第2話 新たなフラグ
物心ついた時…おそらく5歳頃から、夢を見ていたと思う。
灰色の建物が乱立する世界で、自分も灰色の…女性だというのにドレスではなくトラウザーズのようなものを履いて、ぎゅうぎゅうと人が乗り込む箱に乗って、灰色の建物に入っていっていた。
朝から晩まで働いて、小さな板切れを覗き込みながら寝落ちしていた毎日。
父や母、兄に話しても知らない場所だという。
だからずっと空想の世界なんだろう、と思っていたのだけど。
先日、7歳の誕生日を迎えたその夜に全てを思い出してしまった。
(あの灰色の世界は、日本の川崎。そして私の名前は佐川杏奈)
イアンナってひねりがない、と真っ先に思ってしまった。
34歳ギリギリアラサーで独身会社員だったが、特にブラック会社に勤めていたわけでもないので、過労死なんかはしていない。
(でも死んだってことよね。記憶だけっておかしいし)
が、それよりも重要なこと。
それはこの世界が、<光の聖女に恋はまだ早い>…略して<ヒカコイ>という名の乙女ゲームの、しかも自分の役割が、悪役令嬢だということ!!
道理で黒髪に赤い目だなんて、珍しい外見をしているものである。
(父様が黒髪はいいとして、母様が赤い目だったなんて…)
悪役令嬢の両親はゲーム中にボンヤリとした背景でしか登場しなかったので、全く思い出さなかった。
というか、母と兄は7歳の時に既に退場しているから導入時の背景でしか紹介がなく、それ以降は父のみだ。
自分は父の髪と母の緋色の目を引き継いだ。
そして兄のデリクは母の銀髪と、父の翡翠の目を引き継いだ。凄まじく羨ましい。
(逆ならいいのに…)
幸い、親子ともども美しいので珍しい色でも表立って嫌味を言われることは無かった。
そして何より、自分は膨大な魔力を宿し生まれたので、王家に目をかけてもらっている。
王太子のウィリアムは3つ上で、既に同い年の公爵令嬢との婚約が決まっていたので、第二王子のジョシュアの婚約者候補筆頭なのだ。
もちろん、幸せな家庭が築けるかは彼と結婚できたら、だが。
先日の騒動は落ち着き、母も兄も生きている。つい感情的になり何かを口走ってしまったが、結果的にはフラグを折ったしそれは嬉しいのだけど。
(ジョシュア殿下をヒロインに攻略されたら終わりだわ…)
本当に存在した野盗の下りも、ゲームと全く同じだ。学園に行けば必ずヒロインは入学してくるだろう。
もちろん、虐めない。近寄らない。
転生者だとしても、同じ。
しかし男爵家に拾われるまでのヒロインは貧乏だ。自分はともかく、結婚すれば非常に美味しいポジションの第二王子に近寄って来るだろうし、昨今のライトノベルのように嘘をついて自分を貶めるかもしれない。
彼女が選ぶルートによっては、死ぬこともある。
イアンナはベッドの中でぶるりと震えた。
(どうしよう…)
先日の人生における最大のターニングポイントである最悪なフラグは叩き折ることが出来たが、今後も様々なフラグがある。それがゲームと同じとは限らないのだ。
しかも乙女ゲームから逸脱した侯爵家に対して、世界から修復作用が働くかもしれない。
(神様、別にジョシュアのお嫁さんじゃなくてもいいんです。ヒロインとは関わり合いのない、普通の家庭を築きたいです)
7歳の子供が祈る内容ではなかったが、イアンナは夜通し祈り…しかし体は7歳。疲れて寝てしまったのだった。
「イアンナ、お寝坊さんね」
次の日、イアンナが眠そうなお顔で起きてくると既に朝食を済ませた母のオリビアが笑っていた。
「お母様、おはようございます」
「ええ、おはよう」
「デリク兄様は?」
緋色の瞳が中庭へ向く。
「鍛錬中ですよ」
「えっ」
「先日の事でね、自分も鍛えないと、と言いだして…」
急にどうしたのかしら、と苦笑している。
「お兄様が剣…」
中庭が見えるテーブルセットに用意された朝食を食べながら、兄を見る。
デリクが侯爵家の私兵の1人に、稽古をつけてもらっていた。
まだ木刀だし、木刀の握り方、振るい方だけだが。
(…兄様はこれからどうなるのかしら?)
<ヒカコイ>での兄は、今の時点で存在しない者だ。
大人になって嫁を取り侯爵家を継ぐのだろうとは思うが。
つい、ヒロインの攻略対象にならなければいいけど、と思ってしまった。
それもそのはず、デリクは銀髪翠眼で穏やかなイケメンといった女子にモテやすい容姿をしている。
母のお茶会にやってくる小さな令嬢も、親は彼に見せる事が目的で連れてきている。
そのせいか、イアンナはイジメもイヤミも面と向かって言われた事がない。社交界では母が睨みを効かせていた。
(母様と兄様がいなくなったら怖いわ…)
だからこそ、ゲーム中で母と兄を失ったイアンナは義母と義兄・義姉に守られず、イジメの対象となり性格が歪んでしまうのだ。
侯爵家のご令嬢で第2王子の婚約者筆頭なのは今も変わりない。
伯爵家は無くなったが、第二、第三の敵対する家が現れてもおかしくない。
(気を引き締めなくっちゃ)
自分のデビュタントまでしばらくは平和な生活が出来るだろうが、警戒しなくては、とイアンナは思った。
(あ…)
中庭でデリクの横で手を振る少年がいる。
日に焼けた肌に、短い山吹色の髪。青い瞳が笑っていた。
手を振り返すとニッと笑って、デリクと共に剣を振り始める。
(レオったら…庭師なのに)
彼は元孤児のレオだ。イアンナが5歳の時に母とともに領内の孤児院へ慰問へ行った帰りに拾った子供。
初めての慰問で親がいない子供がこんなに居る、という事に愕然としたイアンナが道端で倒れていた子を見つけて連れ帰る!!とダダを捏ねた結果だった。
名前がないと言うので髪色からレオとイアンナがつけた。
その後は庭師の下で広大な庭を管理するため修行中なのだが、同い年のためか気安く、また、文字をイアンナが教えたりしているので彼女によく懐いており、デリクとともに一緒に遊ぶ仲だ。
それがどうして剣の稽古をデリクとしているのか、分からないが。
「イアンナ」
名を呼ばれて思考を中断する。
「はい、お母様」
手に取ろうとしたスコーンを置いて母を見た。
「3日後、登城します」
「はい。…登城?お城に?」
つい聞き返してしまった。
(だって、デビュタント前よね??)
「陛下からのお呼びです。ドレスは先日の誕生日の物を着るとして…夜ふかしは控えなさい」
「は、はい」
返事はしたものの、頭の中は"はてなマーク"でいっぱいだ。
(陛下からのお呼びって、誰を?父様はしょっちゅう行ってるから、母様とか兄様?)
いやでも、ウチはヒロインと違い王家の血の繋がりは無かったはずだ、と首を傾げているとオリビアは笑いながら言う。
「目的はあなたよ。…魔力が多いからと目を掛けて頂いていたけど、今度は予見の力について知りたいのですって」
「あっ…そうでした…」
先日のやらかしについて、王と宰相に詰め寄られた父は「娘が夢で見た」と報告したそうだ。
確かに昔から不思議な夢を見ては両親に語っていたので、当然そうなることは予想できた。
(しまったぁ…予見ったって、ゲーム中のことしか知らないんだけど…)
王国についての未来が見える訳ではない。ただ一人の少女を取り巻く期間限定の小さな世界を、知っているだけ。しかもその少女は別の人だ。
「あの、自分が望んで見える訳ではないのですが」
「ええ。そう説明したわ。でも、会ってみたいと言われたら、断れないのよ」
「そうですね…」
王様に言われれば当たり前だ。
なお、父は外務大臣として忙しい日々を送っている。だから<ヒカコイ>では継母を迎えた後はあまり家に居らずイアンナを庇えなかったのだ。
「大丈夫よ。幾つか聞きたい事があるだけ、とお話していたし」
「そうであればよいのですが」
「王妃様もあなたを心配して謁見に列席してくださるそうよ」
「えっ」
(王妃様…?)
イアンナの驚きを別のものと汲み取ったオリビアが続ける。
「そうよねぇ、臥せってしまわれてからずいぶんと経つのよ。大神官は何をされておられるのかしら…」
彼女はそのまま、多額の寄付金を吸い上げていくのに全然機能していない神殿について愚痴をこぼす。
しかしイアンナは重大な事を思い出して、冷や汗を流していた。
(王妃様ってまだ生きてるの!?)
<ヒカコイ>では学園からがゲーム本番だが、その時点で既に王太子と第2王子の母である王妃は亡くなっているのだ。
(ええと、死因って)
すりガラスの向こうのような、前世の記憶を手繰り寄せる。
たしか、病気では無かったはずだ。怪我は神聖魔法で一瞬で治せるし、病気も神聖魔法の補助があれば少し長引くものの薬で回復する。王妃ともなれば王宮にある最高品質の薬が使用されるだろうし、母の言う通り大神官が神聖魔法を掛けるだろう。
それなのに、回復しない病とは。
(…ちがう。病じゃない)
心臓がドキドキしてきた。
胸を押さえて、イアンナは思い出したことを反芻する。
(王妃様のお加減が悪い理由は、呪いだわ…)
そうして理由の分からぬ病に倒れた王妃は、おそらく数年以内に逝去する。
第2王子は忙しい王と兄から愛を与えられぬまま育ち、ヒロインに即落ちしてしまうほど心が空っぽの青年に育ってしまう。
その事はともかく、呪いのことは伝えねばならない。
「分かりました、お母様。私、謁見では失礼のないようにきちんと頑張ります」
その大人びた言葉にオリビアは目を見張る。
それを隠すように笑顔で頷いた。
「ええ。お父様も私もいるから大丈夫よ。戻ったら、あなたの好きなチョコレートケーキを食べましょうね」
「えっ!…はい!」
チョコレートに目がないイアンナは子供らしい笑顔を返し、母はちょっぴり安心したのだった。
朝食の後、イアンナはいつものように庭の片隅にあるガゼボへ筆記用具を持って向かう。
自分の勉強の復習と、レオの勉強を見るためだ。
剣の稽古をしていたレオはデリクに断り、さっさとこっちにやってきた。
(相変わらず、格好いいなぁ)
紐付きシャツに吊りズボン、ブーツという庭師スタイルだが彼が着ると格好良く見える。
山吹色の髪は日を浴びてキラキラしているし、青い瞳はサファイアのように美しい。
実を言うと彼は、当初は数日屋敷へ置いた後に孤児院へと預けられるはずだった。ゴードもオリビアも子供ながら美しく精悍な姿と、自分を助けてくれたイアンナを守りたいという真っ直ぐな心意気を受けて屋敷へ置くことにしたのだ。
そして魔法も少々使えるレオは、浄化魔法を唱えて身ぎれいになるとイアンナの隣へ座る。
「城に行くって聞いた。…大丈夫なのか?」
「うん…たぶん」
デリクに登城の話を聞いて、レオは自分も行きたいと言ったのだが却下されていた。
「危ない時は、呼べよ」
「そんな遠くまでわかるの?」
なぜかレオはイアンナの危機がわかる。
逆に言うと彼女の危機しか分からず、先日の母と兄の危機は感知していない。
「わかるって!な?だから絶対呼ぶんだぞ」
「うん、わかった」
イアンナは少し心が軽くなるのを感じた。
中身はアラサーだとしても知識は日本のもので今はかよわい少女。危機を切り抜けられるほどの腹黒さも武力もない。
当日は父と母が守ってくれるだろうが、王には逆らえないだろう。
その点、彼は自分を最優先してくれる。来てくれても城に入れないだろうが、心強かった。
しばらく文字を書き続けていたレオがぽつりという。
「アンはさ…」
「なあに?」
歴史書から目を離してレオを見る。
サファイアの瞳がじっとこちらを見ていた。
「王子と、結婚するのか?」
「!…ううん、たぶん、しない」
もしそうなろうものなら、両親に人生をかけた我儘を言おうと思っている。
「王宮なんて、行きたくないし…」
出来れば普通の旦那様か、結婚出来なくてもいいからひっそりとこの屋敷にいたい、そう考えている。
レオは笑顔になった。
「そっか!なら家にいればいいよ」
「うん」
「ずっと一緒に庭を散歩しようぜ。アンの好きな花、たくさん植えるから!」
「うん?うん」
レオは遊び相手が居なくなりそうで寂しいのだろうか。
彼についてはもちろん、屋敷へ引き入れた自分が責任を持って最後まで雇い続けてもらうつもりである。
兄の代になっても頼み込む予定だ。
「あと、強くなって…ちゃんと守れるようになるから!」
どうやらレオは護衛を目指し始めたようだ。
頼もしいと思いつつ、いいなぁ、と思ってしまった。
彼は侯爵家という後ろ盾を得たから、目指すものには必ず慣れるだろう。
自分はよくて政略結婚か、断罪ルートだ。
「…レオは、レオの人生を歩めばいいんだからね?」
悪役令嬢に巻き込まれると、ロクな死に様が待っていないだろう。
正直、ヒロインにも会わせたくない。
攻略対象でなくても、可愛いヒロインにレオを虜にされるのは、なんだか非常に嫌だった。
杏奈の記憶が混じろうが、そこは変わらない。
「うん、オレはアンの騎士になるからな!」
「!」
(知ってて言ってるのかなぁ?)
思わず苦笑が溢れる。
女性の騎士になるということは、その人と添い遂げるということだ。
(2年前まで下町だったし知らないんだろうけど…でも否定するのも可哀想)
「そうね、じゃあとっても強くならないと駄目よ?」
悪役令嬢の断罪ルートを跳ね除けるくらい。
魔王も倒せるくらい…はちょっと言い過ぎか。
「おう!」
レオは満面の笑みで肯定したのだった。
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