第39話 夜明けと黄色の花

「眠い……」


 牛車に揺られながら、リィエンは呟いた。外はまだ真っ暗だ。湿り気のある生暖かい空気が頰を撫でていく。


「だから仮眠をとるよう言ったのに」


 リィエンを抱き締めるようにして背後に座るクアンは、呆れたように笑う。


 そう。結局、一睡もできなかったのだ。


 しかしそれは、二度の行為を終えた後、リィエンが微睡み始めた頃に、口づけをしてきたクアンにも非がある。


「あれはクアンが悪い」

「私は口づけだけで我慢するつもりだった」

「あー、そうですか。自業自得ですよ。ふんっ」


 リィエンがそっぽを向くと、クアンは「可愛い」と言って膨らんだ頬をつつく。

 リィエンが拗ねるところを見るために、わざと揶揄っているのだろう。


 ――それを満更でもないと思ってしまう自分がいるんだよなぁ。


 リィエンが拗ねても、我儘を言っても、クアンは全てを受け止め、甘やかしてくれるだろう。

 彼は何故こうもリィエンを愛してくれているのか、不思議でならない。


「クアンはさ、何でオレのことそんなに好きなの?」


 リィエンは背後を振り返って尋ねた。


 牛が一歩、また一歩と足を進める度に、木で作られた簡素な屋形はぎしり、ぎしり、と軋む。


「……そうだなぁ。その話をしたら長くなる。また今度にしよう」

「おわっ」


 気になるから今すぐ話してほしいと抗議をしようとしたところ、屋形が突然傾いて、リィエンはクアンの体に倒れ込む。


 どうやら牛車は急勾配を登り始めたらしい。


「もう少しで目的地に着く」


 辺りはまだ暗いが、空は薄っすら白み始めている。間もなく日が昇る頃だろう。

 彼は見晴らしの良い丘で、日の出を見せようとでもしているのだろうか。


 傾きが元通りになると、天に向かってそびえ立つ大きな塔が、リィエンの視界に飛び込んでくる。

 夜目の利くリィエンは、その荘厳な雰囲気に思わず歓声を上げた。


「あれは何?」

「ここは聖域で、あれは祈りを捧げるための建物だ」

「すごい……大きい」


 これほど巨大な建造物は生まれて初めて見る。

 よく見ると、複数の四角い石が積み上げられ、塔の複雑な相貌を作っているのが分かる。


 どうやら、華国ともカウカイとも信仰対象が異なる雰囲気だ。


「こんなもの、どうやって作るの……」

「この技術は我が国の誇りだ。西方から取り寄せた、煉瓦という石でできている」


 牛車が止まった。リィエンはクアンに支えられて屋形から降り、吸い寄せられるようにして塔へと向かう。


 日が昇り始め、黒っぽく見えていた塔が次第に橙に染まっていく。


 大した信仰心を持ち合わせていないリィエンでも、美しい情景に神聖さを感じた。


 初めて来る場所なのに、前から知っていたような不思議な感覚もある。ホアダイの空気や文化が、すっと体に馴染んでいくようだ。


 天を仰ぎ、呆けていたリィエンをクアンが手招きする。塔の中には空間があるらしい。


 決して広いとは言えない入り口から中に入ると、石像がずらりと並んでいる。その内の一つの前でクアンは立ち止まった。


「ほら、虎の形をしているだろう。神の化身として祀られている」

「本当だ」

「それも、正確には神妃の化身だ。虎の半獣であるリィエンを娶ったと民が知れば、喜び、崇めるに違いない」

「ええ……迫害されるよりましだけど、それはそれでどうなんだろ……」


 リィエンはそうぼやくが、神々しいクアンの姿を見て、この男と釣り合うには崇められるくらいの存在にならなければならないのかと腑に落ちる。


「あれは何の形?」


 塔の外に出たリィエンは、周りに立つ丸みを帯びた石柱を指差して尋ねる。

 クアンは少し間を置いてから苦笑した。


「あれは、神の男根を模したものだ」

「なっ」

「はは。他所から来た者は驚くだろうが、この地では信仰の対象なんだ」


 神や信仰というのは、性から切り離された清廉潔白なものである印象があったため、リィエンは驚く。


 不本意にも昨晩の情事を思い出してしまいそうになり、今はそんな状況ではないと、リィエンは丘の上から見える景色に目を移した。


「絶景だね」

「そうだろう」


 まだ暗い西方にはうっすらと、ホアダイの街が見える。

 東方には、空と水の境に平らな線が引かれているように見え、その境界から太陽が顔を覗かせていた。


「あれは海?」

「そうだ。見るのは初めてか?」

「うん、すごい」


 大きな池どころではない。想像を超える広大な水面が陽の光に輝いている情景に、リィエンの肌は粟立つ。


 旅に出た弟妹たちも、今頃この世界のどこかで、美しい景色を眺めているのだろうか。そうだったら良い。


「あ、この花」


 リィエンは足元に落ちている黄色の花を見て呟く。寝台に散りばめられていた、花弁の厚い南国の花だ。


「それは国と同じ名前を持つ花だ。ホアダイというのは黄色い花を意味する」


 クアンは木から新たに花を摘み、リィエンに手渡してくれる。


「リィエン、ホアダイへ来てくれてありがとう」

「こちらこそ、一人だったオレを連れ出してくれてありがとう」


 黄色い花が咲き乱れる木の下で、二人は見つめ合い、惹かれ合うようにして唇を重ねた。


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