屋の電気を付ける前に、

「12時6分。」

と唱えて明かりを点けた。部屋の時計が12時6分を示していた。サッとシャワーを浴び、途中のコンビニで買ったおにぎりを頬張った後、眠りに就いた。いつになく短時間で深い眠りに移りかけたとき、閉じた瞼の暗闇の向こうから一筋の小さな光が見えた。

「あれは確か・・・。」

その光はやがて背に焔を帯びた一筋の太刀となって、たゆといながら尋を優しく見下ろすと頭上を通り過ぎていった。そして、その後に訪れる闇と共に尋は眠りに落ちた。


 翌朝、といっても既に昼前であったが、尋は珍しく人と会う約束をしていることを、壁に掛けてあるカレンダーの書き込みで思い出した。簡単な身支度をして部屋を出ると、ここからはかなり距離のあるファミレスで待ち合わせをしていた。秋も終わろうとしているのに少し汗ばむほどに、尋は自転車をこいだ。そして到着すると、

「11時27分。」

と呟いてファミレスのドアを開けた。壁に掛かっている時計が11時25分を示していた。恐らく時計の方が遅れている。尋は解っていた。オレンジ色の壁にシックなグリーンのソファーが配置されている一番角の席に、

「よう、こっち。」

といって軽く右手を挙げる男性がいた。然(しかる)だった。学生時代、同じ学部ではあったが専攻も全く違う、それでいて何となく気の合う友人だった。ひょろっと背の高くて飄々としてはいたが、それでいてかなり知的なやつだった。

「お、何か今日は元気そうだなあ。」

額の汗を見て、然はいつもとは違う尋の雰囲気を察知した。

「待ち合わせの30分に間に合わそうとして、必死でチャリこいだからな。」

しかし、昨日の添さんの第一声が頭を過った。そして今日、同じ言葉をかけられた。

「俺、元気じゃ無かったんだ。」

そう頭の中で呟いて、尋は自身の状態が傍目にも変わっていることを再認識した。

「たまには、うちの農作業でも手伝うかと思ってな。」

然は数式の計算ばかりの大学院生活を放り出して、自然相手に農業をやっていた。そんな彼が最近の尋の様子を知って、気晴らしがてら、日の光でも浴びてみてはどうかと気を回して会う約束をしていたのだった。

「お天道さんの下かあ。」

尋はどのくらい長い間か忘れたが、もうそんな場所とは縁遠くなっている自分がいたことも徐々に思い出してきた。

「然はホント、逞しくなったよなあ。本の虫だったもんなあ。」

「それは今も同じだよ。ただ、本と本の合間に野良仕事が入ったのさ。」

数ヶ月前に夏の日差しで十分焼けたであろう首や手の甲の黒さが目に入った。そして、

「あのさ、今だから正直聞くけど、何かあった?。」

「何かって?。」

「その元気さだよ。」

尋は今自分が元気な姿でいることが、昨日以前を知る人達には奇異に映っていることをさらに知った。そして、やはりあの日の夜のことを思い出せないまま、暫し黙考した。すると、

「俺、本読むだろ。そうすると、どうしてもそのままあっちの世界へ引きずられてしまう作者って、しょっちゅう見るんだ。表情は見えないけど、何て言うのかな、一線を超えた表現が書けるのと引き換えに自ら命を絶つっていうか。そんときの死相が見えたような気がしてな。尋に。」

ハッとなった。自分が昨日しようとしていたのは、まさにそれだったのではないか。

「うん、いわれてみれば。確かに毎日がただただ重たかったような気がする。でも、何か解らないけど、その重さは無くなったかもしれない。」

尋はあの晩、自ら死を選んだかも知れない事実を明確には思い出せないが、仮にそうだとしても、目の前の然にこれ以上心配をかけまいと、その辺りのことは敢えて言わなかった。そして、

「で、農作業って何だよ?。」

「ああ、収穫し残しの野菜があるからさ、食べに来なよって。」

「そっか。ま、暇だし、今度の休みにうかがううわ。」

恐らくは、このような誘いの全てを断っていただろう尋が珍しくOKした。興味や楽しみ、そういうことでは無かった。ただ、生きる動機を完全に失っていたことも少しずつ思い出し、こんな風に人とつき合っていくことで、それが取り戻せているのかどうかを試してみたいと思ったからだった。


 翌週末、尋は電車を乗り継いで然のやっている農場にまで足を伸ばした。晩秋の秋晴れで車窓は長閑な光景を映していた。心地より揺れに少しうとうとしながら2時間ほどで駅に着いた。改札を通ると、

「よっ。」

といって軽トラの運転席から然が右手を挙げた。尋は助手席に乗り込み、両脇に枯れ草が倒れかかった道を然とドライブした。

「ぶっちゃけ、農家って、どうなん?。」

尋はざっくりとした質問をぶつけた。

「正直、生きてるな・・って気持ちかなあ。自然は嘘をつかんし。」

生計の具合では無く、もっと根源的な生きる上での何かについてさらりと語り合うのが二人の日常であった。今は学生の頃のように頻繁に会うことは無い。しかし、あの頃の互いのスタンスはそのままだった。

「活力を貰ってるって感じか?。」

「まあ、鶏を絞めたり、産んだ卵を頂いたりってのは、そうかも知れんな。ま、死と生が隣り合わせって感じかな。」

然の話は尋を頷かせるのに十分だった。かつて彼と話し合った頃は、互いに知りうる知識と理屈の交錯だけだったのが、今は地に足の着いた実体験の語り部の声だった。街中で生きていて間違いなくあるのは、製品である。食料品にせよ、加工をほどこされて店頭に並んでいるのを購入する。それが普通であり、尋の日常である。しかし、太古からの人間の営みから見れば、むしろそんな状態の方が歪なのかも知れない。その後、近況などを語り合ってる間に然の暮らす古民家に到着した。

「さ、着いたぞ。」

「サンキュー。」

鶏と遠く山の端で無く鳥の声を聞きながら日の当たる大きな玄関をくぐり、土間で靴を脱いでいると、

「こんにちは。ようこそ。」

と、然の奥方が障子を開けながら挨拶をした。

「こんにちは。尋です。お世話になります。」

尋は丁寧にお辞儀をして家に上がった。そして、奥の部屋に通されてお膳の所に座ると、奥方がお茶と柿を運んできた。

「よかったらどうぞ。」

「わ、でっかい柿だな。」

尋はスーパーで見るのとは違う、ドンと幅のある柿の実に驚いた。皮は剥かれてカットはされていたが、その一片でさえ大きかった。

「うちの裏山で成ってる柿だよ。」

尋は添えてある爪楊枝でその一つを口に運んだ。頬張るようにして噛みしめると、全く淡くない濃厚な柿の香りと甘さが口じゅうを駆け巡った。

「凄いな、これ!。」

「元々は果樹園にあったのを、種だけ貰って適当に植えといたら、いつの間にか撓わに成るようになってな。」

人が手を加えて発砲のトレーに並べる手間ひまよりも、何もせず本来のままの柿こそが本当の柿の味がする。確かにこういう物に囲まれて、それらを食しながら暮らすことは即ち生きること。然が求めていたものがここにはあったんだなと尋は思った。

「さて、じゃあ、畑に行ってみるか。」

「おう。」

人は再び軽トラに乗って、数分で畑に着いた。大抵の物は収穫を終えていたが、一部だけわざと採らずにそのままにしてある感じだった。

「どや。臨場感あるやろ。」

「なるほどなあ。」

尋はこの状況を味わうためにそうしている然の演出に思わず唸った。二人は早速畑に踏み入って、然がいうままに尋が次々に野菜を収穫していった。少し傷が入って部分的に色濃くなった茄子、地面に触れている部分が黄色く変色している南瓜、土から出て入る蔓は枯れかけているが掘り起こすと見事な赤紫を見せる薩摩芋。これが本来の野菜の得方なんだと、尋は夢中になった。やがて気づけば、尋一人で持ち帰るには十二分の量が採れた。と、然りが、

「はは。収穫ってこんなもんだよ。今日いる分だけと思っても、ついつい採っちゃうのさ。」

そして、採れた野菜を荷台に積むと、今度は軽トラで裏山の方に向かった。数分後、参道の辺りに車を止めると、

「この時期と来たら、やっぱこれだよ。」

といって、然は尋に背負い籠を差し出した。尋は何を採りにいくのか不思議に思ったが、雑木林に分け入ってしばらくすると、

「あ、これかあ。」

といって、倒木の辺りに生えている茸の所で立ち止まった。

「お、それいくか?。逝っちゃけどな。」

紅い傘に白い斑点。典型的な毒茸だった。尋は眉間に皺を寄せた。その後さらに奥に踏み入って、小一時間ほどで籠いっぱいの茸を採った。勿論、然の指示通りの茸のみを。

「植物と違って、茸って真菌類でカビとかの仲間なんだけど、こいつが作り出す旨味って、ホント美味いんだよなあ。」

科学の知識はそれが何かを認識するツールに過ぎないが、その本当の意味は茸自身が自然に生み出す味以外に、我々は何も知らない。それほどに山は人知を超えて豊富なのだろう。そして今、自分達はその中にいる。いや、そのものになっている。

「さーて、ぼちぼち帰るかあ。」

然が促して、二人は帰路についた。


 野良仕事の心地良い疲労感のせいで、尋は軽トラの助手席で秋の景色を眺めながらついうとうとした。然も気を利かせてできるだけ静かに運転した。こんな穏やかな気持ちになったのはどれくらいぶりだろう。そして、眠りはやがて深いものとなり、気づけば闇の中に尋はいた。遠くの方から一筋の小さな光が近づいてくる。

「あれは・・。」

その光は焔を帯びた太刀となって三度(みたび)尋の頭上をたゆといながら通り過ぎていった。しかしその眼差しは以前とは異なり、何処か物悲しい雰囲気であった。その瞬間、

「あっ。」

「どうした?。」

「・・いや。夢かあ。」

「はは。何かいい夢でも見たか?。」

尋は黙った。そして、里の夕暮れを眺めながら、

「長閑・・だよなあ。」

そう呟いた。

「ま、繁忙期は大変だけど、概ねこんな感じさ。自然に抱かれ、やがてみんな土に還る。」

途中、二人が乗る軽トラの前に、一匹の小さな動物が横たわっていた。然は車を止めて荷台からショベルを持ち出した。尋も車を降りた。

「狸・・か?。」

「ハクビシンだよ。弾かれちゃったのかな。」

そういうと、然は脇道の所にショベルで穴を掘り、その動物を丁寧に埋葬した。

「土へ・・かあ。」

「そのままにしても、やがては朽ち果てるけど、その前に烏とかに突かれちゃうとなあ。」

二人は再び帰路についた。そして然の家に着くと、今日の収穫物を手際良く新聞紙で包んで袋詰めにした。もう日も暮れかかっていた。然は、

「じゃあ、駅まで送るよ。」

そういうと、二人はまた軽トラに乗り込んだ。家から奥方も出て来て、深々と頭を下げて別れの挨拶をした。尋も座りながらではあるが頭を下げて礼をいった。

駅へ向かう途中、二人は何気ない会話を交わした。といっても、彼ら独特の方法で。

「里の冬って、どうなん?。」

「うん、しんしんとって感じかな。雪が積もれば全ては凍てつくし、家にいても暖を取ることで生きながらえてるのが良く分かる。」

来る途中、現代風な戸建ての住宅にガレージを備えた家は何軒もあった。しかし然はそういうのでは無く、あの古民家に住み着いている。そこに至る道程を今更たずねるようなことはしない。然とはそういうやつだし、尋も今日の訪問でそのことを体感した。それだけで十分であった。やがて駅に着き、二人は車を降りた。

「有り難うな。満喫したで。」

尋は今日の出来事を一言で述べた。然は荷台の方へいき、

「野菜は常温で冷たい所に置いといても日持ちするけど、茸は足が早いからな。」

そういって、ずっしりと重い袋を尋に手渡した。そして、

「じゃあ、達者でな。」

といって然は軽く右手を挙げた。

「じゃあな。達者でな。」

尋は左に傾いた体で右手を挙げて別れの挨拶をした。自然の恵みとはかくも重い物なのか。そして改札を通り、電車に乗り込むと元来た道を反対方向に揺られながら尋は帰路に就いた。里の夜は殊の外暗く、所々に街灯が灯る以外は何も見えなかった。車内の照明と外の闇の狭間に文明と大自然の隔たりを何気に感じた。


 どうにかこうにか重たい土産の収穫物を運んできて、尋はようやく部屋に着いた。かなりの疲労感はあったのと空腹のせいで早く食事を取りたいところだが、然りの言葉を思い出し、尋は持って来た袋の中から茸の塊を詰め込んだ包みを取り出し、台所でザッと洗った。そして石づきの所を丁寧に切り落として、鍋にぶち込んだ。味付けは適当に粉末の出汁を入れ、一煮立ちしたら仕上げに若干の味噌を入れた。それを丼によそって白飯と一緒にお膳の所まで運んだ。

「確かにいい香りだなあ。」

尋は丼から立つ湯気を嗅いだ後、一口啜ってみた。

「美味っ!。」

絶句した。濃厚な山の味が一気に押し寄せた。即座に尋は白飯もかき込んだ。収穫の秋とは単なる言い伝えでは無かったんだと、尋はひたすらがっついた。多い目に作った茸汁も、たんと盛った白飯もすぐさま無くなった。尋は行儀悪く、食べてすぐに仰向けで大の字になり、

「食ったなあ。」

と感嘆した。そして天井の灯りを眺めながら、今日味わった山の空気に想いを馳せていた。ああいうのを求めて、然は逞しくなったんだなと。尋はそのまま寝入りそうになって、ふと別れ際の然を思い出した。正確には然では無く、彼とその向こうに見える山の端の様子を。そこには妙な物など全く見えなかった。山からの帰りに見ていたであろう夢は、ただの杞憂に過ぎない。そして尋は微睡んだ。もう時間を当ててみることなどすっかり忘れて。


 翌日、尋は一人では食べきれない野菜を袋ごと持って、少し早い目に添さんの所にいった。

「わあ、立派な野菜!。露地物ね。」

そういうと添さんは袋から野菜を取り出して、台所でザッと洗って次々とざるに並べた。今日は真君が早い目に来ていた。母親の都合で添さんが一日あずかることになったそうだ。彼は水滴のついた茄子や南瓜を見ると、紙とクレパスを取り出して描き出した。少し眺めては紙に目を落とし、思いきりのいいライン取りで野菜の輪郭を描き、次いで色を塗り重ねていった。最後には水滴まで丁寧に描いた。

「わあ、瑞々しいな。」

尋は思わず声を上げた。好きなアニメのキャラや動物を描く子は多いが、静物画を黙々と描く子は殆ど出会ったことが無かった。尋でさえ美術の課題で描いたぐらいしか記憶が無かった。真君は得意げな笑みを浮かべ、一通り描き終えた。

「じゃあ、いい?。これでお料理作るね。」

そういうと、添さんは台所で調理を始めた。ザクッと四つ切りにされる南瓜の音。シュルッと剥ける茄子の皮。尋と真君は黙って見つめた。と、

「あ、すいません。何か手伝います。」

「いいのよ。パッと作っちゃうから。」

添さんの手際よさに見とれて、尋はタイミングを逃した。仕方ないので尋は真君と外に出てまた何かを散策し始めた。

「今日は何かいるかな?。」

しばらく茂み辺りを探してみたが、この前のようには昆虫は見つからなかった。結構丹念に探したが、僅かに蟻が時々歩いているだけだった。すると、

「あ、トカゲ。」

真君が植え込みの影に走り込む一匹の蜥蜴を見つけた。尋は一瞬止めようとしたが、先に真君が無理に捕まえようとした。そして、

「わあっ。」

真君が驚いてたじろいだ。右手に捕まえたはずの蜥蜴は逃げ去って、切れた尻尾だけがピクピクと動いていた。真君は慌ててそれを放り投げた。

「あ、残念。自切したな。」

「じせつ?。」

「うん。トカゲはね、驚いたり敵に捕まりそうになると自分で尻尾を切って逃げちゃうのさ。」

「痛くないの?。」

「うーん、どうだろう?。」

真君はまだ動いている尻尾を繁々と眺めた。切断面に少し血が滲んで白い突起が花弁のようになった尻尾は、次第に動かなくなった。

自分の身を切って命を守る。大胆な方法だが、これこそが蜥蜴が生き長らえるために備えた戦略であった。幼い頃にしか見たことのない光景を再び見て、尋は少しの残酷さと興味とが蘇った。真君はじっと見つめていた。

「さーて、出来たわよ。」

添さんが二人を呼んだ。戻って見ると、沢山の野菜料理が大きな器に盛られてテーブルに並んでいた。あれだけあった野菜が見事に湯気の立つ料理に変身していた。ほくほくの南瓜。茄子の上で湯気に躍る鰹節。そして仄かに香る出汁が二人の食欲をそそった。添さんは白飯もよそってくれてあった。

「すいません。頂きます。」

「いただきまーす。」

「はい、召し上がれぇ〜。」

お昼時だったので、三人はもりもりと食べた。

「うわあ、これ、凄いね。」

添さんが感嘆した。尋は前日に一足早く茸を食していたが、あらためて然の作った野菜に舌鼓を打った。味が濃いのにまろやかで、ほんのりと甘い。真君も夢中で食べていた。

「嫌いな野菜とか、無い?。」

「・・ニンジン。」

真君は尋に質問にそう応えたが、でも、ちゃんと食べている。

「でも、このニンジン、美味しい。」

そういってニコッと笑った。食べ物の好き嫌いは誰にでもある。尋も子供の頃はそうであったが、父親の躾が厳しかったので今は好き嫌いが全く無い。そのことには今でも感謝しているが、同級生で尋と同じように好き嫌いの無い者はほとんど出会ったことが無かった。それだけ食に対する偏りとは固定観念として普遍的になっているのかも知れない。人参嫌い、ピーマン嫌い。しかし然が作った野菜は、そんな凝り固まった文明の産物を突き崩すかのように自然と子供にも受け入れられている。彼の道程は正しかったのだろう。尋は再びそう思った。出汁の染み込んだ根菜類は尋の胃袋を十分に満たした。少し力が漲ってきたような気も。流石にそれはまだ早いか・・などと考えている所に、尋のケータイが鳴った。

「誰だろう?。」

見ると、然からだった。昨日の今日で、何か忘れ物でもしたかな。そう思いながら出ると、

「もしもし、尋さんのケータイですか?。」

声は然の奥方だった。尋は驚いた。少し間を置いて、

「はい、そうです。」

「あの、すみません、急に。実は今朝方、主人が亡くなりまして。」

視界が真っ白になった。空白。そして、やがて少しずつ鼓動が早くなるのを感じた。

「え?。嘘でしょ?。だって昨日・・。」

取り乱した。まだ何が起きたかも把握できていなかった。そしてようやく次の言葉をと思っていると、

「急にだったんです。私もどうしていいか・・。」

尋はハッとした。何も見えなかったのは何も無いからではなかった。そこには例のキューブは、もう無くなった後だったのだと。尋の動揺はまだ収まってはいなかったが、

「あの、解りました。すぐではないかも知れませんが、できるだけ早くそちらに伺います。」

そういって、尋はケータイを切った。


 尋は添さんに事情を話した。

「あら。何てこと。解ったわ。後のことはやっとくから、尋さんはすぐ行ってあげなさい。」

そういって、添さんは尋に促した。尋は真君に、

「ごめん。今日お兄ちゃん用事が出来ちゃったんだ。だから行かないといけないんだ。」

「用事って何?。」

真君の目が行かないように懇願していた。尋はこの状況をどう説明しようか一瞬迷った。しかし、ありのままを伝えた。

「お兄ちゃんの大切なお友だちが亡くなったんだ。」

「いなくなっちゃったの?。」

「うん、そう。だからちゃんとお別れしに行かないといけないんだ。」

真君は少し俯いて、再び顔を上げていった。

「じゃあ、明日帰って来る?。」

「うん。必ず。」

「わかった。」

真君が健気に尋を送り出すゴーサインをくれた。そして、2人への挨拶もそこそこに尋は急いで部屋へ戻り、取り敢えず黒っぽい服を出して着の身着のまま昨日戻って来た道を再び行くことになった。もう、どのように電車に乗り込んだのかすら覚えていない。気がつけば車窓は冬の訪れを示していた。昨日まで秋だったのに。昨日と同じ枯れ葉が寂しく見えた。長閑な田舎の風景も彼を癒やすことは無かった。尋はただ窓から空を見つめ、頭の中を整理しようとした。いや、気持ちを落ち着けることの出来る何かを少しでも見出そうとしてみた。しかし、何一つ無かった。早く到着することを願う焦燥感と、電車の床下辺りから聞こえるモーター音が尋の気持ちをかき立てた。そして、

「この地に暮らすべく、あんなに元気だったじゃないか。なのに・・。」

落ち着かない心持ちのまま、尋は答えの無い問いに苛まれていた。心地良いゆったりとした昨日の揺れは、もう無かった。恐ろしく時が長く感じた。やがて、電車は昨日北駅に到着した。幸い、駅前にローカル風なタクシーが一台止まっていたので、尋は運転手に行き先を伝えて然のいる民家に向かった。車中、運転手が、

「然さんのとこですか?。」

とたずねた。尋は驚いて、

「ええ、そうです。ご存じなんですか?。」

とたずね返した。運転手は少し寂しげに答えた。

「狭い村ですからね。みんな知り合いのようなもんですわ。今日だけで何人も運んでますわ。」

はっとした。そうか、然は顔が広かったんだと今更ながらに気づいた。恐らくは大学時代の仲間も駆けつけているかも知れない。この時尋は少し嫌な気がしたが、今は当時のことを持ち出しているどころでは無い。そうこうしているうちに、タクシーは然の家に到着した。玄関付近にも数名が喪服姿で立っていた。尋は軽く会釈すると、その間を通って土間に入った。そこには既に何足もの靴が並んでいた。尋は端の方に靴を脱いで上がり、人に囲まれている奥方を見つけた。すぐに話を聞ける状態では無さそうだったが彼女の方から尋に気付き、さっと歩み寄ってきた。そして丁寧にお辞儀をして挨拶をした。

「すみません。突然のことで。」

「いえ。」

尋は次の言葉が全く浮かばなかった。気丈に振る舞ってはいたが、彼女の声のトーンに蝋梅と疲労が窺えた。そして、

「昨日、尋さんが帰られた後、本当に嬉しそうにしてたんです。元気になったって。そして、夕食の後に少し横になるっていって、そのまま・・。」

彼女はハンカチで口元を押さえた。尋はどうしていいかさえ解らなかった。今自分がここにいる理由は分かっていたが、その意味が分からなかった。そして、奥方の肩を軽く支えて、

「然に会えますか?。」

そう切り出した。奥方は軽く頷いて、尋を眠っている然の所まで案内した。既に祭壇と棺が用意されていた。都会では見ない、この土地ならではの極めて素朴な装飾であった。その中に白装束の大柄な男性が横たわっていた。尋は心が定まらぬまま、棺を覗き込んだ。そこには、まことに穏やかな然の死に顔があった。

「然よ、何逝ってるんや!。」

尋は棺の縁をぎゅっと握り締めた。涙が滲み出た。信じるかどうか。そんなことはどうでもいい。ただただ、昨日までの生が、今日は死となって眼前にある。それだけのことだ。尋はそう考えた。では、この締めつけられるようなやりきれなさと、どこまでも底の無い喪失感は、一体何なんだ。思考と感情が入り交じって、尋の心を一気に貫いた。そして再び然の顔を見つめた。穏やかだった。

「そうか、お前はこういうのが無い所へ、もう行ったんだな。」

そういって、尋は奥方の方に一礼し、棺から離れた。集まっている人垣を避けて、尋は靴を履き、庭に出て枯れ葉の残る木々を眺めた。ほんの僅かだが、今日何があったのかが朧気ながらに解り始めた。そこへ、

「お?、尋じゃないか。」

聞き覚えのある声が尋を呼び止めた。弁(かたる)だった。尋は一瞥した。


 学部時代の同級生だった。他にも二、三人見覚えのある顔が並んでいた。かつて尋が所属していたその学部には悪しき因習があった。封建的な体質で構成された学部に属する従順な学生達は、まるで飼い犬の如く学部の意向に沿わない学生達を露骨に排除すべく威圧的な態度を示し、学生達全員を従わせようとしていた。それを先頭に立って指示していたのが弁が属する体育会系の連中だった。その当時からは随分と時は経っていた。が、しかし、尋は手のひらに嫌な汗が噴くのを感じた。然と尋はそんな下らない風習には与しない態度を露骨に示していた。尋は彼らとしょっちゅう小競り合いを起こしていたが、然は飄々と彼らを煙に巻いていうことを聞かなかった。そんな自由を求める姿勢が、何時しか二人を結びつけていた。そんな然を失った動揺を抱きつつも、静かな喪に服すつもりでここまで辿り着いたのだが。

「お前も来たのか。」

弁がいった。尋は相変わらず木々を眺めていた。この時間が早く終わることを祈りつつ。

「あいつ、こんな辺鄙な所で暮らしてたのな。」

そういうと、弁は煙草をくわえて一服し出した。嫌な煙を燻らす匂いが尋の鼻先に届いた。

「折角教授が持って来てくれた大手の就職口、自ら蹴ってさ。」

弁の言葉に、尋はその時のことを思い出していた。学部の横暴に嫌気がさし、他大学の院受験し、そこへ移ることが決まった尋が然の研究室を訪れた時のことだった。

「教授が何時までも就職を決めない俺を見かねて、わざわざ仕事の口を見つけてきてくれたよ。」

然と尋はガランとした研究室のソファーに横並びに座りなが話した。就職の決まった連中は、後は適当に卒論を提出するだけだったので、ほとんど誰も登校していなかった。

「どんな所よ?。」

「大手金融機関だって。」

尋の問いに然が答えると、

「そんな、銭勘定なんかして生きて、おもろいか?。」

尋は思いつくまま率直にいった。然は尋の方を笑顔で向き直った。そして、

「お前ならそういうと思ったよ。みんな御目出度うとしかいわんねん。」

そういうと、然はすっくと起ち上がって、

「じゃあ、早速断ってくるわ。この話。」

然が軽やかに部屋を出ようとした時、尋が、

「そうそう、俺、ここ出て行くから。次の院が決まってん。」

伝えるべきことは伝えたと、自身も部屋を出ようとした。そして然が、

「お前、そういう肝心なことはいつも最後にしかいわんな。」

と、相変わらずな尋を眼鏡越しに目を細めて見た。そして二人はにこやかに部屋を出た。そんな自由をそれぞれに求めて出発した門出の日を、そのことの意味を、絆を、全く理解すらしないやつが今目の前に煙を燻らしていやがる。然が求めた新天地。そこで穏やかに本当の幸せを見つけたであろう喜び。それをこいつは・・。

「おお。」

尋はふり向いて弁に一声掛けた。そして、左足を半歩踏み出して左手を彼の左肩にそっと置いた。そして次の瞬間、尋は右手の拳を軽く握って弁の顎先をちらっと見た。その時、

「列が途絶える。」

尋は弁の後ろにあの立方体を見た。整然と一列に並んではいたが、その前方付近でキューブが途絶えようとしていた。そして心の中で呟いた。

「俺が止めるのか?。この列を。」

尋は一瞬で冷めた。間合いを計って間違いなく弁の顎先にフックを食らわすはずだった。頸椎を軸に脳が揺らされてグシャリと崩れ落ちる弁の姿さえ見えた。だがそれは、ともすれば弁の命を脅かしかねない程の衝撃であっただろう。そのことをまるで知らせるかのように、キューブの啓示が現れたとしか思えなかった。

「今日は喪に服しよう。」

そういって、尋は弁の肩からてを下ろした。そして、彼らの元から離れていった。生きているのに、もう会うことは無い。二度と。弁は唖然としながら尋の歩みを見つめていたが、仲間に促されてやがて何処かへ消えていった。冬の到来を告げる風が妙に肌寒かった。このまま近くで宿でも見つけて葬儀までいようかとも考えたが、真君との約束を思い出し、尋は再び然の奥方のところへいった。

「すいません。今日しか出れなくて。」

恐縮しながら去らざるを得ない旨を伝えた。すると、

「いえ、連日、どうも有り難う御座います。すみませんでした。わざわざ。」

奥方は一礼した。そして尋が立ち去ろうとした時、

「あの、少しいいですか?。」

「はい。」

尋は呼び止められた。奥方は祭壇の所から少し離れた所に尋を連れていった。

「主人から尋さんのことをうかがってました。何かかなり思い詰めた感じだったと。それが、昨日こちらに来られた時に、すっかり元気になってたのを、凄く喜んでました。何か銀色の昇り竜が背後から見えるぐらいだって。」

奥方は尋の最近の様子を然から聞いていたようだった。

「はい。何故だか解らないんですが、ボクは元気に。」

そういうと、尋は自分一人が元気でいることを酷く申し訳なく感じた。しかし奥方は、

「良かったです。主人が最後に望んだことでしたから。どうかこれからもお元気で。」

奥方は目を潤ませて深々とお辞儀をした。尋も胸の辺りに何か込み上げてくるものがあった。そして、口元を押さえながら深々と一礼した。そして尋は然の祭壇に手を合わせると、彼の眠る民家を後にした。


 帰りの車窓も幾分沈痛な感情は残ったままだったが、尋の意識はそれとは別の所にあった。早く戻って真君との約束を果たすこと。そして、これはまだ未解決のままだったが、何故自分がこんな風に元通りにとまではいかなくても比較的元気を保てているのか。そして、あれほど元気に自身の幸福に浸っていた然が逝かねばならなかったのか。そんなことを頭の中でグルグルと巡らせながら尋の体は帰路に揺られた。到着した頃には、辺りはすっかり暗かった。尋は急いで添さんの施設に向かった。

「お兄ちゃん!。」

真君が駆け出してきて尋の足に抱きついた。

「ただいま。お待たせやったな。」

そういうと、尋は真君と事務所に戻った。机の上には所狭しと今日描いたであろう色んな絵が散らばっていた。ライオン、花瓶、おにぎり、添さんの後ろ姿であろう女性、ありとあらゆるものを真君は描いていた。どの絵のタッチも丁寧なラインとそこからはみ出しそうなぐらいに力強くクレパスで塗られてあった。躍動感そのものであった。

「真君、今日来るなり、さっきまで黙々と描いてたのよ。」

添さんは少し呆れ混じりで彼の様子を語った。しかし、

「こんなにも変わるなんて、やっぱり尋さんの何かが響いたのかな。」

と、熟々感心した。尋は何も特別なことをしたつもりは無かった。むしろ、些細なことをきっかけにここまで真君が変わったことに彼自身も驚いていた。

「多分、お母さんの様子が変わったからですかね。」

尋は、先日の公園での出来事を少し話した。すると添さんが、

「そうだったの。お母さんもそんな風に。あのね、ここだけの話、お母さんと真君がここに来られた時、かなり憔悴した感じでね。」

と、当時の話をし出した。ご主人が突然いなくなって以降、母親は真君を養うべく様々な仕事に就いたらしかったが結局は上手くいかず、より収入のある夜の仕事に移っていったとのことだった。次第に真君を迎えに来るのも遅くなり、母親の様子も端から見てハラハラする程に窶れている様子だった。丁度その頃に、尋は彼らと出会い、何か察するところがあって、結果今に至っている。

「お母さん、お昼の仕事を見つけて、大変そうだけど頑張ってるみたいよ。」

「そうでしたか。」

尋には、ほんの僅かな出来事ではあったが、これも何かの縁のようなものなのか。それとも、あの奇妙な光景のようなものは何らかの啓示なのか。

「ところで、あちらのお友だちの方は?。」

添さんがたずねた。

「はい。奥さんにはお会いして、挨拶はしてきました。」

「そう。お若いのに急なことだったわね。」

「・・・はい。ボクも実感が全然無くて。」

そう答えながら、尋は然のことを、いや、最後に会った光景を思い出していた。こんなビジョンを見せられて、それが一体何になるというのか。すると、

「お兄ちゃん、何か描いて。」

真君がせがんできた。中学生達の面倒も見なければいけなかったので、尋はその辺りの紙と鉛筆を取って、頭に思い浮かぶものをパッと描いた。ほんの僅かの間ではあったが、尋は無心に描いた。というよりは自然と手が動いた。そして、描き上がった絵を見て、尋は驚いた。

「何なんだ、これ?。」

そこには一列に規則正しく並ぶ幾つもの立方体の列が、そしてその彼方にはたゆとう一匹の竜のようなものがこちらに向かってくる様子が描かれていた。尋は強張った。すると、

「これ、ボクも見たよ。」

と、真君が不意にいった。ハッとなって尋は真君に聞き返した。

「どこで?。」

「公園で。この前。お兄ちゃんとお母さんと一緒の時。」

尋は頭の中で呟いた。

「8時42分。」

そして事務所の時計を見た。やはり8時42分を示していた。尋は然の奥方が何気にいった言葉を思い出した。

「昇り竜・・。」

頭の中で何かが一つに結びつきそうな感じがした。その時、入り口の方に誰かが来た。真君の母親だった。

「すみません。ちょっと遅くなりました。」

添さんが出迎えてくれた。そして真君は母親の元に駆け寄り、

「お兄ちゃん、ちゃんと帰って来てくれたよ。」

と、嬉しそうに母親に報告した。母親は尋を見ると一礼して、

「先日はどうもすみませんでした。有り難う御座います。」

そういって、深々とお辞儀をした。そして、尋達の仕事の邪魔にならないように、真君を連れて帰っていった。

「バイバイ。また明日ね。」

そういって、尋は二人に手を振った。そして、中学生の面倒をみるために教室になった部屋へ戻っていった。淡々と数学の解き方や理科の問題集にヒントを与えながら解説したりと、それぞれの子間を忙しく行き来した。夜の10時頃にはほぼ全ての生徒がそれぞれの勉強を終えて帰路についた。後片付けをしながら尋はさっき描いた絵の事を思い出していた。そして、事務所に戻って再びその絵を見つめた。

「・・・海。」

急に何かの記憶が蘇った。いつもなら一息ついて添さんと少し話し込む所だが、今日は早い目の暇乞いをして施設を出た。向かうところは決まっていた。


 尋は止めてある自転車にまたがると、一目散にある所に向かった。途中に自分の部屋のあるアパートを通り過ぎ、ひたすらペダルをこいだ。そして夜の道路を南下すると緩やかなスロープになっていき、その先は橋だった。尋は橋の袂付近に自転車を乱暴に乗り捨てて、堤防の階段を駆け下りた。そして川面が見える辺りまで来て、

「この橋脚だ。そして、遠く伸びるプラントの光。」

尋は次第に思い出してきた。しかも鮮明に。

「確かこの辺りに小舟が。」

尋は乗り捨ててあったボートの柄まで思い出した。しかし今はもう無い。このままでは海へ出る手段が無い。尋は再び階段を駆け上がると、倒れた自転車にまたがり、堤防沿いの道路を西へと下った。海へ向かって。どれぐらい走ったであろう。堤防はやがて行き止まりとなり、民家が数軒寂しく建ち並んでいて、その先は倉庫街だった。都会の海岸は無闇に人が立ち入らないように、何処までいっても高い柵が張り巡らされていた。しかしそんな中を、比較的低い金網の部分を見つけ、尋はよじ登って中に入り込んだ。そして暗い倉庫の建物の間を抜けると、岸壁の向こうに海が広がっていた。ふと左に目を遣ると海の中程まで続く防波堤になっていた。尋は静かにその上を歩いて突端まで来た。そこから先は何も無く、夜の黒い海面が足元で波音を立てながら規則正しく波打ってるのが見えた。

「あの時よりは輝いていないか。」

尋は自身の存在が重苦しくて仕方なかった、あの時の感覚を思い出した。しかし、今はあの時ほど水面な美しく輝いていなかった。寧ろそこから先に来ることを拒絶するかのように。反面、今の自分には、かつてあったような閉塞感も絶望感も消え去っていることにもあらためて気づいた。ただ、自身に備わったであろう超常的な時の可視化のようなものは、一体何のために、そして、これから先もこのようなものを見ながら一生を過ごすのか。そう思うと、尋は得も言えぬ居たたまれなさに襲われた。人の生死の因果律など、生きているときに見るものでは無い。人は必ずいつかは死ぬ。それを予兆の如くビジョンとして受け取ることなど、何故必要であろうか。その疑問の奥底に答え得るものがあるとすれば・・。今日は小舟も無い。その辺りに手頃な大きめの石も無い。尋は両手を広げて、そのまま海に身を投げ出した。

「ザバーン。」

一度は深く沈んだ尋の体は浮力で浮き上がった。そして両の腕を広げたまま仰向けになって漂っていった。河口からの流れが引き潮と共に、彼の体を沖へと運んでいった。尋の体からは体温が奪われ、やがて視界は狭まり、そしてついには意識を失った。と、突然、辺りが真っ白に輝き、尋は目覚めた。海では無かった。眩しさのあまり目が順応するのにしばらくかかった。やがて、ぼんやりと目の前に巨大な輪郭が見えた。あの焔立つ生物だった。尋はその生物と対峙した。

「我、時ノ城ヨリ遣ワレシ者也。汝、何故(ナニユエ)賜リシ動ノ時ヲ拒ム也?。」

悲しげにこちらを見つめる生物に対し、尋は臆せず問うた。

「では何故、私にあのようなものを見せる?。我々は生と死の狭間に生きこそすれ、その境界を知ることを求むる能わず。然るに、何故敢えてそれを見せしむる?。」

眼前の生物は目を見開き、そして答えた。

「我ラハ時ヲ司ル者也。汝ハ我ラガ世界ト交ワリシコトニヨリ、ソノ律ヲ見シ目ヲ開眼セリ。」

尋は毅然と、

「では、再び私を迎え入れるつもりは無いと言うのだな。ならば、私にはそのような目は必要無い。直ちに消し去ってくれ。」

そう懇願した。しかし、眼前の生物は黙して語らなかった。そして暫くの後、

「否。汝ハ動ノ時ヲ終エズ、我ラト同ジ目ヲ持ツコトヲ定メトスル者ト成リシカ。」

そう言い残してその巨体をうねらせたかと思うと、眩しい光りの彼方に消えていった。その時、

「カラン。」

と、尋の足元に何やら小石ほどの楕円形の物体が落ちていた。何やら素焼きのようなその物体には五つの穴が開いており、古代の楽器のように見えた。尋はその物体を手に取り、先端部分に開いている穴を唇に当てて、そっと息を吹き込んでみた。

「フォーッ。」

低く枯れたような音が響いた。と、突然、目の前に小柄な老人が佇んでいた。髪も髭も真っ白なその老人は尋を見るなり、

「あー、これこれ。無闇に吹くもんでは無い。我が名は哲快(てっかい)。おぬしと同じく時の狭間に誘われし者よ。きっとおぬしも、あれに誘われて来たんじゃろ。」

と、何やら唐突に説明を始めた。尋はその老人の言葉に聞き入った。

「わしも今より数千年前、訳あって此処に来たのじゃ。そして、あれの住む世界と此の世の狭間を行き来するうちに、此処に住み着いてしもうた。おぬしのように、ことあるたんびに入水してては体が幾つあっても足りんからのう。」

そういうと、老人は尋が物体を握っている方の手にそっと触れ、

「此処からは、運命(さだめ)の旅。しかと、そう受け止め、生を全うするのじゃ。そして余程の時は、それを吹いてみ。」

そういうと、ニコッとして尋の視界からふっと消えた。その瞬間、

「あれ?。」

尋は元来た金網の手前に立っていた。右手に楕円形の小さな物体を持って。


 少し呆然とした後、尋は倒れていた自転車を起こしてまたがり、ゆっくりとこぎ始めた。考え事をしながら。以前に海に身を投じたときよりも記憶や感覚は鮮明だった。

「あれ?、服が濡れてない。」

直前に自身が行ったことも覚えていた。しかし衣類は来たときと同じように乾いたままだった。おかしい。確かに自分は水に入ったはずなのにと、尋は自身の思考を疑った。整合性がとれていない。入水のときと今との間に起きたことがスッポリと抜け落ちていた。

「時間を抜き取られたのか?。いや、違う。記憶が消されてるんだ。」

かつての出来事から徐々に覚醒した経験が、尋にそう結論づけさせた。恐らく今度も少しずつ思い出していくのだろうと。それにしても不可解なことが一つある。右手に持った楕円形の物体だ。本来なら奇妙を通り越して不気味なはずである。しかし尋はそれすらもいずれは何か思い出すであろうと、上着の右ポケットにしまい込んだ。そして、今日ここまでやって来た動機を思い出しながら暗い倉庫街をゆっくりと進んだ。自転車のヘッドライトが淡く進む先を照らした。

「確か、キューブだったよなあ。」

自身に備わったであろう、いらぬ能力と決別するべく、俺はここへ来たのでは無かったのか。しかし同時に、その能力をなくすことは即ち再び自らが死を望む陰鬱な自身に戻るだけではないのか。この能力こそが、自身の寿命を先延ばしにしている要因ではないのか。しかし、答えなど出ようはずも無かった。

「身を委ねて生きるのみ・・か。」

尋は今自身に起きていることが、人類の為し得なかった壮大な事象であることに少しずつ気づき始めていた。ライトの行く先はさらに前方を照らしていた。そして暗い倉庫街を抜けて表通りに差し掛かったとき、左手に赤色灯の点滅が見えた。尋はそちらの方に近づいて行った。どうやら事故らしい。まだ起きて間が無いらしく、巡回中のパトカーが偶然事故を発見したようだった。尋は自転車を止めてそちらの方に近づいた。辺りにはプラスチックの破片のような物が散乱していた。その先には大破した原付バイクが横倒しになっており、数メートル向こうに人が仰向けになって倒れていた。そのバイクの向かいには左のフロントグラスに蜘蛛の巣状のひびが入った銀色の軽自動車が斜めを向いて止まっていた。血の気が失せて真っ白な顔をした運転手らしき人物が警官から事情を聞かれていた。出会い頭の衝突事故のようだった。もう一人の警官が仰向けに倒れている人からヘルメットを外そうと懸命になっていたが、どうやら迂闊には動かせない状態のようだった。そのうち、灰色のアスファルトの上に赤黒い血糊が広がりだした。警官は無線で連絡を取りながら蘇生を施そうと慌てていた。と、そのとき、

「黄色くなるのか!。」

尋の眼前に例の立方体が現れた。そしてその一列の先端が黄色く輝いて今にも下の方に転がり落ちそうになって見えた。尋は徐に上着の右ポケットから楕円形の物体を取り出し、

「ボーッ。」

と一吹きした。さっきとは違い、低く確かな音色が辺りに響いた。介助していた警官も一瞬尋の方を見た。と、次の瞬間、

「ううっ・・。」

仰向けになっていた人が呻き声を上げた。警官は驚いたように向き直り、

「大丈夫ですか!。しっかりしてください。」

と大声を発した。そして、黄色く輝いて途絶えそうになっていた立方体は、再びもとの薄青い光りの列となって尋の眼前から消えた。

「此処から立ち去ろう。」

何か解らないが、これ以上その場所にいてはいけないような気がした。尋は楕円形の物体を再び上着の右ポケットに忍ばせると、そっと現場を離れて自転車にまたがって消えていった。予感はあった。いや、直感か。恐らく、人の何かを左右する、そういう人界の物ならざる何かなのだろう。そして通り沿いに自転車をこぎながら進むうちに尋はもの凄く嫌な感覚に見舞われた。自身がやったことの何たるかを理解すらせず、なのにそれを為し得たことへの恐怖。

「命の裁きなど、人がするべきことなのか?。」

急に鼓動が早くなった。息苦しい。尋はその辺りにある自販機の灯りの前に自転車を止めて少し息を整えようとした。そして、少し落ち着きが戻ったのを感じると、自販機に小銭を入れて缶コーヒーを一つ買った。

「プシュッ。」

温かい珈琲を一口飲んでほっとしかけたとき、後方から人の気配を感じた。見ると一人の見窄らしい格好をした老人が横のゴミ箱からアルミ缶を漁ろうとしていた。この辺りでは良くある光景であった。尋は気に留めず、二口目を飲もうとしたそのとき、

「ふむ。余程の時だったかね?。」

老人は屈んだ姿勢のまま尋の方に顔を向けてたずねた。そう、あの老人だった。


 尋は強張った。無理も無かった。今までは時間に対する鋭敏な感覚と、空想のように淡く見える立方体だけだったのが、今は手にすることの出来る楕円の物体、そして目の前に現れた確実に存在する老人。もはや感覚だけでは済まされない具現化されたものがここにある。あの哲快である。尋は言葉を搾りだそうとしたが出来なかった。すると老人は、

「はは、無理も無かろう。人は信ずるに能わざるものを目にしたるとき、どうとらえて良いかは解らぬものよ。即ち、取り乱す。」

そういって、再び空き缶を漁りだした。老人の言う通りであった。尋には今、目の前で起きていることの理解に脳と精神が追いついていなかった。しかし、老人の二言目に触れ、少し気持ちが落ち着いたような気がした。神懸かったものとの対峙では無い。そこにはごく普通の老人がいるだけだった。そして、

「何故、ここに?。」

尋はようやく言葉を声にした。老人はアルミ缶だけを選びながら、

「何故か、此処か否かは、どうでもよいこと。おぬしは、しかと見届けたであろう。おぬしの行いが、何を生じせしめたかを。」

そういって、顎の先を軽く上げて楕円の物体が収まっているポケットの方を指した。つまりは、そういうことか。尋が直感した嫌な感覚は、尋が楕円の物体を鳴らすことで引き起こした、人の寿命を左右する因果に自身がすでに干渉する立場にあることの追認と、その重みに耐えかねた嫌悪。次第に尋の中に不可避な感覚が芽生えだした。

そんな尋の表情を見た老人は、

「そういうことじゃ。おぬしは既に因果の一部と化しておる。そのことを、しかと受け止めよ。」

そう言い残して、何処へともなく消えていった。ガラガラと空き缶の音を立てることも無く、まるで今までいなかったかのように。尋は暫く呆然としていたが、残ったコーヒーの入った缶をそのままゴミ箱へ捨てた。そして、自身が置かれている立場を、いや、自身が何者、あるいは何になったのかに思いを巡らせた。そして、自身はやはりただの人、そのことに変わりは無い。ただ、妙な感覚や現象が多少付きまとうだけで、そんな大それた存在では無い。仮に超常的な何かを引き起こせることが出来たとしても、それを選ばなければいいではないか。そうやって、尋は少しずつ気持ちを落ち着かせていった。そして再び自転車にまたがり、帰路についた。

 それから暫くの間は特に不思議な出来事も起こらなかった。尋は添さんの所で仕事を手伝いながら、日々を淡々と過ごしていた。真君にせがまれて絵を書いたり、中学生に勉強を教える毎日だった。然のことはまだ、どことなく重たい気持ちとして心の片隅に残っていた。そして、

「もし、然が逝ってしまう前に、あの物体を吹いていたら・・。」

と想像しながらも、いや、やはり人の寿命に自らが干渉するのは許されることでは無いと、釈然とはしないながらも流れに身を任せながら生きていった。そんなある日、いつものように添さんのところで仕事を手伝っていると、

「バタン。」

と、隣の部屋で何かが倒れるような音がした。尋がいってみると、添さんが両膝をついて蹲っていた。

「添さん、どうしたんですか?。」

尋は心配そうに声を掛けたが、すぐに添さんは起き上がって、

「大丈夫よ。たまにこんな風になるの。平気平気。」

といって、尋が差し伸べた手に寄り添わずに自分で起ち上がった。しかし、明らかかに添さんの顔色は優れなかった。尋は一瞬躊躇したが、添さんの頭上辺りを見上げた。しかし、そこには何も見えなかった。それが安心していいことなのかどうか、尋は判断に困った。然の件があったからだ。このまま何も関わらなければ、それぞれの人の上にそれぞれの運命が舞い降りるだけであったろう。しかし、尋はそうしなかった。

「あの、変な質問ですみませんが・・。」

「何?。」

「最近、銀色の竜のようなものを夢かなんかで見たことは無いですか?。」

尋は添さんに聞いてみた。すると、添さんの目が少し見開いて、

「何で知ってるの?。背中が燃えてるような、そう。」

尋は冷静になって、ゆっくりとした声で語った。

「添さん、今日はここはボクが面倒を見ますから、添さんはすぐに診察を受けてくれませんか。」

添さんはいつものことだと拒んだが、尋の諭すような表情に、彼のいうことに従うことにした。そして、彼女は近くの総合病院に診察に向かった。尋はこの後の段取りを確認しながら、

「間違ったことはしていない。いや、間違いか否かなんて、どうでもいい。」

そう呟いた。


 やってくる子供達を元気に迎えながらも、尋は添さんのことが気がかりだった。

「こんにちは。」

真君もやってきた。そして早々にに絵を描く準備をし始めた。いつもならそのまま紙に向かって一心不乱に描き出すのだが、尋の方をじっと見つめた。

「どうしたの?。お兄ちゃん。」

尋はハッとなって答えた。

「ううん。何でも無いよ。」

すると、真君は少し不思議そうな顔をして絵を描き始めた。それから暫くして、添さんが浮かぬ顔をして戻って来た。

「あの、どうでした?。」

尋はたずねた。

「うん・・。後で話しよっか。」

そういって、添さんは気持ちを切り替えて仕事に戻った。いつものように夕方は小学生の面倒をバタバタと、その後は中学生に勉強を教えて、その日の作業が終わった。後片付けをし終えて、尋と添さんはお茶を飲みながら一息ついた。そして、

「検査入院が必要だって。」

添さんがぽつりと呟いた。尋はその状況を想定も覚悟もしていたが、いざ直接聞くといたたまれない気持ちになった。このまま何もしなければ、いや、医療機関に委ねたとしても、例の立方体は途絶えると示している。このままでいいのか。よくはない。そもそも診察を受けるよう促したということは、自身が何とかしようと既にし始めていたからではないのか。尋は苛まれた。すると、

「あのね、大体は解ってたの。うちの家系では、アタシぐらいの歳になるとみんな同じようになってたから。」

そういって、添さんは落ち着いた様子でお茶を飲んだ。そして、

「ま、でも、いけるところまでいきましょ。それと・・、」

添さんが湯吞みを置いて尋を真っ直ぐ見つめた。

「尋さん、あなた、今後何かやりたいこととか、決めてる目標とか、ある?。」

唐突だった。尋は長い間、自身をそんな風に捉えたことが無かった。唯一頭に過ったのは、日々消えたいと暗に望んでいるだけだった少し前の自分の姿だった。

「いえ、特には。」

「あのね、もしアタシに何かあったら、ここを引き継いでくれないかな。」

尋は返答に困った。そう頼まれたことが嫌だとか、そういうことでは無い。ただ、自分という人間が未来ある子供達を受け入れるほどのエネルギーが全く不十分でると自負していたからだった。そんな様子を見て添さんは、

「こういう施設とかって、何かバイタリティー溢れる人が率いるものだと思ってるでしょ?。でも、実はそーでも無いのよねえ。」

尋は聴き入った。

「善意とか人助けとか、そういうことだけでは長続きしないというか。そうでは無くて、何か自分も抱えていて、それを自分で何とか乗り越えようとしている。そういう人が、同じような気持ちの人に寄り添ったり、何か心を開く切っ掛けを見つけたりするの。」

ハッとした。尋にはそういう風にしているつもりは全く無かったが、いわれてみれば添さんのいう通りだった。

「真君。あの子のことで何気に思っていたことが確信に変わったの。あなたならやれるって。」

尋は何かいわなければと思ったが、すぐには言葉が見つからなかった。そして、ふと机の上に目を遣ると、

「あっ。」

真君が描いたであろう尋の絵が一枚置かれていた。絵は一見薄暗い感じの背景だが、中央に作業をする尋の右ポケットから光が放たれていた。その中心には楕円形のようなものが・・。彼には見えていたのかも知れない。尋がこれから行うであろうことが。それに驚いての声だった。そして、

「添さん、きっと上手くいきますよ。変ないい方ですけど、それだけは信じてくれますか。そして、これからも一緒にやっていきましょ。ね。」

添さんは目を丸くした。そして、

「そうね、希望はいつでも持ってないとね。」

尋はその言葉が妙に懐かしかった。久しく自分は持っていなかったであろうもの。そして、その火を絶やさないために自分には出来ることがある。重苦しく厄介な因果への干渉と、それに対する自責の念。もしそれに背くことが罪であるというのならば、敢えて超常なるものから裁かれるのも潔しとしよう。そう腹を括ると、尋は真君が描いた自身の絵をそっと鞄にしまい、帰路についた。帰りの道すがら、何処からともなく空き缶を漁る老人がまた声を掛けてくるかも知れない。もしそうであったとしても、尋は返す言葉を決めていた。

「俺はするから。」

自転車を定位置に止めて帰宅すると、尋は部屋の明かりを点けた。そして画鋲を取り出し、真君が描いた自身の絵を部屋の壁に貼った。全てが不思議な現象の積み重ねで非科学的かも知れない。尋に起きたこと、真君にはそれが見えていること、そしてそんな流れをこの先も行うであろうことが一枚の絵となっている。しかし、尋にはそんな絵が何とも心地良く思えた。いや、寧ろ恍惚感さえ漂っているようだった。そして軽く食事をとって床についた。寝入りばな、尋は夢を見た。あの老人、哲快が前を歩いていた。そして、ふと振り返って物言いたげな様子だったが、首を二度横に振り、再び歩いて去っていった。そして尋は深い眠りについた。


 翌日からは尋が添さんの分も作業を代行するようになった。しばらくは少し休む程度でいつも通り働いていた添さんであったが、次第に体調が思わしくないことが傍目にも窺えるようになった。そして検査入院の日に施設をまる一日留守にしなければならなくなる前の日、

「じゃあ、明日一日お願いね。頑張ってくるから。」

と、彼女は尋に翌日の段取りを確認しつつ、一切を任せた。普段はここに来れば必ず添さんがいる。そういう場所であった。それが明日は彼女がいない。そう考えるだけで、誰にでも起こり得る留守にするということが如何に不思議なことかを、尋は徐々に理解しだした。人が安心して心を寄せる場所を作るということは、そういうことなのかと。そして、その帰り道、尋がいつものように近所のコンビニで食べ物を買おうと立ち寄って自転車を止めようとしたとき、

「さて、決めたようじゃな。おぬし。」

後方から聞き覚えのある声がした。尋はハッとなって振り返ると、一人の老人が立っていた。あの哲快であった。しかし、今日は以前のように見窄らしい格好では無く、白装束のような出で立ちだった。

「ええ。そうすることにしました。」

尋は老人を見据えて、しっかりと答えた。

「じゃが、何時吹くのじゃ?。」

老人は尋が答えに窮するのが解っていたかのようにたずねた。そして、不意を突かれたような顔の尋に、

「さもありなん。さもありなん。おぬしはそれが、人の命を救う何かだと思っておるようじゃの。まあ、それはよい。一つだけ教えておいてやろう。それは余程のときにしか音は出ぬ。これでワシの務めは終わりじゃ。では、さらばじゃ。」

そういうと、何処へともなく消えていった。不思議な、何か夢のような光景だった。今までも同じようなことは何度かあったが、今度は実感が無かった。前は何処にでもいるような老人の姿で、そして今度はまるでお伽噺の仙人のような。その落差に妙な違和感を覚えたが、それが何を意味するのか。そのときの尋には解らなかった。

 添さんの検査入院の日、尋は早い目に施設にいき、確認しておいた段取り通りに作業を始めた。必要な書類や帳簿の記入。来る子の確認と何かあった際の連絡先の確認。お腹を空かしてくる子のために、簡単な料理も用意する必要があった。それだけでも一人でするのはなかなか大変だった。日によっては他のスタッフが駆けつけてくれることもあったが、基本は添さん一人で行っていた。やはりこのような施設に人を常駐させながら運営するには、人件費を含め様々な問題をクリアーする必要があるのだろう。尋は何気に此処に辿り着いて手伝うようになっていたが、気がつけば周囲は本来の仕事を持ちながら、ボランティアで手伝ってくれている。それもひとえに添さんの人柄があってのことだった。もし仮に、尋が此処を引き継ぐことになったとしても、運営に至るまでには自身に足らないものが多すぎる。奇しくも今日はそのことを思い知らされる一日となった。来て早々ぐずる子供。思春期のまっただ中で学校で何らかのトラブルをおこし、その対応に保護者と連絡が取れずに、仕方なくこちらへ連絡が来て、その対応に追われる。それを今までは添さんが一人で全て受け止めていたのだった。そして今日も早速、次から次へと小さな事件は起こった。低学年の子供達が絵本の取り合いで小競り合いをしていた。

「ん?。どしたの?。」

「この子が本とっちゃった。」

「ちがうよ。ボクの方が先だった。」

小さなケンカの仲裁も、なかなか大変であった。しかし、尋は落ち着いた様子で、

「じゃあ、キミはこっちに、キミはこっちに座って。」

といって、二人を尋の両側に座らせると、絵本の読み聞かせを始めた。少しわざとらしく小芝居も加えながら臨場感いっぱいに語り出すと、子供らは口を開いて尋の話に聞き入った。そして、

「面白かった?。」

「うん。」

「うん。」

と、子供らの満足そうな顔を見ると、二人に別々の本を与えて、それを読んでごらんと促した。そして尋は他の子の面倒を見たり、合間に事務作業を行った。その後にやって来た真君には、どんな絵が描きたいか何気にたずねてみた。

「何かね、たまに変なのが見えるんだ。」

と彼がいうので、尋は、

「それって、怖いとかじゃ無く?。」

「うん、何かパッと明るい感じ。」

「じゃあ、それ描いてみようか。」

「うん。」

尋は真君にも自分と同じ何か不思議なものがどんな風に見えているのか、そしてそれが何なのかを確かめてみたい気持ちもあったが、彼にだけ構ってばかりもいられない。なので、彼が描き上げる絵を見て、その後に考えようと思ったのだった。その後も中学生達がどんどんやって来るので、色んな教科の面倒を見て回った。幸い、今日はそれ以上には特に問題も無く、真君の母親も少し早い目に彼を迎えに来た。

「お兄ちゃん、これ。」

そういって、描いた絵を残して母親と帰っていった。その後、中学生達も三々五々に帰宅した。そして、いつも通り後片付けをした後、尋は真君が描いた絵を見た。

「やっぱりか・・。」

そこには、ベッドに横たわる膨よかな女性と、その枕元に立つ何かが描かれていた。そして、女性の上の方に並ぶ立方体は途絶えていた。


 それから程なくして、添さんは入院した。検査結果を聞くと同時の入院が彼女の具合の悪さを物語っていた。やがて、彼女のご家族が交代で面倒を見るようになり、尋は仕事の合間を縫って添さんを見舞った。比較的体調がいいときは、散歩がてら病院のロビーにある円形のソファーに腰掛け、尋と談笑した。

「もっと時間が欲しかったなとは思うけど、これも天命ね。」

添さんはロビーに置かれた観葉植物の葉先を見ながら語った。尋はどのように話せばいいのか迷った。その天命を動かせる何かが彼の手の中にあったからだけでは無い。確かに例の物体を使えばそれは可能だろう。しかし、この状況の中でそれを行うことは、何よりも人知を超えた技である。周囲の人達も、いや、彼女自身も、もうすぐ訪れるであろう状況を既に受け入れている。そこまで重い決断を敢えてしている人達の間に入って、果たして自身が命の干渉をしてもいいのだろうか。それが出来なければ、一人の人を惜しみながら見送るという普段にもありがちな光景である。しかし今は、その状況を覆す重圧が彼にのし掛かっている。と、突然、

「添さん、大切なお話があります。」

尋がそう切り出した。少し驚いた様子で添さんは尋を見た。そして、

「例の件ね。引き受けてくれる気になった?。」

そうでは無かった。尋は、自身が行う命への干渉のことを正直に伝えるつもりだった。しかし彼女は十分に覚悟が出来ている上に、尋が後継者の任を引き受けてくれるとさえ思っている。目には光る物もあった。安堵の涙。彼女の最後の覚悟を邪魔する訳にもいかない。尋は少し考えて、

「はい。ただし、それにはどうしても条件が、いや、必要なことがあります。」

そう伝えた。添さんは驚いて、

「何?。私に出来ることなら何でも。ただ、時間はあまりないけど・・。」

少し戸惑いながら答えた。

「ボク一人では、やっぱり無理です。添さんが必要です。みんなにも。なので、もっといてもらいたいんです。」

尋の言葉が彼女の涙をいっそう誘った。

「有り難う。でも・・。」

といいかけた言葉を遮るかのように、

「いいですか。添さんはこのまま治療に励んでください。そして、もしもの時は、ボクが来ますから。そして、その後、また一緒に働きましょう。今はそれしかいえませんが、きっとそうなりますから。ね。」

尋は澄んだ眼差しで添さんを真っ直ぐ見つめた。彼女も、彼のいう言葉が他の人がいうような励ましとは違うことに気づいた。不思議な話ではあったが、彼女は彼の言葉を自然と受け入れることが出来た。

「うん。解った。そうする。」

そういうと、彼女は右手を差し出して微笑んだ。その手を尋は両手でしっかりと握り、口元に強い笑みを浮かべて彼女を見つめた。そして、

「じゃ。また。」

そういって尋は病院を後にした。

 施設に来る他のスタッフ達も、添さんの長期不在に思うところはあったが、みんな敢えて口にはしなかった。尋もそのことについて聞かれることはあったが、

「懸命に頑張ってるみたいだよ。」

と、少しはぐらかしながら答えた。日々の作業はさながら戦争だった。子供達の面倒をずっと見続けることがこれほど大変なことかと、尋は思った。しかし、添さんの不在が、彼をよりいっそうかき立てた。無理矢理自身を奮い立たせてでは無く、ただ単に日々の仕事を淡々とこなすことで精一杯であった。作業に没頭することが、気がつけば彼の生を躍動させるものになっていたのかも知れない。そして、

「添さんが帰って来るまで、ここを守らねば。」

その目的意識が心の深いところで原動力にもなっていた。真君は相変わらず毎日来ては絵を描いていたが、不思議な絵はもう描かなくなっていた。そして暫くは平穏な日々が続いたが、見舞いにいくたびに添さんの状況は思わしくなくなっていった。ついには個室に移され、病床にいながら僅かに来た人と会話を交わす程度になっていた。ある日の夜、ご家族が付き添いでいる中を尋は見舞った。そして、気を利かせてご家族が席を外したとき、

「添さん。尋です。何時頃なら誰もいなくなりますか?。」

そうたずねると、眠っていたように見えた添さんがパッと目を開けて、

「・・そうね、面会が九時までだから、その前には誰もいなくなるかな。」

と掠れた声で話した。

「解りました。じゃあ、そのときに。」

そういって、尋は添さんの手を握って病室を後にした。その帰り道、

「その時を逃す訳には絶対にいかないな。」

そう呟きながら尋は自転車をこいで帰路についた。その二日後、尋は病院からの知らせで添さんの容態が急変したことを告げられた。尋は慌てて自転車で病院に駆けつけた。確かに間には合った。だが、周囲にはご家族や医療関係者が複数いた。

「これは途切れる間が・・。」

尋は添さんのいる個室付近に据えてある長椅子に腰掛けながら、人の出入りが落ち着くのを辛抱強く待った。そして夕方の少し前、病室から誰もいなくなったのを見計らって、尋は入って行った。添さんはいよいよ白い顔をして浅い呼吸をしきりにしていた。

「添さん。尋です。いきますよ。」

そういうと、尋はポケットから例の楕円形の物体を取り出し、唇に当てて息を吹き込んだ。

「ブォーッ。」

低く確かな音色が病室に響いた。すると、さっきまで苦しそうにしていた添さんの呼吸が深くゆっくりになり、頬や額の辺りは見る見る淡いピンク色を取り戻していった。

「じゃ、また。」

そういうと、尋は素早く気づかれないように病室を出ていった。


 それから二日ほど経ったが、添さんについての連絡は病院からは無かった。尋は自身が行ったこともあって、こちらから連絡はしなかった。そして、忙しく日々の作業を淡々とこなした。添さんが帰って来るまではと。そして三日目になって、

「ごめんなさい。遅くなって。」

といって、添さんがやって来た。もう小学生達は来ていたので、みんな彼女の周りに集まって出迎えた。そして、一人一人の頭を撫でてにこやかに挨拶した。尋も遅れて出迎えた。一頻り子供達と接した後、彼女は尋に目で合図した。子供達が部屋に戻ると、尋と添さんは事務所の方にいった。

「あれからね、大変だったのよ。」

添さんがいった。

「お医者さん達がアタシの体から病巣が消えたって。大騒ぎになっちゃって。」

それから丸二日間、彼女は徹底的に検査された。しかし、医師団もそれ以上の判断を下せず、結局は退院することになったのだった。

「すみません。」

尋は何故かは解らないが、謝るしか無いと思った。すると、添さんはそっと彼の手を握って、

「ううん、有り難う。」

そういって、目に涙を浮かべて微笑んだ。そして、

「何がどうなってるのか、アタシにもよく分からない。でも、あなたがしてくれたことを、アタシは信じる。そして、胸の中に仕舞っておくね。」

彼女は自身の身に起きたことが人知の向こう側のことであろうと察知したようだった。

「さて、仕事に戻ろっと。ね。」

そう促されて、添さんと尋は子供達のいる部屋に戻っていった。いつものようにはしゃぐ子、引っ込み思案で静かに本を読んでいる子、そして、尋の傍らにはひたすら絵を描く真君。再びこの風景が戻って来た。

「うん。これだよなあ。」

尋はその状況を見て、ようやく安堵の気持ちが戻りつつあった。作業の合間や帰宅の途中に、自身が行ったことについて考えることはしばしばあった。しかし、いくら考えても、事の是非や物事の真偽が分かろうはずも無い。ただ平穏であれば、それでいいのではないか。そんな風に思った。いや、願っていた。

 それからは今までと変わらぬ毎日であったが、あるとき、

「これ、何?。」

と、尋は真君がまた描いた不思議な絵についてたずねた。そこには自分らしき人物と、両端から纏わり付こうとする黒い何かが描かれていた。

「うーん、わかんない。何か変な感じなもの。」

真君は少し心配そうに答えた。彼が描き出すものは、確実に在る、あるいは起きるものであることは尋には解っていた。

「やっぱり、放ってはくれない・・かあ。」

尋は避けて通れない何かに自身が関わってしまったことを承知はしていた。ただ、いつ、どのような形でそれがやってくるのかは解らなかった。真君の絵以外には。すると、

「でも、お兄ちゃん、負けないで!。」

真君は尋をキッと見つめていった。

「うん。大丈夫。」

そういって、尋は彼の頭を撫でた。それから数日経ったある日、尋が施設で作業をしていると、一人の男性が訪ねてきた。

「こんにちは。あなたが尋さんですか?。」

カーキ色のコート姿の男性が尋にたずねた。

「ええ。」

尋がそう答えると、その男性は自身が病院の関係者だといい、先日の出来事について二、三聞きたいことがあるといった。

「すみません。詳しくはいえないんですが、病室に出入りするあなたの姿が残ってまして。で、その直後に彼女の身に信じられないようなことが起きたのですが、あなた、何かご存じ無いですか?。」

尋は直感した。もし病院関係者であれば、自身の好奇心から、その原因を知りたがるだろう。しかし、目の前のこの人物は、そういう科学的な目や立場でものをいっていない。そして、

「いえ。ただ添さんの無事を願ってお見舞いに伺っただけです。」

そう尋は答えた。

「そうですか。解りました。」

男性はそういうと、あっさりと引き上げていった。恐らくは、まともに聞いても語ってはくれないであろうと踏んでいたのかも知れない。あるいは、こちらの素性は既にお見通しで、また何時でも来れるような立場の人物かも知れない。しかし尋は、

「何が起きたとしても、それは然り。」

と自身にいい聞かせていた。自らの行いが全うか否かは解らない。もし後者であるならば、それなりの報いが起こるのであろうと。


 それからは特に何かが起きることも無く、これまで通りに尋は添さんの施設にいっては仕事を手伝い続けた。添さんにも特に変わった様子も無く、寧ろ以前より元気に作業をしていた。ただ、尋は時折、妙な雰囲気を察知することがあった。

「あ、また来てる。」

特に何をするでも無く、ただただ少し遠くの方から尋の様子を窺う人物が二人ほど現れるようになった。そういう専門の機関が眼光鋭くという程では無く、ただ尋の様子を遠巻きに見ては去っていった。同じ人物が同じ格好で頻繁に来るので、逆に杜撰とも思える状態だった。あるときには尋が彼らを付けてみても気づかれない程だった。そして、その先には当初やってきたコートの男性が待っていて、尋に関する様子を報告しているようであった。尋は特に仕事を邪魔されているという訳では無かったが、度々このようなことが続くのもどうかと思い、一度彼らが戻っていく先まで尾行したことがあった。そこは小さなビジネスホテルだった。玄関の左にロビーがあり、彼らがソファーに腰掛けて、日頃の尋の様子を書いているのであろうノートを広げて話し込んでいた。そこに尋は近づいていって、

「あの、多分ボクのことを調べてるのかと思うんですが・・。」

と尋は切り出した。ソファーの三人は驚た様子で彼を見上げた。そして、

「別に、迷惑とまではいわないですが、もし話があるというならば、ここでしますけど。」

それを聞くと、コートの男性が二人に指示を出して退席させた。そして、

「何かバレバレなことをしてすみません。どうぞお掛けください。」

そういって、男性は尋を向かいへ座らせた。そして、

「先日もお話した通り、詳しくはいえませんが、我々は医療機関で起きていることに関して報告があった場合、その状況を調べる立場にある者です。」

彼はそう語り出した。そして、

「彼女、添さんが重篤な状況であったことはご存じだと思うんですが。いかがですか。」

「ええ。一緒に働いていて、最近辛そうだから診察を受けるようにいったのはボクですから。」

「通例では、彼女のような状態から回復する、しかもごく短期間にというのはあり得ないことなので、診ていた医師は随分驚いたというか、信じがたかったようです。ま、私もその一人なんですが。」

男性は身元こそ明かさなかったが、正直に淡々と話し続けた。

「そんなとき、彼女が突然回復する直前に、あなたが病室に伺っていたことが判明しまして。で、医療行為や科学的なこととは違う何かが行われたのではと。尋さん、あらためて伺いますが、本当に何かご存じ無いですか?。」

男性は真剣に尋を見つめた。すると、

「あの、一つ聞いてもいいですか?。」

「はい。」

「あなた方は、非科学的なこと、超常的なことも調査の対象なのですか?。」

尋の質問に、男性は言葉を詰まらせたが、

「・・はい。場合によっては、そういうこともあります。」

そう答えると、尋はたずねた。

「では、ずっとボクを見張ってみて、何が不思議な様子とかありましたか?。」

「いえ、それが全く。」

「では、そういうことです。すみませんが。」

尋は彼らが病室内での出来事について何も情報を持っていないと解ると、出来れば尾行の真似事は止めて欲しい旨を伝えて、ロビーを後にした。その後も、たまに彼らのうち一人が尋の様子を遠巻きに伺うことはあったが、尋は気に留めなかった。そして、

「真君の絵には確か二つ、妙なものが描かれてあったな・・。」

と、その内の一つが彼らのことだろうと推察した。が、しかし、もう一つの側のは、一体何だったのだろうと、尋はいずれやってくるかも知れない別の訪問客に少し緊張した。描かれ方が克明だったからだ。

「小さくて黒い、あれが来るのか。」

片端から忍び寄っていたのは、尋と同じぐらいの背丈の薄暗い感じから、恐らくは先日のコートの男性らと思えたが、もう片端から来るであろうものは不気味そのものであった。そのことを忘れかかけて、施設で仕事をしたある日の帰り道、自転車で歩道を走っていると、

「パン!。」

と、後輪がパンクする音がした。尋は横の空き地に自転車を止め、後輪を確かめた。穴が開いた箇所は見つからなかったが、空気は完全に無くなっていた。

「近くに自転車屋さんは無いし、押して帰るしか無いかあ。」

そう思って、ハンドルを握ったその時、

「お前か。」

空き地の茂み辺りから、何やら子供の声のようなのが聞こえた。尋は驚いてそちらの方向を凝視した。

「お前が、いらぬことをしたのか。」

やはり声はそちらの方からした。そして、茂みの枯れ草がガサガサと揺れたかと思うと、次の瞬間、小さな手が枯れ草を描き分けて伸びてきた。尋は身動き出来ず、ただただそれを眺めていた。そして、

「おのれ。」

草を両側にかき分けたその中央に、真っ黒な子供のような者が立っていて、尋を下から睨み付けていた。


 尋は言葉を失った。これまでにも不思議な現象が自身に起きているのは了解していた。それは出会ったものや人物が何らかの優しさを発していたからだ。しかし、今回は違う。明らかに敵意を超えた何かを帯びている。それが今、こちらに向けられようとしている。ただ、尋の中には、いつかはこのようなことがあるかも知れないという予感はあった。

「おまえは食わずに生きられるか?。」

と、その黒い何者かがたずねた。そして、黙って見つめる尋に対し、

「無理であろう。ワシらも同じ。糧なくば死す。その糧を、お前はフイにしたのじゃ。」

それを聞いて、尋は初めて口を開いた。

「糧とは、人の死のことか?。」

「それは、きっかけにすぎぬ。お前に四の五のいうたところで詮なきこと。」

「では、何故私の前に現れた?。私の行いが間違いであるというのなら、私が報いを受ければいいではないか?。」

黒い何者かは黙った。そして仕方なさげに語った。

「おまえは動の時間を賜りし者。いくらそうさせたくても、それは叶わぬのじゃ。」

「では、私にどうしろと?。」

「兎に角、いらぬことをするな。」

「それは、人の命を救ってはならぬということか?。それは、誰が生き、誰が死ぬかが既に定められていて、それに関わるなということか?。」

尋がそう詰め寄ると、黒い何者かは、しまったという表情とも着かない様相になった。そのとき、茂みの後ろの方がガサゴソ、ガサゴソと音を立て、さらに二人の黒い何者かが現れた。そして、最初の黒い何者かの口を手で塞ぎ、

「余計なことをしゃべりおって。」

といって、茂みの中に引き戻そうとした。そして、右にいた黒い何者かが去り際に尋の方にふり向いて、

「今は見逃してやる。だが、今後も同じことが続けば、みなが黙っては居らぬ。そう思え。」

そういうと、今さっきまで目の前にいた三人の黒い何者かは、まるで初めからいなかったかのように消え去った。尋はもはや非科学的なことが纏わり付く轍にいる自覚はあったが、あらためて今起きた出来事を恐ろしく感じだした。緊張からか、それとも良からぬ雰囲気に負けじと気を張っていたのか、彼らが姿を消した途端、急に悪寒が襲ってきた。

「あれとは、関わり合いにならない方がいいな。それは解る。それは解るが・・。」

今までとは違う身の危険のようなものを感じつつも、あの何者かの一人が残した言葉が、尋の心に引っかかった。そして、再び体を温めるべく、尋は全力で自転車をこいで帰宅した。

 その夜、尋は夢を見た。彼は森にいた。そして、木々の中に誰かが佇んでいた。

「然か?。」

その立ち姿は然そのものだった。彼はチラッと尋の方を見て少し微笑んだ。

「しばらくだったな。どうしてる・・といっても、」

「そう、もういないさ。俺は召された。」

「それは定めだったのか?。」

尋はたずねた。が、然は何もいわず、俯いた。そして、

「そのときが来れば解る。最後にお前に会えて、よかったよ。じゃあな。」

そういうと、然は森の中へ消えていった。

「おい、待てよ。」

尋は然の後を追うように駆け出したが、森の木立が行く手を阻んだ。必死に藻掻いて木々の間をすり抜けようとしたが、木々の枝が彼を激しく痛めつけた。あまりの苦しさに、

「はっ。」

尋は目を覚ました。衣類が寝汗でぐっしょり濡れていた。まだ息の荒いまま、尋は置いてあったペットボトルのお茶を飲んだ。そして一息つくと、

「4時12分。」

と呟いた。恐らく時間はピッタリだろう。だが、尋はもう時計は見なかった。そして、お別れをいい損ねた然に会えたことに、急に涙した。そして、然の訪れの意味について、少し考えてみた。

「別れの挨拶、忠告、行き着くべき所・・・。」

結局、謎だけが残った。仕方なかった。人知を超えた宿命など、解りようも無い。だが、今は少し違う。本来、定めとは揺るぎなきもの。それが可変なもののように出来る物体と、それを阻む何か。そして、その狭間に立たされた、命を救うべきか否かの矛盾に苛まれる尋。暫く黙考したが、

「やはり、行き着くところまでいって、自分の目で確かめるしかないのか・・。」

そう密やかに、尋は心を定めた。立ち止まっても、引き返しても、人を救えはしない。そして、このまま進んだとしても・・。尋は汗で濡れた衣類を着替えて眠りについた。

 翌日、尋は休みだった。彼は昨日見た夢の森のことが気になった。あれは彼が暮らしていた山の中では無い。綺礼に整備され、植樹されたものだった。その足元にはアスファルトが敷き詰められていた。

「競技場だ!。」

尋はかつて然と訪れた競技場周辺の森を鮮明に思い出した。間違いない。あの場所のあの木立に、然は立っていた。尋は思い立ったように自転車に乗り、競技場に向かった。


 かなり自転車を走らせた所に競技場はあった。内部には荘厳なスタンドがあり、その周囲はみんながジョギングなどが出来る広いアスファルトのコースになっていた。その周りを高い木々が囲み、さながら都会に出来た森林の様相であった。大抵は運動に来る人達で休日は賑わっていたが、少し外れたところに一際背の高い木々で囲まれた円形の池があった。設営当初は人工的に作られた感があっただろうが、今はその状態がまるで初めからあったかのように自然な感じを醸し出していた。池の周囲は鬱蒼として薄暗かったが、池の真上は空を仰ぐことが出来た。尋は池の周囲を散策しながら、

「確か、この辺りの木だったかな・・。」

と、夢で見た光景に近い二本の木を見つけた。以前に然と訪れたとき、彼がかつて恋人と死に別れた話をしたことがあった。特に尋からたずねた訳では無かったが、然は何気に話し出した。尋は何も返事をすることは出来なかった。ただ、何故今、自分にそんな話しをするのだろうと不思議に思った。話終わった然は水面を見つめていた。すると、

「ポチャン。」

という音と共に波紋が広がり、再び池は静まり帰った。そしてまた。同じことが幾度か続いた。恐らくは魚が餌でも求めているのだろう。そのときは尋もそう思ったが、今、こうして此処に来てみると、まるで木立が揺らぐ波紋を鎮めているようにも見えた。と、突然、

「そうか、木か。」

尋は意味は全く分からなかったが、何かが閃いた。我々の寿命はたかだか数十年。その間に様々なことがまるで波紋のように起こり、それが干渉し合って波が高まる。その繰り返し。しかし、木はこれといった寿命が無い。ことに此処の周りの木々は恐らくは地球上で最も時を経る樹木であろう。そんな悠久な時の流れを持つものからすれば、我々の時間など、一瞬ですら無いのかも知れない。逆に、我々からすれば、木々の時間は流れていないに等しいぐらいに、ごくごく微動なのだろう。そのとき、

「4時17分。」

そう呟くと、彼は携帯の時間を見た。

「4時2分・・。」

ズレていた。尋が得た時間を見定める感覚は、ここでは通用しなかった。尋は夢の中で然が立っていた二本の木の間に、自分も立ってみた。何も起こらない。夕暮れの太陽光が水面に映って幻想的に輝いているだけだった。が、そちらとは違う方向からやけに眩しい光りが尋の視界に入った。それはまるで太陽光を鏡で反射させたような感じだった。尋はふと上着のポケットを見た。

「光ってる!。」

尋は恐る恐る右ポケットに手を入れた。そして、ゆっくりと楕円形の物体を取り出した。夕暮れの橙色とは異なる薄緑の光を放っていた。そして、二つの光りが交差し、よりいっそう白く光った。あまりの眩しさに尋は薄目にしながらそれを見つめた。

「そういうことなのか・・。」

尋は光りに促されるように、物体の一方に口を付けて息を吹き込んだ。

「ヒュゥォーッ。」

以前とは異なる、高くて綺麗な音色が響いた。すると、尋が立つ二本の木々の間に金色の渦巻きが起こり、そしてその後に空間が開けた。向こう側には何かあるようっだったが、光りのせいでよく見えなかった。尋は、

「確かめるには、進むしか・・。」

そう呟いて、その中へ進んでいった。その直後、尋が通った所が一瞬で塞がり、辺りは急に薄暗くなった。初めはよくは見えなかったが、次第に目が慣れてきた。そこは、両側に高い柱が幾つも立ち並ぶ回廊のようだった。何か建物の内部のようだったが、あまりの高さに天井が見えなかった。ただ、何処まで続いているのか解らない廊下が尋の前に開けていた。尋は出来るだけ足音を立てないように歩み出した。どれほど歩いても、景色に変化は無かった。ただただ巨大な回廊がそびえ立っていた。すると、今までは柱の奥が壁だと思っていたのが、突然右側の方で、

「ギギッ、ギーッ。」

と音を立てて開きだした。そして、そこからは光が差し込み、その真ん中に長い影が現れだした。やがて影は尋の方に進んできて、扉の向こうから巨大な何かが姿を現した。

「巨人・・?。いや、違う。」

それは、荘厳な衣装を纏った巨大な樹木だった。袖から見える両の腕には枝葉がガサガサ音を立てていた。そして、それはゆっくりと歩みながら、尋の前に来ると向き直って歩みを止めた。

「そなたが、時の流れと関わりし者か。」

巨大な樹木は木肌の瞼を開いて尋を見つめた。尋は圧倒されたが、恐怖は全く感じなかった。むしろ、懐かしささえ覚えた。尋が黙っていると、

「我らは時の守護。そなたのこれまでの行い、聞き伝わっておる。さて、幾千年に一度、このようなことが起こるものだが、どうしたものかのう・・。」

樹木は瞼を閉じて、暫し考え込んだ。すると尋は、楕円形の物体を差し出して樹木に見せた。

「これのことですか?。」

樹木はガサッと音を立てて瞼を開いた。そして、少し驚いたように、

「おお!。それは時開の奏(かなで)!。」

そういうと、尋の右手に顔を近付けた。そして、

「そなたがそれを持ったのも、何かの因果じゃろう。ワシらは守護。ただ時が安寧であるのを見守るがのみ。だが・・、」

「だが、何です?。」

尋が聞き返すと、樹木は再び瞼を閉じて、ため息を吐いた。大きな鼻息がフーっと風となって尋に吹き付けた。そしてまた瞼を開き、

「それは時の流れに新たな動を加えてしまう。そしてそれが、今そなたの手の中にある。恐らくは・・、」

といいかけて、口を噤んだ。


 尋は黙り込む樹木に歩み寄り、言葉を発した。

「かまいません。いって下さい。」

すると樹木は意を決したかのように、

「邪の仕業であろう。時は清涼に秩序を以て流るるもの。しかし、それだけでは蜿(うねり)は起こらん。また、蜿なくば生もまた無い。古の時代に世を創るべく、些かの蜿を交えたと聞く。その際、生に享楽なるものを与えんがために集い来たる者が邪。我らはその草創期に生への息吹きを与えんがため、そして、時が純然と過ぐるのを見守らんがため、遣わされたのじゃ。」

そして、樹木はまた深いため息を吐いて、

「しかし、我らの役目も、やがては終焉の時を迎える。現に我らが種族は見る見る地上から消え去っておる。守護の役割も、最早果たせぬ。代わって、整然なる時の秩序を好まぬ者どもが湧いて出始めるであろう。そうならぬよう、我らは大地に根を張り、封じ込めておったのじゃが・・。」

尋は樹木の言葉に、少しずつ状況が見え始めてきた。そして、

「では、私がこれを手にしたのは、邪が私に時を乱させようとしてのことですか?。」

そう逸って話す尋に、樹木は、

「先を急ぐで無い。時の包囲は遥かに及ぶ。例え、邪がそなたにそれを持たせようと目論んだとしても、それすら時の律の必然かも知れぬ。それほどに見極めの難しいものなのじゃ。そして、その先がどうなっていくのかも・・。」

そう語って尋を諭した。すると、

「やはり、どうなるのかは、このまま歩み続けて見続けるしか無いということですね。」

尋は力を込めた目で樹木を見上げた。すると樹木は、

「ワシらは守護。見守ることしか出来ぬ。そして、たまの来訪者に我らが知る少々の知恵を授けるのみじゃ。」

そういい残して、再び来た道を引き返そうと向き直した。そして、去り際に、

「最後に、そなたも会うたであろう。時の城より遣わされし者に。彼の地に時を創りしものがあると聞く。そして、使者は海に、守護は大地にて、共に時の行く末を案じておる。ワシに出来ることはここまでじゃ。心してゆくがよい。」

そういい残し、樹木は巨大な扉の向こうに消えていった。

「はっ。」

気がつくと、尋は池の畔に立っていた。そして、両脇にそびえ立つ樹木を仰ぐと同時に、思い出したかのように右のポケットから楕円の物体を取り出した。

「光ってない。」

もはや、何処までが現実で、どこからが非現実なのか。尋はその境目を知ることに、然程意味を見出さなくなっていた。そして、

「これで、新たなるものが、俺に絡み付いていることは解ったな。」

と、自身にこれまで起きた様々な出来事が、これから先の自身へのプロローグ、いや、既に随分と進んだのか、いずれにせよ、もう後戻りという選択肢は無いことを、

尋は暗に悟った。そして、

「有り難うな。然。」

と、尋は心の中で呟いて、競技場を去ろうと池の畔から森を抜けて、ショートカットしようとした。が、どうやらさらに奥まった方へ進んでいったらしかった。いけどもいけども再びアスファルトのコースは見えなかった。鬱蒼とした木々がさらに辺りの景色を暗くしていった。と、突然、一本の枝ぶりのいい木から、縄に垂れ下がった物体が尋の目に入った。

「あっ。」

人だった。尋は慌てて駆け寄ろうとしたが、その足元に何やら蠢く黒いものがいくつか見えた。それらは、上から垂れ下がる人の足に飛び付こうとしていた。

「それ、もう少しだ。」

「早くしろ!。」

 間違いない。この前見た、あの黒い何者かだった。人の子供のような形こそしていたが、表情も何も無い。ただただ一心に樹上より垂れ下がる糧に貪り付こうとしている。と、咄嗟に、

「あれ?。生きているのか?。」

と思い、尋はポケットから楕円の物体を取り出し、

「ブオォーッ!。」

と息を吹き込んで音を鳴らした。すると、黒い何者かは一斉に飛び付くのを止めて尋の方を見た。と、途端に、枝から垂れ下がった人が苦しそうに手足をばたつかせた。

「うぐっ。うがっ。」

尋は咄嗟に駆け寄ると、縄に飛び付いて、二人の重みをを枝にかけた。すると、二人をぶら下げた枝は大きく撓んだかと思うと、次の瞬間、

「メリメリッ、ボキッ!。」

と大きな音を立てて裂けるように折れた。

「ドサッ!。」

二人は地上に落下した。尋はその人の首から縄を解き、

「大丈夫ですか?。」

と息を弾ませながら大声を上げた。その人はまだ呼吸が整わない様子だった。騒ぎに驚いて周囲に散っていた黒い何者かが二人に恐る恐る近づいて来た。そして、

「またお前か!。」

そのうちの一つがいきり立った。そして、周囲の仲間に耳打ちをするような仕草をした。そして、

「もはや容赦ならぬ。」

そういって、一斉に尋に飛び掛かった。


 そのとき、息を吹き返した人が、

「ここは?。私は何故・・。」

と、少しずつ意識を取り戻し始めた。その様子を尋と黒い何者か達の双方が見つめた。そして、何者かのうちの一人、少し色あせてほの暗く光っているが両脇にいる黒い何者かの肩に手を置き、

「ふふ。まあ見ていろ。」

と、表情すら解らないのに、まるで不敵な笑みを浮かべているようだった。

「あなたがその木に吊り下がっていたので・・。」

と尋がさっき見た光景を話すと、その人は突然、

「ということは、私は死んで無いんですね?。」

と、目を見開いて尋にたずねた。尋はその人を安心させるかのように大きく頷いて、

「ええ。」

と答えた。だが、その人の表情は途端に一変した。そして、尋の両肩を掴んで、

「どうして死なせてくれないんですか?。」

と、落胆して泣き崩れた。黒い何者か達は、ほの暗く光る仲間に止められたときは不満げのようだったが、目の前の様子を見て、その意図を理解したようだった。そして、何者か達はにやけながらその様子に見入った。尋は一瞬、呆気に取られたが、しかし、落ち着いた優しい目で、

「あなたがそうさせて欲しいという気持ちは、ボクにも分かります。ボクもそうでしたから。」

そう尋がいうと、その人は少し驚いた様子で尋を見つめた。尋は続けた。

「本当に、余計なことをしたのかも知れません。それはすみませんでした。でも、ボクはあなたを助けようとしか思えませんでした。本当にすみませんでした。」

おかしな会話ではあった。人命を救って詫びるなど。しかし、尋は自身の行いがもはや上辺のモラルに基づいてはいないことを知っていた。恐らくは、人が自ら決した寿命に立ち入るなど、してはならぬことなのかもと。しかし、だからこそ、尋はその先を、答えを知りたかったのだった。そして、

「もしよかったら、何があったのか話してくれませんか。それが嫌なら、ボクはあなたを助けたことをお詫びして、この場から立ち去ります・・。」

尋がそういうと、その人は訥々と語り始めた。

「もう、生きる希望が持てなくなってたんです。消え入りたいと・・。」

尋は黙ってその人の傍らに寄り添って話を聞いた。黒い何者か達も、その場から動かずに様子を窺っていた。

「特に何か大きな出来事があった訳では無いんです。確かに仕事はあまり上手くはいってなかったし、生活も。それでも、普通には過ごせていたんです。でも、気がつけば何も手に付かない感じになってて、眠っているのかどうかも解らなくなって、そのうち、自分が生きてるからおかしいんだって思うようになって・・。」

と、その人は語りながら次第に無表情になっていった。

「あなたもそうでしたか。ボクの時もそんな感じだったように思います。」

尋の言葉に、その人は再び尋を見つめた。

「多分、そのときの気持ちが無くなったって感じでは無く、まだ消え入りたい・・と?。」

「・・・はい。すみませんが。」

尋は、その人の気持ちが手に取るように解った。すぐに再び生きる希望なんて湧く訳でも無いことも。そして、

「ボクもまだ、その中にいます。そして、無駄かも知れないけど、いつが自分の終わりなのかを探しています。そうしているうちに、終わらせるよりも、終わりを探すことの方に、いつしかなっていったように思います。よく分かりませんが。」

尋の言葉に、その人の表情に少し和らぎのようなものが見えだした。それを見て、

「ボク、尋といいます。」

と、自己紹介どころでは無かった状態であったことに今更ながらに気づき、尋は名前と自分が今、添さんの施設で仕事の手伝いをしていることを簡単に伝えた。そして、

「まだもう少し、ここにいた方がいいですか?。」

と、その人に優しくたずねた。

「有り難う。でも、少し気が楽になりました。私は仄(ほのか)。」

そういって、乱れかけた着衣と髪を両手で整える仕草をした。線の細い女性だった。二人の会話を聞いて、穏やかで無かったのは黒い何者か達だった。

「オイ!、お前のいっていたことと違うぞ。」

「どうしてくれるんだ?。」

殺伐としたいい争いが始まり、ほの暗く光る何者かに対し、一斉に攻撃の矛先が向けられた。

「クソッ、やつめ。思ったよりも心得がありおるわい・・。」

ばつの悪そうなほの暗い何者かに対し、尋は、

「アテが外れたかな。すまなかったな。また邪魔をして。」

そういうと、彼女は不思議そうに尋を見つめて、

「あの・・、誰とお話を?。」

とたずねた。尋は驚いたように彼女を見つめ、

「え?、あ、いや・・。」

と、瞬時にこの状況が見えているのは自分だけであることを理解した。そして、

「ボクはこれでいくね。」

と、尋は上着のポケットから楕円形の物体を取り出し、ズボンの右ポケットに入れた。そして、その上着を彼女に着せて、その場を立ち去ろうとした。こういう状況に陥り、着の身着のままでここまで来たようだった。

「あの、尋・・さん、またお話を伺いにいってもいいですか?。」

と彼女がいったので、尋は添さんの施設のある場所を説明した。

「どうも、有り難う・・、」

と彼女が礼をいいかけたとき、

「いや、お礼は・・。ボクがしたことも、まだ本当はどうだったか解らないし。ね。」

と、少し微笑んで尋は答えた。彼女は小さく、

「はい。」

と頷いた。去り際、尋は黒い何者か達の方を見つめたが、どうやら茂みや土の中に三々五々に消えていったようだった。森を包んでいた冷たい空気にサッと風が吹き込み、枯れ葉が舞い上がった。そして、その先にアスファルトの道が見えた。


 森を抜け、尋はようやく方向感覚を掴んだ。そして、アスファルトの上を歩んでいった。土の上とは違う、固く舗装された感触が靴底から伝わってきた。

「歩んでいる・・。」

尋はあらためて自分が生きて、そして自らの時が進んでいるのを感じた。寧ろ、例え人工的に作られたものとはいえ、池や木々からはそのようには感じないのは何とも皮肉だった。精霊や超常のような者達の方が、寧ろ一定の時の流れに縛られているのかも知れない。だからこそ、尋が行おうとしていることに対して、長きにわたり馴染んできたものを壊すなといわんばかりの様相でもあった。そうであるならば、尋は自身のすること方に分が無いことになる。

「さて、どうしたものか・・。」

一度は腹を据えて行く末を見届ける覚悟ではあったが、やはり時の潰えた者を蘇らせるが如き技は、そもそも人間の持ち得る技では無い。そう思うと、尋の心は揺らぐのだった。今、自分は死に導かれるよりも、誰もが為し得なかった時への干渉という行為に興味を持ち始めている。そして、それが殊の外、時の純然たる流れの恩恵に肖る者達への妨げになっていることも理解した。であるならば、死にゆく者は死するに任せるのが摂理ということなのか。では、何故自分はそうはならずに、こうして生かされているのか。謎は深まるばかりだった。一人の人間を助けた尋だったが、気の晴れぬまま、競技場を後にした。

 その後も、添さんの施設にいっては例の見張りの者達を見かける程度で、それ以外は特に何も起こらない日々が続いた。ただただ時計も見ず、自分の仕事をこなしながら、それとなく生きていた。何も起こらないことに僅かに感謝しながら。そんなあるとき、

「すみません。」

といって、一人の女性が施設に訪ねてきた。尋はその女性を見るなり、

「あ、どうも。」

といって、会釈をした。女性も静かに頭を下げた。

「少し、落ち着かれましたか?。」

尋は優しくたずねた。すると、

「はい。まだ気力とか、そういうのはまだまだなんですが・・。」

といって、彼女は俯いた。

「うん、気持ちというか、心が一気に満ちることなんて、無いですから・・。」

尋はそういって、彼女を宥めた。そして、

「今日は?。」

と、彼女がここへ来た理由を何気にたずねた。

「はい。あの後、帰って色々と考えてみたんです。いつもより部屋が片づけられてあって。普段はしないところまでも。それって恐らく、死に支度だったと思うんです・・。」

彼女の言葉に、尋は聞き入った。

「でも、そこまで死を望んでいたのに、そうはならなくて。で、気がついたときは苦しくって、怖くって。急に死ぬのが・・。」

彼女は、尋が行ったことによって蘇ったことを知らなかった。尋もそのことは告げなかった。ただただ、彼女が今もこうして目の前にいることに安堵した。いや、そうしようとした。そして彼女が、

「尋・・さん。この前、ご自身も同じようなと仰っていたの思い出して、もしお嫌でなかったら、少しお話を伺いたいと思いまして。」

そういって彼女は顔を上げて尋を見つめた。

それを聞いて、尋は施設の裏にある木で出来たベンチの所に誘い、彼女を座らせた。そして、少し離れて傍らに尋は座った。そして、

「ボクも、何か大きな出来事があったとか、そういうんでは無かったんです。心が疲れていったというか、何を考えても出る結論は八方塞がりで・・。で、そのうち、このまま生きてたとしても何も無いって、自分で自分を追い込んでいくようになってたんです。動機が全く見出せなくて・・。で、」

「で?。」

彼女は食い入るように見つめた。

「ある日の夜、海に身を投じたんんです。」

彼女は目を見開いて驚いた。そして、

「そんなことを。」

と、驚嘆の声を上げた。すると尋は、

「自らを木に吊すのも、よっぽど大胆ですよ。」

と彼女の方を向いていった。二人は数秒間見つめ合った。そして、次の瞬間、

「ホントに・・。」

といって、静かな笑いが起こった。あまりにも絶望的な行為過ぎて、今こうしてお互いが自身のエピソードとして語れていることとのギャップに、何とも不思議な緩和が生じた。

「で、何故だか解らないけど、ぼくもこうして、今ここにいます。不思議ですよね・・。」

「はい。」

彼女は、互いの存在が極めて近しい体験をしたことで、シンクロしていくのを覚えた。


 暫く二人が話していると、添さんが買い物から戻って来た。

「あら、お客さん?。」

尋は彼女を添さんに紹介した。ことがことだっただけに、彼女のことは添さんには話していなかった。先日、少し困っている様子だったのを偶然助けた程度だと尋は話した。ただ、添さんは彼女を一目見て何かを察したようだった。

「よかったら、中へどうぞ。」

と、添さんは彼女を施設内に誘った。事務所の椅子に彼女が腰掛けると、添さんは温かい紅茶を振る舞った。

「すみません。」

と、彼女は、か細い指でカップを両手で持って紅茶を飲んだ。側にいた尋も、

「頂きます。」

と、片手でカップの取っ手を握って紅茶を飲んだ。その間も、添さんは彼女に優しく話しかけながら、気持ちが解れていくのを確かめるように見守っていた。そして、施設のあらましについて彼女に説明した。

「あの、」

添さんが彼女にたずねた。

「さっき、尋さんが少しいってたけど、聞いてもいいかしら?。」

彼女は不思議そうな顔をした。

「何か困ったことがあるみたいだったけど、もしよかったら、聞かせてもらえないかしら?。」

尋はハッとした表情で、その話題を遮ろうと考えた。彼女も少し俯いて、いい難そうにした。しかし、

「実は先日、尋さんに命を助けていただいたんです・・。」

と、彼女は自らがしたことを語り始めた。それまでにいたる経緯と、森で自ら命を絶とうとしたこと、そこに尋が偶然通りかかって彼女を助けたことを。尋はカップを持ったまま黙って聞いていた。すると、

「アナタもそうだったのね。」

と、添さんがいった。彼女は添さんの顔を見つめた。

「実はね、私も尋さんに助けてもらったの。病気だったんだけどね・・。」

尋は自身のしたことがバレるのではないかと、一瞬、表情が曇った。しかし、

「でも、どういう訳か、アナタも私も今、こうして居る。尋さんのおかげでね。」

と、ニッコリとした表情で彼女を見つめた。

「はい。」

彼女もニコッとして添さんを見た。そして再びカップに口を付けた。尋は何も語らなかった。しかし、目の前の二人には語らずとも、尋が何をしたのかがどこか潜在意識の奥底で伝わっているような感じだった。そのことを敢えて語らない二人に、尋は感謝しつつ、紅茶を飲んだ。

「ところで、」

と、添さんが切り出した。

「何か今、お仕事とかなさってることとか、ある?。」

「いえ、特には。」

「じゃあ、もし良かったら此処を手伝ってくれない?。今はまだ大変かもだけど、少し落ち着いて、気が向いたら。ね。」

突然の申し出だった。だが、彼女は、

「いいんですか?。」

と、自ら食い気味にたずねた。

「勿論。無理の無い程度で。ね。」

「有り難う御座います。」

急な展開に、尋も目を丸くして驚いた。自らが関わった二人が、こうして縁あって仲間になることが。しかし思い返せば、自分も虚ろな存在のまま此処へやって来て、今はそれなりに日々汗を流せるほどにはなった。そういう意味でも、子供達にだけでは無く、誰にとっても心を寄せる場所というのが必要なのだろうと尋は思った。そして、

「あの、今日からでも大丈夫ですか?。」

と、彼女がいった。尋と添さんは少し驚いた表情で互いを見たが、

「ええ、アナタさえよければ。」

と、添さんは二つ返事で彼女を歓迎した。尋は少し気後れしたが、

「さて、私は料理の用意とかあるから、尋さん、悪いけど作業の段取りとか仄さんに説明してあげてね。」

と、添さんの言葉に躊躇する間もなく仕事が始まった。まずは子供達の面倒や勉強を教の手伝いをしてあげること。何かと訳ありな子らも多いので、その辺りについての対応もザッと話した。尋の言葉に彼女は、

「はい。」

と、テンポ良く頷いて、ほぼ聞き返すこと無く理解しているようだった。そして、

「じゃあ、子供達が来るまでは、他に何か作業は?。」

と彼女が聞いたので、尋が、

「ま、後は掃除とか、料理とか・・かな。」

というと、彼女は添さんの所へいき、

「あの、もしよかったら、私が作りますけど・・。」

といって、添さんからメニューを聞いた。添さんは、

「じゃあ、これ、お願いしようかしら。」

といって、作り始めの料理を彼女に任せてみた。するとどうだろう。彼女はサッと手を洗うと、長い髪を後ろで括って三角巾を頭に被るが早いか、もの凄い手際で食材を刻んで調理を開始した。

「んー。上手いもんねえ・・。」

「ホントに・・。」

と、尋と添さんは彼女の全く無駄の無い動きに舌を巻いた。何処かの調理場で長年やっていたとしか思えないような動きだった。オタマに調味料を目分量で入れ、何のレシピも見ずに、あれよあれよという内に豚汁が出来上がった。

「こんな感じでいいですか?。」

と、彼女は三角巾を取りながら二人にお椀で豚汁を振る舞った。尋と添さんは箸立てから箸を取り、豚汁を啜った。

「!。」

二人の頭上にビックリマークが跳ね上がった。いつも何気に食べる豚汁とは全く違ったものだった。際立っていた。

「美味しい。凄く。」

「うん。抜群。」

折角だからと、用意してあった白ご飯で、三人の昼食が始まった。


 線の細い仄さんの腕がお椀を丁寧に持って、豚汁が口元まで運ばれた。静かにゆっくりとすするのを、尋は何気に眺めながら自身も食事を続けた。添さんも時折仄さんの様子を見つつ、他愛も無い話をしながら食事を続けた。すると、

「え?。勉強とかも教えられるの?。」

と、添さんは驚いた。

「ええ。少しですけど・・。」

と、仄さんは恥ずかしそうに答えた。

「じゃあ、早速だけど、今日の晩、子供達が来るから、見てもらっていい?。」

「はい。」

と、話しはトントン拍子に進んで、今日の彼女の訪問から、いきなり彼女の居場所まで出来た。本当は喜ばしいことなのだろうが、ただ、尋には、少し気にかかることがあった。食事の後片付けも、彼女は率先して機敏に動いた。か細いながらも、食事はしっかりと取っていたし、物静かだが働く様子も元気に見えた。そして、夕方は小学生がやってきて、

「あれ?。新しい先生?。」

と、来た子達は口々にいった。真君もやって来て、少し恥ずかしそう、

「・・こんにちわ。」

と、に彼女に挨拶をした。先に来た子達が一緒に遊ぶ中、真君だけが黙々と絵を描くのを見て、彼女は、

「みんなと一緒に遊ばないの?。」

と、彼を誘おうとした。すると、

「真君は描くのがいいんだよな。」

と、尋がサッと間に入った。

「うん。」

と、尋の顔を見上げて、真君が微笑んだ。

尋は仄さんに、顔を売りがてら、他の子達の面倒を見るようにいった。そして、彼女が隣の部屋へいくと、

「あのお姉ちゃん、細いね。」

と、真君がいった。

「でも、料理、すっごく上手なんだよ。」

「ふーん。」

といいながら、尋も横に座って、少し絵を描き始めた。そして、

「何か見える?。あのお姉ちゃんに。」

と、二人だけの内緒話といった感じで、尋はたずねた。

「ううん。ナナフシみたい。」

と、仄さんの容姿を端的に答えた。尋は思わず笑いそうになった。

「シッ。そういうこと、いっちゃダメだぞ。」

と、尋は小声でたしなめた。隣の部屋では、新しくて若い女性の先生に、心なしか、みんな興奮気味だった。仄さんは、はじめこそ押され気味だったが、さっと子供達の宿題をみてあげたりと、そつなくこなした。

 小学生達が帰って、中学生と高校生が来ると、トーンは一気に落ち着いた雰囲気になる。男子は始め、仄さんをじろじろと見てはいたが、高校生の宿題を見ながら、

「ここは、こーやって式を立てて・・。」

と、彼女が数学の問題をすらすらと説明する様子を見て、各自が自分の課題に取り組みだした。いつもよりも静かで、そして、やや速いペースで授業が進んだ感じだった。ある生徒には、

「このやり方もいいけど、この方法で解くと、もっと速く解けるよ。」

と、彼女は従来の解法とは異なる技も何気に披露した。

「へー、凄い。」

と、生徒は感心した。そんな様子を、尋も他の生徒を見ながら、何気に見ていた。

「優秀だなあ。彼女。しかも、相当に・・。」

と、感じた反面、最初に危惧していたことが、尋の中で少し確信めいたものに変わった。生徒達が帰る時刻になって、みんなを見送った後、尋と仄さんは部屋の片づけを始めた。そして、

「お疲れ様。」

と、尋は労った。

「あ、お疲れ様です。何か不慣れで・・。」

と彼女は謙遜したが、

「いや、抜群でしたよ。」

と率直に評価した。と、同時に、

「あの、いつもあんな感じでサッサとこなすんですか?。授業とか作業とか。」

と、彼女のテンポについてたずねた。

「うーん、よく分からないけど、そうかなあ・・。」

と、彼女は少し考え込んだ。そのとき、彼女の頭上に微かに例の薄青い立方体が見えだした。それは整然と列を成していたが、途中、一つだけが淡い黄色になって揺れようとしていた。それを見て、

「そういうのって、自然とですか?。」

と尋がたずねたとき、彼女は少し俯いて、そして、

「多分、違うと思います。物心ついたときから、何でもきっちりとするように厳しく躾けられてたからだと・・。」

と、彼女は訥々と語り始めた。

「厳しい母でした。いう通りに出来ないと、厳しく叱責されて。それが怖かったから、怒られないように、何でもさっさとするようになったんだと思います。」

尋は黙って聞いた。

「その後、母は病気で亡くなったんですが、そのとき、涙が出なかったんです。逆に、これでやっと解放されたって、少し嬉しく思ったぐらいで。でも・・、」

「でも?。」

尋がたずねた。

「これからは自分の人生を歩めると思って、色々とやってみたんですが、何処へいっても、何をやっても、結局は今まで通りの動きしか出来なくて・・。」

と、彼女は落胆した。それを聞いて、尋は少し安心した表情になって、

「あのね、あんな出会いだったじゃないですか?。我々。で、今日いきなり全開で働くようになっちゃって、それでも上手くこなすのを見てて。正直、凄いな、この人って思ったんです。でも、」

というと、彼女は顔を上げて聴き入った。

「何か、生き急いでる風に見えちゃって、ね。ボクもそうだけど、ここに来る子や、彼らのお家の人達って、そんな風に上手くは出来ない人が多いかな。で、あんまり人にはいえない事情もあったりみたいで。そういう人の居場所というか、ゆっくりと見守るために、添さんが此処を創ったんだって。なので、」

尋の言葉に、彼女はさらに前のめりになった。

「アナタも、何事も上手すぎて、逆に下手だったから、ああなったり、此処へ来たんじゃ無いかな・・って。不思議な縁だけど。だから、みんな、上手くなくていいのかなって。ゆっくりで。」

彼女の目尻から涙が零れた。


 彼女の頭上を見ると、列を途切れ誘うとしていた光る立方体が輝きを無くし、やがて元の状態に戻っていった。そこに、作業を終えた添さんも表れて、

「あら。」

と、二人の様子が少しおかしいのに気付き、

「今日はどうも有り難うね。来て早々に活躍してもらっちゃって。」

と、労いの言葉をかけた。仄さんも、さっと涙を拭いながら、

「いえ、こちらこそ。」

と、お辞儀をした。そして添さんは何かを察したかのように、

「折角、命拾いした者同士、ぼちぼちでいきましょ。ね。」

と、優しく仄さんに微笑んだ。彼女は静かに、

「はい。」

と頷いた。施設を閉める時間になり、

「じゃあ、ボクが送っていきます。」

と、尋は仄さんと二人で施設を後にした。尋は自転車を手で押しながら、彼女は歩きながら、最寄りの駅まで向かった。

「あの・・、」

彼女がたずねた。

「尋さんも、以前に自ら命を・・って仰ってましたけど、でも、今お見受けすると、全然元気そうですよね?。」

「そうかな?。ボクは前と変わってないとは思うんだけどなあ。でも、添さんにも同じようなことはいわれたなあ。」

尋がそう答えると、

「アタシもそうだったんですけど、何か気丈に振る舞う瞬間があるんです。そのときは元気な風に見えてますが、でも、それって、最後の方で・・。」

彼女が自身についての様子を思い出しながら話すのを聞いて、

「あー、それはよく聞くなあ。でも、ボクは、そんなんじゃ無かったなあ。もう、取り繕うこともしなくなってた・・と思う。多分。」

尋も、自身のことを思い出しながら語った。すると、

「じゃあ、何故、戻って来れたんですかね?。しかも、お元気になられて。」

と、彼女は素朴にたずねた。いわれてみれば、そうである。心の闇は、例え命が助かったからといって、一気に解消されるものでは無い。尋は答えに窮した。そして、

「・・うーん、不思議に思われるかも知れないけど、実は、ぼく自身もホントの所は、解ってないんだ。記憶も曖昧で。」

と尋は何とか答えてはみた。そして、

「ただ、確実にこの世からおさらばしようとしてたかな。でも、どういう訳か、そうはならなかった。」

といって、尋は口を噤んだ。自身の身に起きたことを仮にいったとしても、恐らくは伝わらない、あるいは理解してはもらえないだろうという気持ちもあったが、何より、

「この妙な因果を、他の人に及ばせてはいけない・・。」

と、暗に願う気持ちもあった。そして、

「上手くはいえないけど、こっちへ来るな・・みたいな感じにはされちゃったのかな。で、罪滅ぼしに、元の世界で、人にいいことをし続けなさいみたいな。」

と、やんわりと、自分の身に起きたことを、そんな風に伝えた。それを聞いて、彼女はキョトンとした表情だったが、

「はい。だからアタシ、助けてもらって、こうしてるんですね。」

と、尋に微笑んだ。尋は彼女の笑顔に無理が無いのを見て取ったが、

「で、正直、やっぱり気持ちは、どんな風?。」

と、優しくたずねた。

「今日伺って、いろいろと働かせてもらってたときは、作業に没頭出来てて。それはそれで楽しかったんですけど、でも・・、」

と彼女の言葉が止まったのを心配そうに見つめた尋だったが、

「その後、仕事が終わって、尋さんと添さんからいわれた言葉に、一気に気持ちが軽くなったような気がして。」

彼女の言葉に、尋も安堵の表情を浮かべた。

「じゃあ、良かったんだ。助けて。」

と、思わず漏らした。彼女が照れながら尋の方を向いて頷くと、

「ボクも事の前と後では、どう変わったか、あるいは、何か重い部分を持ったままなのかは、正直解らない。っていうか、正確には解らなかったんだ。でも、何ていうのかな、確実に違うようになったことが一つあって・・ね。」

尋の言葉に、彼女は興味の目で見つめた。

「行く末を見届けたい・・って。何か、そんな風な気持ちが、だんだん出て来たかなあ。そう思うと、どうせ最後は、みんないつか必ず死ぬ。そのときが来るまで、ひたすら自分に起きたことの本当の意味を探してみよう・・って。多分、無理かも知れないけど。でも、それが生きる動機になるんだったら、それでいいかなって。」

尋がそういうと、仄さんは目を輝かせた。そして、

「動機・・かあ。あの、アタシもその意味探しに、お供させてもらっていいですか?。」

と、尋に懇願した。


 尋は微笑んで、

「そんな大袈裟なものじゃ無いよ。多分。足元を見つめながら、少しずつ日々の用事をやっていく。その繰り返しなんじゃないかな。」

と、仄さんにいった。

「はい。」

彼女も微笑みながら、静かに頷いた。やがて二人は駅に着き、

「じゃ、また。」

と、尋は彼女に挨拶をした。彼女も一例をして改札の方に消えていった。尋も帰ろうと、押して来た自転車にまたがろうとしたそのとき、

「尋さんですね?。」

と、体格のいい男性が二人、彼の側に来てたずねた。

「はい。そうですが。」

と尋が答えると、

「すみませんが、ご同行願えませんか?。」

と、いきなりいってきた。尋は当然躊躇し、

「あの、警察か何かの方ですか?。」

とたずねたが、そのうちの一人が、

「そうではありませんが、詳しくは車の中で。」

と、道路の反対側にある黒塗りの大きな車の方を見て、顎で合図した。話しぶりは緊張感があったが、抵抗しなければ騒ぎにもならないようにも思えた。尋は静かに、

「解りました。」

といって、その場に自転車を置き、二人に同行して車に乗った。同意したとはいえ拉致行為ではあったが、今の尋にはこれまで起きたことに比べたら、普通の人間が一緒に来て欲しいという、ただそれだけの行為の方が全然不思議では無かった。

「ドン。」

と、重厚なドアが閉まる音と同時に、車は滑るように走り出した。先ほどの二人は前の席に座り、一人が運転をした。尋の隣には、もう一人別の初老の男性が座っていた。そして、

「突然のことですみません。私はとある方の秘書官を務めておる者です。」

と、徐に自己紹介を始めた。

「先日から妙な尾行が付いているのはお気づきでしたか?。」

「はい。あの人達とご関係のある方ですか?。」

と、尋は逆に彼らに対して、少し興味を持ち始めた。

「いえ、彼らは公的な機関の関係者です。我々とは関係はありません。ただ・・、」

と初老の男性は続けた。

「彼らが動いた事情を内通者より知り、これは是非ともにと、失礼を承知で伺いました。」

それを聞いて尋は、

「では、ボクが何か出来る訳では無いのは、お解りかと・・。」

と、自身への用向きは空振りに終わる旨を伝えようとした。しかし、

「ハハハ。それは逆です。彼らには恐らく見抜けなかったんでしょう。それ故、あなたへのマークが緩くなった。ならば、今こそ我々があなたを必要と出来るチャンスなのです。」

初老の男性は、今までの誰よりも尋の事情について知っているかのような口ぶりだった。尋は彼の推測が的外れであると述べようとしたが、

「ま、恐らくは正直にお話して下さるとは思いませんが。それが、あなた自身の身を守ることになるとお考えでしょうから。」

と、尋の心を見透かしているかのような発言だった。図星な状況に、尋は言葉を失った。すると、

「お互い、隠し事はやめましょう。われわれは、とある信仰心を持つ組織の者です。そして、その創始者であられる方が今、危険な状態にあります。そこで、あなたのお力を、是非お借りしたいと。」

雰囲気から察するに、初老の男性から発せられるお香のような匂い、そして首に巻かれた数珠のようなものが、彼の人となりを物語っていた。そして、

「あなたが何か超常的な力なり技をお持ちであることは承知しております。我々は、そのような方を見つけ、そのお力をお借りすべく、世界中探索しております。その最中、先の内通者より真に有力な情報を得ることが出来ましてな。」

それを聞いて尋は、

「あの、ボクも隠し立てはせずにいいますが、ボク自身には何の力とか、そういうものは本当に無いんです。」

と答えた。初老の男性はキョトンとした顔をして、

「では、どうやって?。」

と、尋にたずねた。すると、上着の右ポケットに手を入れて例の楕円形の物体を取り出そうとした。しかし、

「あれ?。無い。」

初老の男性が、何事かとたずねた。

「これ位の丸い陶器のようなものがあって、それを奏でるんですが・・。」

と、尋は両手の指で丸い形を作り、物体のサイズ感を示した。

「それが、今、無いと?。」

「多分、施設に置き忘れたかなあ・・。」

と、初老の問いかけに困惑した表情を見せると、

「直ぐに引き返せ!。」

と、男性は運転手に命じた。運転手は猛スピードでスピンしたかと思うと、元来た道を逆方向に突っ走った。その遠心力に、後部座席の尋と男性は、もんどりを打った。そして、施設の前辺りまで来たとき、

「直ぐに探してきます。」

といって、尋は車から降りて、施設の内部に向かった。そして、

「まだ灯りが付いている・・。」

と、施設のドアを開けて、

「添さん、いますか?。」

と駆け込んだ。

「あら、尋さん。どうしたの?。」

と彼女が血相を変えた尋にたずねた。

「すぐに警察に連絡を。話しは後・・。」

と、添さんを急かした。数分後、パトカーのサイレンが鳴り響き、緊急灯の紅い光りが辺りを照らしながら近づいてきたが、黒塗りの車は、もうそこには無かった。


 尋は拉致された経緯を駆けつけた警察官に話した。添さんもその話を傍らで聞いていた。そして、

「車のナンバーは・・、」

と、尋は記憶していた数字と車種を伝えた。その数字を警察官が無線で本部に問い合わせて照合が行われた。すると数分後、今度は施設の外に二台の車が静かにやってきて、入り口付近で止まった。そして、駆けつけた警察官と入れ替わるように、背広姿の男性が数名施設に入ってきた。

「通報された尋さんというのは、アナタで間違い無いですね?。」

と彼らの一人が念を押すようにたずねながら、警察手帳を見せた。尋はチラッとではあるが、その肩書きが平の刑事とは異なることに気づいた。

「はい。」

尋は返事をすると同時に、

「ところで、あの車は一体・・、」

と質問を投げかけたが、その男性は尋の方に向き直して、

「現段階で、アナタが不審な車に乗ったのは事実だとして・・、」

と、何やら雲行きの怪しい話しぶりになりだした。

「突然乗るようにいわれたのは事実です。」

「それは、強引にですか?。それとも、合意の上でですか?。」

「強引では無かったですが、私の意に反してです。」

「でも、結局はご自身の判断で乗られた。そうですね。」

明らかに合意の有無が押し問答になりそうなのを察して、

「では、今回私が通報したことは、誤りってことですかね?。」

と、無意味なやり取りを終える方向で、尋はたずねた。

「いえ、危険を感じられて通報されるのは問題ないです。ただ、結果的にアナタはこうして無事でおられる。つまり、事件性の立証が難しいんです。」

と、如何にも彼らのような立場の人間が、都合の悪そうなときに発する紋切り型の言葉を、その男性は述べた。すると、

「あの、さっきの私の質問に、まだ答えて頂いてないんですが。あの車は一体、何だったんですか?。照合されたのであれば、既に所在とか解ると思うんですが?。」

尋は彼らの態度に幾分苛立ちを覚えたが、冷静に自身に起きたことの詳細を求めようとした。しかし、

「確かに照合はしました。しかし、ここから先は捜査情報になりますので、申し上げることは・・、」

と、男性がいいかけたところで、

「今、捜査といいましたね?。それはあなたたちが調べる必要性があるときに用いる言葉ですよね。では、これは私に具体的な危害が認められなくても、何か問題はあるとの認識ですよね。違いますか?。」

と、尋は男性の言葉を遮って、明確に論を詰めた。すると、答えに窮した男性は、自身が狼狽えるであろう言い訳をする前に、

「解りました。結論からいうと、アナタの身に起こったことが事実であると、我々も認識しています。そして、その車の存在も、こちらでは把握しています。ただ、この話が公になる方が、問題を大きくする可能性があるということです。」

男性は、淡々と伝えた。その言葉には嘘は無さそうであろうことは、尋にも窺い知れた。すると、

「では、今回あったことは、黙っていろということですか?。」

と、尋は率直にたずねた。男性は尋を見上げるように、

「被害という点では、やはり立証は難しいです。この先、同じようなことが続くようであれば、それは罪に問える可能性はありますが。ただ、我々が問題視しているのは二つ。一つは、その車の所有先。そして、もう一つは・・、」

尋と傍らの添さんは息を呑んで次の言葉を待った。

「もう一つは?。」

添さんが思わず発した。

「何故彼らが、尋さん、アナタに会いに来たのかです。」

尋は調書作成の際、相手の風体や発言など、事実関係はほとんど述べた。しかし、肝心な部分、尋の持ち得る術については語っていなかった。そして、

「ボクも本当のところは解りませんが、先の話に出ていた秘書官という男性のいう通り、恐らくはボクを含む、誰もが知っているような大きな組織の代表的な立場の人が危ない。公然の秘密が事実だった・・ということですね。」

尋はそう語りながら、男性の方を見た。男性は、静かに、尋にだけ見えるように微かに頷いた。そして、

「このことが外部に漏れれば、情勢が変わるほどの一大事になりかねない。そして、その鍵を握る可能性があるのが、尋さん、アナタなのでは?。そうでも無ければ、今回のようなことが起きるはずが無い。違いますか。」

今度は男性が尋に詰め寄った。すると、

「彼らは恐らく、超常的なものの力に惹かれていて、それがボクにあるかのように錯覚してるんじゃ無いですかね。」

その言葉で、尋は男性の興味を断ち切った。そして、

「ボクは、これ以上何も起きずに、普段通り過ごすことが出来れば、それでいいんです。妙な尾行や拉致騒ぎが無ければ。世が危うくなるようなことを話す気もさらさら無いです。」

「そうですか。解りました。もし何かあるようでしたら、私に直接連絡して下さい。」

と、男性は尋に連絡先をメモで伝えた。そして、連れ立ってきた全員が速やかに引き上げていった。その様子を見送った後、添さんが尋の肩に手を置いて、

「何とか凌げたようね。今回は。」

と、少し安堵の色を見せた。尋も同じく、急に張っていた気が解れた。そして、

「お茶にしましょうか。」

と、添さんと二人、事務所の椅子に座って温かいお茶を啜った。


 そっと口から湯吞みを離して、

「アナタがしてくれたことを、私は一生忘れない。有り難う。」

添さんがいった。

「いえ、ボクは何も・・。」

と尋がいいかけたとき、

「そうね。そうしておいた方がいいってことよね。少しずつ騒ぎにもなりだしてるみたいだし。」

彼女はそういって、尋を気遣った。

「でも、人の命を救うというのは、そんなにイケナイことなのかしら・・。」

と、彼女は尋の行いに対する反応が不穏な感じになっていることに、少し顔を曇らせた。

「ボクも正直、解らないんです。運命とか、定めというものがあったとして、それに手を加えてしまうことが、果たしていいことなのかどうか・・。」

尋も同様に顔を曇らせて俯いた。

「多分、普通ならあり得ないことよね。人が行うことの出来ない。だから、それが正しいとか判断するなんて、もっと出来ることでは無いわよね。」

彼女は尋の気持ちを察して、寄り添うように言葉をかけた。

「ボクが変えてしまっているのか、それとも、こうなることも既に運命だったのか。ゆく末を見守りながら、ボク自身で確かめるしか無いかな・・って。今はそんな風に思ってます。」

「うん。そうよね。アタシも既に乗っかっちゃってるんだし、アナタのしたことが間違ってるっていうんなら、アタシは生きてちゃいけないってことだもんね。」

尋の静かなる決意を聞いて、彼女もキッと目を見開いて、

「よーし。じゃあ、アタシも一丁、いけるとこまでいったるか!。」

と、尋の方を向いて気合いを入れた。

「それにしても、生きることが出来るって、やっぱり素晴らしいことよねえ。自分では覚悟はしてるつもりだったけど、でも、こうしてまた此処で働けることは、理屈じゃ無い。ただただ嬉しくて、有り難いことよ。だから、次に本当の最後が来るまで、やれるだけのことをするわ。」

彼女の瞳が潤んだのを、尋は見た。自身はかつて、自らの生を放棄しようとした。それなのに、どういう訳か再び、いや、三度生かされて、ようやく自身の役割が彼女によって示されたような気がした。尋は目頭が熱くなった。

「時の権力者が不老不死を求める姿を、ボクは滑稽で醜いものだと思ってました。そんなもの、この世にあるはずが無いのに。だからボクも生に執着するのは、何だかみっともないと思っていたのかも知れない。でも、それは違う。どんなに滑稽でみっともなくとも、人はその時が来るまで生を全うするもの・・。」

尋は思いの丈を語った。

「アナタは生きることに欲がなさ過ぎたのかもね。でも、あなたが思ってる以上に、アタシには、アタシ達にはアナタが必要よ。だから・・、」

そういって、添さんは尋を抱きしめた。尋も添さんの大きな背中に手を回して抱きしめた。そして、

「じゃあ、ボク、いきます。」

といって、尋は施設を後にした。そして、暫く歩いていくと、ズボンのポケットからメモを取り出し、書かれてある番号にケータイで電話した。

「もしもし、尋です。」

「もしもし。先ほどはどうも。で、何か思い出してくれましたか?。」

「いえ、そうでは無いんですが。ただ・・、」

「ただ、何ですか?。」

「その、例の人達の団体、名称を教えて頂けませんか?。」

少しの沈黙の後、

「・・解りました。今はまだ、施設の近くですか?。」

「そうです。」

「では、10分後に、近くの公園で。」

そういって、さっきの警察関係者の男性は電話を切った。尋は自転車で一足先に公園に到着した。そして、ベンチに腰をかけた。程なくして、先ほどの男性が徒歩で現れた。

「スミマセン。お呼び立てして。」

尋は立ち上がってそういうと、男性は軽く一礼すると、

「私個人の番号なので、大丈夫だとは思うのですが、念のため。」

といって、慎重さを伺わせた。そして、

「で、その例の団体なんですが・・、」

といって、尋にその名称を耳打ちした。尋は特に驚いた様子も見せず、

「解りました。」

とだけ答えた。すると男性は尋にたずねた。

「ところで、これからどうされるおつもりですか?。」

尋は少し間を置いて、

「彼らがボクを追ってるようだし、かといって、アナタ達は何かをしてくれる訳でも無い。だから、自分の身は自分で守るしかない。そういうことですよね?。」

と、男性の目を真っ直ぐに見ていった。男性の黒目は、微動だにしなかった。尋はそのことを確かめたかった。

「いかれるのですか?。」

男性の質問に、尋は黙った。すると男性は、

「私から場所を聞いたということは、アナタは恐らくそこへいかれるということでしょう。それをいわないのは、私がどちらの側かを知りたいから。そういうことですね?。」

尋の真剣な眼差しに、自身が試されていると悟った男性は、自分の役割より尋の思惑に対して興味を持ち始めていた。


「ではボクはこれで。」

男性に一礼すると、尋は自転車にまたがってその場を離れた。そしてそのまま家路にはつかずに、男性からさっき聞いた組織の支部に向かった。深夜の歩道をひた走り、尋は誰もが知る、某組織の支部についた。支部とはいえ、かなり巨大な石造りの建造物は、まるで要塞のように高い壁で囲われていた。入り口付近にはインターホンが設置されており、尋は赤く小さなランプが点灯している下の部分にボタンがあるのを確認し、備え付けのレンズに顔を向けながら、そのボタンを押した。

「どなたですか?。」

「尋という者です。今日、そちらの秘書官と会った者です。」

尋は淡々と告げた。すると、

「解りました。少々お待ち下さい。」

とインターホンの声が途絶えたかと思うと、

「ガガガガガ・・。」

と、黒い重厚な鉄の門が滑るように開いていった。

「どうぞ、お入り下さい。」

再びインターホンの声が、尋を内部へ誘った。臆すること無く、尋は進んだ。そして、ドアを開けようとしたところ、

「お一人ですね。どうぞこちらへ。」

と、中から施設を管理しているであろう人物が尋を案内した。玄関では無く、そこを通り過ぎて勝手口から二人は施設に入っていった。そのすぐ横には小さな事務所スペースがあった。数台のモニターが並べられていて、外部や周囲の様子が監視出来るようになっていた。

「こちらでお掛けになってお待ち下さい。」

男性はそういうと、尋をその部屋へ置いて退出した。尋はモニターを見ながら、暫く待っていた。その間、一台の車が弊の付近で減速しながら近づき、そのまま止まらずに発進するのを見た。それから十数分ほどして、門の辺りに二台の車がやって来た。

「今日見た車だ。」

尋は確信した。そして、そのまま止まらずに正面玄関までやってきて、中から初老の男性が降りてきて、先ほど尋を案内した男性が出迎えた。やがて、数人の足音が尋のいる事務所に近づいてきて、

「これはこれは。先ほどは、飛んだ邪魔が入りましたな。」

と、初老の男性は尋にいった。

「で、こちらにわざわざお越し下さったということは、我々の申し出を引き受けて下さると、そう受け取って構わないですかな?。」

男性が念を押すようにたずねると、

「はい。ボクに出来るかどうかは解りませんが。」

と、尋は少し硬い表情で承諾した。

「結構。では急ぎましょう。」

尋は駆けつけた初老の男性と共に車に乗り込んだ。そして施設を出ると、車は高速を飛ばして一路、空港に向かった。途中、僅かながらに二人は会話を交わした。

「事は一刻を争います。アナタが迷われたのか、あるいは逃げようとされたのか、それは問いません。我々の訪問が不躾であったことも否めませんしな。ただ・・、」

「ただ、何です?。」

「これはあくまで私個人の好奇心で伺うのですが、何故再び当方へお越しになられたのですかな?。」

「このままの状況が続くのは、良くないと思ったからです。そして、それをはっきりさせるには、ボクが出向くのが一番手っ取り早いと思ったからです。」

尋は男性を真っ直ぐに見つめて言葉を投げた。すると、

「そうですか。」

といって、男性は視線を逸らして窓の外に目をやった。やがてビルが建ち並ぶ夜景は、次第に広い空間に入って行った。空港が近づいてきた。

「こんな時間に、フライトはあるのだろうか・・。」

尋がそう思っていると、車は一般ゲートでは無く、貨物の到着するゲートに向かった。男性はケータイで誰かに連絡を取っていたが、車が到着すると、

「お待ちしてました。さ、こちらへ。」

と、空港の係官と思われる男性が二人、尋達を空港内へ案内した。そして、搭乗手続きのための窓口に案内されること無く、そのまま滑走路へ通された。

「小型ジェット・・。」

そこにはタラップが下ろされた状態で、小さな専用機が用意されていた。

「さ、どうぞこちらへ。」

初めて近くで見る飛行機に感心する間もなく、尋は男性に促され、タラップを昇った。そして、機長席の横付近に、彼らの組織の紋章が小さくペイントされていた。搭乗して座席に着くと、機長らしき男性が現れて、

「ご苦労様です。では、シートベルトを。早々出発します。」

と告げて、離陸準備に入った。

「お飲み物は、いかがかな?。」

初老の男性は尋に気遣ったが、

「いえ、結構です。」

尋はキッパリと断った。通常の旅客機とは異なる低い座席の位置は、滑走路を滑る小型機のスピードに更なる臨場感を加えた。機体はそのまま離陸後、急上昇して夜の闇に突入した。


 尋は窓の外を眺めていた。通常とは異なるフライトが、まるで今の自分そのものであると感じた。以後は無言で、機内はジェットエンジンの振動音以外、何も音は無かった。飛行時間は、ちょうど1時間だった。尋の体感が彼に伝えた。やがて眼下に煌びやかな高層ビルや塔が立ち並ぶのが見えた。

「首都・・か。」

尋はこの国の大きなうねりの中に自分も突入していくであろうと思った。そして機体は都心の湾岸エリアにある滑走路に着陸した。ゆっくりと旋回しつつ格納庫に向かう途中で、黒塗りの車が滑走路内に二台止まっているのが見えた。機体はその辺りで止まるとタラップを下ろした。

「ご苦労様でした。さ、どうぞ。」

と機長が促すと同時に、尋以下、同乗者たちは待ち受けていた黒塗りの車に乗り込んだ。尋は前方の車の後部座席に、その隣には初老の秘書官が座した。二台の車はターミナルとは別方向にある小さなゲートに向かった。運転手が係員に何やら話しかけると、すぐさまゲートが開いた。そして一般道に出るとすぐに高速に乗り、かなりスピードを上げた。

「よほど急がないといけない状況なのか・・。」

尋は何の依頼内容も聞かされてはいなかったが、妙な責任感から手の平にじわっと汗が噴くのを感じた。秘書官は時折携帯で連絡を取りながら、

「うん、うん。よし、解った。あと少しじゃ。」

と、自身の位置を告げると、運転手にさらに急ぐように告げた。そして、高速を降りても車の勢いは止まらず、真夜中の赤信号を無視しながら交差点を幾つも突っ切った。やがて、ビルの建ち並ぶ都心部を抜けると広大な空間が開け、その先にはギリシャの神殿を模したかのような建物が現れた。巨大なゲートは既に開かれていて、詰め所の係官が敬礼をしながら車を迎えた。しかし、車は止まること無くそのまま建物の方へ走り抜けた。玄関付近は巨大なロータリーになっており、大理石の巨大なオブジェからは満々と水が溢れ出ていた。それらが夜空を背景に聳えるのを眺める間もなく、車は急停車した。そして、待ち受けていた背広姿の男性数名がドアを開けると、

「お急ぎ下さい。」

と、尋と秘書官を建物の奥へ案内した。赤絨毯、巨大な陶器、壁に掛けられた絵画、彫刻、煌びやかなシャンデリア。恐らくはどれ一つ取っても贅を尽くした物だろう。しかし今は、誰一人それらに目をくれること無く、足早に二人をエレベーターに案内した。尋は案内人の男性と秘書官と、豪華なエレベーターに乗り込んだ。向かった先は8階だった。階を表示するランプを見つめながら、三人は沈黙した。

「ドアが開かれたら、ボクは何か大きな渦に巻き込まれるのか・・。」

優しくベルの音が鳴り響き、8階への到着を知らせた。ドアが開くと、そこには数名の体格のいい背広姿の男性が立っていた。

「あ。」

尋の声が思わず漏れた。中央には尋にこの組織の所在を教えた、あの警察関係者が立っていた。彼は尋にだけ解るように軽く一礼した。

「何事だ。」

秘書官が声を荒げた。すると男性は胸ポケットから手帳を取り出し、

「公安の物です。こちらへ来られる際に、フライトの手続きが適正に行われていなかったとの情報が入りました。また、そちらの男性を意に反して拉致した疑いがあります。詳しくお聞かせ願えますか?。」

「何を申しておる!。今は一刻を争うのじゃ。そこをどけ!。」

秘書官は声を荒げて抵抗したが、両脇の警察関係者が彼を排除しようとした。すると、

「あの、ボクは合意の元、ここまで来ました。なので拉致には当たりません。」

尋は秘書官の焦りを察して、警察関係者に述べた。

「解りました。では、不正フライトの件で、お話を伺いたいのですが?。」

「それはボクにはよく解りません。」

警察関係者の質問に、尋はありのままを伝えた。騒ぎを聞いて駆けつけた組織の人間が秘書官を庇おうとしたが、屈強な男達には歯が立たなかった。やがて、少し落ち着きを取り戻した秘書官は男達に囲まれて通路の奥の方で事情を聞かれ始めた。一方、尋はすぐ横の長椅子に目をやり、

「ボクはこのまま待っていればいいんですね?。」

と、件の警察関係者に話しかけた。彼は黙って頷いた。そして、暫しの沈黙の後、

「多分、付いて来られたんですね。それにしても、早いですね。」

「我々にはジェットヘリがありますから。」

尋の疑問に、男性は答えた。尋はさらに、

「恐らく、この先でお偉い方が危篤状態か何かなんでしょうね。でも、アナタは法を盾に、その先を阻止しようと判断された。そういうことですね。」

と、感情のこもらない言葉で述べた。

「救わない方がいい命、それが存在する。ボクには難しいことは解りません。でも、一つ気になることがあるんですが・・。」

尋の言葉に、男性は彼を凝視した。

「何故アナタは、僕を此処まで来させたんですか?。阻止するだけなら、もっと以前に出来たはずなのに。」

その言葉に、男性の困惑が一瞬見えたのを尋は見逃さなかった。

「助けて欲しい人がいる・・。そうですね?。」

尋は小声で男性にたずねた。男性は黙って屹立したが、やはり僅かに指先が震えていた。


 尋は男性にたずねた。

「ボクは今から依頼のあった方の所へ行きます。恐らく、それを阻止するのがアナタの使命かも知れない。アナタが任務に忠実ならばボクは阻まれて、奥のどなたかが亡くなるのかも知れない。それが正しいことなのか動なのかは、ボクには解りません。でも、アナタにとって大切な方が救われて、奥の方がそうはならないなんて、一体、誰が決めていいことなんですかね?。」

男性は黙って聞いていた。が、さっきよりたじろぐ様子が見えた。尋は続けた。

「ボクがすることが正しいことなのかも解りません。寧ろ、決められた寿命を勝手に変えるのは間違っているのかも知れない、もしそうなら、罰を受けるのはボクだけでいい。でも、それで誰かが助かるのならば、それでいいんじゃないですか?。」

そういって、尋は男性を真っ直ぐ見つめた。すると男性は、

「解りました。」

と一言いって、尋に道を譲った。

「一緒に来て下さい。」

尋は男性と一緒に奥へ進んだ。廊下の突き当たりには数人の組織の人物と思われる者が立っていた。

「スミマセン。今日呼ばれました、尋という者です。」

そのうちの一人にそう告げると彼はドアを開き、尋を中へ導き入れようとした。

「ここで待っていて下さい。」

尋は警察関係者の男性にそう告げて、中へ入っていった。内部は巨大な医療施設のようになっていて、医療関係者とみられる人物が医師、看護師を含め十数名ほどが、種々の器具に繋がれた人物を懸命に治療しているところだった。

「脈が弱い。カンフル!。」

騒然とした中、医師らしき人物の一人に、

「スミマセン。尋という者です。」

そういうと、その人物は尋を舐め回すように見つめて、

「ちょっとお待ち下さい。」

と一言いって、チームリーダーらしき医師のところへいき、耳元で何やら話しかけていた。すると、その人物が尋の方へやって来た。

「お待ちしてました。時間がありません。早速お願いしていいですか?。」

「解りました。」

そのとき、

「あの、スミマセンが、みなさん、御退出願えますか?。」

尋がそう告げた。医師は驚いて、

「私は主治医として、行われることを見届ける義務が・・、」

といいかけたが、尋は言葉を遮った。

「それは解ります。ですが、今から行うことが非科学的で、そして、ワタシとあの方以外の誰かが見ていては効果が無い可能性があります。」

それを聞いて、

「解りました。では、よろしくお願いします。」

といい残して、全員に持ち場から離れて退室するように命じた。不服そうにする者もいたが、それでも全員、速やかに退室した。それを見届けると、尋は深呼吸をし、余命幾ばくも無いであろう、器具に繋がれた人物の元に近づいていった。意識は無く、息も絶え絶えで真っ白な顔をした人物が、そこに横たわっていた。器具類が酸素を送る音と、心拍数を図るビープ音を発していた。尋はその人物の額にそっと手を置き、

「いきますよ。」

と小さく伝えると、上着の右ポケットから楕円形の物体を取り出した。そして、唇に当てて息を吹き込んだ。

「ブォーッ!。」

素朴な音が鳴り響くと一瞬、器具類から発せられる音が全て止まった。そして、次の瞬間、

「ピッ、ピッ、ピッ・・。」

と、微かだった心電図の波形が強く、規則正しく表示され始めた。そして、さっきまで真っ白だったその人物の顔に血色が戻った。そして、

「ゴホッ。ゴホッ。」

と咳をしたかと思うと、パッと目を見開き、自身の手で口に繋がれた装置のパイプを抜き取った。その後、暫く呼吸を整えて、ふと横に目をやって尋の方を見た。

「・・・ワシは一体、」

「どうぞ、そのままお休み下さい。」

といって、尋はその場を後にしてドアを開けて退室した。そして、外で待ち受けている医師団に対して、

「終わりました。では、ボクはこれで。」

といって、一緒に待っていた警察関係者の男性の方を向いて、微かに頷いた。医師団は慌てて部屋の内部へ駆け入って、

「先生!。」

「先生!。」

と、驚愕と歓喜の声がドアの外にも溢れてきた。

「さ、急ぎましょう。」

尋は男性の肩を叩き、足早にその場を離れた。

「ちょっとだけ待ってもらっていいですか?。」

男性は尋にそう告げると、連れ立って来てた部下達に秘書官らへの聴取を中止するように指示を出した。

「お待たせしました。」

尋と男性の二人だけが先にエレベーターに乗って下まで下りた。階が表示される文字盤を見つめながら、

「アナタの任務を邪魔する結果になっちゃいましたかね。」

尋は男性を気遣って言葉をかけた。すると、

「さっきのアナタの言葉、考えてみました。なるほど、仰る通りだなと。そして、先ほどの出来事とみんなの様子を窺ってまして、今ここで起きたことが何なのか、それが少し解ったような気がします。」

男性がそういうと、

「逆に、ボクには相変わらず解らないです。何故、そういうことが起きているのか。」

尋は思う所を率直に伝えた。やがて1階に到着すると、

「さ、アナタの希望する所へ急ぎましょう。」

尋は男性にそう告げた。男性は頷いて、止めてあった車に乗って本部施設を後にした。


 男性の形態がけたたましく鳴り響いたが、彼は電源を切ってポケットにしまった。スピードを上げた車中で二人は無言のままだったが、暫くして尋が口を開いた。

「あの、一つ聞いてもいいですか?。」

「何ですか?。」

「恐らく、アナタはボクが先ほどの行為が出来ないようにするか、あるいは上手くいかないことを暗に望んでおられたと思うのですが・・。」

男性は真一文字に口を閉ざしていたが、やがて、

「望んでいたのでは無く、指示に従うのが仕事ですから。」

そういって、前を凝視していた。かなりのスピードが出ていた。尋はそれ以上はたずねなかった。今、二人がこうしていることは、彼にとっては間違いなく立場を危うくすることだろう。任務遂行が出来なかったのだから。しかし、彼には、いや、彼にも任務より大事なものがあった。そして、そのためには自身の力が必要である。ならば、例え相手が誰であれ、自分はその要望に応えよう。尋は自分のことよりも、彼の行く末を案じた。街中をかなり走り、警戒線を避けるべく敢えて下道を通りながら、車はやがて、とある小さな病院に着いた。

「ここです。お願い出来ますか?。」

男性は下車する前に尋にたずねた。

「話は後で。いきましょう。」

二人は車を降りると男性が夜間受付の窓口に挨拶をし、尋を案内した。階段を上がって3階にくると、消灯後の暗い廊下を二人は静かに歩いた。そして、突き当たりの一つ手前にある右手の部屋に来ると男性はドアを開け、二人は中へ入った。そこは個室だった。薄暗い部屋の中にベッドが置かれ、一人の子供らしき人物が横たわっていた。尋はその光景に息を呑んだ。痩せ細っていて、生きているのかどうかさえ解らなかった。何の機器類にも繋がれてはおらず、寝息すら聞こえなかった。ただ、微かに胸元の辺りの布団が上下するのを辛うじて見て取れる程度だった。男性は口を開いた。

「娘です。数年前事故に遭い、一命は取り留めましたが、それからは・・。」

男性はベッドの足元にある柵を両手でグッと握り締め、大きく項垂れた。

「医師の話では、このままでは、もう長くは無いと・・。」

絞り出すような声で男性は語った。尋は男性の左手の甲の上にそっと手を置き、

「解りました。早速やってみます。少しの間、外に出てもらえますか?。」

そう尋がいうと、男性は顔を上げて尋をじっと見つめた。そして、尋の両手を握って、

「お願いしますっ。」

と力を込めた声でいい残して、部屋を出た。ドアの閉まる音を確認すると、尋は上着の右ポケットから楕円形の物体を取り出し、女の子を眺めた。そして深呼吸をすると、唇に物体を当てて、息を吹き込んだ。

「ブォーッ!。」

部屋中に音色が鳴り響いた。尋は少女を見た。すると、さっきまで全く動かず、薄暗さで表情さえ解らなかった少女の頬に薄紅色が差し始めた。そして、瞼が微かに動いたかと思うと、少女はパッと目を開いた。そして、掠れるような声で、

「・・ここは?。」

と尋の方を向いてたずねた。尋はニコッとしながら、

「病院だよ。今、お父さんを呼んでくるからね。」

と優しく少女に伝えて、外で待っている男性を招き入れた。男性は娘が蘇ったのを見ると、慌てて駆け寄り、彼女をギュッと抱きしめて涙した。暗い病室に人目を憚らずに嗚咽が漏れた。

「パパ、いたいよ・・。」

痩せ細った少女の体に、父の渾身の抱擁は強すぎた。男性は娘の両肩を持って彼女を胸元から離し、

「ゴメンよ。でも、パパ、嬉しくって・・。」

そういって、再びそっと、娘を抱きしめた。その光景に、尋の胸も熱くなったが、これ以上は自分のいる場所では無いと悟ると、後ろ手でドアノブをそっと開けて、静かに退室した。今は、目の前の二人が幸せならそれでいい。この後、どのようなことが待ち受けていようと・・。暫くして、室内にいた男性が尋のいないことに気づいて後を追ったが、彼の姿はもう無かった。それから随分経った頃、深夜の歩道を歩く尋の姿があった。

「何か、遠い所に来ちゃったなあ・・。」

帰るにしても、始発の時間までにはかなりありそうだった。何より、駅、いや、此処が何処なのかさえも解らなかった。そして、コンビニの灯りが見える辺りまで来ると、自販機に小銭を入れて缶コーヒーを買った。ミルク入りのとびきり甘いやつだった。尋は缶を開け、一気に飲んだ。

「ふーっ。」

ようやく、本当にようやく、一息ついた気分だった。と、尋は急に辺りを見回し、

「よし、誰も付けて来てないな。あの老人も・・。」

そういって、さらに缶コーヒーを飲み干した。見上げると、冴えた冬の夜空は満天の星空だった。吐息が湯気となって、霞んだ部分が天の川のようになった。そして、

「オレ、生きてるんだなあ・・。」

尋はそうしみじみと感じた。


 別に逃亡者という訳では無かったが、あまりこの辺りに長居していても、また誰かに見つかる可能性もあった。尋は此処に留まらずに兎に角、近くの駅まで向かった。深夜の道をとぼとぼ歩き続けていると大抵は警官に職質をされる恐れがある。色んなことを語るのも面倒だし、尋は少し歩いてはコンビニに用も無く立ち寄るようにして、自身が不審に見られないように努めた。そんな風にどれほど歩いただろうか。尋はようやく線路らしき物を見つけた。

「これでやっと駅にいける。」

尋は線路と併走する道を歩んだ。時折警官らしき人物が自転車で通りかかると、尋は物陰に隠れながら、

「何をしてるんだろうか?。オレは・・。」

と呟いた。そして、ようやくのことで尋はローカル線の駅舎に辿り着いた。中に入ると、そこには木製のベンチがあった。始発が来るまで尋は仮眠を取ることにした。様々な出来事が起こりすぎた上に、かなりの道のりを徒歩で来た疲れで、尋はすぐに寝入った。どれほど眠っていただろうか。と、

「ガラガラガラ・・。」

と、駅舎の売店のシャッターが開く音がけたたましく鳴った。その音に尋はぼんやりと眼を開き、売店の人が新聞を所定の位置に差し込んでいるのが見えた。外に目をやると、空は白み始めていた。どこにでもある早朝の光景ではあったが、尋はふと一冊の新聞に目が留まった。

「あれ?。この人は・・、」

逆円錐状に丸められた新聞の一面に、カラーの写真が載っていた。そこには何と、昨日尋が命を救った、某団体の老人が写っていた。尋は思わず売店に駆け寄り、その新聞を一つ購入した。

「教団最高顧問、蘇る。」

見出しにはそう書かれていた。尋はこれまで添さん以外、例の物体のことで関わった相手のことを全く知らなかった。自身の行いが決して順当なものでは無いとの直感もあったが、この不思議な力が何らかのことに利用されることを恐れての部分が大きかった。記事を読み進めるうちに、尋は事の次第を理解した。

「そうか・・、こういう人物だったのか。」

そこには、誰もが知るその組織の規模と、その人物が如何に各方面のトップと繋がりを持っているかについて触れられていた。そして、昨今の健康状態が危惧される中、反対勢力の台頭についても、かなり具体的に触れられていた。その二つの勢力が拮抗している間は問題無かったが、パワーバランスが一気にどちらかへ傾くことへの懸念も述べられていた。そういうことには疎いというか、敢えて避けて生きてきた尋には、例え一人の命を救ったとはいえ、胸中は複雑な思いが駆け巡った。

「これで良くなるのか、悪くなるのか・・。何ともなあ・・。」

尋は記事を読むのを辞めて、新聞を小脇に抱えた。そうこうしている内に、始発の時間が来たようだった。遠くから線路が軋む音が聞こえてきた。尋は券売機から切符を買って、改札を潜った。

「取り敢えずは西へ向かおう・・。」

尋はやって来た電車に乗った。ようやく車内で暖を取ることが出来たせいか、尋はまた深い眠りに就いた。それからどれほど揺られただろうか。

「終点、終点・・。」

車内アナウンスの声で、尋は目覚めた。

「よし、街中じゃ無いな・・。」

尋は電車を降りると、次のローカル線のホームへ向かった。出来るだけ中央に向かう列車は避けて、鈍行でゆっくりと戻ろうと考えた。もはや、いつ何時、どんな追っ手がかかっても不思議では無い。そして、そんな追っ手達に共通していることを、尋は見つけた。

「兎角、彼らは急いでいる。緩やかな時の流れに身を置くことで、そんな縁とは遠ざかることが出来るかも知れない・・。」

期せずして、遠出の長旅にはなってしまった。しかし尋は、そのことが自身の癒しになればと、そう願った。気づけば、尋は自分のことを全く労ってこなかった。それどころか、二度までも命を投げ出し、折角命拾いしても、その願いが叶わなかったことに違和感を持つ自身の姿を、随分と刹那的に見てきた。もし、このまま無事に帰らなければ、それはそれで願い通りである。逆に、何事も起こらず車窓など眺めながら時の流れにたゆとえば、鋭利な刃物の如く自身を傷つけることも無くなるかも知れない。そんな賭けに、尋は出て見ようと思った。次の列車に乗り換える頃には、通勤や通学の人達で車内は賑わった。尋は邪魔にならないように、隅っこの方で車窓を眺めながら立っていた。

「みんな、何処か向かう所がある朝・・かあ。」

当てもなく彷徨う尋とは真逆に、世の中には一定の方向性がある。そんな中を、人々は健気に生きている。添さんの施設を手伝うようになってからは、尋もそんな中に紛れることが出来たと、少しホットはしていた。が、この始末である。ここから先、邪魔が入らずに暮らせる日々は訪れるだろうか。いや、こんな風に踏み出してしまったのは、そもそもが自身の好奇心のせいなのかも知れない。車内の喧噪を掻き消すかのように、尋は人々の声よりも車輪の軋む音に集中した。


 通勤通学の時間が終わったのか、車内は次第に空きだした。尋は空いてる席の一番端に座って、再びうとうとし出した。鈍行特有の駅に止まる度にドアが開くと冷たい空気が入り込む感じで、尋は時折目を覚ましたが、そのうち熟睡してしまった。それからどれくらい揺られただろうか。車内に入ってくる風に潮の香りが混じりだした。

「海・・。」

そう呟きながら尋が眼を開くと、車窓の向こうには一面の海が広がっていた。背中側からは温かい日差しが当たり、車内の暖房と相まって暑いぐらいだった。

「日本海・・かあ。」

それから程なくして、列車は終点に到着した。火照った体も下車と同時に吹き付ける海風で一気に冷めた。駅舎を出る頃には日はすっかり高くなっていた。

「さて、何処へいこうか・・。」

こんなに当てもなく彷徨うのは初めてのことだった。ただただ歩いて、目に止まったものを楽しんでみようか。そう思いながらしばらくいくと、民家の軒には魚の干した物が幾つも吊り下げられていた。日と風に煽られ、辺りは魚の香ばしい空気が漂っていた。

「波止場だ。」

民家の間の細い路地を抜けると、漁船が何艘も並ぶ波止場に出た。その辺りまで来ると風は優しく、冬だというのに波も穏やかだった。岸壁の段差の所には猫が数匹横になって日向ぼっこをしていた。尋は近くにある自販機で缶コーヒーを買うと、猫の近くに腰を下ろした。

「長閑だなあ・・。」

そういいながら、尋が缶を開けると、猫たちが一斉にこちらを向いて近づいてきた。

「いや、キミたちの餌じゃ無いから。」

そういってみた所で、猫に言葉が通じる訳でも無く、たちまち尋は猫に囲まれた。膝に乗ろうとするもの、足首辺りに頭をこすりつけようとするもの、みんな思い思いに彼に甘えた。少し困惑しながらも猫たちと戯れていると、

「見かけん顔じゃね。何処から来なすった?。」

と、一人の老婆が話しかけてきた。

「あ、はい。西です。」

「おお、そうかね。旅でもしなすっとるですか?。」

「いえ、まあ、そのようなもんです・・。」

そうこう話しているうちに、猫たちは老婆の方に寄っていった。そして、

「此処いらの猫は、他所の人には懐かんのじゃが、アンタ、よう猫にもてなさる。」

そういって、猫の頭を撫でながらニコッと微笑んだ。尋は少し照れながらコーヒーを飲み干した。すると、老婆がたずねた。

「ところで、昼飯は済みなさったかの?。」

「いえ、まだです。」

「そりゃあ、丁度ええ。うちはすぐ近くじゃで、お昼食べていきんさい。」

尋は見ず知らずの方からの突然の申し出に戸惑った。一度は断ったが、遠慮せずに是非とのことで折角だからと、お邪魔することにした。老婆のうちは、そこから歩いて数分の所にあった。初めは付いてきてた猫たちも、やがて三々五々に散っていった。

「ガラガラガラ。」

古い木戸を開けると、

「爺さん、今帰ったで。お客さんじゃよ。」

そういって老婆は尋を中へ誘った。家の中は温かく、こたつには明るい窓を背にした老人が一人、横になって入っていた。

「こんにちは。お邪魔します。」

「ああ、いらっしゃい。」

そういうと、老人は座り治してお辞儀をした。

「西の方から来なすったと。」

「ほー。そりゃまた遠くから・・。」

そういうと、老人は尋に蜜柑を差し出した。

「よかったら食べなされ。」

「あ、有り難う御座います。」

尋は座って蜜柑を頂いた。横に張り出た楕円形のそれは、剥くと柑橘系の爽やかな香りがした。

「頂きます。」

一房を口に入れた途端、最初は酸味が、次に凄い甘みが口いっぱいに広がった。

「美味しっ!。」

尋は思わず漏らした。老人はにこやかにその様子を見ていた。そして、いつの間にか老婆がいなくなったかと思ったら、

「はい、お待ち遠様。」

といいながら鍋を持って来た。そして尋の分の茶碗と箸を持ってきて、お櫃からご飯を山盛りよそった。そして鍋の蓋を開けると、部屋中に温かい湯気が立ちこめた。

「うわーっ。」

中には大きな鯛の頭と骨が見えた。老婆はお椀に身の部分と野菜をよそって尋に差し出した。

「ささ、食べなされ。」

何とも贅沢なあら炊きだった。

「有り難う御座います。頂きます。」

尋はお椀の汁を口にした途端、ビックリした。これほど魚の旨味が出るものだろうかと。立て続けに尋はご飯を口いっぱいに頬張った。老婆と老人は尋の様子をニコニコと眺めながらゆっくりと食べ始めた。あまりの美味しさと自身の食べる勢いに思わず喋るのを忘れていた尋は、

「あ、もの凄く美味しいです。」

と感想を述べた。二人は相変わらずニコニコしながら尋の様子を眺めつつ、老婆が、

「それは良かった。遠慮せんと、どんどん食べなせ。」

そういって食事を続けた。やがて食事を終えると、

「すみません。どうもご馳走様でした。」

そういって、何かお手伝いでもさせてもらえないかと尋は申し出たが、

「いいや、何も何も。ゆっくりしていきなせ。」

老婆は尋に優しく語った。老人も黙って二度ほど頷いた。そんな風に絆されて、尋は少しの間、此処に留まろうと思った。


 食後のこたつは、まるで包み込むかのように尋をうとうととさせた。そしていつの間にか尋はお膳に突っ伏して眠ってしまった。そして、暫くして尋がハッと気がつくと、背中には温かい半纏が掛けられていた。

「温かい心遣いだなあ・・。」

尋はしみじみと感謝の念が湧いた。ふと見ると、老人もこたつに入ったまま横になっていた。すると老婆が台所の方から現れて、

「起きなすったかえ?。さぞお疲れじゃったんじゃろ。ゆっくりしとりゃええからの。」

と、優しく声をかけてくれた。

「すいません。有り難う御座います。」

尋は度々、礼をいった。

「ところで、この後は当ては、おありかいの?。」

老婆が訪ねた。

「いえ、ゆっくりと西へ戻ろうかと・・。」

「そうかいの。それじゃあ、ゆっくりしていきなせ。」

二人が話していると、老人は目を覚ましたようだった。そして、

「何も無い漁師町やけど、魚ならたんとおるけえ、良かったら釣りにでもいくか?。」

と、尋を誘ってくれた。

「え?、いいんですか?。」

「ああ。引退して大きな船は手放したけんど、小舟ならあるで。それで晩飯のおかずでも釣りにいこうや。」

そういうと、老人は尋に防寒具を差し出して、早速二人して波止場まで出かけた。大きな漁船が何艘も止めてある隅っこの方に、小舟が何艘が係留してあった。すると老人はひょいと身軽に船に飛び移り、船縁と堤防に足をかけて船を安定させた。そして尋の手を引いて船に乗せた。そして、結わえてあったロープを手早く解いて船内にしまい込んだ。老人は艫(とも)の方に座ってエンジンをかけた。

「ブロロロ・・・。」

けたたましくエンジン音が鳴りながら、老人の操る小舟は一気に外海へと出て行った。午後の薙いだ潮風は少し肌寒かったが、尋には心地良かった。

「さ、この辺りでええじゃろ。」

そういうと老人は船を止めて、積んであった竿を一つ尋に差し出した。仕掛けはすでに巻き付けてあって、そのまま糸を垂らせばすぐに釣れる状態だった。

「餌は・・、」

と思ったところに、老人はポケットから小さなタッパーを取り出し、

「飯の残りじゃ。これをこうして海に撒くとな、ほれ・・。」

といって、老人は米粒を海面に巻くと、途端に小魚が寄ってきた。すると老人は積んであったたも網で、

「ほれっ。」

といって小魚を掬い上げた。

「この辺りは魚影が濃いでの。」

一網で十数匹の小魚が入っていた。老人はバケツに海水を汲むと、その魚をザッと入れた。そして、

「針をこうして掛けて、そのまま放り込む。」

そういって、自身も竿を持って、尋にやって見せた。尋もいわれるがままにバケツから小魚を取りだし、針に掛けて海に落とした。すると、

「わっ、引いてる!。」

僅か数秒の間で竿先が一気に海へ持っていかれそうになった。尋はゆっくりと竿を立てて、倒しながらリールを巻いた。その動作を何回か繰り返すと、

「わっ、来た!。」

尋がそういうと、老人はたも網をサッと取りだし、尋の釣った魚を掬って船内に上げた。

「ほほお、鯛じゃの。」

老人は眼を細めた。勢い良く船内で踊る鯛を老人は片手でサッと持ち上げた、そして、仕掛けから外すと素早く絞めて、クーラーボックスに入れた。程なくして、

「お?、ワシのも来とる。」

といって、老人もリールを巻き上げた。

「なーんじゃ、ウマヅラかあ。」

そういって、顔の長いグレーの魚を釣り上げて、先ほどと同じようにクーラーボックスに入れた。そして、老人は尋の方を見て、

「アンタ、なかなかの竿裁きじゃの。ハハ。どーれ、ワシも。」

といって、二人は小一時間ほど釣りを楽しんだ。あっという間にクーラーボックスは魚でいっぱいになった。

「こんだけ釣れりゃー十分じゃ。さて、引き上げるかの。」

そういって、小舟は波止場に戻った。岸壁に着くと、昼に日向ぼっこをしてた猫たちが集まってきた。老人は再び船を係留し、先に尋を岸に上げて、そして自分も上がった。

「ほれ、待っとったか。よしよし。」

そういって、バケツに残った小魚を猫たちに分け与えた。

「ニャー、ニャー。」

猫たちは思い思いに魚を咥えると、少しずつ距離を置いて小魚を食べ出した。そんな様子を微笑ましく眺めていると、老人はクーラーボックスをひょいと肩に担いでスタスタと家の方へ向かった。

「あ、ボクが持ちます。」

「いや、何の何の。」

そういって、老人は尋の申し出をにこやかに断った。そうして、岸壁沿いに歩いていると、

「おお、爺さん。船出しとったんかい?。珍しいのぉ。」

と、波止場で作業をしている漁師風の男性にたずねられた。

「ああ。客人じゃよ。」

というので、尋はその男性に会釈した。

「見ん顔じゃね。何処から来なすったと?。」

「西です。」

「そうかえ、そうかえ。」

そういって、尋の顔を見ながらにこやかに頷いた。そして、

「何にしても、爺さんがまた船出せて、良かったわい。」

男性は少し嬉しそうにしながら、再び自身の作業に戻った。尋はその言葉が少し気にかかったが、歳の割に足早な老人との距離がどんどん離れていくのに気づいて、慌てて駆けていった。


 先に老人は家に着くと、戸を開けると同時に、

「帰ったぞお。」

と一声かけた。遅れて尋も到着した。すると老婆が出迎えに来て、

「ありゃ。こんなに魚が。」

と、クーラーボックスいっぱいの魚を見て驚いた。

「波止場から釣ったんかいの?。」

「いえ、船で・・。」

尋がそういうと、老婆はまた驚いた様子で老人を見た。先ほどの男性のいった通り、老人が船を出すのはかなり久しいことが窺えた。

「いやあ、天気も良かったで、なあ。」

そういうと、老人は靴を脱いで部屋へ上がっていった。

「あ、ボクが持ちます。」

尋はそういって、クーラーボックスを台所まで運んだ。いっぱいの魚に老婆は少し困惑したようだった。いつもは二人だけの食事で、これほどの量は食べないのだろう。「あん人、よっぽど機嫌よかったんじゃろなあ。」

そういいながら、老婆は魚の下処理にかかった。

「ボクも手伝います。」

「そうかえ。すまんのお。」

尋は今日食べるであろう分の魚だけを台所に残し、他はラップに包んで冷蔵庫にしまった。老婆は鯛を捌こうとしたが、殊の外大きい鯛だったので、尋が代わりに鱗を丁寧に取って、捌き始めた。

「ほう、なかなか上手じゃね。アンタ、浜育ちかいの?。」

老婆は尋の手つきを見て感心した。

「いえ、一人暮らしなもんで、たまに自分で作るんです。」

そういって、尋はみるみるうちに一匹の鯛を三枚に下ろし、身とあらに切り分けて、刺身を作った。老婆はあら炊きの用意をした。

「また今日もあら炊きが楽しめる・・。」

尋は密かに思った。そして、捌いた鯛がメスだったので、先ほど取り出した内臓から卵巣を分けておいて、

「すみません。そこの小さな鍋をお借りします。」

といって、卵巣から手際良く血合いと膜を取ると、酒と醤油と調味料を入れてそれを煮た。暫くすると卵は程よく色づいた。尋はそれを冷水で冷まして、先ほど切り分けた身の残りを煮汁に浸した後、軽く拭き取って、解した卵をまぶした。

「ほー。こりゃ、小料理屋でも開けるのお。」

老婆はほとほと感心した。尋は他にも小魚を捌いて開きにすると、塩胡椒をまぶして、冷蔵庫にあったマーガリンをフライパンに敷いてソテーにした。お年寄りの口に合うように、味付けは控えめにしておいた。小一時間ほどで老人二人と尋一人で食べるには十分すぎるぐらいの料理が出来上がった。日は傾いていたが、漁師町の夕食はこのぐらいの時間だろうかと尋が思っていると、

「おーい、おるかー?。」

と、先ほど波止場であった男性が瓶を片手にやって来た。

「おや、留(とめ)さん、どうしたと?。」

「いや、客人やって聞いたし、爺さんも船乗っとったって聞いたんでな。」

そういって、恵美須顔で上がり込んできた。

「丁度ええわ。今、こん人が都会風な料理、たんと作ってくれたんよ。」

「いえ、一人もんの普通の料理です。」

そういって老婆と尋は、料理を次から次とお膳に運んだ。

「ほー。こりゃ豪勢じゃわい。」

「いやあ、ほんにのお。」

男性はいつの間にか老人の横に腰を下ろし、二人で晩酌を始めていた。老婆と尋がお櫃と鍋も持って来て、ちょっとした酒盛りが始まった。尋は両手を合わせ、

「頂きます。」

といって刺身とご飯を食べた。みんなは尋が作ったソテーを食べながら、

「おー、こりゃ美味いわ。酒が進むなあ。」

と、留さんは特に上機嫌にパクパク食べては酒を呷った。そして、

「じゃが、もうちょっと塩気がのお・・。」

といって、塩をこれでもかというぐらいに振った。それを見た老婆が、

「あんまりかけると、また血圧が・・。」

と軽く諫めたが、美味い美味いといって聞こうとはしなかった。そして、

「お若いの、アンタもどうや?。」

といって、湯吞み茶碗に酒を注いで尋に差し出した。尋は酒は苦手だったが、折角の雰囲気だったので、

「じゃあ、少し頂きます。」

そういって、一口つけた。久しぶりの酒は、喉元から胃の辺りにかけてクッと来た。その様子を見て留さんは、

「なーん、男じゃったら、一気にいかんかい。」

そういって、尋の肩をバンと叩いた。零れそうになった茶碗を持ち直して、尋は、

「はあ。」

といって、一気に飲んだ。

「おー、ええ飲みっぷりや。ささ、もう一杯。」

空かさず留さんは二杯目を注いだ。すると老婆が、

「無理せんと、ゆっくり飲みゃええで。な。」

と、留さんを宥めた。そんな具合に、みんな和気藹々と酒盛りは進んだが、しばらくして、

「もう、かれこれ七年は経つかのお・・。」

と、留さんが仏壇の上に飾ってある遺影を見つめていい出した。老人と老婆は楽しそうにしていたが、少し、しんみりとした感じになった。

「ワシと竜(たっ)ちゃんとは幼馴染みでなあ。一緒に漁師しとったんじゃが、七年前の時化の日に、船から落ちて居のうなってなあ・・。それからというもん、爺さんもすっかり海に出んようになってたんやが、今日、アンタと爺さんが船から上がるのを見て、何かこー、嬉しゅうなってなあ。」

留さんはそういいながら爺さんの方を見て、また酒を呷った。


 尋は見ず知らずの自分のために、老人夫妻が妙に優しく気遣ってくれるのを不思議には思っていた。この辺りの漁村の人達の素朴さなのかなと思ったが、どうやら自身のことを、海で亡くなられた息子さんに重ねてて見ているのだということに気づいた。尋は何ともいえない気持ちになり、この和やかな雰囲気に包まれるがままに浸ろうと思った。そして、尋もゆっくりとではあったが、気がつけば結構酒が進んで、少し体が熱くなった。

「すいません。ちょっと涼んできます。」

そういって、尋は中座して表に出た。緩やかに進む漁村の時の流れは本当に心地良かった。玄関を出て空を見上げると、満天の星空だった。

「あ、そうだ・・。」

しかし、此処に着くまでには、予想だにしなかった拉致もあった。そして、そんなことや、今、尋がこうして寛いでいることなど、添さんは知る由も無かった。そのことに急に気づいた尋は、添さんに携帯をかけた。

「プルルル、プルルル。」

流石に夕暮れの海風は僅かでも寒かった。

「もしもし、添です。尋さん?。」

「もしもし、すみません。急に変なことになっちゃって。」

「いいのよ。それより、大丈夫?。」

「はい。色々ありましたけど、今はちょっとのんびりしてます。」

「そう。はーっ、それなら良かった。うん。うん・・。」

添さんは尋がよろしくない状況に巻き込まれているのを心配しつつ、それでも何とか無事でいるとの知らせに安堵したようだった。

「あの、ボクも急に運ばれちゃったので、急いで帰らなきゃと思ってるんですが、」

と尋がいうと、

「ううん。兎に角、今はそっちでゆっくりしてたらいいわ。雫さんも手伝ってくれてるし、こっちは大丈夫だから。本当に、ゆっくりで、ね。」

添さんは、これまでのことを労う意味でも、休暇がてら、尋に休むように伝えた。

「解りました。じゃあ、お言葉に甘えて、もう少しだけ休んで、戻りますね。必ず。」

「うん、解った。くれぐれも気をつけてね。」

「はい。では。」

すっかり冷えた体を竦めながら、尋は玄関付近に戻ったそのとき、

「おい、しっかりせえやっ!。おい!。」

中から老婆の大きな声が聞こえた。

「おえ、竜よ!。おえ!。」

老人も叫んでいた。尋は靴を脱ぐと慌てて部屋に入った。

「おお、あんた。竜がえらいこっちゃで!。」

見ると、竜さんが仰向けになったまま、真っ青な顔で口を開いていた。

「そやから、そげん飲んじゃいかんって・・。」

老夫婦は竜さんを揺すったが、全く反応が無かった。尋は手首や首元を指で軽く押さえて、脈を調べた。

「止まってる・・。」

竜さんの心臓は、既に機能していなかった。

「きゅ、救急車じゃ!。」

老人がそういって、慌てて老婆に電話するように促した。しかし、

「ちょっと待って下さい。」

尋は二人を止めた。そして、竜さんが仰向けになっている少し上の方を凝視した。

「消えかかっている・・。」

以前にも何度か見た、あの立方体が途切れた状態で、青い光を失おうとしていた。すると尋は、

「あの、お二人とも、少しの間、あちらの部屋へいってて下さい。ボクが何とかしてみます。」

そういって、おろおろする二人を隣の部屋へやり、襖を閉めた。そして、上着の右ポケットから例の楕円形の物体を取りだし、穴に口を当てて息を吹き込んだ。

「ブォーッ!。」

と、その途端、竜さんの顔に見る見る血色が戻った。そして、

「うーん・・。」

と唸りながら、竜さんは目を覚ました。

「おろ?。此処はどこじゃ?。」

といいながら起き上がって尋を見た。

「竜さん、大丈夫ですか?。」

「おお、アンタか。いやー、驚いたわい。三途の川の向こうで、銀の龍が手招きしちょったわい。ありゃ、夢やったんかいの・・。」

尋はホッとした表情になった。そして、

「竜さん、飲み過ぎですよ。」

そういうと、襖の所へいき、

「竜さんが気づきましたよ。」

と、襖を開けて二人を呼び戻した。

「おお、竜よ!。無事やったんか!。」

「ほんに、竜ちゃん、よかったよー!。」

二人は竜さんの肩を叩いて涙した。それを見た竜さんは、

「いやあ、何か解らんが、この人が呼び戻してくれたみたいじゃのお。有り難うよ。ほれ、お礼にもう一杯・・。」

と、竜さんはまた茶碗に酒を注ごうとしたが、

「もうやめときんしゃい。今日はもう・・。」

老婆が強い口調で制止した。竜さんも少し反省したように、

「はは、そうじゃの。またひっくり返ったら、申し訳無いけんの。」

そういいながら、頭をかいた。そして、その後四人は魚料理で盛り上がった。お酒は控えながら。

「じゃ、わしゃ、そろそろ帰るわ。」

そういって、竜さんは上機嫌で帰っていった。そして、尋は老婆と一緒に後片付けをした。すると、台所で老婆がいった。

「アンタは竜の命の恩人じゃ。ほんに、すまんかったのお。有り難うよ・・。」

「いえ、ボクは何も・・。」

と、尋は何事も無かったかのように応えた。老婆は、

「きっと、あの音(ね)じゃろう。竜を呼び戻したんは。でも、ワシらには聞こえんかった・・。な?。」

そういって、台所の後ろの方を通ろうとした老人に呼びかけた。

「あ、ああ。何も聞こえなんだ。何も。」

そういいながら、老人は洗面所の方へいった。不思議な会話だった。音のことは解っていたのに、二人はそのことに敢えて触れまいとした。尋はこの妙な気遣いを不思議に思いつつも、そのことに感謝した。


 いつもの尋の感覚ならば、まだ夜は浅い時間だった。しかし、漁師町の夜は早い。

「さて、ぼちぼち寝るかな。」

そういうと、老人は布団を三つ敷いた。尋がそこまで甘える訳にはというと、

「どうせこんな時間に宿なんかありゃせんで。それよりは、ここへ泊まった方が早かろ?。」

まるでそれが当然であるかのような口ぶりで老人はいった。尋は重ね重ね礼をいったが、

「何も何も。」

と、老人は淡々と答えた。

「明日は早いけん、よう寝ちょり。」

そういうと、老夫婦はそそくさと布団に潜って灯りを消した。尋もいつもなら寝付けない時間ではあったが、ここに至るまでにいろいろあり過ぎた疲れが一気に出たらしく、布団に潜るなり、泥のように眠った。そして、尋は夢を見た。そこには海岸で見た一匹の猫が座っていた。みんなが小魚をねだって擦り寄ってくる中、明らかに年老いた猫だけが遠巻きに見ながら、最後に小魚を一つだけ貰って、直ぐさま離れた所で食べ出した。その時の猫がまた夢の中に現れた。尋はその猫に近づき、

「何故此処の人達は、あの音のことを知っているの?。」

と、まるでその猫が知っているかのようにたずねた。すると猫は前脚で顔を撫でながら、

「あれはこの辺りじゃ、龍の土笛っちゅうてな。御霊を呼び戻す音が鳴るっちゅういい伝えがあるんじゃ。じゃが、その音は、どんな御霊も引き寄せてしまう。じゃから、決して海で吹くじゃ無えぞ。もし吹けば、無惨なものを見ることになる・・。」

そういって、再び前脚で顔を撫でた。尋はハッとした。老夫婦の亡くなった息子さんも、ひょっとするとこの楕円形の物体で再び蘇らせることが出来るかも知れないという考えが、チラッと過ったからだった。しかし、尋がこれまでにその物体を使ったときは、必ずそこに亡くなりそうな人が、今にも命の灯りが消えそうになりつつ、体が残っていた。もし、体の無いまま、これを使ってしまったら、どうなってしまうのだろうかと、尋は想像してみただけで身の毛がよだった。

「器無き御霊は、死ぬよりも辛い彷徨いに晒される。決して海で吹くでないぞ。」

老いた猫はそういうと、尋の足元から静かに消えていった。

「・・・あ、」

そう、小さい声を上げながら、尋は目覚めた。ふと横を見ると、老人は既に布団にはいなかった。そして、

「おーい、ぼちぼち出かけるぞえ。」

そういいながら尋を起こして、まだ暗いうちから昨日の小舟で漁に出た。

「朝の海は寒いで、ほれ、これ着とけや。」

そういって、老人は尋に厚手のジャンパーを渡した。そして少し沖にいくと、白いブイが浮かんでいて、

「よし、引き上げるぞえ。」

というと、老人はブイの下に着いているロープを手繰り寄せた。その先には罠が仕掛けてあった。籠状の小さな罠を船内に引き上げると、中には小魚や蟹、そして伊勢エビも入っていた。

「おお、こりゃ大量じゃ!。」

老人と尋は上気した。それをトロ箱にあけると再び籠を沈めて、次の籠を引き上げた。尋も一つ目の籠の時と同様に、見よう見まねで手伝った。

「またまた大量じゃ!。」

上げる籠上げる籠、全てに驚くほどの獲物がかかっていた。これだけの量は、流石に三人では食べきれない。老人は、

「こりゃ、しゃあ無いけん、取り敢えずは全部引き上げて、漁協に持っていくかいのお・・。」

そういうと、残りの籠も全部引き上げて、山盛りになった獲物を積んだ小舟は漁協のある岸壁の方に向かった。そろそろ海の向こうの方も白んできた。と、そのとき、

「お?。ありゃ何じゃ?。」

老人が不思議そうに岸壁付近に目をやった。尋もその方向を見た。すると、如何にもこの辺りには似つかわしくない車が何台も止まっていた。黒塗りの車体のシルバーの車体。少なくとも二つの集団が来ているような雰囲気だった。尋は嫌な予感がした。

「まさか・・。」

尋の予感は当たっていた。昨日、添さんに電話をしたことで、居場所を知られたようだった。

「お爺さん、すいません。この辺りでは無い、何処か他の所でボクを下ろしてくれませんか?。」

尋は老人にいった。その様子を察したかのように老人は、

「・・そうか。よし、解ったけん。一旦沖へ出るぞ。」

そういうと、老人は起用に小舟を操り、近くにある島影をすり抜けて、小一時間ほど走った。そして、隣町らしき場所にまでやってくると、

「うん、この辺りなら大丈夫じゃろう。」

そういって、人気の無い磯に小舟を着けて、尋を下ろした。

「こっから五分ほどいけば駅はある。気いつけてな。」

「はい。いろいろすみません。お礼も出来ずに。」

そういって尋はジャンパーを返そうとしたが、

「まだ寒いけん、もってけ。それはワシの息子のもんじゃ。それと、竜のこと、ほんに有り難うよ。」

そういって老人はにこやかに右手を振りながら、再び小舟で帰っていった。


 足元に気をつけながら磯を小走りで渡ると、尋は岸壁に上がって人気の無い民家の間を縫って歩いた。

「それにしても、たった一回の通話で居所まで突きとめるとは・・。」

尋は彼らのいずれもが並外れた操作能力を持っていることにあらためて驚いた。それにしても、自分のことを追ってきた彼らがあの組織や公安の者達であったとしても、彼らの望は聞き届けたはずである。なのに、何故今更、自分を追ってくる必要があるのだろうか。

「やはり、このような現象をもたらす力を欲しているのだろうか・・。」

そう考えながら、尋は自身の上着のポケットから例の楕円形の物体を取り出して、しげしげと眺めた。何の変哲も無い素焼きの笛ともつかない物にしか見えなかった。しかし、それが人の命を蘇らせることの出来る音を奏でる。本来、人間が成すことの出来ない力が、これにはある。そしてそれは、万人が求めるであろう力なのはいうまでも無い。その重みは計り知れない。それ以上の想像は、尋の心を寒くした。再びポケットにそれをしまおうとしたそのとき、

「ニャー、ニャー。」

と、横にあった小さな小屋の裏辺りで子猫が鳴いているらしかった。

「漁村といいえば、やっぱり猫か・・。」

尋はそう思いながら、小屋の裏にある茂みの方へ進んだ。鳴き声は仕出しに大きくなっていった。そして、声のする辺りの枯れ草をかき分けてみると、一匹の子猫が母猫のお腹辺りを探りながら、しきりに鳴いていた。

「ニャー、ニャー。」

授乳中かなと尋は思ったが、それにしても母猫の様子が少しおかしい。頭を擡げることも、子猫を舐めることも無く、ただただ横になっていた。脇腹の辺りの様子から、呼吸が浅いのも窺えた。

「あれ?、弱ってるのかな?。」

尋は子猫に気遣いながら、母猫の頭やお腹をそっと撫でてみた。しかし、驚いたり体を竦めたりする様子は全く無かった。そして、さらに呼吸は浅くなっていき、辛うじて動かそうとして力を入れていたであろう筋肉が、だらりと緩んだ。

「ニャー。」

子猫の心配そうな鳴き声に、尋はたまらなくなった。そして、母猫の頭上辺りを凝視してみた。

「あ、途切れる・・。」

例の立方体が微かに並んでいて、それが途切れそうになるのが見えた。人間のものでは無かったせいか、以前に見たものよりはずっと小さく、そして、見たことの無いような色の光りを放っていた。が、それも次第に弱くなっていった。

「猫にも使えるのかな?。」

やがて親猫の呼吸は止まった。そのことを確認すると、尋は手にした楕円形の物体に軽く息を吹き込んだ。

「ヒューッ。」

見えたキューブの小ささから察するに、吹く音も、このぐらいが適当ではないか。尋はそう判断した。すると、息絶えたはずの母猫の体が光ったかと思うと、

「フーッ!。」

と威嚇音と立てて四本の足をピンと伸ばした。そして頭を擡げながら尋の方を見た。

「ニャー、ニャー。」

子猫は喜んで母猫の胸元に潜った。そして、母猫は尋から視線を逸らすと、子猫の背中をペロペロと舐めながら毛繕いを始めて、優しい顔になった。その様子を見届けて、

「よかったのかな・・、これで。」

と呟きながら、尋がその場を後にしようとしたそのとき、

「ありがとう。」

確かにそう聞こえた。しかし、周りには猫の親子以外、誰もいなかった。尋はハッと思って母猫を見た。しかし、母猫は相変わらず子猫の毛繕いをしていた。しかし、ふとその動きを止めると、母猫は尋の方を真っ直ぐ見つめた。

「燦(さん)の積石が見えないなら、吹いてはだめ。」

やはり聞こえた。間違いない。母猫が尋に直接、念を送っているようだった。

「燦の石・・。ひょっとして、あの立方体のことか?。」

尋は何となく気づいた。あの石が、あの光景が、生命の繋がりも、そして終わりも示してはいるだろうことは解っていたが、ただ見えるだけでは無い。見えていないこともあるんだと。いや、寧ろ、見えない方が普通であって、見え方の差異など、尋には解りようも無かった。しかし尋は、ふと思い出した。

「これを吹いたとき、その全てで、果たして、その燦の石とやらが見えていただろうか・・。」

彼が携わった蘇生の行為は、全てが上手くはいった。しかし、明らかにその石を見届けずに吹いたこともあった。二回・・。

「あれは、見えていなかったんだろうか?。それとも・・。」

母猫の教えに感謝しつつも、自身の行為に落ち度があったのではと、尋は急に気がかりになった。


 蘇った母猫に甘えて、子猫はすっかりお腹の辺りで丸くなって眠った。

「健やかに育つといいね。」

尋は母猫にそういうと、そっとその場を後にした。それにしてもこの辺りは全く寂れてしまっていた。さっきまでいた漁村は、鄙びた感じこそあったが、人々の暮らしぶりが何処となく窺えた。しかし、此処は違う。まるで急に人がいなくなってしまったかのような静寂に包まれていた。尋は周囲を気にしながら道なりに歩いた。しばらくすると、雑草の茂った中に朽ちかけた小さなお堂があった。中にはお地蔵さんが祀られていたが、お供えなどは全く見当たらなかった。尋は両脇に積もった枯れ葉をどけて、少し綺礼にした。それから両手を合わせて拝んだ。

「出来ることならば、無事に添さんの所まで戻れますように・・。」

尋は何となく、そんなことを願った。そして、そこから立ち去ろうとしたとき、お堂の左隅に小さなものが見え隠れするのが見えた。

「また猫かな・・?。」

尋はそう思いながら覗き込んでみた。するとそこには、小さくて黒い何者かが蹲っていた。

「まさか・・、」

そのまさかだった。以前に出会った、あの黒い何者かだった。そして、その何者かは顔無き顔を尋の方に向けて、

「あの母猫は、ワシの獲物じゃったのに!。」

と、無念の声を上げた。尋は立ち尽くした。こんな所でも出会おうとは。尋は自身が楕円の物体を吹くときは、同時に彼らの邪魔をすることであることは解っていた。そのことを申し訳無くは思いつつも、やはり消えゆく命を目の当たりにしたときには、何かをせずにはいられない。その矛盾が生じる度に、彼らとは対峙するより他は無い。そんな風に考えていると、その黒い何者かは諦めたように肩を落とした。そして、

「お前、この村が何故こうなったか、知っておるか?。」

と、尋にたずねた。勿論、今日初めて訪れるこの場所のことを何も知る由は無かった。すると、

「哀れよのう。時の定めに抗った者共の末路じゃよ。」

そういって、黒い何者かは不敵な笑みを浮かべた。尋は直感した。

「ひょっとして、ボクと同じようなことをした者が、此処にもいたってことか・・。」

と、そのとき、さっきまで静まりかえっていたお堂のお地蔵さんの背後から眩しいばかりの光が放たれた。

「うっ。くそっ。」

黒い何者かは顔を覆って悶えた。尋もあまりの眩しさに目を細めた。

「後光・・か?。」

尋は薄目でお地蔵様の方を見た。その光はまるで尋を包み込むように広がり、その外側に黒い何者かを追いやった。

「全く・・。ついておるのお、お前は。」

そういうと、黒い何者かは解けるように地面の中へ消えていった。と同時に、その光は止み、辺りは元の光景に戻った。尋は少し嫌な汗を掻いていた。しかし、老人がくれた上着と、このお地蔵さんが尋を守ってくれた。尋は再びお堂の前に立ち、

「どうも有り難う御座いました。」

と、手を合わせてお礼をいった。あの黒い何者かがいっていたように、この辺りの村は何か定めに抗うようなことをしたのか。もしそうなら、やがては自分も同じ運命を辿るのか。迷いが生じた。そして、ふとお地蔵さんを見ると、

「微笑んでいる・・!。」

確かに尋にはそう見えた。最初に見た物いわぬ石像とは明らかに違っていた。

「自分の信ずるままに・・。そういうことですね?。解りました。」

尋はそういうと、両手に力を込めてお地蔵さんを拝んだ。そしてお堂を後にすると、ひたすら歩いて、線路を見つけた。そして、程なくして駅に着くと、辺りに誰もいないのを確認し、切符を買って改札を潜った。時刻表には、疎らな数字が並んでいるだけだった。単線の駅。売店も何も無かった。ホームは海からの風が吹き曝しで、如何にも寒そうだった。

「凍えながら待つしか無いか・・。」

そう思ってふと改札の横を見ると、小さな待合室があった。中には小さいが、ストーブも焚かれていた。

「有り難い!。」

尋は引き戸を開けて中に入った。そして、椅子に腰掛けながら両手をストーブにかざした。暫く暖まっていると、急にお腹が空いていることに気づいた。

「この辺りには何も無さそうだし、参ったなあ・・。」

そう思いながら、老人から貰った上着の両ポケットに手を突っ込んだそのとき、

「あれ?。」

左のポケットの奥に、何かが手に当たるのを感じた。尋はそれをそっと取り出してみた。

「お握り・・。」

それは、老人が尋に上着を渡す際、こっそりと忍ばせておいたものらしかった。ラップで包まれたお握りを剥くと、尋は齧り付いた。中には梅干しが入っていた。

「有り難いなあ・・。」

尋は目頭が熱くなった。それを食べ終えると、尋は途端に眠くなって微睡んだ。そして、束の間の夢を見た。それは、さっき通ってきた、廃墟らしかった。


 尋はその漁村のとある通りに立っていた。見渡すと辺りは夜らしく、家々に明かりが灯っていた。尋は通りに沿って歩みを進めた。暫くすると、左の方にある民家に人が集まっているらしかった。開けっぴろげな状態のその家は、外からでも様子が窺えた。尋も何気に通りから中を覗いてみた。すると、

「おーっ!。」

中から一斉に歓喜の声が上がった。

「蘇ったぞーっ!。」

「ほんに、蘇ったぞっ!。」

見ると、布団に横たわっていた人物の周りを人々が囲んでいた。そして、さっきまで寝ていた人が、体を擡げているところだった。その枕元には、一人の少年が座っていた。そして、その少年の手には、

「あっ!。」

尋が目にしたのは、あの楕円形の物体だった。人々は少年の肩を叩いて褒めそやした。

「おお、奇跡じゃ!。」

そして、一人の大人がその少年を肩車すると、みんなも伴って担ぎ上げた。そして、

「よーし、次じゃ、次っ!。」

少年を高く頂いた人々が家からぞろぞろ出て来ると、次の家に向かった。尋もその集団の後についていった。そして、次の家に集団が入っていき、暫くすると、

「ブォーッ!。」

例の物体の音が家の中から響いた。そして次の瞬間、

「おーっ!。」

と、また歓声が上がった。

「蘇生の瞬間。」

尋はすぐに悟った。そして、人々はまた少年を担ぎ上げて、別の家に向かっていった。そんなことを何軒繰り返しただろうか。やがて集団は驚喜し、

「よーし、墓場じゃ墓場じゃ!。」

といいながら、小高い丘の上にある墓場に向かった。少年は戸惑い、拒んだ表情をしていたが、人々はお構いなしだった。そして、

「ぼうず、此処で吹いてくれや。」

と一人の大人が頼んだが、少年は首を横に振った。頑なな少年に業を煮やした大人達は、無理矢理に少年の手から楕円形の物体を奪った。そして、

「オレが吹く!。」

「いや、オレが吹く!。」

と、我先に物体を奪い合い、揉み合いの末、手にした一人の大人が、

「ブォーッ!。」

と物体を吹いた。すると、

「ゴオオオオオッ!。」

と地鳴りがしたかと思うと、墓石や卒塔婆の下辺りの土が次々に盛り上がった。そして、土を割って現れたのは、いくつもの黒い何者かにも纏わり付かれた骸骨だった。

「オノレ、安ラカナル眠リヲ邪魔シオッテ!。」

骸骨は口々にそういうと、足音も立てずに集団に忍び寄り、瞬く間に取り囲んだ。そして、

「貰ウゾッ!。」

というと、骸骨たちは集団の大人達から青白く光る立方体を吸い取っていった。そして、囲まれた大人達は次々に顔色を失い、その場に倒れていった。尋はその悍ましい光景を、墓石の影からただ呆然と立ち尽くしながら見ていた。そして、ふと右を見ると、さっきの少年が尋の右手を握っていた。尋は驚いて、思わず声を上げそうになった。すると少年は顔を上げて尋を見つめ、首を左右に振った。

「音を出すな。そういうことか。」

尋はそう心の中で呟くと、少年は黙って頷いた。そして、立方体を吸い取った骸骨達は一度は人間の姿に戻りかけた。が、しかし、纏わり付く黒い何者かがその血肉を貪るように剥ぎ取った。そして再び骸骨に戻ると、彼らは黒い何者かと共に土の中に消えていった。そして、屍の山と共に、墓場には静けさが戻った。それを見た尋が戦慄に固まっていると、少年は尋の手をグイッと引っ張った。そして、人差し指を尋の方に向けて、寂しそうに笑った。と、同時に、少年は尋の前から忽然と消えた。

「はっ!。」

冬だというのに、尋は汗びっしょりになって目覚めた。そして、上着のポケットに突っ込まれた右手には、例の物体が握られていた。そして、ポケットから手を出して、尋は体の各部を両手で確かめた。

「夢だったか・・。」

尋は安堵した。しかし、まだ鼓動は高鳴っていた。暫くして気持ちが落ち着くと、

「あの少年が伝えたかったことは、きっと・・、」

尋は何か思うところがあった。ハッキリとはしなかったが、ただ、自身の運命に纏わるようなものを彼に示唆されたようには感じた。今、自分が持っているこの物体。人知を超えた技を弄んだ代償が如何なるものか。尋は朧気に想像したことはあったが、かくも悲惨な末路に至ろうとは。だからこそ、本来は人の手に触れないようにされていたはずである。こんな物を正しく使うなんて、人間には無理な話だ。いや、そもそも使うこと自体、間違っている。なのに、何故それが自分の手にもたらされたのか。また、終わりの無い思考のループに嵌まりかけたが、今回はいつもとは違う。明らかに尋の行く末を暗示するビジョンが現れた。例えそれが夢であっても。すると、

「よーし、解った。それならそれでいい。でも、もし、ほんの少しでも変えることの出来る可能性があるのならば、それを確かめてから逝っても、遅くは無い。」

尋は、今自分がやろうとしていることが、最後に向かうまでのミッションであるだろう、そう受け止めた。やがて列車が到着し、すっかり汗も引いた尋は列車に乗り込み、後方に開いている席の隅っこに座って、今までよりは幾分力強く車窓を眺めた。日差しが尋の瞳を明るく照らしていた。


 恐らくは西に向かっているであろう列車を、尋は適当に幾つも乗り継いだ。鈍行での旅は極めてゆっくりだったが、それでもかなりの距離は移動していたようだった。「次の駅で降りよう。」

本当は一つ手前の駅が乗り継ぎの駅だったが、少し華やいだ様子に警戒した。追っ手に先回りされているかも知れないと思い、敢えて一つ先の駅で降りようと考えた。もうこの辺りからは海は全く見えなかった。車窓からは山間部に針葉樹が整然と植えられている光景が見えた。駅に着いて下車した尋は改札を潜り、辺りを見渡した。

「誰もいないな・・。」

列車からは同じく下車した人が二、三人ほどだった。みんなそれぞれに違う方向に向かっていった。尋も適当に進み出そうと思ったが、この辺りは海辺では無い。このまま山の中にいってしまっては、野宿も厳しいだろう。尋は駅員に、

「すみません、この辺りに宿は無いですか?。」

とたずねた。流石の駅員も腕組みをしながら、

「うーん、一つ前の駅なら、ビジネスホテルぐらいはあったと思いますけどね。」

と、なんとか思い出しながら述べた。尋は礼をいうと、仕方なく道なりに歩き出し、

「ヒッチハイクでもしながら、どこか適当なところで下ろして貰うか・・。」

そう考えた。海岸付近ならば、夜でも不思議と明るいが、山間部はそうはいかない。鬱蒼とした木々が、まるで尋を包み込むように夕暮れが迫った。引き返して駅舎にもどろうかと考えながらトボトボと歩いていると、前方から車のライトが見えた。尋は右手を突き出しながら親指を立てて振った。幸い、車は止まってくれた。

「どうしたね?、こんな時間に。」

如何にも山仕事を終えた風な軽トラの窓から男性がたずねた。

「すみません、どこか宿のある所をご存じ無いかなと。」

尋がそうたずねると、男性は、

「うーん、この辺りは民家ばかりやでのお。よっしゃ、うちへ来んさい。」

そういって、尋を助手席に乗せた。

「有り難う御座います。」

「かまわんよ。で、アンタ、どっから来なすったと?。」

「あ、はい。西です。」

「そうか、西かあ。」

気さくな男性は、尋にあれこれとたずねた。程なくして車は一軒の民家に着いた。

「さ、此処じゃけ。」

男性は車を降りると、尋を家へ誘った。民家の軒下には、猟で仕留めたと思われる動物の皮が板に張り付けられてあった。熊や猪、その他にも処理された小動物の毛皮が軒に吊されていた。尋はあらためて此処が山であることを感じた。

「おう、今帰ったでえ。」

玄関を開けながら男性が奥に向かっていうと、奥からエプロン姿の女性が現れた。

「お帰り。あら?、そん人は?。」

「西から来なすったと。泊まる所探しとったから、うちに連れてきたけん。」

「あら、それはそれは。」

女性はお辞儀しながら尋を出迎えた。尋も遅ればせながらに、

「尋といいます。突然ですみません。」

といいながら頭を下げた。

「堅苦しいのは抜きや。の。さあ、上がれ上がれ。」

男性はにこやかに尋を家へ上げて奥へ誘った。室内は暖かく、居間の中央には囲炉裏があり、自在鉤の下に大きな鍋が吊されていた。そして囲炉裏の周りでは、子供達が思い思いに餅などを木に刺して焼いていた。男性は子供達に、

「さ、お客さんやけ、お前らも挨拶しい。」

と促すと、

「こんにちは。」

「こんにちは。」

「こんにちは。」

と少しはにかみながら、でも嬉しそうに挨拶をした。尋も、

「あ、こんにちは。尋です。」

そういって、微笑みながら挨拶をした。

「さ、どっか適当な所に座りんさい。」

男性はそういうと、子供達の間に腰を掛けて火に当たった。子供達は待っていたかのように男性に寄り添った。

「すみません。」

尋は男性の向かい側に座ると、両手をかざして手を温めた。木のパチパチと弾ける音と赤く燃えた先から炎が上がりながら鍋底を熱する様子は、昔話に出て来る光景そのものであった。すると、エプロン姿の女性が再び現れて、

「父ちゃん、これ、先に焼いといてな。」

そういうと、大きなまな板の上に並べられた山ほどの肉の串刺しを男性に渡した。

「おう。」

男性はそういうと、まな板を受け取って、囲炉裏の灰に串を一本ずつ刺して、肉を焼き始めた。すぐに肉はジリジリと音を立てながら、煙と香りを放った。炭火で焼くのとはまた違う、木の炎で焦がされた肉は、独特のよい香りだった。男性は手際良く串を一つずつ返して、まんべんなく焼いた。そして、

「アンタ、尋さん・・やったかいの?。ウサギの肉は初めてか?。」

男性はたずねた。このとき、尋は軒に吊されていた小動物の正体がウサギであることを初めて知った。

「あ、はい。食べたこと無いです。」

「そうか、そうか。山のモンは精が付くけな。特にウサギは絶倫やけの!。」

そういうと、男性は微笑みながら、焼き上がった串を一本、囲炉裏から抜くと尋に差し出した。

「ほれ、食うてみ。」

「あ、有り難う御座います。」

尋は手渡された串から漂う香りに、思わず涎を零しそうになった。

「頂きます。」

尋は先の方の肉をくわえると、口で串から抜き取って食べた。味付けは塩と、ほんの少し山椒を利かせてあった。こんがり焼けた表面からは香ばしい味が、そして噛みしめると、肉汁が口いっぱいに広がった。少し癖のある香りだったが、尋にはそれがかえって新鮮だった。


 向かい側では子供達が串肉と格闘していた。上の二人は起用に串から肉を抜き取って食べていたが、一番下の子は何とも覚束ない様子だった。見かねた男性が、

「ほれ。貸してみ。」

といって、子供の手から串を取ると、箸で肉だけを抜き取って、子供の口に放り込んだ。

「どや?、美味いか?。」

男性がそうたずねると、子供達は肉を頬張りながら笑顔で頷いた。それにしても、両親の見た目に対して子供達が妙に幼いのが、尋は気になった。どちらかというと年配な感じの両親だったからだ。そんな風に思っていると、台所から母親が大きなまな板の上に乗せられたざく切りの野菜と白い脂が分厚くのった肉の薄切りを持って来た。男性は囲炉裏に吊された鍋の木蓋を開けた。立ち所に家中が湯気に包まれた。

「次は牡丹鍋じゃ。」

そういうと、男性はぐつぐつと煮えた鍋に肉と野菜を一変に放り込み、後から持って来た小さな樽に入っていた味噌を杓文字で掬って、箸で溶き入れた。そして蓋をすると、巻をくべた。炎の勢いが一気に増した。子供達は肉に齧り付きながら、父親が火を操るのを目を輝かせて眺めていた。

「この辺りのシシは山芋食っとるでな。精が付くでえ。お陰でワシも六人の父親じゃてな。」

尋はきょとんとした顔をした。目の前には三人の子供はいる。それでは数がと思っていると、そんな表情を察したのか、

「ははは。上の三人は独立して、もう都会に出てったわい。」

そう男性がいうと、尋の表情が晴れたようになった。大きな子供さんが既にいたのかと。だからご年配なのは解った。しかし、それにしてもその年齢で小さな子供を三人とは。そう思っていると、男性は囲炉裏の方に顔を近付けて、少し声のトーンをさげて、

「山は野良と猟以外は、することが無うてな。オマケにこんなもん食うてたら、自ずと子作りに励みますわい。」

そう照れくさそうに話した。炎に照らされた男性の顔は、さらに幾分赤味を増していた。そして、それを隠すかのように、

「どれ、もうええじゃろ。」

というと、男性は再び鍋蓋を開けた。すると今度は山椒の利いた味噌と炊き上がった野菜やシシ肉の香りを伴った湯気が一気に湧き上がった。

「さあ、どんどん食いなせ。」

男性は大きなお椀に野菜と肉をたっぷりとよそって尋に手渡した。母親はお櫃を持って来て尋の斜め前に座ると、これまた大きな丼に白飯を山盛りにして、

「はい、たんとお上がりなせ。」

といって、尋に手渡した。そして、擂り鉢には下ろして出汁で割られた山芋がこれまた沢山あった。母親はそれをお椀に掬って海苔と山葵を添えて、

「ほれ、これも召し上がれ。」

そういって尋の前に置いた。これでもかというほどの山の幸が尋の前に並べられた。尋は生唾を飲みながら、

「すみません。有り難う御座います。頂きます。」

そういって両手を合わせると、早速牡丹鍋を頬張った。豚肉とは違う独特の野生の香りと、味噌と山椒が合いまった、それは実に美味しい鍋だった。尋は白飯と鍋を交互に頬張り、思わず咽せそうになった。

「ははは。遠慮はいらんけ、落ち着いて食べなされ。」

男性は笑いながらいった。あまりの空腹と美味しさに我の勢いに気づかなかった尋だったが、ふと前を見ると、そこには山に暮らす家族が微笑ましく囲炉裏を囲んで来客を見つめる姿があった。男性も鍋と白飯を頬張りながら、時折子供達の方を見ては微笑んでいた。子供達は尋の様子をチラチラと見ながら、

「ほふほふ・・。」

といいつつ、牡丹鍋を食べていた。そして、そんな全てを慈しむように、母親は静かに笑みを浮かべながら、ゆっくりと食べていた。

「此処には幸があるなあ・・。」

尋はそう思った。素朴で豪快。そして、生きるという本能に則した暮らし。前に訪れた港町といい、今いる山村といい、人間本来が持つ生命力とは、このような暮らしの中から育まれ、そして湧き立つものなんだろう。直に殺生をし、そしてその恩恵に肖る。畏敬の念を込めて。そこから切り離されて生きるには、人間の進化はまだ追いついていないのかも知れない。だから無闇に生きる意味を見出そうとして、実の暮らしと無機的に生きてきたこととの間に、いつの間にかズレが生じてしまうのかも知れない。そんな風に思いながら、尋は山芋の入ったお椀を啜った。

「ズズッ。」

今までに食べたことのない鮮烈さだった。精気がそのままよそわれているような感じがした。もう一口。

「ズズッ。」

尋は一気に飲み干した。すると、何処からともなく丹田の辺りから漲るようなものを感じた。

「はは。今晩、気いつけなされや。グッと来るでよ。」

そういうと、男性は意味ありげに笑いながら酒を呷った。


 山の幸をしこたま食べた尋は、まるで自身が太古の野生に戻ったかのような感覚に見舞われた。目の前で燃え盛る炎、その周りで照らされながら談笑する山の家族。生きる、狩る、暮らす。その原点が今目の前にある。尋は少し興奮した様子だった。今までの自分は、まるで消え入るかのような存在だった。そして、何か罪を犯した訳で無いのに、一体自分は何に追われているのだろうとさえ考え出した。

「こんな風に、ただただ堂々と生きていればいいじゃないか。」

尋は偶然とはいえ、此処に来て本当に良かったと思った。すると、

「ほれ、アンタも飲まんね。」

男性は尋に厚く大きな杯を手渡すと、酒を注いだ。少し白く濁ったその酒は、膨よかな甘い香りがした。

「いただきます。」

尋はなみなみと注がれた酒を一気に飲み干した。果実酒のような甘みと、後から来るアルコールのグッと来る感じに、尋は驚いた。もの凄く口当たりが良かった。

「はは。それは自家製の酒じゃ。つい飲み過ぎちまうから、コテンといっちゃうで。」

そういいながら、男性はさらに尋の杯に注いだ。尋は二杯目も一気に呷った。

「おお。ええ飲みっぷりじゃ。ささ、も一杯。」

男性は立て続けに三杯目も注いだ。それも飲もうと杯に口を付けたとき、

「あれ・・?。」

尋の様子がおかしくなった。炎に照らされた尋の体に、酒が一気に回ったからだった。突然、視界がグルグルと周りだし、尋はふらつきながら杯を床に置くと、

「バタン!。」

と音を立てて、その場で横になってしまった。

「ありゃ。尋さん、もー潰れたかや?。ははは。」

男性は大笑いしていたようだったが、尋の耳にはその声も次第に聞こえなくなった。

「何か訳ありな感じで此処まで来たみたいやけん、疲れたんじゃろ。」

母親はそういうと、寝ている尋に毛布を掛けてあげた。子供達が面白がって、尋を指でツンツンと突きながら、本当に寝ているかどうかをキャッキャといいながら確かめた。

「これっ。こん人はお疲れやけ、そんなんせんとき!。」

母親は子供達を諫めた。やがて夕飯の宴も終わったらしく、炎は下火になり、辺りは静かになった。どれぐらい経っただろうか。少し肌寒く感じた尋は、微かに聞こえる奇妙な呻き声で目が覚めた。囲炉裏から少し離れた所に布団が敷かれてあり、いつの間にか尋はそこまで運ばれていた。布団もちゃんと掛けられていたが、寝返りを打つ間に、どうやらはだけていたようだった。

「何の音だろう?。まさか・・、」

尋は一瞬警戒して暗い部屋を見回したが、特に何もいなかった。

「父ちゃん、あんまりすると、あん人が起きるけん・・。」

「かまわんじゃろ。ぐっすり寝取るから。な。」

襖の向こうから、男性と女性の声が途切れ途切れに聞こえてきた。微かな呻き声混じりの。

「そういうこと・・かあ。」

尋はすぐに状況を理解した。山の男や女達が、如何に逞しく此処で暮らし、そして子を産み、育てているのか。そんな営みが、今まさに襖一枚を隔てて成されている。尋は両手を頭の後ろに回して、天井を見つめた。煤で燻されて真っ黒になった張り組みが重厚かつ優しく、この家族包み込んで、そして支えている。その下で、人々は営んでいる。

「健全だなあ・・。」

そうしみじみと思いながら、尋は出来るだけ物音を立てないように気遣いながら、布団に潜って寝た。暫くすると、尋は夢を見た。薄暗い空の上を、雁のようなものが幾重にも列を成して一つの方向に流れていった。

「何だろう・・?。」

尋は目を凝らしながら、その様子を眺めた。それはあの立方体だった。そして、その一つ一つの中には、何かが写っていた。

「猪、兎・・。今日食べた動物達!。」

穏やかな表情の動物達がその立方体の中に写っていて、それらはやがて眩しい一点の光の中に吸い込まれていった。全ての立方体が光の中に消えていく中、僅かにその流れとは逆行して戻っていく立方体があった。

「人だ!。人が写っている・・。」

尋はすぐに気づいた。天寿を全うする者達の流れと、明らかにそれに反目する一部の流れ。その景色には物音は無かったが、反目する立方体がこぼれ落ちる瞬間、微かに音がするような気がした。尋は聞き耳を立てて、次の逆行する立方体を待った。すると、

「ブォーッ!。」

間違いない。あの音だった。尋はまさかと思い、立方体に写る人物の顔を見ようとした。と、そのとき、

「はっ。」

といって、尋は目が覚めた。少し寝汗を掻いていた。すると、

「お兄ちゃん、大丈夫?。」

という声がした。見ると、枕元に一番下の子供が座って、尋の頬を指でツンツンと突いていた。尋は初め驚いたが、やがて、

「うん、大丈夫。ありがとう。」

そういって体を起こすと、子供の頭を撫でた。

「起きた?。」

「うん、起きたよ。」

「じゃあ、遊ぼ。」

子供はそういうと、尋にしがみ付いた。尋は窓の方を見た。薄らと夜が明けていて、光が差し込もうとしていた。

「あれは見てはいけないものだったのかも知れないな。それを、この子が呼び戻してくれたのか・・。」

尋はたくましく生きる山の人達に感謝した。


 尋が子供の頭を撫でていると、隣の部屋から襖の開く音がした。

「おお、尋さん、起きとったんかいな。」

そういいながら、男性は囲炉裏の側に座ると木を焼べて炎を大きくした。

「パチパチ。」

そして手をかざしながら、灰の中に置いてあるポットからコーヒーを二つのカップに注いだ。

「ほれ。」

そういうと、男性は一つを尋に手渡した。

「いただきます。」

ざっかけないブラックコーヒーだったが、円やかな香りと味がした。

「これからちょっくら出かけるけど、あんたも来んね?。」

そういうと、男性は直ぐさま出かける用意をした。尋もいわれるがままに上着を着て一緒に出かけた。何処へいくのかと思っていると、男性は家の裏山を登って、山道の中へと入っていった。枯れ葉を踏みながら、二人はどんどんと奥へと進んでいった。男性は気遣って、少し歩みをゆっくりにしていたが、それでも尋は傾斜のある荒れた地面を歩くのに四苦八苦した。どれぐらい歩いただろうか。突然、

「シーッ。」

男性が尋に止まるように合図した。見ると、二人の前方で何かガサガサと物音がしていた。時折、獣の唸り声のようなものも聞こえた。

「シシだ。」

そこには、後ろ足を罠に捉えられて藻掻く、大きな牡ジシの姿があった。男性は少しずつ近づいていき、尋も後に続いた。その気配に気づくと、牡ジシは頭を低くして身構えた。下顎から突き出た二本の牙先は二人に向けられていた。鋭い眼光を放ちながら、牡ジシは唸った。盛り上がった背中に黒々とした剛毛が生え、罠が食い込んだ後ろ足からは血が流れていた。あまりの迫力に圧倒されていた尋だったが、次の瞬間、

「それっ。」

というが早いか、男性は牡ジシの頭を飛び越え、ひらりと身を返すと両腕で首を押さえて倒した。そして、腰に下げたホルダーからナイフを抜くと、瞬時に牡ジシの息の根を止めた。シシは一瞬足をばたつかせたが、すぐに動かなくなった。その間、ほんの十秒足らずだった。男性はまだ気を抜いておらず、険しい表情で荒ぶっていたが、シシが全く動かなくなったのを確認すると、急に柔らかな表情になった。そして、

「ナマンダブ、ナマンダブ。」

と小声で唱えた。そして、耳の一部と尻尾を切り落とすと、それを地面に埋めて両手を合わせた。これが、山の命をいただくということ、そして、そのお礼と感謝の念を示すこと。尋はそう解釈した。そして、男性は一連の所作を終えると、

「ふーっ。久々の大物じゃわい!。」

といいながら、尋を見た。その表情は、さっきまで見ていた男性の表情だった。緊張と重圧で、尋は自分が狩りをする訳でもないのに、まるで金縛りのようになっていたが、男性のその言葉に、体が少しずつ解れるのを感じた。

「猟銃とかでは無いんですね?。」

尋は罠でシシを捉えるのを初めて見たので、思わずたずねた。

「まあ、たまには使うけど、ありゃ後で弾の処理が大変じゃでな。」

そういうと、男性は手頃な太さの木を見つけて、反対の腰に携えていた那吒でそれを切り倒した。そして、牡ジシの両足を持って来た縄で結わえると、その間に先ほどの枝を通して、

「ほれ。持って帰るで、手伝うてな。」

そういいながら、男性は前を、尋は後ろを担いだ。

「ミシッ。」

木が大きく撓った。男性は鼻歌交じりで担ぎながら歩いたが、尋は今にも潰れそうになるのを我慢しながら、何とか堪えつつ歩いた。担ぐ前には、罠が食い込んで出来た傷や切り落とした尻尾から流れ落ちる血が気になったが、今はそれどころでは無かった。そして、ようやく、どうにかこうにか男性と尋は家に戻った。

「ドサッ!。」

二人は庭先にシシを無造作に置いた。辺りはすっかり夜が明けていた。物音に気づいて、女性が中から出て来た。

「ありゃ。こらまた、デッカいシシだこと!。」

日頃見慣れているであろう女性も、今度の牡ジシには驚いている様子だった。その声を聞いて、中にいた子供達も次々に出て来て、

「うわーっ!。」

「うわーっ!。でっけーっ!。」

と、口々に叫んでいた。そして、男性はシートを用意して、その上にシシを転がした。そして、持っていたナイフで手早く解体を始めた。女性は大きな鍋を持って来て、その中にお湯を張った。尋は男性の手際に見とれていた。もっと血の出る、残酷なシーンを連想していたが、実際は違っていた。中の血溜まりが零れないように、男性は順序よく臓物を切り分けては女性に手渡した。女性は、それぞれの臓器を湯で洗うと、それらを袋に詰めていった。そして、ものの30分ほどで、牡ジシは全て処理され、尋が店頭や映像で見るようなシシ肉の姿になっていた。そして、一服する間もなく男性は、

「ご近所さんに配りにいって来るけえ。」

そういって、処理したシシ肉を荷台に積むと、

「アンタは疲れたじゃろ。中でゆっくりしとけや。」

といって、車を出す準備をした。女性が残りの肉を家へ運ぼうとしていたので、

「あ、ボクがやります。」

そういって、疲れが一段落した尋は処理された肉を抱えて家の中へ運んだ。そして、さっきまで山の中で気高くこちらを見据えていた牡ジシが、今はこうして人々が口にする糧となったことに想いを馳せた。余談を交える隙など無い、生きる為の真剣勝負。尋の面持ちは何処となく引き締まったようだった。


 昨日から頂いたご馳走といい、今日、こうして目の当たりにしたシシとの格闘といい、それらが一体となって、尋は不意に全身に漲るものを感じた。

「あの、すみません。ボクを最寄りの駅まで乗せていってくれませんか?。」

尋はそう男性に告げた。

「何や、もっとゆっくりしていかんね。」

「そうよ。遠慮はいらんから。」

女性や子供達も残念そうな声を上げたが、尋は子供達の頭を撫でながら、

「ゴメンね。お兄ちゃん、いく所があるから。ね。」

そういって宥めた。そして、尋の顔を見て男性が、

「そうか。解った。じゃあ、乗りや。」

と、尋を助手席に乗せて車を発進させた。

「どうも、いろいろ有り難う御座いました。」

尋は女性と子供達に手を振りながら別れを告げた。車中、男性は再び尋の顔を見て、

「何か、腹が括れたようやのう。そう顔に書いてある。」

そういいながら、凛々しく笑った。

「はい。これから戻ります。」

尋も凛々しく笑うと、真っ直ぐ前を見据えた。

「うん。それがええ。ようは解らんが、帰る所があるっちゅうのは、ええことや。ワシらには山がある。アンタにはアンタに相応しい場所が、きっとあるんじゃろ。」

男性は尋を後押しするかのようにいった。

「最初、アンタを見た時、何かに迷っとるようにも見えたが、山のもんは、鋭気を養うでな。命の恵みをそのまま頂く。それがアンタにも効いたんなら、ほんに良かったわい。」

男性は高笑いしながら、上機嫌になった。

「はい。」

尋は力強く返事をした。男性は先に尋を駅まで送った。別れ際に、

「色々あるやろうが、踏ん張っていけや。ほんで、疲れたら、また遊びに来なせえや。」

そういうと、右手を挙げながら男性は車を発進させた。

「どうも、有り難う御座いました。」

尋も右手を力強く振りながら頭を下げた。そして尋は駅舎に入ると、路線図と時刻表を見ながら、最短で戻ることの出来る経路を考え、中央の駅までの切符を買った。今までは、自身が意図しなかった逃避行だった。しかし、それは自分の中にしっかりとした意志が無かったが故の、いわば巻き込まれたような、運命に翻弄された姿であった。

「兎に角、戻る。無事に。それが今、ボクに出来ること。」

尋はそのことだけに集中した。しっかり頂いた山の幸は、ずっと尋の心を丹田の辺りから鼓舞し続けていた。そして、やって来た列車に素早く乗ると、車窓を眺めながら、移りゆく景色とは反対の方向に、自身が目指すものがあると、尋は思った。やがて列車は中央の駅に到着した。かなりの人混みではあったが、尋は臆せず、目的の路線に乗り換えるべく、人混みを切り開くように真っ直ぐ歩いた。人目を憚らず、顔を隠すこと無く、真っ直ぐと前を見つめて。途中、追っ手のような人物の影を見かけることもあったが、尋は気にしなかった。もし、呼び止められるようなことがあったとしても、邪魔をされる謂れは何処にも無い。自分は、自身の薄弱なるが故に連れて来られた身を、元のところに戻すだけだと。そして、西に向かう切符と特急券を買うと、尋は駅のホームで次の列車を待った。暖かい待合室にでは無く、敢えて寒風を楽しむかのように、ベンチに座って空を眺めた。

「空が青い・・な。」

何十年も眺めてきた空を、尋はこのとき、本当に青いと感じた。やがて列車が到着すると、尋は自販機で缶コーヒーを買ってから乗り込み、空いてる席に座った。窓も外には駅をいき交う沢山の人達が見えた。

「みんな、何処かへ向かっているのか、あるいは、何処かへ戻るんだろう。」

尋はそんな風に思いながら、コーヒーを飲み始めた。そして、列車は発車した。いつもとは違う颯爽とした歩みと、これまでの旅路で、尋は少し微睡んだ。そして、いつしか眠ってしまった。夢さえ見なかった。それから、どれくらい経っただろうか。尋が目を開けると、空席だった隣に誰かが座っていた。

「ようやく会えましたね。」

隣の男性が、そう尋に声をかけた。公安の男性だった。尋は少し驚いたが、黙って軽く会釈した。そして、

「娘さんは、お元気に?。」

「はい。お陰様で。その節は、どうも有り難う御座いました。お礼の言葉もかけられずに、何処かへいかれたので。」

尋の質問に、男性は淡々と、しかし、柔らかい目元になって答えた。その言葉を聞いて、尋も少し安堵した。しかし、

「やはり、ボクの居場所は、ずっと?。」

と、男性にたずねた。

「いえ、ずっとではありませんが、部下が即座に掴んだようで、私に連絡をくれました。」

「では、このまま職務を?。」

さらにたずねた尋に、男性は黙って首を横に振った。


 彼が大きな責任を背負いながら、それが遂行出来なかったことを尋は薄々気づいてはいた。彼の任務は、尋が行うことを阻止するはずであったが、そうはしなかった。結果、尋は彼に伴って娘さんを助けることになったが、そのことで責めを負うことになったのは、気の毒に思った。

「で、今は?。」

尋はたずねた。

「退職しました。今は自由の身です。」

男性はそういうと、車窓に目をやった。表情はスッキリとしていた。

「では、これからは?。」

「まだ決めてません。暫くは娘と二人、ゆっくり過ごそうと思っています。」

そう聞いて、尋の杞憂は晴れたような気がした。しかし、

「ただ、私は職責を失うのと引き換えに、掛け替えの無いものを得ましたが、尋さん、どうやら、もう一つの事案が、あまり良くない方向に動いているようです。」

と、男性は尋にいった。

「良くない?。」

「はい。アナタが助けた、もう一人の人物が、躍起になってアナタを探しているとのことです。」

尋はそれを聞いて、あまり驚きはしなかった。寧ろ、これまでの行いをするうちには、いずれ、こんなことも起きるだろうと感じていた。

「そうですか。で、理由は?。」

尋は男性にたずねた。

「それは解りませんが、恐らくはアナタの持つ力に関係があるようです。その力をどうしても手に入れたいと、そう考えているのではと。」

男性は例の組織が動き出したという情報は得ていたが、核心的な部分は伝えられていなかった。推測で答えるしか出来なかったが、彼もその力の恩恵に預かっていた者として、その心理は十分に理解出来た。

「僕が力を持っている訳ではありません。しかし、結局は同じこと。普通ならあり得ないことが起きているのであれば、どう捉えられても仕方ありません。」

男性の心配を他所に、尋は平然としていた。

「尋さん、アナタは彼らのことをよくは知らないようですね。彼らは自分達の思想を実現するためには手段を選びません。恐らく、これから先も危険な状況が待ち受けている可能性が高いです。私は長年、彼らと対峙してきました。なので、そのことはよく知っています。」

彼のその言葉は、尋が想定している状況を遥かに超えたものであることを十二分に臭わせていた。自分の身一つ、思い一つだけでは、到底立ち向かうことも叶わないだろう。そう感じながら、たじろぐ自身も一方には存在した。しかし、これまでもそうであった。様々な出会いと現象に迷いも幾つも生じた。しかし、今は違う。迷いが無くなったからでは無い。例え、迷いを抱きながらであっても、自らの衝動が進むべき方向を示唆しているように強く感じるからだった。

「解りました。ご忠告、どうも有り難う。」

そういうと、尋は目を閉じた。来るべきときが近いと、尋は直感した。そして、そのときに備えて、暫し休息でも取ろういう気持ちになった。その様子を見て、男性は席を立たずに、尋の傍らに座ったまま、再び車窓に目をやった。そして、かなりの時間、列車は二人を運んだ。いつしか男性も眠っていた。ふと尋が目覚めたとき、とある駅に着く所だった。

「確かこの駅は・・。」

減速する車窓は、広大な山間部の谷間に切り開かれた、人工的な空間を写しだしていた。列車が停車する直前、隣の男性も目を開けた。そして、下りる用意をする尋を見て、

「やはりいかれるのですね?。」

とだけ呟いた。尋は男性の目を真っ直ぐ見つめ、そして列車を降りた。男性もその後に続いた。

「どうして?。」

尋は下車したホームで男性にたずねた。

「いったでしょ。ここからは危険だと。」

男性はそれだけいって、尋の少し後ろに並んで歩いた。尋は心強く思った。しかし、折角娘さんとの暮らしを取り戻した矢先に、自分に付き従わせることに躊躇った。そんな気持ちを察してか、

「事が終われば、帰るべき場所に帰りましょう。そのために私はいますから。」

そういって、尋を安心させた。尋は右手を差し出し、男性と固く握手した。改札を抜けて、駅舎を振り返ると、そこには見覚えのある、あの紋章が大きく屋根の上に描かれていた。そして、駅の出口から前方には、まるで巨大な宮殿にでも続いているかのように整備された道が、両脇に綺礼に刈り込まれた樹木を従えて、何処までも続いていた。そして、見たことも無い和装の人々が、整然と枯れ葉をかき集めていた。またある人は、高齢者を気遣いながら手を引いて道を渡るのを助け、そして別の人は、にこやかに挨拶を交わしながら、会う人会う人を、まるで出迎えるかのように寄り添っては誘っていた。

「何も知らなければ、此処が地上の楽園といわれても、そう思うかも知れませんね。」

尋は斜め後ろを向きながら、男性に語った。男性も苦笑いしながら、尋の言葉に頷いた。

「作られた楽園・・ですね。」

そう男性は返した。木々の間には無数の幟(のぼり)が立てられ、安寧を表す文字と、その上にはあの紋章が染め抜かれてあった。


 二人は並木道に沿って歩みを進めた。すると、人々が同じように進みながらにこやかに挨拶を交わしいた。至る所で。

「御人様(おんびとさま)が復活されたそうで。」

「ほんに、ほんに。復活されました。」

「復活、万歳!。」

人々は復活の二文字を口にしては互いに喜び合っていた。尋達も先々で歓喜の声を掛けられた。二人は余所者であることを悟られまいと、作り笑顔で頷いて応えた。

「公表はされていませんでしたが、あの人物の重病説と復活の噂は、漏れ伝わっていたようですね。」

男性はいった。尋はこの街の光景を見て、

「人々の希望であるのなら、その人の存在こそが最も重要なのでしょう。それにしても、これほどのものを、人々の喜びを実現出来るような人が、一体、何故ボクなんかに・・。」

尋はこの団体に関する話を全く知らない訳では無かった。かつては小さなコミュニティーだったものが、いつしか巨大化し、やがては国家の中枢にも影響力を及ぼすようになっていった。そして、その創設者と目される人物が消え入ろうとしてた。その人物を崇める人達は、さぞ悲嘆に暮れただろう。

「組織の結束とは、共有する価値観への信念に比例します。しかし、それはイデオロギーやシステムより、やはりカリスマ性に寄る所が大きいのでしょう。いや、絶大といってもいい。そのような人物の息吹きが絶えようとするのは、自身の希望の灯が消えるのに等しい。だから彼らは、躍起になってアナタを探し、その力を求めた。」

男性の言葉に、尋は困惑した。

「そして、その力によって復活を果たした人達は、生への喜びを感じる。娘も、そして私もそうでした。それがどれ程大切なことかと。しかし、それだけには留まらない人間というのもいるんです。」

そういうと、今度は男性が沈痛な面持ちになって黙り込んだ。

「それは、どういう・・?。」

尋は敢えてたずねた。申し訳無いと思いつつ、しかし、この先に起こるであろうことと対峙するためには、男性と深く理解し合う必要があると感じたからだった。男性は、ゆっくりと口を開いた。

「ご存じのように、私は公安に属する者として、職務を全うして来ました。そして、その多くは権力者の身辺警護等でした。要人を間近で守るためには、どうしてもその人物に接近する必要がありました。後に立場が上になりはしましたが、その人物の行動を随時把握し、どのような関係を築いているのかは、既に知る所でした。」

そう語る男性の表情は、相変わらず硬かった。尋はひたすら聴き入った。

「我々は、任務を遂行するためには命を厭わない集団です。そのように訓練もされているし、何より、それこそが正しいことであるという信念がありました。あるときまでは・・。」

「あるとき・・ですか。」

「はい。守るべき要人に深く関わるにつれて、彼らは我々に絶大な信頼を寄せて来ます。それはある意味、自然なことなのかも知れませんが、それがゆき過ぎると、決まって彼らは自己を曝け出して来ます。初めは油断するが故のことかなと思ったのですが、どうやらそうでは無い。そして気づきました。彼らは孤独に苛まれていると。権力の場とは、概ね、そういう場所のようです。誰を、何を信じて行動すればいいのか。しかし、どんなに信念を貫こうとしても、反目する相手の攻撃、あるいは味方と思っていた者の裏切りを幾つも経験する内に、彼らは心を閉ざしていきます。しかし、人間の心は鋼では無い。我々は生身です。そして、本当に信頼できる相手に自己をさらけ出すというのは、自身の信念に寄り添うべき誰かを渇望する、そういうことです。そして我々は、最高に鍛え上げられた集団ではあっても、決して自らの判断で動くことの無い、そういう集団です。関係性は決まっています。我々は、ひたすら黙して彼らに従う。そして、その忠義心に気を良くした彼らは、どんな理不尽なことでも我々に遂行するよう命令を下してきます。言葉には出来ない、惨いことでさえも・・。」

男性の眉間に深く刻まれた皺が、彼の見て来た光景を暗に物語っているようだった。そんな様子を見て尋は、

「でも、アナタはボクをいかせてくれましたね。有り難う。」

そう優しく声を掛けた。すると、あれほど険しかった男性の表情が一変した。

「いえ、礼をいうのは、こちらの方です。私は、既に取り返しの付かない所にまで及んでしまってます。しかし、アナタが私の心を変えてくれた。私は、組織の人間としては、ダメな人間でした。しかし、ダメであるからこそ、掛け替えの無いものを失わずに済んだ。だから・・。」

そういうと、男性は尋を見つめた。口を真一文字にグッと何かを堪えてはいたが、目元から流れ落ちるものがあった。

「ボクは、あなたが見てきたほどの過酷な光景は目にしては来なかった。あなたの気持ちを察するに余りあるのが事実です。でも、人の死とは、かくも容易く人の心に忍び寄り、恐怖と絶望を与えるのか、そして、生とは、それだけで、かくも人々の心に明かりを灯すのか。ボクはその両方を見て来ました。恐らくあなたは、これまでのことに対する罪滅ぼしのつもりで私に同行してくれたのでしょう。でも、これから先のことは、ボク自身の問題です。いや、あってはならない流れが生じているのであれば、それを止めるのがボクの運命なのかも知れません。」

そういって、尋は男性の肩に優しく手を置いた。


 二人の両横からは、さらに多くの人達が流れを作りつつ、一箇所に向かって進んでいった。

「この先にあるのは?。」

「伽藍です。巨大な。人々は年に一度、そこに参詣することで、その一年を健やかに過ごすことが出来ると信じています。そして、もう間もなく、その日がやって来る。人々はその日に備えて宿を取り、大祭に創始者の言葉を頂くことを至福なことと考えています。」

「そうですか。それが万人にとって安寧なことならば、何の問題も無いはずなのに・・。」

二人は、此処に集う人々とは目的が異なることに幾分の慚愧と信念が鬩ぎ合っていた。彼らの安らかな日常を壊してしまうかも知れない行いを、尋はしようとしている。例え偽りの幸福であっても、そのまま信じ続けて天寿を全うするならば、それでも偽りの幸福といえるのか。すると、男性は、

「尋さん。アナタは今、迷っておられますね?。無理もありません。この人達の涼やかで希望に満ちた目を見ては。私もそうでした。カリスマと呼ばれた人物を守ることが私の仕事であり、任務でしたから。それはまるで光を見つめるような、喜びに満ちた顔でした。立場上、私は警護のために背後に位置することが殆どでした。なので、そんな人々の目線を痛いほど感じました。しかし、そんな人物達も、登壇を終えて聴衆の前から見えなくなった途端、この世のものとは思えないような惨い行いを、いとも容易く始めます。その二面性を、私は常に見て来た。」

そういって、自身が尋を追って此処へ来たこと、そして、やはり尋と共に行動しようとする動機と信念を伺わせた。すると尋は、

「確かに、ボクはこの人達の表情を見て、戸惑いが無いといえば嘘になります。そして、どんなに崇高な人物も、当初の志を見失い、権力に魅入られてしまうという話も数限りなく見聞きしました。人類は歴史からは学ばない。それはきっと、そういうものなのでしょう。なので、残念ではあっても、それは仕方の無いこと。ボクが危惧するのは、それではありません。」

そう答えながら、空を見上げた。

「ボクたちも宿を取りましょう。何かが起きるとしても、それは今からすぐでは無いようです。」

そういいながら、二人はみんなと共に歩みを進めた。そして、伽藍の巨大な甍が見えだした辺りに、いくつもの参詣の人達用の宿が建ち並んでいた。鄙びた温泉宿のような、寛ぐには持って来いな風景であった。

「折角ですから、此処でゆっくりしましょう。」

「はい。」

二人は宿が建ち並ぶ端の方の、古びた小さな所を選んで入っていった。

「おいでなさいまし。」

法被を着た男性が二人を出迎えた。

「二人ですけど、部屋はありますか?。」

「はい。どうぞこちらへ。」

男性は二人を奥へ案内した。宿泊施設に特有なフロントや帳面への記入といったものが一切無かった。そのことを尋がたずねようとしたが、男性はそれを制止した。

「こちらで御座います。」

通された其処は、小さな和室だった。窓の外には大きな甍が聳え立っていた。しかし、その曲線が威圧感を消し去っていた。寧ろ、包み込むような優しさが窺えた。

「では、ごゆっくり。」

そういうと、二人を残して男性は立ち去った。

「このような所に来るのは初めてですか?。」

「ええ。不思議な宿だなと。」

「こういう所は、来る者がみな同胞なんです。参詣の途中に体を休めるのも、皆同じく行う。そのための休息の場が宿です。なので、みんなは仕来りを知っています。」

「だから、アナタはさっき、ボクのことを止めてくれたんですね。そのことをたずねるのは、余所者の証だと。」

尋はそういって男性を見た。男性は黙って頷いた。

「それにしても、穏やかな所ですね・・。」

宿の雰囲気や窓から見える景色、人々の表情、その全てが平和に包まれていた。自身の気持ちも同じく、穏やかになっていいのか、尋は妙な矛盾を感じた。

「そういう風に作られてますから。人々が安寧と幸福を求める姿に偽りはありません。そういうものを体現したのが、このような場所なのでしょう。私だって、過去の職務を別にして、この雰囲気は懐かしささえ覚えます。」

男性はそういうと、窓の外を見つめた。そして、

「さて、食事にいきましょうか?。」

「あ、はい。」

先ほどの男性は食事については何も触れなかった。此処ではどのように食事をすればと一瞬迷ったが、

「みんなが利用する食堂があります。そちらへいきましょう。」

男性がそういって、尋を誘った。彼は全ての勝手を知っていた。


 宿の一階には、鄙びた食堂があった。宿泊客は大抵は浴衣に着替えるか、あるいは丹前を羽織って食事をしていた。調理場に面した部分にカウンターがあり、簡単な定食風なメニューが並んでいた。

「此処はセルフです。好きなものを選んで各自で食べるんです。」

男性はそういいながら、用意されていたトレーに箸と茶碗を置いて、カウンターからおかずを選んた。尋もそれにならっておかずを選び、ご飯は自分でよそった。

調理場で働く人達も、二人より先に来て食事をしている客達も、どことなく楽しげな雰囲気を漂わせていた。

「幸せそうですね。みんな。」

「大祭が迫ってますから。」

そういうと、二人は周りとは異なる雰囲気で、静かに食事を始めた。すると、尋の隣に後から来た客がトレーを置きながら座ると、

「此処、よろしいですかな?。」

一人の老人がたずねた。

「ええ、どうぞ。」

「そりゃ、どうも。」

老人は会釈すると、有り難そうに食事を頂いた。そして、

「どちらから来られましたな?。」

と、にこやかにたずねてきた。尋は少し驚いたような表情で答えた。

「あ、西からです。」

「ああ、それはそれは。」

老人は再びにこやかに食事を続けた。ゆっくりと、噛みしめるようにご飯とおかずを丁寧に口へ運んだ。尋と男性は、自分達の素性がバレないように、極力会話を控えていた。しかし、そんな尋に老人は語り出した。

「ワシは連れ合いを亡くしましてな。静かに、眠るような最後でした。穏やかに逝ったのが何よりと思っとったですが、残されたワシには、なかなか安らかな日々は訪れませんでな。それでも、御人様のいわれますように、日々精進し、生きよ生きよの信念で、どうにかこうにか、此処まで来れました。嗚呼、有り難いことですわい。」

そういい終わると、ゆっくりとお茶を啜って、何とも満ち足りた表情を浮かべた。

「そうですか。」

尋は、そういいかけたが、言葉が続かなかった。複雑な感情が去来した。すると、

「我々はこれで失礼します。どうぞ、ごゆっくり。」

男性がそういって、尋にその場を去る切っ掛けを作った。そして、老人に一例すると、二人はトレーを調理場に返して、食堂を後にした。

「あの老人に、ああいわれてしまうと・・、」

尋は少し硬い面持ちで言葉を詰まらせた。

「私もです。外にでもいきますか。」

男性は尋を気遣い、空気を変えるべく外へと誘った。辺りはすっかり日が暮れ、宿場町の喧噪が如何にも祝いの雰囲気を高めていた。あの老人と同様、ゆき交う人々の表情は、一様に晴れやかだった。二人を除いては。そして二人は暫く歩くと、川に差し掛かった小さな橋の上に立っていた。

「信ずるということは、斯くも高揚に満ちるものなんでしょうか・・。」

そういいながら、尋は欄干に両腕をついて川面を眺めた。

「私も特に信仰を持っていた訳ではありません。正義と忠誠心にのみ生きようとはしましたが。それも、脆く崩れ去りました。何か支えになるようなものを求めるのは、人間の心理なのかも知れません。」

だんせいもそういいながら、欄干にもたれかかって天を仰いだ。

「ボクもそのようなもの、持ってはいませんでした。あのときまでは。」

「あのとき・・?。」

男性がたずねると、尋は自身の身に起きた不思議な出来事を淡々と語り始めた。様々な超常的な現象、それが空想では無く、現実を超えた力を伴って、しかし、確かに尋の手の中に訪れたこと。そして、それが二人を結びつけたことも。

「今、ボクの手の中にあるのは、ともすれば人間の邪な心を呼び覚ましてしまう、そういうものだというのは、何となく解ってはいました。真に乞い願う人達の役に立ったのは、良いことだったのかも知れない。でも、やはり、人が手にして、それを使うのは人知を超えた技が故に、我々人間には測り知れません。だから、手にしてはいけないものなんだろうと、そう思うに至りました。」

川面を見つめる尋の目に、力こそこもっているが、そこには刹那の煌めきがあるのを、男性は見逃さなかった。

「尋さん、私はアナタによって救われました。再び生きる希望をもらった。それは間違いの無い事実です。恐らく私だけじゃ無い、他の人達もきっとそのはずです。これからも、そんな風にしていく方法もあるんじゃないですかね。必ず生きて戻って、そして、また人々が真に喜ぶような、そんな生き方が。」

男性は尋のゆく末が、そのような決定付けられたものでは無いと伝えたかった。いや、そんなはずが無いと信じ、自身にいい聞かせようとした。しかし、尋は静かに微笑みながら、自身が見て来たもの、触れてきたものの全てが、理屈では無い、何か普遍的な定めのように心の中になだれ込んでくるのを、幾度となく感じていた。そして、それがどんなに説明をしようとしても、人間相手では徒労に終わるということも。


 賑やかで喜びに満ちた宿屋街の一風景。そんな中に身を置きながら、共に楽しみ、寛ぐことも出来たであろうに、それでも自分は、そうでない明日を迎えようとしている。ならば、せめて今宵だけでもゆったりと過ごそうと、尋はそう思った。

「戻って湯にでも浸かりましょうか。」

男性がいった。この辺りは温泉も湧いているらしかった。宿に戻った二人は、早速共同浴場に向かった。温泉と呼べるほど豪華なものでは無かったが、大きな湯船に浸かりながら、みんな思い思いに寛いでいた。尋と男性も湯気の立ちこめる中、掛かり湯をして湯船に浸かった。丁度いい湯加減だった。脚を伸ばして、二人は目を閉じて天井に顔を向けた。

「落ち着きますね。」

「ええ。」

此処までの道程が、精神的に如何にきつかったかを物語る程に、二人は長時間目を閉じたまま、同じ姿勢で動かなかった。すると、

「私は、男手一つで娘を見ていました。あのような体だったので、一緒に何処かへいったりということはありませんでした。そして、そんなことが、ようやく訪れたのかも知れない。もし、私がこれまでして来たこと報いを受けるようなことが無いならば、二人でゆっくり、何処かへ出かけてみたい。そう思っています。」

男性は語った。

「そうですか。それは是非。」

「尋さん、うかがってもいいですか?。」

「はい。」

男性は尋にたずねた。

「アナタは、明日が最後の場だと思っておられるかも知れません。しかし、明日を、そして、その先を思い描かなければ、望みを繋ごうとはしないものです。だからお願いです。戻られた後の話を、よかったら聞かせて貰えませんか?。」

男性の言葉に、尋は胸の熱くなる想いがした。

「ボクは在り来たりに人生を過ごしてきました。そして、いつしか絶望し、消え入りたいと思うようになった。そして、ことを起こした。でも、そうはならなかった。本当は、あのときに、自分の寿命は尽きたものだと、今も思っています。ただ、ボクの知らない、人知の超えた所で、そうはなっていないと、現世に突き返されたようで、その結果、こうして、アナタや、ボクが元いた所の人達と出会えたように、今は思います。そして、そんな場所が、今のボクの居場所です。だから、出来れば、もう一度其処に戻って、これまでのようにみんなと過ごしていきたいとは思っています。」

そう語りながら、尋は自身の立ち位置を確認したような気がした。このまま明日に突入するだけなら、刺し違えてでも本懐を遂げるだけだったかも知れない。それは何らかの達成ではあっても、ただそれだけである。今日こうして、男性とゆっくりと未来について語り合ったことが、自身の行為を刹那なるものから、血の通った人間的なものに変えてくれたような、尋はそんな気がしていた。

「さて、ぼちぼち上がりましょうか。」

どちらともなくいい出して、二人は湯船から出た。そして、浴衣に着替えて、二人は部屋で窓の外を眺めながら、籐の椅子に座って寛いだ。明日の祭典を前に、宿の外はいつまでも賑やかさを失わなかった。

「ところで、アナタは祭典のことはご存じなんですか?。」

尋は男性に尋ねた。

「はい。この何年かは、彼の身辺警護を担当していましたから。」

「彼はもう、この街には来てはいるのですか?。」

「いえ、恐らく、早朝に入ると思います。これまで、ずっとそうでしたから。近年は大がかりな移動でした。しかし、医師団を携えて密かなものでした。しかし、今回は恐らく健全であることを誇示するが如く、堂々と来るものかと。」

「さぞ、警備も厳重なんでしょうね。」

「はい。彼に会えるのは、祭典中の閲覧の儀のみかと。」

男性は尋が彼に近づくのは容易では無いことを熟知していた。

「もし、直接近づくことが出来るとすれば、祭典後、この地を去る直前でしょう。関係各位が、群がるように集まる瞬間がありますから。」

しかし、尋は首を横に振った。

「ボクは何も彼を急襲する訳ではありません。そして、恐らくはボクが来るのを待っているでしょう。なので、ボク一人がいけば、必ず招き入れるでしょう。」

「それは危険です。危険過ぎます。」

男性は尋の考えを遮ろうとした。しかし、

「もう既に危険領域に踏み込んでる。そう感じます。」

尋は冷静に答えた。その淡々と語る様子を見て男性は眉間に皺を寄せてたずねた。

「では、会って、どうされるつもりですか?。」

「それはボクにも解りません。彼がボクに会いたがっている。人を使って捜し出そうと躍起になるぐらい、ボクに会いたがっている。ボクにはそんな気は更々ありませんが、追われる身でいるのは、もう沢山です。ならば、ボクから出向いて、彼の真意を聞きましょう。そして、それによって、その先がどうなるかが決する。そういうものだと思います。」

尋は夜空に瞬く星を真っ直ぐに見つめながら、そう語った。

「明日の早朝、午前4時、恐らく彼は来ます。」

男性は、尋に伝えた。決意が変わる前にとか、機を逃さないとか、そういうことでは無い、その時刻こそが必然なんだと、男性はそう悟った。


 こんな風に旅先の宿で寛ぐ夜は、恐らくこれが最後だろう。尋はそう思った。全てのものとの今生の別れ。そんな日の前夜が斯くも穏やかに迎えられることに、尋は感謝した。

「さて、明日は早いです。ぼちぼち寝ますか。」

そういうと、尋は押し入れから布団を取り出した。男性も静かに頷きながら、それを手伝った。夜ふかしの尋にしては、随分と早い就寝であった。男性は、彼の眠りを決して妨げてはいけない、そう感じた。先に眠りに落ちたのは、以外にも男性の方だった。尋は彼のことについて多くは聞かなかったが、短い間一緒に過ごすことで、彼の言動をつぶさに見てきた。

「色々あっての、到達だったんだろうな・・。」

あれほどに険しかった彼の表情が、今はただただ眠りに就いた一人の男性であった。尋は彼を起こさぬように、そっと布団から抜け出し、お膳の隅の方に座った。そして、窓から差し込む微かな明かりをたよりに、部屋の引き出しに備え付けられている便せんと筆記具をとり、何やら書き物を始めた。そして、数枚を書き終えると、それをそっと男性の上着のポケットに仕舞い、布団の心地を確かめるように撫でながら、再び眠りに就いた。その夜、尋は夢を見た。薄暗い地平を、当てもなく彷徨う尋を遠巻きにして、無数の黒い何かが蠢いていた。微かに呻き声のようなものも聞こえた。そして、小さな地鳴りのようなものが聞こえたかと思うと、大地からいくつもの樹木が芽吹き、たちまちそれは大木と化して、黒い何かを枝で払いのけた。そして、あれだけ薄暗かった空に、一筋の光のようなものが差したかと思うと、やがてそれは尋に近づいて来て、大太刀のような龍の姿になった。そして、背と腹に焔をたなびかせながら真っ直ぐに尋の頭上を、後方から前方に向かって進んでいった。その後には、さっきまで無かった道が、尋の足元に出来ていた。樹木達はその道の両側に聳え、まるで尋を誘うかのように枝葉をざわつかせた。その遥か先に、焔立つ龍はまるで歓喜の舞を舞うようにうねったかと思うと、天上高く上り詰め、雲間へと消えていった。その光景を暫く見つめていた尋の頬を、いつの間にか一筋の涙が伝った。

「行く末を、見守ってくれているのか・・。」

尋はすべてのものの思いが自身に届いたような気がして、胸がいっぱいになった。そして、いつの間にか意識は薄れ、尋は深い眠りに就いた。

 翌朝、夜もまだ明けぬ暗いうちに、尋は目覚めた。

「3時半・・。」

そう頭の中で思いながら、部屋にあった小さな時計を見た。やはり時間通りだった。尋は男性を起こさないように、そおっと起きようとしたが、

「おはようございます。」

そういいながら、男性も起き上がった。そして二人は布団を上げると、サッと着替えた。部屋を出ると、

「フロントのことはお任せ下さい。」

男性はそういって先にいき、支払いを済ませた。

「すみません。」

「いえ。さて、いきますか。間もなく、彼を乗せた列車が到着する頃です。」

「はい。」

二人は宿を後にした。空はまだ真っ暗だった。あれだけ賑わっていた宿屋街も、今日の大祭を前に人々の疲れを癒やすべく、ひっそりと静まり返っていた。しかし、伽藍の神殿辺りでは、黒塗りの車数台と、それに乗り込む数人の男達の姿があった。

「恐らく、特別列車が到着する頃です。彼を出迎えて、そして、再び此処に戻って来るのが、丁度四時です。」

男性は、職務上得た知識を、尋に伝えた。もはや、今は任務など関係ない。尋と行動を共にするただの人として。

「神殿に入られてからでは、声はかけられなさそうですね。」

尋はそう呟いた。

「近づくことすら難しいと思います。もし方法があるとするならば・・、」

男性はそういって、尋を見た。

「ワタシの退職を知らない者もいるでしょう。警備の振りをして彼らに紛れて潜り込めば、恐らくチャンスはあるかと。」

男性の言葉に、尋は彼が捨て身で自身の行為を遂行する機会を作ろうとしているのを知った。

「いや、ボクは彼を襲うのではありません。ボクが此処にいることが解れば、彼の方からボクを呼ぶでしょう。そのやり取りが出来るだけでいい。そして、そのことを知る人間が最小限であれば、もっといいのですが・・。」

尋の言葉を聞いて、男性もまた、尋が一人で全てのことを終わらせる決意であることを知った。

「解りました。では、静かに、ただ静かに彼に挨拶に伺いましょう。」

「ええ。」

そういうと、二人はその場で車列が戻って来るのを待った。男性は、必ず尋を連れて戻るんだと、そう強く念じた。しかし、尋はまだ明けぬ星空を眺めながら、何とも涼しげな表情をしていた。そして、

「今見る星の光は、何億年も前に放たれたものが、ようやく今になって地球に届いたものだと聞いたことがあります。光とは、愚直に進むものですよね。」

尋はそういいながら、微かに微笑んだ。それを聞いて、男性は力を込めて固く握っていた拳を開いた。そして、一緒に星空を眺めた。


 やがて、遠くの方から列車の車輪が軋む音が微かに聞こえてきた。そして、午前4時、その音はピタリと止まった。尋と男性は星を眺めながら、そのときを待った。吐く息の白い中、二人は澄みきった心でひたすら待った。そして、先ほど出て行った車列が列を成して戻って来た。神殿の門が再び開かれようとしたそのとき、

「いきましょう。」

男性がそういうと、二人は車列が到着する門の方に向かって、ゆっくりと歩き出した。すると、出迎えで立っていた係の者が二人に気づき、静かに歩み寄ってきた。

「私だ。」

男性がそういうと、係の者は軽くお辞儀をし、二人を門の所まで案内した。男性は尋の方を振り返って、無言で軽く頷いた。それと同時に、車列が門の前に到着し、最初に黒服姿の男達が何人も下りてきた。次いで、幹部と思われる人物達、そして、最後には例の秘書官と、見覚えのある老人が車を降りた。息も絶え絶えだったが、尋が例の物体で息を吹き帰らせた、あの男性だった。あれほど白かった顔には血色が戻り、秘書官が手渡そうとした杖を拒むぐらいに、しっかりとした歩みで門の方へ向かって言った。周囲の者達は全員、直角に腰を曲げて老人に頭を垂れた。しかし、尋達を誘った男性だけが老人の元に足早に歩み寄り、秘書官に声をかけた。すると、

「おお!。」

と、驚いた表情で、秘書官は尋らを見つめた。そして、直ぐさま老人に近づいて耳打ちをした。門を潜ろうとした老人は歩みを止めて二人を見つめた。そして、にこやかに微笑みながら、秘書官と共に二人に向かってお辞儀をした。すると、先ほど二人を誘った男性が戻ってきて、

「御人様が、是非ともにと申しております。」

そういって、二人を秘書官と老人のところまで誘った。尋達が近づくに連れて、秘書官の表情は強ばっていった。しかし、

「ご苦労であったな。」

老人はそういうと、男性の右手を取り、握手をしながら左の方をポンと軽く叩いた。すると男性は、

「彼が、この度の奇跡を起こしました人物です。」

そういって、尋を老人に紹介した。秘書官は黙って顔を強張らせたままだったが、

「そうでしたか。この度は、誠にもって、御有り難う御座いまする。」

老人がそういいながら深々と頭を下げるのを見て、彼も一緒に頭を下げた。尋は何かいおうとしたが、張り詰めた空気の中、何も言えずに自分もただただ頭を下げた。すると、

「この者が苦心して、あなたを連れてきてくれたのでしょう。今日は年に一度の大祭の日。そして、私の快気祝いも共に祝ってくれようと、みなが集まってくれております。ささ、アナタも是非、来て下さらんか?。」

老人はそういって、尋の肩に手を置いた。

「はい。」

尋は快諾した。そして、老人と尋、秘書官と男性がそれぞれ並びながら門を潜って、神殿に入っていった。東の方角から微かに朝日が差して、伽藍の甍がキラキラと輝きを放ち、主を迎え入れた。

 門を潜ると、巨大な玄関扉が開かれ、両側に黒服の者達が並んで直角に頭を垂れた。そして、一番手前に立っていた男性が金属探知機のようなものを持って尋と老人の方に近づいて来た。すると、老人は軽く左手を挙げて、手の平を見せながら男性を制した。男性は慌ててその場に立ち止まり、まるで詫びるかのように頭を垂れた。尋達の次に秘書官と男性が通り過ぎようとしたそのとき、

「無粋であるぞ。」

と、秘書官は頭を垂れた男性を諫めた。そして、四人は中へと歩みを進めた。すると、目の前には巨大なタペストリーが掲げられてあり、老人の帰還を祝う文字が書き染められていた。老人はそれを見て、

「うん、うん。」

と頷いた。そして、

「さて、御名前も伺ってはおりませなんだな。」

と、老人はたずねた。

「尋です。」

「尋殿か。アナタは正に、私の命の恩人。齢を重ね、天のお導きで、私ももう旅立つ心づもりもしておりましたところ、何かのご縁で天はアナタを使わして下さった。それはきっと、みなのために、私にもう一働きせよという、そういう御啓示であったと、そう思っております。」

老人はタペストリーを見つめながら、尋にそう語った。その目には、何か漲るようなものが宿っていた。すると、

「ところで尋殿。私はアナタという人を、よく存じてはおりませぬ。命をお助け頂いたのに、それは誠に申し訳無いこと。大祭までには、まだ時間がありあす。宜しければ、あちらで、アナタについて色々とお聞かせ下さらんかな?。」

老人はそういいながら、自身の執務室に尋を誘おうとした。そして、その後ろでは、

「聞きたいことがある。来たまえ。」

と、秘書官が男性を別方向に連れていこうとしていた。それを聞いて尋は、

「あの、この方に本当に良くして頂きました。彼も一緒に、是非。」

そういって、尋は振り返りながら男性の肩を持った。老人は少し驚いた様子だったが、

「尋殿がそういわれるなら、ささ、其方も一緒に。」

そういって、二人を執務室へと誘った。秘書官は少し悔しそうにしながら、視線を床に落とした。


  四人が通る通路の両脇には、黒服の傅く者達が整然と並んでいた。そして、一際大きなロビーに出ると、その奥が執務室の入り口になっていた。

「さて、ワシは尋殿と暫し歓談したいのだが、其方はここで待ってて頂けるかな?。」

老人は考案の男性に、執務室の前にある椅子の方を手で差し、座って待つようにいった。

「御意に。」

男性はそういうと一礼した。

「ささ、尋殿。どうぞ此方へ。」

そういうと、老人は尋を執務室に誘った。ロビーに秘書官と男性の二人を残して。

「ギイイッ。バタン。」

ドアは閉ざされ、男性は椅子に腰掛けた。すると秘書官が近づいて来て、

「よくもおめおめと戻って来れたものよのう。お前は退職したはずじゃが?。」

秘書官は嫌味ったらしく、男性にいった。

「はて、そのような個人的なことを、何故アナタが知っておられるのでしょうか?。まあ、そんなことは、もう、どうでもいいことです。仰る通り、私はもはや何者でも無い、ただの一般人です。縁あって、尋さんに助けられました。だからこうして、今日はお供として付き添っているだけです。」

そういうと、男性は座ったまま足を組んで寛いだ。先ほどの黒服も者達数名がロビーにやって来たが、秘書官は後ろ手に彼らを制した。

「下がっておれ。」

秘書官がそういうと、黒服の者達は通路の方に姿を消した。

「まあ、よい。お前の失態はともかく、御人様は無事、生還された。お前も以後、大人しく余生を過ごすのであれば、報いを受けることもなかろう。」

そういいながら、秘書官はドアを挟んで反対側にある椅子に腰掛けた。

「ところで、彼は急に行方を眩ますほど我らを拒んでいたのに、どうやって此処まで連れて来られた?。強引にか?。それとも、余程説得力のある条件でも提示したのか?。」

秘書官は、尋がこの場にすんなりと来たことを不思議に思っていた。すると男性は微笑みながら、

「いいえ。そのようなことは一切ありません。彼は、自ら進んで此処を訪れようとしていました。だから、私が案内がてら、付き添うことにしました。」

「ほほう。して、彼は何故、此処に来ようと思っておったのかな?。」

秘書官は、淀まず語る男性に、さらにたずねた。男性は真っ直ぐ前を見ながら、

「全てを終わらせたかった。恐らくはそうでしょう。歪に長ずるものに終焉を・・。」

晴れやかな表情で、そう語った。秘書官は怪訝そうな顔で男性を見つめた。しかし、男性は真っ直ぐに前を見たまま、静かに目を閉じて、事が終わるのを待つことにした。

 その頃、執務室では、老人が巨大な像に頭(こうべ)を垂れて、ひたすら拝んでいた。その後ろで、尋はただただポツンと立っていた。そして、

「さ、尋殿。どうぞお掛け下さい。」

老人はそういって、尋を巨大なソファーに座らせた。そして老人は大きな机を挟んで、尋の向かい側に鎮座した。

「この度は、本当に助けて頂いて、感謝をしてもし尽くせません。ワシはこれまでに幾度も奇跡を見、そして触れてきました。そしていつしか、自身の内にもそのような力が秘められているのではないかと思うようになりました。十の春でした。今にも消えゆく父の手を握り締めて念じると、父は再び息を吹き返した。ワシは必死で念じたから、その祈りが通じたんだと思いました。しかし、それは違った。父が蘇生したのは単なる偶然。回りはワシの力だと歓喜したが、弱りかけた動物達をいくら山で蘇らせようとしても、全くの無駄でした。だが、その頃から、ワシは超常の力を備えた神童と騒がれるようになりましてな。すると、先代の御人様がその噂を聞きつけて、ワシを此処へ呼び寄せました。」

老人は、初めこそ淡々と語っていたが、次第に眉間に深い皺が刻まれ始めた。

「御人様は、ワシを後継者として指名しました。しかし、ワシにはそのような力は無い。みながいうのは単なる偶然と、御人様に正直に伝えました。すると御人様はワシの口に人差し指をそっと添えて、何もかも承知じゃと、そういいました。しかし、心配はいらん。お前にその力が希薄であろうとも、真に力を持ちたる者が必ずいる。そんな彼らを影に従えて、お前が矢面に立って、人々を救うのじゃと、そう仰られた。十の小さき身には、ことの重みは全く理解出来なんだが、全ては御人様の言葉通りに運ばれました。何百、何千の人々が御人様の恩恵に肖らんと日参する姿を、傍らで見るように、そう、いいつけられました。来る日も来る日も、御人様はみなの願いを聞き届けようと、にこやかに人々を出迎え、そして、奇跡を起こされた。無論、その影には多くの功労者が存在したことはいうまでもありませんが。」

老人の眉間は、さらに深く刻まれようとしていた。尋は執務室の空気が次第に重く沈んでいくのを感じていた。


 老人は両の手を組み、机に肘をついた。そして再び語り始めた。

「古の時代には、自身が超常の力を備えて、民を救って回った方もおられましょう。そして、そんな力を求め、大勢の民が押し寄せ、また、そのような力を与えんがためには、一時(いちどき)には無理。そしていつしか、順序を備えて施すよう、仕組みが設けられた。それでも、頼み事というのは絶えませぬ。御人様の前には、来る日も来る日も、人々が列を成して押しかけてきます。中には、業を煮やして順を守らぬ者も現れまする。斯様にして、ある時代には、時の権力者のお抱えになった御人様も居られたと聞きます。それでは、民への施しは一向に叶いませぬ。そしてあるとき、一握りの者にのみ利用される、そのような轍を断つためには、志を同じくしたる者が強くあるべきだと悟りました。さすれば、御人様の力は、誰の顔色を伺うことも無く、みなに等しく施されるであろうと。そして、御人様を崇める者達が集い、やがては巨大な集団が形成されていきました。集いし者達は、強者(つわもの)ばかりではありませなんだ。才ある者も多く含まれておりました。やがて、彼らは御人様を中心とした、一大国家のようにまで膨れあがったとも聞きます。」

老人の語りは、あまりにも壮大であった。今、こうして対峙する人物が、如何にしてこの場に居るに至ったかを、尋はあらためて認識した。

「ある時には、自身が権力者として振る舞う御人様も居られたとか。しかし、それは必然的に戦に向かうということ。それでは民を救うという志に反する。集いし者達の間で、我らがあり方を如何にすべきかと、幾重にも話し合いが持たれました。そして、人里離れた山中に居を構え、時の政(まつりごと)を司る者達とは距離を置きつつも、親しく接することで、我らが安寧の地なる礎が誕生しました。」

「それが、この地という訳ですか。」

「さよう。」

尋の質問に答えると、老人はさらに続けた。

「斯様にして、政と我らとの間に平穏は保たれた・・ように思われた。しかし、それも表向きのこと。権力とは、下(げ)に恐ろしきもの。留まる所を知りませぬ。歴代の御人様も、結局は天下人との間を如何に程よく保つかに、大層心砕かれたと聞きます。概して、心優しき御人様は、民に施しを行うことを念頭に、その保証として天下人に力添えをし、機嫌を伺う。そのような方ばかりでした。それではやはり、我らが存亡は危ういまま。戦乱の世には身を潜め、辛うじて生き長らえましたが、逆に平穏なる時代には、多くのものを要求されました。年貢、税、力。我らが大勢になればなるほど、より多くを貢げるはずと、過度なる申しつけは絶えませなんだ。そのような中、とある御人様が、自らの手で政に関わる者達を育む試みを謳いました。幸い、才ある者達の末裔も多くおりました故、そのようなことの普及には事欠きませなんだ。地道なる教えは、やがて実を結び、今では常に政に際して知恵を与え、天下人と共に歩まんとする者が輩出されております。しかし、過去の戒めとして、自らで天下を治めることは断じて無きよう、皆、心に誓っております。」

そう聞く限りでは、彼らの道程が如何に険しく困難であったか、そして、その本懐を遂げるに至ったことの賛美に対して、尋は矛盾も違和感も見出さなかった。

「それなら、何故、私のような者を探されるんです?。」

尋は率直に老人にたずねた。

「それはやはり、力です。」

老人は尋を真っ直ぐに見つめて答えた。

「我らが集団は、組織作りにおいて、その構造を確かなものにせんがための術は、十分に培ったと思っております。そして、これからも、その機構と運営は続くでしょう。ただ、同時に、我々の信ずる所として、民を幸福に導くべく、超常なる力を備えし者が、皆を率いる。そのことを民が懇願する事実は、今も昔も変わりませぬ。故に我らは、いつの時代もそのことを担い得る者達を探し、そして、我らが影となりて、力添えを頂くよう、お願いして参った次第です。」

それを聞いて、尋は始めて違和感を覚えた。

「お願い・・ですか。これが。」

尋は、これまでに自身に起きた出来事がどのようなものであったかを一瞬で振り返ったが、眼前の老人にそのことを伝えようとも、それは徒労であることは自ずと窺えた。案の定、

「はて、何か、ご異存がおありかな?。」

老人は、まるで眼前の出来事が順風満帆な、大祭前の余興であるかのようないい振りであった。

「ならば、あらためて申し上げましょう。尋殿。其方の多大なる功績を、我らはとても感謝しておりまする。以後も、我らの力となって、人々に安寧を与えるべく、どうか、お力添えを頂きたい。この通り。」

そういうと、老人は立ち上がって、尋に深く頭を下げた。当然、尋は困惑した。自身が協力することを、いや、この集団そのものを肯定していると、勝手に思われていることに。

「あの、すいません。ボク自身に力がある訳ではありません。ただ、何の偶然か、そのような現象を起こすようなものを手にした、ただそれだけです。人の命を救い得る。そういうものを。でも、それが果たして正しいことなのかどうか、ボクには未だに解りません。ですので・・、」

尋は老人の申し出を拒もうとした。と、そのとき、老人は頭を上げたかと思うと、尋を見つめて口を開いた。


「そうですか。まあ、何を信とするかは、人それぞれ。ところで、其方の持つそれは、どうやら余程、手に余るもののようですのう。なればこそ、相応しき者の元に、それがやって来た。それが、物事の理(ことわり)というもの。それを持つことで、苦労は絶えなんだでしょう。ささ、それを此方へ渡して、其方も解放されるが宜しかろう。もう十分、功も責め苦も成した。ささ。」

老人は執拗に、尋の持つ物体を欲した。すると、尋は上着のポケットから楕円形の物体を取り出して、それを指で摘まんで老人の前にかざした。

「ほほう。これがその、人の命を長らえるものですかな?。」

老人の問いに、尋は黙って頷いた。老人は机から乗りだし、両手で楕円形の物体を受け取ろうと、手を伸ばした。しかし、そこで老人の動きはピタリと止まった。

「どうしました?。これが欲しいのでしょう?。ならば、お受け取り下さい。」

尋は物体越しに老人を真っ直ぐ見据えて、ハッキリと答えた。そして、

「これがあなたの手にあるのが物事の理ならば、受け取れるはずです。さあ、どうぞ。」

尋は続けたが、老人は動かなかった。いや、微かに前の方に手を伸ばそうとしたが、それ以上は伸ばせない様子だった。そして、次第に顔から血の気が失せていくのが解った。老人は苦しそうに胸を押さえ、再び椅子に深く腰掛けた。そして、

「尋殿、其方もお人が悪い。それは、其方の手の中でしか、いうことを聞かぬ。そういうものだと、知っておられたのでしょう。それとも、何か結界のようなものでも張っておられるのか?。」

と、老人は荒唐無稽な問いを発した。

「いいえ。私は何も知りません。そして、今までこれを誰にも見せたことも、手渡したこともありません。ですが、これを持った時から、私にとっての終焉が始まった、そのような気はしてました。もし、そのような業が私に重くのし掛かっているのであれば、それが結界となって、他の者に触れないようにしてくれているのかも知れません。巻き添えをさせないために。」

尋は淡々と答えた。老人は苦しそうに尋を睨んでいたが、呼吸が楽になったのか、再び語り始めた。

「なるほど。それはやはり、其方の手の中にあるときしか、力を発揮せぬもののようですな。ならば、其方はやはり、此処にいて我らが為に尽力頂くことになりましょう。」

尋には予感はあったが、老人の言葉にあらためて愕然とした。そして、

「あなたは巨大な組織を率い、人々を導いておられるようです。一角の人物とご拝察致します。しかし、大変申し上げ難いのですが、こと、この物体に関しては、僅かな時間の間に、随分と矛盾をはらんだご発言を繰り返しておられます。あなたが思う物事の理通りに、これはあなたの手には渡らなかった。そして、私が此方に留まってあなた方に協力する意志の無い旨を伝え、一度は了承したかのように述べておられましたが、これがあなたの手には渡らないと解った途端、私に留まれという。結局、あなたは人を意のままにすることしか考えておられない。政を疎んじておられても、ご自身が崇められて担ぎ上げられ、何時しか最も疎んじていたものに、あなたはそのまま飲み込まれてしまった。違いますか?。」

そう話し終えると、尋は真っ直ぐに老人を見据えた。

「くくく。」

老人は苦笑いしながらも、反撃の機会を伺っていた。

「よくもまあ、いけしゃあしゃあと喋りおるわい。ま、ワシが権力まみれなのは、もはや周知の事実。何人たりとも、ワシに楯突く者はおらん。今まではな。確かに、小ざかしい者は幾人かはおったが、いずれも身の程を弁えぬ愚行を思い知る結果となった。じゃが、其方はこれまでのような者共とは、ちと違うようじゃのう。小気味いい。恩人と思えばこそ、容赦もしておったが、それも此処まで。其方がそれを手にして現をぬかしておったことが、如何に愚かなることかを、これから特と知ることになろう。」

そういうと、老人は机の上に置いてあった硝子のベルを手に持つと、

「チリリリン。」

と振って音を立てた。すると、

「ギイイイッ。」

とドアが開いた。

「尋殿は少しお疲れのようじゃ。医務室で休ませてあげなさい。」

と、老人は秘書官に述べた。いや、そのつもりだった。しかし、

「秘書官なら来られませんよ。」

代わりに入ってきたのは、尋と共に来た公安の男性だった。

「彼はどうした?。」

「外で眠っておられます。」

「ならば、其方でも構わん。尋殿を医務室へ・・。」

「何故ですか?。」

「何故って、それは尋殿は気分が優れないようなので、」

老人の言葉に、男性は尋の方を見た。尋はやれやれといった表情で、肩を竦めて戯けて見せた。


 二人の様子を見て、老人は幾分、状況を理解したようだった。そして、

「おぬし、ワシを裏切る気か?。」

そういって、老人は男性を睨み付けた。男性は尋の横にあった椅子に腰掛けて、ゆっくりと話し出した。

「今だから、全てをお話します。アナタは国家の中枢に深く関わり過ぎました。彼らはアナタがこの国を思うように動かすことを大変危惧していました。そして、私がアナタの元に差し向けられた。アナタが暴走しないよう、つかず離れず、様子を窺い、時に制することが私の任務でした。確かにアナタの功績は大きい。多くの者達が、アナタのお陰で精神的に救われたことも、十分目にして来ました。しかし、その裏で、どれ程の人間が新参を舐め、血の涙を流してきたかも、私は残念ながら見ることとなりました。ご心配なく。そのことは一切口外していません。あまりに惨すぎて、口にするのも憚られることですから。それは私が墓まで持っていきます。何より、アナタを慕い、信じ、傾倒する人達を苦しめるのは本意ではありませんから。」

男性はそういうと、真っ直ぐに老人を見た。そして、また話を続けた。

「しかし、そのような行為を知りながら、そのことに目をつぶって任務に自身を埋没させたのは、自らの最大の落ち度であり、罪です。何時しか、私は自分を許せなくなりました。しかし、自分に出来ることは、任務の遂行しか無い。そういい聞かせ、自身を偽って、全ての苦しみを甘んじて受ける決意をしました。しかし、苦しみは私だけには訪れなかった。最愛の娘を病で失うことは、あまりにも耐え難かった。もしそれが、私への罰ならば、それでも受け入れるしか無かった。人知を超えた何かが私にそう裁きを下したのであれば、人はそうされるがまま、生きるしか無い。そう思っていました。しかし、事実は違いました。彼が、尋さんが私の元に現れ、多くを語らずとも、全てを察し、そして、私を許してくれました。何より、もし、私の身に何かあろうとも、受け入れる覚悟は出来ていましたが、やはり娘のことだけは心残りでした。そんな、私にとって真に深い苦しみを、彼は取り去ってくれました。何の見返りも求めず、彼は我々の前から姿を消しました。彼が我々親子に施してくれたことは、恐らく、人知を超えた何かだったんでしょう。そして私は、自身の運命(さだめ)をようやく知りました。彼の本懐を遂げる邪魔を、何人(なんぴと)たりともさせない。そのために今日、私は此処へ来ました。申し訳ありません。アナタのためではありません。」

男性はそういい終えると、優しい眼差しで老人を見つめた。話を聞き終えて、ようやく老人は口を開いた。

「揃いも揃って、お前達は下に愚かよのう。此処はワシの城、もはや己らの希望は、微塵にも果たされぬわ!。」

老人は、机の至る所を手で探り、ありとあらゆる手段で狼藉者を排除しようと、仕掛けを起動させた。しかし、そのまま時は静かに流れ、部屋には三人以外、誰も現れなかった。

「こんなこともあろうかと、全ての警備システムは切っておきました。」

男性は、秘書官が騒ぎ立てないように眠らせた後、かつて知り得た敷地のセキュリティーを、先回りしてダウンさせておいたのだった。誰にも悟られずに。

「おのれ下郎が!。このワシに何が出来るというのだ!。小賢しい。思い知るがよいわ!。」

老人は激高して、傍らにあった杖を尋目掛けて投げつけた。

「ガツン!。」

尋は全く身を躱さなかった。眉間にぶち当たった杖は、尋の額を割った。

「気が済みましたか?。私は二度、死んだ身。いや、死に損なった身。申し訳無いことをしました。しかし、生かされた。何かの使命を得て、再び世に戻されたのだと、薄々は感じていました。そして、今ようやく理解しました。」

尋はそういうと、額から滴る血も拭わず立ち上がり、老人の側へ歩み寄った。

「く、来るな!、下郎が!。ワシに触れるな!。」

老人の抵抗虚しく、尋は老人の後ろに回り込むと、左腕で老人の首元を抱えた。そして、右手でポケットから例の楕円形の物体を取り出すと、吹き口とは異なる方を下にして、机に向けて物体を持った手を振り下ろした。

「コン!。」

物体は反対側にも口を開いた。微かに埋めて焼き固めてあった穴があったのを、尋は知っていた。そして、

「すみません。やはりボクは帰れません。どうか、あなた一人で、待つ人の元へ戻って下さい。有り難う。お元気で。」

尋はそういうと、今し方出来た物体の穴を口に付けて、一気に息を吹き込んだ。

「ピヨオオオオオオオッ!。」

甲高い音が部屋中に響いたかと思うと、青く渦巻く炎が部屋中を取り囲み、たちまちそれは水と化した。そして、背に焔を立たせた大太刀のような龍が突如として現れ、尋と老人を真ん中にして蜷局を巻いた。建物にあったはずの天上は、何時しか天空に変わり、周囲を木々達の精霊が取り囲んだ。そして、床下からは黒い何者かが無数に現れ、未練に満ち溢れ、呻きながら抗う老人を地の底へと引きずり混んでいった。その後、龍は蜷局を緩め、しなやかにうねると、大きな眼で尋を一瞥した。そして、そのままゆっくりと昇天し始めた。尋は最後に、微笑みながら男性の方を見つめ、二本の指で自身の胸ポケットを押さえる仕草をした。その仕草が何かの合図と気付いた男性は、胸ポケットにメモが身が数枚入れられてあるのに気付いた。そして、男性が再び尋の方を見たとき、尋はにこやかに一礼して、そっと目を閉じた。龍の尾が尋から離れそうになる直前、彼はそれを握り締めた。龍は優しく尋と連れ立って、晴れやかな天へと昇っていった。そして、次の瞬間、部屋は何事も無かったかのような、静寂に戻っていた。


 龍は勢いを増し、グングンと天に昇っていった。そして、楕円の物体は色氏の手からスルリと滑り落ち、時の狭間に封印された。代わりに、尋の手の中には何か輝くものが一粒握られていた。尋はそっと手を開けてみた。

「立方体・・。」

それは、尋が確認することの無かった、老人の最後の立方体だった。

「これはもしや、老人の!。」

真っ直ぐ天を見つめていた龍は、その瞬間、尋の方にふり向いて、

「覇者現ルル所ニ数多ノ屍在リ。汝ハ命ヲ賭シテ人界ノ悪行ヲ粛セシメタ。汝ニ報イルベク、望ミヲ叶エ給ウ。申スガヨイ。」

そう念話で伝えた。遥か上空で薄れゆく記憶の中に、尋は男の子の顔を思い浮かべた。真君だった。それを察した龍は、

「彼ハ健ヤカナル人生ヲ過ゴス者ナリ。案ズルニハ及バンヤ。」

尋にそう伝えた。尋は安堵の表情を浮かべて、一切の雑念を脳裏から消し去った。最後に一言だけを呟いて。

「有り難う。」

やがて龍と尋は、光さす雲間の元に消えていった。


 かつて尋が働いていた施設に、今も勢力的に働く添さんの姿があった。若干年老いたが、二人の支えで、就学に困った子供達を受け入れながら、賑やかに日々を過ごしていた。一人はか細い女性、そして、もう一人は絵の上手い凛々しい青年だった。そんな三人の胸元には、とある男性が届けに来た小さなメモ紙が、丁寧に折りたたまれて、大切に仕舞われていた。いつも一緒といった感じに。男性は、組織の運営が主を失っても、まるで何事も無かったかのように振る舞っているのを知ると、娘と二人、人知れず、この国を離れた。そして、気候の穏やかな自然に囲まれた場所で、ひっそりと暮らしているらしい。自分達にに幸をもたらしてくれた人のことを思い出しながら。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

リュウグウノツカイ 和田ひろぴー @wadahiroaki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ