エピローグ

もう一人じゃない

 夕刻。王都の外れにある石垣の門に、一台の荷車が到着した。

 木陰に設けられた休憩所で今か、今か、と待ち構えていたリィエンは、門前に見えた人影に向かって駆け出した。


 色とりどりの糸で縫われた民族衣装を身にまとった二人が、緊張の面持ちで門番に書状を見せている。


『コンおじさーん!! トゥアー!!』

『リィエン!!』


 二人はリィエンに気がつくと、安心したのか明るい笑顔を見せる。

 久しぶりの再会が嬉しくて、リィエンは飛びかかるようにして二人との距離を詰めた。


「王太子妃様!?」


 突然飛び出してきた人物に驚いた門番が、声を裏返して叫ぶ。


 ホアダイに移り、王子の伴侶となってから早一年。リィエンはこれでも『美しくて可憐な神妃』として通っているので、野生児のような振る舞いに驚いたのだろう。


「ごめんなさい。久しぶりの再会に免じて、少しはしたないのは許して」


 口をぽかんと開ける門番にリィエンは言う。


『リィエン、すごいな。もう異国の言葉を覚えたのか』

『父ちゃん、リィエンにとってはカウカイの言葉だって異国語なんだ。新しく言葉を覚える素養があるんだよ』

『ああ、そうか。そういえばそうだったな』


 実のところ、ホアダイの言葉の方が華国語に近いので、カウカイの言葉を覚えるよりも楽だった。

 とはいえ、まだまだ片言なのでユンにはよく鼻で笑われるが。


『それにしても綺麗になった。見違えたよ。ヨウリンさんの面影がある』


 トゥアの父は嬉しそうにリィエンの肩を叩く。


『そうかな。少し背が伸びただけな気もするけど』


 リィエンはこの一年で肉がつき、背も伸びて、以前よりは青年らしい体つきになった。

 どうやら、十分な栄養がとれるようになったことで、成長期が遅れてやってきたらしい。

 

 このままクアンのような逞しい体になれるかと思いきや、残念ながら華奢な骨格は変わりそうにない。


『そうだ。これ、シュイとシュエから預かってる』


 トゥアは肩掛けの布袋から紙きれを取り出した。

 リィエンは目を丸くして、双子の弟からの手紙を受け取る。


 彼らはいつの間に文字を学んだのだろうか。隙間なくびっちり書かれた華国の文字を、リィエンは読むことができない。


『あの二人、カウカイに帰ってきたの?』

『華国からの帰りに立ち寄ったんだとさ。また旅に出て、そのうちホアダイにも行くかもだとよ』

『そっか。元気にしているなら良かった』


 カウカイの地にしがみついて離れようとしなかった兄が、異国へ行ったと聞いた時の二人の反応が目に浮かぶ。

 きっと冗談だと思って村中を探し回ったのだろうな、と笑いが込み上げてくる。


「リィエン」


 背後から現れたクアンは優しく名前を呼び、リィエンが置いていった羽織をそっと掛けてくれる。


「向こうで休憩してればよかったのに」

「そうはいかない。まだ本調子でないだろう、心配だ」

「まぁ、そうだけど……」


 発情期に入り、体が不安定なのは事実だが、今朝までずっと抱かれていたので今は何てことはない。


 むしろクアンの側にいる方が不意に発情してしまう可能性が高い――というのは嫌味っぽいので言いかけて止めた。


 リィエンが今の状態で迎えに出ること自体、クアンは乗り気でないようだった。

 しかし、リィエンの意向を尊重し、彼はこうして付き添ってくれている。


『悪い、悪い、邪魔したな』


 ホアダイの言葉を理解できないはずのトゥアが、空気を読んで一歩後ずさる。


『ごめん、オレの体調がちょっと不安定だから、クアンが過剰に心配してるみたい』

『わざわざ出迎えてもらって嬉しいけど、お妃様ってのは忙しいんだろ? リィエンの体調が良くないなら尚更、早く戻って休んだ方が良い』


 トゥアが言うと、父親も頷いて荷車の方を見た。


『わしらのことなら心配するな。生き字引がついている』


 何のことだと荷台に目をやると、織物や工芸品に紛れ、小さな老婆が座っているではないか。


『ババ様!?』


 老婆は黒い歯を見せ、にやりと笑う。


「元気にしているようだな、リィエン」

「はい。元気で……えっ、あっ、えっ!?」


 リィエンは無意識に、喋りかけられた言語で返事をしたが、それがカウカイの言葉ではなく、ホアダイの言葉であることに気づく。


 驚き、言葉を失ったリィエンの背後でクアンは苦笑した。


「私もカウカイを出る頃に知ったのだが、彼女はホアダイの言葉を話すらしい。あのお歳では同行が難しいと思ったが、カウカイの人の逞しさには恐れ入る」

「えぇ……」


 ホアダイにいたことがあるとは聞いていたが、言葉まで習得しているとは。

 本当に、この人は一体何者なのだろう、という目でリィエンは老婆を見る。


「そんなわけで心配無用だ。宿の場所も把握しておる。リィエン、お前さんは盛りを終えるまで彼といなさい」


 ババ様の、歯に衣着せぬ物言いにリィエンは咽せる。やはり彼女は全てお見通しらしい。


『大丈夫か?』

『だ、大丈夫……少し……いや、かなり驚いただけ。トゥアたちはひと月ほどいる予定なんだよね? それまでには体調も良くなると思うから、また後日ゆっくり話そう』

『そうだ、ちょっと待て。これ持っていきな』


 トゥアは荷台に軽々飛び乗ると、麻袋を一つ掴み、リィエンに投げて寄越す。

 受け取った袋から懐かしい、独特の匂いが広がった。


『ありがと』

「その匂い、薬草か?」

「そうだよ。クアン、気に入ってたもんね」

「ああ。これを待っていたんだ。ありがたい、早速使わせてもらおう」


 クアンは興奮気味に礼を言うが、薬草一袋では、王宮の広大な浴槽に張られた水は色づきすらしないだろう。

 リィエンは苦笑しながら一行に手を振って、王族専用の牛車へと乗り込んだ。



「リィエン、調子はどうだ」


 王宮に帰るなり口煩い側近に連れていかれたクアンだったが、意外にもすぐ解放されたらしい。


 部屋に戻ってきた彼は、リィエンが横になる寝台の蚊帳を開ける。

 それと共に甘い香りが流れ込み、リィエンの体はずくりと疼いた。


「そんなに甘い匂いを漏らして近づいてこられたら、またすぐ発情するんだけど」

「良いことだ」

「悪くはないけど良くもない」


 緑の目は蕩けそうなほど優しく、透けた衣をまとったリィエンを見つめる。

 何だかんだ準備万端で待っているリィエンが愛おしくて堪らない、そんな目だ。


 一年も経てば、クアンの思考回路は手に取るように分かる。彼が何に喜ぶかも当然理解している。

 だからこうして扇情的な格好で、彼が仕事から戻ってくるのを待っていたのだ。


「愛おしい伴侶の艶めかしい姿を前に、情欲を抑えることなど出来るわけがない」

「えー、頑張って堪えてよ」

「悪い子だな」


 リィエンは両手を広げ、呆れ笑いを浮かべるクアンを受け入れる。

 それから何度か唇を重ねてふと、寝台脇の木棚に置いた、小さな紙切れの存在を思い出す。


「そうだ。クアン、意識がはっきりしているうちに、弟たちからの手紙を読んでほしい」

「私が読んで問題ないのか?」

「うん。どうせオレ、まだ字が読めないし」


 転がったまま木棚に手を伸ばし、指先に挟んだ紙をクアンに渡す。


 彼は複雑な文字の羅列にさっと目を通すと、訛りのない華国語でゆっくりと読み上げ始めた。


 ――兄さん、元気にしてる? 引きこもりの堅物兄さんがまさかカウカイを出たなんて、びっくりだよ。


 俺らはカウカイを出てから華国に滞在していたんだ。ほとんど記憶にないけど、故郷にも行った。


 それで、父さんのことなんだけど、三年前に持病で亡くなったんだって。


 母さんが出て行ってからずっと独り身で、家族が帰ってくるのを待っていたらしい。

 会えなくて残念だけど、きっとあの世で母さんと仲良くやってると思うんだよね。


 これからも旅を続けて、そのうち兄さんがいる国にも行くよ。楽しみにしていて。またね。


「以上だ」


 クアンの優しげな緑の目がリィエンを捉える。

 すぐに言葉が出てこなかった。声よりも先に涙が一筋頰を伝って溢れ出る。


 父は裏切ってなどいなかった。

 病弱な体では一緒についていけないと、華国に残ったのだろう。もしかしたら、母がそう望んだのかもしれない。


 父が亡くなった三年前というのは、奇しくも母が亡くなった年でもある。

 弟たちの言う通り、二人はあの世で再会を果たしたのかもしれない。そうであってほしい。


「……ありがとう」

「泣いているのか?」

「辛いわけじゃないよ」


 悲しいけれど、心がじんわり温かくなる。


 父と母は愛し合い、子どもたちのことも愛していた。死後もきっと、どこかで見守ってくれていたのだろう。

 リィエンはずっと、孤独ではなかったのだ。


 目の前の愛しい人を見る。

 最愛の伴侶。暗闇の中、意固地になって蹲っていたリィエンを連れ出してくれた人。


「クアンとの子が欲しいな」


 自然と口から溢れた言葉に、彼までもが泣きそうな顔をする。


「産んでくれるか」

「うん」


 未来の王は、リィエンを腕の中に閉じ込める。


 世継ぎを作らなければならないという重圧からではない。

 ただ光のように明るいこの人と、家族を作りたい。リィエンはそう思った。




孤虎ことは今宵、黄花おうかの国で愛に鳴く 〈了〉

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