第32話 温かな夢

 トントントン、と料理場から野菜を刻む音が聞こえてくる。

 懐かしい夢だ。リィエンの前には、華国にいた頃住んでいた長屋の風景が広がっている。


 母親が家事をしている間、双子の弟、シュイとシュエの面倒を見るのはリィエンの仕事だ。

 地面を這いずり回る弟たちの身に危険がないよう、常に気を張っていなければならない。


 父親は体が丈夫でないにも拘らず、家族を食わせるために一生懸命働いており、家にいる時はほとんど寝て過ごしている。

 それでも時折、体の調子が良い時はリィエンを連れて外に出た。


「リィエン、今日はお祭りに行こう」

「お父さんと?」

「そうだ。シュイとシュエには内緒だぞ」


 口に人差し指をあて、父は顔を皺くちゃにさせて笑う。

 幼いリィエンはパァッと顔を輝かせた。リィエンは優しくて、穏やかな父親のことが大好きだった。


 ある晩、リィエンは寝ているところを母親に起こされ、何かに怯える母親と共に真っ暗な森へ逃げ込んだ。


 母は歩くのがやっとの双子を抱えなければならないので、リィエンが生まれたばかりの赤子を背負わなければならなかった。


「お母さん、お腹空いたよう」

「リィエン、もう少しだけ頑張って」

「疲れた、重いし歩きたくない。お父さんはどこに行っちゃったの?」


 母は文句を言うリィエンの頭を撫で、悲しそうに笑う。


「……お父さんは体が弱いから一緒に来れないの。ごめんね」


 そうだ。父は半獣ではなく人間で、それも病弱な人だった。冷たくて恐ろしい森の中を、何日も彷徨い歩けるわけがない。


 何が起きたのか当時は分からなかったリィエンに、母親は後から祖母の邪悪な企みを教えてくれた。


 母は一度も父が裏切ったとは言っていない。恨んでいる素振りも見せなかった。ただ父親のことを「愛している」と言っていた。


 なぜ両親のことを信じてあげられなかったのだろう。裏切られたと臍を曲げ、被害者面をして――好きになった人を傷つけた。


 虎は確かに人の手により絶滅に追い込まれたのかもしれないが、かつてはその鋭い爪と牙で人間を脅かしてきたのかもしれない。


 漂ってくる花のような甘い香りに、生臭い血が混じっている。


 今なら覚醒できる気がしたが、恐ろしくて目を開けることができない。

 リィエンは暗いところに身を潜め、膝を抱えて疼くまる。


「リィエン、そんなところでどうした?」

「リィエンったら拗ねているのよ。私が下の子たちにかかりっきりだから」


 母親は困ったように笑っている。いつもより長い夢だ。父親は「何だそんなことか」と目を細める。


「ほら、リィエンおいで。父さんも、母さんも、ずっとリィエンのことを愛しているよ」

「お父さん……」

「いつかリィエンにもそんなふうに思える人が現れるといいな」


 父親はリィエンを抱きしめ、優しい手つきで髪を撫でてくれる。


「もういるじゃないの、ほら。リィエン、素敵な人を見つけたのねぇ」


 母は後ろを振り返った。遠くに神々しいほどの光が見える。


「いつまでもこんな暗いところにいるのは良くない。彼のところへ行きなさい」

「リィエン、幸せになるのよ」


 両親は穏やかに笑ってリィエンに手を振った。


「お父さん! お母さん!」


 消えていく二人に縋りつこうとするが、誰かが背後からリィエンの腕を掴んで強く引く。


「リィエン、こっちだ」

「クアン?」


 リィエンを引っ張る男は歩みを止めなかった。

 光の方へ向かって、暗い洞窟をずんずん進む。すると、突然ぱっと眩い光に包まれた。


 

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